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新造船の怪
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新造船の怪
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)在《あ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)療|鞄《かばん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
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[#3字下げ]造船所の惨劇[#「造船所の惨劇」は中見出し]
霧の深い五月のある朝、まだ明けきっていない時分に、神戸市和田岬に在《あ》る「日本造船所」の附属病院の扉《ドア》をけたたましく叩く者があった。――当直医の八木五郎《やぎごろう》医学士は、丁度《ちょうど》これから寝室へ入ろうとしていた時なので、すぐ玄関へ出て扉《ドア》を開けると、造船部の若い職工が真蒼《まっさお》な顔をして立っている。
「――どうしたんだ」
「早く、早く来て下さい」
職工は声を顫《ふる》わせて叫んだ。
「人が殺されているんです!」
「なに殺人だって、――※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
八木医学士は吃驚《びっくり》した。
その三月に東京の医科大学を出て、直《す》ぐこの造船所附属病院へ赴任して来たばかり、まだほやほやの医学士だったが、学校時代から医術と胆力には自信がある。殺人と聞いた瞬間ぎくりとしたが、直ぐに引返《ひきかえ》して医療|鞄《かばん》を取って来ると、
「さあ行こう、何処《どこ》だ」
「六番|船渠《ドック》です」
職工は先に立って走った。
六番|船渠《ドック》は排水してあって、殆《ほとん》ど竣工した新型の船が一艘、霧の中にぼんやりと見えている。
「一体どうしたんだね」
「あの船は西田|博士《はかせ》の設計で、機関部に重要な秘密があるため、毎晩博士と技手の二人が宿直しているのです、――ところが今朝、私が出勤してみると、技手の峰村さんが機関室の扉《ドア》の外で血まみれになって殺されているんです、私は吃驚《びっくり》して……」
「警察へは届けたのか」
「病院へ行く途中で友達に頼みました」
話すうちに二人は新造船へ着いた。
上甲板には既に、出勤して来た職工たちが四五人、隅の方へ集って不安そうに何か囁《ささや》き合っている、八木医学士は職工の案内で機関部へ下りて行った。――そこは下甲板の後部で、暗い電灯がぼんやり廊下を照しているばかり、船窓《まど》は西向になっているので、まだ未明の朝の光は届かなかった。
「そら、其処《そこ》です」
職工が顫えながら指さす処《ところ》を見ると、機関室の厳重な扉《ドア》の前は、まるで赤ペンキをぶちまけたように一面の血で、その血溜りの中に峰村という技手が倒れていた。
「む……是《これ》ぁ酷《ひど》いな」
八木は眉をひそめながら跼《かが》んだ。
傷は頭である、鉄棒ででも撃ったのか、頭の後のところが砕けて惨憺《さんたん》たる有様《ありさま》――。
「西田博士を知らんかね?」
八木は職工の方を振返《ふりかえ》って訊ねた。
「はあ、この死体を見て仰天したもんですから、まだ博士のお部屋へは行きません」
「それは不可《いか》ん、博士にも何か危険があったかも知れない。行ってみよう」
そう云《い》って立上《たちあが》った時、死体の頭の蔭に妙な物を発見した。
「おや、――?」と跼《かが》んで見ると、セルロイド製の小さな人形《キューピー》である。然もそれが血まみれになっているのだ、――八木医学士は何故《なぜ》か慄然《ぞっ》とした。
「血まみれの人形《キューピー》……」
子供の手に温かく抱かれていてこそ愛らしい人形である、それが殺された死体の側に、血まみれになっているのだから、凡《およ》そこんなに無気味なものはない、――慄然《ぞっ》としながらも八木は、そこに事件の謎があるのではないかと考えた。
博士の部屋は中甲板にあった。
「此室《ここ》で毎晩博士と峰村技手が宿直しているんです」
そう云って職工が何気なしに扉《ドア》を開けたが、
「あ、博士も死んでいる※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と悲鳴をあげた。――八木は押退《おしの》けるようにして船室の中へ入った、室内には仕事机と椅子《いす》が三脚、隅の方に寝台が二つ並んでいて、右の寝台の下に、――寝衣《パジャマ》の上から外套《オーバー》を着た西田博士が倒れていた。
八木は駈寄《かけよ》って博士を抱起《だきおこ》したが、
「大丈夫死んではいない、麻酔剤で睡《ねむ》らされているだけだ、――君、済まんが手を藉《か》して呉《く》れ、寝台へあげるんだ」
[#3字下げ]奇妙な暗合[#「奇妙な暗合」は中見出し]
八木医学士の手当が功を奏して、間もなく博士は麻酔から覚めた。――そして、第一に訊ねたのは峰村技手の安否だった。
「お気毒《きのどく》ですが、――駄目でした」
「ああ畜生、悪魔め※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
峰村技手が死んだと聞くと、博士は半ば白くなった髪を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》って叫んだ。
「間諜《スパイ》だ、間諜《スパイ》の仕業《しわざ》だよ君、もう半年も前から奴等は狙っていた。儂《わし》の発明した『D・Hエンジン』の機密を盗むために。――儂《わし》は要慎《ようじん》していた、その為に毎晩ここで峰村と宿直していたんだ。だが昨夜《ゆうべ》はうっかり油断して拳銃《ピストル》を忘れて来た……それを奴等は見ていた」
「犯人を御覧になったのですか」
