harukaze_lab @ ウィキ
聞き違い
最終更新:
harukaze_lab
-
view
聞き違い
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蔀伝蔵《しとみでんぞう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)々|焦《じ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
-------------------------------------------------------
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
天和三年二月はじめのある日、――津村平次郎は水戸二番町の自分の家で、朋友の蔀伝蔵《しとみでんぞう》と田宮流の剣法談を交わしていた。
その当時水戸家の大番組に和田兵助という居合の達人がいた、田宮流の中興と称せられた人で、家中の若手は多くその門に就いていたが、津村平次郎は少年の頃から江戸邸にあって小野派一刀流を学び、すでに奥伝まで許されていたから、先年国許へ帰ってからも改めて田宮流の門を叩こうとはしなかった。――しかし予てその刀法の優れている点は聞き知っていたので、折々同流の出色である伝蔵にその道を聞く事は怠らなかった。
黄昏近い頃であった、やや語り疲れて茶を命じようとしていると、不意に庭先へはせ入って来た者がある、平次郎と同役の中小姓雨田金右衛門だった。――彼は平次郎独りと思ったか、縁先へ走り寄りさま、うわずった声で叫んだ。
「津村! 拙者武道の意地でこれから鞍馬陣兵衛と果し合いをしに行く、後の事を頼むぞ」
「…………」
平次郎は黙っていた。
「相手が陣兵衛ゆえ生きて帰るつもりは無い、母と絹代の事を頼んだぞ」
重ねて叫んだが平次郎は答えなかった。――相対していた蔀伝蔵が気遣わしそうに、
「――津村……」
と注意しかけた時、
「なぜ返辞をせぬ」
金右衛門が怒声をあげた、
「答えの無いのは不承知か、心を許した友と思ったから後事を頼みに来たのに、一言の会釈もせぬとは無礼であろう」
「声が高いぞ雨田」
平次郎は静かに障子を開けながら云った。「友達だからこそ黙っていたんだ」
「――――」
「果し合いをすると聞けば止めなければなるまい、だから拙者はわざと聞かぬ振をしていたのだ、――貴公に万一の事があれば云われなくとも後始末はする、如何にも引受けたから存分に立合って来い!」
「…………」
金右衛門は障子を開けられて初めて、そこに蔀伝蔵のいる事を知ったらしい、けれどもうそれに驚く余裕は無かった、――彼は平次郎を憎悪の眼で睨みながら、
「それには及ばぬ、その様子で貴様の友情も底が知れた、もう頼まんぞ!」
喚くとともに、踵を返して走り去った。
平次郎は眉をひそめながら、取乱したその後姿を見送っていた。蔀伝蔵はちょっと取付き端のない白けた気持で、しばらく黙っていたが、
「津村、見に行ってやらぬか、陣兵衛が相手では本当に斬られてしまうぞ」
「行ったところで仕方がない、果し合いは当人同志の事だし、拙者の痩腕ではとても陣兵衛に勝てはしない」
「――雨田は斬られてしまうぞ」
伝蔵は念を押すように繰返した、しかし平次郎は取合わずに座を立った。
夕食を共にして伝蔵が帰り去ると、しばらくして平次郎は家を出た、金右衛門の様子が知りたかったのである。――鞍馬陣兵衛というのは半年まえから水戸家に客分として滞在している武芸者であった。自ら『鞍馬古流』と唱える特異の剣法に長じ、仕官を目的にやって来たものである。その技法の鋭さは驚くばかりで、家中の士一人として敵する者無く、和田兵助でさえ三本の内二敗したくらいであった。しかし藩主光圀は、
――当分滞在して遊んでゆくがよい。
と云っただけで、別に召抱えるとは云わずに今日に及んでいた。
陣兵衛としては腕に自信があるし、現に藩の指南番格である和田兵助にも勝っているのだから、当然相当の食禄で迎えられるものと思っていたが、時日が経っても一向にその沙汰がないので、近頃では少々|焦《じ》れ気味になったか、暴慢無礼の振舞いが多く、若い家臣とのあいだにしばしば諍《いさか》いを起していた。――そして今日の金右衛門との問題が突発したのだ。
