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妬心
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妬心
徳田秋声
徳田秋声
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(例)曾《かつ》
(例)曾《かつ》
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(例)居|観物《けんぶつ》
(例)居|観物《けんぶつ》
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(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]
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(例)兄さん/\
(例)兄さん/\
麗子はこれまで大井に対して、嫉妬などを感じたことは曾《かつ》てなかつた。彼と結婚しなかつたことを悔ゆるやうな心は一度もなかつた。現在も、恐《おそ》らく将来にも、そんな心持の起るやうなことがあらうとは思へなかつた。
この春大井が細君をつれて、東京へ出て来たときも、彼女はまるで自分の現在の生活を衒《ひけら》かしでもするやうな燥《はしや》いだ調子《てうし》で、芝居|観物《けんぶつ》の案内をしたり、三越のなかを引張《ひつぱり》まはしたりした。
麗子は彼を『兄さん/\』と呼んでゐた。同時に彼の細君を『姉《ねえ》さん/\』と呼んでゐた。大井がまだ田舎へ引込まない前に、地方の赴任地《ふにんち》で昵《なじ》みになつてから、正式に家《うち》へ迎入《むかへい》れるまでに、可也手数のかゝつた彼の細君は、その赴任地《ふにんち》の或料理屋の娘であつたが、年は彼より二つほど上であつた。麗子は八九年ほど前に、良人の健《たけし》や子供と一|緒《しよ》に田舎へ旅をしたとき、大井の家《うち》へも訪ねて行つて、そこに一週間ばかり逗留《とうりう》してゐたことがあつた。そして細君のしづ子とも親《した》しくなつた。総《すべ》てが上方風《かみがたふう》のしづ子は、手触りの軟《やわら》かい、どんな初対面の人にも、心から許して話をすると云ふ風であつたか、其の優《やさ》しい様子のなかにも、男や生活に強い執着《しふちやく》をもつてゐるらしい粘着気《ねばりけ》があつた。
大井の居村は、上方の可也大きな都市に産れ育つて、しかも暫らく賑《にぎや》かな花街にもゐたことのあるしづ子なぞから見ると、まるで何処《どこ》かの国の果てへ流されて来たかと思ふほど、草深い山中であつた。官《くわん》を辞《じ》して父祖の田園《でんゑん》を見るためにそこへ引込《ひつこ》んで来た大井の後《あと》を追《お》ふて来《き》た彼女は、その村から二里ばかり手前にある町に宿《やど》を取つて、時々出て来る大井と顔を合しながら、時機《じき》の来るのを待つてゐたが、願ひが叶《かな》つて家《うち》へ呼入れられてから、軈《やが》て訪れて来た山国の最初の冬が、彼女に取つては堪へがたいほど寂《さび》しい悲しいものであつた。
『何方《どつち》を向いても、真白《まつしろ》い山と田圃《たんぼ》やないか、こゝに一|生《しやう》暮すのかと思ふと、心細うなつて、一人で泣けて為様がなかつた。』しづ子は晩餐《ばんさん》の餉台《ちやぶだい》に向つてゐる麗子たちの前《まへ》で、酒か少しまはつて来ると、傷ましいやうな声を出して、願ひのとゞいた嬉《うれ》しさを話すかはりに、山国の生活の寂しさをこぼした。威圧的な山の姿や、物凄いやうな自然が寂しかつたばかりでなく、日々炉ばたに集つて来る人の顔や声にも、異郷の物悲しさが感ぜられた。生活の根を、彼女は新たにそこに卸《おろ》さなければならなかつた。その頃彼女はもう三十であつた。不思議な力が、彼女を賑やかな上方の町から、東の方《はう》の山国のなかへ惹着《ひきつ》けて行つた。
麗子夫婦は、そこから一里余りの距離にある温泉へも行つた。そして其処でまた二|週間《しうかん》ばかりも遊《あそ》んでゐた。
麗子の良人の健《たけし》の目から見《み》ると、まるで兄妹のやうな親しみをもつてゐる麗子と大井との過去に、何かしら浪漫的な影が漾つてゐるやうにすら思はれた。燥《はしや》ぎ甘えるやうな麗子の気分に対して、大井は兄のそれとも又異つた寛容《くわんよう》をもつて、総てを許してゐるやうに見えた。ちやうど膝《ひざ》へ乗りあがつて、目《め》を突《つゝ》ついたり髯《ひげ》を引ぱつたりされて、幼児の自由になつてゐる甘い父親と云つたやうな風であつた。けれど、健はそれに少の不快をも感じなかつたのみならず、大井に対する妻の妹々《いもうと/\》した態度《たいど》が、却《かへ》つて大井に対する彼の気持を安易《あんい》にしたと同時《どうじ》に、良人に対しては現はし得《え》ない、女《をんな》らしい感情《かんじやう》を、大井を通《とほ》して彼女に見《み》ることの出来《でき》るのに、不思議《ふしぎ》な興味を感《かん》じた、孰《どつち》かの二人《ふたり》の対《つひ》では、彼等は到底《たふてい》三人でゐるときほどの自由を楽《たのし》むことはできなかつた。大井と麗子。健と大井、健と麗子――夫婦関係は除外例としても。この三つの対《つひ》には、どこか三人でゐるときほどの心安立《こゝろやすだて》はなかつた。そして大井は麗子を通して初《はじ》めて健に親《した》しい友達であり、健は麗子を通して初めて大井に親しみを感じられた。
子供好きな大井は、三|日《か》にあげず温泉場に滞留してゐる夫婦を訪《おと》づれて、子供を相手《あひて》にして遊《あそ》んでゐた。
『小父《おぢ》さんが来た。』
子供たちは、廊下《らうか》を歩いてくる大井の洋服姿を見つけると、さう言《い》つて嬉《うれ》しさうに叫《さけ》んだ。
大井は始終黙つて、妻や子供を凝視《みつ》めてゐる健の前《まへ》で、犬《いぬ》ころと遊《あそ》ぶやうに、子供をかまつた。洋服を被《き》せて山へ登《のぼ》つたり、町を散歩したりした。
『おい/\、今からさう白粉を塗つて如何するだい。おぢさんにも少し塗つてくれ。』彼は上の女の子にお化粧《けしやう》をしてゐる麗子の傍へすわつて、黒《くろ》い顔を鏡の前へ突出《つきだ》した。
『あら厭《いや》だ。』女の子は可笑しさうに笑つて、
『男が白粉なぞつけるものぢやないわよ。』