「否《いや》、――峰村が見廻りに出て行くと直ぐ、儂《わし》は寝台へあがって仮睡《うとうと》し始めたのだ。そして何だか息苦しいと気がついた時は、もう麻酔剤を嗅がされたらしい、――しまった、峰村が危い……と思って起上《おきあが》ろうとしたが、そのまま眠って了《しま》ったのだ」
博士はまだ頭が痛むらしく、眉を顰《しか》めながら寝台の上で跼《かが》みこんだ。
「失礼ですが、新D・Hエンジンの機密というのはそんなに重要なものなんですか」
「そんなに重要かって――?」
博士は憤然と顔をあげて、
「重要だとも、殆ど燃料界の革命的な発見だ。是は君にだけ初めて話すのだが、――現在いちばん精巧なエンジンでも、重油を完全に燃やす能力しかないだろう、ところが儂《わし》の発明した機関は、一度燃えつくした瓦斯《ガス》体を、再び原《もと》の燃料に引戻して又燃やすことが出来る、――従って重油の消費量は今までの約二百分の一で足りるのだ」
八木医学士は、理化学にはそれ程|精《くわ》しくはなかったが、「新エンジン」の性能《はたらき》を聞かされて驚愕した。――なる程それなら間諜《スパイ》も狙う筈《はず》である、若《も》しそれが完全なもので、今後軍器に応用されるとすると、世界各国が最も頭痛の種にしている「燃料」の点で、断然日本が優位を占める事になるのだ。
「ではその秘密を、若しや昨夜《ゆうべ》間諜《スパイ》共に盗まれたのではないでしょうか」
「その点は大丈夫、機械を見ただけでは到底分る訳はない、設計図は自家《うち》の秘密金庫の中に蔵《しま》ってあるから安全だ」
話しているところへ、警官や検事の一行がどやどやと入って来た。
現場に立合った医師として警官や検事の訊問を受けた八木医学士は、それから一時間ほどして病院へ帰って来た。
病院の食堂では、既に噂を聞いたらしく、若い医員たちが集って頻《しき》りに殺人事件の話をしていたが、八木の入って来るのを見ると一斉に椅子を寄せて口々に精しい様子を聞こうとする。
「まあ待って呉れ、僕はまだ朝飯まえなんだぜ、兎《と》に角《かく》ひと口喰ってからだ」
急《せ》きたてる同僚たちを前に、軽い朝食を済ませた八木は、やがて珈琲《コーヒー》を啜《すす》りながら見た儘《まま》を話して聞かせた。
「――で、犯人の手懸りは?」
「それは警官諸君の仕事さ、然《しか》し……どうも僕にはあの『血まみれの人形《キューピー》』に事件の謎があるように思われるんだ」
血まみれ人形《キューピー》の話は医員たちにも余程強い印象を与えたらしい、みんな妙に気味悪そうな顔をしていたが、――ふと、瀬沼という医員が振返って、
「おい、奇妙な暗合があるぞ、半年ほどまえに、起重機《クレーン》から墜《お》ち、頭骸骨を粉砕して死んだ職工があったろう、あれは僕が検診したんだが、その死体の傍に血まみれになって人形《キューピー》が転げていた。あとで聞いた話に依《よ》ると、その職工が子供の土産《みやげ》に買ったものだ相《そう》だが、いまの話とよく似ているじゃないか」
「然し今度の峰村技手はまだ独身だよ」
「その職工は何処《どこ》の部に勤めていたんだね?」
八木が訊いた。瀬沼はすぐに、
「たしか西田博士の新造船で塗料工をしていた筈だ、その時西田博士も駈けつけて来て、余り無惨な死態《しにざま》を見て驚いたのだろう、脳貧血を起して倒れたのを覚えている」
「気毒《きのどく》に、――すると西田氏には『血まみれ人形《キューピー》』の悪運が附いて廻ってるんだな」
八木医学士は同情の溜息をついた。
その日の午後から、日本造船所の周囲には厳重な警戒網が張られた。警官隊の必死の捜査も空しく、犯人の手懸りは何等得るところが無かった。――結局のところ西田博士の言葉通り、「新D・Hエンジン」の機密を盗むために、間諜《スパイ》が入込んだものと認める外《ほか》はない、そこで兵庫県警察部は全力を挙げて造船所の警戒に当ったのである。
それにも拘らず、第二の事件はそれから三日めの夜、同じ船、同じ場所で起った。博士と共に宿直していた吉川継男という若い技手が惨殺されたのである。
[#3字下げ]血塗れ人形[#「血塗れ人形」は中見出し]
出勤して事件を聞いた八木五郎は、現場《げんじょう》に立合った医員の波岡のところへ直《ただ》ちに駈けつけた。
「おい、また殺人だって?」
「――あ、八木君」
波岡は蒼白い顔をして、
「ひどい死体だ、後頭部を砕かれて惨憺たる有様さ、警官たちが調べたけれど今度もてんで犯人の手懸りはないそうだ、――あれだけ厳重な警戒をしていたのに。何処《どこ》から侵入して何処《どこ》へ逃げるのか、まるで幽霊のような奴だ」
「何か変った事はなかったか?」
「――君は、人形《キューピー》の事を訊くんだろう」
波岡は低い声で、
「――在った、在ったよ、死体の側に血まみれになって……」
「……血まみれになって? 人形《キューピー》が……」
八木医学士はぶるっと身慄《みぶる》いをした。もう偶然の暗合とは云えない、――理由は分らないが、その人形《キューピー》こそ犯人が置いて行った物だ。憎むべき殺人魔、呪うべき兇漢が、被害者を惨殺した後、その血の中へ人形《キューピー》を置いて行くのに相違ない。
「然し――何のためだ?」
八木は呟《つぶや》いた、「そんな馬鹿な事をすれば重大な手懸りになるじゃないか、エンジンの機密を盗みに来る程の者が、そんな狂気じみた真似をするだろうか?」
謎だ、奇怪な謎がそこにある。
「博士はどうした?」
「矢張《やは》り麻酔剤を嗅がされて、雑具室の中へ引摺込《ひきずりこ》まれていた。幸い何処《どこ》にも怪我《けが》はなかったが、重ね重ねの事ですっかり昂奮しているから、いま十八号室へ運んで来て安静に寝かしてある」
博士が無事だった事は不幸中の幸いである、八木は波岡と別れると、その足で十八号室を訪ねた。――博士は折よく起き上って珈琲《コーヒー》を啜っているところだった。
「どうも飛《と》んだ事で、――」
「ああ君か、またやられたよ」
博士は充血した眼をあげて、「警察の力なんて当《あて》にならぬものだ、奴等はまるで木偶坊《でくのぼう》みたいだ、――あんな奴等に警戒させて置くより、犬でも飼って置く方がよっぽど増《まし》だ、吉川を殺したのはあの無能な警官共なんだ」
