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深夜の撮影所
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深夜の撮影所
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)帝國《ていこく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)森|辰馬《たつま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]一、脅迫の手[#「一、脅迫の手」は中見出し]
そんな惨劇が起るとは思われぬ静夜であった。――正月二十三日の午後十一時過ぎ、帝國《ていこく》映画会社の宣伝部員で、「やりて[#「やりて」に傍点]の森《もり》さん」と云《い》われている森|辰馬《たつま》が、上弦の月光をあびながら鎌倉山《かまくらやま》の撮影所《スタヂオ》内にある、第七号|撮影室《ステーヂ》へやって来た。そこでは山西喜久夫《やまにしきくを》監督が「新日本の女性」という映画を撮っていて、昨日今日はまるで昼夜兼行、殆ど完成に近い状態であったから、今夜は宣伝の打合せをするためにやって来たのである。
撮影室《ステーヂ》へ行ってみると、俳優たち始めみんな、椅子《いす》にかけたり壁に凭《もた》れたりして、呆《とぼ》けた雑談を交《かわ》しているところだった。
「やあ御苦労さん」
森辰馬は元気に挨拶《あいさつ》して、
「どうしたんだ、馬鹿《ばか》に暢《のん》びりしているじゃないか」
「録音機が壊れちゃったのさ」
撮影技師の村田が答えた。
「そいつは痛いね、又このどたん[#「どたん」に傍点]場へ来てなんたる事じゃ、――時に山西さんは?」
「監督室にいるよ」
森は帽子の庇《ひさし》を指で弾《はじ》いて引返した。――監督室の前まで行くと、中で大声に喚《わめ》き合う声がしている。
「馘《くび》だ、君のような男は馘だ!」
山西監督の声である。何を怒っているのだろうと思っていると、扉《ドア》が明《あ》いて録音助手の米倉一作《よねくらいっさく》がとび出して来た。
「どうしたんだい」
森が声をかけると、米倉は蒼白《あおじろ》い顔にふて[#「ふて」に傍点]たような冷笑を浮べながら、
「なあに、馬鹿な事さ」と吐出《はきだ》すように云って撮影室《ステーヂ》の方へ去った。森辰馬は、それを些《ちょ》っと見送ってから扉《ドア》を明けた、――山西は机に向って台白書《ダイアローグ》を見ていた。
「今晩は、とんだ災難ですね」
「やあ、――参ったよ。油の乗りかかったところなのに、あの米倉のやつのお蔭《かげ》ですっかり番狂わせさ、腹が立って敵《かな》わん」
「米倉君の失敗ですか」
「これでもう三度めだからな、録音機を台なしにして修理に二時間かかるという有様だ、彼奴《あいつ》はもう明日限り馘だ」
怒っている山西監督は「飢えたる猛獣」という定評がある。森は立上《たちあが》って、
「赤星《あかぼし》君はいますか?」
赤星みはる[#「みはる」に傍点]というのは帝國映画のピカ一女優で、今度の映画の主役である。
「部屋にいるだろうが行っても駄目だぜ、なにしろ三日二晩不眠不休なんだ、この二時間の暇を利用して眠るんだと云ってたからな」
「じゃあ眠ってる最中ですね」
森は去ろうとしたが、ふと左手の椅子の上にある派手な衿巻《えりまき》をみつけて、
「おや、ひどく洒落《しゃれ》た衿巻じゃ有りませんか、貴方《あんた》んですか」
「どれ――?」と山西は受取《うけと》って、
「米倉が忘れて行ったんだ、彼奴《あいつ》ひどく困っている癖にこんな贅沢《ぜいたく》な物を持っていやあがる、全くにやけた厭《いや》な奴《やつ》だよ」
「持って行きましょうか」
「構うものか、放《ほう》っとけ」
そう云って監督は、さも穢《けがら》わしいというように、その衿巻を自分の脇《わき》にある椅子の背へ投出《なげだ》した。
森辰馬が撮影室《ステーヂ》へ戻って来ると、日頃から仲の良い助監督の秋山青年がとんで来て話しかけた。
「君の来るのを待ってたんだ、森君、赤星みはる[#「みはる」に傍点]嬢のすばらしい宣伝材料があるぜ」
「なんだか聞き度《た》いね」
「赤星嬢が脅迫されているんだ」
「古い手だね」
「まあ聞けよ、こうなんだ」秋山助監督は椅子へかけて、「先月の初めだったか、赤星嬢の自動車が放浪者《ルンペン》に突っかけて足を挫《くじ》かせた事があるだろう?」
「あれは直《す》ぐ解決したぜ」
「うん、――赤星嬢が病院へ入れて治してやったうえ、金まで恵んで解決したんだが、その放浪者め、相手が人気商売で弱いと思ったか、最近ひどい脅迫状を寄来《よこ》すんだ」
「面白そうだね、――で文面は?」
「もう五百円寄来すか、さもなければ、みはる[#「みはる」に傍点]嬢の顔へ傷をつけるか殺すかする、と云うんだがね」
「なるなる」森辰馬は手を拍《う》った。「慥《たしか》に新聞|種《だね》だ、こいつを封切まえに叩《たた》かせよう、その脅迫状はあるだろうな」
「赤星嬢が持ってる筈《はず》だ」
「よし、貰《もら》って来る」
森が勢込《いきおいこ》んで立とうとするので、
「いま行ったって駄目だよ」と秋山が制した、「録音機の修繕は午前一時までかかるんだ、それまで眠るから誰も起しちゃいかんという事になってるんだぜ」
「ちぇっ、女優《スター》は偉いよ」
森辰馬がどっかと椅子へ戻った。
[#3字下げ][#中見出し]二、咄※[#感嘆符二つ、1-8-75] 赤星みはる[#「みはる」に傍点]の惨死[#中見出し終わり]
午前一時には終る筈の修理が、殆ど二時近くにやっとOKになった。――監督室から出て来た山西は、修理の具合を試験《テスト》した後、
「宜《よ》し、赤星君を呼んで来給《きたま》え」と命じた。――助監督の秋山が出掛けて行ったが、間もなく、紙のように蒼白い顔をしてとんで帰った。
「た、大変です」
「――どうしたんだ」
「赤星嬢が、……こ、殺されています」
撮影室《ステーヂ》内にいた全部の者が、いきなり落雷にでも遭ったように跳上《とびあが》った。
「そ、そんな馬鹿な事が……」
「行って見て下さい、幾ら呼んでも返辞がないので、扉《ドア》の鍵《かぎ》を押破《おしやぶ》って入ったんです、すると赤星さんが血まみれになって……」
「――いかん!」山西監督は顔色を変えて立上《たちあが》った。――森辰馬も一緒に走りだしたが、直ぐ、例の脅迫状を寄来した放浪者の事を思いだしたので、
「秋山君、君は済まないが腕っ節の強そうなのを四五人|伴《つ》れて、撮影所《スタヂオ》の中を捜索してくれ給え、きっと例の放浪者の仕業だぜ」
「宜《よ》し引受けた!」