『さうかい。女はどうしてそんな物《もの》を顔へつけるだい。』
或る雨《あめ》の降《ふ》る晩、健たちの部屋《へや》にも、三味線や鼓《つゝみ》の音が聞《きこ》えて、つんつるてんの宿の浴衣を着《き》た大井が、可笑《をかし》な風《ふう》をして酒《さけ》に酔《よ》つて踊《をど》り狂つてゐた。心から彼等夫婦や子供《こども》たちの来たことを悦《よろこ》ぶと云《い》ふ風《ふう》であつた。六|月《ぐわつ》の初《はじ》めで、部屋《へや》の外には若葉が日に/\濃《こ》くなつてゐた。葉が手摺に近く枝を延ばした柿若葉が、殊にも美しかつた。白い雨の降そゝいだ其の若葉《わかば》が、電燈の光に映《うつ》されて、一|層《そう》美《うつく》しくみえた。
町から来た女たちは、大井を取捲《とりま》いて、思ふさま謳《うた》つたり跳《は》ねたりしたが、子供たちも其《そ》の空気に浮《う》かされて、いたいけな手容《てつき》をして踊《おど》りだした。そして其が物に感じやすい大井にヒユモアとペーソスを唆《そゝ》つた。
女たちが帰つて行つてから、三人の気分が不思議に寂《さび》しい傷《いた》ましいものになつてゐた、誰よりも深く酒の泌みてゐた大井の心持が、殊に然《さ》うであつた。そして彼は健の手を握らないばかりにして、麗子のために、夫婦の幸福を祝福した。
『おれは実にうれしい!』彼はさう言つて、不意に嘘唏の声を立てた。
大井はその翌日村へ帰つて行つたが、其事があつてから、健は時々二人の過去に淡い興味を感じた。
その頃、大井に一人の情婦のあることを、麗子たちは伝《つた》へ聞《き》いて知つてゐた。麗子はしづ子からも、その情女の噂《うわさ》を聞かされたが、大井自身の口からは、何等話されたことはなかつた。
この春大井が細君をつれて、東京へ出て来たときも、彼女はまるで自分の現在の生活を衒《ひけら》かしでもするやうな燥《はしや》いだ調子《てうし》で、芝居|観物《けんぶつ》の案内をしたり、三越のなかを引張《ひつぱり》まはしたりした。
麗子は彼を『兄さん/\』と呼んでゐた。同時に彼の細君を『姉《ねえ》さん/\』と呼んでゐた。大井がまだ田舎へ引込まない前に、地方の赴任地《ふにんち》で昵《なじ》みになつてから、正式に家《うち》へ迎入《むかへい》れるまでに、可也手数のかゝつた彼の細君は、その赴任地《ふにんち》の或料理屋の娘であつたが、年は彼より二つほど上であつた。麗子は八九年ほど前に、良人の健《たけし》や子供と一|緒《しよ》に田舎へ旅をしたとき、大井の家《うち》へも訪ねて行つて、そこに一週間ばかり逗留《とうりう》してゐたことがあつた。そして細君のしづ子とも親《した》しくなつた。総《すべ》てが上方風《かみがたふう》のしづ子は、手触りの軟《やわら》かい、どんな初対面の人にも、心から許して話をすると云ふ風であつたか、其の優《やさ》しい様子のなかにも、男や生活に強い執着《しふちやく》をもつてゐるらしい粘着気《ねばりけ》があつた。
大井の居村は、上方の可也大きな都市に産れ育つて、しかも暫らく賑《にぎや》かな花街にもゐたことのあるしづ子なぞから見ると、まるで何処《どこ》かの国の果てへ流されて来たかと思ふほど、草深い山中であつた。官《くわん》を辞《じ》して父祖の田園《でんゑん》を見るためにそこへ引込《ひつこ》んで来た大井の後《あと》を追《お》ふて来《き》た彼女は、その村から二里ばかり手前にある町に宿《やど》を取つて、時々出て来る大井と顔を合しながら、時機《じき》の来るのを待つてゐたが、願ひが叶《かな》つて家《うち》へ呼入れられてから、軈《やが》て訪れて来た山国の最初の冬が、彼女に取つては堪へがたいほど寂《さび》しい悲しいものであつた。
『何方《どつち》を向いても、真白《まつしろ》い山と田圃《たんぼ》やないか、こゝに一|生《しやう》暮すのかと思ふと、心細うなつて、一人で泣けて為様がなかつた。』しづ子は晩餐《ばんさん》の餉台《ちやぶだい》に向つてゐる麗子たちの前《まへ》で、酒か少しまはつて来ると、傷ましいやうな声を出して、願ひのとゞいた嬉《うれ》しさを話すかはりに、山国の生活の寂しさをこぼした。威圧的な山の姿や、物凄いやうな自然が寂しかつたばかりでなく、日々炉ばたに集つて来る人の顔や声にも、異郷の物悲しさが感ぜられた。生活の根を、彼女は新たにそこに卸《おろ》さなければならなかつた。その頃彼女はもう三十であつた。不思議な力が、彼女を賑やかな上方の町から、東の方《はう》の山国のなかへ惹着《ひきつ》けて行つた。
麗子夫婦は、そこから一里余りの距離にある温泉へも行つた。そして其処でまた二|週間《しうかん》ばかりも遊《あそ》んでゐた。
麗子の良人の健《たけし》の目から見《み》ると、まるで兄妹のやうな親しみをもつてゐる麗子と大井との過去に、何かしら浪漫的な影が漾つてゐるやうにすら思はれた。燥《はしや》ぎ甘えるやうな麗子の気分に対して、大井は兄のそれとも又異つた寛容《くわんよう》をもつて、総てを許してゐるやうに見えた。ちやうど膝《ひざ》へ乗りあがつて、目《め》を突《つゝ》ついたり髯《ひげ》を引ぱつたりされて、幼児の自由になつてゐる甘い父親と云つたやうな風であつた。けれど、健はそれに少の不快をも感じなかつたのみならず、大井に対する妻の妹々《いもうと/\》した態度《たいど》が、却《かへ》つて大井に対する彼の気持を安易《あんい》にしたと同時《どうじ》に、良人に対しては現はし得《え》ない、女《をんな》らしい感情《かんじやう》を、大井を通《とほ》して彼女に見《み》ることの出来《でき》るのに、不思議《ふしぎ》な興味を感《かん》じた、孰《どつち》かの二人《ふたり》の対《つひ》では、彼等は到底《たふてい》三人でゐるときほどの自由を楽《たのし》むことはできなかつた。大井と麗子。健と大井、健と麗子――夫婦関係は除外例としても。この三つの対《つひ》には、どこか三人でゐるときほどの心安立《こゝろやすだて》はなかつた。そして大井は麗子を通して初《はじ》めて健に親《した》しい友達であり、健は麗子を通して初めて大井に親しみを感じられた。
子供好きな大井は、三|日《か》にあげず温泉場に滞留してゐる夫婦を訪《おと》づれて、子供を相手《あひて》にして遊《あそ》んでゐた。
『小父《おぢ》さんが来た。』
子供たちは、廊下《らうか》を歩いてくる大井の洋服姿を見つけると、さう言《い》つて嬉《うれ》しさうに叫《さけ》んだ。
大井は始終黙つて、妻や子供を凝視《みつ》めてゐる健の前《まへ》で、犬《いぬ》ころと遊《あそ》ぶやうに、子供をかまつた。洋服を被《き》せて山へ登《のぼ》つたり、町を散歩したりした。
