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病人騒ぎ
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病人騒ぎ
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)眩暈《めまひ》
(例)眩暈《めまひ》
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(例)[#地付き]
(例)[#地付き]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うと/\
(例)うと/\
勝手口の方で頓狂な話声がした。出入の商人などにしては、少し調子が高すぎた。それに空はまだ明け切つてはゐなかつた。おゑんはうと/\しながら、誰だらうと思つて耳を澄した。
「えらい何うも早くに飛び込んで来て、お眠いところを申し訳がありません。何にどこでもいいんで、隅の方をしばらくお借り申したいと思つてね。玄関でも茶の室でも……飛んだ御厄介で。」
おゑんは其の声の主が誰であるかが略見当がつきかゝつたが、同時にそこに一段高いパンヤの蒲団のうへに寝てゐる良吉も、目をさましたらしく、首を動かしてゐた。良吉の枕元には薬瓶や、湯呑茶碗なぞを載せたお盆に、湿布の片、痰壺、巻煙草、灰皿――さう云ふものがこて/\置いてあつた。彼は感冒にかゝつてゐた。火鉢にかけた鉄瓶に、薄い湯気がたつて、炭火の白けてゐることを証拠立てゝゐた。
おゑんは子供を抱いて寝てゐたが、持病のある体なので早起きが辛い方であつた。しかし一旦床を離れると、頭が少しくらゐ痛くても、眩暈《めまひ》がしたり、熱があつたりしても、床をしいて寝るといふことは、一日中何かしらこちや/\用事の多い彼女の家庭では、許されないことであつた。二人で一人分にも足りない女中に任しておいたのでは、何んなことになるか知れないのであつた。それで朝だけでも、少しゆつくり寝てゐたかつた。飯の焦げる匂ひがしても、子供の弁当にまごついてゐるのが判つてゐても、出来るだけじれ/\すまいと思つて、目を瞑つてゐたが、何うかすると大きな声を出して、台所へ指図をしなければならなかつた。
「さあ芳や、ごめん蒙つてこちらへ上れや。皆んなもこちらへ来て休まして戴けや。」
そんな声が玄関でしてゐたと思ふと、俥からおりて入つてくるらしい気勢がして、やがてその芳といはれる女であらう、何か低声で呟きながら茶の室へ通つた。
そこへおゑんが身仕度をして、出て行つた。女中が板戸を繰開けてゐた。
「どうも朝つぱらから飛んだお騒がせをして申訳がない。宿を取らうかなんて言つたけれど、何にどこでもいゝから、ちよつとの間御厄介にならうと思つてね。」
「さうですとも、そんな遠慮はいりません。何だかよく似た声だと思ひましてね。」
おゑんはさう言つて、更めて挨拶をした。去年の夏子供たちと暫らく行つてゐた親類の家に働いてゐる、その家の主人の兄の正太であつた。
芳子――正太の娘は、隅の方に小さくなつて、「父さん/\」と言ふ言葉だけは分明《はつきり》わかるが、間断なしに微声でしやべつてゐる言葉は、おゑんの耳にはよく聴き取れなかつた。
「これは芳の婿だあね。」正太はさう言つて、入口の方に畏まつてゐる、物堅さうな男をおゑんに引合せた。
「こちらが己の悴の正男さね。――おめえ一度もお目にかゝつたことはなかつつら。」正太はさう言つて、また引合せた。
おゑんは生糸会社に努めてゐる正男のことも、学校の先生をしてゐる芳子のことも、また町の女学校の先生をしてゐる芳子の婿の小出のことも、噂に聴いてゐたけれど、逢ふのは初めてであつた。芳子は先生らしいさつぱりした風をして、ぢろ/\四辺を見廻しながら、やつぱりおしやべりを続けてゐた。
「何あにね、芳が少し気が変になつたゞね。後でゆつくり話さにや判らんが、この前にも一度こんな事があつたゞね。その時は松沢病院へ三月も入れておいたが、まあ好い塩梅によくなつて、二年間何のこともなかつたゞね。それがふとした事から、また起つたもんだから、先月中頃××病院へ入れたゞけれど、専門でないもんだね、やつぱり東京で好いお医者にかゝつた方が早いだらうといふので、連れて来た訳さね。××病院ぢや、大分落着いたやうだから、もう少し置いてみろと言つてくれたけれど、一つこちらの先生にお願ひして、大学へでも入れるやうにしておもらい申したいと思つてね。」
その間も芳子は絶えず何か口走つてゐたが、この家が何処であるかゞ不安であつた。そして父がそれを言つて聴かせると、遽かにおとなしくなつて来た。
「それは飛んだ御心配ですね。それぢや今裏の家《うち》を掃除させますから。」
おゑんはさう言つて、急いで女中を指図して、火を起したり、子供達の寝てゐる裏の家の北向きの部屋を取片着けさせたりした。そこには書籍や雑誌が積み重ねてあつたり、古綿の入つた葛籠のやうなものや引釈いた片の詰つた行李のやうなものが、縁側に置いてあるかと思ふと、紫壇の机に琴のやうなものがあつて、薄暗い欄間の壁に土方のやうな顔をしたベヱトベヱンの図が光つてゐたりした。おゑんは其処へ足を踏込む度に、子供か女中かの誰かに、何か知ら小言を言はずにはゐられなかつた。勿論良吉たちの住居も古び煤けてゐた。梁や柱が歪んで、建具の足や閾が磨滅してゐた。天井や壁も煤けきつて、汚点が出てゐた。廃頽した庵室にも似た良吉の書斎にも、歳月がつけて行つた古色がしみ出してゐた。それは其れで彼の気分にふさはしいものではあつたけれど、建物の寿命と彼の寿命とを対照するとき、おゑん達は何うかすると暗い気持になつた。いつになつたら少しは片着けばえのするやうな明るい家をもつことが出来るのかと思ふと、年一年ごみごみしたものゝ溜り/\して行く、この頃の生活の煩雑さにうんざりしてしまふのであつた。良吉は大分前から一部改築の設計に興味をもちはじめてゐた。そして何うかすると、夢中になつて家の周囲を測量したり、図を引いたりしてゐたが、今のところそれも机上の享楽に過ぎなかつた。子供はそれを見ると、