秋山青年は男優の中から四五人選んで、直ぐに外へ出る、――森辰馬は建物の東はずれにある女優《じょゆう》部屋へ駈《か》けつけた。
その部屋へ一歩入るなり、森は思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。東側に窓があるだけで、三方壁の洋間だ、――窓硝子《まどガラス》が二枚砕けている。部屋の入口に置いてあった石膏《せっこう》の、「女神《めがみ》」の等身像が倒れて粉々に砕け、頭の部分は窓の下まで飛んでいる。寝台《ベッド》の夜具は掻乱《かきみだ》され、枕机《まくらづくえ》が倒れている、――余程ひどく格闘をしたらしい、そして当の赤星みはる[#「みはる」に傍点]は、床の上に寝衣《ガウン》の裾《すそ》を紊《みだ》して、仰反《あおむけ》になって斃《たお》れていた。見るまでもなく、――額にぱっくりと大きな傷があって、美しい顔の半分が紅を流したような血である。
「もう駄目ですか」
森が訊《き》くと、跼《しゃが》み込んで脈を検《み》ていた山西監督が、
「駄目だ、もう心臓が止まっている」
「ひどい事をしゃあがるな」
「誰か警察へ電話をかけてくれ、――いや、僕が自分でかけよう、見張りを頼むぜ」
「承知しました」
山西監督は自ら、足も宙に出て行った。
森辰馬は直ぐに立上って、鼠《ねずみ》のように素早く活動を始めた。放浪者が犯人だと考えて、何処《どこ》から入ったか慥《たしか》める積《つも》りらしい。窓を検《しら》べたり、扉《ドア》の建を検べたり、寝台の下に潜ったり、そうかと思うと砕けた石膏像の破片を手に取ってみたり、凡《およ》そ十分ばかりというもの、無我夢中で動き廻っていたが、――やがてそれが終ると、壁にかかっている赤星みはる[#「みはる」に傍点]の帽子のひとつを取って、ふいと中の匂《にお》いを嗅《か》いだ後、
「ふん、そうか、――なあんだい」と独言《ひとりごと》を呟《つぶや》いて微笑した。――この様子を扉《ドア》の外から見ていた俳優や技師たちは、
「おやおや、やりて[#「やりて」に傍点]の森さんが今夜は探偵に早替りとおいでなすったぜ」
「和製のシャーロック・ホルムズだわ」とからかい顔に囁《ささや》き合った。――森辰馬はそんな事には耳もくれず、
「山西さんは未《ま》だかね、大分おそいが、――誰か見て来てくれ給え」
「僕が行って来よう」
撮影助手の長坂が走って行った。――所内電話は何処にでもあるが、外部へ通じるのは監督室にしかなかった。森辰馬が手帖《てちょう》と鉛筆を出して、何か書き込もうとしていると、長坂助手が狂気のように戻って来て、
「大変だ、大変だ!」と喚きたてた。
「何だ、どうした?」
「山西さんが、し、死んでいる※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「え――※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「監督室で、殺されている」
がやがや騒いでいた連中が、殴りつけられでもしたようにぴたっと沈黙した。――一瞬、ぞっとするような暗い、無気味なものが空間を塞《ふさ》いだ。たったいま赤星みはる[#「みはる」に傍点]の惨殺|屍体《したい》が発見されたばかりなのに、続いてこの知らせだから皆の驚愕《きょうがく》も無理はあるまい。――深更《しんこう》二時、帝國映画会社の撮影所に起った二つの殺人事件は、果して如何《いか》なる展開をするであろうか?
驚きから覚めると、森辰馬は監督室へ駈けつけた。
「――誰も入っちゃいかんぞ」
叫んで置いて中へ入る、――見ると山西監督は椅子にかけたまま机の上へ俯伏《うつぶ》している、廻って見ると脊中《せなか》から心臓へ向けて、短刀で突刺《つきさ》したような傷痕《きずあと》があり、上衣《うわぎ》をぐっしょり染めた血は、まだ裾の方からぽたぽたと床へ滴《したた》り落ちていた。
「――即死だ」森は些《ちょ》っと手頸《てくび》へ触って見て暗然と呟いたが、――直ぐ気付いて卓上電話を取った。
「警察へ繋《つな》いでくれ給え、殺人事件だ」
[#3字下げ]三、犯人捕縛?[#「三、犯人捕縛?」は中見出し]
森辰馬が警察へ電話をかけて、監督室から出て来た時、外の方からがやがやと人々の罵《ののし》り騒ぐ声が聞えて来た。
「なんだ、また誰か殺《や》られたのか」
廊下に慄《ふる》えていた連中が、恐ろしそうに振返《ふりかえ》るところへ、――助監督の秋山青年とその一行が、一人の兇悪《きょうあく》な面構《つらがま》えをしたみすぼらしい怪漢を引立てて入って来た。
「捉《つかま》えたよ森君!」秋山は上気した調子で、
「みはる[#「みはる」に傍点]嬢を殺した犯人は此奴だ、第二号|撮影室《ステーヂ》の蔭に隠れているところをみつけたんだ」
「う、嘘《うそ》だ、己《おら》ぁ知らねえ」
怪漢は髭《ひげ》だらけの顔を振立てて喚いた。
「己《おら》ぁ知らねえ、己《おら》ぁただ寝る場所を捜しに入って来ただけだ、人殺しなんてとんでもねえ間違《まちげ》えだ、余《あんま》り馬鹿な事をすると――」
「まあ宜《い》いから黙り給え」
森辰馬が遮って、
「この人は温和《おとな》しく来たかい?」
「どうして。逃げようとして気違いのように暴れやがった。この通り噛《か》みついたくらいだ」
「僕も頬っぺたを引掻かれたよ」
俳優の一人が頬を出して見せた。――森辰馬は頷《うなず》いてから、
「実は、十分ほど前にまた山西さんが殺されたんだ、短刀のひと突きでね」
「――」「――」
怪漢を曳《ひ》いて来た人たちはぴくりと身慄《みぶる》いをしながら立竦《たちすく》んだ。
「ほ、本当かい、それは?」
「もう直ぐ警察から来るだろう、それまで部屋へ入らない方が宜《い》い、とにかくこの深夜に主役女優と腕利《うでき》きの監督が殺されたんだ、こいつは近来にない大事件だぜ」
「――森君……」人々を押分《おしわ》けて録音助手の米倉一作が前へ現れた。
「警官の来るのを待つのも宜いが、短刀でやったとすると、此奴《こいつ》の身体検査をした方が宜いな、うっかり刃物でも振廻されると危険だぜ!」
「厭だ、無法だ!」
怪漢は両手を執《と》られたまま、急に猛牛のように暴れだした。
「警官でもねえおめえさん達に、体を検べる権利はねえ筈だ、こいつは人権|蹂躙《じゅうりん》だ」
「黙れ、みんな確《しっか》り押《おさ》えてくれ」
森はそう云って、藻掻《もが》き廻る怪漢を壁へ押しつけ、襤褸屑《ぼろくず》のように破れた古洋服の上衣からズボンまで手早く検《あらた》めた。――獲物《えもの》はあった。上衣の内|隠し《ポケット》から「赤星みはる[#「みはる」に傍点]様」と書いた一通の書面。ズボンの|隠し《ポケット》からは、白鞘《しらざや》の短刀。然《しか》も……書面の方は、かねて赤星みはる[#「みはる」に傍点]が受取ったのと同じ脅迫状であるし、短刀の方は抜いてみると未《ま》だ生々しい血に染まっていた。
