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屋に迷ふ
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屋に迷ふ
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)真木《まき》
(例)真木《まき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)也|惨《みじ》
(例)也|惨《みじ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)づる/\
(例)づる/\
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
真木《まき》には家といふ観念が素から乏しかつた。勿論家庭といふ観念に乏しい訳では、決してなかつたのみならず、三十前後には可也家庭のない生活の寂寞に悩んだ経験はもつてゐたに違ひなかつたけれど、しかし其とても孤独の寂しさとか日常生活の不自由とか、若しくは因習的な考へから来てゐるので、それを紛らせる外の方法が若し有るならば、大きな殻《から》を背負つて歩く気には迚もなれなかつたらうと思ふ。異性との交渉の最も深くて、そして密な生活が、彼の自然な本能慾として、その時代に彼を惹着けてゐたことは言ふまでもなかつた。そしてさうした本能の慾望に引摺られて、知らず識らず家庭を作つてしまつたけれど、それと同時に是も殆んど本能的に絶えずそれから脱れようとする意志の働いてゐることも事実であつた。づる/\深味へ落込んでしまつてから、社会人として寧ろそれが一人前の生活形式でもあり、誇でもあり、そこに大いなる慰安と恰楽と希望とのあることを拒むことはできないながらも、彼は寧ろそれより幾層倍かの苦しみを負担されてゐることを感じないではゐられなかつた。東洋人らしい隠遁的な気分が、屡彼の心を惑はさずにはおかなかつた。
それは家庭と云ふ物質以上のものゝ話だけれど、こゝに云ふ家と云ふのは、実は家屋其物のことなので、切実な意味からは、一つ/\に切離して言ふことのできないのは無論だが、彼のは寧ろ住居を意味するので、その住居について、実のところ彼は今まで余り考慮を費したことはないのであつた。勿論住居を考へるには、土地といふことを考へない訳には行かないのだけれど、真木が自分が空中に住んでゐることに気かついたのは、つひ最近のことであつた。それまで彼はそんなことを考へる余裕すらなかつた。
彼にしても、自分の育つて来た家を、懐かしく思はない訳に行かなかつた。家の内部、たとへば昔風の小袖櫃や刀の入つてゐた長持などのおかれた薄暗い物置だとか、巴旦杏や李などの果樹が枝葉を繁らせてゐた庭だとか、裏《うら》の溝ばたにあつた無果花《いちじゆく》の樹だとか、荒廃した裏の空屋敷、壊れかゝつた築地《ついぢ》、三四歳から十二一二歳までを育つて来た貧しい家や、幼年期の生活の姿を見る度に、涙ぐましいやうな清純な悲哀を感じもしたし、それから後移つて行つた町の大川端の家や、二度目に越して行つた、間取のひどく気に入つてゐた家なども、その時々の生活や環境と共に、忘れがたく思はれるのであつた。真木はそんな時分から微細な風物の移りかはりや、庭の布置《たゝづまひ》や、一茎の草、一株の庭木にも、限りない愛着を感ずる方《たち》だつたので、詩や歌を作る才分には乏しかつたし、たとひさう云ふ素質が幾分あつたにしても、文章とか読書とか云ふものが、まるでさう云ふ実感とは別のものゝやうに取扱はれてゐた時代だつたから、その芽が育《はぐゝ》まれて行くべき機縁もなかつたけれど、さう云ふことには人一倍敏感であつたには違ひないのだから、家と家の周囲に或る神秘的な感能を唆《そゝ》られたことは事実であつた。