雨田の家へ行ってみると、人の出入りで混雑していた。
――やられたな。
直ぐにそう感じられた。
「御母堂にお眼にかかりたい」
そう云って訪れると、家扶はにべ[#「にべ」に傍点]もなく、
「お取次はなりかねます、お帰り下さい」
と答えた。――あのとき金右衛門が捨て科白のように云った言葉を思い出した。平次郎は黙って立去った。
翌日になると、果し合いの模様が城下一般にひろまった。立合いは梅の馬場で行なわれ、金右衛門は抜合せる暇もなく、陣兵衛の一撃のもとに斃れたという。
――即日、金右衛門はみだりに私闘をした儀不届きとあって食禄召上げ、遺族は親類預けときまってしまった。しかし陣兵衛の方にはなんのお咎めもなかったのである。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
五日ほどたったある日、――平次郎が下城してくると、途中で金右衛門の妹絹代に呼び止められた。待ち受けていたらしい。
「ぜひお話し申したい事がございますの」
「向うへ行きましょう」
人眼を避けるために、平次郎は屋敷町の裏へ抜けた。
二人は一年以前から許嫁の仲であった。絹代は雪のような肌をした小柄の体つきで、いつも伏眼がちにしていたが、表情の濃い眸子《ひとみ》と唇つきのあでやかな美しい乙女で、年齢は六つ違いの十九であった。
「お話を伺いましょう」
「――いつ陣兵衛を討って頂けますの?」
平次郎は静かに眼をあげて、
「拙者に討てというのですか」
「わたくしは、……いいえ! 死んだ兄もきっとそう信じていると存じます。津村さま、あの日兄がお訪ね致しましたのも、そのためではございませんでしょうか?」
「貴女には本当の事を云います」
平次郎は沈痛に云った、「金右衛門は助太刀を頼みに来たのです、拙者は直ぐにそう感じました、そして無論助太刀をしたかったのです、しかしその座には蔀伝蔵がいた、彼は拙者と貴女の仲を知っている、――絹代さん、妹の縁で助太刀をしてもらったと云われて、金右衛門の武道が立ちますか」
絹代は眼を伏せて頷いた。
「金右衛門は取乱していました。ああ云って来れば必ず拙者が助太刀に出るものと、きめていた態度も未練だし、拙者の応対を取違え、早合点に怒って帰った様子も不心得千万です。……あの夜、見舞いに伺った拙者を御母堂がお断わりになったのは何故か、貴女は知っているでしょう」
「――はい」
「金右衛門は拙者を頼むに足らぬ奴だ、友情を知らぬ奴だと云いに寄ったのでしょう、……おそらく、貴女との約束も破棄すると」
「津村さま!」
絹代はさえぎるように云った。
「どうぞ陣兵衛をお討ち下さいまし、おっしゃる通り兄はお約束をほごにすると申し、母もそのように思っている様子ですの、けれど貴方が陣兵衛をお討ち下されば、きっと……」
「拙者は討とうとは思いません」
「――まあ」
「主君の御馬前に捧げた命を、いたずらな私闘のために失うのは武道をはずれています」
「では兄は武道を踏みはずしたとおっしゃるのですか」
「金右衛門はおそらくそうせざるを得なかったのでしょう。しかし拙者は陣兵衛に何の恩怨もない、討つべき理由がありません」
絹代はかなしげな、疑うような眼でじっと平次郎を見まもっていたが、やがて無言の会釈をするとそのまま逃げるように去って行った。
津村平次郎が陣兵衛を討つだろうと思っていたのは絹代だけではなかった。家中の人々も今に彼が果し合いを挑むに違いないと云い、そうなったら勝敗はいずこにあるかと下馬評がしきりにとんだ。そしてその噂は当然、鞍馬陣兵衛の耳にも伝わらずにはいなかったので、平次郎を見る彼の眼は次第に敵意を含んできた。――しかし当の平次郎だけはそんな評判を耳にもとめず、今までどおりすこしも変わらぬ勤めぶりを続けていたのである。
こうして半月ほどたった時、城中の遠侍で二人のあいだにちょっとした諍いが起った。――入ろうとする平次郎と、出ようとしていた陣兵衛の刀の鞘が触れ合ったのである。
「――あ、失礼仕った」
平次郎が会釈するより早く、
「無礼者!」