『おい/\、今からさう白粉を塗つて如何するだい。おぢさんにも少し塗つてくれ。』彼は上の女の子にお化粧《けしやう》をしてゐる麗子の傍へすわつて、黒《くろ》い顔を鏡の前へ突出《つきだ》した。
『あら厭《いや》だ。』女の子は可笑しさうに笑つて、
『男が白粉なぞつけるものぢやないわよ。』
『さうかい。女はどうしてそんな物《もの》を顔へつけるだい。』
或る雨《あめ》の降《ふ》る晩、健たちの部屋《へや》にも、三味線や鼓《つゝみ》の音が聞《きこ》えて、つんつるてんの宿の浴衣を着《き》た大井が、可笑《をかし》な風《ふう》をして酒《さけ》に酔《よ》つて踊《をど》り狂つてゐた。心から彼等夫婦や子供《こども》たちの来たことを悦《よろこ》ぶと云《い》ふ風《ふう》であつた。六|月《ぐわつ》の初《はじ》めで、部屋《へや》の外には若葉が日に/\濃《こ》くなつてゐた。葉が手摺に近く枝を延ばした柿若葉が、殊にも美しかつた。白い雨の降そゝいだ其の若葉《わかば》が、電燈の光に映《うつ》されて、一|層《そう》美《うつく》しくみえた。
町から来た女たちは、大井を取捲《とりま》いて、思ふさま謳《うた》つたり跳《は》ねたりしたが、子供たちも其《そ》の空気に浮《う》かされて、いたいけな手容《てつき》をして踊《おど》りだした。そして其が物に感じやすい大井にヒユモアとペーソスを唆《そゝ》つた。
女たちが帰つて行つてから、三人の気分が不思議に寂《さび》しい傷《いた》ましいものになつてゐた、誰よりも深く酒の泌みてゐた大井の心持が、殊に然《さ》うであつた。そして彼は健の手を握らないばかりにして、麗子のために、夫婦の幸福を祝福した。
『おれは実にうれしい!』彼はさう言つて、不意に嘘唏の声を立てた。
大井はその翌日村へ帰つて行つたが、其事があつてから、健は時々二人の過去に淡い興味を感じた。
その頃、大井に一人の情婦のあることを、麗子たちは伝《つた》へ聞《き》いて知つてゐた。麗子はしづ子からも、その情女の噂《うわさ》を聞かされたが、大井自身の口からは、何等話されたことはなかつた。
大井としづ子《こ》が、京阪地方の旅《たび》からの帰《かへ》り道に、東京で十日ばかり遊《あそ》んで別《わか》れてから、一月とたゝないうちに、彼等は又昔《むか》し遊んだことのある其《そ》の温泉場で大井と一|緒《しよ》になつた。
麗子夫婦は、大井の居所から十里も隔《へだ》たつた親類の結婚式に臨むために、希《めづら》しく夫婦で旅《たび》に出たのであつたが、大井も其の披露式に呼《よ》ばれてゐた。そして其処で温泉ゆきの話が成立した。
麗子夫婦はこの八九年の間に、子供か三人も殖えてゐた。そしてその時分大井に揶揄はれた愛児の一人を失《うしな》つて居た。麗子が健に対する気持にも、健が彼女に対する気持にも、幾変遷があつたと同時に、お互《たがひ》の肉体にも衰へが感じられた。殊にも女の麗子の側に、それが争はれなかつた。麗子は時々、病弱で陰鬱な良人の気分を苛立《いらだ》たせるやうな様子《やうす》を見せたが、その接触点だけをしか感《かん》ずることができなかつた、健も思ひもかけない場合で、よく彼女を窘《くる》しめた。しかし時の流れが、自然に双方を妥協の道へ誘《みちび》いて行つた。今まで理解しやうともしなかつた双方の気質や性格が、知らず識らず深く感知《かんち》されて来た。そして其と同時に、麗子は年を取るに従つて愚かな、平凡な女として健の心に怠屈《たいくつ》な生活の重荷となつて、懸《かゝ》つてゐるとしか思はれないことすらあつた。
時がたつにつれて、その心持は段々深くなつて行つた。懈《だる》い平和と愛が二人に続いた。彼は女を憎めないやうな気がしたと同時に、女を誨へ導くことのできないのに失望した。
『おい/\、その肩掛《かたかけ》はお前には少し派手すぎるぢやないか』
つい近頃途中で落《おと》して来た肩掛の代りを、旅に上る前《まへ》に麗《れい》子が買つて来て、そこにおいてあるのを見つけて、干渉ずきな健が言出した。麗子はその時、しばらく手を通したことのない礼服や帯や長襦袢などを鞄《かばん》につめてゐた。旅先きで著るやうな外の著物も、健のと一緒に座敷に取出されてあつた。若い時分にじみ[#「じみ」に傍点]作りであつた彼女は、五人もの親になつた今になつてから派手好みをするやうになつた。
『え、でも此のくらゐのものは、誰でもしてゐますよ。』麗子はさう言つて、派手な絞の刺繍《ぬいとり》のある黒い肩掛を手に取りあげた。
『派手でも似合ふものもあるが、それは可《い》けない』
健は困つたものだと云《い》ふやうな顔をした。自分の柄《がら》が判らないかと云つた調子であつた。
『まあ黙つてゐて下さいよ。可けなければ人に譲ります。』
停車場へ入つてからも、白い刺繍《ぬいとり》のあるその肩掛が、健の気になつた。それが一層彼女を更《ふ》けた風《ふう》に見せたばかりでなく、彼女の落著いた著《き》つけを、打壊《うちこわ》してゐるやうにさへ思はれた。
結婚式に臨《のぞ》んだ彼女は、全く疲《つか》れてしまつた。そして引きつゞいてだら/\に飲《のみ》つゞけられた二|日目《かめ》の酒宴の席《せき》では、頭脳《あたま》がぐら/\すると云つて、別室《べつしつ》へ退《さが》つて、涼《すぶ》しい風の通るところで、横《よこ》になつて休《やす》んでゐた。長汽車で乱れた髪《かみ》が一|層《そう》形《かたち》が崩れて、地肌《ぢはだ》の透《す》き/\にみえる生際《はへぎは》から額《ひたひ》のあたりに、不断は見ることのできない、四十|近《ちか》い女の肉の衰《おとろ》へが、明々地《あからさま》に見えてゐた。目も力なく曇んで、頬の肉が緩《たる》んでゐた。
翌日の午後《ごゝ》、健夫婦は大井と連立《つれだ》つてそこを辞《じ》した。そして汽車《きしや》をおりると、すぐ大井が呼んでくれた自動車に乗つて山の温泉へ行つた。
町は昔《むかし》来たときよりも綺麗になつてゐた。四|月《ぐわつ》の初めであつたが、ついこの頃まで雪を被《かぶ》つてゐたやうな淡蒼《うすあを》い山の姿が、その垠《さかひ》に見上げられた。大きな通りを、殆んど一直線に、やがて車は広《ひろ》い高原の野へと出て来た。道傍の流に沿《そ》ふて、桜《さくら》がもうちらほら咲《さ》きかけてゐた。温泉場の人家の簇《むらが》りが、一かたまりになつて、そこから直《す》ぐ間近《まぢか》に見られた。三人はやがて或《ある》温泉宿の二階の新しい一室に、疲れた体を横《よこた》へた。