そんなことを一々思出すと、彼は際限のない思出の深い瞑想に耽らねばならないほど、『家』の愛着者ではあつたけれど、それだけに又実際的の方面では、心意の発動が鈍かつた。彼はリヤリストらしく見えながら、生活その物に対しては寧ろぼんやりの方であつた。それに其は彼の遺伝でもあつたらしく思はれた。父も母も家を治めて行く側《かは》の人では決してなかつた。父の家も母の家も、士分としては相当の家柄ではあつたけれど、制度が瓦解してからは、多勢の子女をもつた彼等の無成算な生活は、可也|惨《みじ》めなものであつた。勿論家を離れて、広い世のなかへ出てからの真木は、生存の必要上、少年期と学生時代にもつてゐた彼の特徴の『ぼんやり』をいくらか矯めることはできた。初め酷《ひど》い目に逢ひ逢ひしたお蔭で、実際生活について、注意を払ふべく余儀なくされたことは事実であつたが、しかし家を治めるとか、一家を経営するとかいふ考へは、中老期に入るまでは、全然彼の頭脳に欠けてゐた。彼は自分の存続者である子女が、めきめき大きくなつて行くのに、驚異の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》らずにはゐられなかつた。我儘一杯――といつても彼は社会生活を破壊する種類の我儘ものでもなかつたし、周囲の生活を侵害するやうな種類の狡《づる》さも持つてゐないことは事実であつたが、しかし其れ以上ではなかつた――に行《ふるま》はずにはゐられない放縦性をもつてゐた彼に取つては、それこそ過重な負担であつた。彼が少しづゝ自分の存在を世間に認められた三十時代に、今は知事になつてゐる一人の友人がその家賃を学資にするつもりで建てた四軒ばかりの長屋の一つに入るべく、間接に勧誘を受けて、下宿からそこへ移つて行つた、その機縁がなかつたならば、彼は或ひはもつと/\年を取るまで下宿生活を続けてゐたに違ひなかつた。
真木《まき》には家といふ観念が素から乏しかつた。勿論家庭といふ観念に乏しい訳では、決してなかつたのみならず、三十前後には可也家庭のない生活の寂寞に悩んだ経験はもつてゐたに違ひなかつたけれど、しかし其とても孤独の寂しさとか日常生活の不自由とか、若しくは因習的な考へから来てゐるので、それを紛らせる外の方法が若し有るならば、大きな殻《から》を背負つて歩く気には迚もなれなかつたらうと思ふ。異性との交渉の最も深くて、そして密な生活が、彼の自然な本能慾として、その時代に彼を惹着けてゐたことは言ふまでもなかつた。そしてさうした本能の慾望に引摺られて、知らず識らず家庭を作つてしまつたけれど、それと同時に是も殆んど本能的に絶えずそれから脱れようとする意志の働いてゐることも事実であつた。づる/\深味へ落込んでしまつてから、社会人として寧ろそれが一人前の生活形式でもあり、誇でもあり、そこに大いなる慰安と恰楽と希望とのあることを拒むことはできないながらも、彼は寧ろそれより幾層倍かの苦しみを負担されてゐることを感じないではゐられなかつた。東洋人らしい隠遁的な気分が、屡彼の心を惑はさずにはおかなかつた。
それは家庭と云ふ物質以上のものゝ話だけれど、こゝに云ふ家と云ふのは、実は家屋其物のことなので、切実な意味からは、一つ/\に切離して言ふことのできないのは無論だが、彼のは寧ろ住居を意味するので、その住居について、実のところ彼は今まで余り考慮を費したことはないのであつた。勿論住居を考へるには、土地といふことを考へない訳には行かないのだけれど、真木が自分が空中に住んでゐることに気かついたのは、つひ最近のことであつた。それまで彼はそんなことを考へる余裕すらなかつた。