と陣兵衛が喚いたので、すわこそ! と居合せた人々は一斉に注視した。
「この広い場所で鞘当てを致すとは不心得千万、それともなんぞ意趣があってのことか」
「失礼仕った、決して意趣などはござらぬ、思わぬ粗忽ですから平に御容赦下さい」
「――貴公、津村と云われる仁だな?」
「いかにも津村平次郎でござる」
陣兵衛は冷笑に顔を歪めながら、
「噂によると、雨田金右衛門の仇とか申して拙者を狙っているそうだが、今こそまたとない好機会ではないか、――果し合いの申込みならいつでも承知するぞ」
「思いもよらぬこと、金右衛門は己の武道を立てるために致したことで、拙者から仇の敵のと申す筋はござらぬ、左様な噂は平にお聞き流し願いたい」
「それが本心なら貴公は命冥加な男だ、長生きをするぞ」
「左様、誰しも命は惜しいものでござる」
平次郎は鄭重に会釈して別れた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
平次郎の評判はにわかに悪くなった。
満座の中で喧嘩を売られながら、ひら謝りに謝ったうえ、「命は惜しいもの」と云ったのだから、日頃彼と親しくしていた人々も唖然とした。ことに血気の多い連中は、平次郎の顔を見るたびに、
「――命は惜しいもの」
だとか、
「鞍馬は怖いもの」
などと聞えよがしに嘲弄し始めた。
けれど平次郎はすこしも動ずる気色がなく、平然と勤めもするし、人附合にもかかさず出ている、どんなに嘲弄されても柳に風と受流して恬然たるものだった。
蔀伝蔵だけは衆評に構わず、日次《ひなみ》には必ず剣談をするために訪ねて来たが、ある日――待ちくたびれたという口調で、
「事実が訊きたい!」
と容《かたち》を改めて云った、
「貴公は本当に鞍馬を討つ気はないのか」
「――無い!」
「それでは済まぬと思うがどうか」
「お上の家臣として、私闘は出来ぬ!」
「……本心だな?」
「心にもないことを云う拙者ではない」
伝蔵はそれ以上何も云わなかった。――そして彼もまた、それ以来|頓《とみ》に姿を見せなくなった。
月が変って三月七日のことだった。
光圀は城内の的場で矢を射ていた、お側には根来甚太夫、村田弥兵衛、殿屋十右衛門、それに津村平次郎の四名が控えてお相手をしていた。――一刻あまり熱心に射ていたが、ふと思い出した風に弓をおいて、
「鞍馬と申す武芸者はまだいるか」
と訊いた。
「は、まだ滞在致しております」
陣兵衛を推挙した根来甚太夫が答えた、
――光圀はあらぬ方へ眼をやりながら、
「面白からぬ風評が耳に入る、もう去らせるがよかろう」
「おそれながら、諸侯の懇望をしりぞけてまで、お上に御随身を望んで参りました者、抜群の腕はすでに御尊覧にも供えました通りでございます、かかる達人をお召抱えあそばすこそ、御家の御為と存じまする」
「無用だ。総じて藩主たる者はむざ[#「むざ」に傍点]と浪人を取立てるものではない、身命を賭して仕えた譜代の臣ですら、軽禄に甘んじて勤労を励んでいるのに、如何に武芸すぐれた人物たりとも、由縁《ゆかり》のない者を高禄で召抱えては、家中に人無きようで見苦しいものだ、――そればかりではない、彼は真の武士とは云い難いぞ」
「は、――」
「直ぐに当地を立退かせい」
「承知仕りました」
甚太夫は拝揖《はいゆう》して退った。――光圀は再び弓をとりなおし、しばらく射続けていたがふと[#「ふと」に傍点]、
「平次郎――」
と振返って、「その方行って甚太夫の扱いを見届けて参れ」
「は!」
平次郎はかしこまって直ぐに去った。
根来甚太夫の家は大手外にある、平次郎は玄関の脇から庭へ入り、客間の縁先へつかつかと進み寄った。――そこでは今、甚太夫が鞍馬陣兵衛と対談しているところだった。
「――御免!」
そう云う声に、はじめて気付いた二人が振返るより早く、平次郎は縁へ上って、
「上意でござる」
叫びざま抜討ちに陣兵衛の左腕を斬ってとった。
「あ! 何をする」
「津村※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
甚太夫は仰天して叫ぶ、陣兵衛は左腕を斬放されながらも、神速に体を捻りながら右手で大剣を抜いた、しかし踏込んだ平次郎はそれより疾く、その右の肩を胸まで斬下げていた。