博士はまだ昂奮が鎮まらぬらしく、拳《こぶし》を突出《つきだ》しながら怒号した。そして直ぐに、両手で顔を蔽《おお》いながら、
「可哀相な峰村、可哀相な吉川」と呟きつつ咽《むせ》び泣くのだった。
「――お気毒《きのどく》です」
暫《しばら》く黙っていた後、八木が静かに云った。
「そこで御相談があるんです。甚《はなは》だ差出《さしで》がましい話ですが、今夜から僕を宿直番に使って頂けないでしょうか」
「君が宿直に、――?」
「斯《こ》ういう事件には、警官の見方と違って医学的の見方というものがあります。是非とも犯人を突止めてみ度《た》いと思うのですが」
「然し危険だ、君は殺されるかも知れないぞ」
「僕の危険より、先生の新D・Hエンジンの機密を守る方が重要ではありませんか」
博士は黙って八木の顔を覓《みつ》めていたが、その一言に感激したのであろう、つと手を伸ばして八木の肩を掴みながら、
「有難う、何も云わぬ――頼むぞ」と云って外向《そっぽむ》いた。
十八号室を出た八木医学士は、いちど自分の部屋へ戻って、暫く何か書いていたが、やがて書了《かきお》えた紙を持って「造船技術部」を訪ね、そこに働いている友達の小野に会った。
「――なんだい、何か用か?」
「是を調べて貰い度いんだ」
八木は紙を渡した、「是に書いてある事が科学的に有り得る事かどうか、つまり可能か不可能か、それだけを知り度いんだ」
「宜《よろ》し、いま暇だから調べてやろう」
「出来たら届けて呉れよ、僕は今夜から六番|船渠《ドック》の新造船に泊っている」
「あの殺人船にか、――?」
驚いて間い返す小野の言葉には答えず、頼むよと繰返《くりかえ》して八木は病院へ戻った。
その夜から始まる冒検に備えて、昼のうちぐっすり眠った八木五郎は、院長に事情を話して護身用の拳銃《ピストル》を借り、(実弾は抜いてあった)午後五時には六番|船渠《ドック》へ出掛けた。――事件の後なので、今日は工事を中止し、一人も職工のいないガランとした船の中に、西田博士は唯《た》だ一人待っていた。
「やあ、よく来て呉れたね」
「御気分は如何《いかが》ですか」
「もう大丈夫だ。――珈琲《コーヒー》を淹《い》れたから一杯やり給え」
「後で頂きましょう、先に少し船内を検《しら》べたいと思いますから。否《いや》、御案内には及びません僕一人でやります」
「そう、――ではそのあいだに儂《わし》は些《ちょ》っと事務所まで行って来よう、検べが済んだら此処《ここ》に珈琲《コーヒー》があるから独りで飲んでいて呉れ給え」
「有難うございます」
博士は手鞄を持って事務所へ、――八木五郎は船内捜査にと出掛けた。
[#3字下げ]恐怖の一夜[#「恐怖の一夜」は中見出し]
捜査は約三時間ほどかかった。――何処《どこ》かに犯人の隠れる場所はないか? 秘密の出入口や抜け穴はないか? ……船室の隅々、甲板の端々、壁や天井に至るまで綿密に検べたが、結局なにも得るところは無かった。
「おや、もう八時だ……」
時間に驚いて、八木は軽く疲れた体を元の船室へ運んだ。――博士はまだ帰っていなかった、電熱器で珈琲《コーヒー》を温め、椅子にかけて熱いのを啜りながら、八木は捜査の結果を考えてみた。
「第一に、犯人が外から侵入する事は非常に困難だ。何故《なぜ》なら、――六番|船渠《ドック》の周囲は警官隊が取巻《とりま》いている、出入口は舷門ひとつで、此処《ここ》を見咎《みとが》められずに通る事は不可能だからである。と云って他に抜け道もなく、秘密の隠れ場所もない……とすると犯人は?」
そこまで考えた時、その朝波岡が云った、まるで幽霊のような――という言葉が思い出された。船内は死のように静かだ、うす暗い電灯の光に照されて、ひっそりと鎮まっている殺人船……誰もいない、塵《ちり》の落ちる音さえもしない。
「――幽霊のような犯人」
八木はぶるっと身慄いをした。――然し、それは幽霊と云う言葉に怯《おび》えたのではない、もっと恐ろしい、もっと現実的な事に考えついたからである。
「博士、……博士、――」
八木は低く呟いた、「博士がいる、半年まえに起重機《クレーン》から墜ちて死んだ男、峰村技手、吉川技手、――三度とも博士が側にいた、三度とも『血まみれ人形』があった、……第一の場合は過失としても、峰村と吉川の場合は、――博士を犯人と考えれば解決がつく。外から侵入する事が出来ず、逃げ出すことも出来ない船内で殺人が行われ、二人しかいなかった一人が生残《いきのこ》ったとすれば……然も二度とも同じであるとすれば、その生残った博士こそ犯人だと見るべきではないか」
それは幽霊よりも恐るべき想像だ。
「だが、是にも疑問はある、――博士が何のために殺人を犯したか? その理由が分らぬ限りこの説明も空想に過ぎない。殺人を犯した許《ばか》りでなく、現場へ人形を置くような狂気じみた真似を……」
そこまで呟いた時、八木医学士は愕然と椅子から跳上《とびあが》った。――そして、殆ど同時に扉が開いて博士が現われた。
「やあ、遅くなって失礼」
「――――」
「いま警戒している警官たちを叱りつけてやった。奴等は怒って解散したよ」
「ええ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 警戒を解いたのですか」
「あんな木偶坊《でくのぼう》たちは役に立たぬ。君と儂《わし》の二人で充分さ、――おや、君は馬鹿に蒼い顔をしているじゃないか」
「いや何でもありません」
八木は平気を装って、「然し折角《せっかく》好意で来ているんですから、矢張り警戒はして貰う方が宜くはありませんか」
「駄目だ、邪魔になる許りだ」
博士はひどく乱暴な口調で叫ぶと、抱えていた手鞄を机の上へ叩きつけた。――その様子は八木を恟《ぎく》りとさせるに充分だった。
「ああ、――君に頼まれ物がある」
博士はふと思い出したように。「造船技術部の小野という者から、是を君に渡して呉れと頼まれて来たよ」
そう云って一通の封書を差出した。
八木は受取《うけと》って封を切った、――中から出た書簡紙《レターペーパー》には、大きな字で、