彼にしても、自分の育つて来た家を、懐かしく思はない訳に行かなかつた。家の内部、たとへば昔風の小袖櫃や刀の入つてゐた長持などのおかれた薄暗い物置だとか、巴旦杏や李などの果樹が枝葉を繁らせてゐた庭だとか、裏《うら》の溝ばたにあつた無果花《いちじゆく》の樹だとか、荒廃した裏の空屋敷、壊れかゝつた築地《ついぢ》、三四歳から十二一二歳までを育つて来た貧しい家や、幼年期の生活の姿を見る度に、涙ぐましいやうな清純な悲哀を感じもしたし、それから後移つて行つた町の大川端の家や、二度目に越して行つた、間取のひどく気に入つてゐた家なども、その時々の生活や環境と共に、忘れがたく思はれるのであつた。真木はそんな時分から微細な風物の移りかはりや、庭の布置《たゝづまひ》や、一茎の草、一株の庭木にも、限りない愛着を感ずる方《たち》だつたので、詩や歌を作る才分には乏しかつたし、たとひさう云ふ素質が幾分あつたにしても、文章とか読書とか云ふものが、まるでさう云ふ実感とは別のものゝやうに取扱はれてゐた時代だつたから、その芽が育《はぐゝ》まれて行くべき機縁もなかつたけれど、さう云ふことには人一倍敏感であつたには違ひないのだから、家と家の周囲に或る神秘的な感能を唆《そゝ》られたことは事実であつた。そんなことを一々思出すと、彼は際限のない思出の深い瞑想に耽らねばならないほど、『家』の愛着者ではあつたけれど、それだけに又実際的の方面では、心意の発動が鈍かつた。彼はリヤリストらしく見えながら、生活その物に対しては寧ろぼんやりの方であつた。それに其は彼の遺伝でもあつたらしく思はれた。父も母も家を治めて行く側《かは》の人では決してなかつた。父の家も母の家も、士分としては相当の家柄ではあつたけれど、制度が瓦解してからは、多勢の子女をもつた彼等の無成算な生活は、可也|惨《みじ》めなものであつた。勿論家を離れて、広い世のなかへ出てからの真木は、生存の必要上、少年期と学生時代にもつてゐた彼の特徴の『ぼんやり』をいくらか矯めることはできた。初め酷《ひど》い目に逢ひ逢ひしたお蔭で、実際生活について、注意を払ふべく余儀なくされたことは事実であつたが、しかし家を治めるとか、一家を経営するとかいふ考へは、中老期に入るまでは、全然彼の頭脳に欠けてゐた。彼は自分の存続者である子女が、めきめき大きくなつて行くのに、驚異の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》らずにはゐられなかつた。我儘一杯――といつても彼は社会生活を破壊する種類の我儘ものでもなかつたし、周囲の生活を侵害するやうな種類の狡《づる》さも持つてゐないことは事実であつたが、しかし其れ以上ではなかつた――に行《ふるま》はずにはゐられない放縦性をもつてゐた彼に取つては、それこそ過重な負担であつた。彼が少しづゝ自分の存在を世間に認められた三十時代に、今は知事になつてゐる一人の友人がその家賃を学資にするつもりで建てた四軒ばかりの長屋の一つに入るべく、間接に勧誘を受けて、下宿からそこへ移つて行つた、その機縁がなかつたならば、彼は或ひはもつと/\年を取るまで下宿生活を続けてゐたに違ひなかつた。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
最初のその家が、真木が初めて家をもつたにしては、余りに殺風景なものであつたことは言ふ迄もなかつた。同窓であつた其の友人は、郷里の町では新しい医術と病院の開祖であつた人の子であつたゞけに、貧しい家に育つた真木が小学校時代に、ふと一度遊びに行つて、驚きの目を※[#「目+爭」、第3水準 1-88-85]《みは》つたのも無理ではなかつたほど彼の故郷の家は大きな屋敷であつた。よく兄などの思出話などに聞かされる、真木の出生の屋敷は、父の石高から言つて、さう貧弱なものではなかつたらうし、可也好い士分であつた母方の家《うち》は、それよりも立派な屋敷であつたらうと想はれたが、真木が物心のつく時分には、纔かにその迹を辿ることができるくらゐ、それが田や空地になつたりしてゐた。真木が幼年期を過した家が、町の場末の貧寒な家であつたところから、彼は縁などの背丈よりも高い友人の大きい家や広い邸園を見たときには、子供心に異様な感じを起したに違ひなかつた。でも、彼は物質的には、その後も時々悲哀を感じたことはあつたけれど、慈母の深い愛と、とかく物質を度外に置きがちな気分とが、物ほしい感じなどを起させるやうなことはなかつた。のみならず貧しく暮しつけた彼には、寧ろ其等の生活が親しみの薄いものであつたに違ひなかつた。