「また設計ですか」と憫笑するのであつたが、おゑんも同じやうに笑つた。
「家の設計なんてものは、遣り出すと誰でも病的になるらしいですね。」
「でもお父さんお気毒よ。」おゑんは目を潤ませたが、子供たちが陰で気遣つてゐるやうに、悪くすると彼は設計した家を建てずにしまうかも知れないのであつた。
良吉もそれは何うでも可いと思つてゐるらしかつた。彼がやつておかなかつたら、皆んながまごつくだらうと考へたが、為残すべきもつと良い事が外にあることに気ついてゐた。で、やつぱり傍目もふらずに自分自身の仕事に精進しようと思つてゐた。
「えらい何うも早くに飛び込んで来て、お眠いところを申し訳がありません。何にどこでもいいんで、隅の方をしばらくお借り申したいと思つてね。玄関でも茶の室でも……飛んだ御厄介で。」
おゑんは其の声の主が誰であるかが略見当がつきかゝつたが、同時にそこに一段高いパンヤの蒲団のうへに寝てゐる良吉も、目をさましたらしく、首を動かしてゐた。良吉の枕元には薬瓶や、湯呑茶碗なぞを載せたお盆に、湿布の片、痰壺、巻煙草、灰皿――さう云ふものがこて/\置いてあつた。彼は感冒にかゝつてゐた。火鉢にかけた鉄瓶に、薄い湯気がたつて、炭火の白けてゐることを証拠立てゝゐた。
おゑんは子供を抱いて寝てゐたが、持病のある体なので早起きが辛い方であつた。しかし一旦床を離れると、頭が少しくらゐ痛くても、眩暈《めまひ》がしたり、熱があつたりしても、床をしいて寝るといふことは、一日中何かしらこちや/\用事の多い彼女の家庭では、許されないことであつた。二人で一人分にも足りない女中に任しておいたのでは、何んなことになるか知れないのであつた。それで朝だけでも、少しゆつくり寝てゐたかつた。飯の焦げる匂ひがしても、子供の弁当にまごついてゐるのが判つてゐても、出来るだけじれ/\すまいと思つて、目を瞑つてゐたが、何うかすると大きな声を出して、台所へ指図をしなければならなかつた。
「さあ芳や、ごめん蒙つてこちらへ上れや。皆んなもこちらへ来て休まして戴けや。」
そんな声が玄関でしてゐたと思ふと、俥からおりて入つてくるらしい気勢がして、やがてその芳といはれる女であらう、何か低声で呟きながら茶の室へ通つた。
そこへおゑんが身仕度をして、出て行つた。女中が板戸を繰開けてゐた。
「どうも朝つぱらから飛んだお騒がせをして申訳がない。宿を取らうかなんて言つたけれど、何にどこでもいゝから、ちよつとの間御厄介にならうと思つてね。」
「さうですとも、そんな遠慮はいりません。何だかよく似た声だと思ひましてね。」
おゑんはさう言つて、更めて挨拶をした。去年の夏子供たちと暫らく行つてゐた親類の家に働いてゐる、その家の主人の兄の正太であつた。
芳子――正太の娘は、隅の方に小さくなつて、「父さん/\」と言ふ言葉だけは分明《はつきり》わかるが、間断なしに微声でしやべつてゐる言葉は、おゑんの耳にはよく聴き取れなかつた。
「これは芳の婿だあね。」正太はさう言つて、入口の方に畏まつてゐる、物堅さうな男をおゑんに引合せた。
「こちらが己の悴の正男さね。――おめえ一度もお目にかゝつたことはなかつつら。」正太はさう言つて、また引合せた。
おゑんは生糸会社に努めてゐる正男のことも、学校の先生をしてゐる芳子のことも、また町の女学校の先生をしてゐる芳子の婿の小出のことも、噂に聴いてゐたけれど、逢ふのは初めてであつた。芳子は先生らしいさつぱりした風をして、ぢろ/\四辺を見廻しながら、やつぱりおしやべりを続けてゐた。
「何あにね、芳が少し気が変になつたゞね。後でゆつくり話さにや判らんが、この前にも一度こんな事があつたゞね。その時は松沢病院へ三月も入れておいたが、まあ好い塩梅によくなつて、二年間何のこともなかつたゞね。それがふとした事から、また起つたもんだから、先月中頃××病院へ入れたゞけれど、専門でないもんだね、やつぱり東京で好いお医者にかゝつた方が早いだらうといふので、連れて来た訳さね。××病院ぢや、大分落着いたやうだから、もう少し置いてみろと言つてくれたけれど、一つこちらの先生にお願ひして、大学へでも入れるやうにしておもらい申したいと思つてね。」
その間も芳子は絶えず何か口走つてゐたが、この家が何処であるかゞ不安であつた。そして父がそれを言つて聴かせると、遽かにおとなしくなつて来た。
「それは飛んだ御心配ですね。それぢや今裏の家《うち》を掃除させますから。」