部室が新築《しんちく》された為《ため》もあつたが、昔《むか》し来たときよりも、その家《うち》の感《かん》じが健《たけし》には何となく明く思《おも》へた。家が明く感ぜられたばかりでなく、この温泉場の一体の空気が、昔し来たときよりも快い感じを彼に与《あた》へた。その頃の彼は、何《なに》を見ても暗かつた。
『隣《となり》の医者はどうしたらう』などゝ、健は廊下へ出て、庭《には》ごしに隣を眺《なが》めた。そこには畑地のなかに荒廃《あれすた》れた石室《いしむろ》のやうな建物《たてもの》があつた。そして其処から少し離れた木立のなかに、西洋造の二階建があつた。
『あれがそれです。』大井も傍《そば》へ来て、その建物を指《ゆびざ》しながら言つた。
『今はこゝには住んでゐないが、その石室が彼の書庫です。』大井はさうも言つた。
健を診察して、肺病だと云つて彼を駭かしたのは、その男であつた。彼は軍医上りの医者であつたが、こんな田舎の開業医としては不思議な研究室《けんきうしつ》を、その頃《ころ》も持《も》つてゐた。彼の様子《やうす》は狂人でなければ、天才であつた。
『あの時、あの男が目《め》を光らして、毎日畑へ出ては水蜜桃の木の手入をしてゐるのを、僕は羨《うらや》ましさうによく此処から見てゐたものだが、あれは如何《どう》なつたらう。』健はまた訊《き》いた。
『そこいら一体に、枝《えだ》を蔓らせてゐるのが、それだ。』
気がついてみると、荒蕪《くわうぶ》するに委《まか》されたその畑地に、それらしい木が、縦横に枝を差交してゐた。
『へえ、他《あれ》がこんなに大きくなつたのか。』
生長したものは水蜜桃ばかりではなかつた。田圃《たんぼ》には新らしい建物《たてもの》がそこにも此処《ここ》にも殖え、疎らに植はつてゐた。丘の傾斜面の小松が、蒼々と生茂つてゐた。
やがて健たちは、打つれて風呂場へおりて行つたが、風呂場も亦た新らしく改造されて、すつかり綺麗になつてゐた。
健《たけし》は暢々《のび/\》したやうな、昔《むかし》なつかしい、寂しい気分になつて、蒼々《あを/\》した湯に浸つてゐた。
『今度行つたらまた、あのお湯に入つて、一ト晩|泊《とま》つて来ませうね。』
旅に立つ前に、麗子はさう言《い》つて三人でそれを楽しみにしてゐたが、汽車に乗つたときから、健《たけし》の興味は裏切られてゐた。一人で旅をするとき、彼は時々そんな時のことを想像してみるのであつた、一緒に出てみると妻は彼に取つては、やはり荷厄介であつた。
『お前の体は妙だね』
大井は湯に浸つてゐながら、湯槽の縁に坐つて体を洗つてゐる麗子に言つた。
『どうしてゞす。』麗子は自分の体を眺めた。
『下の方ばかり発達して、胸や肩のあたりが馬鹿に貧弱だ。』
『然《さ》うですか。私し蟻腰ですから。』
『蟻腰はいゝが、一ト頃から見ると、何だかそこらが甚《ひど》くがた[#「がた」に傍点]ついて来たやうだね。一|度《ど》好い医師に診てもらつたら如何《どう》だ。』
麗子は『え』と言つて水をつけては櫛《くし》で髪を掻《かき》あげてゐたが、骨組の巌丈《がんじやう》な割に、肉づきが貧しかつた。
湯からあがつて来ると、三人は軽い空腹を感じた。そして夕飯を不味《まづ》くしないほどの程度で、洋食を一二品づゝ吩咐《いひつ》けた。咽喉が渇《かわ》いてゐたので、ビールをぬく必要もあつた。
三人は胡瓜もみを下物に、泡立つビールに口《くち》をつけた。廊椽の方から、涼しい風がそよ/\と流れた。桜が風になぶられてちら/\と散つてゐた。
『こゝへ呼んだらいゝでせう。』健《たけし》は謎《なぞ》をかけるやうに、大井に笑話らしく言つた。
『お呼《よ》びなさいよ。一度もお目にかゝつたことがないんだから。』麗子もせがむやうに言つた。
大井が、先刻から帳場で電話をかけてゐたことを二人は感づいてゐた。
大井はやゝ含羞《はにか》んだやうな、冷笑ふやうな表情で、黙つてゐたが、
『そのうちに誰か来るだらう』と呟《つぶや》いてゐた。
話をしてゐるうちに直に晩飯の時刻になつた。薄ら寒い風が硝子戸を揺つて、山国らしい寂しさが野面に拡つて来た。健たちは大きな餉台に凭《よ》つて、飲食《のみく》ひをしながら自由な談話に耽《ふけ》つた。
女中が大井に来客のあることを通じて来た頃には餉台の上も可也荒れてゐた。
『ちよつと大井さんに……』女中は多く目に物を言はせながら、入口で取次いだ。
『何だ、こゝに来いつて。』大井は言《いひ》つけた。
女中は黙つて行つてしまつた。
『わたしが連《つ》れて来ませう。』
暫くすると、麗子はその客が入るのを躊躇でもしてゐるものと思つたらしく、気軽に座を立つて廊下へ出て行つた。すると其処《そこ》でばつたり様子のすらりとした美しい女に出逢つた。お蘭と云《い》ふ名《な》で噂されてゐた其の女は、近頃人から貰受けたと云ふ七つばかりの女の児をつれてゐたが、客商売をしてゐたやうな様子はどこにも見《み》られなかつたほど、顔容《かほかたち》がおとなしやかに、品よく出来《でき》てゐた。東京|風《ふう》の言葉づかひにも、土地の訛《なまり》は少しもなかつた。
蘭子がそこへ手《て》をついて、健に簡短な初対面の口誼を述べてゐるところへ、健の妻も入つて来た。そして何処か怯えたやうな風《ふう》で、彼女と挨拶を取交した。
年の割に体の大きい其《そ》の子供は、人見知りをしたやうに、ぴつたり蘭子の胸に顔を押《お》しつけて、いくら宥《なだ》めても、挑《おだ》てゝも顔を見せなかつた。
『これあ可笑しい!』
大井は心からの愛が溢《あふ》れるやうな調子で言つた。
『己がいつでも寝顔を覗《のぞ》いて、富子はどう見ても余《あん》まり好い女ぢやないなど言つてゐるものだから、こいつ含羞《はにか》んだとみえる。』
子供は一層蘭子の胸にへばりついた。
『如何《どう》したんでせう、あんなに行かう/\と強請《せが》んでゐた癖《くせ》に。』蘭子はさう言つて、袖で子供を囲《かこ》つてゐた。
『おい/\富子』などゝ、大井は暫らくすると、また富子に声をかけた。
『ちよつと此処に来て、その呼鈴を押《お》してくれ』
『駄目ですよ。今に直りますから。』蘭子は手を掉《ふ》つた。そして健たちに、『家《うち》ではもう大変なお転婆さんなんですの。学校でも、この子が一|番《ばん》大きくて、一番|暴《あば》れるのですと。』
『然《さ》うですかね。』麗子は気のない返辞をした。丁度《ちやうど》そんな年頃でこゝへ遊びに来たことのある、亡《なくな》つた娘のことでも憶出してゐると云ふ風《ふう》であつた。
『ではお母さんとお風呂にいつていらしたら如何。さうしたら機嫌が直るかも知れませんわ。』麗子は暫くしてから頑固に母の胸にしがみついてゐて顔を見せない富子に言つた。