その友人の借家にも、彼は長くはゐなかつた。貸家など持つてゐるのが煩はしくなつて、友人が其を人に譲り渡すことになつたからであつた。真木は、しかし其処を出るときには、もう最初のやうな自由な体ではなかつた。人並に妻もあれば子供もあつた。そして新しく居を移すといふことが、下宿を替るのと又違つた、淡い一種の悲哀と不安がありながらも、何となく気分が変るやうに思はれて、悪い感じのしないものだといふことを経験した。差当り経済上の都合や何かで、妻と子供とその頃或私立大学へ通つてゐた彼の親類先きの一人の青年とを、旧の家からさう遠くもない、或裏通りの小い家に落着かせて、自分だけ下宿へ出ることにしたが、そんな別居の生活も暫らくで、間もなくその界隈《かいわい》で、二度目に気に入つた一つの家が見つかつて、そこへ移ることにした。
その家はその頃の家族としては、広すぎるほど間数が多かつた。築山があつたり、石などの多い庭も可也な坪数であつた。少し高い処にお茶屋がゝつた四畳半などがあつたり何かして、瀟洒な路次庭が作つてあつた。苔の蒸した燈籠などもあつた。真木は初めて家らしい家に落着くことができたやうに思つたが、勿論家賃が割に安いと云ふことを見遁すことはできなかつた。多分それは砲兵工廠の煤煙が、風向きの都合で、吹き寄せられるからだと考へてゐたが、実際それは又厄介なことでもあつたので、彼は折角気に入つたその家に、落着いたものか何《ど》うかと思ひ惑つてゐた。契約が二年|縛《しば》りだと云ふことなども、後《あと》で気がついてみると、吝《しわ》さうな屋主の手であつたが、迂闊な彼はそれにも頓着しなかつた。
それが桜が散つて、垣根の山吹が咲きかける四月の半頃であつた。軽い風がよく吹いた。そして風のある日には、大きな煙突から吐かれる煙が、渦をまいて彼の住居の方へ吹寄せられた。岩紐の間に植つた棕櫚の葉がかさ/\と鳴るやうな日には、座敷の縁側の隅々や、板の合せ目などに、極《きま》つて黒い煤滓《す〓かす》がふわ/\してゐた。女達から忽ち非難が起つた。
とかくするうちに、屋主と仲のわるい隣の隠居から、妻のお正《しやう》が不思議な噂を聴かされて来た。それは其の家に非点《けち》がついてゐるといふことで、その前年の冬、新聞をさわがした殺人犯の事実と、多少交渉があるといふのであつた。反物を掠奪するために、二人の縮み屋を殺して、死体を床下に埋めたと云ふ兇暴な犯罪者の妾が、そこにおかれてあつたところから、その家までが床下を発掘されたり、妾が取調べられたりしたのであつた。
お正はその話を聞くと、蒼くなつて、真木に引越を迫つた。
『けれどこゝで殺したと云ふんぢやないぢやないか。』真木は主張しては見たが、何だか興ざめがしてゐた。
彼等は又家を捜さねばならなかつた。真木たち夫妻はその家へ移る前に、本郷の方に足かけ二年ばかりゐた家があつた。彼の生活もその頃には大分複雑になつてゐた。或る大国との緊要な戦争が、漸く終りを告げた頃で、多大の犠牲を払つて贏ち得た勝利に酔ふかはりに、人々は世界に於ける自己の地位と力とを遽かに自覚し反省しはじめた。講和談判の結果か劇《はげ》しく彼等の神経を刺戟したりした。真木は三つになつた子供を抱きながら、その子の運命を、それに結びつけて考へてみたりした。彼はその子供について、苦しい懐疑より外何ものをも持つことはできなかつた。そこへ又一人女の子が産れて来た。
煤煙の家から、彼はその後十七八年間も居ずわることになつた、今の家へ移ることになつたのであつた。