おゑんはさう言つて、急いで女中を指図して、火を起したり、子供達の寝てゐる裏の家の北向きの部屋を取片着けさせたりした。そこには書籍や雑誌が積み重ねてあつたり、古綿の入つた葛籠のやうなものや引釈いた片の詰つた行李のやうなものが、縁側に置いてあるかと思ふと、紫壇の机に琴のやうなものがあつて、薄暗い欄間の壁に土方のやうな顔をしたベヱトベヱンの図が光つてゐたりした。おゑんは其処へ足を踏込む度に、子供か女中かの誰かに、何か知ら小言を言はずにはゐられなかつた。勿論良吉たちの住居も古び煤けてゐた。梁や柱が歪んで、建具の足や閾が磨滅してゐた。天井や壁も煤けきつて、汚点が出てゐた。廃頽した庵室にも似た良吉の書斎にも、歳月がつけて行つた古色がしみ出してゐた。それは其れで彼の気分にふさはしいものではあつたけれど、建物の寿命と彼の寿命とを対照するとき、おゑん達は何うかすると暗い気持になつた。いつになつたら少しは片着けばえのするやうな明るい家をもつことが出来るのかと思ふと、年一年ごみごみしたものゝ溜り/\して行く、この頃の生活の煩雑さにうんざりしてしまふのであつた。良吉は大分前から一部改築の設計に興味をもちはじめてゐた。そして何うかすると、夢中になつて家の周囲を測量したり、図を引いたりしてゐたが、今のところそれも机上の享楽に過ぎなかつた。子供はそれを見ると、
「また設計ですか」と憫笑するのであつたが、おゑんも同じやうに笑つた。
「家の設計なんてものは、遣り出すと誰でも病的になるらしいですね。」
「でもお父さんお気毒よ。」おゑんは目を潤ませたが、子供たちが陰で気遣つてゐるやうに、悪くすると彼は設計した家を建てずにしまうかも知れないのであつた。
良吉もそれは何うでも可いと思つてゐるらしかつた。彼がやつておかなかつたら、皆んながまごつくだらうと考へたが、為残すべきもつと良い事が外にあることに気ついてゐた。で、やつぱり傍目もふらずに自分自身の仕事に精進しようと思つてゐた。
三人をその部屋へ落着かせてから、おゑんは台所へ出て、朝飯の仕度に取りかゝつてゐたか、ちよつと隙を見て、ヱプロンで手をふき/\良吉の傍へ行つて見た。諒解を求めるほどのことではなかつたけれど、自分の身うちだけに、寝てゐる良吉にも告げておきたかつた。病気のときの良吉はひどく我儘であつた。病気を重く見ないことが、何うかすると彼の気分を苛立たせたが、良吉にはまた良吉の理由があつた。偶に病気を得て寝るのは、いつもあわたゞしい彼の気分に取つては、安息に好い機会であつたけれど、一日も中止することのできない仕事を持つてゐる彼に取つては、寝てゐるのも楽ではなかつた。床の上に坐つて一日だけの仕事をしてしまふと、きつと疲労と熱が出た。十五六年も前から冬が来る度にきつと一度か二度は脅かされることに決つてゐる慢性の気管支カタルで、胸が一面に爛れてゐた。おゑんの親類にあたる若い医学士が残して行つた、可也強い薬の処方箋を、彼はその度びに取出したが、最近ではそれも慣れつこになつてゐた。
若いをりはから/\してゐたおゑんも、この二三年気管を悪くしてゐた。咽喉の奥の方に腫物が出来て、毎年々々冬になると紙を貼つたやうに呼吸が苦しくなつたり、声が出なくなつたりするので、気分がとかく憂欝《うつうつ》に陥りがちであつた。おゑんはそれを切る練習をするために、病院がよいをしたこともあつたが、ちようど其の時外に手術を要する箇所ができて、機会を失つてしまつてからは、いつ思ひ立つて手術をするといふ日もなくて、毎日々々に追駆けられてゐた。それに体質までが良吉の悪いところを受けて来たやうで、実を言ふと、この間中から感冒を引きづめであつたのであつた。良吉に比べて、少し確《しつ》かりした体に産れついてゐるだけのことであつた。
しかし良吉は、この二三年彼女の気分がすつかり乾ききつたやうになつてしまつたことを、遣切れないことのやうに思つた。彼女が気にしてゐる以上に、彼はおゑんの髪の毛のぱさ/\して来たことや、目に潤ひのなくなつて来たことや、顔の表情が硬張つて来たことを、気にしないではゐられなかつた。男にしろ女にしろ、若い時は、かうした顔が年取るにつれてあゝした顔になるものだといふことぐらゐは、親の模型をそこに見てゐる場合、大抵想像のつかないことはないのであるが、おゑんの場合では若い時の彼女は父の遺伝の方が容貌の多くを占めてゐて、若さが失はれるにつれて、頑固に産れついてゐた母の原型が、まざ/\露はれたのであつた。勿論気分のうへでも、彼女は全く敗北してしまつてゐた。若いときの張りや賑やかさや、機転や諧謔や総ての魅力を殆んど亡くしてゐた。それはちやう
ど良吉と反対の方向へ走つてゐるやうに見えた。そして其の一半は、良吉自身の若い時の不道徳から来てゐると、彼は思つた。子供たちの弱いのも、其のためだと思つた。良吉は医術によつて、いくらか彼女を健康にすることができれば少しは幸福を取戻すことも不可能でなささうに思つたが、或る医者は時々それを口にする良吉を嗤つた。
「まさかこんな病気で死ぬこともないだらうが、しかしぽつくり逝く人もあるからね。」
良吉は昨夜もそんな事を言つて、おゑんを脅かした。事実彼の体温は、又少し上つてゐるのであつた。彼は傍に誰かゐないと、何かに不都合だと思つた。
「看護婦を一人そう言つてもらはう。」彼は皮肉半分に言つた。
おゑんは高を括つて黙つてゐた。
で、今朝も来客に余りちやほやするのも何うかと思つた。
「病院へ入れて、今日のうち皆帰るんださうですけれど、あの家があつてみればね。」
「さうとも。」
良吉は余り切詰めるやうにされるのも厭であつた。
「狂人といつても、何かゞよく判つて、それあ温順しいんですよ。体温器々々々つて言つてゐますから、熱でも量らうといふのかと思ひましたら、此のあひだ四円とかいくらとか出して、独逸製の体温器を一つ買つたんですつて。さうすると何うかした拍子にそれを踏みつけて壊《こわ》したんださうです。さうお金がある訳でもないんでせうから、惜しいことをしたと思ふんでせう。」
「それで狂つたのか。」