半刻の後。――
平次郎は光圀の前に平伏していた。光圀は今、一足先に伺候した甚太夫から仔細を聞いたところである。
「――平次郎、その方陣兵衛を斬ったと申すが事実か」
「は、御意の通りにございます」
「余は甚太夫の扱いを見届けよと申した、斬れとは云わぬぞ」
「それは、心得ませぬ」
平次郎は面をあげて、
「私はたしかに討取って参れと伺いましたので、いささか不審とは存じましたが」
「何が不審だ、斬れと申付ける訳がないではないか」
「では私の聞き違いでございましたか」
平次郎はかすかに笑を含んで光圀を見上げた、光圀はその眼をはた[#「はた」に傍点]と睨んで、
「仕様のない奴だ、人を斬っておいて聞き違いということがあるか」
「実は四五日耳の具合が悪かったものですから、充分気をつけていたのでございますが。しかし私の考えと致しましては、あのような浪人者は仕官がならぬとなりますと、えてして他藩へ参っては悪口を申すもので、もし左様なことがあってお上の御外聞にも及びましては迷惑と存じましたゆえ――これは斬る方がよいのだなとかように独り合点を仕りました、実に何とも申し訳がござりませぬ」
「黙れ――」
光圀は叱りつけるように云った。
「取返しのつかぬ失態、本来なればきっと申付くべきところだが、耳の悪いために聞き違えたとあっては是非もない、謹慎を命ずるゆえ早く――耳の治療をするがよいぞ」
平次郎は黙って平伏した。
聞き違いではあっても、陣兵衛を斬ったのは私闘では無かった。――彼はただその機会の来るのを待っていたのである、云うまでもない、まもなく彼は絹代を妻に娶った。
底本:「滑稽小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年1月10日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 11版発行
底本の親本:「講談倶楽部」
1938(昭和13)年12月号
初出:「講談倶楽部」
1938(昭和13)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蔀伝蔵《しとみでんぞう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)々|焦《じ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
-------------------------------------------------------
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
天和三年二月はじめのある日、――津村平次郎は水戸二番町の自分の家で、朋友の蔀伝蔵《しとみでんぞう》と田宮流の剣法談を交わしていた。
その当時水戸家の大番組に和田兵助という居合の達人がいた、田宮流の中興と称せられた人で、家中の若手は多くその門に就いていたが、津村平次郎は少年の頃から江戸邸にあって小野派一刀流を学び、すでに奥伝まで許されていたから、先年国許へ帰ってからも改めて田宮流の門を叩こうとはしなかった。――しかし予てその刀法の優れている点は聞き知っていたので、折々同流の出色である伝蔵にその道を聞く事は怠らなかった。
黄昏近い頃であった、やや語り疲れて茶を命じようとしていると、不意に庭先へはせ入って来た者がある、平次郎と同役の中小姓雨田金右衛門だった。――彼は平次郎独りと思ったか、縁先へ走り寄りさま、うわずった声で叫んだ。
「津村! 拙者武道の意地でこれから鞍馬陣兵衛と果し合いをしに行く、後の事を頼むぞ」
「…………」
平次郎は黙っていた。
「相手が陣兵衛ゆえ生きて帰るつもりは無い、母と絹代の事を頼んだぞ」
重ねて叫んだが平次郎は答えなかった。――相対していた蔀伝蔵が気遣わしそうに、
「――津村……」
と注意しかけた時、
「なぜ返辞をせぬ」
金右衛門が怒声をあげた、
「答えの無いのは不承知か、心を許した友と思ったから後事を頼みに来たのに、一言の会釈もせぬとは無礼であろう」
