harukaze_lab @ ウィキ
花咲く頃
最終更新:
Bot(ページ名リンク)
-
view
花咲く頃
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)高原《かうげん》
(例)高原《かうげん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|緒《しよ》
(例)一|緒《しよ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-3]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-3]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しら/\
(例)しら/\
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
桔梗原の高原《かうげん》にあるお寺で行はるゝ義弟《ぎてい》の上堂式に参列するために、私は或夜《あるよ》おそく、妻と一|緒《しよ》に市中《まちなか》の或停車場から出発《しゆつぱつ》して、久振で山国《やまぐに》の旅に登つた。
立つ前に私は今一度病院を訪《たづ》ねるつもりであつたが、時間《じかん》がなかつたので、病人《びやうにん》の見舞《みま》ひに来てゐる一人の甥《をひ》に後《あと》のことを委ねて、急《いそ》いで停車場へ嚮《むか》つて車を走らせた。私の家《いへ》のつい近くの病院《びやうゐん》には、私と殆んど同じ年輩の病人《びやうにん》が、もう三週間余《しうかんあま》り病床に横《よこた》はつてゐた。彼は直腸にできた癌《がん》の療治《れうぢ》をするために、わざ/″\遠《とま》い其の故郷から上京したのであつたが、診察《しんさつ》を受けた外科医《げくわい》から、ラヂユームを最《もつと》も多量に所有《しよいう》してゐる皮膚科の博士に紹介《せうかい》されてから、可也《かなり》手数《てすう》の多いラヂユームの療法《れうはふ》によつて、悪性な其の腫物《しゆもつ》を除かうとしてゐるのであつた。それに其の患者《くわんじや》の傍《そば》には、これも私の姪《めい》にあたる貞淑《ていしゆく》な彼の妻が、五人の子供《こども》を留守宅において来《き》て、夜となく昼となく良人《をつと》の病床に侍してゐた。たゞの一|日《にち》でも私はそれらの気毒な病人夫婦《びやうにんふうふ》をおいて、旅に出るのは不安《ふあん》であつたが、義弟《ぎてい》の式に参列《さんれつ》することは、去年からの約束《やくそく》でもあつたので、二三日の予定《よてい》で、家を出《で》た。
私たちの俥が停車場《ていしやぢやう》へ着いたのは、十時半頃であつたが、辛《から》うじて座席を取つてから、疲《つか》れた体《からだ》を汽車の動揺《どうえう》に委《まか》せたのはそれから一|時間《じかん》の余も経つてからであつた。花時《はなどき》の客車《かくしや》は可也《かなり》込合《こみあ》つてゐた。気忙しい思ひをして、漸《やつ》と間《ま》に合つた私たちは、頭脳《あたま》を休めるために肱を曲《ま》げるにさへ、窮窟《きうくつ》を感ずるほどであつた。新宿《しんじゆく》からは、また二三の乗客が乗込《のりこ》んだりした。そして汽車がそこを過《す》ぎると、乗客は初めて自分自身《じぶんじしん》の領域に落着いたやうに、枕《まくら》を脹《ふくら》ませたり、敷物のうへに坐《すわ》り直《なほ》したりした。
「この汽車《きしや》に乗るのは、ちやうど十一|年目《ねんめ》ですわ。」
汽車が東京を離《はな》れた頃、妻はつい此頃《このごろ》のことのやうに思つてゐる、初めて故郷《こきやう》といふものゝ姿《すかた》を見せられた折のことを憶出《おもひだ》したやうに言つた。七八つ頃《ごろ》に別れて来てから、二十年《ねん》ぶりで見た故郷《こきやう》は、彼女が想像《さうぞう》してゐたほど美しいものではなくて、停車場《ていしやぢやう》を降りるときから、山間《やまあひ》の淋しい町の姿か、滑稽《こつけい》なほど総ての期待《きたい》を裏切《うらぎ》つてしまつた。
「さうかな」と私はその間《あひ》に一度、これも弟の江湖式に臨《のぞ》むために、独りでここから立《た》つたことなど憶出してゐた。
「あの時はみつ子がまだ漸《やつ》と四つか五つでしたにね。」三|年前《ねんぜん》に死んだ子供《こども》のことが、またこんな折《をり》の彼女の心に浮んで来《き》たりした。
夜《よ》が更《ふ》けるに従つて、私たちの頭脳《あたま》は次第にぼんやりして来て、眠《ねむ》るともなしに夢現《ゆめうつゝ》のやうな気持に誘はれた。笹子隧道《さゝことんねる》を通るときの劇しい汽車《きしや》の響が、時々私の心《こゝろ》を脅《おびや》かすのを感じた。
しら/\夜《よ》が明《あ》けたと思つて、窓を明《あ》けると、そこがもう甲府《かふふ》で、客車の内外《うちそと》が何となくざわついてゐた。そして私がプラツトホームへ降《お》りて、外の洗面所《せんめんじよ》で顔を洗ひ、そちこち運動《うんどう》してから、再び座席へ戻つて来たころは、入替《いれかは》つてそこから乗込《のりこ》んで来た人の新らしい顔《かほ》か、そここゝに見《み》られた。
富士見へ来た頃には、高《たか》い山の姿が晴《はれ》わたつた空にくつきり見《み》えて、爽やかな朝風が、寝熱《ねぼと》りのした顔に快《こゝろよ》く触つた。
生糸工場の煙突《えんとつ》の多い湖畔の或町《あるまち》へ来たとき、私たちは荷物《にもつ》を一つに纏めて、窓《まど》の外を眺《なが》めた。そこにはつい此頃東京を遊覧《いうらん》して帰つたばかりの――そして其時《そのとき》そんな約束の成立《なりた》つた妻の親類の人《ひと》たちか男衆を従へて、私たちの着《つ》くのを待《ま》つてゐた。