「ところが其よりももつと可けないことがあつたんですつて。」
で、おゑんは今ちよつと聞いて来た、頭脳に狂ひの出来た原因について、良吉に話した。それは芳子の良人が、何かの拍子に、友達にさそはれて、お茶屋で酒を飲んで、ふと芸者を買つたのが因で、それから少しその女に溺れた。そして此の結果貯金の通なぞを持出したのであつたが、折が悪かつたとみえて、悪い病気を受けて、しばらく病院がよひをしなければならなかつた。
「多分忘年会のをりか何かだつたんでせうが、少し覚へすぎたんですね。あの人の家は相当財産もあるんですから、少しくらゐ費つても困りはしないんですが、心配したんですね。一月ほど××病院にゐたさうですが、あの人は産科ですから。」
「おれは又小さい子か病気で連れて来たんだと思つた。声が子供のやうだつたからね。」
「別に手がかゝらんから、可いんですよ。蜜柑をもつて行つたら、林檎がいゝと言ひますから、今買はしたんです。林檎は滋養があつて好いなんて、そんなことを言つてゐますの。」
「医者は何うするかね。僕にさへ頼めば、どこの病院でも自由になるものだと思つてゐるんだから……。」良吉は笑つた。
「今S――さんにお願ひに行かうと思つてゐますの。誰方かに紹介していたゞくやうに。」
おゑんはそれから又、良吉のお粥のお菜を作りに台所へ出て行つたが、外にもう一人お粥を配るところがあつた。さつき客を案内してから、隣室を覗いてみると、長男が引被《ひきかぶ》つて寝てゐた。次男は弟妹たちと、茶の間へ来てゐた。
「どうしたの。」おゑんはきいてみた。彼は顔をしかめてゐた。
「僕も風邪だ。」
「それあ可けない。診ておもらひなさい、大事にならないうちに。」
「いや、昨夜キナを飲んだから。」彼は言つてゐた。
良吉の機嫌が食膳のうへの配合なぞにも、可也影響されるのは、病気のときに限つたことではなかつた。御馳走をする必要はなかつたけれど、何かしら好意が認められなければ、気が済まなかつた。
一としきり子供たちの騒いでゐた茶の室がひつそりしてしまつた頃に、良吉は床のうへに坐つて、食事をしてゐたが、誰か玄関に客があつたので、おゑんが出て応対した。
「……何ですか熱がございますものですから。」おゑんはさう言つて其の来客に断つてから、良吉に知らせた。
「たゞ熱があるぢやをかしいぢやないか。あの男は初めだから、床をしいた処へ通すのが失礼だから逢はないんぢやないか。もつと気をつけるんだよ。」
「さうですか。でも、貴方が昨日そう言つていらつしつたから。」
「それあさう云ふ場合もあるさ。」
「さうですか。」
おゑんはやがてS――さんに紹介を頼みに行つた。その序に良吉の容態を話した。
おゑんが帰つて来たのは、ちようど昨夜から来て泊つてゐた彼女の弟が、田舎の連中を引連れて、病院へ行つた後であつた。そして良吉の傍へ来て、少し話してゐると、そこへS――さんが見舞つた。
「先生、とにかく行つてみようと申しまして、唯今皆んなで参つたさうです。いつれその先生に御厄介になるでせうけれど。」
「はあ、もう行つたんですか。」S――さんは笑つてゐた。
「大して悪いやうには見えませんですがね。」おゑんはさう言つて、芳子の話をしてゐたが、去年松沢で死んでしまつた、これもおゑんの親類の若い男、それから十幾年、死にもしなければ、癒りもしない、これもおゑんの親類にあたる、千葉の方にゐる五十ぢかい女の噂なども出た。
「ちよつとした機会《きつかけ》のやうですね。」良吉は言つた。
「さうですとも。此辺の神経は頗る微妙で複雑ですからな。まあ大抵、遺伝か黴毒ですがね。」
S――さんはさう言つて、脳病院の話をしはじめた。
「一度行つてみてごらんなさい。それあ面白いですよ。狂気にも、泣くのと笑ふのと怒るのとあつて、こつちの室では、狂犬が人に吠えつくやうに、連りに怒つてゐるかと思ふと、その先きでは、何か訳のわからん泣言を言つて、めそ/\泣いてゐる。又その先きへ行くと、今度はひどく楽天的で、げら/\笑ひながら、じやか/\三味線を弾く真似をしてゐるといふ騒ぎで……」S――さんは手真似口真似をしながら話した。
良吉もおゑんも噴笑《ふきだ》してしまつた。
ざつと診察してS――さんが忙しさうに帰つて行つてから、良吉は枕頭へ小几を引寄せて、ペンを執らうとした。さうして長い時間を費して、漸と書きはじめてゐた。
おゑんは長火鉢の前で、ちやうど裏の家の半分を借りてゐるY――氏の夫人と、お茶をいれてゐた。Y――氏は震災直後にも、良吉の裏の家の二室ばかりを借りてゐたが、この頃また戻つて来ることになつた。Y――氏にいはせると、此の家が何かにつけて縁起が好いのであつた。
「若し本気になつて勉強するなら、少しくらゐ長くたつて介意はないが……」良吉はおゑんにさう言はせた。
Y――氏も八方儲け仕事に奔走することを断念して、試験の準備に取りかゝらうとしてゐた。その間の兵糧も裕かに用意されてゐた。
「今度の感冒は、何だか何時までもこびりついてゐるやうで可けませんね。」感冒で二三日臥つてゐた夫人は、まだ本当にはつきりしてはゐなかつた。
「私も少し寝たいと思ふんですけれど。」おゑんも言つた。
「ほんとうにお大事になさいませんと可けませんね。田舎の方は何うなさいました。」
「大学へ行きました。多分入院することになるでせうから、晩方にでもちよつと行つてやらうと思つてゐるんですけれど。」
「私も一人知つた家の奥さんが入つてゐますから、ぢやあ御一緒にまゐりませうか。」
「さうですか、誰方ですか。」