(絶対に不可能なり、太陽を逆に回転させると同様に不可能なり。こんな事を考える奴は頭が狂ってる証拠だ)
八木は書簡紙《レターペーパー》を揉み潰した。――と同時に、カチリという音を聞いたので振返ると、今しも博士が扉へ鍵をかけたところである。
「――博士! どうして鍵を」
「なに、鍵をかけちゃ悪いか――?」
博士が此方《こっち》を見た。半白の髪毛《かみのけ》が乱れ、落窪《おちくぼ》んだ眼がぎらぎらと光っている、八木は思わず後退《あとじさ》りをした――と、背中が壁へ障《さわ》って造付《つくりつ》けになっていた戸棚の扉が開いた。
扉が開くと一緒に、戸棚の中からからから[#「からから」に傍点]と軽い音を立てながら、セルロイド製の人形《キューピー》が無数に床の上へ転げ出して来た。
「あ、――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
八木は跳上った。人形、人形、人形、あの死者の側に置かれた謎のような「血みどろの人形」である。
「見たな、到頭《とうとう》……見たな」
博士は歯を剥出《むきだ》して叫んだ。八木は全身の血が一時に凍るかと思うような、凄《すさま》じい恐怖に襲われながら拳銃《ピストル》を取出した。
[#3字下げ]悪魔の笑い[#「悪魔の笑い」は中見出し]
博士はにたりと笑った。それは小兎を前にした狼のような笑《わらい》であった、――
「動くと、射つぞ」
八木は必死に叫んだ。
博士は、無気味な笑いを浮かべながら一歩一歩進んで来る。見ると右手に、――重そうな二|呎《フィート》ばかりの鉄棒を持っている、殺人兇器だ、峰村を殺した、吉川を殺した兇器、血に飢えた鉄棒。
「射つぞ、止まれ、止まれ」
八木は喉も裂けよと喚きたてた。然しその拳銃《ピストル》は実弾が抜いてあるのだ、警戒の警官たちもいない、――
「ひひひひひ」
博士は低く笑う、「到頭つかまえたぞ、この間諜《スパイ》め、儂《わし》のD・Hエンジンを盗みに来た悪魔め、もう――逃がさんぞ」
「あ……!」
博士は鉄棒を振上げて、猛然と八木をめがけて跳掛《おどりかか》った。八木は拳銃《ピストル》を投げつけ、机の蔭へ廻りこもうとしたが、椅子に躓《つまず》いて烈しく倒れた。そこへ鉄棒が打下ろされた、ばきん[#「ばきん」に傍点]と椅子の背が砕けた、八木は跳起《はねお》きて扉へとび掛った、然し厳重な樫材の扉はびくともしない、身を翻して寝台の向うへ避けようとする、追い縋《すが》った博士の左手がむず[#「むず」に傍点]と八木の肩を掴んだ。
「ひひひひ、――」
悪魔のような笑が八木の耳に触れた。八木は振返って博士の右手を掴んだ、二人はよろめき、二脚の椅子の間へだあッ[#「だあッ」に傍点]と同体に倒れた。そして獣のように荒々しく喘ぎながら捻《ね》じ合った、博士の力は恐ろしく強かった、八木は喉を絞められてくらくらと眩暈《めまい》を感じた、――とその時、右手に、さっき砕かれた椅子の背の破片が触った。八木はそれを掴んだ、とたんに博士は跳起きて鉄棒を振上げたが、振下ろす時その鉄棒が電球に当ったので、電球《たま》が砕けて船室の中は真暗闇《まっくらやみ》になった。――その闇の中で、
「きゃーッ」と云う悲鳴が起り、だあッ[#「だあッ」に傍点]と器物の倒れる物音がした。そして一時に……何も彼《か》も静まって了《しま》った。
「あんな凄い事は二度とはないだろう」
恐怖の夜は明けた。輝かしい五月の日光が燦然《さんぜん》と照りつける空を、病院の窓の外に見ながら、――頭に繃帯《ほうたい》を巻いた八木五郎医学士は、同僚の医員たちに取巻かれながら語っていた。
「つまり、ひと言で云えば博士は狂気になっていたのだ。循環燃焼機関という科学の空想を、実現しようと研究する内に、いっか次第に頭に狂いを生じ、遂《つい》には本当の狂人になって了《しま》ったのだ。――僕は博士から『一度燃えた瓦斯《ガス》体を、再び元の燃料に還元して使う』と云う、新D・Hエンジンの機密を聞かされた時、そんな不思議な事があるかと思って、念のために技術部にいる小野という友人に検討して貰ったのさ、――ところが小野は『不可能だ』と云って来た。それは太陽を逆に回転させるほど不可能で、そんな事を考える奴は頭が狂っていると云うのだ……」
八木は葡萄酒《ぶどうしゅ》で口を濡らしてから続けた。
「僕は死体の側へ人形を置く事実から、この犯人は狂気じみている――と思った、そしてその理由さえ分れば、犯人は博士に相違ないと云うところまで考えを突詰めていた。そこへ小野の批評が届いたのだ『こんな事を考える奴の頭は狂っている』……その一言で僕には凡《す》べてが了解できた。若しあの手紙が一日延びたら、僕も二人の技手と同じように、狂った博士の手で惨殺されていたに相違ない」
「然し、血まみれ人形はどうした訳さ」
「博士の空想だよ」
八木は振返って、「瀬沼君が半年まえに検診したね、あの起重機《クレーン》から墜ちて死んだ男、あの時死体の側に人形が血まみれになっていたと云ったろう。――博士はそれを見て脳貧血を起して倒れた、その時の烈しい衝動《ショック》が博士の頭にこびり着いていたんだ。犯罪の動機は、自分のエンジンの機密を間諜《スパイ》が狙っていると云う妄想から出たので、夜中になると妄想が益《ますま》す激しくなり、遂には宿直している技手までが間諜《スパイ》に見える結果、逆上して相手を殺したのだ、その証拠には昨夜も……僕のことを『この間諜《スパイ》、儂《わし》のエンジンを盗みに来た悪魔め!』と罵っていた事実で分る。そして殺害した死体を見ると、いっか起重機《クレーン》で死んだ死体を見た時の強い印象に操られて、そこへ人形を持出《もちだ》して血まみれにして置いたのだ、――斯ういうことは殺人狂によくある例で、医学的に云うと……」
と云いかけた時、一人の若い看護婦が入って来て、
「唯今、西田博士がお亡くなりになりました」
と云った。みんなは暗然と口を噤《つぐ》み、気毒《きのどく》な運命にさいなまれた学徒のために、心から哀悼の頭を垂れるのであった。
「――悲劇は終った」八木が低く呟いた、「科学の犠牲だ、……西田博士の魂に――神の祝福あれ」