立つ前に私は今一度病院を訪《たづ》ねるつもりであつたが、時間《じかん》がなかつたので、病人《びやうにん》の見舞《みま》ひに来てゐる一人の甥《をひ》に後《あと》のことを委ねて、急《いそ》いで停車場へ嚮《むか》つて車を走らせた。私の家《いへ》のつい近くの病院《びやうゐん》には、私と殆んど同じ年輩の病人《びやうにん》が、もう三週間余《しうかんあま》り病床に横《よこた》はつてゐた。彼は直腸にできた癌《がん》の療治《れうぢ》をするために、わざ/″\遠《とま》い其の故郷から上京したのであつたが、診察《しんさつ》を受けた外科医《げくわい》から、ラヂユームを最《もつと》も多量に所有《しよいう》してゐる皮膚科の博士に紹介《せうかい》されてから、可也《かなり》手数《てすう》の多いラヂユームの療法《れうはふ》によつて、悪性な其の腫物《しゆもつ》を除かうとしてゐるのであつた。それに其の患者《くわんじや》の傍《そば》には、これも私の姪《めい》にあたる貞淑《ていしゆく》な彼の妻が、五人の子供《こども》を留守宅において来《き》て、夜となく昼となく良人《をつと》の病床に侍してゐた。たゞの一|日《にち》でも私はそれらの気毒な病人夫婦《びやうにんふうふ》をおいて、旅に出るのは不安《ふあん》であつたが、義弟《ぎてい》の式に参列《さんれつ》することは、去年からの約束《やくそく》でもあつたので、二三日の予定《よてい》で、家を出《で》た。
私たちの俥が停車場《ていしやぢやう》へ着いたのは、十時半頃であつたが、辛《から》うじて座席を取つてから、疲《つか》れた体《からだ》を汽車の動揺《どうえう》に委《まか》せたのはそれから一|時間《じかん》の余も経つてからであつた。花時《はなどき》の客車《かくしや》は可也《かなり》込合《こみあ》つてゐた。気忙しい思ひをして、漸《やつ》と間《ま》に合つた私たちは、頭脳《あたま》を休めるために肱を曲《ま》げるにさへ、窮窟《きうくつ》を感ずるほどであつた。新宿《しんじゆく》からは、また二三の乗客が乗込《のりこ》んだりした。そして汽車がそこを過《す》ぎると、乗客は初めて自分自身《じぶんじしん》の領域に落着いたやうに、枕《まくら》を脹《ふくら》ませたり、敷物のうへに坐《すわ》り直《なほ》したりした。
「この汽車《きしや》に乗るのは、ちやうど十一|年目《ねんめ》ですわ。」
汽車が東京を離《はな》れた頃、妻はつい此頃《このごろ》のことのやうに思つてゐる、初めて故郷《こきやう》といふものゝ姿《すかた》を見せられた折のことを憶出《おもひだ》したやうに言つた。七八つ頃《ごろ》に別れて来てから、二十年《ねん》ぶりで見た故郷《こきやう》は、彼女が想像《さうぞう》してゐたほど美しいものではなくて、停車場《ていしやぢやう》を降りるときから、山間《やまあひ》の淋しい町の姿か、滑稽《こつけい》なほど総ての期待《きたい》を裏切《うらぎ》つてしまつた。
「さうかな」と私はその間《あひ》に一度、これも弟の江湖式に臨《のぞ》むために、独りでここから立《た》つたことなど憶出してゐた。
「あの時はみつ子がまだ漸《やつ》と四つか五つでしたにね。」三|年前《ねんぜん》に死んだ子供《こども》のことが、またこんな折《をり》の彼女の心に浮んで来《き》たりした。
夜《よ》が更《ふ》けるに従つて、私たちの頭脳《あたま》は次第にぼんやりして来て、眠《ねむ》るともなしに夢現《ゆめうつゝ》のやうな気持に誘はれた。笹子隧道《さゝことんねる》を通るときの劇しい汽車《きしや》の響が、時々私の心《こゝろ》を脅《おびや》かすのを感じた。
しら/\夜《よ》が明《あ》けたと思つて、窓を明《あ》けると、そこがもう甲府《かふふ》で、客車の内外《うちそと》が何となくざわついてゐた。そして私がプラツトホームへ降《お》りて、外の洗面所《せんめんじよ》で顔を洗ひ、そちこち運動《うんどう》してから、再び座席へ戻つて来たころは、入替《いれかは》つてそこから乗込《のりこ》んで来た人の新らしい顔《かほ》か、そここゝに見《み》られた。
富士見へ来た頃には、高《たか》い山の姿が晴《はれ》わたつた空にくつきり見《み》えて、爽やかな朝風が、寝熱《ねぼと》りのした顔に快《こゝろよ》く触つた。
生糸工場の煙突《えんとつ》の多い湖畔の或町《あるまち》へ来たとき、私たちは荷物《にもつ》を一つに纏めて、窓《まど》の外を眺《なが》めた。そこにはつい此頃東京を遊覧《いうらん》して帰つたばかりの――そして其時《そのとき》そんな約束の成立《なりた》つた妻の親類の人《ひと》たちか男衆を従へて、私たちの着《つ》くのを待《ま》つてゐた。
一日一夜そこに過《すご》して、その親類の人と一|緒《しよ》に、私たちが其の寺のある場所《ばしよ》へ向つて出発《しゆつぱつ》したのは、翌朝《よくてう》の九時であつた。
初めて見る湖畔《こはん》の町では、私たちは久振《ひさしぶり》で妻の妹に逢つたり、町《まち》の後《うし》ろにある山へ登つたりした。妹は電話《でんわ》を受けて、二人の子供《こども》をつれて、近くの町から汽車《きしや》で姉に逢ひに来たのであつた。夜汽車《よぎしや》で疲れた体を起して、妻《つま》は懐しい妹を迎へるために、男衆《をとこしゆう》と一緒に停車場まで出て行つた。私はその間に、骨董好きな主人《しゆじん》から幾十種となく集《あつ》められた古い鈴や、彫刻類《てうこくるゐ》などを見せられた。
「やい/\」などゝ、金縁眼鏡《きんぶちめがね》をかけて、奥《おく》に坐りこんでゐる主人《しゆじん》は、時々そんな声《こゑ》をかけて、店を切廻してゐる若い細君《さいくん》を呼んだり、男衆《をとこしゆう》に用を吩附《いひつ》けたりした。
裏の土蔵《どざう》の前に大きな臼が据《す》えられて、男衆《をとこしゆう》や女たちが、餅を搗いた。昨日《きのふ》山《やま》から摘んで来た青い餅草《もちぐさ》が蒸《む》されたりした。
多勢の人たちと一|緒《しよ》に、山で飲食《のみく》ひをしてから、町へ降《お》りて来て湯に入つた頃《ころ》には、私は一時に疲労《ひらう》をおぼえて、日が暮《く》れると間もなく、軟かい天鵞絨《びらうど》の蒲団のうへに横はつて眠つた。花の綻《ほころ》びかけた山には、一|町《ちやう》ばかりの間、明いイルミネーシヨンがついてゐた。