熱心に家を捜してゐたお正が、ある時好い家が見つかつたから、一緒に見に行きませうと言つて、真木と連立つて行くと、直ぐそれに決めてしまつたのが其で、座敷が玄関に近かつたり、茶の間に密接してゐるのが、真木には不満であつたけれど、簡素にできた家その物は、何となく自分の生活気分にふさはしいやうな気がした。庭には立木が多かつた。青々した建仁寺垣の前に、お能の舞台の背景のやうな松が枝葉を蔓らせてゐたり、八重の斑入《ふいり》の椿が、糸で綴つたやうに枝一杯に咲いてゐたりした。木蓮や柘榴の若葉が青い苔の蒸した庭に、幽暗な影をおとして、何となく懐かしい落着いた感じを与へた。真木や、友人のM―や、甥のY―や、お正の母の血縁にあたるK―青年や、一昨年から東京の学校へ来てゐるお正の末の弟などが、荷物を運び入れてから、座敷に集まつて、こゝで初めてわかされたお茶を呑んだ。
いくらの畳数でもない其の家も、真木のその頃の生活に取つては、決して狭隘を感じるやうなことはなかつた。寄宿してゐた甥は玄関脇の三畳にゐたし、彼は六畳の書斎に落着いてゐた。それに其の頃は、周囲も今ほど立込まなかつたので、比較的静かであつた。前後左右が平屋ばかりで、何の家も木立の多い庭を控へてゐた。隣の若い細君が、※[#「木+要」、第4水準2-15-13]《かなめ》の垣根の隙間から庭をのぞいて、そこに遊んでゐる正雄や道子に愛相らしく声かけたりした。夏になると、陰影の多いその隣の庭に、旦扇《ひおふぎ》の花が一杯に咲いてゐたりした。どこの家庭も静かで、ゆかしい人達ばかりであつた。
けれど真木の生活が年と共に煩はしくなつて来たとほりに、環境も初めの静謐を保つてゐなかつた。彼は、そこへ移つてから、六人の子女の父となつたが、七年ばかり前に道子を亡くしてから三年目に、又一人の女の子が、愛児を亡くした悲しみと寂しさに沈んでゐた夫婦の朝夕に、限りない慰安と賑かしになつたりした。三階の大きな建物が、彼の庭の東南を塞いだり、二階家が三方にぎつちり立込んで来たりした。清らかに小ぢんまりしてゐた家や庭が、子供たちによつて散々に荒され、彼の唯一の小さい客間兼書斎すらもが、夜の親子の寝室になつたり、子供たちの病室になつたりした。到るところに荷物が積みあげられて、十人の家族が、手足を伸ばしてゐるところと言つては、辛うじて十三四帖の畳の上より外ないまでに、狭められて来た。真木は道子を亡くしてから、子供のために重い荷を背負つてゐることが寧ろ彼に取つて大いなる幸福であることに気づいてはゐたけれど、その負担は彼の年齢と反比例に重くするばかりであつた。彼は何うかすると、彼の机の周囲まで渦をまいてゐる家庭気分に堪へ切れなくなつて、疲れ切つた体を、広い海辺や静かな山へ運んで行つた。そこに彼は二十年前の孤独と寂寥とに、しばらくでも浸《ひた》ることができた。
彼は時々仕事から一刻でも※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れようとして、懶るい頭脳を床框《とこかまち》や机にもたせて、怠惰な眠を貪つてゐる自分の姿を哀れみながらも、其の時々の色々の世間の問題や、賑やかな家庭の気分に刺戟されて、ともかくも何か為ずにはゐられなかつた。たゞ過去を振顧《ふりかへ》るときに、彼は引摺られながら続けて来た自分の仕事や生活に、寂しい空虚感を抱かずにはゐられなかつた。けれど自分の仕事を完成するか、若しくは一切から解脱して隠栖するか、その孰れにしても、子女たちの生活を保障するに必要なものは、物質であつた。隠遁その物すらが、金より外の何物にも買はれないのであつた。勿論隠遁と生活の向上、仕事の完成とは、彼に取つては決して矛盾した二つのものではなかつた。
『家を何うかしなければ……』真木はむさくるしく物の取散らかつた四辺を眺めながら時々さう思つた。
妻のお正からも、そんな不満が絶えず出てゐた。
『これでは全く遣切れませんわ。何か取出さうとすれば、上の荷物から一々取出さなければならないんですから、何をするにも二重の働きがいるんですもの。』体に病のあるお正は、夜床など持出すたんびに滾《こぼ》してゐた。