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年5月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年5月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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[#3字下げ]造船所の惨劇[#「造船所の惨劇」は中見出し]
霧の深い五月のある朝、まだ明けきっていない時分に、神戸市和田岬に在《あ》る「日本造船所」の附属病院の扉《ドア》をけたたましく叩く者があった。――当直医の八木五郎《やぎごろう》医学士は、丁度《ちょうど》これから寝室へ入ろうとしていた時なので、すぐ玄関へ出て扉《ドア》を開けると、造船部の若い職工が真蒼《まっさお》な顔をして立っている。
「――どうしたんだ」
「早く、早く来て下さい」
職工は声を顫《ふる》わせて叫んだ。
「人が殺されているんです!」
「なに殺人だって、――※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
八木医学士は吃驚《びっくり》した。
その三月に東京の医科大学を出て、直《す》ぐこの造船所附属病院へ赴任して来たばかり、まだほやほやの医学士だったが、学校時代から医術と胆力には自信がある。殺人と聞いた瞬間ぎくりとしたが、直ぐに引返《ひきかえ》して医療|鞄《かばん》を取って来ると、
「さあ行こう、何処《どこ》だ」
「六番|船渠《ドック》です」
職工は先に立って走った。
六番|船渠《ドック》は排水してあって、殆《ほとん》ど竣工した新型の船が一艘、霧の中にぼんやりと見えている。
「一体どうしたんだね」
「あの船は西田|博士《はかせ》の設計で、機関部に重要な秘密があるため、毎晩博士と技手の二人が宿直しているのです、――ところが今朝、私が出勤してみると、技手の峰村さんが機関室の扉《ドア》の外で血まみれになって殺されているんです、私は吃驚《びっくり》して……」
「警察へは届けたのか」
「病院へ行く途中で友達に頼みました」
話すうちに二人は新造船へ着いた。
上甲板には既に、出勤して来た職工たちが四五人、隅の方へ集って不安そうに何か囁《ささや》き合っている、八木医学士は職工の案内で機関部へ下りて行った。――そこは下甲板の後部で、暗い電灯がぼんやり廊下を照しているばかり、船窓《まど》は西向になっているので、まだ未明の朝の光は届かなかった。
「そら、其処《そこ》です」
職工が顫えながら指さす処《ところ》を見ると、機関室の厳重な扉《ドア》の前は、まるで赤ペンキをぶちまけたように一面の血で、その血溜りの中に峰村という技手が倒れていた。
「む……是《これ》ぁ酷《ひど》いな」
八木は眉をひそめながら跼《かが》んだ。
傷は頭である、鉄棒ででも撃ったのか、頭の後のところが砕けて惨憺《さんたん》たる有様《ありさま》――。
「西田博士を知らんかね?」
八木は職工の方を振返《ふりかえ》って訊ねた。
「はあ、この死体を見て仰天したもんですから、まだ博士のお部屋へは行きません」
「それは不可《いか》ん、博士にも何か危険があったかも知れない。行ってみよう」
そう云《い》って立上《たちあが》った時、死体の頭の蔭に妙な物を発見した。
「おや、――?」と跼《かが》んで見ると、セルロイド製の小さな人形《キューピー》である。然もそれが血まみれになっているのだ、――八木医学士は何故《なぜ》か慄然《ぞっ》とした。
「血まみれの人形《キューピー》……」
子供の手に温かく抱かれていてこそ愛らしい人形である、それが殺された死体の側に、血まみれになっているのだから、凡《およ》そこんなに無気味なものはない、――慄然《ぞっ》としながらも八木は、そこに事件の謎があるのではないかと考えた。
博士の部屋は中甲板にあった。
「此室《ここ》で毎晩博士と峰村技手が宿直しているんです」
そう云って職工が何気なしに扉《ドア》を開けたが、
「あ、博士も死んでいる※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と悲鳴をあげた。――八木は押退《おしの》けるようにして船室の中へ入った、室内には仕事机と椅子《いす》が三脚、隅の方に寝台が二つ並んでいて、右の寝台の下に、――寝衣《パジャマ》の上から外套《オーバー》を着た西田博士が倒れていた。
八木は駈寄《かけよ》って博士を抱起《だきおこ》したが、
「大丈夫死んではいない、麻酔剤で睡《ねむ》らされているだけだ、――君、済まんが手を藉《か》して呉《く》れ、寝台へあげるんだ」
[#3字下げ]奇妙な暗合[#「奇妙な暗合」は中見出し]
八木医学士の手当が功を奏して、間もなく博士は麻酔から覚めた。――そして、第一に訊ねたのは峰村技手の安否だった。
「お気毒《きのどく》ですが、――駄目でした」
「ああ畜生、悪魔め※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
峰村技手が死んだと聞くと、博士は半ば白くなった髪を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》って叫んだ。
「間諜《スパイ》だ、間諜《スパイ》の仕業《しわざ》だよ君、もう半年も前から奴等は狙っていた。儂《わし》の発明した『D・Hエンジン』の機密を盗むために。――儂《わし》は要慎《ようじん》していた、その為に毎晩ここで峰村と宿直していたんだ。だが昨夜《ゆうべ》はうっかり油断して拳銃《ピストル》を忘れて来た……それを奴等は見ていた」
「犯人を御覧になったのですか」
「否《いや》、――峰村が見廻りに出て行くと直ぐ、儂《わし》は寝台へあがって仮睡《うとうと》し始めたのだ。そして何だか息苦しいと気がついた時は、もう麻酔剤を嗅がされたらしい、――しまった、峰村が危い……と思って起上《おきあが》ろうとしたが、そのまま眠って了《しま》ったのだ」
博士はまだ頭が痛むらしく、眉を顰《しか》めながら寝台の上で跼《かが》みこんだ。
