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郊外の聖
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郊外の聖
徳田秋声
徳田秋声
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佐々村の友人も、年と共に次第に減《へ》つて来た。同じ職業にたづさはつてゐる友人のなかで、友人|附合《づきあ》ひをしてゐた人が、ぽつ/\欠《か》けて行《い》つた。中には自分よりか年も若く、づつと長い寿命をもつてゐるだらうと思はれた男が、思ひがけなく先きへ逝つたりして、気持のうへで格段の交渉のなかつたものは「彼も死んだのだ。」と、たゞ思ふだけで、まるで路傍の人の死に対すると同じく、悲しいとも可哀さうとも思はないのみか、その仕事や生活に共鳴することのできぬものに対しては、それが人間として脱れることのできない冷《つめた》い運命が、自分にまはつて来るときを予想して、いくらか厳粛な気持になれると云ふほか、何の感じも起らなかつた。勿論その仕事の偉大なものに対しては好き嫌ひにかゝはらず、やくざな自分の仕事や平凡な生活を振顧《ふりかへ》らせられずにはゐられなかつたが、しかし其業の偉大な人達と自分とが、初めから別のものであることは十分|解《わか》つてゐた。けれど其のなかには、「あの男が生きてゐたら!」と時々思出しては、成遂げなければならぬ仕事を残して行つた短いその生命を悲しまずにはゐられない男もあつた。周囲の時代が変つてくると云ふことは、発育ざかりの子供に取捲かれてゐる彼に取つては、決して悲哀ではなかつたし、突然でもなかつたけれど、友達の少くなると云ふことは、やつぱり寂しいことには違ひなかつた。電車や汽車のなかとか、又は劇場とか旅館とか云ふやうな多勢の人のなかへ入つて、周囲の人の年齢を彼は何うかすると考へて見た。自分と同じ年輩の人や、年上の人を、彼は極稀《ごくまれ》に見出しうるに過ぎなかつた。うか/\してゐるうちに、いつの間にか、彼も周囲から取残されてしまつた老人の一人であることに驚くのであつたが、気分が緊張してゐる時には、それも免れがちであつた。それに老い朽ちた樫の根からぞつくりした若芽が吹出すやうに、時には心意の力が寧《むし》ろ加はつてくるのを感ずることすらあつた。老人らしく考へることが、可笑しく感ぜられることすらあつた。
学校時代に知つてゐた友達は、夫《それ/″\》々の方面で大抵世のなかへ出てゐた。学者として、政治家として、実業家として、軍人として顕著な地位にある人は数ふるに遑がなかつたが、彼はその人達の消息を新聞や何かのうへで知るだけで、交遊は絶えてゐた。
「君の名前は新聞で拝見してをる。」などと、何かの会合のをりなぞに、群集のなかから稀にその時代の友人を見つけ得た場合、或ものはさういつて、畸形的に発達しかけてゐた彼の少年時代を憶出したやうに、彼を凝視《みつ》めるものもあつた。中には長いあひだ記億から全く消え去つてしまつた、小学校時代の朧ろげな面影《おもかげ》を、佐々村はそれらの人のなかに辛《から》うじて見出《みだ》すのであつた。そのなかで、その時々の生活状態で、づつと懸離《かけはな》れてしまふやうなことはありながらも、絶えず或る距離をおいて……何うかするとひどく密接したりなぞして、絶えがちな友誼の繋がれてゐる友人が二人ばかり、佐々村にあつた。
その一人は漂浪《さすらひ》の旅《たび》に出て異郷で死んだ小山氏であつたが、一人は郊外に聖《ひじり》のやうな生活をしてゐる秋本氏であつた。
学校時代に知つてゐた友達は、夫《それ/″\》々の方面で大抵世のなかへ出てゐた。学者として、政治家として、実業家として、軍人として顕著な地位にある人は数ふるに遑がなかつたが、彼はその人達の消息を新聞や何かのうへで知るだけで、交遊は絶えてゐた。
「君の名前は新聞で拝見してをる。」などと、何かの会合のをりなぞに、群集のなかから稀にその時代の友人を見つけ得た場合、或ものはさういつて、畸形的に発達しかけてゐた彼の少年時代を憶出したやうに、彼を凝視《みつ》めるものもあつた。中には長いあひだ記億から全く消え去つてしまつた、小学校時代の朧ろげな面影《おもかげ》を、佐々村はそれらの人のなかに辛《から》うじて見出《みだ》すのであつた。そのなかで、その時々の生活状態で、づつと懸離《かけはな》れてしまふやうなことはありながらも、絶えず或る距離をおいて……何うかするとひどく密接したりなぞして、絶えがちな友誼の繋がれてゐる友人が二人ばかり、佐々村にあつた。