「声が高いぞ雨田」
平次郎は静かに障子を開けながら云った。「友達だからこそ黙っていたんだ」
「――――」
「果し合いをすると聞けば止めなければなるまい、だから拙者はわざと聞かぬ振をしていたのだ、――貴公に万一の事があれば云われなくとも後始末はする、如何にも引受けたから存分に立合って来い!」
「…………」
金右衛門は障子を開けられて初めて、そこに蔀伝蔵のいる事を知ったらしい、けれどもうそれに驚く余裕は無かった、――彼は平次郎を憎悪の眼で睨みながら、
「それには及ばぬ、その様子で貴様の友情も底が知れた、もう頼まんぞ!」
喚くとともに、踵を返して走り去った。
平次郎は眉をひそめながら、取乱したその後姿を見送っていた。蔀伝蔵はちょっと取付き端のない白けた気持で、しばらく黙っていたが、
「津村、見に行ってやらぬか、陣兵衛が相手では本当に斬られてしまうぞ」
「行ったところで仕方がない、果し合いは当人同志の事だし、拙者の痩腕ではとても陣兵衛に勝てはしない」
「――雨田は斬られてしまうぞ」
伝蔵は念を押すように繰返した、しかし平次郎は取合わずに座を立った。
夕食を共にして伝蔵が帰り去ると、しばらくして平次郎は家を出た、金右衛門の様子が知りたかったのである。――鞍馬陣兵衛というのは半年まえから水戸家に客分として滞在している武芸者であった。自ら『鞍馬古流』と唱える特異の剣法に長じ、仕官を目的にやって来たものである。その技法の鋭さは驚くばかりで、家中の士一人として敵する者無く、和田兵助でさえ三本の内二敗したくらいであった。しかし藩主光圀は、
――当分滞在して遊んでゆくがよい。
と云っただけで、別に召抱えるとは云わずに今日に及んでいた。
陣兵衛としては腕に自信があるし、現に藩の指南番格である和田兵助にも勝っているのだから、当然相当の食禄で迎えられるものと思っていたが、時日が経っても一向にその沙汰がないので、近頃では少々|焦《じ》れ気味になったか、暴慢無礼の振舞いが多く、若い家臣とのあいだにしばしば諍《いさか》いを起していた。――そして今日の金右衛門との問題が突発したのだ。
雨田の家へ行ってみると、人の出入りで混雑していた。
――やられたな。
直ぐにそう感じられた。
「御母堂にお眼にかかりたい」
そう云って訪れると、家扶はにべ[#「にべ」に傍点]もなく、
「お取次はなりかねます、お帰り下さい」
と答えた。――あのとき金右衛門が捨て科白のように云った言葉を思い出した。平次郎は黙って立去った。
翌日になると、果し合いの模様が城下一般にひろまった。立合いは梅の馬場で行なわれ、金右衛門は抜合せる暇もなく、陣兵衛の一撃のもとに斃れたという。
――即日、金右衛門はみだりに私闘をした儀不届きとあって食禄召上げ、遺族は親類預けときまってしまった。しかし陣兵衛の方にはなんのお咎めもなかったのである。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
五日ほどたったある日、――平次郎が下城してくると、途中で金右衛門の妹絹代に呼び止められた。待ち受けていたらしい。
「ぜひお話し申したい事がございますの」
「向うへ行きましょう」
人眼を避けるために、平次郎は屋敷町の裏へ抜けた。
二人は一年以前から許嫁の仲であった。絹代は雪のような肌をした小柄の体つきで、いつも伏眼がちにしていたが、表情の濃い眸子《ひとみ》と唇つきのあでやかな美しい乙女で、年齢は六つ違いの十九であった。
「お話を伺いましょう」
「――いつ陣兵衛を討って頂けますの?」
平次郎は静かに眼をあげて、
「拙者に討てというのですか」
「わたくしは、……いいえ! 死んだ兄もきっとそう信じていると存じます。津村さま、あの日兄がお訪ね致しましたのも、そのためではございませんでしょうか?」
「貴女には本当の事を云います」
平次郎は沈痛に云った、「金右衛門は助太刀を頼みに来たのです、拙者は直ぐにそう感じました、そして無論助太刀をしたかったのです、しかしその座には蔀伝蔵がいた、彼は拙者と貴女の仲を知っている、――絹代さん、妹の縁で助太刀をしてもらったと云われて、金右衛門の武道が立ちますか」
絹代は眼を伏せて頷いた。
