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壱両千両
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壱両千両
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)貴方《あなた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)足|許《もと》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
「相談にも色いろある、が、拙者は、杉田さんを深く信じ、杉田さんのためを思ってですね、――すか、ここをよく聞いて下さいよ、貴方《あなた》の将来ということを思ってですね、底を割ってこの御相談をする訳です、すか――」
池野源十郎は酒肥りのてらてら光る顔を撫《な》でながら、相変らず無駄の多いことを仔細《しさい》らしく云う。すか[#「すか」に傍点]というのは彼の口癖で、「いいですか」のつづまったものだ。千之助はもう飽きている、べつに短気な性分ではないが、源十先生と話しているとすぐに退屈してくるからふしぎだ。
「貴方もご存じのとおり、こう世の中がめちゃくちゃになっては、二十人やそこらの門人の月謝ではとても門戸を構えてやってはまいれない、すか、掛値のないところかような時勢にはこっちも思案を変えなければならぬ、さもないとそれこそ裃《かみしも》をきて飢死ということにまかり成る、そうでしょうがな杉田さん」
「それでどうしようというんですか」
「門人に教える腕を別の方面に活かして使おうというわけです、我々にはぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売や買占をする資本も才覚もない、正直のところですね、すか、――ところが世間にはそういう大きな稼《かせ》ぎをする連中がいて、これはまた我われの腕を欲しがっている、もちろん多少の危険は伴うが、それに準じて謝礼も纏《まと》まっている訳です」
「詰りぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売の用心棒ですね」
「要約して云えば虚名を棄てて実をとる訳です、そこでもし杉田さんが腕を貸して呉《く》れればですね、すか、嘘のないところ礼金は七分三分ということにしてもいい、まあお聞きなさい、さし当りいま頼まれているのはさる大藩の重役だそうで、仕事も相当おお掛りなものらしい、なにしろ、今日明日という急な依頼なんでな、掛値のないところこの一つでも」
「折角ですが私の柄ではないようです」こう云って千之助はそこにある金包を取った、「では是れは頂いてまいりますから」
「まあお待ちなさい杉田さん、も、もし礼金の割がその、不足ならですね、すか」源十郎は狼狽《ろうばい》して立って来る、「正直なところその、四分六、いや貴方のことだから五分五分ということにしてもいいと思うんだが」
源十郎は玄関までついて来ながら、諄《くど》くどみれんがましいことを並べたてる。
だが千之助はもう返辞もせずにさっさと外へ出てしまった。……とうとうおれも足|許《もと》に火がついてしまった。埃立った道の上の白じらと明るい午後の日ざしを見ると、千之助はふと眉をひそめながら溜息《ためいき》をついた。
彼は自分の不運を世間や他人のせいにするほど楽天家ではなかったが、それにしても不徳と無恥に汚れた厭《いや》な時代だった。
杉田の家は出羽のくに庄内の家臣で、千之助は勘定方に勤めていたが、役所の内部の頽廃《たいはい》不正についてゆけないため、奉行の渡辺仁右衛門と衝突して退身した。退身しなかったら闇討ちにされたかも知れない。
――江戸へ来て三年、食い詰めて池野道場の師範代に雇われた。日本橋の槇町にあるその道場は、「念流指南」と看板を掲げているが主の源十郎は竹刀《しない》を持ったことがない、稽古は千之助にすっかり任せ、自分は刀剣売買の仲次ぎのような事に奔走していた。
だが門人は三十人足らずだから充分それで間に合ったが、それに準じて彼の受ける月謝も二分二朱というつつましいものであった……。
然しともかく一年半ばかりはそれで暮したうえ、相長屋の貧しい人たちにも時に僅かながら援助ができたのである、それが遂に道場閉鎖ということにたち到ったのだ。一昨年から不作凶作が続いて、今年はもう春さきから市中に施粥《せがゆ》のお救い小屋が出た、むろん恐るべき諸式高値で、池野念流先生も刀剣売買の鞘《さや》取りぐらいでは好きな酒が飲めなくなったとみえる。
「さる大藩の老職の依頼、――大掛りなぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売、……不正な仕事の用心棒か、ふむ」
千之助は眉をしかめる、庄内の勘定奉行の老獪《ろうかい》な顔が眼にうかぶ。
「あの連中も今ごろはそんな事をやっているんだろう、汚吏|奸商《かんしょう》、上に立つ者ほど悪徳無良心なのはふしぎだ」
弾正橋を渡ると、「お救い小屋」があった。まわりには、もう夕方の施粥を待つ人たちが、河岸に沿って哀しい列を作っている。老人も女房も子供も、欠け丼《どんぶり》や鍋《なべ》などを持って、肩をすくめ頭を垂れ、罪でも犯した者かなんぞのように悄然《しょうぜん》と並んでいる。千之助はそっぽを向いた。慣れた景色ではあるが見ればやっぱり胸が痛い、まして今日は我が身の上だ、いっそうこたえたとみえて足早に通り過ぎると、――向うから来た娘に呼びかけられた。
「あら、今日はもうお帰りですか先生」
小柄ではあるが胴より脚の長い、俗に小股《こまた》の切れ上ったという躯《からだ》つきで、浅黒い細おもての眼鼻だちが、利巧できかぬ気性を彫りつけたようにみえる。年はもう厄の十九、名はおよね[#「およね」に傍点]という、同じ路地内に住む娘だった。
「ああもうお帰りだ、そっちは遅いじゃないか」
「お医者さんが来ていたもんですから、――ごめんなさいまし」ゆこうとして振返った、「富さんが道場へいきゃあしませんでしたか」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「いや来なかったね、富兵衛どうかしたのか」
「おめにかかるんだって、ばかに急いでましたけれど、ではお宅かも知れませんわ」
「あいつはいつも急いでる、――まあいっておいで」
八丁堀長沢町に孫兵衛|店《だな》と呼ばれる一画がある。一棟に五軒ずつある長屋が十八棟、五つの路地に庇《ひさし》を並べ接して、百幾十かの世帯がごたごたと暮している。北の端の路地を入った奥の棟の三軒めが、杉田千之助の住居だった。
――此処《ここ》でもお救い小屋へでかけた者が多いのだろう、泥溝板《どぶいた》の上に傾いた日の光りが明るく、遊んでいる子供たちも数は少ない。千之助は自分の住居を通り越して、五軒めの端にある鋳掛屋《いかけや》の又吉の戸口を訪れた。
「お兼さんいるか、――お兼さん」
声をひそめて呼ぶと、赤児に添乳でもしていたのだろう、「はい」と低く答えて、顔色の冴《さ》えない女房が衿《えり》を掻《か》き合せながら出て来た。
「まあ先生ですか、お声が違ったから誰方《どなた》かと思いました、こんないい恰好でごめんなさいまし」
「今朝はなしたものだ、足しにもなるまいが」千之助は懐中から、包んだ物を出してそこへ置いた、「なんとか出来たらまたするから――」
お兼はまあと云って顔を伏せた、言葉が出ないのだろう。千之助はてれ[#「てれ」に傍点]たように急いで自分の住居へ帰った。――ところが、あがって刀を置くなりとびこんで来た若者があった。双子縞の思いきって身幅の狭い着物に平絎《ひらぐけ》を締めて、いっぱししょうばい人を気取った恰好だが眼尻の下った獅子鼻《ししばな》の好人物らしい顔をみると、折角の装《つく》りがまるで帳消しになっている。建具職で名は富三、向う長屋の端に住んでいるが、家はいつも閉めっ放し、仕事もそっちのけで下手な賭《か》け事に夜も日もない男だ。
「お帰んなさいまし、早うござんしたね」
「あいそがいいな、どうしたんだ」
こう云いながら千之助は台所へゆき、水甕《みずがめ》から半※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《はんぞう》へ水を取って双肌をぬぐ。
「こもってるじゃありませんか、ちょいと明けましょう、まるで梅雨でも来るみてえに蒸していけねえ、明けますよ先生」
富三は部屋をぬけて裏戸を明ける。庇間《ひあわい》三尺で向う長屋の裏口が見える、簾《すだれ》を下ろすと軒に吊《つ》った風鈴に当ってちりちりと鳴った。――千之助は肌を入れ濡れ手拭で鬢《びん》のあたりを拭きながら出て来る。
「お願えがあるんですがね、先生」富三は揃《そろ》えて座った膝《ひざ》の上へまじめに両手を突張る、「あっしゃこんどこそ身を固めます、ぐれた暮しにゃあ自分ながらあいそが尽きました」
「強請《ゆすり》がましいこと云うな、吃驚《びっくり》する」
「冗談ごとじゃあねえんです、本気ですぜ先生」
「なお吃驚だ」千之助は火鉢の火を掻き起こして炭をつぐ、「用というのはそのことか」
「先生は小言を仰《おっ》しゃらねえ、ずいぶん迷惑をお掛け申しているが、苦い顔いちどなすったことがねえ、けれども小言てえものは云われねえほうがこたえるもんだ、ほんとですぜ、で、さっぱりと、こんどこそ足を洗います、それに就いてお願えがあるんだ、――もう一遍だけ、ひとつ黙って一分、貸しておんなさい」
「そうくるだろうと思った、富兵衛が座ればいうことは定《きま》っている」
「暮六つまでにどうしても要るんです、嬶《かかあ》があれば嬶を質に置いて作らなくちゃあならねえ、ぎりぎり結着待ったなしなんですから」
「このまえはお袋を質に置くといったぜ」千之助は台所から米のしかけてある土鍋を持って来て火鉢へ掛ける、「いっそおまえ、自分を質に入れたらどうだ」
「もう本当にこれっきり、これで帳尻を締めます、なにしろ鶴の百三十五番、一三五のかぶ[#「かぶ」に傍点]で、富の字の三つ重ねという縁起ぞろい、当ること疑いなしってえ札なんですから」
「なんだと思ったら、また富くじ[#「くじ」に傍点]か」
「五年ぶりの千両富、富岡八幡の興行なんで、鶴の百三十五番てえのをでん[#「でん」に傍点]助が持って来たんですよ、富岡の富に富くじ[#「くじ」に傍点]の富、それにあっしの名前と富の字の三つ重ね、番号がちょうどかぶ[#「かぶ」に傍点]とくるんですから、こいつを買わなきゃあ生涯の恨みだ」
「こっちは今の恨みだ」千之助は言われたものを、そこへ出す、「然しこれでよせよ」
「やっぱり先生だ、かっちけねえ、このとおりです、当ったらあっしは百両、残りはそっくり先生に差上げますからね」
「先に礼を云っておこうか、障子を閉めていって呉れ」
富三は横っとびに出ていった。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
かたちばかりの夕餉《ゆうげ》の膳ごしらえをして、座るとたんに台所を明ける者があった。
「ね先生もう飯はお済みですか」と云う。
隣りにいる魚屋の熊五郎だ。
こっちから返事をするより先に、その隣りの台所が明いて、「おまえさんお帰りかえ、遅かったねえ」という声がする、これは女房のとら[#「とら」に傍点]だ、洒落《しゃれ》でも誹謗《ひぼう》でもない、本当に亭主は熊五郎で女房はとら[#「とら」に傍点]という名である。
「慌てるな、べらぼうめ、おらあ先生に物う申してるんだ、まだ家へ帰ったんじゃあねえ、すっこんでろ、――先生もうお済みですか」
「いま始めるところだが」千之助は台所へ立ってゆく、「――なんだ」
「それじゃあちょいと待って呉んねえ、めじ[#「めじ」に傍点]の良いのがあるから刺身にしてあげようと思ってね、少し許《ばか》り残して持って来たんだ、なあに礼を言われる程ありゃしねえ、ほんの猫のひてえ[#「ひてえ」に傍点]だ、お手数だが皿あ一枚たのみますや」
「せっかく貰っても芋粥《いもがゆ》じゃあ刺身が泣くな」
「なあに床上げの御膳と思やあ、御祝儀の内だ」
手早く作って熊五郎は「へえお待ち遠」と戸を閉めてゆく。千之助は膳へ戻って食事を始めた。――隣りの話し声が例によって筒抜けに聞えて来る。
「此処に手拭となに[#「なに」に傍点]が出してあるからね、おまえさん、ちょっとひと風呂あびて来て下さい」
「篦棒《べらぼう》め、こんなに遅くなって垢《あか》っ臭え湯へへえれるか、それより腹が減って眼が廻りそうなんだ、すぐ飯にして呉れ」
「あら困った、おまえさん、お菜はこれから作るんだけど」
「定ってやがら、一日じゅうとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いてやがって、亭主が腹を減らして帰えるのに、飯の支度も出来ちゃあいねえ、足を洗ってるんだ、雑巾をよこしな」
「あいよおまえさん、それあ、わかってるけど、作りたての温かいところをあげようと思ってさ、おまえさん」
「ごたいそうなことを云やあがって、なにを食わせようってんだ」
「きんぴら[#「きんぴら」に傍点]なのよ、おまえさん」