「去年お嬢さんと同じ病気で、同じ時に入院していらした、あの奥さんですの。あの時も、あの方のはずゐぶん長くかかりました。でも十分とは行かないまでも、まあ退院するくらゐにはなつたんですの。ところが今度はこれも矢張り気が狂つたんですつて。本当にお気毒ですわ。」
「まあ。」おゑんは何だか薄気味が悪くなつて来た。
「不思議なことがあるもんですね。」
「本当ですね。一度お見舞に行かう/\と思つてゐたんですけれど……そう言つちや悪いですけれど、何だか気味が悪いでせう。それに人が行くと引止めて、帰すのを厭がりなさるさうですから。」
「お気毒ですね。何不足もないのに。」
「震災のときは、あの方達はほんとうにお仕合せでしたのに。」
おゑんは自分の気の狂つた時の事を、ふと想像してみた。何か一つ心配しだすと、一晩眠られないことがあつた。体の弱い娘の卒業後、結婚前後、結婚生活――そんなことを考へ出すと、際限がなかつた。それから、夜中に板戸ががたりとすると、そこに泥棒が窺い寄つて、節穴から覗かれてゐるやうに思へて、何うしても寝つかれなかつた。
「おーい。使ひ。」良吉が遽かに大声を出した。
おゑんは「はい/\」と言つて火鉢の端から立つた。
良吉はほつとしたやうに溜息をついてゐた。
「それから体温器を買はなければ。あれはもう駄目だ。」良吉はさう言つて、額に手をあてゝゐた。
「莫迦に疲れるな。こんな事ぢや迚も駄目だ。」良吉は嘆息した。
おゑんは下手に返辞はできないと思つた。
「体温器なら宅にございますが……。」夫人はさう言つて、やがて女中に取りに来るやうに命じて、帰つて行つた。Y――氏は良吉の子供たちの部屋とのあひだを仕切られた三室を使つてゐたが、何の部屋も部屋の体裁を成してゐなかつた。でもY――氏夫妻が来てから、そこに住居らしい暖《あたた》かさが醸された。
やがて女中が体温器をかりて来た。良吉はちよつと其を振る拍子に、繊細な硝子器がつるりと手をすべつて、襖際へ飛んで行つた。そして女中が拾つてみると、水銀のたまつてゐる部分の先端《せんたん》の折れてゐることが判つた。
「仕方がない、買つておいで。」
「二三本借りておいで。」
女中は出て行つた。
「あの狂人《きちがひ》さんも体温器を気にしてゐましたつけが、聞いてみると面白いんですね。旦那さまが遊んだので、大分悲観したらしいんですね。」おゑんは今朝の続きを話しだした。
「何でもさういふことが知れてから、大変責めたさうです。教育家の癖に、そんなところへ足を踏みこむのが悪いと言つてね。旦那さまは一度懲りてゐるものですから、逆はないやうに機嫌を取つてゐたさうですけれど、一体気の小さい方でせうから、ひどく気にしてしまつたんでせうね。自分でも病気が出るのを心配して、こんな事を言つてると、前の病気が出さうだつて言つてゐたさうですが、一と晩そんな事を言つてゐた揚句、ふいと狂ひ出してしまつたんださうですよ。それに其の時、親類の娘が一人来てゐて、三人炬燵に当つてゐたところ、旦那さまが其の子に肩をさすらせたさうです。さうすると、芳子が二人がをかしいと言ひ出して、ふいと立ちあがつて、それきり傍へ寄つてこなければ、口も利かないんですつて。それがもう可笑《おか》しいんですね。汽車のなかでも、且那さまの側へは何うしたつて寄つて来なかつたさうですよ。」
「ふん。有りさうなことだね。」
「ですからね、京子なんかも本当に心配ですね。」
そこへ女中が各種の体温器をもつて来たので、二人は値段と照して、何れにしやうかと迷つてゐた。
「坊つちやんとこへ持つて行つてごらんなさい。」おゑんは言つたが、自分で行くことにした。
長男は小し元気づいてゐた。そして独逸好きな彼は、独逸の製品を一つ択り取つて、熱を量つてから振らうとすると、合憎《あいにく》そこにあつた炭斗の縁に当つて、音もしないで、尖端が砕けてしまつた。
「しまつた。三円八十銭を二つ、七円六十銭損した。惜しいな。」
「今日はまた何うしたと言ふのでせうね。親子で粗勿《そさう》して……。」おゑんは笑つた。そして
「仕方がない、もう一つ取りませうね」と言つて、良吉の傍へ戻つて来た。
「莫迦だね。」良吉は苦笑した。
「だつて、それあ仕方がないでせう。誰にだつて失策はありますから。」
「違ふさ。ぶつつけたのと、過つたのと。」
若いをりはから/\してゐたおゑんも、この二三年気管を悪くしてゐた。咽喉の奥の方に腫物が出来て、毎年々々冬になると紙を貼つたやうに呼吸が苦しくなつたり、声が出なくなつたりするので、気分がとかく憂欝《うつうつ》に陥りがちであつた。おゑんはそれを切る練習をするために、病院がよいをしたこともあつたが、ちようど其の時外に手術を要する箇所ができて、機会を失つてしまつてからは、いつ思ひ立つて手術をするといふ日もなくて、毎日々々に追駆けられてゐた。それに体質までが良吉の悪いところを受けて来たやうで、実を言ふと、この間中から感冒を引きづめであつたのであつた。良吉に比べて、少し確《しつ》かりした体に産れついてゐるだけのことであつた。
しかし良吉は、この二三年彼女の気分がすつかり乾ききつたやうになつてしまつたことを、遣切れないことのやうに思つた。彼女が気にしてゐる以上に、彼はおゑんの髪の毛のぱさ/\して来たことや、目に潤ひのなくなつて来たことや、顔の表情が硬張つて来たことを、気にしないではゐられなかつた。男にしろ女にしろ、若い時は、かうした顔が年取るにつれてあゝした顔になるものだといふことぐらゐは、親の模型をそこに見てゐる場合、大抵想像のつかないことはないのであるが、おゑんの場合では若い時の彼女は父の遺伝の方が容貌の多くを占めてゐて、若さが失はれるにつれて、頑固に産れついてゐた母の原型が、まざ/\露はれたのであつた。勿論気分のうへでも、彼女は全く敗北してしまつてゐた。若いときの張りや賑やかさや、機転や諧謔や総ての魅力を殆んど亡くしてゐた。それはちやう