蘭子は袋のなかゝら、化粧道具や手拭などを取出して、やがて子供を風呂場へつれて行つた。
『こんな者をもらつて如何するだらうつて、人も言ふし己も言つてゐたが、でも不思議なものだよ、二年ほど世話してゐるうちに、すつかり様子が変つてしまつたからね。』大井はさう言つて、子供の噂《うわさ》をしてゐた。
『迚《とて》も利かん気の子供だから、育《そだ》てるのにも余程気骨がをれやうと思ふ。女子大学へでも出して好く行けば非常な才物になるだらうが、罷《まか》り間違《まちが》つたら手におへないものになつてしまふ。』大井はさうも言つた。
可也の時間がたつてから、富子は何か話しながら母親と一|緒《しよ》に風呂から出て来た。
『お風呂でよくお約束をして来ましたから、もう大丈夫でございます。』蘭子はさう言つて、子供と一緒に坐つた。
子供は今までの羞恥がすつかり除《と》れてゐた。そして今度は反対に男々した其|烈《はげ》しい悪戯《いたづら》を発揮して来た。切の鋭いその目《め》には、強い光があつたが、やゝ大きい其の口元にも、利かない気の天性が露はれてゐた。それは子供の愛らしさよりも寧ろ大人らしいしつかりした強みであつた。
小い暴君は、暫くすると、横つてゐる大井の背《せなか》へも乗れば、頭髪を掻※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《かきむし》つた。
『在郷つぺい』などゝ、彼女は時々に憎まれ口を利いた。
『何故そんなこと言ふのです。』口数を利かない蘭子は、さう言つて三度に一度は優《やさ》しく子供を宥《たしな》めた。
子供が寝かされてから間もなく、明け放された広い二室に、一同は枕をならべて臥床についた。兵営の喇叭が物悲しげに聞えてゐた。
翌日は、四人で半日そこに遊んでゐた。彼等は山に登《のぼ》つたり、町を見てあるいたりした。麗子は途々《みち/\》花を摘《つ》んだり、道草を喰《く》つたりして、よく富子の機嫌を取つたが、健たちには昔し子供たちと一緒に上つた記臆か、到るところの小径《こみち》や、丘にあるのに出逢《であ》つた。
町には新築の温泉宿が二三軒も殖えてゐた。
『こゝであの子が、お清につれられてよくお芋を買つたんですよ。』
麗子は荒物や水菓子などを商《あきな》つてゐる一軒の店の前へ来たとき、そこに立止つて、思出の深さうな目つきをして、健に私語《さゝや》いた。
『あ、さう……』と、健はまた、ごほりと胸に穴でもあいたやうな、厭《いや》な思ひを圧しつけるやうにして、さつさと其処を通り過ぎた。その子供が買つて来ては翫んでゐた、土地出来の焼きものゝ釜や碗茶碗などが到るところの店頭に並べられてあつた。健はそれにも面を背向《そむ》けた。
十一|時《じ》頃に、気分が較《やゝ》だらけて来たところで、健《たけし》の発言で、一同はそこを立つた。
『あなたのお宅《たく》へ寄せてもらひますわ。』麗子は蘭子に言つた。
『ねえ兄さん、可いでせう。』
大井は苦い顔をしてゐたが、やがて二人の女たちを前にして、彼等は自働車に乗つた。車が野へ出るにつれて、四下《あたり》が明《あかる》くなつたと同時に初夏のやうな風が、前に坐つた女たちの鬢《びん》をあふつた。頭《あたま》や髪《かみ》のすんなりした蘭子の丸髭姿が、麗子と隣合《となりあ》つて、直ぐ健の目の前にあつた。
車はやがて町のなかへ入つて来た。そして二三度曲ると、そこが近頃|建《た》てた蘭子の家の門前であつた。客商売らしい看板がその門に出てゐた。
赤松や梅などの両側に植はつた門の内の敷石《しきいし》を伝《つた》ふて、三人が格子戸のうちへ入る間に、蘭子は勝手口からあがつて、女たちと一緒に可也ゆつくりした玄関口に彼等を迎へ入れた。どこも彼処も小綺麗に出来てゐた。
『二階にしやう。』大井がさう言つて先に立つと、健と麗子がついて上つた。そして奥まつた六畳ばかりの部屋に案内された。
『巧《うま》くやつてゐるんだね』などゝ、健《たけし》は大井が下へおりてから麗子に私語《さゝや》いた。
『此の位の物を新らしく建てるには、ちよつとお鳥目《あし》がかゝつたでせう。』麗子もそこらを眺め乍ら呟《つぶや》いた。
『こゝらの芸者でも、あんなのが居るから、余り軽蔑もできないね。』
『さうですとも。』麗子は淋しく笑つた。
『越後の人で、商売をしない前には、東京にも長くゐたさうですよ。余り悪い身分の人ではないと云《い》ふ話《はなし》ですがね、あれでなか※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]好い腕をもつてゐるんでせうよ。』
『さうか知ら。』健は苦笑を浮べた。
『あの人は子供を産んでますよ。乳が黝《くろ》いですもの』麗子はさうも言つた。そこへ大井がまた上つて来た。
『可けない可けない。』彼は手を掉りながら低声で言つた。そして隣の部屋の方を指《さ》して、そこへ客が来て昨日から泊つてゐる
ことを話した。
板塀の外にある後ろの家から、太棹の糸音がしてゐた。
健たちは、下の物静かな小間で、暫らく茶を飲《の》みながら話してゐたが、間もなく打連れて外へ出た。昼飯を食べたり、土産物を見つけたりする為《ため》であつた。
三人に一|歩《あし》おくれて出て来た蘭子を見ると、彼女には富子《とみこ》がやはり附いてゐた。
前の路次をぬけると、そこに劇場の幟が、春風にはた/\翻つてゐた。そこが町中での歓楽の巷になつてゐることが知れた。そしてそんな興行場が、つい其の近くにも見出された。
『やかましい老人が死んだから、不味《まづ》くはなつたが、まあ一番美味いものを食はせる家としてあるんです。』
或料理屋の前へ来たとき、大井はさう言つて先へ立つた。
健たちは、泉石に臨んだ古い素朴な一室で、水の音を聞きながら、飲食《のみくひ》をした。そして其処を出ると、附近の町を歩《ある》いて、日の暮《く》れ/\に蘭子の内《うち》へ帰つて来た。疲労の色が麗子の面に現《あら》はれてゐた。そして何時になく、一|同《どう》に先立《さきだ》つて、何か不快をでも感じたやうに、さつさと歩いて行つた。蘭子は子供の手を引ながらゆつくり/\ついて来た。
家《うち》へ入つてからも、麗子の顔には憂鬱が隠せなかつた。そして大井にも健にも何時ものやうな、自由も媚かしさも見せなかつた。強《はづ》まない護謨球のやうに、彼女の神経が、圧潰《へしつぶ》されてゐた。