「それ見ろ、――」録音助手の米倉が勝誇《かちほこ》ったように、「その脅迫状があり、血まみれの短刀を持っている以上、幾らじたばたしても駄目だぞ」
「ま、ま、間違《まちげ》えだ、己《おら》ぁ知らねえ、己《おら》ぁ人殺しなんざしねえ、放してくれ」
「黙れ、動くと縛りあげるぞ」
森辰馬が呶鳴《どな》りつけるところへ、――どかどかと警官たちが入って来た。
撮影室《ステーヂ》が仮の取調べ室に定《き》められ、居合《いあわ》せた者は全部そこに集《あつま》った。警察署長自ら乗出《のりだ》しての訊問《じんもん》で、事件の経過はすらすらと量《はか》どった、――署長は、
一、午前二時五分前、赤星みはる[#「みはる」に傍点]の惨死体発見。発見者は秋山助監督。
二、同二時二十分頃、山西喜久夫監督の死体発見。発見者は長坂助手。
三、それより約五分前頃、第二号|撮影室《ステーヂ》附近にて怪漢を発見、之《これ》を捕縛す。
以上の事実を慥《たしか》めて後、既に警察医が検べている二つの屍体を検分し、現場《げんじょう》の捜査を行って戻って来ると、
「大体これで宜《よ》かろう」と云った、「この男は『駿河《するが》の吉《きち》』と云う放浪者で、この界隈《かいわい》の持余《もてあま》し者なんだ。――おまえの持っていた脅迫状はこれだね」
「へい、申訳《もうしわけ》ございません」
駿河の吉は恐縮そうに頭《こうべ》を垂れた。
「それから、この頃何度も赤星みはる[#「みはる」に傍点]へ脅迫状を送ったことも事実だろうな」
「――へい」
「そうか。すると、幾度手紙を送っても金を出さんので、脅迫状に書いた通り赤星みはる[#「みはる」に傍点]の顔へ傷をつけに来た、ところが赤星が眼を覚して騒ぎだしたので、遂《つい》に惨殺したのだろう、それに相違あるまい」
「と、と、とんでもねえ」駿河の吉は蒼くなって、「なんで私《あっし》そんなだい外《そ》れた真似《まね》を致しやしょう、私《あっし》ゃただ、もう一度この脅迫状を渡そうと思ってやって来ただけなんでさ、本当にそれだけのこってさ、人殺しなんて」
「往生際《おうじょうぎわ》が悪いぞ吉」署長は叱《しか》りつけて、「おまえは赤星を殺してから、皆の騒いでいる隙《すき》に金でも盗もうと思って、監督室へ忍込《しのびこ》んだのだ、彼処《あすこ》には金庫があるからな、――ところがあの金庫の中には映画の台本しきゃ入っていないのだ。おまえがうろうろしている処《ところ》へ、警察へ電話をかけるために山西監督が入って来た、そこでおまえは監督をも……この短刀でずぶりと刺殺《さしころ》して了《しま》ったのだ」
「知らねえ、私《あっし》ぁ知らねえ」
[#3字下げ]四、真相の一[#「四、真相の一」は中見出し]
駿河の吉は血染《ちぞめ》の短刀をつきつけられて、気違いのように身を藻掻きながら喚きたてた。この様子をさっきから、眤《じっ》と見戍《みまも》っていた森辰馬は、――署長が部下の刑事に、
「手錠をかけて了え」と命じた時、
「些《ちょ》っとお待ち下さい」と前へ出て来た。今まで隅の方で考えていたことが、ようやくどうにか解決がついたらしい。森の眼は活々《いきいき》と輝いている。
「何だね、――?」
「手錠をかける必要は有りません、その男は犯人ではないのです」
これは意外な一言《いちごん》だった。ぴたりぴたりと、一|分《ぶ》も隙《す》かさず事件の内容を解剖した署長の推理を、まるで足下から引《ひっ》くり返したようなものである。
「此奴《こいつ》が犯人でない? とすると君はその犯人を知っているのか」
「知っていたら出せと仰有《おっしゃ》るのでしょう、宜《よろ》しい先《ま》ず赤星みはる[#「みはる」に傍点]惨死の真相を御説明致しましょう、――どうぞ現場《げんじょう》へお出《い》で下さい」
森辰馬は会釈《えしゃく》して先へ立った。
深夜の惨劇もあっけなく解決したと思ったとたんに、事件が新しい展開を始めたので、人々の興味は頂点に達した。――警官たちも無論のこと、この青二才が何をしようとするのか、半《なかば》は嘲《あざけ》り半は好奇心で、森辰馬の後から跟《つ》いて行った。
赤星みはる[#「みはる」に傍点]の部屋へ来た森辰馬は、
「署長さん、赤星嬢を死に到《いた》らしめた犯人はこいつ[#「こいつ」に傍点]ですよ」と云って、壁添いに置かれてある瓦斯煖炉《ガスストーヴ》を指さした。
「何だって? 君は気でも違ったのか、この部屋の中を見給え、石膏は砕け窓硝子《まどガラス》は破《わ》れ、格闘した様子が歴々《ありあり》と残っているじゃないか、第一――瓦斯中毒で死んだとすれば、秋山青年が入って来た時、何よりも先に瓦斯の匂《におい》に気付かぬ筈はあるまい」
「お分りがなければ説明しましょう」森辰馬は静かに始めた、「赤星みはる[#「みはる」に傍点]は三日二晩不眠不休で疲れきっていました、この部屋へ二時間の暇を利用して眠りに来た彼女は、瓦斯煖炉《ガスストーヴ》へ火をつけ寝台《ベッド》へあがりました。その時瓦斯管が外れかかっていたのを知らなかったのです、――間もなく煖炉が熱して、受口《うけぐち》が膨脹《ぼうちょう》して来たため、外れかかっていたゴム管が放れ、瓦斯が室内に放流され始めました。うち続く疲労のため前後不覚に眠っていた赤星みはる[#「みはる」に傍点]が、苦しさの結果ようやく気付いたのは、それから凡そ一時間以上も経《た》っての事でしょう、――もう殆ど失神状態になっていたと思いますが、それでも寝台からずるずる這《は》い下りて、煖炉の側《そば》までやって来ると、無我夢中で瓦斯の栓を捻《ひね》って止めたのです、そして……外へ出ようとすると扉《ドア》に鍵が掛かっている、鍵を取りに引返そうとした時、そこに在った石膏の女神《めがみ》像にぶつかったのです」
森辰馬はずばずば説明して行く、「――女神像が倒れて砕ける上へ、赤星みはる[#「みはる」に傍点]もはずみ[#「はずみ」に傍点]を喰《くら》って烈《はげ》しく倒れました、額の傷はその時女神像の鋭い割れ目で打ったものです。惨劇の真相はこれで全部です、瓦斯中毒と出血に依《よ》って赤星みはる[#「みはる」に傍点]は死んだのです」
「然《しか》し、部屋に充満していた瓦斯《ガス》は?」
「石膏像の破片が飛んで、窓硝子《まどガラス》を砕きました、瓦斯はあの壊れた硝子穴から外へ流れ出て了ったのです、――然《しか》し証拠はまだ残っていますよ」
そう云って森辰馬は、壁にかかっている赤星みはる[#「みはる」に傍点]の帽子の一つを取り、
「中を嗅いでみて下さい」と云った。署長が嗅いでみると、帽子の中には明らかに瓦斯の匂がしみ附いていた。