「失礼ですが、新D・Hエンジンの機密というのはそんなに重要なものなんですか」
「そんなに重要かって――?」
博士は憤然と顔をあげて、
「重要だとも、殆ど燃料界の革命的な発見だ。是は君にだけ初めて話すのだが、――現在いちばん精巧なエンジンでも、重油を完全に燃やす能力しかないだろう、ところが儂《わし》の発明した機関は、一度燃えつくした瓦斯《ガス》体を、再び原《もと》の燃料に引戻して又燃やすことが出来る、――従って重油の消費量は今までの約二百分の一で足りるのだ」
八木医学士は、理化学にはそれ程|精《くわ》しくはなかったが、「新エンジン」の性能《はたらき》を聞かされて驚愕した。――なる程それなら間諜《スパイ》も狙う筈《はず》である、若《も》しそれが完全なもので、今後軍器に応用されるとすると、世界各国が最も頭痛の種にしている「燃料」の点で、断然日本が優位を占める事になるのだ。
「ではその秘密を、若しや昨夜《ゆうべ》間諜《スパイ》共に盗まれたのではないでしょうか」
「その点は大丈夫、機械を見ただけでは到底分る訳はない、設計図は自家《うち》の秘密金庫の中に蔵《しま》ってあるから安全だ」
話しているところへ、警官や検事の一行がどやどやと入って来た。
現場に立合った医師として警官や検事の訊問を受けた八木医学士は、それから一時間ほどして病院へ帰って来た。
病院の食堂では、既に噂を聞いたらしく、若い医員たちが集って頻《しき》りに殺人事件の話をしていたが、八木の入って来るのを見ると一斉に椅子を寄せて口々に精しい様子を聞こうとする。
「まあ待って呉れ、僕はまだ朝飯まえなんだぜ、兎《と》に角《かく》ひと口喰ってからだ」
急《せ》きたてる同僚たちを前に、軽い朝食を済ませた八木は、やがて珈琲《コーヒー》を啜《すす》りながら見た儘《まま》を話して聞かせた。
「――で、犯人の手懸りは?」
「それは警官諸君の仕事さ、然《しか》し……どうも僕にはあの『血まみれの人形《キューピー》』に事件の謎があるように思われるんだ」
血まみれ人形《キューピー》の話は医員たちにも余程強い印象を与えたらしい、みんな妙に気味悪そうな顔をしていたが、――ふと、瀬沼という医員が振返って、
「おい、奇妙な暗合があるぞ、半年ほどまえに、起重機《クレーン》から墜《お》ち、頭骸骨を粉砕して死んだ職工があったろう、あれは僕が検診したんだが、その死体の傍に血まみれになって人形《キューピー》が転げていた。あとで聞いた話に依《よ》ると、その職工が子供の土産《みやげ》に買ったものだ相《そう》だが、いまの話とよく似ているじゃないか」
「然し今度の峰村技手はまだ独身だよ」
「その職工は何処《どこ》の部に勤めていたんだね?」
八木が訊いた。瀬沼はすぐに、
「たしか西田博士の新造船で塗料工をしていた筈だ、その時西田博士も駈けつけて来て、余り無惨な死態《しにざま》を見て驚いたのだろう、脳貧血を起して倒れたのを覚えている」
「気毒《きのどく》に、――すると西田氏には『血まみれ人形《キューピー》』の悪運が附いて廻ってるんだな」
八木医学士は同情の溜息をついた。
その日の午後から、日本造船所の周囲には厳重な警戒網が張られた。警官隊の必死の捜査も空しく、犯人の手懸りは何等得るところが無かった。――結局のところ西田博士の言葉通り、「新D・Hエンジン」の機密を盗むために、間諜《スパイ》が入込んだものと認める外《ほか》はない、そこで兵庫県警察部は全力を挙げて造船所の警戒に当ったのである。
それにも拘らず、第二の事件はそれから三日めの夜、同じ船、同じ場所で起った。博士と共に宿直していた吉川継男という若い技手が惨殺されたのである。
[#3字下げ]血塗れ人形[#「血塗れ人形」は中見出し]
出勤して事件を聞いた八木五郎は、現場《げんじょう》に立合った医員の波岡のところへ直《ただ》ちに駈けつけた。
「おい、また殺人だって?」
「――あ、八木君」
波岡は蒼白い顔をして、
「ひどい死体だ、後頭部を砕かれて惨憺たる有様さ、警官たちが調べたけれど今度もてんで犯人の手懸りはないそうだ、――あれだけ厳重な警戒をしていたのに。何処《どこ》から侵入して何処《どこ》へ逃げるのか、まるで幽霊のような奴だ」
「何か変った事はなかったか?」
「――君は、人形《キューピー》の事を訊くんだろう」
波岡は低い声で、
「――在った、在ったよ、死体の側に血まみれになって……」
「……血まみれになって? 人形《キューピー》が……」
八木医学士はぶるっと身慄《みぶる》いをした。もう偶然の暗合とは云えない、――理由は分らないが、その人形《キューピー》こそ犯人が置いて行った物だ。憎むべき殺人魔、呪うべき兇漢が、被害者を惨殺した後、その血の中へ人形《キューピー》を置いて行くのに相違ない。
「然し――何のためだ?」
八木は呟《つぶや》いた、「そんな馬鹿な事をすれば重大な手懸りになるじゃないか、エンジンの機密を盗みに来る程の者が、そんな狂気じみた真似をするだろうか?」
謎だ、奇怪な謎がそこにある。
「博士はどうした?」
「矢張《やは》り麻酔剤を嗅がされて、雑具室の中へ引摺込《ひきずりこ》まれていた。幸い何処《どこ》にも怪我《けが》はなかったが、重ね重ねの事ですっかり昂奮しているから、いま十八号室へ運んで来て安静に寝かしてある」
博士が無事だった事は不幸中の幸いである、八木は波岡と別れると、その足で十八号室を訪ねた。――博士は折よく起き上って珈琲《コーヒー》を啜っているところだった。
「どうも飛《と》んだ事で、――」
「ああ君か、またやられたよ」
博士は充血した眼をあげて、「警察の力なんて当《あて》にならぬものだ、奴等はまるで木偶坊《でくのぼう》みたいだ、――あんな奴等に警戒させて置くより、犬でも飼って置く方がよっぽど増《まし》だ、吉川を殺したのはあの無能な警官共なんだ」
博士はまだ昂奮が鎮まらぬらしく、拳《こぶし》を突出《つきだ》しながら怒号した。そして直ぐに、両手で顔を蔽《おお》いながら、
「可哀相な峰村、可哀相な吉川」と呟きつつ咽《むせ》び泣くのだった。
「――お気毒《きのどく》です」
暫《しばら》く黙っていた後、八木が静かに云った。