しかし其よりも惨めなのは、静かに日課をさらふやうな場所をもたない子供たちであつた。彼等は友達の訪問を受けても、上げるところすらなかつた。
しかし不自由な感じな述らも、真木夫婦は引越す気にもなれなかつた。お正には愛児を失つた家と、居|昵《なず》んだ今の場所を離れるのが寂しかつたし、真木に取つては、多勢の家族を引連れて、今より気持よく暮せる住居に落着くことは、容易の仕事ではないらしく思はれた。年取つた彼に取つては、今更借家を捜したり、見ず知らずの家主と交渉して家を借りたりするのが余りに臆劫な事務でもあり、心細い仕事でもあつた。そして早くこの古い殻から脱れて、どこか柔かな新鮮な感じのする市の外側《そとがは》の方へ出ることができたなら、何んなに気分がせい/\するだらうと思ひながら、生活が単純であつた以前のやうな、さう軽い気持で家を移すことはできなかつた。差当り何うにかしなければならない事だとは思ひながら、それを考へるのが厭であつた。一日一日彼はそれを後《あと》へ/\と繰延べてゐた。
しかし然《さ》うしてゐられない時が、外界からの事情で、到頭真木に迫つて来た。[#地付き](大正11[#「11」は縦中横]年9月「表現」)
最初のその家が、真木が初めて家をもつたにしては、余りに殺風景なものであつたことは言ふ迄もなかつた。同窓であつた其の友人は、郷里の町では新しい医術と病院の開祖であつた人の子であつたゞけに、貧しい家に育つた真木が小学校時代に、ふと一度遊びに行つて、驚きの目を※[#「目+爭」、第3水準 1-88-85]《みは》つたのも無理ではなかつたほど彼の故郷の家は大きな屋敷であつた。よく兄などの思出話などに聞かされる、真木の出生の屋敷は、父の石高から言つて、さう貧弱なものではなかつたらうし、可也好い士分であつた母方の家《うち》は、それよりも立派な屋敷であつたらうと想はれたが、真木が物心のつく時分には、纔かにその迹を辿ることができるくらゐ、それが田や空地になつたりしてゐた。真木が幼年期を過した家が、町の場末の貧寒な家であつたところから、彼は縁などの背丈よりも高い友人の大きい家や広い邸園を見たときには、子供心に異様な感じを起したに違ひなかつた。でも、彼は物質的には、その後も時々悲哀を感じたことはあつたけれど、慈母の深い愛と、とかく物質を度外に置きがちな気分とが、物ほしい感じなどを起させるやうなことはなかつた。のみならず貧しく暮しつけた彼には、寧ろ其等の生活が親しみの薄いものであつたに違ひなかつた。
その友人の借家にも、彼は長くはゐなかつた。貸家など持つてゐるのが煩はしくなつて、友人が其を人に譲り渡すことになつたからであつた。真木は、しかし其処を出るときには、もう最初のやうな自由な体ではなかつた。人並に妻もあれば子供もあつた。そして新しく居を移すといふことが、下宿を替るのと又違つた、淡い一種の悲哀と不安がありながらも、何となく気分が変るやうに思はれて、悪い感じのしないものだといふことを経験した。差当り経済上の都合や何かで、妻と子供とその頃或私立大学へ通つてゐた彼の親類先きの一人の青年とを、旧の家からさう遠くもない、或裏通りの小い家に落着かせて、自分だけ下宿へ出ることにしたが、そんな別居の生活も暫らくで、間もなくその界隈《かいわい》で、二度目に気に入つた一つの家が見つかつて、そこへ移ることにした。
その家はその頃の家族としては、広すぎるほど間数が多かつた。築山があつたり、石などの多い庭も可也な坪数であつた。少し高い処にお茶屋がゝつた四畳半などがあつたり何かして、瀟洒な路次庭が作つてあつた。苔の蒸した燈籠などもあつた。真木は初めて家らしい家に落着くことができたやうに思つたが、勿論家賃が割に安いと云ふことを見遁すことはできなかつた。多分それは砲兵工廠の煤煙が、風向きの都合で、吹き寄せられるからだと考へてゐたが、実際それは又厄介なことでもあつたので、彼は折角気に入つたその家に、落着いたものか何《ど》うかと思ひ惑つてゐた。契約が二年|縛《しば》りだと云ふことなども、後《あと》で気がついてみると、吝《しわ》さうな屋主の手であつたが、迂闊な彼はそれにも頓着しなかつた。