「金右衛門は取乱していました。ああ云って来れば必ず拙者が助太刀に出るものと、きめていた態度も未練だし、拙者の応対を取違え、早合点に怒って帰った様子も不心得千万です。……あの夜、見舞いに伺った拙者を御母堂がお断わりになったのは何故か、貴女は知っているでしょう」
「――はい」
「金右衛門は拙者を頼むに足らぬ奴だ、友情を知らぬ奴だと云いに寄ったのでしょう、……おそらく、貴女との約束も破棄すると」
「津村さま!」
絹代はさえぎるように云った。
「どうぞ陣兵衛をお討ち下さいまし、おっしゃる通り兄はお約束をほごにすると申し、母もそのように思っている様子ですの、けれど貴方が陣兵衛をお討ち下されば、きっと……」
「拙者は討とうとは思いません」
「――まあ」
「主君の御馬前に捧げた命を、いたずらな私闘のために失うのは武道をはずれています」
「では兄は武道を踏みはずしたとおっしゃるのですか」
「金右衛門はおそらくそうせざるを得なかったのでしょう。しかし拙者は陣兵衛に何の恩怨もない、討つべき理由がありません」
絹代はかなしげな、疑うような眼でじっと平次郎を見まもっていたが、やがて無言の会釈をするとそのまま逃げるように去って行った。
津村平次郎が陣兵衛を討つだろうと思っていたのは絹代だけではなかった。家中の人々も今に彼が果し合いを挑むに違いないと云い、そうなったら勝敗はいずこにあるかと下馬評がしきりにとんだ。そしてその噂は当然、鞍馬陣兵衛の耳にも伝わらずにはいなかったので、平次郎を見る彼の眼は次第に敵意を含んできた。――しかし当の平次郎だけはそんな評判を耳にもとめず、今までどおりすこしも変わらぬ勤めぶりを続けていたのである。
こうして半月ほどたった時、城中の遠侍で二人のあいだにちょっとした諍いが起った。――入ろうとする平次郎と、出ようとしていた陣兵衛の刀の鞘が触れ合ったのである。
「――あ、失礼仕った」
平次郎が会釈するより早く、
「無礼者!」
と陣兵衛が喚いたので、すわこそ! と居合せた人々は一斉に注視した。
「この広い場所で鞘当てを致すとは不心得千万、それともなんぞ意趣があってのことか」
「失礼仕った、決して意趣などはござらぬ、思わぬ粗忽ですから平に御容赦下さい」
「――貴公、津村と云われる仁だな?」
「いかにも津村平次郎でござる」
陣兵衛は冷笑に顔を歪めながら、
「噂によると、雨田金右衛門の仇とか申して拙者を狙っているそうだが、今こそまたとない好機会ではないか、――果し合いの申込みならいつでも承知するぞ」
「思いもよらぬこと、金右衛門は己の武道を立てるために致したことで、拙者から仇の敵のと申す筋はござらぬ、左様な噂は平にお聞き流し願いたい」
「それが本心なら貴公は命冥加な男だ、長生きをするぞ」
「左様、誰しも命は惜しいものでござる」
平次郎は鄭重に会釈して別れた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
平次郎の評判はにわかに悪くなった。
満座の中で喧嘩を売られながら、ひら謝りに謝ったうえ、「命は惜しいもの」と云ったのだから、日頃彼と親しくしていた人々も唖然とした。ことに血気の多い連中は、平次郎の顔を見るたびに、
「――命は惜しいもの」
だとか、
「鞍馬は怖いもの」
などと聞えよがしに嘲弄し始めた。
けれど平次郎はすこしも動ずる気色がなく、平然と勤めもするし、人附合にもかかさず出ている、どんなに嘲弄されても柳に風と受流して恬然たるものだった。
蔀伝蔵だけは衆評に構わず、日次《ひなみ》には必ず剣談をするために訪ねて来たが、ある日――待ちくたびれたという口調で、
「事実が訊きたい!」
と容《かたち》を改めて云った、
「貴公は本当に鞍馬を討つ気はないのか」
「――無い!」
「それでは済まぬと思うがどうか」
「お上の家臣として、私闘は出来ぬ!」
「……本心だな?」
「心にもないことを云う拙者ではない」
伝蔵はそれ以上何も云わなかった。――そして彼もまた、それ以来|頓《とみ》に姿を見せなくなった。
月が変って三月七日のことだった。
光圀は城内の的場で矢を射ていた、お側には根来甚太夫、村田弥兵衛、殿屋十右衛門、それに津村平次郎の四名が控えてお相手をしていた。――一刻あまり熱心に射ていたが、ふと思い出した風に弓をおいて、