「浮いている瓦斯はどんどん逃げますが、壁に密着している帽子とか、厚い羅紗地《らしゃじ》などには残るものです、――第二の証拠はメーターを調べれば分るし、最も決定的には屍体を解剖するのが一番でしょう」
明快な推理である、署長は黙って森辰馬の言葉通り再検査をした後、
「宜《よろ》しい、恐らく君の云う通りだろう、尚《なお》屍体の解剖をしたうえ断定するが、然し、――赤星みはる[#「みはる」に傍点]が瓦斯中毒に因《よ》る死だとすると、山西監督を殺害した犯人は誰だね?」
「無論それも説明しますよ」
森辰馬はにやりと笑って、
「どうぞ監督室へお戻り下さい」と女優《じょゆう》部屋を出た。
今や人々は、完全に森辰馬の手腕に魅《み》し去られていた。惨鼻《さんび》を極めた女優の死が、瓦斯中毒に因るという事実、それを神の如《ごと》く解決した森辰馬が、今度は山西監督の死をどう解いて行くか、
「こいつは映画以上だぜ」
と囁き交《かわ》しながら皆|跟《つ》いて行った。
[#3字下げ]五、意外な犯人[#「五、意外な犯人」は中見出し]
監督室へ入った森辰馬は、
「さて諸君」と向直《むきなお》った、「諸君も知っている通り、山西さんが電話をかけに来た時、僕と諸君は全部赤星君の部屋にいたし、秋山君たちは外へ捜索に出ていた。つまり誰もこの監督室へ来た者はない筈だ、――そうだね?」
「そうだ」皆は異口同音に答えた。
「長坂さんに知らされるまで、僕たちは女優部屋の廊下にいたんだ」
「恐《こわ》くて動かれやしなかったわ」
「ところが、――」と森辰馬は云った、「ところが、誰かここへ来た者があるんだ、そして今でもここへ来たという証拠を身に着けている」
皆は不安そうに自分の体を見廻した。
「さあ諸君、今のうちに云い給え、君たちの中に誰か一人、監督の入った後からここへ来た者がいるんだ、此方《こっち》から指名されぬうちに云って了わぬと重大な事になるぜ」
「――――」
「云わないのかい、誰も?」
「――――」
「それじゃあ僕から訊こう」森辰馬は一歩出て、
「米倉君、君はこの部屋へ入った筈だね」
「ば、馬鹿な事を云うな!」
いきなり自分の名を指されて、米倉一作はさっと顔色を変えながら呶号《どごう》した。
「僕は君が来た時この部屋から出たまま、一度だって寄《より》つきゃしない、第一、――あの時僕は山西さんに小っぴどく叱られたんだ、たとえ用があったって来る筈がないよ」
「なんで怒られたのかい?」
「そ、そんな事を云う必要はない」
「云い度《た》くないんだろう」
森は皮肉に冷笑して、「そんなら僕から云おうか、君はその時山西さんから『馘だ!』って云われたんだ、君は山西さんから憎まれていた、そのうえに馘だと云われて嚇《かっ》となり、どうせ馘になるなら行きがけの駄賃に日頃の怨《うら》みを晴らしてやろうと思った、――そこへ赤星みはる[#「みはる」に傍点]の殺害事件が起ったんだ」
「でたらめを云うな、馬鹿な事を……」
「まあ聞けよ」森辰馬は静かに、「君はまえから赤星君が脅迫されていた事を知っている、そこで例の放浪者が到頭やったな――と考えた、同時に思った事は、この咄嗟《とっさ》に山西さんを殺せば、その罪は当然放浪者に着せられる、と云うことだった。君はそう決心すると、楽屋から本身《ほんみ》の短刀を取出して来て、山西さんが電話をかけようとしている背後からずぶり[#「ずぶり」に傍点]と、ひと刺しにやっつけたんだ」
「嘘だ、嘘だ、貴様のでたらめだ」
「もう少しだから聞けよ。それから君は血染の短刀の処置を考えていたが、折良く、――この駿河の吉という男が捉《つかま》ったので、暴れるのを押えつける振《ふり》をしながら、人知れずズボンの|隠し《ポケット》へ押込んで置いたと云う訳さ。だから君は……誰よりも先に放浪者の身体検査をしろと云ったんだ」
「しょ、しょ、証拠があるか、僕はあの時出て行ったきり、一度もこの部屋へは来やせん、証拠を見せろ証拠を」
「見せてあげようか、証拠は君の体に着いているよ」
「なんだと、――?」
「君が首に巻いている衿巻さ」
この一言《いちごん》は米倉一作を即死させたかと思われた。聞くと同時に彼はふらふらとよろめいたが、辛くも立直《たちなお》ると、
「こ、この衿巻が、どうしたと?」
「君はねえ、君は山西さんに馘だと云われて出て行く時、その衿巻を此方《こっち》の椅子の上へ置忘れたんだ。山西さんは手に取ってみて、こんな贅沢な品を使っていると云いながら、其方《そっち》にある椅子の背へ投出したのさ、――その時僕は、衿巻が床へ滑落《すべりおち》ちたのを慥《たしか》に見たよ。君の衿巻が其方《そっち》の机の蔭へ落ちたのを知っているのは、山西さんと僕の二人だけだ、それがどうして君の首にあるのかい? あれから一歩もここへ入らなかった君が、どうしてその衿巻を持っているんだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「――――」
「つまりこうさ、君は山西さんを刺殺《さしころ》してから、何か証拠になる物を落しはしないかと思って見廻した。すると――机の蔭に自分の衿巻が落ちている、これは大変、こんな物が落ちていたら嫌疑の因《もと》だと思って、よく考えてもみずに拾って首へ巻いたのさ」
「ち――畜生※[#感嘆符二つ、1-8-75]」米倉一作は喚くと共に、警官の持っていた短刀を奪取《うばいと》って、いきなり森辰馬へとびかかった。人々は思わず、
「きゃっ、――」と云って面《おもて》を外向《そむ》けたが。やりて[#「やりて」に傍点]の森さんとも云われる辰馬に何で隙があろう、
「こいつ!」と云うと体《たい》を躱《かわ》して、流れる相手の腕を逆に取ると、肩へ担《かつ》いでやっ[#「やっ」に傍点]とばかり、家鳴りをさせて其処《そこ》へ投出した。
「今こそ手錠が必要ですな署長さん」
警官たちが米倉を押えつけるのを、にやにや見やりながら落着き払って森が云った。
「此奴《こいつ》が山西監督の殺害犯人ですよ、仔細《しさい》はいま御覧の通りです、尚|精《くわ》しいことは本人からお聞き下さい」
「有難《ありがと》う。や、実に遖《あっぱ》れな推理でした」
署長が感謝をこめて握手の手を伸ばすや、居合せた男女優技師たちは、声を合せてわあっと歓声をあげた。
さしも奇怪な事件もこれで全く解決した。署長の一行が二つの屍体と、犯人米倉一作を運んで引揚《ひきあ》げて行った後、森辰馬は女優たちの讃辞《さんじ》を浴びながら立上った。
「やれやれ、これで主役女優と監督を一遍に失った訳か、『新日本の女性』も当分目鼻はつくまい、――僕は一週間ばかり休暇を貰うよ」
底本:「周五郎少年文庫 南方十字星 海洋小説集」新潮文庫、新潮社
2019(平成31)年2月1日発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年2月号
初出:「新少年」