朝は朗《ほがら》かに晴れてゐた。停車場《ていしやぢやう》のプラツトホームから見える附近《ふきん》の山には、春らしい長閑《のどか》な靉靆《あいたい》が棚曳いて、日影《ひかげ》がうら/\と輝いてゐた。私《わたし》たちは間もなくそこへ入つて来《き》た汽車《きしや》に乗つて、一夜の旅に疲《つか》れた人達《ひとたち》の間へ割込んだ。
「あの辺がお×さんの家《うち》ですよ」などゝ、妻《つま》は工場の白壁の多い殷賑《いんしん》な次の駅へ来たとき、窓《まど》の外を眺めながら言《い》つたが、彼女の逢《あ》つて行きたいやうな人《ひと》は、そこにも此処にもあつた。
汽車が彼女《かのぢよ》の産れ故郷のO駅を通過《つうくわ》したのは、それから間もなくであつた。白壁《しろかべ》の土蔵や、生糸工場や、村から出た横浜《よこはま》の或る富豪《ふがう》が建てたといふ三階造の病院《びやうゐん》などが、懐かしく彼女の目に映《うつ》つた。不治の病を抱いて、村へ引込《ひきこ》んで行つてから、暫《しば》らく其処に院長をしてゐて、この春《はる》到頭《たうとう》死《し》んでしまつた身内の若い医学士のことなども想出された。彼女の産《うま》れた村の南部《なんぶ》が廃頽《はいたい》したかはりに、著しく北部へ向つて発展《はつてん》して来たことも、目《め》についた。
「あゝ」と、彼女は思出《おもひで》の深さうな溜息《ためいき》をついて、窓から首を引込《ひつこ》めたが、それと同時《どうじ》に同じ式に臨《のぞ》むために、乗込《のりこ》んで来た親類の人の姿が、三四|人《にん》、目《め》についた。
寺のあるS駅《えき》で、私たちは其人たちと顔《かほ》を合して、あわたゞしい思《おも》ひで、互に久闊を叙《の》べた。久振で彼等の領域《りやうゐき》へ入つて来ながら、どこへも立寄《たちよ》ることのできない事情を断《ことは》つてから、私たちは車《くるま》で石高な道を、寺の方へと急《いそ》いだ。五日間授戒のためにH禅師《ぜんじ》が駕籠で乗込んで来たときの話《はなし》などを、車夫《しやふ》から聴《きか》されながら、私たちはやがて町《まち》へ入つて行つた。そして其町から田圃《たんぼ》なかへ出ると、山蔭《やまかげ》の寺の大きな棟《むね》や、それを取囲んだ白壁《しらかべ》の蔵《くら》や、幾箇もの建物が、直《す》ぐ目についた。雪《ゆき》が消《き》えても間もないほどのまだ春浅い高原地《かうげんち》の畑地には、麦が所々に漸《やうや》く青い色を見せてゐたり、梅の花が咲《さ》いてゐたりした。
車はやがて、鉄道線路《てつだうせんろ》の小いアーチ型のトンネルを潜《くぐ》つて、お寺の門前《もんぜん》へ引込まれた。そこには多勢《たぜい》の人が、人夫《にんぷ》を指図して、今日の上堂式《じやうたうしき》の後に執行されることになつてゐる、先住《せんぢう》の荼毘式の式場を示すための、大きな位牌形《ゐはいがた》の建札《たてふだ》が、杉の葉で飾《かざ》られつゝあつた。私たちは其処で車を降《お》りて、広い門内《もんない》へ入つて行つた。正面に見《め》える大きな本堂や広い庫裏《くり》や、門のうちの広場《ひろば》や、左手の山の木蔭《こかげ》、右手の裏の方にある幾箇《いくつ》かの建物のあたりには、今日《けふ》の式を観るために、近郷《きんがう》から集《あつま》つて来た人たちが、もう其処にもここにも一|杯《ぱい》になつてゐた。折詰《をりづめ》などを積みあげて、幾箇《いくつ》もの机をならべた受附口《うけつけぐち》へ入つて入つた私《わたし》たちが、そこにまごついてゐる姿を見《み》つけて、いつか東京で逢《あ》つたことのある一人の長老《ちやうらう》が、直に奥へ案内《あんない》してくれた。そして僧侶《そうりよ》たちや、今日の賓客の充《み》ち満《み》ちた部屋の幾箇《いくつ》かを通つて、私たちは初めて奥まつた一つの寮《れう》で、頭を青々と剃《そ》つて鼠色の紋緞子《もんどんす》の法衣をつけた彼の異つた姿《すがた》に行逢つた。
彼は机のうへで、各地から来た祝電《しゆくでん》を、朗読《らうどく》に便ならしめるために、発信人《はつしんにん》の姓名を書添《かきそ》へるのに忙しかつたが、私たちの顔《かほ》を見ると、さも懐しげな微笑《びせう》を浮べて会釈《ゑしやく》した。私たちは其等《それら》の準備のために東京《とうきやう》へ出て来たをり逢つたきり、半歳《はんとし》あまり彼を見なかつた。学校《がくかう》を出てから、幾許《いくら》にもならない彼は先住が不意《ふい》に亡つてから、急に法燈《はうとう》を嗣ぐことになつて、こゝへ引込んだのであつたが、近頃《ちかごろ》はまた寺格を進めたり、式の準備《じゆんび》についての仕事が忙《いそが》しかつたり、江湖会が初まつて、H禅師《ぜんし》が滞在《たいざい》してゐたあひだは、殊《こと》に事務が繁多であつた。学校《がくかう》を出たての青年僧侶《せいねんそうりよ》としては、それらの仕事《しごと》に、希《めづら》しいほどの思慮と手腕《しゆわん》とを彼はもつてゐた。
「兄さんは左《と》に右《かく》、姉《ねえ》さんは如何《どう》かと思つてゐましたに、よく来《こ》られましたね。」
妻は屏風《びやうぶ》ぎわに寄つて、ぼんやりしてゐたが、嬉《うれ》しいやうな悲しいやうな思《おも》ひか胸に塞《ふさが》つたとみえて目が涙に曇《うる》んでゐた。
「さぞ疲《つか》れることでせうね。」彼女は、そんな話《はなし》をしてゐる間にも、祝《いは》いに来てくれる人に接《せつ》したり、何かの指図をするに忙《いそが》しい弟の様子を見《み》ながら言つた。
「え、この間《あひだ》は寝ない晩が、幾晩《いくばん》もあつたりして、随分《ずゐぶん》忙《いそが》しい思ひをしました。でも禅師《ぜんし》が帰られたで今日の式《しき》さへすめば、百|箇日《かにち》引籠《ひきこも》るだけで………。」
彼はさう言ひながら、また筆を執つた。