「おきやがれ、塩鮭の焼いたのやきんぴら[#「きんぴら」に傍点]あ冷たくなってからが美味《うめ》えもんだ、うっちゃっときゃあ舌を焼くようなぬた[#「ぬた」に傍点]でも拵《こしら》え兼ねねえ――着物はこいつか、おい三尺がねえぜ」
「あら、そこへ出しといたよ、おまえさん足もとにないかしら、おまえさん」
「此処にゃあ女の腰紐《こしひも》っきりありゃあしねえ」
「あら厭だ、――まあ厭だおまえさん、ほほほほ、ばかだわあたし、自分のを出しちゃったのよ、おまえさん、あたしどうかしているのね、おまえさん」
「どうするものか、てめえの馬鹿とのろまは生れつきだ」
「あ、ちょっと、おまえさん手拭を貸して、おまえさんのここんとこがまだ濡れてるじゃないの、おまえさん」
「止さねえか擽《くすぐ》ってえ、自分で拭かあ、――ああ忘れてたおとら[#「おとら」に傍点]、盤台の中にへえってるものがあるから出しな、勿体ねえがてめえに持って来てやったんだ」
「あらなんだろうね、おまえさん、――あらあらくさや[#「くさや」に傍点]だわ、これあたしにかえ、おまえさん、勿体ないわよ、おまえさん、こんな高価《たか》いものを、口が曲りゃあしないかねえ、おまえさん」
「その甘ったるい声を止さねえか、夫婦んなって八年も経つのにおまえさんおまえさんって、げえぶん[#「げえぶん」に傍点]が悪い許りか頭ががんがんすらあ、飯あまだか」
「あい、もうすぐよおまえさん、――八年だって十年だっておまえさん、おまえさんはあたしにとってはおまえさんなんだもの、しょうがないじゃないの、おまえさんが悪ければおまえさんの代りにおまえさんをなんと呼んだら」
「ええうるせえ勝手にしろ、おらあみぞおち[#「みぞおち」に傍点]が痒《かゆ》くなってきた」
隣りの会話は、千之助にとっては慰安の一つである、彼はこころ楽しく夕餉を済ませた。然しあとを片付けて、さて行燈《あんどん》の前に座ると、明日からのことがまた胸につかえてくる、――世間はひどい不景気だ、手に職をもちながらお救い小屋で露命をつないでいる者が少なくない。内職などもあることは有るが奪い合で、しぜん手間賃なども話にならない安さである、日雇い人足はもちろん、棒手振《ぼてふ》り行商の類も同業が多くて共食いのかたちだ。こんな中へ、なに一つ芸のない彼がどうまかり出たらいいだろう。
「辻に立って太平記でも読むか」
こう呟《つぶや》いてみてすぐ首を振る。これも殆んど氾濫《はんらん》状態なのだ。太平記読などは享保時代のことで、とっくに寄席講釈へ発展解消していたが、半年ほど前に浅草で浪人者が三河風土記を読み出して以来、あっちにもこっちにも真似る者が現われ、現在ではちょいと繁華な辻にはたいてい立ってやっている――こう考えてくると息が詰りそうになった。
「これは始末にいけない」千之助は堪らなくなって立った、「六兵衛でも見舞ってやろう、あんまり面倒くさければとこの世におさらばだ」
こんなことを呟きながら、脇差だけで外へ出ていったが、向う長屋の端に六兵衛の住居がある。元は飾職をやっていたが、二年まえに痛風で臥《ね》たっきり起きられない、孫娘のおよね[#「およね」に傍点]が大根河岸の「八百梅」という料理茶屋に勤めて、その稼ぎで辛くも生計を立てている。
長吉という伜《せがれ》は、十年ほどまえ、女房に死なれてからぐれだして土地にいられなくなり、上方へ出奔したまま消息がなかった。――声をかけて上ると、六兵衛はまっ暗がりに臥ていた。
「灯をどうしたね、消えてしまったのか」
「点《つ》けなかったんでさ」老人は寝返りをうつ、「油が勿体ねえから、いま点けましょう」
「いやこのままがいい、盲問答も乙なものだ、よね[#「よね」に傍点]坊が医者が来たとか云ってたが、具合でも悪かったのかい」
「なアにあいつが呼んで来たんでさ、店へ来る客に聞いたんでしょう、痛風を治す上手な医者があるってんで、――よせばいいのに、金を捨てるようなものですからね、ろくに触ってみもしねえ、これは骨の病だ、全快はおぼつかないが痛みは止められるってね、詰りは高価い薬の押売りでさ、高価い代りにひとめぐりのめば十分だ……のりと[#「のりと」に傍点]は定ってますよ」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「だが人間てな、いいもんですね、先生」六兵衛は息をついて云う、「四十四五でしょう、その医者、もう白髪まじりで、蜜柑《みかん》の皮みてえな鼻をしてましたっけ、こう容態ぶってから、痛風は骨の病だ、なんてね、――あっしゃあすっかり嬉しくなりましたよ」
千之助は思わず苦笑した、塞《ふさ》がっていた胸が僅かに軽くなる、六兵衛はちょっと寝具合を直し、溜息をついて、また続けた。
「こうして寝ていると、いろんな人間のことを考げえまさ、六十五年、短けえ月日じゃあなかった、それもまことにしがねえ、恥ずかしいような境涯ですがね、生れて来ねえほうがよかったなんて、親を怨んだことも度たびでしたが、――それでも思い返してみると無駄じゃあなかった、生きて来たればこそあいつにも会えた、あの男とは兄弟の約束をした、こいつとは喧嘩《けんか》もしたがよく飲みもした、お互いに苦しい中で心配したりされたり、……考げえるとみんな懐かしい、気にくわねえげじげじだと嫌ったやつにも、やっぱりいいところがあったのを思いだすって訳でさ、――あっしが親方んところを出て、木挽《こびき》町へ初めて飾屋の店をもった時のこってさ、兄貴分に当る男が地金の世話をするってんで、五両ばかり頂けた、あっし共にゃあ、ひと身上です、おまけに八方借りで、店を持った初っぱなの、それこそ血の出るような金でしたが、それを持って逃げられた、……あっしゃあ十日ばかり気違えのようになって捜し歩きましたよ、匕首《あいくち》をのんでね」
老人の調子はまるで楽しい事を回想するかのように和《なご》やかな温かい感じだ、深い溜息をついて、また続ける。
「――だがその男にも事情があったんでさ、ずっと後でわかったんですが、死ぬほど想い合った女があって、それと駆落ちをしたんですね、さもなきゃあ心中するところだったそうです、……五両、匕首、駆落ち、――人間てないいもんです」
一|刻《とき》ほど話して家へ帰ると、千之助はずっと楽な気持になっていた。これまでにも六兵衛から色いろ話を聞いた、みんな有触れた平凡な話題で、おまけにたいていが悲運や貧苦や不遇とからみ合っている、にも拘《かかわ》らずその貧乏や不仕合せのなかに、言いようもない深い味わいがあり、人の世に生きることのしみじみとしたよろこびが感じられる。最も数の多い人たちは、みなそのように生きているのだ。物や金には恵まれない、僅かな蹉跌《さてつ》にも親子兄弟が離散したり、心にもない不義理をしたりする、然しそれでも人は互いに身を寄せ合い、力を貸し合い、励まし合って生きている。「遠い親類より近い他人」とか「渡る世間に鬼はなし」とかいう言葉は、この人たちの涙から生れたものだ。――千之助は老人の話を聞くたびに、素のまま飾らない生き方、本当に人間らしい生き方がわかるように思う。
「あの病人を抱えて、十九のおよね[#「およね」に傍点]でさえ生きてゆく、どうだい先生」千之助は苦笑しながら自分にこう問いかけた、「五躰満足な男が、なにもそうあわてふためくことはないじゃないか」
茶でも淹《い》れようと思っていると、路地を入って来た足音がこの家の前で停り、戸口へどしんと躯をぶつける音がした。振向くと、がらがらと戸が開いて、誰かが土間へ転げこんだ。
「誰だ、――定公か」
こう云ったが返辞がない、いって障子を明けると、くの字なりに躯を折って苦しそうに喘《あえ》いでいる、よく見るとおよね[#「およね」に傍点]である。千之助は肩を持って援《たす》け起こそうとしたが、ひどい酒の匂いをさせて、海月《くらげ》のように力がない、両手を脇の下へ入れて抱きあげるように部屋へ入れた。――戸障子を閉めて戻ると横になったまま、「済みません、少し休ませて下さいまし」と云う、舌がもつれている。千之助は座蒲団を折って頭の下へ入れてやった。
「水をやろうか、苦しいだろう」
「先生そんなこと、罰が当りますよ」
彼は立って、湯呑へ水を汲《く》んで来てやった。およね[#「およね」に傍点]は九分どおり息もつかずに飲み、ちょっと頂いて置くと、また横になって眼をつむった。
「橋のところまで来たら急に酔いが出てきちゃって」そんなことを呟く、「お祖父《じい》さんに心配させるのが厭ですから、少しさめるまで休まして頂こうと思って」
千之助は我知らず眼をそむけた。
「こんな恰好をお見せしては、あいそをつかされるわねえ、先生」暫《しばら》くしておよね[#「およね」に傍点]はこう呟いた、「でもしようがない、もうどっちでもいいんだもの、――夢もおしまい、みんなおしまいになっちゃったんだから、おんなじことだわ」
千之助はそっと振向いた。およね[#「およね」に傍点]は眼をつむっている、つむっているその眼尻から、涙が頬へ糸をひいている。
「――先生」
と呼ぶので答えると、そろっと片方の手を出した。千之助がそれを握ってやると、急に寝返りをうち、男の手のひらへ顔を伏せて泣きだした。俯伏《うつぶ》せになった背中が烈しく波をうち、彼の手はひたひたと涙で濡れた。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「珍しいじゃないか、よね[#「よね」に傍点]坊が泣くなんて」千之助はわざと笑いながら云う、「店でなにかあったんだね、話してごらん、誰かに悪口でも伝われたのかい」
およね[#「およね」に傍点][#「よね」に傍点]は答えなかった、四半刻ばかりも経つと起上って座り、涙を拭きながらこちらを見た。笑おうとするらしい、唇が顫《ふる》えて歪《ゆが》む。
「済みません、すっかり甘えてしまって、お驚きなすったでしょ、先生」
「まごついたことは慥《たし》かだ、少しはさっぱりしたかい」
「もう大丈夫ですわ、おかげさまで」
「じゃ話してごらん」千之助はさりげない眼つきで云った、「いったいなにがどうしたんだ」
「なんでもないんですよ、ただ甘えてみたくなっただけ」およね[#「およね」に傍点]は辛うじて笑う、「先生を吃驚させてあげようと思って、ほほほ、でも本当に泣いちまってはあたしの負けね、さ、おいとましましょう」
「話せないんだね」
こんどの眼つきは厳しかった。
「本当になんでもないんですよ」およね[#「およね」に傍点]は帯を直しながら立つ、「なんにもある訳がないじゃありませんか、あら、まだふらふら、――ごめんなさいましね、先生」
腑《ふ》におちないものがあった。普通のようすではない、幾ら勤めが勤めとはいえ、酔うほど飲むというのもおかしいし、もらした言葉にも隠れた意味がありそうだ。――寝苦しい夜である、けれども夜半すぎに降りだした雨の音で、いつか眠りにひきこまれていた。
朝になると、すっかり雨はあがった。彼は芋粥を仕掛けて置いて、久方ぶりの朝湯にでかけた。態と虎が来ていて挨拶をした。嘘ではない、熊吉に虎造、向う路地に住んでいる大工の手間取で、十三の年から同じ頭梁《とうりょう》の下で育ち、同じ時いっしょに頭梁の家を出た、長屋一軒を借りて二年いっしょに暮し、去年の十一月それぞれ女房を貰って、隣り同志に世帯を分けた。
どっちも大柄の肥えた躯であるが、虎が胸から手足から顔まで毛深いのと、熊が滑らかな膚で脛毛《すねげ》もなく、髪も疎《まば》らだし眉毛も薄いところだけ違っている――仲の良いことはもう断わるまでもないだろう、然し長屋百数十軒かのうちで、この二人ほど喧嘩をする者もない、尤《もっと》もそのきっかけはたいていばかげた詰らないもので、いつも長屋じゅうを笑わせてけりがつくという風だ。……つい最近の一つを紹介すると「竜問答」というのがある。熊吉が「竜てえやつはなにを食うだろう」というのが始まりだった。虎造は、「あれあ蛇の甲羅をへた[#「へた」に傍点]ものだから、蟇《がま》げえろ[#「げえろ」に傍点]だ」と云った。
「馬鹿あ云え竜は百獣の王といわれるくれえのものだ、そんなしみったれた物を食う道理がねえ、第一おめえ蛇が甲羅をへた[#「へた」に傍点]のはおろち[#「おろち」に傍点]かうわばみ[#「うわばみ」に傍点]になるんで、竜たあまるっきり人別が違わあ」
「おめえたいそう学があるな、偉えもんだおったまげた、へえ、竜と蛇とは人別違えかい、じゃあ訊《き》くが竜はなにからわく[#「わく」に傍点]んだ」
「孑孑《ぼうふら》みてえなことを云やあがる、竜はわく[#「わく」に傍点]とは言わねえ昇天するってんだ」
「昇天たあなんだ」
「龍が生れることよ、孑孑はわく[#「わく」に傍点]人間はお誕生で竜は昇天、百獣の王だから奉ってあるんだ、ざまあみやがれ」
「ちょいと待ちねえ、おめえさっきから百獣の王てえことを云うが、講釈で聞いてみねえ百獣の王ってなあ獅子のこったぜ」
「うーん痛えところを突きゃあがった、なるほど、百獣の王は獅子よ、竜はそのあれだ、それ、なによ、万物の霊長てえんだ、吃驚して鼻血でも出すな」
「なんだか他処《よそ》で聞いたような苗字だが、まあいいや、それはそうとして餌《えさ》の話にしよう、蟇げえろ[#「げえろ」に傍点]でなけれあなにを食うんだ」