「鞍馬と申す武芸者はまだいるか」
と訊いた。
「は、まだ滞在致しております」
陣兵衛を推挙した根来甚太夫が答えた、
――光圀はあらぬ方へ眼をやりながら、
「面白からぬ風評が耳に入る、もう去らせるがよかろう」
「おそれながら、諸侯の懇望をしりぞけてまで、お上に御随身を望んで参りました者、抜群の腕はすでに御尊覧にも供えました通りでございます、かかる達人をお召抱えあそばすこそ、御家の御為と存じまする」
「無用だ。総じて藩主たる者はむざ[#「むざ」に傍点]と浪人を取立てるものではない、身命を賭して仕えた譜代の臣ですら、軽禄に甘んじて勤労を励んでいるのに、如何に武芸すぐれた人物たりとも、由縁《ゆかり》のない者を高禄で召抱えては、家中に人無きようで見苦しいものだ、――そればかりではない、彼は真の武士とは云い難いぞ」
「は、――」
「直ぐに当地を立退かせい」
「承知仕りました」
甚太夫は拝揖《はいゆう》して退った。――光圀は再び弓をとりなおし、しばらく射続けていたがふと[#「ふと」に傍点]、
「平次郎――」
と振返って、「その方行って甚太夫の扱いを見届けて参れ」
「は!」
平次郎はかしこまって直ぐに去った。
根来甚太夫の家は大手外にある、平次郎は玄関の脇から庭へ入り、客間の縁先へつかつかと進み寄った。――そこでは今、甚太夫が鞍馬陣兵衛と対談しているところだった。
「――御免!」
そう云う声に、はじめて気付いた二人が振返るより早く、平次郎は縁へ上って、
「上意でござる」
叫びざま抜討ちに陣兵衛の左腕を斬ってとった。
「あ! 何をする」
「津村※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
甚太夫は仰天して叫ぶ、陣兵衛は左腕を斬放されながらも、神速に体を捻りながら右手で大剣を抜いた、しかし踏込んだ平次郎はそれより疾く、その右の肩を胸まで斬下げていた。
半刻の後。――
平次郎は光圀の前に平伏していた。光圀は今、一足先に伺候した甚太夫から仔細を聞いたところである。
「――平次郎、その方陣兵衛を斬ったと申すが事実か」
「は、御意の通りにございます」
「余は甚太夫の扱いを見届けよと申した、斬れとは云わぬぞ」
「それは、心得ませぬ」
平次郎は面をあげて、
「私はたしかに討取って参れと伺いましたので、いささか不審とは存じましたが」
「何が不審だ、斬れと申付ける訳がないではないか」
「では私の聞き違いでございましたか」
平次郎はかすかに笑を含んで光圀を見上げた、光圀はその眼をはた[#「はた」に傍点]と睨んで、
「仕様のない奴だ、人を斬っておいて聞き違いということがあるか」
「実は四五日耳の具合が悪かったものですから、充分気をつけていたのでございますが。しかし私の考えと致しましては、あのような浪人者は仕官がならぬとなりますと、えてして他藩へ参っては悪口を申すもので、もし左様なことがあってお上の御外聞にも及びましては迷惑と存じましたゆえ――これは斬る方がよいのだなとかように独り合点を仕りました、実に何とも申し訳がござりませぬ」
「黙れ――」
光圀は叱りつけるように云った。
「取返しのつかぬ失態、本来なればきっと申付くべきところだが、耳の悪いために聞き違えたとあっては是非もない、謹慎を命ずるゆえ早く――耳の治療をするがよいぞ」
平次郎は黙って平伏した。
聞き違いではあっても、陣兵衛を斬ったのは私闘では無かった。――彼はただその機会の来るのを待っていたのである、云うまでもない、まもなく彼は絹代を妻に娶った。
底本:「滑稽小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年1月10日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 11版発行
底本の親本:「講談倶楽部」
1938(昭和13)年12月号
初出:「講談倶楽部」
1938(昭和13)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