その一人は漂浪《さすらひ》の旅《たび》に出て異郷で死んだ小山氏であつたが、一人は郊外に聖《ひじり》のやうな生活をしてゐる秋本氏であつた。
小山と死別れたことは、佐々村に取つては限りない悲しみであつた。自分をよく知つてゐてくれて、激励し慰めてくれたからであつたのは勿論であつたが、彼が高等学府へ入つてから間もなく、その長兄の病気を看護したために得た病気のために、学校を休んで、伊豆あたりへ転地したのが初まりで、アムビシアスな彼も到頭学籍もぬいでしまつて、旅に暮す日が多かつたので、英雄的な精神と芸術家的な素質とを、兼備へてゐた彼の貴《たふと》い生涯が、到頭々々《たうとう/\》滅茶々々になつてしまつたことを、情《なさ》けなく思つたからであつた。末子であつた小山が最も愛されてゐた彼の老父が橋本左内などと、同じ緒方の門下であつたことが、四方の志を抱いてゐたその父が家を継ぐために、故郷へ引込んで、医を業としなければならなかつたことなどから、小山も、さう云ふ風《ふう》な感化を受けて、大いなる空想を抱いてゐたのであつたが、佐々村が訪問するたびに、画を描いてゐたところなどを見ると、彼は当然芸術へ行かなければならないのだと思はれた。そして終《しま》ひに彼もそれを自覚したらしく、長いあひだ紫野の大徳寺や真如堂などにゐたあひだに大家の門を敲いて見たことなどもあつた。
「わしも何かしないでもをられんから、画をやらうと思ふ。」
彼は或時京都から出てくると、懐《なつ》かしさうに佐々村を訪問して、その思立の徒爾《とじ》でないことを語つた。それは彼が小笠原島で、二年ばかり視学をやつてゐて、可也な興味を感じると同時に、今までの苦悶がいくらか酬いられたらしく、島の特殊な生活や広い人生に目を向けるやうになつてゐたのであつたが、それも島司と意見が衝突したりなどして、厭人的な傾向をもつてゐたところから、直《ぢき》に記録を纏めて、そこを引揚げてから、大分たつてからであつた。佐々村がちやうど貧弱な世帯をもつたところへ、小山はバナナの大きな枝などをもつて帰つて来たのであつた。彼の心持が大分宗教に傾いてゐると同時に、創作などに心を惹着けられてゐることを、その時佐々村は発見したのであつた。
「わしが一つ傑作をかいてみよう。」彼はさう言つて、漂流スペイン人などの生活を、少しばかり書いてみたりした。
佐々村はもつと大きな器《うつは》であるやうに、少年時代から彼を見上げてゐた。彼としては創作などは余技に過ぎないのだと考へてゐた。彼自身も材料としてそれを佐々村や、佐々村の友人の志摩に提供するに過ぎないやうな口吻《こうふん》をもらしてゐた。勿論小山は幸福な家に産れてゐた。少年時代の小山がお上品な富《と》んだ生活を見たのは、彼を訪問したときが初めであつた。大雅堂の扉風《びやうぶ》などを彼はその頃初めて見て、驚異の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]つた。小山は角帯をきちんと締《し》めて、綺麗な着物を著て、好《い》いお茶などをいれてくれたりして、足を崩すやうなことのない男であつた。
「君こんなものを読んで見んかね。」小山はさう言つて、佐々村の訪問ごとに本を貸してくれた。それは大概老子とか列子とか、荘子とかいふやうな書物であつた。そして其について、二人は驚喜的な心持で、熱心に談論した。勿論佐々村はその頃近松とか西鶴とかを読んでゐた。新しい硬い書物を読んでゐた。セークスピアとか、ヂッケンスとかリットンとかそんな物をも、字引をひきながら読んでゐた。さう云ふサァクルが別に彼にあつた。彼は段々学校の先生を馬鹿にしはじめてゐた。
小山が京都へ行つてからの生活は、よくは別《わか》らなかつたけれど、そこには彼の心を惹着ける古い芸術を玩賞する機会が多かつたし、長いあひだ癒しがたい苦悶を圧《おさ》へて、廃人同様に暮してゐる彼が、隠遁と安静と、宗教的慰安とを求めるのに、その土地が適当してゐたからだとも思はれた。そして其から幾年もたつてから、人嫌ひな彼も到頭或る画家の大家を訪ねたらしかつた。
「あれは人物がひどく下劣なんでまるで幇間のやうな男だ。」小山はある時久しぶりで東京へ出て来て、佐々村を訪問したとき、さう言つてその大家を貶《くさ》すと同時に、真実の芸術が、さういふ人間からは、決して産れて来ないことを説いた。画を東洋画と西洋画とに区別する必要のないこと、線と陰影とについても、彼は自己の見識をもつてゐた。
佐々村は彼の手に成つた二三の作品を、その頃彼から贈られた。それも故人となつた一人の画家が、佐々村を訪問したとき、床にかゝつてゐたその画に異様の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]つた。