「定ってらあ細工物よ」
「細工物たあどんな細工物だ」
「細工なら好き嫌いはねえ、なんでも食わあ」
「じゃあ莨盆《たばこぼん》なんぞも食うか」
「食わなくってよ」
「箪笥《たんす》だの文庫だのはどうだ、帳場格子だの銭箱だの机だの長持だのみんな食うか」
「束で持出しゃあがったな、安心しねえみんな食うから」
「証拠はあるのか」
「あるのねえのって番太でも知ってらあ、細工はりゅうりゅう[#「りゅうりゅう」に傍点]ってよ」
「この野郎」
と云うなりぽかっと拳固《げんこ》が飛んで、取組み合いになった。
「珍しゅござんすね先生、稽古はお休みですか」
「ああ休みだ、おまえ達はどうした」
「わっちは日当付きの保養でげす」虎造が顎《あご》を撫でる、「おほん、なんせにんげん利巧でねえとつとまりやせんのさ」
「また喧嘩か、よく飽きないもんだ」
「いえこうなんで」熊吉が頭へ載せた手拭を取る、「ゆうべ夜中に降りだしたでしょう、すると虎の野郎が壁越しにこの雨は朝まで続くか続かねえかと云やがるんで、わっちはちょうど山の神と、とっとっと――で、なんしたもんですから、篦棒《べらぼう》め人をみくびるな、朝まで続いたらどうするってどなったんで、そうしたらこの野郎、もし続かなかったらどうするってやがる、どうするものか一日分の日当そっくり呉れてやると云ったんでさ、……そうなるとこっちも意地だ、山の神にも因果をふくめましてね」
「頓痴奇《とんちき》なもんですぜ先生」虎はげらげら笑いだす、「この野郎まるっきり勘違えをやらかしゃあがって、朝起きた面てえものは青瓢箪《あおびょうたん》に眼鼻でさ、頬ぺたなんざあげっそりそげちまって、ふがふがーってやがった」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
「なんだと云ったら、おれの勝ちだって、こっちはまだ気がつかねえ、眼を明いてよく見ろ、お天道さまが出て青空だ、雨も上ったぜ、こう云ってやると野郎妙な面あしやがって、またふがふがふがーってやがる、情けねえ声でしたぜ、ゆうべなア雨の話かって、おめえなんだと思ったんだ、こう訊きますとね、恨めしい眼つきをして、雨ならあがる[#「あがる」に傍点]とか晴れるとかいうがいい、いっぱい食ったって怒ってやがる」
「そうじゃありませんか先生」熊吉はぶるんと湯で顔を洗う、「晴れるとかあがる[#「あがる」に傍点]かならわかりまさあ、それをいかがわしいうろん[#「うろん」に傍点]なことをぬかすから」
「おれにはなんのことかさっぱりわからない」千之助は苦笑しながら柘榴口《ざくろぐち》を出た、「どっちにしろそれが二人の楽しみなんだろう、まあ一日ゆっくりやるがいい」
風呂から出て来ると、路地口にある棗《なつめ》の樹の若葉に眼をひかれた。晴れあがった青空へ高くぬいた枝々に、浅みどりの柔らかそうな細かい葉が、きらきらと音もなく風にそよいでいる。眺めていると郷愁に似た想いが胸にわく、遙《はる》かに遠く誰かの呼ぶ声が聞えるようでもあった。
なにか仕合せなことでも起こりそうな、豊かな気持で家へ帰ると、ちょうど鋳掛屋の女房が来て台所を明けようとしていた。
「いたずらにこんな物を作ってみたんですが」お兼は前掛の下から鉢を出した、「お口に合うかどうですか、――うちの故郷のほうでよくするんですって、あがってみて下さいまし」
「それはどうも、又さんは幾らかいいかい」
「ああ昨日は先生」お兼は低く頭を下げた、眼があげられない、「おかげさまで今朝はずっと楽だと云ってますの、あとで玄庵さんが来て下さる筈ですから――」
「それはよかった、まあ大事に」
お兼は明るい眼つきになっていた。亭主の又吉は十五日ほどまえに仕事先で屋根から墜ち、脛を挫《くじ》いて臥ていたのである。親方なしの請負いだし、仕事先が薄情な家で、薬代の一文も出そうとはしなかった。おまけに初めに掛った骨接ぎが下手で、玄庵という医者にやり直して貰ったが、そこの肉が挫いた骨へどうとかしたそうで、五六十日は働けまいということなのである。
――朝飯に貰った物を摘むと蕗《ふき》の葉を佃煮《つくだに》にしたものだった、東北の郷土料理で庄内にいた頃はよく喰べた、では又吉は北のほうの生れなのだろう。ふるさと遠く病む、佃煮のほろ苦い味のなかに千之助はふとそういう言葉を噛《か》み当てるような気持がした。
あと片づけをして、残った芋粥をひと杓子《しゃくし》、小皿に取って壁際へ置くと、待っていたように鼠が一匹ちょろちょろと出て来た。裏の戸袋の隅に穴があってそこから来る、初めはまだ足つきも危ないほど小さかった、黒いつぶらな眼でこっちを見ながら、落ちている米粒を噛んでいた、退屈まぎれに少しずつ馴らしたら、今では皿に取ってやるのを待ち兼ねて出て来る。
おかしなことに朝と定っているし、他の鼠は決して姿を見せない。もうすっかり大きくなって、千之助がなにか指で摘んでやると、側へ来て両手で指からじかに取って喰べる。――鼠は小皿の前まで来て止り、例の山葡萄のような黒い服でこっちを見た、千之助は横になってついにこりとする。
「おまえまだ神さんや子供はないのか、うん、そろそろ嫁取りの年頃なんだろうが、嫁を持ったら他の家へゆくんだぞ、おれもやがてお救い小屋の仲間だからな、うん、人間なんて――」
こんなことを呟いていたがふと口を噤《つぐ》んだ。隣りでおよね[#「およね」に傍点]の声がする、ひそひそ声なので却《かえ》って耳についたのだろう。
「ええお願いします、事によると今夜は帰れないかも知れませんから――」
これだけ聞くと千之助は起き直った。寄るかと思ったが、およね[#「およね」に傍点]はそのままいこうとする。彼は戸口へ出て呼び止めた。
「およね[#「およね」に傍点]坊、ゆうべの忘れ物がある、お寄り」
およね[#「およね」に傍点]は恟《ぎょ》っとした、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》する、然し千之助の厳しい眼を見ると俯向いて、しおしおとこっちへ戻って来た。
「お上り」こういって彼は部屋へあげ、座るのを待って静かに云った、「ゆうべの忘れ物、どうしてあんなに酔ったのか、どうしてあんなに泣いたのか、醒《さ》めてみたら聞く積りでいたんだ、話してごらん、――断わっておくが、今日はごまかしはきかないよ」
およね[#「およね」に傍点]は、暫く俯向いていた。言いたくないらしい、千之助はこわい眼をし唇をひき結んで黙っている、嘘やごまかしでは済まない、およね[#「およね」に傍点]にはそれがよくわかった。
「あたし、お客さまの物を盗んだんです」いきなりこう口を切った、「いつもあたしにしつこいことを云うお客でした、お武家で、もう老人の方です、――すぐみつかって」
「始めから話してごらん、筋のとおるように話さなくちゃあわからない」
およね[#「およね」に傍点]はちょっと考えてから話しだした。三月ほどまえから八百梅へ来る侍客があった。「舟さま」と呼ばれて、商人風の男と来て人を遠ざけて密談をし派手に飲み食いをし、その割にはしみったれた心付を置いて帰る。先月あたりからだろう、宴が終ってから独り居残って、およね[#「およね」に傍点]を相手にながいことねばっていくようになった。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
身の上や暮しのもようを、諄《くど》く訊く調子や、そぶりに厭らしさがみえ始めたと思ったら、祖父の面倒もみてやるから妾《めかけ》になれと云う、……いつも名指しで給仕に呼ばれ、酒にも料理にもうるさくって文句の多いうえに、帳場や朋輩に恥ずかしいほどしか心付を置かない、それで妾が聞いて呆《あき》れると、こっちはまじめに返辞をする気さえなかった。――昨日またその「舟さま」が来て、三人の客と飲み食いをして帰ったあと座敷を片づけていると座蒲団の下から紙入が出て来た、舟さまの席である。
「魔がさしたとか出来ごころとか、そんな逃げ口上は云いません、あたしお金が欲しかった、紙入の中を見ると十二三両あります、いつも我儘《わがまま》を言うくせに気恥ずかしいほどの心付しか置かない客、ぬけぬけ妾になれなどと厭らしいことを云う客、――たった一両でいい、そのくらいは貸し分になってるくらいだ、……ええあたし抜きました、小判を一枚」
云いかけておよね[#「およね」に傍点]はがたがたと身を震わせた。そのときの動転した気持が返ってきたのだろう、袖口をぎゅっと噛んで、蒼《あお》くなって、やや暫く息を鎮める風だった。
「――そのとたんに帰って来たんです、そのお客が、まるでどこかから見てでもいたように、すっと入って来てあたしの前に立ちました、……そして、馬鹿のように立っているあたしの手から紙入を取り、中の物をそこへすっかりあけて、丹念に金を調べるんです、あたしは口も利けずに見ていましたが、もう我慢できなくなって、帯の間から小判を出し、堪忍して下さいと言いながら――」
千之助は胸を抉《えぐ》られでもしたように、眉と眼をひとつに絞って脇へそむいた。……待客は難題をふっかけてきた、「十両足りない」と云う、これまでにも三度あった、訴えるというのである。
およね[#「およね」に傍点]はもう逆上ぎみで、どうか堪忍して下さいと繰り返す許りだ、そこで客は座り直した、改めて酒を運ばせ、およね[#「およね」に傍点]にも飲ませた。切り出した話は云うまでもあるまい。およね[#「およね」に傍点]は承知した、そして酔ったのである。
「その一両は、薬代だね」千之助が嗄れた声で言った、「――それで、今日からその客に身を任せる積りだったんだね、貞女、いや孝女というやつか」
およね[#「およね」に傍点]は歯をくいしばっている。千之助はそっぽを向いたまま続ける。
「およね[#「およね」に傍点]は金が入用だった、お祖父さんのために、一両という金がどうしても入用だった、有るところには唸《うな》っている、然しおよね[#「およね」に傍点]にはその欲しい一両という金がない、普通のことでは算段のつかない暮しだ、……その客は料理茶屋へ繁しげ通い、右から左へ遣い棄てている、一両ぐらいの金はなんでもあるまい、およね[#「およね」に傍点]が一枚ぬく気になったのは無理がないかも知れない、――だがなあよね[#「よね」に傍点]坊、おまえだってそれが善いことだと思ってした訳じゃあないんだろう、悪いと知ったら、みつかった時どうして吐を据えなかったんだ、どうして突出して下さいと云わなかったんだ」
千之助は、ちょっとそこで言葉を切る、およね[#「およね」に傍点]はひきいられるように耳を澄ます、こんな調子で千之助がものを云ったことはなかった、ひと言ひと言が針を打たれるように痛い、だがそれはもっと強くもっと烈しく、びしびし打って貰いたいような痛さだ。およね[#「およね」に傍点]は息がはずんできた。
「貧乏人の弱さはそういうとき吐の据わらないところにある、他人の物をとるということはよくせきだ、然し貧窮するとどうしてもそうしなければならない場合がある、およね[#「およね」に傍点]もそうしなきゃあならなかったんだ――だとすればあたしが悪かった、どうか訴えて下さいとなぜ云えない、そのときになって内聞にしようとか、世間に恥を曝《さら》したくないとか考える、そこが彼等のつけめなんだ、貧乏人ほど世間をおそれ、悪いことを恥じるものはない、彼等はそれをよく知っている、そこをつけめに網を掛ける、その客も初めからそこを覘《ねら》って仕組んだんだ」
こう云って、千之助はおよね[#「およね」に傍点]を見た。
「こんな子供|騙《だま》しの手に掛って、ぐすぐすべそをかくようなよね[#「よね」に傍点]坊とは知らなかった。それならおれがとっくに口説くんだったよ、――その客はいつごろ来るんだ」
「暮れてからと云ってました」
「先へいっておいで、暮れるまえにおれがいく、侍なら、云ってやることがあるんだ、きれいに話をつけてやるよ」
千之助は吐を立てた、恐ろしく吐を立てている。庄内で勘定奉行と衝突した時の何十倍も吐が立つ、どこの侍か知らないが、おそらく役目を利用して流行のぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売でもやり、あぶく銭を掴《つか》んだうえの脳天気《のうてんき》だろう、それにしても細腕に病人を抱えた貧しい娘を、あくどい仕掛けで泣かせようとは男の風上にも置けないやつである。
――どう云って面の皮を剥《は》いでやろう、殆んど半日、彼はそのことだけを思いめぐらしていた。大根河岸の八百梅は二階造りのかなり大きい建物だ。千之助がいったのはまだ早かったが、露地づくりの入口には打水盛塩がしてあり、濡れた飛石の面に清《すが》すがしく植込の竹が影をおとしていた。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
知らない年増《としま》の女中に案内されたのは狭い座敷だ、窓を明けると堀が見える。たぶん彼の来ることが話してあったのだろう、茶を運んで来たのはおよね[#「およね」に傍点]だった。着換えて、薄化粧をしている、いつも見馴れたのとは段違いに美しい。
「いやだわ、そんなにごらんになって」およね[#「およね」に傍点]は眼の隅で睨《にら》んだ、「顔になにか付いてますか」