「もう熟々《つく/″\》お経を読むのに飽《あ》きてしまつてね。でも、不思議《ふしぎ》と体は続くものさ。」
私たちのために存《こしら》へてくれた二階の別室《べつしつ》へ、案内されて、そこでのう/\した気持《きもち》で、膝《ひざ》を暢《のば》すことのできたのは、それから大分《だいぶ》たつてからであつた。山を背景《はいけい》に取つた広《ひろ》い庭が、そこから一|目《め》に見わたされた。
「風呂が湧《わ》いてゐますが、兄さんも姉《ねえ》さんも一|風呂《ふろ》お入りになりませんか。」
姉夫婦の気分《きぶん》を落着かせやうとして、若《わか》い方丈―弟―はさう言《い》つて、七声 引請寮などと貼札《はりふだ》のしてある二|階《かい》へ顔を出した。私は下の寮で羽織袴《はをりはかま》をとつて、廊縁づたひに湯殿《ゆどの》へ入つて行つた。妻《つま》は今朝湖畔の町を出るとき締《し》めて来た帯を釈《と》いたり、頸の白粉《おしろい》をつけ直したりしなければならないので、私のために湯の加減《かげん》を見に来たゞけで、風呂《ふろ》へは入らなかつた。
「いゝお湯殿だこと。」彼女《かのぢよ》はさう言つて、裾《すそ》を※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-3]《から》げながら、すぐ其の広い廊縁《らうえん》から酌取《くみと》れるやうになつてゐる山清水《やましみづ》をバケツに汲んで、一二|杯《はい》うめてくれた。※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-5]げた彼女の礼服《れいふく》の下からは、今日《こんにち》の式に詣るために、わざと亡つた愛児《あいじ》の小袖をほどいて作つた、紫友禅《むらさきいうぜん》の長襦袢が垂れてゐた。それは彼女《かのぢよ》の帯祝ひのとき作つたものであつた。
黒《くろ》い法衣の袖をからげた若い僧徒《そうと》が一人、そこへやつて来た。そして又《また》五六杯の水を汲足《くみた》してくれた。
「どうも済《す》みません」などゝ、妻はその温順《おとな》しやかな青年《せいねん》に言つた。
「あの人は何だか見覚《みおぼ》えのある人だと思《おも》つたら、いつか弟を送《おく》つて停車場で逢つた、弟のお友達《ともだち》ですよ。」
そして今度《こんど》の式に助《すけ》をするために、やつて来《き》てくれた若い学校出の僧徒《そうと》が、他にも沢山《たくさん》あつた。
風呂《ふろ》からあがつて、せい/\した気持《きもち》で、私が二階へあがつて来《き》た頃には、既《すで》にそこへ案内《あんない》された親戚の人達が四五人、昼《ひる》のお膳についてゐた。若《わか》い方丈《はうじよう》は、懐かしさうに時々《とき/″\》二階を覗きに来《き》たが、後から/\用ができて忙《いそが》しさうにおりたり上つたりしてゐた。彼《かれ》はこんな場合に、自分のお寺《てら》で見る姉を誰よりも懐《なつ》かしく思つた。つい近頃《ちかごろ》まで学校にゐるあひだは、始終《しじふ》出逢《であ》ふ機会のあつた姉ではあつたが、来るもの/\僧侶《そうりよ》や村の人たちばかりの山の伽藍《がらん》に彼女を迎へたことが、殊《こと》にも悲哀《ひあい》な嬉しさであつた。
「せめて今夜《こんや》だけでもお泊《とま》りね。」
彼はさう言《い》つて、姉に勧《すゝ》めた。
「さうね。荷物《にもつ》をYさんのとこに、そつくり置《お》いて来たし、帰りにまた寄《よ》るつもりで出たのですからね。どんなにあの人たちが喜《よろこ》んでくれたか知れないんですよ。」妻は悩しげに言つたが、一|夜《や》をこゝに過したくも思《おも》つた。弟のために逢《あ》つておかなければならぬ人もあつた。
「荷物《にもつ》は己の方から、取《と》りにやればいゝ。いくらも人手《ひとで》があるで。」
「ぢや、Yさんに其《そ》の訳《わけ》を話して、さうしませうかね。」
そして然《さ》う決ると、彼女の気分がまた一|層《そう》安易《あんい》になつて来た。
つい三|週間《しうかん》ほど前、中国から京阪《けいはん》、伊勢、名古屋などをまはつて、しばらく東京《とうきやう》に滞在《たいざい》して、一緒に芝居《しばゐ》などを見てあるいた、妻《つま》の従兄のM氏も、間《ま》もなくやつて来た。
「この山《やま》へ、子供をつれて来《き》て放《はな》しておけばいゝ。」
彼は山がゝりの広庭《ひろには》を見下しながら言《い》つた。
「そして貴君《あなた》はあの山のお亭に立籠《たちこも》つて書いてゐれば、いくらでも仕事《しごと》ができるぢやないか。」
「ほんとに然《さう》ですね。」妻もうつとりとした、目《め》をして庭を眺めてゐた。
「崖や水が危い。」私《わたし》は大きな石のごろ/\してゐる、滝《たき》のあたりを見《み》ながら呟いた。
「去年の仮葬《かさう》のとき、此処がいゝなんて言《い》つて、あの山の離房《はなれ》へ陣取つて、酒《さけ》を飲《の》んでゐるうちに、ぐで/\に酔つて転《ころ》がりおちて、水へはまつたものがあつたからね。」若《わか》い方丈はそんな話《はなし》をして笑つた。
「あの時も酒《さけ》が五石………今度《こんど》は一般の人には四|合壜《がふびん》で渡したで、それほどでもないが、でも昨日《きのふ》は千二百といふ人数《にんず》だでお赤飯の折詰を前晩《まへばん》に拵へるので、皆なへと/\になつてしまつた。本膳《ほんぜん》をすゑるやうなお客は、さう沢山《たくさん》はないでね。」
やがて上堂式《じやうたうしき》の時間が来ると、若い方丈《はうぢやう》は緋の法衣に着替《きか》へるために、下へおりて行つた。私たちは今度《こんど》檀徒《だんと》の某が寄越したと云ふ其の法衣を着て、某《なにがし》の母堂から贈られた朱塗《しゆぬり》の駕籠で山間まで乗込《のりこ》むことになつてゐる彼の列《れつ》を観《み》るために、急いで玄関口《げんくわんぐち》へ出て行つた。