その頃大井の身のうへに起つてゐた或問題が、如何かすると健たちの口に上つてゐたが、麗子も時にその事について、啄《くち》を容れた。そして饒舌《しやべ》ればしやべるほど、彼女の調子が、凹んで来た。いら/\しい不思議な気分が、大井に絡《まつ》はつてゐた。健にはそれが惨《みじめ》にも、哀れにも見えた。
荷造がすつかり出来たところで、健たちは大井に送られて、夜汽車で立つべく停車場に向つた。停車場には、旅客が潮のやうに寄せてゐた。健たちは赤帽と大井の尽力で、やつと/\場席を取ることができた。
汽車の出るまで、大井は窓の下に立つてゐた。麗子も場席から立つて、反対の側にある其の窓の方へ行つて、妙に拘《こだ》はつたやうな気分で、大井と話を取交した。
『そつちへ掛けておいで。』
健はむづ/\するやうな心を圧へて、彼女を坐らせながら、汽車の出るまで大井と話してゐた。
プラツトホームの雑踏が、いつか静まつて、汽車は間もなく動きだした。[#地付き](大正7年6月「中外新論」)
麗子夫婦は、大井の居所から十里も隔《へだ》たつた親類の結婚式に臨むために、希《めづら》しく夫婦で旅《たび》に出たのであつたが、大井も其の披露式に呼《よ》ばれてゐた。そして其処で温泉ゆきの話が成立した。
麗子夫婦はこの八九年の間に、子供か三人も殖えてゐた。そしてその時分大井に揶揄はれた愛児の一人を失《うしな》つて居た。麗子が健に対する気持にも、健が彼女に対する気持にも、幾変遷があつたと同時に、お互《たがひ》の肉体にも衰へが感じられた。殊にも女の麗子の側に、それが争はれなかつた。麗子は時々、病弱で陰鬱な良人の気分を苛立《いらだ》たせるやうな様子《やうす》を見せたが、その接触点だけをしか感《かん》ずることができなかつた、健も思ひもかけない場合で、よく彼女を窘《くる》しめた。しかし時の流れが、自然に双方を妥協の道へ誘《みちび》いて行つた。今まで理解しやうともしなかつた双方の気質や性格が、知らず識らず深く感知《かんち》されて来た。そして其と同時に、麗子は年を取るに従つて愚かな、平凡な女として健の心に怠屈《たいくつ》な生活の重荷となつて、懸《かゝ》つてゐるとしか思はれないことすらあつた。
時がたつにつれて、その心持は段々深くなつて行つた。懈《だる》い平和と愛が二人に続いた。彼は女を憎めないやうな気がしたと同時に、女を誨へ導くことのできないのに失望した。
『おい/\、その肩掛《かたかけ》はお前には少し派手すぎるぢやないか』
つい近頃途中で落《おと》して来た肩掛の代りを、旅に上る前《まへ》に麗《れい》子が買つて来て、そこにおいてあるのを見つけて、干渉ずきな健が言出した。麗子はその時、しばらく手を通したことのない礼服や帯や長襦袢などを鞄《かばん》につめてゐた。旅先きで著るやうな外の著物も、健のと一緒に座敷に取出されてあつた。若い時分にじみ[#「じみ」に傍点]作りであつた彼女は、五人もの親になつた今になつてから派手好みをするやうになつた。
『え、でも此のくらゐのものは、誰でもしてゐますよ。』麗子はさう言つて、派手な絞の刺繍《ぬいとり》のある黒い肩掛を手に取りあげた。
『派手でも似合ふものもあるが、それは可《い》けない』
健は困つたものだと云《い》ふやうな顔をした。自分の柄《がら》が判らないかと云つた調子であつた。
『まあ黙つてゐて下さいよ。可けなければ人に譲ります。』
停車場へ入つてからも、白い刺繍《ぬいとり》のあるその肩掛が、健の気になつた。それが一層彼女を更《ふ》けた風《ふう》に見せたばかりでなく、彼女の落著いた著《き》つけを、打壊《うちこわ》してゐるやうにさへ思はれた。
結婚式に臨《のぞ》んだ彼女は、全く疲《つか》れてしまつた。そして引きつゞいてだら/\に飲《のみ》つゞけられた二|日目《かめ》の酒宴の席《せき》では、頭脳《あたま》がぐら/\すると云つて、別室《べつしつ》へ退《さが》つて、涼《すぶ》しい風の通るところで、横《よこ》になつて休《やす》んでゐた。長汽車で乱れた髪《かみ》が一|層《そう》形《かたち》が崩れて、地肌《ぢはだ》の透《す》き/\にみえる生際《はへぎは》から額《ひたひ》のあたりに、不断は見ることのできない、四十|近《ちか》い女の肉の衰《おとろ》へが、明々地《あからさま》に見えてゐた。目も力なく曇んで、頬の肉が緩《たる》んでゐた。
翌日の午後《ごゝ》、健夫婦は大井と連立《つれだ》つてそこを辞《じ》した。そして汽車《きしや》をおりると、すぐ大井が呼んでくれた自動車に乗つて山の温泉へ行つた。
町は昔《むかし》来たときよりも綺麗になつてゐた。四|月《ぐわつ》の初めであつたが、ついこの頃まで雪を被《かぶ》つてゐたやうな淡蒼《うすあを》い山の姿が、その垠《さかひ》に見上げられた。大きな通りを、殆んど一直線に、やがて車は広《ひろ》い高原の野へと出て来た。道傍の流に沿《そ》ふて、桜《さくら》がもうちらほら咲《さ》きかけてゐた。温泉場の人家の簇《むらが》りが、一かたまりになつて、そこから直《す》ぐ間近《まぢか》に見られた。三人はやがて或《ある》温泉宿の二階の新しい一室に、疲れた体を横《よこた》へた。
部室が新築《しんちく》された為《ため》もあつたが、昔《むか》し来たときよりも、その家《うち》の感《かん》じが健《たけし》には何となく明く思《おも》へた。家が明く感ぜられたばかりでなく、この温泉場の一体の空気が、昔し来たときよりも快い感じを彼に与《あた》へた。その頃の彼は、何《なに》を見ても暗かつた。
『隣《となり》の医者はどうしたらう』などゝ、健は廊下へ出て、庭《には》ごしに隣を眺《なが》めた。そこには畑地のなかに荒廃《あれすた》れた石室《いしむろ》のやうな建物《たてもの》があつた。そして其処から少し離れた木立のなかに、西洋造の二階建があつた。
『あれがそれです。』大井も傍《そば》へ来て、その建物を指《ゆびざ》しながら言つた。
『今はこゝには住んでゐないが、その石室が彼の書庫です。』大井はさうも言つた。
健を診察して、肺病だと云つて彼を駭かしたのは、その男であつた。彼は軍医上りの医者であつたが、こんな田舎の開業医としては不思議な研究室《けんきうしつ》を、その頃《ころ》も持《も》つてゐた。彼の様子《やうす》は狂人でなければ、天才であつた。
『あの時、あの男が目《め》を光らして、毎日畑へ出ては水蜜桃の木の手入をしてゐるのを、僕は羨《うらや》ましさうによく此処から見てゐたものだが、あれは如何《どう》なつたらう。』健はまた訊《き》いた。
『そこいら一体に、枝《えだ》を蔓らせてゐるのが、それだ。』
気がついてみると、荒蕪《くわうぶ》するに委《まか》されたその畑地に、それらしい木が、縦横に枝を差交してゐた。