「鏡を見るんだね、――まだ来ないんだろう、酒でも貰おうか」
「お好きでもないのにそんな」
「酒は好きだよ、飲めないから飲まなかったまでのことさ」千之助はにこりとする、「せっかく八百梅に上ったんだ、この家の自慢のもので一杯やっていこう」
およね[#「およね」に傍点]は詫《わ》びたげな眼で見て立つ、千之助は窓框《まどがまち》へ腰を掛けた。――堀の向うは銀座一丁目、河岸には印の付いた白壁の倉が並んでいる、倉と倉の間から黄昏《たそがれ》どきの忙しい往来が見え、大きな柳の枝隠れに人が集まって騒いでいる。
「富岡八幡の千両富、――大当りは……」などと喚くのが聞える、富籤《とみくじ》の当り触れらしい。
「大当りをもういちど、ええ鶴の」
という声に千之助はちょっと耳を澄ます。
「鶴の――ひゃく……じゅうご番」
はっきり届かないが、鶴の百なん十五番かである、さすがにどきりとする、どきりとしてから自分で衒《て》れ、舌打ちをして空を見る。濃い紫色に暗紅の縁どりをした棚雲がある、なにかの鳥が渡っている、捨てて来た故郷の山河が眼にうかび、太息《といき》をつきながら腕組みをした。
白鱚《しらきす》の糸作りに蟹《かに》うに[#「うに」に傍点]で酒が出た。独りがいい、およね[#「およね」に傍点]を去らせて、久しぶりの盃《さかずき》を手酌でしみじみと啜《すす》る、それだけで豊かな気持だ、ふしぎに心が軽くなる。
「鶴の百なん十五番か、富兵衛きっと蒼くなったろう」
こんなことを呟く、なに自分だってどきりとしたくせに、――行燈へ灯がはいった、膳の上には汁椀や焼物の皿が並び、酒は二本めで、快く酔いが出てきた。
およね[#「およね」に傍点]がなにも持たずに入って来て座る、眼を見ると、頷《うなず》いて燗《かん》徳利を取り、酌をする。
「伴《つ》れがあるのか」
「え、お武家らしい方が一人、――いまお膳を置いて来たところです」
「隣りへ移れるか」
「ええ、明いています、家の者にもひととおりいってありますから」およね[#「およね」に傍点]は微笑する、「仰しゃるとおりにしましたの、お帳場でみんなに、残らず恥を話しました、いい気持です」
「あたりまえさ、大したことじゃない」
間もなく席を移した。階下へおりて中廊下をゆき当ると、一間ばかりの渡りがあって別棟の座敷に続く、こっちは平屋で座敷が三つ四つあるらしい。千之助の通されたのは控えのような六帖だった。――坐って盃を取ると、隣りの話し声がよく聞える、一人は風邪をひいているとみえて、甲高い咳《せき》をし、鼻をかみ、がさがさ嗄れた声で話す、片方は聞き役で、うむ、はあ、さようなどと、合槌《あいづち》をうつ許り、時どき大きな追従笑いをする。――話はぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売の事だ、大阪へやる回米船の一|艘《そう》を新川へもぐらせてある、二百俵下ろして捌《さば》くのだが例の仲買の手[#「手」に傍点]が邪魔になるというようないきさつだ。
「そいつらは拙者が引受けます」相手が初めて口らしい口をきく、「仲買の手[#「手」に傍点]というのは猿島屋ですよ、わかっとります、彼等ならですね、――すか、猿島屋ならもう御心配は御無用ですよ」
千之助は思わずにやにやとした、池野念流先生である、さる大藩の重役からさし迫った仕事を頼まれていると云った、これがその「仕事」なるものに違いない。聞いていると頻りと「すか」「すか」とやっている。――そこへおよね[#「およね」に傍点]が酒を持って来た、千之助はそっと囁《ささや》く。
「舟さまというのはどっちだ、いま饒舌《しゃべ》ってるほうか」
「咳をしているほうですわ、ほらあの咳」
そうだろう、まさか念流先生の筈はない。頷いておよね[#「およね」に傍点]をゆかせ、暫くしてそっと襖際《ふすまぎわ》へすり寄った、さる大藩の重役というのが見たくなったのだ。然し襖は重くびっしりと合わさっている。やめにして戻って、盃を取った。――間もなく女中が隣りの客を案内して来た、侍である。
「やれやれ」
千之助は盃を置いて横になった。当人が独りにならなければ具合が悪い、念流先生を驚かすのは罪だ、彼は眼をつむった。
「どうなさいました」
およね[#「およね」に傍点]が来てそっと囁いた。
「お酔いになったんですか」
「独りになったら知らせて呉れ、それまでひと眠りしよう、いや飯はたくさんだ、水でも持って来といて貰おう」
別の女中が水を持って来た、ひと口飲んでまた横になったが、すぐに恟《ぎょ》っとして頭をあげた。後から来た客の声に聞覚えがある、声も声であるがその訛《なま》りは忘れられない、なつかしい山河と切離すことのできない庄内訛りだ。
千之助は座り直した。
血が騒ぎだす、そうだ、慥かに庄内の侍だ、間違いはない、するとあの咳は、――あのがさがさした声は、……血はもっと騒ぎだす、三年まえの昂奮《こうふん》が返ってくる、握り緊めた拳が震える、――勘定奉行だ、あの咳も嗄れ声も渡辺仁右衛門のものだ、紛れない、あの古狸め江戸詰になったのか、千之助はむずとあぐらをかいた。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
およね[#「およね」に傍点]が知らせに来たとき、彼は肱枕《ひじまくら》で横になっていた。これから座敷へいくといっておよね[#「およね」に傍点]が去ると、起直って水を飲んだ。さっきの昂奮はもう鎮まっている、洒落の一つも云いたいくらいである。
――隣りへおよね[#「およね」に傍点]が入った。
「今日はまるで姿をみせなかったな、まあこっちへ寄れ、はは、祝言の盃だ」
まだ酔ってはいない、酔った振りをしているが声は慥かである。
「どうした、十九にもなればそううじうじする年でもあるまい、とにかく一杯、これは女から飲むものだろう、済んだら駕《かご》を呼んでな、家は向島だ、これ、世話をやかせるな、わしは気が短い」
手でも取ったのだろう、「あれ」という声がした。千之助は刀を左手にさげ、間の襖を明けて入ると、ずかずかいって正対に座った。向うは六十近い年頃であるが、中肉の精悍《せいかん》な躰格で髪も眉も艶《つや》つやと黒い、正しく渡辺仁右衛門、細い眼でぎろりと見たが、およね[#「およね」に傍点]の手を突放し、脇息《きょうそく》へ左の肱を凭《もた》せて、「なんだ」と云う、こっちを忘れているらしい、千之助はぐっとおちついて相手を見た。
「およね[#「およね」に傍点]から精《くわ》しいことを聞いたので、挨拶に来たんです、女は単純だから話にならない、貴方の冗談をほんとにしているんです、なにしろ子供のように泣いているんですからね」
「私は冗談は嫌いだ」と相手もおちついたものである、「女の泣く姿も悪くはないものさ」
「私はまた女の泣くのと年寄りの色狂いくらい嫌いなものはありませんね、それも刀を差して武家だと威張る人間が無頼も恥じるような罠《わな》を仕掛けて、娘の首の根を取って押えるなんかは卑劣も下の下だ、――おやめなさい、よしたほうがいいですよ」
「それよりおれが亭主だと云わないのかい」こう云って老獪《ろうかい》に冷笑する、「話の諄いのは御免|蒙《こうむ》る、片をつけるなら早くして呉れ、幾ら欲しいんだ」
「安くまけましょう、米二百俵」
老人は脇息の肱をあげた。
「まだ思いだしませんか渡辺さん」千之助はにこりと笑う、「三年まえに庄内で喧嘩をした相手です、貴方にとっては厭なやつだった、やっぱり闇討ちにしなくちゃいけなかった、これならわかるでしょう」
老人の唇が歪んで歯が見えた。
「杉田、――杉田、千之助」
「それだけで驚いちゃあ困ります、藩の回米船を一艘はじいて、新川から横へ捌く話も聞いているんです、――渡辺さん、一両の藪《やぶ》をつついて大変な蛇を出しましたね」
「待って呉れ、杉田、話がある」
「いや話は庄内でついていますよ」千之助はおよね[#「およね」に傍点]を促して立上った、「尤も断わって置きますが、二百俵の米は藩の方から貰います、その位の値打はあるでしょうからね、貴方もこれが最後だ、ひとつ試しにじたばたしてみるんですね」
千之助はさっさと廊下へ出たが、振返って笑い乍《なが》らいった。
「貴方は誤解しているようだからいいますがね、およね[#「およね」に傍点]は決して私の女房じゃありません、そんなことは考えてもいませんよ、およね[#「およね」に傍点]が怒ります」
渡辺仁右衛門は、じたばたした。老人はその年の二月、江戸邸の勘定奉行になった。不正な金をばら撒《ま》いて身方に付けた者が少なくない、然し千之助の投じた石は意外に大きな波紋を起こし、老人は役を解かれて同類と共に吟味ちゅう牢舎《ろうしゃ》ということになった。
――だがそんなことはどっちでもよかろう、五日めに千之助へ二百俵の米が無償で払い下げになった。彼は百五十俵をお救い小屋の施用に献納し、残りの五十俵を孫兵衛店の長屋へ配った。
米俵が長屋へ運び込まれた時の長屋の騒ぎは御想像に任せよう。四カ所で俵を開き、すっかり配り終った時はもう夜になっていた。千之助はどうしたろう。彼は家で酒を飲んでいる。長屋の持主で質商の杵屋《きねや》孫兵衛、差配、表通りの三河屋、米問屋の大助などという人物が、酒肴持参で昼から押掛けていた。
「やっぱりお武家だ」
「そう云っても出来ないこった」
「御入国以来こんな話は初めてだ」
定り文句である。然し下町人の、いざとなれば肌をぬぐ気持が嘘でなく表われている。彼等の感動を、千之助はすなおに受取った。――そうだ、これがなにかのきっかけになるかも知れない。なにかが新しく転換するかも知れない。人間というものはいいものだ、生きるということはいいものだ。八時になると、客は帰っていった。給仕をしていたおよね[#「およね」に傍点]は、いちど祖父をみに家へいったが、すぐに戻って来て、あと片づけに掛った。
「お疲れでしょう、先生、横におなんなさいましな」
「米は配り終えたんだね」
「ええもう済みました、――みんな夢じゃないかしらって、中には泣いている人もいましたわ、明日はお礼に来る人でたいへんですよ」
「じゃあ、夜が明けたら逃げだすことにしよう」
「あら――」汚れ物を台所へ持っていったおよね[#「およね」に傍点]が吃驚したように声をあげる、「だあれ、そこにいるの誰よ」
「どうしたんだ、なんだ、よね[#「よね」に傍点]坊」
「台所に誰か寝て……あら厭だ、富さんじゃないの、先生、こんな処に富さんが寝ているんですよ」
「うっちゃっといて呉れ」富三の声である、呂律[#「ろれつ」に傍点]がよくまわらないようだ、「おらア死ぬんだ、人を馬鹿にしやがって、くそくらえ」
千之助が立っていく、流し前の簀子《すのこ》の処へ富三が丸くなっている、「おい富兵衛」と呼ぶとびくっと足を縮めた。
「そんな処で威張ってもしょうがない、こっちへ上れ、酒があるぜ」
「先生ですか」
富三は顔をあげる。
「ああ先生だ、ふへへへへ」
「妙な声を出すな、笑うのか泣くのか」
「あっしア駄目です先生、いけません、この世にゃあ神も仏もねえ、あっしア死んじゃいます」
「下らないことを云うな、富が外れたくらいで」
「いいえ当ったんだ、外れたんならいいが当っちゃったんです」
「当ったア……寝言を言っちゃあいけない、確《しっか》りしろ」
「寝言でも嘘でもねえ鶴の百三十五番、千両の大当りなんで、だからあっしアふへへへへへ」
「千両富に当って泣くやつがあるか」
「そこが神も仏もねえと云うんでさ、あっしア先生に当ると云った、富の字三つぞろい、印が鶴で百三十五のかぶ[#「かぶ」に傍点]、当ること間違いなしといいました、ところがそれを、ふへへへへへ、売っちまった」
「売ったって、その富札をか」
「あの明くる朝でさ、三分で買おうといわれたもんで、どうせ当るめえと思って売っちまった、これまで一遍も当ったことがねえんですから、それにあまり縁起が揃い過ぎてるんでこいつは凶に返るだろうと思ったんでさ、そいつが――いいえもう駄目です、止めねえでお呉んなさい、なんでえ人を馬鹿にしやがって、あっしア死にます」
およね[#「およね」に傍点]がまず失笑《ふきだ》し、千之助も笑った。笑いながら部屋へ戻った。
「そのまま寝かして置け、醒めたら起きて来るだろう」
そう云って、彼もごろっと肱枕で横になった。およね[#「およね」に傍点]はそれを見て枕を取出し、そっと頭の下へ入れてやる。
「罪な真似えするな」台所で富三が喚く、「――持ってりゃあ外れて、売りゃあ当る、そんなちょぼ一があるか、――なにが富岡八幡だ、八幡なんざあ怖かあねえ、権現も、金毘羅《こんぴら》もくそくらえだ、やいおれに千両けえしゃアがれ」
およね[#「およね」に傍点]は掛けてあった袷《あわせ》を取り、千之助の脚から腰へそっと衣《き》せる。
「先生――」と小さな声で呼ぶ。千之助が眼をあげる、およね[#「およね」に傍点]はその眼を眤《じっ》とみつめ、つとそむきながらおののくような声で囁く。
「あたし、怒りなんか、しませんわよ」
底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
1983(昭和58)年12月25日 発行
底本の親本:「講談雑誌」
1948(昭和23)年4月号
初出:「講談雑誌」