堂の内外、山の上下《うへした》に、人の群が一|層《そう》殖《ふ》えてゐた。出迎への僧侶《そうりよ》と三十人余りの檀徒総代《だんとそうだい》とが本堂から出向いて行つてから、山門《さんもん》の外で駕籠を乗棄てる、隆《たか》い帽子を冠つて払子《ほつす》をもつた彼の丈の高《たか》い姿が両側に堵を築いた人群《ひとむれ》のあいだを縫《ぬ》つて、長い途を静《しづ》かに本堂の方へ前《すゝ》んで来た。新《あたら》しい方丈さまに対する讚美の私語《さゝやき》が、私たちの周囲《しうゐ》の其処此処にひそ/\聞《きこ》えた。老杉や古檜の生茂《おひしげ》つた山を背景《はいけい》にしての其等の物々《もの/\》しい晋山式の光景が、何となく遠《とほ》い昔しの絵巻物じみて見《み》えたと同時に、現代《げんだい》の空気にそぐはないやうな、舞台《ぶたい》めいた古い宗教《しうけう》の東洋風の儀式が、私に異様《いやう》の感《かん》じを与へた。
雷鳴《らいめい》のやうな太鼓の音が堂《だう》に顫《ふる》えてゐるあひだ、上つて行つた、若い方丈《はうぢやう》が打扮《いでたち》をかへて壇上に立つて、一場の演説《えんぜつ》を試むるまでには、可也《かなり》の時間《じかん》と、芝居の台辞《せりふ》めいた応答《おうたふ》の多くの辞が費《つひや》された。壇上に立つた彼の前に、やがて多くの僧徒《そうと》が、法問を試みるべく前《すゝ》んだ。開堂式と貼出《はりだ》された広い本堂は、それらの僧徒《そうと》と、色々の法衣《はうい》や袈裟をつけた僧侶たちが充《み》ちあふれてゐた。一人々々|前《すゝ》んだ若《わか》い僧徒たちのうへに、新《あたら》しい方丈の手から、警策《けいさく》がはげしく打揮はれた。警策がその度《たんび》に折《を》れては取替へられた。
式《しき》が滞りなく終《をは》つたのを見て、私たちは又た二階へ上つて来た。
「やあ汗《あせ》びつしより」などゝ、彼は重《おも》い法衣の袖をかゝげながら私たちの傍《そば》へやつて来《き》た。そして急《いそ》いで袈裟《けさ》や法衣《ころも》を脱《ぬ》ぎすてた。
広い門内で、荼毘式《だびしき》の準備ができるまで、私たちは打寛《うちくつろ》いで、雑談に耽つた。今度《こんど》の式《しき》に、総ての監視をするために、多勢の弟子《でし》をつれて来てゐる伊豆《いづ》の或寺の方丈が、そこへ請《しやう》ぜられて、
しばらく私たちと話を交《まじ》へてゐた。
やがて続いて行はれた荘厳《さうごん》な荼毘式が終りを告《つ》げたのは、もう四|時過《じすぎ》であつた。二階の引請寮に集つた私たちは、やがて若い一人の僧徒《そうと》のお給仕で酒を飲《の》んだり、こて/\並べられた精進料理《しやうじんれうり》を食べたりした。
夜に入つてからは、また本堂《ほんだう》で一|時《しきり》行道が行はれ、続《つゞ》いて明朝行はれる長老《ちやうらう》の披露式《ひろうしき》に先《さきだ》つ物静かなお茶の式《しき》があつた。そして方丈の体が、すつかり明《あ》いてから、彼《かれ》はまた姉たちと親しむために、二|階《かい》へあがつて来《き》た。
「方丈さん、瓶茶《びんちや》を一つ………」などゝ、M氏《し》はいつか聴覚《きゝおぼ》えた隠語で、酒を要求《えうきう》したりした。
夜に入つてから、間《ま》もなく私たちの荷物《にもつ》が届いた。
初めて見る湖畔《こはん》の町では、私たちは久振《ひさしぶり》で妻の妹に逢つたり、町《まち》の後《うし》ろにある山へ登つたりした。妹は電話《でんわ》を受けて、二人の子供《こども》をつれて、近くの町から汽車《きしや》で姉に逢ひに来たのであつた。夜汽車《よぎしや》で疲れた体を起して、妻《つま》は懐しい妹を迎へるために、男衆《をとこしゆう》と一緒に停車場まで出て行つた。私はその間に、骨董好きな主人《しゆじん》から幾十種となく集《あつ》められた古い鈴や、彫刻類《てうこくるゐ》などを見せられた。
「やい/\」などゝ、金縁眼鏡《きんぶちめがね》をかけて、奥《おく》に坐りこんでゐる主人《しゆじん》は、時々そんな声《こゑ》をかけて、店を切廻してゐる若い細君《さいくん》を呼んだり、男衆《をとこしゆう》に用を吩附《いひつ》けたりした。
裏の土蔵《どざう》の前に大きな臼が据《す》えられて、男衆《をとこしゆう》や女たちが、餅を搗いた。昨日《きのふ》山《やま》から摘んで来た青い餅草《もちぐさ》が蒸《む》されたりした。
多勢の人たちと一|緒《しよ》に、山で飲食《のみく》ひをしてから、町へ降《お》りて来て湯に入つた頃《ころ》には、私は一時に疲労《ひらう》をおぼえて、日が暮《く》れると間もなく、軟かい天鵞絨《びらうど》の蒲団のうへに横はつて眠つた。花の綻《ほころ》びかけた山には、一|町《ちやう》ばかりの間、明いイルミネーシヨンがついてゐた。
朝は朗《ほがら》かに晴れてゐた。停車場《ていしやぢやう》のプラツトホームから見える附近《ふきん》の山には、春らしい長閑《のどか》な靉靆《あいたい》が棚曳いて、日影《ひかげ》がうら/\と輝いてゐた。私《わたし》たちは間もなくそこへ入つて来《き》た汽車《きしや》に乗つて、一夜の旅に疲《つか》れた人達《ひとたち》の間へ割込んだ。
「あの辺がお×さんの家《うち》ですよ」などゝ、妻《つま》は工場の白壁の多い殷賑《いんしん》な次の駅へ来たとき、窓《まど》の外を眺めながら言《い》つたが、彼女の逢《あ》つて行きたいやうな人《ひと》は、そこにも此処にもあつた。
汽車が彼女《かのぢよ》の産れ故郷のO駅を通過《つうくわ》したのは、それから間もなくであつた。白壁《しろかべ》の土蔵や、生糸工場や、村から出た横浜《よこはま》の或る富豪《ふがう》が建てたといふ三階造の病院《びやうゐん》などが、懐かしく彼女の目に映《うつ》つた。不治の病を抱いて、村へ引込《ひきこ》んで行つてから、暫《しば》らく其処に院長をしてゐて、この春《はる》到頭《たうとう》死《し》んでしまつた身内の若い医学士のことなども想出された。彼女の産《うま》れた村の南部《なんぶ》が廃頽《はいたい》したかはりに、著しく北部へ向つて発展《はつてん》して来たことも、目《め》についた。