それが桜が散つて、垣根の山吹が咲きかける四月の半頃であつた。軽い風がよく吹いた。そして風のある日には、大きな煙突から吐かれる煙が、渦をまいて彼の住居の方へ吹寄せられた。岩紐の間に植つた棕櫚の葉がかさ/\と鳴るやうな日には、座敷の縁側の隅々や、板の合せ目などに、極《きま》つて黒い煤滓《す〓かす》がふわ/\してゐた。女達から忽ち非難が起つた。
とかくするうちに、屋主と仲のわるい隣の隠居から、妻のお正《しやう》が不思議な噂を聴かされて来た。それは其の家に非点《けち》がついてゐるといふことで、その前年の冬、新聞をさわがした殺人犯の事実と、多少交渉があるといふのであつた。反物を掠奪するために、二人の縮み屋を殺して、死体を床下に埋めたと云ふ兇暴な犯罪者の妾が、そこにおかれてあつたところから、その家までが床下を発掘されたり、妾が取調べられたりしたのであつた。
お正はその話を聞くと、蒼くなつて、真木に引越を迫つた。
『けれどこゝで殺したと云ふんぢやないぢやないか。』真木は主張しては見たが、何だか興ざめがしてゐた。
彼等は又家を捜さねばならなかつた。真木たち夫妻はその家へ移る前に、本郷の方に足かけ二年ばかりゐた家があつた。彼の生活もその頃には大分複雑になつてゐた。或る大国との緊要な戦争が、漸く終りを告げた頃で、多大の犠牲を払つて贏ち得た勝利に酔ふかはりに、人々は世界に於ける自己の地位と力とを遽かに自覚し反省しはじめた。講和談判の結果か劇《はげ》しく彼等の神経を刺戟したりした。真木は三つになつた子供を抱きながら、その子の運命を、それに結びつけて考へてみたりした。彼はその子供について、苦しい懐疑より外何ものをも持つことはできなかつた。そこへ又一人女の子が産れて来た。
煤煙の家から、彼はその後十七八年間も居ずわることになつた、今の家へ移ることになつたのであつた。
熱心に家を捜してゐたお正が、ある時好い家が見つかつたから、一緒に見に行きませうと言つて、真木と連立つて行くと、直ぐそれに決めてしまつたのが其で、座敷が玄関に近かつたり、茶の間に密接してゐるのが、真木には不満であつたけれど、簡素にできた家その物は、何となく自分の生活気分にふさはしいやうな気がした。庭には立木が多かつた。青々した建仁寺垣の前に、お能の舞台の背景のやうな松が枝葉を蔓らせてゐたり、八重の斑入《ふいり》の椿が、糸で綴つたやうに枝一杯に咲いてゐたりした。木蓮や柘榴の若葉が青い苔の蒸した庭に、幽暗な影をおとして、何となく懐かしい落着いた感じを与へた。真木や、友人のM―や、甥のY―や、お正の母の血縁にあたるK―青年や、一昨年から東京の学校へ来てゐるお正の末の弟などが、荷物を運び入れてから、座敷に集まつて、こゝで初めてわかされたお茶を呑んだ。
いくらの畳数でもない其の家も、真木のその頃の生活に取つては、決して狭隘を感じるやうなことはなかつた。寄宿してゐた甥は玄関脇の三畳にゐたし、彼は六畳の書斎に落着いてゐた。それに其の頃は、周囲も今ほど立込まなかつたので、比較的静かであつた。前後左右が平屋ばかりで、何の家も木立の多い庭を控へてゐた。隣の若い細君が、※[#「木+要」、第4水準2-15-13]《かなめ》の垣根の隙間から庭をのぞいて、そこに遊んでゐる正雄や道子に愛相らしく声かけたりした。夏になると、陰影の多いその隣の庭に、旦扇《ひおふぎ》の花が一杯に咲いてゐたりした。どこの家庭も静かで、ゆかしい人達ばかりであつた。