「面白いものをかけてゐるんだね。」画家はさう言《い》つてわざ/\起つて、その南画を凝視《みつ》めてゐたが、
「画としての価値《かち》かね。さうさね、まあ支那の隠遁者か何かゞかいたやうな画だね。厭味のないところが取柄だらう。」と言つて、微笑を洩《もら》してゐた。
彼の心持が、日本に落着《おちつ》いてゐられなくなつたのは其頃であつた。友人がみな夫々に頭角を現しはじめて来たことも、彼の悲痛な気持をいら/\させたに違ひなかつたが、物質的にも今までのやうな放逸な生活をつゞけることができなくなつたからであつた。彼には三人の兄があつたが、大学を出てから死んだり、高等学校時代にぐれ出して勘当されたりして、一番素直な人が一人世のなかへ出てゐるに過ぎなかつた。老後の父の孤独の生活は寂しかつた。家産も傾きかけてゐた。いたましい其の父の最期を見送るまでは、彼も遠遊の自由は許されなかつた。
小山が孤影悄然とでも言ひたいやうな風で、兄や親類の人達の止めるのも肯《き》かずに、米国へ渡つたのは、その父が亡くなつてから間もなくであつた。父の遺品《かたみ》の古い時計などを、彼はそのとき出立ぎはの数日をその家に過した佐々村に示《しめ》した。
「これは父が長崎に留学してゐた時分、帰国の旅費に困つてゐた和蘭人から買つたと云ふ、古い記念品なので……」彼はそんな話をしてゐた。
兄の夫人の実家も有福だつたし、彼自身の血縁に当る博士の家《うち》も東京にあつたが、彼はそこに身を寄せることを嫌つてゐた。彼等の或ものは、出立の時日を佐々村に訊《き》きに来たくらゐであつたが、結局見送つたものは佐々村一人しかなかつた。小山は立つ間ぎはに、有《あ》らゆる東京の知識を得ておかうとしたらしかつたが、貧しい佐々村の事情が、それを許さなかつた。
彼はサンフランシスコやボストンを放浪して、終ひに玖馬で客死してしまつた。
「この頃漸く小山君の消息が知れたので、それを君に知らさうと思つて……。」
絶え/″\ではあつたけれども、始終《しじう》三つ巴《どもゑ》のやうに繋がつてゐた三人のなかの一人の秋本氏が、佐々村に報告したのは、ちやうど其の頃であつた。秋本はその時、これも長い放浪生活に別れを告げて、郊外に暮《くら》してゐた。
「この頃玖馬からちよつと帰つて来た農園の持主があつてね、そこに小山君がゐるといふことが判つた。その男の話によると、相変らず画を描いてゐるさうだが、農園の仕事に興味をもつて、働いてゐるさうだ。万事都合よく行きさうなんだ。遣《や》れば何だつて遣れる男だから。」
佐々村もいくらか心が安まつた。小山は父の友人で、米国で時めいてゐる或博士を最初|頼《たよ》つて行つたのであつたが、そこにも落着くことができなかつたらしかつた。もつて行つた乾山の作品を多数《あまた》ボストンで金にかへたといふことなどを、佐々村が他の友人から聞いたのは、大分|後《のち》のことであつた。
秋本氏はといふと、彼は空想家の小山氏と全然その素質が違《ちが》つてゐた。彼は現実主義的な単純な善良な性格の持主であつたが、その父親が土地の政治家として、顕著な人物であつたゞけに、彼も露西亜などにその手を伸ばさうとして、わざ/\露語学校へ入つたりなどした。佐々村はその頃誰もが通過しなければならなかつた高等小学校時代から、彼と往来してゐた。彼は厩に馬が繋がれてあつたことや、泉石の深い庭の一方に大弓場などのあつた彼の屋敷《やしき》を、自分の家のやうに懐《なつ》かしく思出すことができるのであつた。佐々村は一緒に画をかいたり、文章を作つたりしてゐたが、高等学校時代には、秋本もひどく大人《おとな》びてゐた。
その頃勃興しかけてゐた文学熱に感激《かんげき》をもつてゐた佐々村は、或日博覧強記で、今は東京でも学者仲間に一つの驚異として知られてゐる漢学の先生に反抗して小説論をやつたことがあつた。秋本などと一緒に寄宿にゐた永田と云ふ、貴族的な家庭に育つた坊ちやんが、「ひやひや」とか何とか言つて、突拍子にそれに喝釆した。
するとその後で、硬派であつた秋本が廊下で佐々村を呼止めて、大人ぶつた厳粛な態度で、
「ちよつと話したいことがあるから、今日君んとこへ行かう。」と、更まつて言ふのであつた。
佐々村はそれをいくらか気味悪るく感じたが、さう気にもしないで待つてゐた。
やがて小さいながらに、撃剣などで鍛《きた》へられた、どこかしやんとした秋本の姿が、彼の貧しい狭い二階の勉強室に現はれた。その二人がどう云ふ話をしたかは、佐々村の記憶には残つてゐないのであつたが、しかし彼の諒解を得たことは確かであつた。
「いや、それなら可いけれど、永田なんかのやうな浮薄《ふはく》な男が、下らんものを読むことが、この頃|流行《はや》るので、君もそんなものに感染《かぶ》れては困ると思つたから。」