「あゝ」と、彼女は思出《おもひで》の深さうな溜息《ためいき》をついて、窓から首を引込《ひつこ》めたが、それと同時《どうじ》に同じ式に臨《のぞ》むために、乗込《のりこ》んで来た親類の人の姿が、三四|人《にん》、目《め》についた。
寺のあるS駅《えき》で、私たちは其人たちと顔《かほ》を合して、あわたゞしい思《おも》ひで、互に久闊を叙《の》べた。久振で彼等の領域《りやうゐき》へ入つて来ながら、どこへも立寄《たちよ》ることのできない事情を断《ことは》つてから、私たちは車《くるま》で石高な道を、寺の方へと急《いそ》いだ。五日間授戒のためにH禅師《ぜんじ》が駕籠で乗込んで来たときの話《はなし》などを、車夫《しやふ》から聴《きか》されながら、私たちはやがて町《まち》へ入つて行つた。そして其町から田圃《たんぼ》なかへ出ると、山蔭《やまかげ》の寺の大きな棟《むね》や、それを取囲んだ白壁《しらかべ》の蔵《くら》や、幾箇もの建物が、直《す》ぐ目についた。雪《ゆき》が消《き》えても間もないほどのまだ春浅い高原地《かうげんち》の畑地には、麦が所々に漸《やうや》く青い色を見せてゐたり、梅の花が咲《さ》いてゐたりした。
車はやがて、鉄道線路《てつだうせんろ》の小いアーチ型のトンネルを潜《くぐ》つて、お寺の門前《もんぜん》へ引込まれた。そこには多勢《たぜい》の人が、人夫《にんぷ》を指図して、今日の上堂式《じやうたうしき》の後に執行されることになつてゐる、先住《せんぢう》の荼毘式の式場を示すための、大きな位牌形《ゐはいがた》の建札《たてふだ》が、杉の葉で飾《かざ》られつゝあつた。私たちは其処で車を降《お》りて、広い門内《もんない》へ入つて行つた。正面に見《め》える大きな本堂や広い庫裏《くり》や、門のうちの広場《ひろば》や、左手の山の木蔭《こかげ》、右手の裏の方にある幾箇《いくつ》かの建物のあたりには、今日《けふ》の式を観るために、近郷《きんがう》から集《あつま》つて来た人たちが、もう其処にもここにも一|杯《ぱい》になつてゐた。折詰《をりづめ》などを積みあげて、幾箇《いくつ》もの机をならべた受附口《うけつけぐち》へ入つて入つた私《わたし》たちが、そこにまごついてゐる姿を見《み》つけて、いつか東京で逢《あ》つたことのある一人の長老《ちやうらう》が、直に奥へ案内《あんない》してくれた。そして僧侶《そうりよ》たちや、今日の賓客の充《み》ち満《み》ちた部屋の幾箇《いくつ》かを通つて、私たちは初めて奥まつた一つの寮《れう》で、頭を青々と剃《そ》つて鼠色の紋緞子《もんどんす》の法衣をつけた彼の異つた姿《すがた》に行逢つた。
彼は机のうへで、各地から来た祝電《しゆくでん》を、朗読《らうどく》に便ならしめるために、発信人《はつしんにん》の姓名を書添《かきそ》へるのに忙しかつたが、私たちの顔《かほ》を見ると、さも懐しげな微笑《びせう》を浮べて会釈《ゑしやく》した。私たちは其等《それら》の準備のために東京《とうきやう》へ出て来たをり逢つたきり、半歳《はんとし》あまり彼を見なかつた。学校《がくかう》を出てから、幾許《いくら》にもならない彼は先住が不意《ふい》に亡つてから、急に法燈《はうとう》を嗣ぐことになつて、こゝへ引込んだのであつたが、近頃《ちかごろ》はまた寺格を進めたり、式の準備《じゆんび》についての仕事が忙《いそが》しかつたり、江湖会が初まつて、H禅師《ぜんし》が滞在《たいざい》してゐたあひだは、殊《こと》に事務が繁多であつた。学校《がくかう》を出たての青年僧侶《せいねんそうりよ》としては、それらの仕事《しごと》に、希《めづら》しいほどの思慮と手腕《しゆわん》とを彼はもつてゐた。
「兄さんは左《と》に右《かく》、姉《ねえ》さんは如何《どう》かと思つてゐましたに、よく来《こ》られましたね。」
妻は屏風《びやうぶ》ぎわに寄つて、ぼんやりしてゐたが、嬉《うれ》しいやうな悲しいやうな思《おも》ひか胸に塞《ふさが》つたとみえて目が涙に曇《うる》んでゐた。
「さぞ疲《つか》れることでせうね。」彼女は、そんな話《はなし》をしてゐる間にも、祝《いは》いに来てくれる人に接《せつ》したり、何かの指図をするに忙《いそが》しい弟の様子を見《み》ながら言つた。
「え、この間《あひだ》は寝ない晩が、幾晩《いくばん》もあつたりして、随分《ずゐぶん》忙《いそが》しい思ひをしました。でも禅師《ぜんし》が帰られたで今日の式《しき》さへすめば、百|箇日《かにち》引籠《ひきこも》るだけで………。」
彼はさう言ひながら、また筆を執つた。
「もう熟々《つく/″\》お経を読むのに飽《あ》きてしまつてね。でも、不思議《ふしぎ》と体は続くものさ。」
私たちのために存《こしら》へてくれた二階の別室《べつしつ》へ、案内されて、そこでのう/\した気持《きもち》で、膝《ひざ》を暢《のば》すことのできたのは、それから大分《だいぶ》たつてからであつた。山を背景《はいけい》に取つた広《ひろ》い庭が、そこから一|目《め》に見わたされた。
「風呂が湧《わ》いてゐますが、兄さんも姉《ねえ》さんも一|風呂《ふろ》お入りになりませんか。」
姉夫婦の気分《きぶん》を落着かせやうとして、若《わか》い方丈―弟―はさう言《い》つて、七声 引請寮などと貼札《はりふだ》のしてある二|階《かい》へ顔を出した。私は下の寮で羽織袴《はをりはかま》をとつて、廊縁づたひに湯殿《ゆどの》へ入つて行つた。妻《つま》は今朝湖畔の町を出るとき締《し》めて来た帯を釈《と》いたり、頸の白粉《おしろい》をつけ直したりしなければならないので、私のために湯の加減《かげん》を見に来たゞけで、風呂《ふろ》へは入らなかつた。