1948(昭和23)年4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)貴方《あなた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)足|許《もと》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
-------------------------------------------------------
[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
「相談にも色いろある、が、拙者は、杉田さんを深く信じ、杉田さんのためを思ってですね、――すか、ここをよく聞いて下さいよ、貴方《あなた》の将来ということを思ってですね、底を割ってこの御相談をする訳です、すか――」
池野源十郎は酒肥りのてらてら光る顔を撫《な》でながら、相変らず無駄の多いことを仔細《しさい》らしく云う。すか[#「すか」に傍点]というのは彼の口癖で、「いいですか」のつづまったものだ。千之助はもう飽きている、べつに短気な性分ではないが、源十先生と話しているとすぐに退屈してくるからふしぎだ。
「貴方もご存じのとおり、こう世の中がめちゃくちゃになっては、二十人やそこらの門人の月謝ではとても門戸を構えてやってはまいれない、すか、掛値のないところかような時勢にはこっちも思案を変えなければならぬ、さもないとそれこそ裃《かみしも》をきて飢死ということにまかり成る、そうでしょうがな杉田さん」
「それでどうしようというんですか」
「門人に教える腕を別の方面に活かして使おうというわけです、我々にはぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売や買占をする資本も才覚もない、正直のところですね、すか、――ところが世間にはそういう大きな稼《かせ》ぎをする連中がいて、これはまた我われの腕を欲しがっている、もちろん多少の危険は伴うが、それに準じて謝礼も纏《まと》まっている訳です」
「詰りぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売の用心棒ですね」
「要約して云えば虚名を棄てて実をとる訳です、そこでもし杉田さんが腕を貸して呉《く》れればですね、すか、嘘のないところ礼金は七分三分ということにしてもいい、まあお聞きなさい、さし当りいま頼まれているのはさる大藩の重役だそうで、仕事も相当おお掛りなものらしい、なにしろ、今日明日という急な依頼なんでな、掛値のないところこの一つでも」
「折角ですが私の柄ではないようです」こう云って千之助はそこにある金包を取った、「では是れは頂いてまいりますから」
「まあお待ちなさい杉田さん、も、もし礼金の割がその、不足ならですね、すか」源十郎は狼狽《ろうばい》して立って来る、「正直なところその、四分六、いや貴方のことだから五分五分ということにしてもいいと思うんだが」
源十郎は玄関までついて来ながら、諄《くど》くどみれんがましいことを並べたてる。
だが千之助はもう返辞もせずにさっさと外へ出てしまった。……とうとうおれも足|許《もと》に火がついてしまった。埃立った道の上の白じらと明るい午後の日ざしを見ると、千之助はふと眉をひそめながら溜息《ためいき》をついた。
彼は自分の不運を世間や他人のせいにするほど楽天家ではなかったが、それにしても不徳と無恥に汚れた厭《いや》な時代だった。
杉田の家は出羽のくに庄内の家臣で、千之助は勘定方に勤めていたが、役所の内部の頽廃《たいはい》不正についてゆけないため、奉行の渡辺仁右衛門と衝突して退身した。退身しなかったら闇討ちにされたかも知れない。
――江戸へ来て三年、食い詰めて池野道場の師範代に雇われた。日本橋の槇町にあるその道場は、「念流指南」と看板を掲げているが主の源十郎は竹刀《しない》を持ったことがない、稽古は千之助にすっかり任せ、自分は刀剣売買の仲次ぎのような事に奔走していた。
だが門人は三十人足らずだから充分それで間に合ったが、それに準じて彼の受ける月謝も二分二朱というつつましいものであった……。
然しともかく一年半ばかりはそれで暮したうえ、相長屋の貧しい人たちにも時に僅かながら援助ができたのである、それが遂に道場閉鎖ということにたち到ったのだ。一昨年から不作凶作が続いて、今年はもう春さきから市中に施粥《せがゆ》のお救い小屋が出た、むろん恐るべき諸式高値で、池野念流先生も刀剣売買の鞘《さや》取りぐらいでは好きな酒が飲めなくなったとみえる。
「さる大藩の老職の依頼、――大掛りなぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売、……不正な仕事の用心棒か、ふむ」
千之助は眉をしかめる、庄内の勘定奉行の老獪《ろうかい》な顔が眼にうかぶ。
「あの連中も今ごろはそんな事をやっているんだろう、汚吏|奸商《かんしょう》、上に立つ者ほど悪徳無良心なのはふしぎだ」
弾正橋を渡ると、「お救い小屋」があった。まわりには、もう夕方の施粥を待つ人たちが、河岸に沿って哀しい列を作っている。老人も女房も子供も、欠け丼《どんぶり》や鍋《なべ》などを持って、肩をすくめ頭を垂れ、罪でも犯した者かなんぞのように悄然《しょうぜん》と並んでいる。千之助はそっぽを向いた。慣れた景色ではあるが見ればやっぱり胸が痛い、まして今日は我が身の上だ、いっそうこたえたとみえて足早に通り過ぎると、――向うから来た娘に呼びかけられた。
「あら、今日はもうお帰りですか先生」
小柄ではあるが胴より脚の長い、俗に小股《こまた》の切れ上ったという躯《からだ》つきで、浅黒い細おもての眼鼻だちが、利巧できかぬ気性を彫りつけたようにみえる。年はもう厄の十九、名はおよね[#「およね」に傍点]という、同じ路地内に住む娘だった。
「ああもうお帰りだ、そっちは遅いじゃないか」
「お医者さんが来ていたもんですから、――ごめんなさいまし」ゆこうとして振返った、「富さんが道場へいきゃあしませんでしたか」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「いや来なかったね、富兵衛どうかしたのか」
「おめにかかるんだって、ばかに急いでましたけれど、ではお宅かも知れませんわ」
「あいつはいつも急いでる、――まあいっておいで」
八丁堀長沢町に孫兵衛|店《だな》と呼ばれる一画がある。一棟に五軒ずつある長屋が十八棟、五つの路地に庇《ひさし》を並べ接して、百幾十かの世帯がごたごたと暮している。北の端の路地を入った奥の棟の三軒めが、杉田千之助の住居だった。
――此処《ここ》でもお救い小屋へでかけた者が多いのだろう、泥溝板《どぶいた》の上に傾いた日の光りが明るく、遊んでいる子供たちも数は少ない。千之助は自分の住居を通り越して、五軒めの端にある鋳掛屋《いかけや》の又吉の戸口を訪れた。
「お兼さんいるか、――お兼さん」
声をひそめて呼ぶと、赤児に添乳でもしていたのだろう、「はい」と低く答えて、顔色の冴《さ》えない女房が衿《えり》を掻《か》き合せながら出て来た。
「まあ先生ですか、お声が違ったから誰方《どなた》かと思いました、こんないい恰好でごめんなさいまし」
「今朝はなしたものだ、足しにもなるまいが」千之助は懐中から、包んだ物を出してそこへ置いた、「なんとか出来たらまたするから――」
お兼はまあと云って顔を伏せた、言葉が出ないのだろう。千之助はてれ[#「てれ」に傍点]たように急いで自分の住居へ帰った。――ところが、あがって刀を置くなりとびこんで来た若者があった。双子縞の思いきって身幅の狭い着物に平絎《ひらぐけ》を締めて、いっぱししょうばい人を気取った恰好だが眼尻の下った獅子鼻《ししばな》の好人物らしい顔をみると、折角の装《つく》りがまるで帳消しになっている。建具職で名は富三、向う長屋の端に住んでいるが、家はいつも閉めっ放し、仕事もそっちのけで下手な賭《か》け事に夜も日もない男だ。
「お帰んなさいまし、早うござんしたね」
「あいそがいいな、どうしたんだ」
こう云いながら千之助は台所へゆき、水甕《みずがめ》から半※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《はんぞう》へ水を取って双肌をぬぐ。
「こもってるじゃありませんか、ちょいと明けましょう、まるで梅雨でも来るみてえに蒸していけねえ、明けますよ先生」
富三は部屋をぬけて裏戸を明ける。庇間《ひあわい》三尺で向う長屋の裏口が見える、簾《すだれ》を下ろすと軒に吊《つ》った風鈴に当ってちりちりと鳴った。――千之助は肌を入れ濡れ手拭で鬢《びん》のあたりを拭きながら出て来る。
「お願えがあるんですがね、先生」富三は揃《そろ》えて座った膝《ひざ》の上へまじめに両手を突張る、「あっしゃこんどこそ身を固めます、ぐれた暮しにゃあ自分ながらあいそが尽きました」
「強請《ゆすり》がましいこと云うな、吃驚《びっくり》する」
「冗談ごとじゃあねえんです、本気ですぜ先生」
「なお吃驚だ」千之助は火鉢の火を掻き起こして炭をつぐ、「用というのはそのことか」
「先生は小言を仰《おっ》しゃらねえ、ずいぶん迷惑をお掛け申しているが、苦い顔いちどなすったことがねえ、けれども小言てえものは云われねえほうがこたえるもんだ、ほんとですぜ、で、さっぱりと、こんどこそ足を洗います、それに就いてお願えがあるんだ、――もう一遍だけ、ひとつ黙って一分、貸しておんなさい」
「そうくるだろうと思った、富兵衛が座ればいうことは定《きま》っている」
「暮六つまでにどうしても要るんです、嬶《かかあ》があれば嬶を質に置いて作らなくちゃあならねえ、ぎりぎり結着待ったなしなんですから」
「このまえはお袋を質に置くといったぜ」千之助は台所から米のしかけてある土鍋を持って来て火鉢へ掛ける、「いっそおまえ、自分を質に入れたらどうだ」
「もう本当にこれっきり、これで帳尻を締めます、なにしろ鶴の百三十五番、一三五のかぶ[#「かぶ」に傍点]で、富の字の三つ重ねという縁起ぞろい、当ること疑いなしってえ札なんですから」
「なんだと思ったら、また富くじ[#「くじ」に傍点]か」
「五年ぶりの千両富、富岡八幡の興行なんで、鶴の百三十五番てえのをでん[#「でん」に傍点]助が持って来たんですよ、富岡の富に富くじ[#「くじ」に傍点]の富、それにあっしの名前と富の字の三つ重ね、番号がちょうどかぶ[#「かぶ」に傍点]とくるんですから、こいつを買わなきゃあ生涯の恨みだ」
「こっちは今の恨みだ」千之助は言われたものを、そこへ出す、「然しこれでよせよ」
「やっぱり先生だ、かっちけねえ、このとおりです、当ったらあっしは百両、残りはそっくり先生に差上げますからね」
「先に礼を云っておこうか、障子を閉めていって呉れ」
富三は横っとびに出ていった。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
かたちばかりの夕餉《ゆうげ》の膳ごしらえをして、座るとたんに台所を明ける者があった。
「ね先生もう飯はお済みですか」と云う。
隣りにいる魚屋の熊五郎だ。
こっちから返事をするより先に、その隣りの台所が明いて、「おまえさんお帰りかえ、遅かったねえ」という声がする、これは女房のとら[#「とら」に傍点]だ、洒落《しゃれ》でも誹謗《ひぼう》でもない、本当に亭主は熊五郎で女房はとら[#「とら」に傍点]という名である。
「慌てるな、べらぼうめ、おらあ先生に物う申してるんだ、まだ家へ帰ったんじゃあねえ、すっこんでろ、――先生もうお済みですか」
「いま始めるところだが」千之助は台所へ立ってゆく、「――なんだ」
「それじゃあちょいと待って呉んねえ、めじ[#「めじ」に傍点]の良いのがあるから刺身にしてあげようと思ってね、少し許《ばか》り残して持って来たんだ、なあに礼を言われる程ありゃしねえ、ほんの猫のひてえ[#「ひてえ」に傍点]だ、お手数だが皿あ一枚たのみますや」
「せっかく貰っても芋粥《いもがゆ》じゃあ刺身が泣くな」
「なあに床上げの御膳と思やあ、御祝儀の内だ」
手早く作って熊五郎は「へえお待ち遠」と戸を閉めてゆく。千之助は膳へ戻って食事を始めた。――隣りの話し声が例によって筒抜けに聞えて来る。
「此処に手拭となに[#「なに」に傍点]が出してあるからね、おまえさん、ちょっとひと風呂あびて来て下さい」
「篦棒《べらぼう》め、こんなに遅くなって垢《あか》っ臭え湯へへえれるか、それより腹が減って眼が廻りそうなんだ、すぐ飯にして呉れ」
「あら困った、おまえさん、お菜はこれから作るんだけど」
「定ってやがら、一日じゅうとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いてやがって、亭主が腹を減らして帰えるのに、飯の支度も出来ちゃあいねえ、足を洗ってるんだ、雑巾をよこしな」
「あいよおまえさん、それあ、わかってるけど、作りたての温かいところをあげようと思ってさ、おまえさん」
「ごたいそうなことを云やあがって、なにを食わせようってんだ」
「きんぴら[#「きんぴら」に傍点]なのよ、おまえさん」