ど良吉と反対の方向へ走つてゐるやうに見えた。そして其の一半は、良吉自身の若い時の不道徳から来てゐると、彼は思つた。子供たちの弱いのも、其のためだと思つた。良吉は医術によつて、いくらか彼女を健康にすることができれば少しは幸福を取戻すことも不可能でなささうに思つたが、或る医者は時々それを口にする良吉を嗤つた。
「まさかこんな病気で死ぬこともないだらうが、しかしぽつくり逝く人もあるからね。」
良吉は昨夜もそんな事を言つて、おゑんを脅かした。事実彼の体温は、又少し上つてゐるのであつた。彼は傍に誰かゐないと、何かに不都合だと思つた。
「看護婦を一人そう言つてもらはう。」彼は皮肉半分に言つた。
おゑんは高を括つて黙つてゐた。
で、今朝も来客に余りちやほやするのも何うかと思つた。
「病院へ入れて、今日のうち皆帰るんださうですけれど、あの家があつてみればね。」
「さうとも。」
良吉は余り切詰めるやうにされるのも厭であつた。
「狂人といつても、何かゞよく判つて、それあ温順しいんですよ。体温器々々々つて言つてゐますから、熱でも量らうといふのかと思ひましたら、此のあひだ四円とかいくらとか出して、独逸製の体温器を一つ買つたんですつて。さうすると何うかした拍子にそれを踏みつけて壊《こわ》したんださうです。さうお金がある訳でもないんでせうから、惜しいことをしたと思ふんでせう。」
「それで狂つたのか。」
「ところが其よりももつと可けないことがあつたんですつて。」
で、おゑんは今ちよつと聞いて来た、頭脳に狂ひの出来た原因について、良吉に話した。それは芳子の良人が、何かの拍子に、友達にさそはれて、お茶屋で酒を飲んで、ふと芸者を買つたのが因で、それから少しその女に溺れた。そして此の結果貯金の通なぞを持出したのであつたが、折が悪かつたとみえて、悪い病気を受けて、しばらく病院がよひをしなければならなかつた。
「多分忘年会のをりか何かだつたんでせうが、少し覚へすぎたんですね。あの人の家は相当財産もあるんですから、少しくらゐ費つても困りはしないんですが、心配したんですね。一月ほど××病院にゐたさうですが、あの人は産科ですから。」
「おれは又小さい子か病気で連れて来たんだと思つた。声が子供のやうだつたからね。」
「別に手がかゝらんから、可いんですよ。蜜柑をもつて行つたら、林檎がいゝと言ひますから、今買はしたんです。林檎は滋養があつて好いなんて、そんなことを言つてゐますの。」
「医者は何うするかね。僕にさへ頼めば、どこの病院でも自由になるものだと思つてゐるんだから……。」良吉は笑つた。
「今S――さんにお願ひに行かうと思つてゐますの。誰方かに紹介していたゞくやうに。」
おゑんはそれから又、良吉のお粥のお菜を作りに台所へ出て行つたが、外にもう一人お粥を配るところがあつた。さつき客を案内してから、隣室を覗いてみると、長男が引被《ひきかぶ》つて寝てゐた。次男は弟妹たちと、茶の間へ来てゐた。
「どうしたの。」おゑんはきいてみた。彼は顔をしかめてゐた。
「僕も風邪だ。」
「それあ可けない。診ておもらひなさい、大事にならないうちに。」
「いや、昨夜キナを飲んだから。」彼は言つてゐた。
良吉の機嫌が食膳のうへの配合なぞにも、可也影響されるのは、病気のときに限つたことではなかつた。御馳走をする必要はなかつたけれど、何かしら好意が認められなければ、気が済まなかつた。
一としきり子供たちの騒いでゐた茶の室がひつそりしてしまつた頃に、良吉は床のうへに坐つて、食事をしてゐたが、誰か玄関に客があつたので、おゑんが出て応対した。
「……何ですか熱がございますものですから。」おゑんはさう言つて其の来客に断つてから、良吉に知らせた。
「たゞ熱があるぢやをかしいぢやないか。あの男は初めだから、床をしいた処へ通すのが失礼だから逢はないんぢやないか。もつと気をつけるんだよ。」
「さうですか。でも、貴方が昨日そう言つていらつしつたから。」
「それあさう云ふ場合もあるさ。」
「さうですか。」
おゑんはやがてS――さんに紹介を頼みに行つた。その序に良吉の容態を話した。
おゑんが帰つて来たのは、ちようど昨夜から来て泊つてゐた彼女の弟が、田舎の連中を引連れて、病院へ行つた後であつた。そして良吉の傍へ来て、少し話してゐると、そこへS――さんが見舞つた。
「先生、とにかく行つてみようと申しまして、唯今皆んなで参つたさうです。いつれその先生に御厄介になるでせうけれど。」
「はあ、もう行つたんですか。」S――さんは笑つてゐた。
「大して悪いやうには見えませんですがね。」おゑんはさう言つて、芳子の話をしてゐたが、去年松沢で死んでしまつた、これもおゑんの親類の若い男、それから十幾年、死にもしなければ、癒りもしない、これもおゑんの親類にあたる、千葉の方にゐる五十ぢかい女の噂なども出た。
「ちよつとした機会《きつかけ》のやうですね。」良吉は言つた。
「さうですとも。此辺の神経は頗る微妙で複雑ですからな。まあ大抵、遺伝か黴毒ですがね。」
S――さんはさう言つて、脳病院の話をしはじめた。
「一度行つてみてごらんなさい。それあ面白いですよ。狂気にも、泣くのと笑ふのと怒るのとあつて、こつちの室では、狂犬が人に吠えつくやうに、連りに怒つてゐるかと思ふと、その先きでは、何か訳のわからん泣言を言つて、めそ/\泣いてゐる。又その先きへ行くと、今度はひどく楽天的で、げら/\笑ひながら、じやか/\三味線を弾く真似をしてゐるといふ騒ぎで……」S――さんは手真似口真似をしながら話した。