「いゝお湯殿だこと。」彼女《かのぢよ》はさう言つて、裾《すそ》を※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-3]《から》げながら、すぐ其の広い廊縁《らうえん》から酌取《くみと》れるやうになつてゐる山清水《やましみづ》をバケツに汲んで、一二|杯《はい》うめてくれた。※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-5]げた彼女の礼服《れいふく》の下からは、今日《こんにち》の式に詣るために、わざと亡つた愛児《あいじ》の小袖をほどいて作つた、紫友禅《むらさきいうぜん》の長襦袢が垂れてゐた。それは彼女《かのぢよ》の帯祝ひのとき作つたものであつた。
黒《くろ》い法衣の袖をからげた若い僧徒《そうと》が一人、そこへやつて来た。そして又《また》五六杯の水を汲足《くみた》してくれた。
「どうも済《す》みません」などゝ、妻はその温順《おとな》しやかな青年《せいねん》に言つた。
「あの人は何だか見覚《みおぼ》えのある人だと思《おも》つたら、いつか弟を送《おく》つて停車場で逢つた、弟のお友達《ともだち》ですよ。」
そして今度《こんど》の式に助《すけ》をするために、やつて来《き》てくれた若い学校出の僧徒《そうと》が、他にも沢山《たくさん》あつた。
風呂《ふろ》からあがつて、せい/\した気持《きもち》で、私が二階へあがつて来《き》た頃には、既《すで》にそこへ案内《あんない》された親戚の人達が四五人、昼《ひる》のお膳についてゐた。若《わか》い方丈《はうじよう》は、懐かしさうに時々《とき/″\》二階を覗きに来《き》たが、後から/\用ができて忙《いそが》しさうにおりたり上つたりしてゐた。彼《かれ》はこんな場合に、自分のお寺《てら》で見る姉を誰よりも懐《なつ》かしく思つた。つい近頃《ちかごろ》まで学校にゐるあひだは、始終《しじふ》出逢《であ》ふ機会のあつた姉ではあつたが、来るもの/\僧侶《そうりよ》や村の人たちばかりの山の伽藍《がらん》に彼女を迎へたことが、殊《こと》にも悲哀《ひあい》な嬉しさであつた。
「せめて今夜《こんや》だけでもお泊《とま》りね。」
彼はさう言《い》つて、姉に勧《すゝ》めた。
「さうね。荷物《にもつ》をYさんのとこに、そつくり置《お》いて来たし、帰りにまた寄《よ》るつもりで出たのですからね。どんなにあの人たちが喜《よろこ》んでくれたか知れないんですよ。」妻は悩しげに言つたが、一|夜《や》をこゝに過したくも思《おも》つた。弟のために逢《あ》つておかなければならぬ人もあつた。
「荷物《にもつ》は己の方から、取《と》りにやればいゝ。いくらも人手《ひとで》があるで。」
「ぢや、Yさんに其《そ》の訳《わけ》を話して、さうしませうかね。」
そして然《さ》う決ると、彼女の気分がまた一|層《そう》安易《あんい》になつて来た。
つい三|週間《しうかん》ほど前、中国から京阪《けいはん》、伊勢、名古屋などをまはつて、しばらく東京《とうきやう》に滞在《たいざい》して、一緒に芝居《しばゐ》などを見てあるいた、妻《つま》の従兄のM氏も、間《ま》もなくやつて来た。
「この山《やま》へ、子供をつれて来《き》て放《はな》しておけばいゝ。」
彼は山がゝりの広庭《ひろには》を見下しながら言《い》つた。
「そして貴君《あなた》はあの山のお亭に立籠《たちこも》つて書いてゐれば、いくらでも仕事《しごと》ができるぢやないか。」
「ほんとに然《さう》ですね。」妻もうつとりとした、目《め》をして庭を眺めてゐた。
「崖や水が危い。」私《わたし》は大きな石のごろ/\してゐる、滝《たき》のあたりを見《み》ながら呟いた。
「去年の仮葬《かさう》のとき、此処がいゝなんて言《い》つて、あの山の離房《はなれ》へ陣取つて、酒《さけ》を飲《の》んでゐるうちに、ぐで/\に酔つて転《ころ》がりおちて、水へはまつたものがあつたからね。」若《わか》い方丈はそんな話《はなし》をして笑つた。
「あの時も酒《さけ》が五石………今度《こんど》は一般の人には四|合壜《がふびん》で渡したで、それほどでもないが、でも昨日《きのふ》は千二百といふ人数《にんず》だでお赤飯の折詰を前晩《まへばん》に拵へるので、皆なへと/\になつてしまつた。本膳《ほんぜん》をすゑるやうなお客は、さう沢山《たくさん》はないでね。」
やがて上堂式《じやうたうしき》の時間が来ると、若い方丈《はうぢやう》は緋の法衣に着替《きか》へるために、下へおりて行つた。私たちは今度《こんど》檀徒《だんと》の某が寄越したと云ふ其の法衣を着て、某《なにがし》の母堂から贈られた朱塗《しゆぬり》の駕籠で山間まで乗込《のりこ》むことになつてゐる彼の列《れつ》を観《み》るために、急いで玄関口《げんくわんぐち》へ出て行つた。
堂の内外、山の上下《うへした》に、人の群が一|層《そう》殖《ふ》えてゐた。出迎への僧侶《そうりよ》と三十人余りの檀徒総代《だんとそうだい》とが本堂から出向いて行つてから、山門《さんもん》の外で駕籠を乗棄てる、隆《たか》い帽子を冠つて払子《ほつす》をもつた彼の丈の高《たか》い姿が両側に堵を築いた人群《ひとむれ》のあいだを縫《ぬ》つて、長い途を静《しづ》かに本堂の方へ前《すゝ》んで来た。新《あたら》しい方丈さまに対する讚美の私語《さゝやき》が、私たちの周囲《しうゐ》の其処此処にひそ/\聞《きこ》えた。老杉や古檜の生茂《おひしげ》つた山を背景《はいけい》にしての其等の物々《もの/\》しい晋山式の光景が、何となく遠《とほ》い昔しの絵巻物じみて見《み》えたと同時に、現代《げんだい》の空気にそぐはないやうな、舞台《ぶたい》めいた古い宗教《しうけう》の東洋風の儀式が、私に異様《いやう》の感《かん》じを与へた。
雷鳴《らいめい》のやうな太鼓の音が堂《だう》に顫《ふる》えてゐるあひだ、上つて行つた、若い方丈《はうぢやう》が打扮《いでたち》をかへて壇上に立つて、一場の演説《えんぜつ》を試むるまでには、可也《かなり》の時間《じかん》と、芝居の台辞《せりふ》めいた応答《おうたふ》の多くの辞が費《つひや》された。壇上に立つた彼の前に、やがて多くの僧徒《そうと》が、法問を試みるべく前《すゝ》んだ。開堂式と貼出《はりだ》された広い本堂は、それらの僧徒《そうと》と、色々の法衣《はうい》や袈裟をつけた僧侶たちが充《み》ちあふれてゐた。一人々々|前《すゝ》んだ若《わか》い僧徒たちのうへに、新《あたら》しい方丈の手から、警策《けいさく》がはげしく打揮はれた。警策がその度《たんび》に折《を》れては取替へられた。