小山や佐々村たちのやうな旋毛《つむじ》の曲つた連中が、学校で幅《はゞ》を利《き》かしすぎてゐた或外人教師を排斥したとき、建白書を書いたのが、文章が上手で、よく意見の立つ秋本であつた。
秋本は佐々村が東京に出てくると間もなく、早稲田をやめて北海道へ行つた。そして二三年露清語を学んでから、ウラジオストックへ渡つて行つた。彼は恰爾賓にも久しく足を留めてゐたらしかつた。そこでも彼の寛大ぶりが、多《おほ》くの同胞の景仰《けいかう》の的となつてゐたが、満洲の或新聞の主筆として赴任してからも、佐々村は彼の好い評判を始終耳にしてゐた。佐々村と同じく、むしろ佐々村以上にも、彼は体が小さくて羸弱《ひよわ》く産れついてゐた。それに極度の同情と親切とを、周囲の何《ど》んな人にも彼はもたずにはゐられなかつた。
「あの人もお気の毒です。なか/\豪い人ですけれど、人に欺《だま》されるんで……。」佐々村はそんなことを誰かから聞かされたこともあつた。
その頃彼は妻帯して、一人の男の子を挙《あ》げたことを報告《はうこく》して来た。朝鮮で有名を轟した清正に因んだやうな命名であつた。
小山はその頃東京にゐた。そして佐々村の家で、彼を揶揄した葉書を書いたりした。古人の風格のある細字で、皮肉が葉書一面に書かれてあつた。「君のお父さんは、県会で弾劾案が上議されてゐる最中に、能舞台で熊坂を舞つてゐたが、君の檜舞台で踊るのはいつのことか」と云《い》つた風《ふう》の一流の激励的な文句も、それから其へと繋《つな》がつてゐた。小山はそれを書いて、いつもの癖《くせ》の、独《ひと》りでくす/\笑つてゐた。
秋本が東京の郊外に居を構へてから、佐々村との友誼が、また繋《つな》がれはじめた。彼は健康が勝《すぐ》れなかつた。神経衰弱らしかつた。
「手をつけたい仕事もあるんだが、近来さつぱり元気がなくて……。」彼はこぼしてゐたが、偶に所属の雑誌へ寄稿するだけで、大抵郊外の家《うち》に引込んでゐた。
「おれも書生時分に井上毅のあとを享《う》けて、勅語の文章書きに入らないかと勧められたこともあつたが、その頃そんな気もなかつたし……。」彼はそんなことも話してゐた。
佐々村が或病院で、外科的手術を受けたときなど、彼の姿が度々病室に現はれた。そして自作のダァリヤを切つて、ベッドの辺に生けて行つたりした。
佐々村が郊外の家へダァリヤを見に呼ばれて行つたのは、その翌年の七月であつた。夫人が書いたものなどを、一二度もつて来たこともあるので、一層佐々村には親しい感じを与へてゐた。
庭一面にダァリヤが咲きさかつてゐた。向日葵のやうな高《たか》い茎に、太陽のやうな大輪が重《おも》たげに首を垂れてゐた。佐々村の見たこともないやうな珍種が集められて、その間に百合や鳳仙花が配《あしら》はれてあつた。町中に住んでゐる佐々村は、それを羨《うらや》ましく思つた。
酒がまはつて来たとき、大阪方の一方の将であつた先祖の肖像などを、佐々村は見せられた。大阪が潰滅してから、郷里の藩に客分となつて、可也な俸禄《ほうろく》をあてがはれてゐたことが、佐々村の母方の家《うち》と同じやうな運命であつた。
佐々村は夜の九時頃に、ダァリヤの切花をもらつて、家へ帰つて来た。
「みつ子がお父さんが花を貰つてお帰りになるだらうと言つて、待つてゐましたよ。」佐々村の妻がその花を花瓶に生けながら言ふのであつた。
「さう、もう寝たの。」
「今日はお友達とお閻魔さまへ行つて、夜になつてからお琴を二つばかり凌《さら》ひました。何だか厭だけれど、阿母さんに聞かしてあげるわねと言つて、今までこゝで話してゐました。」
佐々村は子供たちが枕をならべてゐる蚊帳のなかへ入《はひ》つて、脱《ぬ》いでゐるみつ子を抱きあげて、位置を直してやつたりした。みつ子はぐつたり寝込んでゐた。
そして其の翌日起きると間もなく、彼女は奥の四畳半に倒れたのであつたが、その翌日暑い日が輝く時分には、もう生きてはゐなかつた。佐々村は実際|遣切《やりき》れなかつた。彼もその頃ひどい神経衰弱にかゝつてゐた。
秋本は直に駈けつけて来てくれた。佐々村は兄弟に逢つたやうに、我儘な愚痴をこぼした。死んだ子供を火葬場へ送ると同時に、他の二人の子供が、病院で瀕死《ひんし》の状態にあつた。佐々村は自分の頭脳が何《ど》うかなりはしないかと疑つた。
「しつかりしろ。」彼は幾度自分に呟《つぶや》いたか知《し》れなかつた。
「かういふときには、真実《ほんと》に金があつたらばと思ふね。」佐々村は秋本に言つた。
死んだ子供を送つてからすつかり、崩折《くづ》れてゐる妻を、子供よりも気遣つて、佐々村は時々病院を訪ねた。