『へえ、他《あれ》がこんなに大きくなつたのか。』
生長したものは水蜜桃ばかりではなかつた。田圃《たんぼ》には新らしい建物《たてもの》がそこにも此処《ここ》にも殖え、疎らに植はつてゐた。丘の傾斜面の小松が、蒼々と生茂つてゐた。
やがて健たちは、打つれて風呂場へおりて行つたが、風呂場も亦た新らしく改造されて、すつかり綺麗になつてゐた。
健《たけし》は暢々《のび/\》したやうな、昔《むかし》なつかしい、寂しい気分になつて、蒼々《あを/\》した湯に浸つてゐた。
『今度行つたらまた、あのお湯に入つて、一ト晩|泊《とま》つて来ませうね。』
旅に立つ前に、麗子はさう言《い》つて三人でそれを楽しみにしてゐたが、汽車に乗つたときから、健《たけし》の興味は裏切られてゐた。一人で旅をするとき、彼は時々そんな時のことを想像してみるのであつた、一緒に出てみると妻は彼に取つては、やはり荷厄介であつた。
『お前の体は妙だね』
大井は湯に浸つてゐながら、湯槽の縁に坐つて体を洗つてゐる麗子に言つた。
『どうしてゞす。』麗子は自分の体を眺めた。
『下の方ばかり発達して、胸や肩のあたりが馬鹿に貧弱だ。』
『然《さ》うですか。私し蟻腰ですから。』
『蟻腰はいゝが、一ト頃から見ると、何だかそこらが甚《ひど》くがた[#「がた」に傍点]ついて来たやうだね。一|度《ど》好い医師に診てもらつたら如何《どう》だ。』
麗子は『え』と言つて水をつけては櫛《くし》で髪を掻《かき》あげてゐたが、骨組の巌丈《がんじやう》な割に、肉づきが貧しかつた。
湯からあがつて来ると、三人は軽い空腹を感じた。そして夕飯を不味《まづ》くしないほどの程度で、洋食を一二品づゝ吩咐《いひつ》けた。咽喉が渇《かわ》いてゐたので、ビールをぬく必要もあつた。
三人は胡瓜もみを下物に、泡立つビールに口《くち》をつけた。廊椽の方から、涼しい風がそよ/\と流れた。桜が風になぶられてちら/\と散つてゐた。
『こゝへ呼んだらいゝでせう。』健《たけし》は謎《なぞ》をかけるやうに、大井に笑話らしく言つた。
『お呼《よ》びなさいよ。一度もお目にかゝつたことがないんだから。』麗子もせがむやうに言つた。
大井が、先刻から帳場で電話をかけてゐたことを二人は感づいてゐた。
大井はやゝ含羞《はにか》んだやうな、冷笑ふやうな表情で、黙つてゐたが、
『そのうちに誰か来るだらう』と呟《つぶや》いてゐた。
話をしてゐるうちに直に晩飯の時刻になつた。薄ら寒い風が硝子戸を揺つて、山国らしい寂しさが野面に拡つて来た。健たちは大きな餉台に凭《よ》つて、飲食《のみく》ひをしながら自由な談話に耽《ふけ》つた。
女中が大井に来客のあることを通じて来た頃には餉台の上も可也荒れてゐた。
『ちよつと大井さんに……』女中は多く目に物を言はせながら、入口で取次いだ。
『何だ、こゝに来いつて。』大井は言《いひ》つけた。
女中は黙つて行つてしまつた。
『わたしが連《つ》れて来ませう。』
暫くすると、麗子はその客が入るのを躊躇でもしてゐるものと思つたらしく、気軽に座を立つて廊下へ出て行つた。すると其処《そこ》でばつたり様子のすらりとした美しい女に出逢つた。お蘭と云《い》ふ名《な》で噂されてゐた其の女は、近頃人から貰受けたと云ふ七つばかりの女の児をつれてゐたが、客商売をしてゐたやうな様子はどこにも見《み》られなかつたほど、顔容《かほかたち》がおとなしやかに、品よく出来《でき》てゐた。東京|風《ふう》の言葉づかひにも、土地の訛《なまり》は少しもなかつた。
蘭子がそこへ手《て》をついて、健に簡短な初対面の口誼を述べてゐるところへ、健の妻も入つて来た。そして何処か怯えたやうな風《ふう》で、彼女と挨拶を取交した。
年の割に体の大きい其《そ》の子供は、人見知りをしたやうに、ぴつたり蘭子の胸に顔を押《お》しつけて、いくら宥《なだ》めても、挑《おだ》てゝも顔を見せなかつた。
『これあ可笑しい!』
大井は心からの愛が溢《あふ》れるやうな調子で言つた。
『己がいつでも寝顔を覗《のぞ》いて、富子はどう見ても余《あん》まり好い女ぢやないなど言つてゐるものだから、こいつ含羞《はにか》んだとみえる。』
子供は一層蘭子の胸にへばりついた。
『如何《どう》したんでせう、あんなに行かう/\と強請《せが》んでゐた癖《くせ》に。』蘭子はさう言つて、袖で子供を囲《かこ》つてゐた。
『おい/\富子』などゝ、大井は暫らくすると、また富子に声をかけた。
『ちよつと此処に来て、その呼鈴を押《お》してくれ』
『駄目ですよ。今に直りますから。』蘭子は手を掉《ふ》つた。そして健たちに、『家《うち》ではもう大変なお転婆さんなんですの。学校でも、この子が一|番《ばん》大きくて、一番|暴《あば》れるのですと。』
『然《さ》うですかね。』麗子は気のない返辞をした。丁度《ちやうど》そんな年頃でこゝへ遊びに来たことのある、亡《なくな》つた娘のことでも憶出してゐると云ふ風《ふう》であつた。
『ではお母さんとお風呂にいつていらしたら如何。さうしたら機嫌が直るかも知れませんわ。』麗子は暫くしてから頑固に母の胸にしがみついてゐて顔を見せない富子に言つた。
蘭子は袋のなかゝら、化粧道具や手拭などを取出して、やがて子供を風呂場へつれて行つた。
『こんな者をもらつて如何するだらうつて、人も言ふし己も言つてゐたが、でも不思議なものだよ、二年ほど世話してゐるうちに、すつかり様子が変つてしまつたからね。』大井はさう言つて、子供の噂《うわさ》をしてゐた。
『迚《とて》も利かん気の子供だから、育《そだ》てるのにも余程気骨がをれやうと思ふ。女子大学へでも出して好く行けば非常な才物になるだらうが、罷《まか》り間違《まちが》つたら手におへないものになつてしまふ。』大井はさうも言つた。
可也の時間がたつてから、富子は何か話しながら母親と一|緒《しよ》に風呂から出て来た。
『お風呂でよくお約束をして来ましたから、もう大丈夫でございます。』蘭子はさう言つて、子供と一緒に坐つた。
子供は今までの羞恥がすつかり除《と》れてゐた。そして今度は反対に男々した其|烈《はげ》しい悪戯《いたづら》を発揮して来た。切の鋭いその目《め》には、強い光があつたが、やゝ大きい其の口元にも、利かない気の天性が露はれてゐた。それは子供の愛らしさよりも寧ろ大人らしいしつかりした強みであつた。
小い暴君は、暫くすると、横つてゐる大井の背《せなか》へも乗れば、頭髪を掻※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《かきむし》つた。