式《しき》が滞りなく終《をは》つたのを見て、私たちは又た二階へ上つて来た。
「やあ汗《あせ》びつしより」などゝ、彼は重《おも》い法衣の袖をかゝげながら私たちの傍《そば》へやつて来《き》た。そして急《いそ》いで袈裟《けさ》や法衣《ころも》を脱《ぬ》ぎすてた。
広い門内で、荼毘式《だびしき》の準備ができるまで、私たちは打寛《うちくつろ》いで、雑談に耽つた。今度《こんど》の式《しき》に、総ての監視をするために、多勢の弟子《でし》をつれて来てゐる伊豆《いづ》の或寺の方丈が、そこへ請《しやう》ぜられて、
しばらく私たちと話を交《まじ》へてゐた。
やがて続いて行はれた荘厳《さうごん》な荼毘式が終りを告《つ》げたのは、もう四|時過《じすぎ》であつた。二階の引請寮に集つた私たちは、やがて若い一人の僧徒《そうと》のお給仕で酒を飲《の》んだり、こて/\並べられた精進料理《しやうじんれうり》を食べたりした。
夜に入つてからは、また本堂《ほんだう》で一|時《しきり》行道が行はれ、続《つゞ》いて明朝行はれる長老《ちやうらう》の披露式《ひろうしき》に先《さきだ》つ物静かなお茶の式《しき》があつた。そして方丈の体が、すつかり明《あ》いてから、彼《かれ》はまた姉たちと親しむために、二|階《かい》へあがつて来《き》た。
「方丈さん、瓶茶《びんちや》を一つ………」などゝ、M氏《し》はいつか聴覚《きゝおぼ》えた隠語で、酒を要求《えうきう》したりした。
夜に入つてから、間《ま》もなく私たちの荷物《にもつ》が届いた。
翌日は、お寺は割合《わりあひ》に静であつたが、でも寮ごとに飲食《いんしよく》をしてゐる僧俗が、そこにも此処《こゝ》にも見られた。
私たちはこの式の裏面《りめん》に潜んでゐる多くの人たちの心理《しんり》を、若い方丈の話から想像《さうざう》することができたが、若い方丈《はうじやう》の人望は、総てそれらの嫉視《しつし》や阻害から切脱けるに十|分《ぶん》であつた。彼は総ての仕事《しごと》を同窓の若い人たちと頒《わか》つた。
一足先きに、こゝから二つ目の駅《えき》になるM町《まち》へ帰つて行つたM氏《し》に続いて、車の来るのを待《ま》つて私たちが伊豆の方丈や総代《そうだい》の主なる人に別を告《つ》げて、そこを出たのは、もうお昼近《ひるちか》くであつた。
名古屋から乗換場《のりかへば》になつてゐる其処の停車場《ていしやぢやう》は、可恐《おそろ》しいほど混雑した。善光寺《ぜんくわうじ》の開張に詣でる善男善女が、圧《お》しあひへし合ひしてゐた。
私たちの傍には、九|州《しう》から四国をまはつて来た青森《あをもり》の人などもあつた。M駅で下車《げしや》するまで、私はその老人夫婦から、長旅《ながたび》の話を聞された。船や汽車や、騒々しい宿屋《やどや》で、彼はすつかり苦しい旅《たび》に飽《あ》き果てゝゐた。彼《かれ》は話の相手《あひて》に渇えきつてゐた。
M町《まち》の駅では、M氏がそこから一里《り》ばかりの道程にある山の温泉《おんせん》で一日一緒に遊ぶために、自働車《じどうしや》を用意《ようい》して、私たちの着《つ》くのを待つてゐてくれた。[#地付き](大正7年5月「黒潮」)
私たちはこの式の裏面《りめん》に潜んでゐる多くの人たちの心理《しんり》を、若い方丈の話から想像《さうざう》することができたが、若い方丈《はうじやう》の人望は、総てそれらの嫉視《しつし》や阻害から切脱けるに十|分《ぶん》であつた。彼は総ての仕事《しごと》を同窓の若い人たちと頒《わか》つた。
一足先きに、こゝから二つ目の駅《えき》になるM町《まち》へ帰つて行つたM氏《し》に続いて、車の来るのを待《ま》つて私たちが伊豆の方丈や総代《そうだい》の主なる人に別を告《つ》げて、そこを出たのは、もうお昼近《ひるちか》くであつた。
名古屋から乗換場《のりかへば》になつてゐる其処の停車場《ていしやぢやう》は、可恐《おそろ》しいほど混雑した。善光寺《ぜんくわうじ》の開張に詣でる善男善女が、圧《お》しあひへし合ひしてゐた。
私たちの傍には、九|州《しう》から四国をまはつて来た青森《あをもり》の人などもあつた。M駅で下車《げしや》するまで、私はその老人夫婦から、長旅《ながたび》の話を聞された。船や汽車や、騒々しい宿屋《やどや》で、彼はすつかり苦しい旅《たび》に飽《あ》き果てゝゐた。彼《かれ》は話の相手《あひて》に渇えきつてゐた。
M町《まち》の駅では、M氏がそこから一里《り》ばかりの道程にある山の温泉《おんせん》で一日一緒に遊ぶために、自働車《じどうしや》を用意《ようい》して、私たちの着《つ》くのを待つてゐてくれた。[#地付き](大正7年5月「黒潮」)
底本:「徳田秋聲全集第12巻」八木書店
2000(平成12)年5月18日初版発行
底本の親本:「黒潮」
1918(大正7)年5月
初出:「黒潮」
1918(大正7)年5月
※以下2個の外字は底本では同じ文字です。※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-3]、※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-5]
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2000(平成12)年5月18日初版発行
底本の親本:「黒潮」
1918(大正7)年5月
初出:「黒潮」
1918(大正7)年5月
※以下2個の外字は底本では同じ文字です。※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-3]、※[#「塞」の「土」に代えて「足」、72-下-5]
入力:特定非営利活動法人はるかぜ