「おきやがれ、塩鮭の焼いたのやきんぴら[#「きんぴら」に傍点]あ冷たくなってからが美味《うめ》えもんだ、うっちゃっときゃあ舌を焼くようなぬた[#「ぬた」に傍点]でも拵《こしら》え兼ねねえ――着物はこいつか、おい三尺がねえぜ」
「あら、そこへ出しといたよ、おまえさん足もとにないかしら、おまえさん」
「此処にゃあ女の腰紐《こしひも》っきりありゃあしねえ」
「あら厭だ、――まあ厭だおまえさん、ほほほほ、ばかだわあたし、自分のを出しちゃったのよ、おまえさん、あたしどうかしているのね、おまえさん」
「どうするものか、てめえの馬鹿とのろまは生れつきだ」
「あ、ちょっと、おまえさん手拭を貸して、おまえさんのここんとこがまだ濡れてるじゃないの、おまえさん」
「止さねえか擽《くすぐ》ってえ、自分で拭かあ、――ああ忘れてたおとら[#「おとら」に傍点]、盤台の中にへえってるものがあるから出しな、勿体ねえがてめえに持って来てやったんだ」
「あらなんだろうね、おまえさん、――あらあらくさや[#「くさや」に傍点]だわ、これあたしにかえ、おまえさん、勿体ないわよ、おまえさん、こんな高価《たか》いものを、口が曲りゃあしないかねえ、おまえさん」
「その甘ったるい声を止さねえか、夫婦んなって八年も経つのにおまえさんおまえさんって、げえぶん[#「げえぶん」に傍点]が悪い許りか頭ががんがんすらあ、飯あまだか」
「あい、もうすぐよおまえさん、――八年だって十年だっておまえさん、おまえさんはあたしにとってはおまえさんなんだもの、しょうがないじゃないの、おまえさんが悪ければおまえさんの代りにおまえさんをなんと呼んだら」
「ええうるせえ勝手にしろ、おらあみぞおち[#「みぞおち」に傍点]が痒《かゆ》くなってきた」
隣りの会話は、千之助にとっては慰安の一つである、彼はこころ楽しく夕餉を済ませた。然しあとを片付けて、さて行燈《あんどん》の前に座ると、明日からのことがまた胸につかえてくる、――世間はひどい不景気だ、手に職をもちながらお救い小屋で露命をつないでいる者が少なくない。内職などもあることは有るが奪い合で、しぜん手間賃なども話にならない安さである、日雇い人足はもちろん、棒手振《ぼてふ》り行商の類も同業が多くて共食いのかたちだ。こんな中へ、なに一つ芸のない彼がどうまかり出たらいいだろう。
「辻に立って太平記でも読むか」
こう呟《つぶや》いてみてすぐ首を振る。これも殆んど氾濫《はんらん》状態なのだ。太平記読などは享保時代のことで、とっくに寄席講釈へ発展解消していたが、半年ほど前に浅草で浪人者が三河風土記を読み出して以来、あっちにもこっちにも真似る者が現われ、現在ではちょいと繁華な辻にはたいてい立ってやっている――こう考えてくると息が詰りそうになった。
「これは始末にいけない」千之助は堪らなくなって立った、「六兵衛でも見舞ってやろう、あんまり面倒くさければとこの世におさらばだ」
こんなことを呟きながら、脇差だけで外へ出ていったが、向う長屋の端に六兵衛の住居がある。元は飾職をやっていたが、二年まえに痛風で臥《ね》たっきり起きられない、孫娘のおよね[#「およね」に傍点]が大根河岸の「八百梅」という料理茶屋に勤めて、その稼ぎで辛くも生計を立てている。
長吉という伜《せがれ》は、十年ほどまえ、女房に死なれてからぐれだして土地にいられなくなり、上方へ出奔したまま消息がなかった。――声をかけて上ると、六兵衛はまっ暗がりに臥ていた。
「灯をどうしたね、消えてしまったのか」
「点《つ》けなかったんでさ」老人は寝返りをうつ、「油が勿体ねえから、いま点けましょう」
「いやこのままがいい、盲問答も乙なものだ、よね[#「よね」に傍点]坊が医者が来たとか云ってたが、具合でも悪かったのかい」
「なアにあいつが呼んで来たんでさ、店へ来る客に聞いたんでしょう、痛風を治す上手な医者があるってんで、――よせばいいのに、金を捨てるようなものですからね、ろくに触ってみもしねえ、これは骨の病だ、全快はおぼつかないが痛みは止められるってね、詰りは高価い薬の押売りでさ、高価い代りにひとめぐりのめば十分だ……のりと[#「のりと」に傍点]は定ってますよ」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「だが人間てな、いいもんですね、先生」六兵衛は息をついて云う、「四十四五でしょう、その医者、もう白髪まじりで、蜜柑《みかん》の皮みてえな鼻をしてましたっけ、こう容態ぶってから、痛風は骨の病だ、なんてね、――あっしゃあすっかり嬉しくなりましたよ」
千之助は思わず苦笑した、塞《ふさ》がっていた胸が僅かに軽くなる、六兵衛はちょっと寝具合を直し、溜息をついて、また続けた。
「こうして寝ていると、いろんな人間のことを考げえまさ、六十五年、短けえ月日じゃあなかった、それもまことにしがねえ、恥ずかしいような境涯ですがね、生れて来ねえほうがよかったなんて、親を怨んだことも度たびでしたが、――それでも思い返してみると無駄じゃあなかった、生きて来たればこそあいつにも会えた、あの男とは兄弟の約束をした、こいつとは喧嘩《けんか》もしたがよく飲みもした、お互いに苦しい中で心配したりされたり、……考げえるとみんな懐かしい、気にくわねえげじげじだと嫌ったやつにも、やっぱりいいところがあったのを思いだすって訳でさ、――あっしが親方んところを出て、木挽《こびき》町へ初めて飾屋の店をもった時のこってさ、兄貴分に当る男が地金の世話をするってんで、五両ばかり頂けた、あっし共にゃあ、ひと身上です、おまけに八方借りで、店を持った初っぱなの、それこそ血の出るような金でしたが、それを持って逃げられた、……あっしゃあ十日ばかり気違えのようになって捜し歩きましたよ、匕首《あいくち》をのんでね」
老人の調子はまるで楽しい事を回想するかのように和《なご》やかな温かい感じだ、深い溜息をついて、また続ける。
「――だがその男にも事情があったんでさ、ずっと後でわかったんですが、死ぬほど想い合った女があって、それと駆落ちをしたんですね、さもなきゃあ心中するところだったそうです、……五両、匕首、駆落ち、――人間てないいもんです」
一|刻《とき》ほど話して家へ帰ると、千之助はずっと楽な気持になっていた。これまでにも六兵衛から色いろ話を聞いた、みんな有触れた平凡な話題で、おまけにたいていが悲運や貧苦や不遇とからみ合っている、にも拘《かかわ》らずその貧乏や不仕合せのなかに、言いようもない深い味わいがあり、人の世に生きることのしみじみとしたよろこびが感じられる。最も数の多い人たちは、みなそのように生きているのだ。物や金には恵まれない、僅かな蹉跌《さてつ》にも親子兄弟が離散したり、心にもない不義理をしたりする、然しそれでも人は互いに身を寄せ合い、力を貸し合い、励まし合って生きている。「遠い親類より近い他人」とか「渡る世間に鬼はなし」とかいう言葉は、この人たちの涙から生れたものだ。――千之助は老人の話を聞くたびに、素のまま飾らない生き方、本当に人間らしい生き方がわかるように思う。
「あの病人を抱えて、十九のおよね[#「およね」に傍点]でさえ生きてゆく、どうだい先生」千之助は苦笑しながら自分にこう問いかけた、「五躰満足な男が、なにもそうあわてふためくことはないじゃないか」
茶でも淹《い》れようと思っていると、路地を入って来た足音がこの家の前で停り、戸口へどしんと躯をぶつける音がした。振向くと、がらがらと戸が開いて、誰かが土間へ転げこんだ。
「誰だ、――定公か」
こう云ったが返辞がない、いって障子を明けると、くの字なりに躯を折って苦しそうに喘《あえ》いでいる、よく見るとおよね[#「およね」に傍点]である。千之助は肩を持って援《たす》け起こそうとしたが、ひどい酒の匂いをさせて、海月《くらげ》のように力がない、両手を脇の下へ入れて抱きあげるように部屋へ入れた。――戸障子を閉めて戻ると横になったまま、「済みません、少し休ませて下さいまし」と云う、舌がもつれている。千之助は座蒲団を折って頭の下へ入れてやった。
「水をやろうか、苦しいだろう」
「先生そんなこと、罰が当りますよ」
彼は立って、湯呑へ水を汲《く》んで来てやった。およね[#「およね」に傍点]は九分どおり息もつかずに飲み、ちょっと頂いて置くと、また横になって眼をつむった。
「橋のところまで来たら急に酔いが出てきちゃって」そんなことを呟く、「お祖父《じい》さんに心配させるのが厭ですから、少しさめるまで休まして頂こうと思って」
千之助は我知らず眼をそむけた。
「こんな恰好をお見せしては、あいそをつかされるわねえ、先生」暫《しばら》くしておよね[#「およね」に傍点]はこう呟いた、「でもしようがない、もうどっちでもいいんだもの、――夢もおしまい、みんなおしまいになっちゃったんだから、おんなじことだわ」
千之助はそっと振向いた。およね[#「およね」に傍点]は眼をつむっている、つむっているその眼尻から、涙が頬へ糸をひいている。
「――先生」
と呼ぶので答えると、そろっと片方の手を出した。千之助がそれを握ってやると、急に寝返りをうち、男の手のひらへ顔を伏せて泣きだした。俯伏《うつぶ》せになった背中が烈しく波をうち、彼の手はひたひたと涙で濡れた。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「珍しいじゃないか、よね[#「よね」に傍点]坊が泣くなんて」千之助はわざと笑いながら云う、「店でなにかあったんだね、話してごらん、誰かに悪口でも伝われたのかい」
およね[#「およね」に傍点][#「よね」に傍点]は答えなかった、四半刻ばかりも経つと起上って座り、涙を拭きながらこちらを見た。笑おうとするらしい、唇が顫《ふる》えて歪《ゆが》む。
「済みません、すっかり甘えてしまって、お驚きなすったでしょ、先生」
「まごついたことは慥《たし》かだ、少しはさっぱりしたかい」
「もう大丈夫ですわ、おかげさまで」
「じゃ話してごらん」千之助はさりげない眼つきで云った、「いったいなにがどうしたんだ」
「なんでもないんですよ、ただ甘えてみたくなっただけ」およね[#「およね」に傍点]は辛うじて笑う、「先生を吃驚させてあげようと思って、ほほほ、でも本当に泣いちまってはあたしの負けね、さ、おいとましましょう」
「話せないんだね」
こんどの眼つきは厳しかった。
「本当になんでもないんですよ」およね[#「およね」に傍点]は帯を直しながら立つ、「なんにもある訳がないじゃありませんか、あら、まだふらふら、――ごめんなさいましね、先生」
腑《ふ》におちないものがあった。普通のようすではない、幾ら勤めが勤めとはいえ、酔うほど飲むというのもおかしいし、もらした言葉にも隠れた意味がありそうだ。――寝苦しい夜である、けれども夜半すぎに降りだした雨の音で、いつか眠りにひきこまれていた。
朝になると、すっかり雨はあがった。彼は芋粥を仕掛けて置いて、久方ぶりの朝湯にでかけた。態と虎が来ていて挨拶をした。嘘ではない、熊吉に虎造、向う路地に住んでいる大工の手間取で、十三の年から同じ頭梁《とうりょう》の下で育ち、同じ時いっしょに頭梁の家を出た、長屋一軒を借りて二年いっしょに暮し、去年の十一月それぞれ女房を貰って、隣り同志に世帯を分けた。
どっちも大柄の肥えた躯であるが、虎が胸から手足から顔まで毛深いのと、熊が滑らかな膚で脛毛《すねげ》もなく、髪も疎《まば》らだし眉毛も薄いところだけ違っている――仲の良いことはもう断わるまでもないだろう、然し長屋百数十軒かのうちで、この二人ほど喧嘩をする者もない、尤《もっと》もそのきっかけはたいていばかげた詰らないもので、いつも長屋じゅうを笑わせてけりがつくという風だ。……つい最近の一つを紹介すると「竜問答」というのがある。熊吉が「竜てえやつはなにを食うだろう」というのが始まりだった。虎造は、「あれあ蛇の甲羅をへた[#「へた」に傍点]ものだから、蟇《がま》げえろ[#「げえろ」に傍点]だ」と云った。
「馬鹿あ云え竜は百獣の王といわれるくれえのものだ、そんなしみったれた物を食う道理がねえ、第一おめえ蛇が甲羅をへた[#「へた」に傍点]のはおろち[#「おろち」に傍点]かうわばみ[#「うわばみ」に傍点]になるんで、竜たあまるっきり人別が違わあ」
「おめえたいそう学があるな、偉えもんだおったまげた、へえ、竜と蛇とは人別違えかい、じゃあ訊《き》くが竜はなにからわく[#「わく」に傍点]んだ」
「孑孑《ぼうふら》みてえなことを云やあがる、竜はわく[#「わく」に傍点]とは言わねえ昇天するってんだ」
「昇天たあなんだ」
「龍が生れることよ、孑孑はわく[#「わく」に傍点]人間はお誕生で竜は昇天、百獣の王だから奉ってあるんだ、ざまあみやがれ」
「ちょいと待ちねえ、おめえさっきから百獣の王てえことを云うが、講釈で聞いてみねえ百獣の王ってなあ獅子のこったぜ」
「うーん痛えところを突きゃあがった、なるほど、百獣の王は獅子よ、竜はそのあれだ、それ、なによ、万物の霊長てえんだ、吃驚して鼻血でも出すな」
「なんだか他処《よそ》で聞いたような苗字だが、まあいいや、それはそうとして餌《えさ》の話にしよう、蟇げえろ[#「げえろ」に傍点]でなけれあなにを食うんだ」
「定ってらあ細工物よ」