「秋本さんが、昨日も来て下すつたんですよ。あんな親切な方はありませんね。」佐々村の妻はさう言つて感謝してゐた。
ある日佐々村は、病院で秋本に逢つた。
「失礼か知らないけれど、差当り必要のない金が少しあるから、どうか役立てゝもらひたい……。」
二人が暑苦しい病室を出て、廊下へ出てゐたとき、秋本はさう言《い》つて、封筒に入れた金を出した。佐々村は痛いやうな感《かん》じがした。彼もさう余裕のないことは判つてゐた。
「いや、さう云ふつもりで僕はこぼした訳ぢやなかつたので。」佐々村は辞退した。
「それは判つてゐるけれど、ほんの少しばかりだから。」
押問答の末、佐々村は折角の彼の好意を受けることにした。
佐々村がその金を返しに行くことの出来たのは、それから三年もたつてからであつた。彼はその時初めて、その頃又遠い郊外に引込んでゐた秋本の第二の家を訪れた。もう子供が三人にもなつてゐた。彼は全く聖《ひじり》のやうな生活をしてゐた。
不精《ぶしやう》な佐々村は、時々妻に言はれながらも、秋本を訪れることを怠つてゐたが、秋本は自分の田園にできたやうなものを提《さ》げては、時々見舞つてくれた。佐々村は心持のうへで、誰にも負債を荷つてゐるやうな気はしなかつたけれども、秋本だけにはひどく我儘ものゝやうな自責を感じた。
「僕も三四の友人が金を持合つて、小さい家一軒建てゝくれることになつたので、どうせ粗末なものだけれど、出来あがつたら、是非どうぞ一度。」秋本からその話を聞かされてからもう一年にもなつた。
佐々村はその家を見に行かうと思ひながら、やつぱり何時行くと云ふ日がなくて過ぎた。
或る暑い日、佐々村はめづらしく朝から牛込の友人を訪問した。そして一緒に昼飯をたべてから、フルウツパラアへ入つて、西瓜を食べてから家へ帰つてくると、台所の方に素敵もない大きな西瓜が二つ転《ころ》がつてゐるのに驚かされた。一つは縞《しま》の斑紋のある細長みをもつた西洋種で、一つは日本種らしかつた。
「秋本さんがおいでになりましてね、御自分でお作りになつた西瓜《すゐくわ》をもつて来て下すつたんですよ。」妻が告げた。
「へえ、あんな重いものを何うして持つて来たらう。」
「それが大変なんです。一つづつ風呂敷につゝんで、両手に提げていらしたんですから、多分電車でせうが、涼しいうちにと思つてやつて来たと仰つて、あのお小さい方が、両手にあれを下げて、汗みづくになつて、入つていらして、上り口《ぐち》に立つたまゝ、暫らく吻《ほつ》としてゐらつしやるんです。」妻はさうも言つた。
佐々村は一つ年下ではあるが、髯や鬢がもう大半は白くなつてゐる秋本が、それを提げてあるく図を想像して見たりした。[#地付き](大正11[#「11」は縦中横]年9月「太陽」)
「わしも何かしないでもをられんから、画をやらうと思ふ。」
彼は或時京都から出てくると、懐《なつ》かしさうに佐々村を訪問して、その思立の徒爾《とじ》でないことを語つた。それは彼が小笠原島で、二年ばかり視学をやつてゐて、可也な興味を感じると同時に、今までの苦悶がいくらか酬いられたらしく、島の特殊な生活や広い人生に目を向けるやうになつてゐたのであつたが、それも島司と意見が衝突したりなどして、厭人的な傾向をもつてゐたところから、直《ぢき》に記録を纏めて、そこを引揚げてから、大分たつてからであつた。佐々村がちやうど貧弱な世帯をもつたところへ、小山はバナナの大きな枝などをもつて帰つて来たのであつた。彼の心持が大分宗教に傾いてゐると同時に、創作などに心を惹着けられてゐることを、その時佐々村は発見したのであつた。
「わしが一つ傑作をかいてみよう。」彼はさう言つて、漂流スペイン人などの生活を、少しばかり書いてみたりした。
佐々村はもつと大きな器《うつは》であるやうに、少年時代から彼を見上げてゐた。彼としては創作などは余技に過ぎないのだと考へてゐた。彼自身も材料としてそれを佐々村や、佐々村の友人の志摩に提供するに過ぎないやうな口吻《こうふん》をもらしてゐた。勿論小山は幸福な家に産れてゐた。少年時代の小山がお上品な富《と》んだ生活を見たのは、彼を訪問したときが初めであつた。大雅堂の扉風《びやうぶ》などを彼はその頃初めて見て、驚異の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]つた。小山は角帯をきちんと締《し》めて、綺麗な着物を著て、好《い》いお茶などをいれてくれたりして、足を崩すやうなことのない男であつた。