良吉もおゑんも噴笑《ふきだ》してしまつた。
ざつと診察してS――さんが忙しさうに帰つて行つてから、良吉は枕頭へ小几を引寄せて、ペンを執らうとした。さうして長い時間を費して、漸と書きはじめてゐた。
おゑんは長火鉢の前で、ちやうど裏の家の半分を借りてゐるY――氏の夫人と、お茶をいれてゐた。Y――氏は震災直後にも、良吉の裏の家の二室ばかりを借りてゐたが、この頃また戻つて来ることになつた。Y――氏にいはせると、此の家が何かにつけて縁起が好いのであつた。
「若し本気になつて勉強するなら、少しくらゐ長くたつて介意はないが……」良吉はおゑんにさう言はせた。
Y――氏も八方儲け仕事に奔走することを断念して、試験の準備に取りかゝらうとしてゐた。その間の兵糧も裕かに用意されてゐた。
「今度の感冒は、何だか何時までもこびりついてゐるやうで可けませんね。」感冒で二三日臥つてゐた夫人は、まだ本当にはつきりしてはゐなかつた。
「私も少し寝たいと思ふんですけれど。」おゑんも言つた。
「ほんとうにお大事になさいませんと可けませんね。田舎の方は何うなさいました。」
「大学へ行きました。多分入院することになるでせうから、晩方にでもちよつと行つてやらうと思つてゐるんですけれど。」
「私も一人知つた家の奥さんが入つてゐますから、ぢやあ御一緒にまゐりませうか。」
「さうですか、誰方ですか。」
「去年お嬢さんと同じ病気で、同じ時に入院していらした、あの奥さんですの。あの時も、あの方のはずゐぶん長くかかりました。でも十分とは行かないまでも、まあ退院するくらゐにはなつたんですの。ところが今度はこれも矢張り気が狂つたんですつて。本当にお気毒ですわ。」
「まあ。」おゑんは何だか薄気味が悪くなつて来た。
「不思議なことがあるもんですね。」
「本当ですね。一度お見舞に行かう/\と思つてゐたんですけれど……そう言つちや悪いですけれど、何だか気味が悪いでせう。それに人が行くと引止めて、帰すのを厭がりなさるさうですから。」
「お気毒ですね。何不足もないのに。」
「震災のときは、あの方達はほんとうにお仕合せでしたのに。」
おゑんは自分の気の狂つた時の事を、ふと想像してみた。何か一つ心配しだすと、一晩眠られないことがあつた。体の弱い娘の卒業後、結婚前後、結婚生活――そんなことを考へ出すと、際限がなかつた。それから、夜中に板戸ががたりとすると、そこに泥棒が窺い寄つて、節穴から覗かれてゐるやうに思へて、何うしても寝つかれなかつた。
「おーい。使ひ。」良吉が遽かに大声を出した。
おゑんは「はい/\」と言つて火鉢の端から立つた。
良吉はほつとしたやうに溜息をついてゐた。
「それから体温器を買はなければ。あれはもう駄目だ。」良吉はさう言つて、額に手をあてゝゐた。
「莫迦に疲れるな。こんな事ぢや迚も駄目だ。」良吉は嘆息した。
おゑんは下手に返辞はできないと思つた。
「体温器なら宅にございますが……。」夫人はさう言つて、やがて女中に取りに来るやうに命じて、帰つて行つた。Y――氏は良吉の子供たちの部屋とのあひだを仕切られた三室を使つてゐたが、何の部屋も部屋の体裁を成してゐなかつた。でもY――氏夫妻が来てから、そこに住居らしい暖《あたた》かさが醸された。
やがて女中が体温器をかりて来た。良吉はちよつと其を振る拍子に、繊細な硝子器がつるりと手をすべつて、襖際へ飛んで行つた。そして女中が拾つてみると、水銀のたまつてゐる部分の先端《せんたん》の折れてゐることが判つた。
「仕方がない、買つておいで。」
「二三本借りておいで。」
女中は出て行つた。
「あの狂人《きちがひ》さんも体温器を気にしてゐましたつけが、聞いてみると面白いんですね。旦那さまが遊んだので、大分悲観したらしいんですね。」おゑんは今朝の続きを話しだした。
「何でもさういふことが知れてから、大変責めたさうです。教育家の癖に、そんなところへ足を踏みこむのが悪いと言つてね。旦那さまは一度懲りてゐるものですから、逆はないやうに機嫌を取つてゐたさうですけれど、一体気の小さい方でせうから、ひどく気にしてしまつたんでせうね。自分でも病気が出るのを心配して、こんな事を言つてると、前の病気が出さうだつて言つてゐたさうですが、一と晩そんな事を言つてゐた揚句、ふいと狂ひ出してしまつたんださうですよ。それに其の時、親類の娘が一人来てゐて、三人炬燵に当つてゐたところ、旦那さまが其の子に肩をさすらせたさうです。さうすると、芳子が二人がをかしいと言ひ出して、ふいと立ちあがつて、それきり傍へ寄つてこなければ、口も利かないんですつて。それがもう可笑《おか》しいんですね。汽車のなかでも、且那さまの側へは何うしたつて寄つて来なかつたさうですよ。」
「ふん。有りさうなことだね。」
「ですからね、京子なんかも本当に心配ですね。」
そこへ女中が各種の体温器をもつて来たので、二人は値段と照して、何れにしやうかと迷つてゐた。
「坊つちやんとこへ持つて行つてごらんなさい。」おゑんは言つたが、自分で行くことにした。
長男は小し元気づいてゐた。そして独逸好きな彼は、独逸の製品を一つ択り取つて、熱を量つてから振らうとすると、合憎《あいにく》そこにあつた炭斗の縁に当つて、音もしないで、尖端が砕けてしまつた。
「しまつた。三円八十銭を二つ、七円六十銭損した。惜しいな。」