「細工物たあどんな細工物だ」
「細工なら好き嫌いはねえ、なんでも食わあ」
「じゃあ莨盆《たばこぼん》なんぞも食うか」
「食わなくってよ」
「箪笥《たんす》だの文庫だのはどうだ、帳場格子だの銭箱だの机だの長持だのみんな食うか」
「束で持出しゃあがったな、安心しねえみんな食うから」
「証拠はあるのか」
「あるのねえのって番太でも知ってらあ、細工はりゅうりゅう[#「りゅうりゅう」に傍点]ってよ」
「この野郎」
と云うなりぽかっと拳固《げんこ》が飛んで、取組み合いになった。
「珍しゅござんすね先生、稽古はお休みですか」
「ああ休みだ、おまえ達はどうした」
「わっちは日当付きの保養でげす」虎造が顎《あご》を撫でる、「おほん、なんせにんげん利巧でねえとつとまりやせんのさ」
「また喧嘩か、よく飽きないもんだ」
「いえこうなんで」熊吉が頭へ載せた手拭を取る、「ゆうべ夜中に降りだしたでしょう、すると虎の野郎が壁越しにこの雨は朝まで続くか続かねえかと云やがるんで、わっちはちょうど山の神と、とっとっと――で、なんしたもんですから、篦棒《べらぼう》め人をみくびるな、朝まで続いたらどうするってどなったんで、そうしたらこの野郎、もし続かなかったらどうするってやがる、どうするものか一日分の日当そっくり呉れてやると云ったんでさ、……そうなるとこっちも意地だ、山の神にも因果をふくめましてね」
「頓痴奇《とんちき》なもんですぜ先生」虎はげらげら笑いだす、「この野郎まるっきり勘違えをやらかしゃあがって、朝起きた面てえものは青瓢箪《あおびょうたん》に眼鼻でさ、頬ぺたなんざあげっそりそげちまって、ふがふがーってやがった」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
「なんだと云ったら、おれの勝ちだって、こっちはまだ気がつかねえ、眼を明いてよく見ろ、お天道さまが出て青空だ、雨も上ったぜ、こう云ってやると野郎妙な面あしやがって、またふがふがふがーってやがる、情けねえ声でしたぜ、ゆうべなア雨の話かって、おめえなんだと思ったんだ、こう訊きますとね、恨めしい眼つきをして、雨ならあがる[#「あがる」に傍点]とか晴れるとかいうがいい、いっぱい食ったって怒ってやがる」
「そうじゃありませんか先生」熊吉はぶるんと湯で顔を洗う、「晴れるとかあがる[#「あがる」に傍点]かならわかりまさあ、それをいかがわしいうろん[#「うろん」に傍点]なことをぬかすから」
「おれにはなんのことかさっぱりわからない」千之助は苦笑しながら柘榴口《ざくろぐち》を出た、「どっちにしろそれが二人の楽しみなんだろう、まあ一日ゆっくりやるがいい」
風呂から出て来ると、路地口にある棗《なつめ》の樹の若葉に眼をひかれた。晴れあがった青空へ高くぬいた枝々に、浅みどりの柔らかそうな細かい葉が、きらきらと音もなく風にそよいでいる。眺めていると郷愁に似た想いが胸にわく、遙《はる》かに遠く誰かの呼ぶ声が聞えるようでもあった。
なにか仕合せなことでも起こりそうな、豊かな気持で家へ帰ると、ちょうど鋳掛屋の女房が来て台所を明けようとしていた。
「いたずらにこんな物を作ってみたんですが」お兼は前掛の下から鉢を出した、「お口に合うかどうですか、――うちの故郷のほうでよくするんですって、あがってみて下さいまし」
「それはどうも、又さんは幾らかいいかい」
「ああ昨日は先生」お兼は低く頭を下げた、眼があげられない、「おかげさまで今朝はずっと楽だと云ってますの、あとで玄庵さんが来て下さる筈ですから――」
「それはよかった、まあ大事に」
お兼は明るい眼つきになっていた。亭主の又吉は十五日ほどまえに仕事先で屋根から墜ち、脛を挫《くじ》いて臥ていたのである。親方なしの請負いだし、仕事先が薄情な家で、薬代の一文も出そうとはしなかった。おまけに初めに掛った骨接ぎが下手で、玄庵という医者にやり直して貰ったが、そこの肉が挫いた骨へどうとかしたそうで、五六十日は働けまいということなのである。
――朝飯に貰った物を摘むと蕗《ふき》の葉を佃煮《つくだに》にしたものだった、東北の郷土料理で庄内にいた頃はよく喰べた、では又吉は北のほうの生れなのだろう。ふるさと遠く病む、佃煮のほろ苦い味のなかに千之助はふとそういう言葉を噛《か》み当てるような気持がした。
あと片づけをして、残った芋粥をひと杓子《しゃくし》、小皿に取って壁際へ置くと、待っていたように鼠が一匹ちょろちょろと出て来た。裏の戸袋の隅に穴があってそこから来る、初めはまだ足つきも危ないほど小さかった、黒いつぶらな眼でこっちを見ながら、落ちている米粒を噛んでいた、退屈まぎれに少しずつ馴らしたら、今では皿に取ってやるのを待ち兼ねて出て来る。
おかしなことに朝と定っているし、他の鼠は決して姿を見せない。もうすっかり大きくなって、千之助がなにか指で摘んでやると、側へ来て両手で指からじかに取って喰べる。――鼠は小皿の前まで来て止り、例の山葡萄のような黒い服でこっちを見た、千之助は横になってついにこりとする。
「おまえまだ神さんや子供はないのか、うん、そろそろ嫁取りの年頃なんだろうが、嫁を持ったら他の家へゆくんだぞ、おれもやがてお救い小屋の仲間だからな、うん、人間なんて――」
こんなことを呟いていたがふと口を噤《つぐ》んだ。隣りでおよね[#「およね」に傍点]の声がする、ひそひそ声なので却《かえ》って耳についたのだろう。
「ええお願いします、事によると今夜は帰れないかも知れませんから――」
これだけ聞くと千之助は起き直った。寄るかと思ったが、およね[#「およね」に傍点]はそのままいこうとする。彼は戸口へ出て呼び止めた。
「およね[#「およね」に傍点]坊、ゆうべの忘れ物がある、お寄り」
およね[#「およね」に傍点]は恟《ぎょ》っとした、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》する、然し千之助の厳しい眼を見ると俯向いて、しおしおとこっちへ戻って来た。
「お上り」こういって彼は部屋へあげ、座るのを待って静かに云った、「ゆうべの忘れ物、どうしてあんなに酔ったのか、どうしてあんなに泣いたのか、醒《さ》めてみたら聞く積りでいたんだ、話してごらん、――断わっておくが、今日はごまかしはきかないよ」
およね[#「およね」に傍点]は、暫く俯向いていた。言いたくないらしい、千之助はこわい眼をし唇をひき結んで黙っている、嘘やごまかしでは済まない、およね[#「およね」に傍点]にはそれがよくわかった。
「あたし、お客さまの物を盗んだんです」いきなりこう口を切った、「いつもあたしにしつこいことを云うお客でした、お武家で、もう老人の方です、――すぐみつかって」
「始めから話してごらん、筋のとおるように話さなくちゃあわからない」
およね[#「およね」に傍点]はちょっと考えてから話しだした。三月ほどまえから八百梅へ来る侍客があった。「舟さま」と呼ばれて、商人風の男と来て人を遠ざけて密談をし派手に飲み食いをし、その割にはしみったれた心付を置いて帰る。先月あたりからだろう、宴が終ってから独り居残って、およね[#「およね」に傍点]を相手にながいことねばっていくようになった。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
身の上や暮しのもようを、諄《くど》く訊く調子や、そぶりに厭らしさがみえ始めたと思ったら、祖父の面倒もみてやるから妾《めかけ》になれと云う、……いつも名指しで給仕に呼ばれ、酒にも料理にもうるさくって文句の多いうえに、帳場や朋輩に恥ずかしいほどしか心付を置かない、それで妾が聞いて呆《あき》れると、こっちはまじめに返辞をする気さえなかった。――昨日またその「舟さま」が来て、三人の客と飲み食いをして帰ったあと座敷を片づけていると座蒲団の下から紙入が出て来た、舟さまの席である。
「魔がさしたとか出来ごころとか、そんな逃げ口上は云いません、あたしお金が欲しかった、紙入の中を見ると十二三両あります、いつも我儘《わがまま》を言うくせに気恥ずかしいほどの心付しか置かない客、ぬけぬけ妾になれなどと厭らしいことを云う客、――たった一両でいい、そのくらいは貸し分になってるくらいだ、……ええあたし抜きました、小判を一枚」
云いかけておよね[#「およね」に傍点]はがたがたと身を震わせた。そのときの動転した気持が返ってきたのだろう、袖口をぎゅっと噛んで、蒼《あお》くなって、やや暫く息を鎮める風だった。
「――そのとたんに帰って来たんです、そのお客が、まるでどこかから見てでもいたように、すっと入って来てあたしの前に立ちました、……そして、馬鹿のように立っているあたしの手から紙入を取り、中の物をそこへすっかりあけて、丹念に金を調べるんです、あたしは口も利けずに見ていましたが、もう我慢できなくなって、帯の間から小判を出し、堪忍して下さいと言いながら――」
千之助は胸を抉《えぐ》られでもしたように、眉と眼をひとつに絞って脇へそむいた。……待客は難題をふっかけてきた、「十両足りない」と云う、これまでにも三度あった、訴えるというのである。
およね[#「およね」に傍点]はもう逆上ぎみで、どうか堪忍して下さいと繰り返す許りだ、そこで客は座り直した、改めて酒を運ばせ、およね[#「およね」に傍点]にも飲ませた。切り出した話は云うまでもあるまい。およね[#「およね」に傍点]は承知した、そして酔ったのである。
「その一両は、薬代だね」千之助が嗄れた声で言った、「――それで、今日からその客に身を任せる積りだったんだね、貞女、いや孝女というやつか」
およね[#「およね」に傍点]は歯をくいしばっている。千之助はそっぽを向いたまま続ける。
「およね[#「およね」に傍点]は金が入用だった、お祖父さんのために、一両という金がどうしても入用だった、有るところには唸《うな》っている、然しおよね[#「およね」に傍点]にはその欲しい一両という金がない、普通のことでは算段のつかない暮しだ、……その客は料理茶屋へ繁しげ通い、右から左へ遣い棄てている、一両ぐらいの金はなんでもあるまい、およね[#「およね」に傍点]が一枚ぬく気になったのは無理がないかも知れない、――だがなあよね[#「よね」に傍点]坊、おまえだってそれが善いことだと思ってした訳じゃあないんだろう、悪いと知ったら、みつかった時どうして吐を据えなかったんだ、どうして突出して下さいと云わなかったんだ」
千之助は、ちょっとそこで言葉を切る、およね[#「およね」に傍点]はひきいられるように耳を澄ます、こんな調子で千之助がものを云ったことはなかった、ひと言ひと言が針を打たれるように痛い、だがそれはもっと強くもっと烈しく、びしびし打って貰いたいような痛さだ。およね[#「およね」に傍点]は息がはずんできた。
「貧乏人の弱さはそういうとき吐の据わらないところにある、他人の物をとるということはよくせきだ、然し貧窮するとどうしてもそうしなければならない場合がある、およね[#「およね」に傍点]もそうしなきゃあならなかったんだ――だとすればあたしが悪かった、どうか訴えて下さいとなぜ云えない、そのときになって内聞にしようとか、世間に恥を曝《さら》したくないとか考える、そこが彼等のつけめなんだ、貧乏人ほど世間をおそれ、悪いことを恥じるものはない、彼等はそれをよく知っている、そこをつけめに網を掛ける、その客も初めからそこを覘《ねら》って仕組んだんだ」
こう云って、千之助はおよね[#「およね」に傍点]を見た。
「こんな子供|騙《だま》しの手に掛って、ぐすぐすべそをかくようなよね[#「よね」に傍点]坊とは知らなかった。それならおれがとっくに口説くんだったよ、――その客はいつごろ来るんだ」
「暮れてからと云ってました」
「先へいっておいで、暮れるまえにおれがいく、侍なら、云ってやることがあるんだ、きれいに話をつけてやるよ」
千之助は吐を立てた、恐ろしく吐を立てている。庄内で勘定奉行と衝突した時の何十倍も吐が立つ、どこの侍か知らないが、おそらく役目を利用して流行のぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売でもやり、あぶく銭を掴《つか》んだうえの脳天気《のうてんき》だろう、それにしても細腕に病人を抱えた貧しい娘を、あくどい仕掛けで泣かせようとは男の風上にも置けないやつである。
――どう云って面の皮を剥《は》いでやろう、殆んど半日、彼はそのことだけを思いめぐらしていた。大根河岸の八百梅は二階造りのかなり大きい建物だ。千之助がいったのはまだ早かったが、露地づくりの入口には打水盛塩がしてあり、濡れた飛石の面に清《すが》すがしく植込の竹が影をおとしていた。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
知らない年増《としま》の女中に案内されたのは狭い座敷だ、窓を明けると堀が見える。たぶん彼の来ることが話してあったのだろう、茶を運んで来たのはおよね[#「およね」に傍点]だった。着換えて、薄化粧をしている、いつも見馴れたのとは段違いに美しい。
「いやだわ、そんなにごらんになって」およね[#「およね」に傍点]は眼の隅で睨《にら》んだ、「顔になにか付いてますか」