けれど真木の生活が年と共に煩はしくなつて来たとほりに、環境も初めの静謐を保つてゐなかつた。彼は、そこへ移つてから、六人の子女の父となつたが、七年ばかり前に道子を亡くしてから三年目に、又一人の女の子が、愛児を亡くした悲しみと寂しさに沈んでゐた夫婦の朝夕に、限りない慰安と賑かしになつたりした。三階の大きな建物が、彼の庭の東南を塞いだり、二階家が三方にぎつちり立込んで来たりした。清らかに小ぢんまりしてゐた家や庭が、子供たちによつて散々に荒され、彼の唯一の小さい客間兼書斎すらもが、夜の親子の寝室になつたり、子供たちの病室になつたりした。到るところに荷物が積みあげられて、十人の家族が、手足を伸ばしてゐるところと言つては、辛うじて十三四帖の畳の上より外ないまでに、狭められて来た。真木は道子を亡くしてから、子供のために重い荷を背負つてゐることが寧ろ彼に取つて大いなる幸福であることに気づいてはゐたけれど、その負担は彼の年齢と反比例に重くするばかりであつた。彼は何うかすると、彼の机の周囲まで渦をまいてゐる家庭気分に堪へ切れなくなつて、疲れ切つた体を、広い海辺や静かな山へ運んで行つた。そこに彼は二十年前の孤独と寂寥とに、しばらくでも浸《ひた》ることができた。
彼は時々仕事から一刻でも※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れようとして、懶るい頭脳を床框《とこかまち》や机にもたせて、怠惰な眠を貪つてゐる自分の姿を哀れみながらも、其の時々の色々の世間の問題や、賑やかな家庭の気分に刺戟されて、ともかくも何か為ずにはゐられなかつた。たゞ過去を振顧《ふりかへ》るときに、彼は引摺られながら続けて来た自分の仕事や生活に、寂しい空虚感を抱かずにはゐられなかつた。けれど自分の仕事を完成するか、若しくは一切から解脱して隠栖するか、その孰れにしても、子女たちの生活を保障するに必要なものは、物質であつた。隠遁その物すらが、金より外の何物にも買はれないのであつた。勿論隠遁と生活の向上、仕事の完成とは、彼に取つては決して矛盾した二つのものではなかつた。
『家を何うかしなければ……』真木はむさくるしく物の取散らかつた四辺を眺めながら時々さう思つた。
妻のお正からも、そんな不満が絶えず出てゐた。
『これでは全く遣切れませんわ。何か取出さうとすれば、上の荷物から一々取出さなければならないんですから、何をするにも二重の働きがいるんですもの。』体に病のあるお正は、夜床など持出すたんびに滾《こぼ》してゐた。
しかし其よりも惨めなのは、静かに日課をさらふやうな場所をもたない子供たちであつた。彼等は友達の訪問を受けても、上げるところすらなかつた。
しかし不自由な感じな述らも、真木夫婦は引越す気にもなれなかつた。お正には愛児を失つた家と、居|昵《なず》んだ今の場所を離れるのが寂しかつたし、真木に取つては、多勢の家族を引連れて、今より気持よく暮せる住居に落着くことは、容易の仕事ではないらしく思はれた。年取つた彼に取つては、今更借家を捜したり、見ず知らずの家主と交渉して家を借りたりするのが余りに臆劫な事務でもあり、心細い仕事でもあつた。そして早くこの古い殻から脱れて、どこか柔かな新鮮な感じのする市の外側《そとがは》の方へ出ることができたなら、何んなに気分がせい/\するだらうと思ひながら、生活が単純であつた以前のやうな、さう軽い気持で家を移すことはできなかつた。差当り何うにかしなければならない事だとは思ひながら、それを考へるのが厭であつた。一日一日彼はそれを後《あと》へ/\と繰延べてゐた。
しかし然《さ》うしてゐられない時が、外界からの事情で、到頭真木に迫つて来た。[#地付き](大正11[#「11」は縦中横]年9月「表現」)
底本:「徳田秋聲全集第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「表現」
1922(大正11)年9月
初出:「表現」
1922(大正11)年9月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「表現」
1922(大正11)年9月
初出:「表現」
1922(大正11)年9月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