「そこで御相談があるんです。甚《はなは》だ差出《さしで》がましい話ですが、今夜から僕を宿直番に使って頂けないでしょうか」
「君が宿直に、――?」
「斯《こ》ういう事件には、警官の見方と違って医学的の見方というものがあります。是非とも犯人を突止めてみ度《た》いと思うのですが」
「然し危険だ、君は殺されるかも知れないぞ」
「僕の危険より、先生の新D・Hエンジンの機密を守る方が重要ではありませんか」
博士は黙って八木の顔を覓《みつ》めていたが、その一言に感激したのであろう、つと手を伸ばして八木の肩を掴みながら、
「有難う、何も云わぬ――頼むぞ」と云って外向《そっぽむ》いた。
十八号室を出た八木医学士は、いちど自分の部屋へ戻って、暫く何か書いていたが、やがて書了《かきお》えた紙を持って「造船技術部」を訪ね、そこに働いている友達の小野に会った。
「――なんだい、何か用か?」
「是を調べて貰い度いんだ」
八木は紙を渡した、「是に書いてある事が科学的に有り得る事かどうか、つまり可能か不可能か、それだけを知り度いんだ」
「宜《よろ》し、いま暇だから調べてやろう」
「出来たら届けて呉れよ、僕は今夜から六番|船渠《ドック》の新造船に泊っている」
「あの殺人船にか、――?」
驚いて間い返す小野の言葉には答えず、頼むよと繰返《くりかえ》して八木は病院へ戻った。
その夜から始まる冒検に備えて、昼のうちぐっすり眠った八木五郎は、院長に事情を話して護身用の拳銃《ピストル》を借り、(実弾は抜いてあった)午後五時には六番|船渠《ドック》へ出掛けた。――事件の後なので、今日は工事を中止し、一人も職工のいないガランとした船の中に、西田博士は唯《た》だ一人待っていた。
「やあ、よく来て呉れたね」
「御気分は如何《いかが》ですか」
「もう大丈夫だ。――珈琲《コーヒー》を淹《い》れたから一杯やり給え」
「後で頂きましょう、先に少し船内を検《しら》べたいと思いますから。否《いや》、御案内には及びません僕一人でやります」
「そう、――ではそのあいだに儂《わし》は些《ちょ》っと事務所まで行って来よう、検べが済んだら此処《ここ》に珈琲《コーヒー》があるから独りで飲んでいて呉れ給え」
「有難うございます」
博士は手鞄を持って事務所へ、――八木五郎は船内捜査にと出掛けた。
[#3字下げ]恐怖の一夜[#「恐怖の一夜」は中見出し]
捜査は約三時間ほどかかった。――何処《どこ》かに犯人の隠れる場所はないか? 秘密の出入口や抜け穴はないか? ……船室の隅々、甲板の端々、壁や天井に至るまで綿密に検べたが、結局なにも得るところは無かった。
「おや、もう八時だ……」
時間に驚いて、八木は軽く疲れた体を元の船室へ運んだ。――博士はまだ帰っていなかった、電熱器で珈琲《コーヒー》を温め、椅子にかけて熱いのを啜りながら、八木は捜査の結果を考えてみた。
「第一に、犯人が外から侵入する事は非常に困難だ。何故《なぜ》なら、――六番|船渠《ドック》の周囲は警官隊が取巻《とりま》いている、出入口は舷門ひとつで、此処《ここ》を見咎《みとが》められずに通る事は不可能だからである。と云って他に抜け道もなく、秘密の隠れ場所もない……とすると犯人は?」
そこまで考えた時、その朝波岡が云った、まるで幽霊のような――という言葉が思い出された。船内は死のように静かだ、うす暗い電灯の光に照されて、ひっそりと鎮まっている殺人船……誰もいない、塵《ちり》の落ちる音さえもしない。
「――幽霊のような犯人」
八木はぶるっと身慄いをした。――然し、それは幽霊と云う言葉に怯《おび》えたのではない、もっと恐ろしい、もっと現実的な事に考えついたからである。
「博士、……博士、――」
八木は低く呟いた、「博士がいる、半年まえに起重機《クレーン》から墜ちて死んだ男、峰村技手、吉川技手、――三度とも博士が側にいた、三度とも『血まみれ人形』があった、……第一の場合は過失としても、峰村と吉川の場合は、――博士を犯人と考えれば解決がつく。外から侵入する事が出来ず、逃げ出すことも出来ない船内で殺人が行われ、二人しかいなかった一人が生残《いきのこ》ったとすれば……然も二度とも同じであるとすれば、その生残った博士こそ犯人だと見るべきではないか」
それは幽霊よりも恐るべき想像だ。
「だが、是にも疑問はある、――博士が何のために殺人を犯したか? その理由が分らぬ限りこの説明も空想に過ぎない。殺人を犯した許《ばか》りでなく、現場へ人形を置くような狂気じみた真似を……」
そこまで呟いた時、八木医学士は愕然と椅子から跳上《とびあが》った。――そして、殆ど同時に扉が開いて博士が現われた。
「やあ、遅くなって失礼」
「――――」
「いま警戒している警官たちを叱りつけてやった。奴等は怒って解散したよ」
「ええ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 警戒を解いたのですか」
「あんな木偶坊《でくのぼう》たちは役に立たぬ。君と儂《わし》の二人で充分さ、――おや、君は馬鹿に蒼い顔をしているじゃないか」
「いや何でもありません」
八木は平気を装って、「然し折角《せっかく》好意で来ているんですから、矢張り警戒はして貰う方が宜くはありませんか」
「駄目だ、邪魔になる許りだ」
博士はひどく乱暴な口調で叫ぶと、抱えていた手鞄を机の上へ叩きつけた。――その様子は八木を恟《ぎく》りとさせるに充分だった。
「ああ、――君に頼まれ物がある」
博士はふと思い出したように。「造船技術部の小野という者から、是を君に渡して呉れと頼まれて来たよ」
そう云って一通の封書を差出した。
八木は受取《うけと》って封を切った、――中から出た書簡紙《レターペーパー》には、大きな字で、
(絶対に不可能なり、太陽を逆に回転させると同様に不可能なり。こんな事を考える奴は頭が狂ってる証拠だ)
八木は書簡紙《レターペーパー》を揉み潰した。――と同時に、カチリという音を聞いたので振返ると、今しも博士が扉へ鍵をかけたところである。
「――博士! どうして鍵を」
「なに、鍵をかけちゃ悪いか――?」