1937(昭和12)年2月号
※「女優」に対するルビの「スター」と「じょゆう」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)帝國《ていこく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)森|辰馬《たつま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]一、脅迫の手[#「一、脅迫の手」は中見出し]
そんな惨劇が起るとは思われぬ静夜であった。――正月二十三日の午後十一時過ぎ、帝國《ていこく》映画会社の宣伝部員で、「やりて[#「やりて」に傍点]の森《もり》さん」と云《い》われている森|辰馬《たつま》が、上弦の月光をあびながら鎌倉山《かまくらやま》の撮影所《スタヂオ》内にある、第七号|撮影室《ステーヂ》へやって来た。そこでは山西喜久夫《やまにしきくを》監督が「新日本の女性」という映画を撮っていて、昨日今日はまるで昼夜兼行、殆ど完成に近い状態であったから、今夜は宣伝の打合せをするためにやって来たのである。
撮影室《ステーヂ》へ行ってみると、俳優たち始めみんな、椅子《いす》にかけたり壁に凭《もた》れたりして、呆《とぼ》けた雑談を交《かわ》しているところだった。
「やあ御苦労さん」
森辰馬は元気に挨拶《あいさつ》して、
「どうしたんだ、馬鹿《ばか》に暢《のん》びりしているじゃないか」
「録音機が壊れちゃったのさ」
撮影技師の村田が答えた。
「そいつは痛いね、又このどたん[#「どたん」に傍点]場へ来てなんたる事じゃ、――時に山西さんは?」
「監督室にいるよ」
森は帽子の庇《ひさし》を指で弾《はじ》いて引返した。――監督室の前まで行くと、中で大声に喚《わめ》き合う声がしている。
「馘《くび》だ、君のような男は馘だ!」
山西監督の声である。何を怒っているのだろうと思っていると、扉《ドア》が明《あ》いて録音助手の米倉一作《よねくらいっさく》がとび出して来た。
「どうしたんだい」
森が声をかけると、米倉は蒼白《あおじろ》い顔にふて[#「ふて」に傍点]たような冷笑を浮べながら、
「なあに、馬鹿な事さ」と吐出《はきだ》すように云って撮影室《ステーヂ》の方へ去った。森辰馬は、それを些《ちょ》っと見送ってから扉《ドア》を明けた、――山西は机に向って台白書《ダイアローグ》を見ていた。
「今晩は、とんだ災難ですね」
「やあ、――参ったよ。油の乗りかかったところなのに、あの米倉のやつのお蔭《かげ》ですっかり番狂わせさ、腹が立って敵《かな》わん」
「米倉君の失敗ですか」
「これでもう三度めだからな、録音機を台なしにして修理に二時間かかるという有様だ、彼奴《あいつ》はもう明日限り馘だ」
怒っている山西監督は「飢えたる猛獣」という定評がある。森は立上《たちあが》って、
「赤星《あかぼし》君はいますか?」
赤星みはる[#「みはる」に傍点]というのは帝國映画のピカ一女優で、今度の映画の主役である。
「部屋にいるだろうが行っても駄目だぜ、なにしろ三日二晩不眠不休なんだ、この二時間の暇を利用して眠るんだと云ってたからな」
「じゃあ眠ってる最中ですね」
森は去ろうとしたが、ふと左手の椅子の上にある派手な衿巻《えりまき》をみつけて、
「おや、ひどく洒落《しゃれ》た衿巻じゃ有りませんか、貴方《あんた》んですか」
「どれ――?」と山西は受取《うけと》って、
「米倉が忘れて行ったんだ、彼奴《あいつ》ひどく困っている癖にこんな贅沢《ぜいたく》な物を持っていやあがる、全くにやけた厭《いや》な奴《やつ》だよ」
「持って行きましょうか」
「構うものか、放《ほう》っとけ」
そう云って監督は、さも穢《けがら》わしいというように、その衿巻を自分の脇《わき》にある椅子の背へ投出《なげだ》した。
森辰馬が撮影室《ステーヂ》へ戻って来ると、日頃から仲の良い助監督の秋山青年がとんで来て話しかけた。
「君の来るのを待ってたんだ、森君、赤星みはる[#「みはる」に傍点]嬢のすばらしい宣伝材料があるぜ」
「なんだか聞き度《た》いね」
「赤星嬢が脅迫されているんだ」
「古い手だね」
「まあ聞けよ、こうなんだ」秋山助監督は椅子へかけて、「先月の初めだったか、赤星嬢の自動車が放浪者《ルンペン》に突っかけて足を挫《くじ》かせた事があるだろう?」
「あれは直《す》ぐ解決したぜ」
「うん、――赤星嬢が病院へ入れて治してやったうえ、金まで恵んで解決したんだが、その放浪者め、相手が人気商売で弱いと思ったか、最近ひどい脅迫状を寄来《よこ》すんだ」
「面白そうだね、――で文面は?」
「もう五百円寄来すか、さもなければ、みはる[#「みはる」に傍点]嬢の顔へ傷をつけるか殺すかする、と云うんだがね」
「なるなる」森辰馬は手を拍《う》った。「慥《たしか》に新聞|種《だね》だ、こいつを封切まえに叩《たた》かせよう、その脅迫状はあるだろうな」
「赤星嬢が持ってる筈《はず》だ」
「よし、貰《もら》って来る」
森が勢込《いきおいこ》んで立とうとするので、
「いま行ったって駄目だよ」と秋山が制した、「録音機の修繕は午前一時までかかるんだ、それまで眠るから誰も起しちゃいかんという事になってるんだぜ」
「ちぇっ、女優《スター》は偉いよ」
森辰馬がどっかと椅子へ戻った。
[#3字下げ][#中見出し]二、咄※[#感嘆符二つ、1-8-75] 赤星みはる[#「みはる」に傍点]の惨死[#中見出し終わり]
午前一時には終る筈の修理が、殆ど二時近くにやっとOKになった。――監督室から出て来た山西は、修理の具合を試験《テスト》した後、
「宜《よ》し、赤星君を呼んで来給《きたま》え」と命じた。――助監督の秋山が出掛けて行ったが、間もなく、紙のように蒼白い顔をしてとんで帰った。
「た、大変です」
「――どうしたんだ」
「赤星嬢が、……こ、殺されています」
撮影室《ステーヂ》内にいた全部の者が、いきなり落雷にでも遭ったように跳上《とびあが》った。
「そ、そんな馬鹿な事が……」
「行って見て下さい、幾ら呼んでも返辞がないので、扉《ドア》の鍵《かぎ》を押破《おしやぶ》って入ったんです、すると赤星さんが血まみれになって……」
「――いかん!」山西監督は顔色を変えて立上《たちあが》った。――森辰馬も一緒に走りだしたが、直ぐ、例の脅迫状を寄来した放浪者の事を思いだしたので、
「秋山君、君は済まないが腕っ節の強そうなのを四五人|伴《つ》れて、撮影所《スタヂオ》の中を捜索してくれ給え、きっと例の放浪者の仕業だぜ」
「宜《よ》し引受けた!」
秋山青年は男優の中から四五人選んで、直ぐに外へ出る、――森辰馬は建物の東はずれにある女優《じょゆう》部屋へ駈《か》けつけた。