『在郷つぺい』などゝ、彼女は時々に憎まれ口を利いた。
『何故そんなこと言ふのです。』口数を利かない蘭子は、さう言つて三度に一度は優《やさ》しく子供を宥《たしな》めた。
子供が寝かされてから間もなく、明け放された広い二室に、一同は枕をならべて臥床についた。兵営の喇叭が物悲しげに聞えてゐた。
翌日は、四人で半日そこに遊んでゐた。彼等は山に登《のぼ》つたり、町を見てあるいたりした。麗子は途々《みち/\》花を摘《つ》んだり、道草を喰《く》つたりして、よく富子の機嫌を取つたが、健たちには昔し子供たちと一緒に上つた記臆か、到るところの小径《こみち》や、丘にあるのに出逢《であ》つた。
町には新築の温泉宿が二三軒も殖えてゐた。
『こゝであの子が、お清につれられてよくお芋を買つたんですよ。』
麗子は荒物や水菓子などを商《あきな》つてゐる一軒の店の前へ来たとき、そこに立止つて、思出の深さうな目つきをして、健に私語《さゝや》いた。
『あ、さう……』と、健はまた、ごほりと胸に穴でもあいたやうな、厭《いや》な思ひを圧しつけるやうにして、さつさと其処を通り過ぎた。その子供が買つて来ては翫んでゐた、土地出来の焼きものゝ釜や碗茶碗などが到るところの店頭に並べられてあつた。健はそれにも面を背向《そむ》けた。
十一|時《じ》頃に、気分が較《やゝ》だらけて来たところで、健《たけし》の発言で、一同はそこを立つた。
『あなたのお宅《たく》へ寄せてもらひますわ。』麗子は蘭子に言つた。
『ねえ兄さん、可いでせう。』
大井は苦い顔をしてゐたが、やがて二人の女たちを前にして、彼等は自働車に乗つた。車が野へ出るにつれて、四下《あたり》が明《あかる》くなつたと同時に初夏のやうな風が、前に坐つた女たちの鬢《びん》をあふつた。頭《あたま》や髪《かみ》のすんなりした蘭子の丸髭姿が、麗子と隣合《となりあ》つて、直ぐ健の目の前にあつた。
車はやがて町のなかへ入つて来た。そして二三度曲ると、そこが近頃|建《た》てた蘭子の家の門前であつた。客商売らしい看板がその門に出てゐた。
赤松や梅などの両側に植はつた門の内の敷石《しきいし》を伝《つた》ふて、三人が格子戸のうちへ入る間に、蘭子は勝手口からあがつて、女たちと一緒に可也ゆつくりした玄関口に彼等を迎へ入れた。どこも彼処も小綺麗に出来てゐた。
『二階にしやう。』大井がさう言つて先に立つと、健と麗子がついて上つた。そして奥まつた六畳ばかりの部屋に案内された。
『巧《うま》くやつてゐるんだね』などゝ、健《たけし》は大井が下へおりてから麗子に私語《さゝや》いた。
『此の位の物を新らしく建てるには、ちよつとお鳥目《あし》がかゝつたでせう。』麗子もそこらを眺め乍ら呟《つぶや》いた。
『こゝらの芸者でも、あんなのが居るから、余り軽蔑もできないね。』
『さうですとも。』麗子は淋しく笑つた。
『越後の人で、商売をしない前には、東京にも長くゐたさうですよ。余り悪い身分の人ではないと云《い》ふ話《はなし》ですがね、あれでなか※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]好い腕をもつてゐるんでせうよ。』
『さうか知ら。』健は苦笑を浮べた。
『あの人は子供を産んでますよ。乳が黝《くろ》いですもの』麗子はさうも言つた。そこへ大井がまた上つて来た。
『可けない可けない。』彼は手を掉りながら低声で言つた。そして隣の部屋の方を指《さ》して、そこへ客が来て昨日から泊つてゐる
ことを話した。
板塀の外にある後ろの家から、太棹の糸音がしてゐた。
健たちは、下の物静かな小間で、暫らく茶を飲《の》みながら話してゐたが、間もなく打連れて外へ出た。昼飯を食べたり、土産物を見つけたりする為《ため》であつた。
三人に一|歩《あし》おくれて出て来た蘭子を見ると、彼女には富子《とみこ》がやはり附いてゐた。
前の路次をぬけると、そこに劇場の幟が、春風にはた/\翻つてゐた。そこが町中での歓楽の巷になつてゐることが知れた。そしてそんな興行場が、つい其の近くにも見出された。
『やかましい老人が死んだから、不味《まづ》くはなつたが、まあ一番美味いものを食はせる家としてあるんです。』
或料理屋の前へ来たとき、大井はさう言つて先へ立つた。
健たちは、泉石に臨んだ古い素朴な一室で、水の音を聞きながら、飲食《のみくひ》をした。そして其処を出ると、附近の町を歩《ある》いて、日の暮《く》れ/\に蘭子の内《うち》へ帰つて来た。疲労の色が麗子の面に現《あら》はれてゐた。そして何時になく、一|同《どう》に先立《さきだ》つて、何か不快をでも感じたやうに、さつさと歩いて行つた。蘭子は子供の手を引ながらゆつくり/\ついて来た。
家《うち》へ入つてからも、麗子の顔には憂鬱が隠せなかつた。そして大井にも健にも何時ものやうな、自由も媚かしさも見せなかつた。強《はづ》まない護謨球のやうに、彼女の神経が、圧潰《へしつぶ》されてゐた。
その頃大井の身のうへに起つてゐた或問題が、如何かすると健たちの口に上つてゐたが、麗子も時にその事について、啄《くち》を容れた。そして饒舌《しやべ》ればしやべるほど、彼女の調子が、凹んで来た。いら/\しい不思議な気分が、大井に絡《まつ》はつてゐた。健にはそれが惨《みじめ》にも、哀れにも見えた。
荷造がすつかり出来たところで、健たちは大井に送られて、夜汽車で立つべく停車場に向つた。停車場には、旅客が潮のやうに寄せてゐた。健たちは赤帽と大井の尽力で、やつと/\場席を取ることができた。
汽車の出るまで、大井は窓の下に立つてゐた。麗子も場席から立つて、反対の側にある其の窓の方へ行つて、妙に拘《こだ》はつたやうな気分で、大井と話を取交した。
『そつちへ掛けておいで。』
健はむづ/\するやうな心を圧へて、彼女を坐らせながら、汽車の出るまで大井と話してゐた。
プラツトホームの雑踏が、いつか静まつて、汽車は間もなく動きだした。[#地付き](大正7年6月「中外新論」)
底本:「徳田秋聲全集第12巻」八木書店
2000(平成12)年5月18日初版発行
底本の親本:「中外新論」
1918(大正7)年6月
初出:「中外新論」
1918(大正7)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2000(平成12)年5月18日初版発行
底本の親本:「中外新論」
1918(大正7)年6月
初出:「中外新論」
1918(大正7)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