「君こんなものを読んで見んかね。」小山はさう言つて、佐々村の訪問ごとに本を貸してくれた。それは大概老子とか列子とか、荘子とかいふやうな書物であつた。そして其について、二人は驚喜的な心持で、熱心に談論した。勿論佐々村はその頃近松とか西鶴とかを読んでゐた。新しい硬い書物を読んでゐた。セークスピアとか、ヂッケンスとかリットンとかそんな物をも、字引をひきながら読んでゐた。さう云ふサァクルが別に彼にあつた。彼は段々学校の先生を馬鹿にしはじめてゐた。
小山が京都へ行つてからの生活は、よくは別《わか》らなかつたけれど、そこには彼の心を惹着ける古い芸術を玩賞する機会が多かつたし、長いあひだ癒しがたい苦悶を圧《おさ》へて、廃人同様に暮してゐる彼が、隠遁と安静と、宗教的慰安とを求めるのに、その土地が適当してゐたからだとも思はれた。そして其から幾年もたつてから、人嫌ひな彼も到頭或る画家の大家を訪ねたらしかつた。
「あれは人物がひどく下劣なんでまるで幇間のやうな男だ。」小山はある時久しぶりで東京へ出て来て、佐々村を訪問したとき、さう言つてその大家を貶《くさ》すと同時に、真実の芸術が、さういふ人間からは、決して産れて来ないことを説いた。画を東洋画と西洋画とに区別する必要のないこと、線と陰影とについても、彼は自己の見識をもつてゐた。
佐々村は彼の手に成つた二三の作品を、その頃彼から贈られた。それも故人となつた一人の画家が、佐々村を訪問したとき、床にかゝつてゐたその画に異様の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]つた。
「面白いものをかけてゐるんだね。」画家はさう言《い》つてわざ/\起つて、その南画を凝視《みつ》めてゐたが、
「画としての価値《かち》かね。さうさね、まあ支那の隠遁者か何かゞかいたやうな画だね。厭味のないところが取柄だらう。」と言つて、微笑を洩《もら》してゐた。
彼の心持が、日本に落着《おちつ》いてゐられなくなつたのは其頃であつた。友人がみな夫々に頭角を現しはじめて来たことも、彼の悲痛な気持をいら/\させたに違ひなかつたが、物質的にも今までのやうな放逸な生活をつゞけることができなくなつたからであつた。彼には三人の兄があつたが、大学を出てから死んだり、高等学校時代にぐれ出して勘当されたりして、一番素直な人が一人世のなかへ出てゐるに過ぎなかつた。老後の父の孤独の生活は寂しかつた。家産も傾きかけてゐた。いたましい其の父の最期を見送るまでは、彼も遠遊の自由は許されなかつた。
小山が孤影悄然とでも言ひたいやうな風で、兄や親類の人達の止めるのも肯《き》かずに、米国へ渡つたのは、その父が亡くなつてから間もなくであつた。父の遺品《かたみ》の古い時計などを、彼はそのとき出立ぎはの数日をその家に過した佐々村に示《しめ》した。
「これは父が長崎に留学してゐた時分、帰国の旅費に困つてゐた和蘭人から買つたと云ふ、古い記念品なので……」彼はそんな話をしてゐた。
兄の夫人の実家も有福だつたし、彼自身の血縁に当る博士の家《うち》も東京にあつたが、彼はそこに身を寄せることを嫌つてゐた。彼等の或ものは、出立の時日を佐々村に訊《き》きに来たくらゐであつたが、結局見送つたものは佐々村一人しかなかつた。小山は立つ間ぎはに、有《あ》らゆる東京の知識を得ておかうとしたらしかつたが、貧しい佐々村の事情が、それを許さなかつた。
彼はサンフランシスコやボストンを放浪して、終ひに玖馬で客死してしまつた。
「この頃漸く小山君の消息が知れたので、それを君に知らさうと思つて……。」
絶え/″\ではあつたけれども、始終《しじう》三つ巴《どもゑ》のやうに繋がつてゐた三人のなかの一人の秋本氏が、佐々村に報告したのは、ちやうど其の頃であつた。秋本はその時、これも長い放浪生活に別れを告げて、郊外に暮《くら》してゐた。
「この頃玖馬からちよつと帰つて来た農園の持主があつてね、そこに小山君がゐるといふことが判つた。その男の話によると、相変らず画を描いてゐるさうだが、農園の仕事に興味をもつて、働いてゐるさうだ。万事都合よく行きさうなんだ。遣《や》れば何だつて遣れる男だから。」
佐々村もいくらか心が安まつた。小山は父の友人で、米国で時めいてゐる或博士を最初|頼《たよ》つて行つたのであつたが、そこにも落着くことができなかつたらしかつた。もつて行つた乾山の作品を多数《あまた》ボストンで金にかへたといふことなどを、佐々村が他の友人から聞いたのは、大分|後《のち》のことであつた。
秋本氏はといふと、彼は空想家の小山氏と全然その素質が違《ちが》つてゐた。彼は現実主義的な単純な善良な性格の持主であつたが、その父親が土地の政治家として、顕著な人物であつたゞけに、彼も露西亜などにその手を伸ばさうとして、わざ/\露語学校へ入つたりなどした。佐々村はその頃誰もが通過しなければならなかつた高等小学校時代から、彼と往来してゐた。彼は厩に馬が繋がれてあつたことや、泉石の深い庭の一方に大弓場などのあつた彼の屋敷《やしき》を、自分の家のやうに懐《なつ》かしく思出すことができるのであつた。佐々村は一緒に画をかいたり、文章を作つたりしてゐたが、高等学校時代には、秋本もひどく大人《おとな》びてゐた。