その部屋へ一歩入るなり、森は思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。東側に窓があるだけで、三方壁の洋間だ、――窓硝子《まどガラス》が二枚砕けている。部屋の入口に置いてあった石膏《せっこう》の、「女神《めがみ》」の等身像が倒れて粉々に砕け、頭の部分は窓の下まで飛んでいる。寝台《ベッド》の夜具は掻乱《かきみだ》され、枕机《まくらづくえ》が倒れている、――余程ひどく格闘をしたらしい、そして当の赤星みはる[#「みはる」に傍点]は、床の上に寝衣《ガウン》の裾《すそ》を紊《みだ》して、仰反《あおむけ》になって斃《たお》れていた。見るまでもなく、――額にぱっくりと大きな傷があって、美しい顔の半分が紅を流したような血である。
「もう駄目ですか」
森が訊《き》くと、跼《しゃが》み込んで脈を検《み》ていた山西監督が、
「駄目だ、もう心臓が止まっている」
「ひどい事をしゃあがるな」
「誰か警察へ電話をかけてくれ、――いや、僕が自分でかけよう、見張りを頼むぜ」
「承知しました」
山西監督は自ら、足も宙に出て行った。
森辰馬は直ぐに立上って、鼠《ねずみ》のように素早く活動を始めた。放浪者が犯人だと考えて、何処《どこ》から入ったか慥《たしか》める積《つも》りらしい。窓を検《しら》べたり、扉《ドア》の建を検べたり、寝台の下に潜ったり、そうかと思うと砕けた石膏像の破片を手に取ってみたり、凡《およ》そ十分ばかりというもの、無我夢中で動き廻っていたが、――やがてそれが終ると、壁にかかっている赤星みはる[#「みはる」に傍点]の帽子のひとつを取って、ふいと中の匂《にお》いを嗅《か》いだ後、
「ふん、そうか、――なあんだい」と独言《ひとりごと》を呟《つぶや》いて微笑した。――この様子を扉《ドア》の外から見ていた俳優や技師たちは、
「おやおや、やりて[#「やりて」に傍点]の森さんが今夜は探偵に早替りとおいでなすったぜ」
「和製のシャーロック・ホルムズだわ」とからかい顔に囁《ささや》き合った。――森辰馬はそんな事には耳もくれず、
「山西さんは未《ま》だかね、大分おそいが、――誰か見て来てくれ給え」
「僕が行って来よう」
撮影助手の長坂が走って行った。――所内電話は何処にでもあるが、外部へ通じるのは監督室にしかなかった。森辰馬が手帖《てちょう》と鉛筆を出して、何か書き込もうとしていると、長坂助手が狂気のように戻って来て、
「大変だ、大変だ!」と喚きたてた。
「何だ、どうした?」
「山西さんが、し、死んでいる※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「え――※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「監督室で、殺されている」
がやがや騒いでいた連中が、殴りつけられでもしたようにぴたっと沈黙した。――一瞬、ぞっとするような暗い、無気味なものが空間を塞《ふさ》いだ。たったいま赤星みはる[#「みはる」に傍点]の惨殺|屍体《したい》が発見されたばかりなのに、続いてこの知らせだから皆の驚愕《きょうがく》も無理はあるまい。――深更《しんこう》二時、帝國映画会社の撮影所に起った二つの殺人事件は、果して如何《いか》なる展開をするであろうか?
驚きから覚めると、森辰馬は監督室へ駈けつけた。
「――誰も入っちゃいかんぞ」
叫んで置いて中へ入る、――見ると山西監督は椅子にかけたまま机の上へ俯伏《うつぶ》している、廻って見ると脊中《せなか》から心臓へ向けて、短刀で突刺《つきさ》したような傷痕《きずあと》があり、上衣《うわぎ》をぐっしょり染めた血は、まだ裾の方からぽたぽたと床へ滴《したた》り落ちていた。
「――即死だ」森は些《ちょ》っと手頸《てくび》へ触って見て暗然と呟いたが、――直ぐ気付いて卓上電話を取った。
「警察へ繋《つな》いでくれ給え、殺人事件だ」
[#3字下げ]三、犯人捕縛?[#「三、犯人捕縛?」は中見出し]
森辰馬が警察へ電話をかけて、監督室から出て来た時、外の方からがやがやと人々の罵《ののし》り騒ぐ声が聞えて来た。
「なんだ、また誰か殺《や》られたのか」
廊下に慄《ふる》えていた連中が、恐ろしそうに振返《ふりかえ》るところへ、――助監督の秋山青年とその一行が、一人の兇悪《きょうあく》な面構《つらがま》えをしたみすぼらしい怪漢を引立てて入って来た。
「捉《つかま》えたよ森君!」秋山は上気した調子で、
「みはる[#「みはる」に傍点]嬢を殺した犯人は此奴だ、第二号|撮影室《ステーヂ》の蔭に隠れているところをみつけたんだ」
「う、嘘《うそ》だ、己《おら》ぁ知らねえ」
怪漢は髭《ひげ》だらけの顔を振立てて喚いた。
「己《おら》ぁ知らねえ、己《おら》ぁただ寝る場所を捜しに入って来ただけだ、人殺しなんてとんでもねえ間違《まちげ》えだ、余《あんま》り馬鹿な事をすると――」
「まあ宜《い》いから黙り給え」
森辰馬が遮って、
「この人は温和《おとな》しく来たかい?」
「どうして。逃げようとして気違いのように暴れやがった。この通り噛《か》みついたくらいだ」
「僕も頬っぺたを引掻かれたよ」
俳優の一人が頬を出して見せた。――森辰馬は頷《うなず》いてから、
「実は、十分ほど前にまた山西さんが殺されたんだ、短刀のひと突きでね」
「――」「――」
怪漢を曳《ひ》いて来た人たちはぴくりと身慄《みぶる》いをしながら立竦《たちすく》んだ。
「ほ、本当かい、それは?」
「もう直ぐ警察から来るだろう、それまで部屋へ入らない方が宜《い》い、とにかくこの深夜に主役女優と腕利《うでき》きの監督が殺されたんだ、こいつは近来にない大事件だぜ」
「――森君……」人々を押分《おしわ》けて録音助手の米倉一作が前へ現れた。
「警官の来るのを待つのも宜いが、短刀でやったとすると、此奴《こいつ》の身体検査をした方が宜いな、うっかり刃物でも振廻されると危険だぜ!」
「厭だ、無法だ!」
怪漢は両手を執《と》られたまま、急に猛牛のように暴れだした。
「警官でもねえおめえさん達に、体を検べる権利はねえ筈だ、こいつは人権|蹂躙《じゅうりん》だ」
「黙れ、みんな確《しっか》り押《おさ》えてくれ」
森はそう云って、藻掻《もが》き廻る怪漢を壁へ押しつけ、襤褸屑《ぼろくず》のように破れた古洋服の上衣からズボンまで手早く検《あらた》めた。――獲物《えもの》はあった。上衣の内|隠し《ポケット》から「赤星みはる[#「みはる」に傍点]様」と書いた一通の書面。ズボンの|隠し《ポケット》からは、白鞘《しらざや》の短刀。然《しか》も……書面の方は、かねて赤星みはる[#「みはる」に傍点]が受取ったのと同じ脅迫状であるし、短刀の方は抜いてみると未《ま》だ生々しい血に染まっていた。
「それ見ろ、――」録音助手の米倉が勝誇《かちほこ》ったように、「その脅迫状があり、血まみれの短刀を持っている以上、幾らじたばたしても駄目だぞ」