「今日はまた何うしたと言ふのでせうね。親子で粗勿《そさう》して……。」おゑんは笑つた。そして
「仕方がない、もう一つ取りませうね」と言つて、良吉の傍へ戻つて来た。
「莫迦だね。」良吉は苦笑した。
「だつて、それあ仕方がないでせう。誰にだつて失策はありますから。」
「違ふさ。ぶつつけたのと、過つたのと。」
夕方おゑんは裏の夫人を連れて、病室を見舞つた。
S――さんに紹介してもらつたと同じ博士に、折よく診察してもらつて、芳子は直きに病室に収容されることになつたのであつた。三人は外に用事もあつて、おゑんの弟だけが、帰つてそれを報告した。
おゑんが病室へ入つて行くと、芳子は低いベツトに腰かけて、温順《おとな》しくしてゐた。ちよつと見たところ普通人と変つたところもなささうに見えた。
「いかゞです。落着きまして。」おゑんは訊いた。
しかし芳子は何とも言はないで、バスケツトのなかを整理してゐた。
「ほんたうに温順しいんですわ。たゞお薬をお飲みにならないだけなんでござゐます。直きに快くおなりでせう。」
すると同室してゐる、年の頃三十ばかりの、ちよつとお上品な若い夫人らしい女が、ふとベツトを離れて、側へ寄つて来てまるで自分の訪問客を迎へるやうに、ひどく慇懃な態度で、おゑんたちに挨拶するのであつた。そして、「どうぞおかけ下さい」と言つて、にこやかな風で、椅子をもつて来てくれたりした。
「どうも済みません。」おゑんたちはお辞儀をした。
すると其の女は、まるでお客にでも来たやうにドアの前に坐つて、しとやかにドアを開けたかと思ふと、「ごめん遊ばせ」と言つて出て行つた。お附きの看護婦がついて出た。
おゑん達が帰るときにも、芳子は見向もしなかつたけれど、その患者は慇懃にお辞儀をして、廊下まで見送つてくれた。
それからY――夫人の知人のところへ廻つたが、そこでも其の日は何事もなかつた。
「癒るでせうか、私の病気は。」その患者は胸をおさへながらさう言つて、悲しげな目をしてゐた。
「えゝお癒りになりますとも。」
「さうですかね。有難うござゐます。」患者は感謝の目を輝かして涙ぐんでゐた。
二人は長くゐなかつた。
「早くお帰りになりますやうに、お祈りしてゐますわ。」
さう言つてY――夫人は別れを告げた。そしておゑんと一緒に帰途を急いだ。
「厭ですね。あんなになつて生きてゐても詰まりませんね。」
「でも皆さん気楽さうね。あの若い奥さんのやうでしたら、私も一月くらゐ偶に入つて見てもいゝと思ひましたわ。」
途々そんな話をしてゐたが、おゑんは何時か気忙しかつた今日一日の出銭の多かつたことなどを考へさせられてゐた。[#地付き](大正14[#「14」は縦中横]年4月「改造」)
S――さんに紹介してもらつたと同じ博士に、折よく診察してもらつて、芳子は直きに病室に収容されることになつたのであつた。三人は外に用事もあつて、おゑんの弟だけが、帰つてそれを報告した。
おゑんが病室へ入つて行くと、芳子は低いベツトに腰かけて、温順《おとな》しくしてゐた。ちよつと見たところ普通人と変つたところもなささうに見えた。
「いかゞです。落着きまして。」おゑんは訊いた。
しかし芳子は何とも言はないで、バスケツトのなかを整理してゐた。
「ほんたうに温順しいんですわ。たゞお薬をお飲みにならないだけなんでござゐます。直きに快くおなりでせう。」
すると同室してゐる、年の頃三十ばかりの、ちよつとお上品な若い夫人らしい女が、ふとベツトを離れて、側へ寄つて来てまるで自分の訪問客を迎へるやうに、ひどく慇懃な態度で、おゑんたちに挨拶するのであつた。そして、「どうぞおかけ下さい」と言つて、にこやかな風で、椅子をもつて来てくれたりした。
「どうも済みません。」おゑんたちはお辞儀をした。
すると其の女は、まるでお客にでも来たやうにドアの前に坐つて、しとやかにドアを開けたかと思ふと、「ごめん遊ばせ」と言つて出て行つた。お附きの看護婦がついて出た。
おゑん達が帰るときにも、芳子は見向もしなかつたけれど、その患者は慇懃にお辞儀をして、廊下まで見送つてくれた。
それからY――夫人の知人のところへ廻つたが、そこでも其の日は何事もなかつた。
「癒るでせうか、私の病気は。」その患者は胸をおさへながらさう言つて、悲しげな目をしてゐた。
「えゝお癒りになりますとも。」
「さうですかね。有難うござゐます。」患者は感謝の目を輝かして涙ぐんでゐた。
二人は長くゐなかつた。
「早くお帰りになりますやうに、お祈りしてゐますわ。」
さう言つてY――夫人は別れを告げた。そしておゑんと一緒に帰途を急いだ。
「厭ですね。あんなになつて生きてゐても詰まりませんね。」
「でも皆さん気楽さうね。あの若い奥さんのやうでしたら、私も一月くらゐ偶に入つて見てもいゝと思ひましたわ。」
途々そんな話をしてゐたが、おゑんは何時か気忙しかつた今日一日の出銭の多かつたことなどを考へさせられてゐた。[#地付き](大正14[#「14」は縦中横]年4月「改造」)
底本:「徳田秋聲全集第15巻」八木書店
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「改造」
1925(大正14)年4月
初出:「改造」
1925(大正14)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「改造」
1925(大正14)年4月
初出:「改造」
1925(大正14)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