博士が此方《こっち》を見た。半白の髪毛《かみのけ》が乱れ、落窪《おちくぼ》んだ眼がぎらぎらと光っている、八木は思わず後退《あとじさ》りをした――と、背中が壁へ障《さわ》って造付《つくりつ》けになっていた戸棚の扉が開いた。
扉が開くと一緒に、戸棚の中からからから[#「からから」に傍点]と軽い音を立てながら、セルロイド製の人形《キューピー》が無数に床の上へ転げ出して来た。
「あ、――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
八木は跳上った。人形、人形、人形、あの死者の側に置かれた謎のような「血みどろの人形」である。
「見たな、到頭《とうとう》……見たな」
博士は歯を剥出《むきだ》して叫んだ。八木は全身の血が一時に凍るかと思うような、凄《すさま》じい恐怖に襲われながら拳銃《ピストル》を取出した。
[#3字下げ]悪魔の笑い[#「悪魔の笑い」は中見出し]
博士はにたりと笑った。それは小兎を前にした狼のような笑《わらい》であった、――
「動くと、射つぞ」
八木は必死に叫んだ。
博士は、無気味な笑いを浮かべながら一歩一歩進んで来る。見ると右手に、――重そうな二|呎《フィート》ばかりの鉄棒を持っている、殺人兇器だ、峰村を殺した、吉川を殺した兇器、血に飢えた鉄棒。
「射つぞ、止まれ、止まれ」
八木は喉も裂けよと喚きたてた。然しその拳銃《ピストル》は実弾が抜いてあるのだ、警戒の警官たちもいない、――
「ひひひひひ」
博士は低く笑う、「到頭つかまえたぞ、この間諜《スパイ》め、儂《わし》のD・Hエンジンを盗みに来た悪魔め、もう――逃がさんぞ」
「あ……!」
博士は鉄棒を振上げて、猛然と八木をめがけて跳掛《おどりかか》った。八木は拳銃《ピストル》を投げつけ、机の蔭へ廻りこもうとしたが、椅子に躓《つまず》いて烈しく倒れた。そこへ鉄棒が打下ろされた、ばきん[#「ばきん」に傍点]と椅子の背が砕けた、八木は跳起《はねお》きて扉へとび掛った、然し厳重な樫材の扉はびくともしない、身を翻して寝台の向うへ避けようとする、追い縋《すが》った博士の左手がむず[#「むず」に傍点]と八木の肩を掴んだ。
「ひひひひ、――」
悪魔のような笑が八木の耳に触れた。八木は振返って博士の右手を掴んだ、二人はよろめき、二脚の椅子の間へだあッ[#「だあッ」に傍点]と同体に倒れた。そして獣のように荒々しく喘ぎながら捻《ね》じ合った、博士の力は恐ろしく強かった、八木は喉を絞められてくらくらと眩暈《めまい》を感じた、――とその時、右手に、さっき砕かれた椅子の背の破片が触った。八木はそれを掴んだ、とたんに博士は跳起きて鉄棒を振上げたが、振下ろす時その鉄棒が電球に当ったので、電球《たま》が砕けて船室の中は真暗闇《まっくらやみ》になった。――その闇の中で、
「きゃーッ」と云う悲鳴が起り、だあッ[#「だあッ」に傍点]と器物の倒れる物音がした。そして一時に……何も彼《か》も静まって了《しま》った。
「あんな凄い事は二度とはないだろう」
恐怖の夜は明けた。輝かしい五月の日光が燦然《さんぜん》と照りつける空を、病院の窓の外に見ながら、――頭に繃帯《ほうたい》を巻いた八木五郎医学士は、同僚の医員たちに取巻かれながら語っていた。
「つまり、ひと言で云えば博士は狂気になっていたのだ。循環燃焼機関という科学の空想を、実現しようと研究する内に、いっか次第に頭に狂いを生じ、遂《つい》には本当の狂人になって了《しま》ったのだ。――僕は博士から『一度燃えた瓦斯《ガス》体を、再び元の燃料に還元して使う』と云う、新D・Hエンジンの機密を聞かされた時、そんな不思議な事があるかと思って、念のために技術部にいる小野という友人に検討して貰ったのさ、――ところが小野は『不可能だ』と云って来た。それは太陽を逆に回転させるほど不可能で、そんな事を考える奴は頭が狂っていると云うのだ……」
八木は葡萄酒《ぶどうしゅ》で口を濡らしてから続けた。
「僕は死体の側へ人形を置く事実から、この犯人は狂気じみている――と思った、そしてその理由さえ分れば、犯人は博士に相違ないと云うところまで考えを突詰めていた。そこへ小野の批評が届いたのだ『こんな事を考える奴の頭は狂っている』……その一言で僕には凡《す》べてが了解できた。若しあの手紙が一日延びたら、僕も二人の技手と同じように、狂った博士の手で惨殺されていたに相違ない」
「然し、血まみれ人形はどうした訳さ」
「博士の空想だよ」
八木は振返って、「瀬沼君が半年まえに検診したね、あの起重機《クレーン》から墜ちて死んだ男、あの時死体の側に人形が血まみれになっていたと云ったろう。――博士はそれを見て脳貧血を起して倒れた、その時の烈しい衝動《ショック》が博士の頭にこびり着いていたんだ。犯罪の動機は、自分のエンジンの機密を間諜《スパイ》が狙っていると云う妄想から出たので、夜中になると妄想が益《ますま》す激しくなり、遂には宿直している技手までが間諜《スパイ》に見える結果、逆上して相手を殺したのだ、その証拠には昨夜も……僕のことを『この間諜《スパイ》、儂《わし》のエンジンを盗みに来た悪魔め!』と罵っていた事実で分る。そして殺害した死体を見ると、いっか起重機《クレーン》で死んだ死体を見た時の強い印象に操られて、そこへ人形を持出《もちだ》して血まみれにして置いたのだ、――斯ういうことは殺人狂によくある例で、医学的に云うと……」
と云いかけた時、一人の若い看護婦が入って来て、
「唯今、西田博士がお亡くなりになりました」
と云った。みんなは暗然と口を噤《つぐ》み、気毒《きのどく》な運命にさいなまれた学徒のために、心から哀悼の頭を垂れるのであった。
「――悲劇は終った」八木が低く呟いた、「科学の犠牲だ、……西田博士の魂に――神の祝福あれ」
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年5月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年5月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