その頃勃興しかけてゐた文学熱に感激《かんげき》をもつてゐた佐々村は、或日博覧強記で、今は東京でも学者仲間に一つの驚異として知られてゐる漢学の先生に反抗して小説論をやつたことがあつた。秋本などと一緒に寄宿にゐた永田と云ふ、貴族的な家庭に育つた坊ちやんが、「ひやひや」とか何とか言つて、突拍子にそれに喝釆した。
するとその後で、硬派であつた秋本が廊下で佐々村を呼止めて、大人ぶつた厳粛な態度で、
「ちよつと話したいことがあるから、今日君んとこへ行かう。」と、更まつて言ふのであつた。
佐々村はそれをいくらか気味悪るく感じたが、さう気にもしないで待つてゐた。
やがて小さいながらに、撃剣などで鍛《きた》へられた、どこかしやんとした秋本の姿が、彼の貧しい狭い二階の勉強室に現はれた。その二人がどう云ふ話をしたかは、佐々村の記憶には残つてゐないのであつたが、しかし彼の諒解を得たことは確かであつた。
「いや、それなら可いけれど、永田なんかのやうな浮薄《ふはく》な男が、下らんものを読むことが、この頃|流行《はや》るので、君もそんなものに感染《かぶ》れては困ると思つたから。」
小山や佐々村たちのやうな旋毛《つむじ》の曲つた連中が、学校で幅《はゞ》を利《き》かしすぎてゐた或外人教師を排斥したとき、建白書を書いたのが、文章が上手で、よく意見の立つ秋本であつた。
秋本は佐々村が東京に出てくると間もなく、早稲田をやめて北海道へ行つた。そして二三年露清語を学んでから、ウラジオストックへ渡つて行つた。彼は恰爾賓にも久しく足を留めてゐたらしかつた。そこでも彼の寛大ぶりが、多《おほ》くの同胞の景仰《けいかう》の的となつてゐたが、満洲の或新聞の主筆として赴任してからも、佐々村は彼の好い評判を始終耳にしてゐた。佐々村と同じく、むしろ佐々村以上にも、彼は体が小さくて羸弱《ひよわ》く産れついてゐた。それに極度の同情と親切とを、周囲の何《ど》んな人にも彼はもたずにはゐられなかつた。
「あの人もお気の毒です。なか/\豪い人ですけれど、人に欺《だま》されるんで……。」佐々村はそんなことを誰かから聞かされたこともあつた。
その頃彼は妻帯して、一人の男の子を挙《あ》げたことを報告《はうこく》して来た。朝鮮で有名を轟した清正に因んだやうな命名であつた。
小山はその頃東京にゐた。そして佐々村の家で、彼を揶揄した葉書を書いたりした。古人の風格のある細字で、皮肉が葉書一面に書かれてあつた。「君のお父さんは、県会で弾劾案が上議されてゐる最中に、能舞台で熊坂を舞つてゐたが、君の檜舞台で踊るのはいつのことか」と云《い》つた風《ふう》の一流の激励的な文句も、それから其へと繋《つな》がつてゐた。小山はそれを書いて、いつもの癖《くせ》の、独《ひと》りでくす/\笑つてゐた。
秋本が東京の郊外に居を構へてから、佐々村との友誼が、また繋《つな》がれはじめた。彼は健康が勝《すぐ》れなかつた。神経衰弱らしかつた。
「手をつけたい仕事もあるんだが、近来さつぱり元気がなくて……。」彼はこぼしてゐたが、偶に所属の雑誌へ寄稿するだけで、大抵郊外の家《うち》に引込んでゐた。
「おれも書生時分に井上毅のあとを享《う》けて、勅語の文章書きに入らないかと勧められたこともあつたが、その頃そんな気もなかつたし……。」彼はそんなことも話してゐた。
佐々村が或病院で、外科的手術を受けたときなど、彼の姿が度々病室に現はれた。そして自作のダァリヤを切つて、ベッドの辺に生けて行つたりした。
佐々村が郊外の家へダァリヤを見に呼ばれて行つたのは、その翌年の七月であつた。夫人が書いたものなどを、一二度もつて来たこともあるので、一層佐々村には親しい感じを与へてゐた。
庭一面にダァリヤが咲きさかつてゐた。向日葵のやうな高《たか》い茎に、太陽のやうな大輪が重《おも》たげに首を垂れてゐた。佐々村の見たこともないやうな珍種が集められて、その間に百合や鳳仙花が配《あしら》はれてあつた。町中に住んでゐる佐々村は、それを羨《うらや》ましく思つた。
酒がまはつて来たとき、大阪方の一方の将であつた先祖の肖像などを、佐々村は見せられた。大阪が潰滅してから、郷里の藩に客分となつて、可也な俸禄《ほうろく》をあてがはれてゐたことが、佐々村の母方の家《うち》と同じやうな運命であつた。
佐々村は夜の九時頃に、ダァリヤの切花をもらつて、家へ帰つて来た。