「鏡を見るんだね、――まだ来ないんだろう、酒でも貰おうか」
「お好きでもないのにそんな」
「酒は好きだよ、飲めないから飲まなかったまでのことさ」千之助はにこりとする、「せっかく八百梅に上ったんだ、この家の自慢のもので一杯やっていこう」
およね[#「およね」に傍点]は詫《わ》びたげな眼で見て立つ、千之助は窓框《まどがまち》へ腰を掛けた。――堀の向うは銀座一丁目、河岸には印の付いた白壁の倉が並んでいる、倉と倉の間から黄昏《たそがれ》どきの忙しい往来が見え、大きな柳の枝隠れに人が集まって騒いでいる。
「富岡八幡の千両富、――大当りは……」などと喚くのが聞える、富籤《とみくじ》の当り触れらしい。
「大当りをもういちど、ええ鶴の」
という声に千之助はちょっと耳を澄ます。
「鶴の――ひゃく……じゅうご番」
はっきり届かないが、鶴の百なん十五番かである、さすがにどきりとする、どきりとしてから自分で衒《て》れ、舌打ちをして空を見る。濃い紫色に暗紅の縁どりをした棚雲がある、なにかの鳥が渡っている、捨てて来た故郷の山河が眼にうかび、太息《といき》をつきながら腕組みをした。
白鱚《しらきす》の糸作りに蟹《かに》うに[#「うに」に傍点]で酒が出た。独りがいい、およね[#「およね」に傍点]を去らせて、久しぶりの盃《さかずき》を手酌でしみじみと啜《すす》る、それだけで豊かな気持だ、ふしぎに心が軽くなる。
「鶴の百なん十五番か、富兵衛きっと蒼くなったろう」
こんなことを呟く、なに自分だってどきりとしたくせに、――行燈へ灯がはいった、膳の上には汁椀や焼物の皿が並び、酒は二本めで、快く酔いが出てきた。
およね[#「およね」に傍点]がなにも持たずに入って来て座る、眼を見ると、頷《うなず》いて燗《かん》徳利を取り、酌をする。
「伴《つ》れがあるのか」
「え、お武家らしい方が一人、――いまお膳を置いて来たところです」
「隣りへ移れるか」
「ええ、明いています、家の者にもひととおりいってありますから」およね[#「およね」に傍点]は微笑する、「仰しゃるとおりにしましたの、お帳場でみんなに、残らず恥を話しました、いい気持です」
「あたりまえさ、大したことじゃない」
間もなく席を移した。階下へおりて中廊下をゆき当ると、一間ばかりの渡りがあって別棟の座敷に続く、こっちは平屋で座敷が三つ四つあるらしい。千之助の通されたのは控えのような六帖だった。――坐って盃を取ると、隣りの話し声がよく聞える、一人は風邪をひいているとみえて、甲高い咳《せき》をし、鼻をかみ、がさがさ嗄れた声で話す、片方は聞き役で、うむ、はあ、さようなどと、合槌《あいづち》をうつ許り、時どき大きな追従笑いをする。――話はぬけ[#「ぬけ」に傍点]商売の事だ、大阪へやる回米船の一|艘《そう》を新川へもぐらせてある、二百俵下ろして捌《さば》くのだが例の仲買の手[#「手」に傍点]が邪魔になるというようないきさつだ。
「そいつらは拙者が引受けます」相手が初めて口らしい口をきく、「仲買の手[#「手」に傍点]というのは猿島屋ですよ、わかっとります、彼等ならですね、――すか、猿島屋ならもう御心配は御無用ですよ」
千之助は思わずにやにやとした、池野念流先生である、さる大藩の重役からさし迫った仕事を頼まれていると云った、これがその「仕事」なるものに違いない。聞いていると頻りと「すか」「すか」とやっている。――そこへおよね[#「およね」に傍点]が酒を持って来た、千之助はそっと囁《ささや》く。
「舟さまというのはどっちだ、いま饒舌《しゃべ》ってるほうか」
「咳をしているほうですわ、ほらあの咳」
そうだろう、まさか念流先生の筈はない。頷いておよね[#「およね」に傍点]をゆかせ、暫くしてそっと襖際《ふすまぎわ》へすり寄った、さる大藩の重役というのが見たくなったのだ。然し襖は重くびっしりと合わさっている。やめにして戻って、盃を取った。――間もなく女中が隣りの客を案内して来た、侍である。
「やれやれ」
千之助は盃を置いて横になった。当人が独りにならなければ具合が悪い、念流先生を驚かすのは罪だ、彼は眼をつむった。
「どうなさいました」
およね[#「およね」に傍点]が来てそっと囁いた。
「お酔いになったんですか」
「独りになったら知らせて呉れ、それまでひと眠りしよう、いや飯はたくさんだ、水でも持って来といて貰おう」
別の女中が水を持って来た、ひと口飲んでまた横になったが、すぐに恟《ぎょ》っとして頭をあげた。後から来た客の声に聞覚えがある、声も声であるがその訛《なま》りは忘れられない、なつかしい山河と切離すことのできない庄内訛りだ。
千之助は座り直した。
血が騒ぎだす、そうだ、慥かに庄内の侍だ、間違いはない、するとあの咳は、――あのがさがさした声は、……血はもっと騒ぎだす、三年まえの昂奮《こうふん》が返ってくる、握り緊めた拳が震える、――勘定奉行だ、あの咳も嗄れ声も渡辺仁右衛門のものだ、紛れない、あの古狸め江戸詰になったのか、千之助はむずとあぐらをかいた。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
およね[#「およね」に傍点]が知らせに来たとき、彼は肱枕《ひじまくら》で横になっていた。これから座敷へいくといっておよね[#「およね」に傍点]が去ると、起直って水を飲んだ。さっきの昂奮はもう鎮まっている、洒落の一つも云いたいくらいである。
――隣りへおよね[#「およね」に傍点]が入った。
「今日はまるで姿をみせなかったな、まあこっちへ寄れ、はは、祝言の盃だ」
まだ酔ってはいない、酔った振りをしているが声は慥かである。
「どうした、十九にもなればそううじうじする年でもあるまい、とにかく一杯、これは女から飲むものだろう、済んだら駕《かご》を呼んでな、家は向島だ、これ、世話をやかせるな、わしは気が短い」
手でも取ったのだろう、「あれ」という声がした。千之助は刀を左手にさげ、間の襖を明けて入ると、ずかずかいって正対に座った。向うは六十近い年頃であるが、中肉の精悍《せいかん》な躰格で髪も眉も艶《つや》つやと黒い、正しく渡辺仁右衛門、細い眼でぎろりと見たが、およね[#「およね」に傍点]の手を突放し、脇息《きょうそく》へ左の肱を凭《もた》せて、「なんだ」と云う、こっちを忘れているらしい、千之助はぐっとおちついて相手を見た。
「およね[#「およね」に傍点]から精《くわ》しいことを聞いたので、挨拶に来たんです、女は単純だから話にならない、貴方の冗談をほんとにしているんです、なにしろ子供のように泣いているんですからね」
「私は冗談は嫌いだ」と相手もおちついたものである、「女の泣く姿も悪くはないものさ」
「私はまた女の泣くのと年寄りの色狂いくらい嫌いなものはありませんね、それも刀を差して武家だと威張る人間が無頼も恥じるような罠《わな》を仕掛けて、娘の首の根を取って押えるなんかは卑劣も下の下だ、――おやめなさい、よしたほうがいいですよ」
「それよりおれが亭主だと云わないのかい」こう云って老獪《ろうかい》に冷笑する、「話の諄いのは御免|蒙《こうむ》る、片をつけるなら早くして呉れ、幾ら欲しいんだ」
「安くまけましょう、米二百俵」
老人は脇息の肱をあげた。
「まだ思いだしませんか渡辺さん」千之助はにこりと笑う、「三年まえに庄内で喧嘩をした相手です、貴方にとっては厭なやつだった、やっぱり闇討ちにしなくちゃいけなかった、これならわかるでしょう」
老人の唇が歪んで歯が見えた。
「杉田、――杉田、千之助」
「それだけで驚いちゃあ困ります、藩の回米船を一艘はじいて、新川から横へ捌く話も聞いているんです、――渡辺さん、一両の藪《やぶ》をつついて大変な蛇を出しましたね」
「待って呉れ、杉田、話がある」
「いや話は庄内でついていますよ」千之助はおよね[#「およね」に傍点]を促して立上った、「尤も断わって置きますが、二百俵の米は藩の方から貰います、その位の値打はあるでしょうからね、貴方もこれが最後だ、ひとつ試しにじたばたしてみるんですね」
千之助はさっさと廊下へ出たが、振返って笑い乍《なが》らいった。
「貴方は誤解しているようだからいいますがね、およね[#「およね」に傍点]は決して私の女房じゃありません、そんなことは考えてもいませんよ、およね[#「およね」に傍点]が怒ります」
渡辺仁右衛門は、じたばたした。老人はその年の二月、江戸邸の勘定奉行になった。不正な金をばら撒《ま》いて身方に付けた者が少なくない、然し千之助の投じた石は意外に大きな波紋を起こし、老人は役を解かれて同類と共に吟味ちゅう牢舎《ろうしゃ》ということになった。
――だがそんなことはどっちでもよかろう、五日めに千之助へ二百俵の米が無償で払い下げになった。彼は百五十俵をお救い小屋の施用に献納し、残りの五十俵を孫兵衛店の長屋へ配った。
米俵が長屋へ運び込まれた時の長屋の騒ぎは御想像に任せよう。四カ所で俵を開き、すっかり配り終った時はもう夜になっていた。千之助はどうしたろう。彼は家で酒を飲んでいる。長屋の持主で質商の杵屋《きねや》孫兵衛、差配、表通りの三河屋、米問屋の大助などという人物が、酒肴持参で昼から押掛けていた。
「やっぱりお武家だ」
「そう云っても出来ないこった」
「御入国以来こんな話は初めてだ」
定り文句である。然し下町人の、いざとなれば肌をぬぐ気持が嘘でなく表われている。彼等の感動を、千之助はすなおに受取った。――そうだ、これがなにかのきっかけになるかも知れない。なにかが新しく転換するかも知れない。人間というものはいいものだ、生きるということはいいものだ。八時になると、客は帰っていった。給仕をしていたおよね[#「およね」に傍点]は、いちど祖父をみに家へいったが、すぐに戻って来て、あと片づけに掛った。
「お疲れでしょう、先生、横におなんなさいましな」
「米は配り終えたんだね」
「ええもう済みました、――みんな夢じゃないかしらって、中には泣いている人もいましたわ、明日はお礼に来る人でたいへんですよ」
「じゃあ、夜が明けたら逃げだすことにしよう」
「あら――」汚れ物を台所へ持っていったおよね[#「およね」に傍点]が吃驚したように声をあげる、「だあれ、そこにいるの誰よ」
「どうしたんだ、なんだ、よね[#「よね」に傍点]坊」
「台所に誰か寝て……あら厭だ、富さんじゃないの、先生、こんな処に富さんが寝ているんですよ」
「うっちゃっといて呉れ」富三の声である、呂律[#「ろれつ」に傍点]がよくまわらないようだ、「おらア死ぬんだ、人を馬鹿にしやがって、くそくらえ」
千之助が立っていく、流し前の簀子《すのこ》の処へ富三が丸くなっている、「おい富兵衛」と呼ぶとびくっと足を縮めた。
「そんな処で威張ってもしょうがない、こっちへ上れ、酒があるぜ」
「先生ですか」
富三は顔をあげる。
「ああ先生だ、ふへへへへ」
「妙な声を出すな、笑うのか泣くのか」
「あっしア駄目です先生、いけません、この世にゃあ神も仏もねえ、あっしア死んじゃいます」
「下らないことを云うな、富が外れたくらいで」
「いいえ当ったんだ、外れたんならいいが当っちゃったんです」
「当ったア……寝言を言っちゃあいけない、確《しっか》りしろ」
「寝言でも嘘でもねえ鶴の百三十五番、千両の大当りなんで、だからあっしアふへへへへへ」
「千両富に当って泣くやつがあるか」
「そこが神も仏もねえと云うんでさ、あっしア先生に当ると云った、富の字三つぞろい、印が鶴で百三十五のかぶ[#「かぶ」に傍点]、当ること間違いなしといいました、ところがそれを、ふへへへへへ、売っちまった」
「売ったって、その富札をか」
「あの明くる朝でさ、三分で買おうといわれたもんで、どうせ当るめえと思って売っちまった、これまで一遍も当ったことがねえんですから、それにあまり縁起が揃い過ぎてるんでこいつは凶に返るだろうと思ったんでさ、そいつが――いいえもう駄目です、止めねえでお呉んなさい、なんでえ人を馬鹿にしやがって、あっしア死にます」
およね[#「およね」に傍点]がまず失笑《ふきだ》し、千之助も笑った。笑いながら部屋へ戻った。
「そのまま寝かして置け、醒めたら起きて来るだろう」
そう云って、彼もごろっと肱枕で横になった。およね[#「およね」に傍点]はそれを見て枕を取出し、そっと頭の下へ入れてやる。
「罪な真似えするな」台所で富三が喚く、「――持ってりゃあ外れて、売りゃあ当る、そんなちょぼ一があるか、――なにが富岡八幡だ、八幡なんざあ怖かあねえ、権現も、金毘羅《こんぴら》もくそくらえだ、やいおれに千両けえしゃアがれ」
およね[#「およね」に傍点]は掛けてあった袷《あわせ》を取り、千之助の脚から腰へそっと衣《き》せる。
「先生――」と小さな声で呼ぶ。千之助が眼をあげる、およね[#「およね」に傍点]はその眼を眤《じっ》とみつめ、つとそむきながらおののくような声で囁く。
「あたし、怒りなんか、しませんわよ」
底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
1983(昭和58)年12月25日 発行
底本の親本:「講談雑誌」
1948(昭和23)年4月号
初出:「講談雑誌」
1948(昭和23)年4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