「ま、ま、間違《まちげ》えだ、己《おら》ぁ知らねえ、己《おら》ぁ人殺しなんざしねえ、放してくれ」
「黙れ、動くと縛りあげるぞ」
森辰馬が呶鳴《どな》りつけるところへ、――どかどかと警官たちが入って来た。
撮影室《ステーヂ》が仮の取調べ室に定《き》められ、居合《いあわ》せた者は全部そこに集《あつま》った。警察署長自ら乗出《のりだ》しての訊問《じんもん》で、事件の経過はすらすらと量《はか》どった、――署長は、
一、午前二時五分前、赤星みはる[#「みはる」に傍点]の惨死体発見。発見者は秋山助監督。
二、同二時二十分頃、山西喜久夫監督の死体発見。発見者は長坂助手。
三、それより約五分前頃、第二号|撮影室《ステーヂ》附近にて怪漢を発見、之《これ》を捕縛す。
以上の事実を慥《たしか》めて後、既に警察医が検べている二つの屍体を検分し、現場《げんじょう》の捜査を行って戻って来ると、
「大体これで宜《よ》かろう」と云った、「この男は『駿河《するが》の吉《きち》』と云う放浪者で、この界隈《かいわい》の持余《もてあま》し者なんだ。――おまえの持っていた脅迫状はこれだね」
「へい、申訳《もうしわけ》ございません」
駿河の吉は恐縮そうに頭《こうべ》を垂れた。
「それから、この頃何度も赤星みはる[#「みはる」に傍点]へ脅迫状を送ったことも事実だろうな」
「――へい」
「そうか。すると、幾度手紙を送っても金を出さんので、脅迫状に書いた通り赤星みはる[#「みはる」に傍点]の顔へ傷をつけに来た、ところが赤星が眼を覚して騒ぎだしたので、遂《つい》に惨殺したのだろう、それに相違あるまい」
「と、と、とんでもねえ」駿河の吉は蒼くなって、「なんで私《あっし》そんなだい外《そ》れた真似《まね》を致しやしょう、私《あっし》ゃただ、もう一度この脅迫状を渡そうと思ってやって来ただけなんでさ、本当にそれだけのこってさ、人殺しなんて」
「往生際《おうじょうぎわ》が悪いぞ吉」署長は叱《しか》りつけて、「おまえは赤星を殺してから、皆の騒いでいる隙《すき》に金でも盗もうと思って、監督室へ忍込《しのびこ》んだのだ、彼処《あすこ》には金庫があるからな、――ところがあの金庫の中には映画の台本しきゃ入っていないのだ。おまえがうろうろしている処《ところ》へ、警察へ電話をかけるために山西監督が入って来た、そこでおまえは監督をも……この短刀でずぶりと刺殺《さしころ》して了《しま》ったのだ」
「知らねえ、私《あっし》ぁ知らねえ」
[#3字下げ]四、真相の一[#「四、真相の一」は中見出し]
駿河の吉は血染《ちぞめ》の短刀をつきつけられて、気違いのように身を藻掻きながら喚きたてた。この様子をさっきから、眤《じっ》と見戍《みまも》っていた森辰馬は、――署長が部下の刑事に、
「手錠をかけて了え」と命じた時、
「些《ちょ》っとお待ち下さい」と前へ出て来た。今まで隅の方で考えていたことが、ようやくどうにか解決がついたらしい。森の眼は活々《いきいき》と輝いている。
「何だね、――?」
「手錠をかける必要は有りません、その男は犯人ではないのです」
これは意外な一言《いちごん》だった。ぴたりぴたりと、一|分《ぶ》も隙《す》かさず事件の内容を解剖した署長の推理を、まるで足下から引《ひっ》くり返したようなものである。
「此奴《こいつ》が犯人でない? とすると君はその犯人を知っているのか」
「知っていたら出せと仰有《おっしゃ》るのでしょう、宜《よろ》しい先《ま》ず赤星みはる[#「みはる」に傍点]惨死の真相を御説明致しましょう、――どうぞ現場《げんじょう》へお出《い》で下さい」
森辰馬は会釈《えしゃく》して先へ立った。
深夜の惨劇もあっけなく解決したと思ったとたんに、事件が新しい展開を始めたので、人々の興味は頂点に達した。――警官たちも無論のこと、この青二才が何をしようとするのか、半《なかば》は嘲《あざけ》り半は好奇心で、森辰馬の後から跟《つ》いて行った。
赤星みはる[#「みはる」に傍点]の部屋へ来た森辰馬は、
「署長さん、赤星嬢を死に到《いた》らしめた犯人はこいつ[#「こいつ」に傍点]ですよ」と云って、壁添いに置かれてある瓦斯煖炉《ガスストーヴ》を指さした。
「何だって? 君は気でも違ったのか、この部屋の中を見給え、石膏は砕け窓硝子《まどガラス》は破《わ》れ、格闘した様子が歴々《ありあり》と残っているじゃないか、第一――瓦斯中毒で死んだとすれば、秋山青年が入って来た時、何よりも先に瓦斯の匂《におい》に気付かぬ筈はあるまい」
「お分りがなければ説明しましょう」森辰馬は静かに始めた、「赤星みはる[#「みはる」に傍点]は三日二晩不眠不休で疲れきっていました、この部屋へ二時間の暇を利用して眠りに来た彼女は、瓦斯煖炉《ガスストーヴ》へ火をつけ寝台《ベッド》へあがりました。その時瓦斯管が外れかかっていたのを知らなかったのです、――間もなく煖炉が熱して、受口《うけぐち》が膨脹《ぼうちょう》して来たため、外れかかっていたゴム管が放れ、瓦斯が室内に放流され始めました。うち続く疲労のため前後不覚に眠っていた赤星みはる[#「みはる」に傍点]が、苦しさの結果ようやく気付いたのは、それから凡そ一時間以上も経《た》っての事でしょう、――もう殆ど失神状態になっていたと思いますが、それでも寝台からずるずる這《は》い下りて、煖炉の側《そば》までやって来ると、無我夢中で瓦斯の栓を捻《ひね》って止めたのです、そして……外へ出ようとすると扉《ドア》に鍵が掛かっている、鍵を取りに引返そうとした時、そこに在った石膏の女神《めがみ》像にぶつかったのです」
森辰馬はずばずば説明して行く、「――女神像が倒れて砕ける上へ、赤星みはる[#「みはる」に傍点]もはずみ[#「はずみ」に傍点]を喰《くら》って烈《はげ》しく倒れました、額の傷はその時女神像の鋭い割れ目で打ったものです。惨劇の真相はこれで全部です、瓦斯中毒と出血に依《よ》って赤星みはる[#「みはる」に傍点]は死んだのです」
「然《しか》し、部屋に充満していた瓦斯《ガス》は?」
「石膏像の破片が飛んで、窓硝子《まどガラス》を砕きました、瓦斯はあの壊れた硝子穴から外へ流れ出て了ったのです、――然《しか》し証拠はまだ残っていますよ」
そう云って森辰馬は、壁にかかっている赤星みはる[#「みはる」に傍点]の帽子の一つを取り、
「中を嗅いでみて下さい」と云った。署長が嗅いでみると、帽子の中には明らかに瓦斯の匂がしみ附いていた。
「浮いている瓦斯はどんどん逃げますが、壁に密着している帽子とか、厚い羅紗地《らしゃじ》などには残るものです、――第二の証拠はメーターを調べれば分るし、最も決定的には屍体を解剖するのが一番でしょう」
明快な推理である、署長は黙って森辰馬の言葉通り再検査をした後、