「みつ子がお父さんが花を貰つてお帰りになるだらうと言つて、待つてゐましたよ。」佐々村の妻がその花を花瓶に生けながら言ふのであつた。
「さう、もう寝たの。」
「今日はお友達とお閻魔さまへ行つて、夜になつてからお琴を二つばかり凌《さら》ひました。何だか厭だけれど、阿母さんに聞かしてあげるわねと言つて、今までこゝで話してゐました。」
佐々村は子供たちが枕をならべてゐる蚊帳のなかへ入《はひ》つて、脱《ぬ》いでゐるみつ子を抱きあげて、位置を直してやつたりした。みつ子はぐつたり寝込んでゐた。
そして其の翌日起きると間もなく、彼女は奥の四畳半に倒れたのであつたが、その翌日暑い日が輝く時分には、もう生きてはゐなかつた。佐々村は実際|遣切《やりき》れなかつた。彼もその頃ひどい神経衰弱にかゝつてゐた。
秋本は直に駈けつけて来てくれた。佐々村は兄弟に逢つたやうに、我儘な愚痴をこぼした。死んだ子供を火葬場へ送ると同時に、他の二人の子供が、病院で瀕死《ひんし》の状態にあつた。佐々村は自分の頭脳が何《ど》うかなりはしないかと疑つた。
「しつかりしろ。」彼は幾度自分に呟《つぶや》いたか知《し》れなかつた。
「かういふときには、真実《ほんと》に金があつたらばと思ふね。」佐々村は秋本に言つた。
死んだ子供を送つてからすつかり、崩折《くづ》れてゐる妻を、子供よりも気遣つて、佐々村は時々病院を訪ねた。
「秋本さんが、昨日も来て下すつたんですよ。あんな親切な方はありませんね。」佐々村の妻はさう言つて感謝してゐた。
ある日佐々村は、病院で秋本に逢つた。
「失礼か知らないけれど、差当り必要のない金が少しあるから、どうか役立てゝもらひたい……。」
二人が暑苦しい病室を出て、廊下へ出てゐたとき、秋本はさう言《い》つて、封筒に入れた金を出した。佐々村は痛いやうな感《かん》じがした。彼もさう余裕のないことは判つてゐた。
「いや、さう云ふつもりで僕はこぼした訳ぢやなかつたので。」佐々村は辞退した。
「それは判つてゐるけれど、ほんの少しばかりだから。」
押問答の末、佐々村は折角の彼の好意を受けることにした。
佐々村がその金を返しに行くことの出来たのは、それから三年もたつてからであつた。彼はその時初めて、その頃又遠い郊外に引込んでゐた秋本の第二の家を訪れた。もう子供が三人にもなつてゐた。彼は全く聖《ひじり》のやうな生活をしてゐた。
不精《ぶしやう》な佐々村は、時々妻に言はれながらも、秋本を訪れることを怠つてゐたが、秋本は自分の田園にできたやうなものを提《さ》げては、時々見舞つてくれた。佐々村は心持のうへで、誰にも負債を荷つてゐるやうな気はしなかつたけれども、秋本だけにはひどく我儘ものゝやうな自責を感じた。
「僕も三四の友人が金を持合つて、小さい家一軒建てゝくれることになつたので、どうせ粗末なものだけれど、出来あがつたら、是非どうぞ一度。」秋本からその話を聞かされてからもう一年にもなつた。
佐々村はその家を見に行かうと思ひながら、やつぱり何時行くと云ふ日がなくて過ぎた。
或る暑い日、佐々村はめづらしく朝から牛込の友人を訪問した。そして一緒に昼飯をたべてから、フルウツパラアへ入つて、西瓜を食べてから家へ帰つてくると、台所の方に素敵もない大きな西瓜が二つ転《ころ》がつてゐるのに驚かされた。一つは縞《しま》の斑紋のある細長みをもつた西洋種で、一つは日本種らしかつた。
「秋本さんがおいでになりましてね、御自分でお作りになつた西瓜《すゐくわ》をもつて来て下すつたんですよ。」妻が告げた。
「へえ、あんな重いものを何うして持つて来たらう。」
「それが大変なんです。一つづつ風呂敷につゝんで、両手に提げていらしたんですから、多分電車でせうが、涼しいうちにと思つてやつて来たと仰つて、あのお小さい方が、両手にあれを下げて、汗みづくになつて、入つていらして、上り口《ぐち》に立つたまゝ、暫らく吻《ほつ》としてゐらつしやるんです。」妻はさうも言つた。
佐々村は一つ年下ではあるが、髯や鬢がもう大半は白くなつてゐる秋本が、それを提げてあるく図を想像して見たりした。[#地付き](大正11[#「11」は縦中横]年9月「太陽」)
底本:「徳田秋聲全集第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「太陽」
1922(大正11)年9月
初出:「太陽」
1922(大正11)年9月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「太陽」
1922(大正11)年9月
初出:「太陽」
1922(大正11)年9月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