「宜《よろ》しい、恐らく君の云う通りだろう、尚《なお》屍体の解剖をしたうえ断定するが、然し、――赤星みはる[#「みはる」に傍点]が瓦斯中毒に因《よ》る死だとすると、山西監督を殺害した犯人は誰だね?」
「無論それも説明しますよ」
森辰馬はにやりと笑って、
「どうぞ監督室へお戻り下さい」と女優《じょゆう》部屋を出た。
今や人々は、完全に森辰馬の手腕に魅《み》し去られていた。惨鼻《さんび》を極めた女優の死が、瓦斯中毒に因るという事実、それを神の如《ごと》く解決した森辰馬が、今度は山西監督の死をどう解いて行くか、
「こいつは映画以上だぜ」
と囁き交《かわ》しながら皆|跟《つ》いて行った。
[#3字下げ]五、意外な犯人[#「五、意外な犯人」は中見出し]
監督室へ入った森辰馬は、
「さて諸君」と向直《むきなお》った、「諸君も知っている通り、山西さんが電話をかけに来た時、僕と諸君は全部赤星君の部屋にいたし、秋山君たちは外へ捜索に出ていた。つまり誰もこの監督室へ来た者はない筈だ、――そうだね?」
「そうだ」皆は異口同音に答えた。
「長坂さんに知らされるまで、僕たちは女優部屋の廊下にいたんだ」
「恐《こわ》くて動かれやしなかったわ」
「ところが、――」と森辰馬は云った、「ところが、誰かここへ来た者があるんだ、そして今でもここへ来たという証拠を身に着けている」
皆は不安そうに自分の体を見廻した。
「さあ諸君、今のうちに云い給え、君たちの中に誰か一人、監督の入った後からここへ来た者がいるんだ、此方《こっち》から指名されぬうちに云って了わぬと重大な事になるぜ」
「――――」
「云わないのかい、誰も?」
「――――」
「それじゃあ僕から訊こう」森辰馬は一歩出て、
「米倉君、君はこの部屋へ入った筈だね」
「ば、馬鹿な事を云うな!」
いきなり自分の名を指されて、米倉一作はさっと顔色を変えながら呶号《どごう》した。
「僕は君が来た時この部屋から出たまま、一度だって寄《より》つきゃしない、第一、――あの時僕は山西さんに小っぴどく叱られたんだ、たとえ用があったって来る筈がないよ」
「なんで怒られたのかい?」
「そ、そんな事を云う必要はない」
「云い度《た》くないんだろう」
森は皮肉に冷笑して、「そんなら僕から云おうか、君はその時山西さんから『馘だ!』って云われたんだ、君は山西さんから憎まれていた、そのうえに馘だと云われて嚇《かっ》となり、どうせ馘になるなら行きがけの駄賃に日頃の怨《うら》みを晴らしてやろうと思った、――そこへ赤星みはる[#「みはる」に傍点]の殺害事件が起ったんだ」
「でたらめを云うな、馬鹿な事を……」
「まあ聞けよ」森辰馬は静かに、「君はまえから赤星君が脅迫されていた事を知っている、そこで例の放浪者が到頭やったな――と考えた、同時に思った事は、この咄嗟《とっさ》に山西さんを殺せば、その罪は当然放浪者に着せられる、と云うことだった。君はそう決心すると、楽屋から本身《ほんみ》の短刀を取出して来て、山西さんが電話をかけようとしている背後からずぶり[#「ずぶり」に傍点]と、ひと刺しにやっつけたんだ」
「嘘だ、嘘だ、貴様のでたらめだ」
「もう少しだから聞けよ。それから君は血染の短刀の処置を考えていたが、折良く、――この駿河の吉という男が捉《つかま》ったので、暴れるのを押えつける振《ふり》をしながら、人知れずズボンの|隠し《ポケット》へ押込んで置いたと云う訳さ。だから君は……誰よりも先に放浪者の身体検査をしろと云ったんだ」
「しょ、しょ、証拠があるか、僕はあの時出て行ったきり、一度もこの部屋へは来やせん、証拠を見せろ証拠を」
「見せてあげようか、証拠は君の体に着いているよ」
「なんだと、――?」
「君が首に巻いている衿巻さ」
この一言《いちごん》は米倉一作を即死させたかと思われた。聞くと同時に彼はふらふらとよろめいたが、辛くも立直《たちなお》ると、
「こ、この衿巻が、どうしたと?」
「君はねえ、君は山西さんに馘だと云われて出て行く時、その衿巻を此方《こっち》の椅子の上へ置忘れたんだ。山西さんは手に取ってみて、こんな贅沢な品を使っていると云いながら、其方《そっち》にある椅子の背へ投出したのさ、――その時僕は、衿巻が床へ滑落《すべりおち》ちたのを慥《たしか》に見たよ。君の衿巻が其方《そっち》の机の蔭へ落ちたのを知っているのは、山西さんと僕の二人だけだ、それがどうして君の首にあるのかい? あれから一歩もここへ入らなかった君が、どうしてその衿巻を持っているんだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「――――」
「つまりこうさ、君は山西さんを刺殺《さしころ》してから、何か証拠になる物を落しはしないかと思って見廻した。すると――机の蔭に自分の衿巻が落ちている、これは大変、こんな物が落ちていたら嫌疑の因《もと》だと思って、よく考えてもみずに拾って首へ巻いたのさ」
「ち――畜生※[#感嘆符二つ、1-8-75]」米倉一作は喚くと共に、警官の持っていた短刀を奪取《うばいと》って、いきなり森辰馬へとびかかった。人々は思わず、
「きゃっ、――」と云って面《おもて》を外向《そむ》けたが。やりて[#「やりて」に傍点]の森さんとも云われる辰馬に何で隙があろう、
「こいつ!」と云うと体《たい》を躱《かわ》して、流れる相手の腕を逆に取ると、肩へ担《かつ》いでやっ[#「やっ」に傍点]とばかり、家鳴りをさせて其処《そこ》へ投出した。
「今こそ手錠が必要ですな署長さん」
警官たちが米倉を押えつけるのを、にやにや見やりながら落着き払って森が云った。
「此奴《こいつ》が山西監督の殺害犯人ですよ、仔細《しさい》はいま御覧の通りです、尚|精《くわ》しいことは本人からお聞き下さい」
「有難《ありがと》う。や、実に遖《あっぱ》れな推理でした」
署長が感謝をこめて握手の手を伸ばすや、居合せた男女優技師たちは、声を合せてわあっと歓声をあげた。
さしも奇怪な事件もこれで全く解決した。署長の一行が二つの屍体と、犯人米倉一作を運んで引揚《ひきあ》げて行った後、森辰馬は女優たちの讃辞《さんじ》を浴びながら立上った。
「やれやれ、これで主役女優と監督を一遍に失った訳か、『新日本の女性』も当分目鼻はつくまい、――僕は一週間ばかり休暇を貰うよ」
底本:「周五郎少年文庫 南方十字星 海洋小説集」新潮文庫、新潮社
2019(平成31)年2月1日発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年2月号
初出:「新少年」
1937(昭和12)年2月号
※「女優」に対するルビの「スター」と「じょゆう」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