かがやく空ときみの声(前編) ◆gry038wOvE



 昼も近づいてきた頃、一匹の猫が、殺し合いの現実さえ忘れてはしゃいでいた。
 眼は見開いているのかさえわからないほど一直線で、笑顔を見せているように見える。
 人ごみのある街ならば、その身軽な動きに心を奪われるものがいたかもしれない。
 この猫は、ただの猫ではないのである。だから、人目につく。
 赤い服を着ていて、おさげ髪で、その体格は人とほぼ同じ。
 と、その特徴を脳内で反芻してから、初めて気づく。
 これは猫ではない。人だ。
 人のように巨大な猫ではない。猫のように身軽な人なのだ。
 その脳内も、猫の思考に染まっている。思考の遥か奥までも、ほぼ完全に猫化しているのだ。

「にゃーん♪」

 鳴いている。
 猫のように丸めた指先──蛇さえも敵としない、猫の爪。
 それは彼の武器だった。

 そして、その猫は、偶然にも最悪のクワガタ虫と遭遇してしまった。
 本当の猫とクワガタならば、易々退治できるであろう相手だが──それがどちらも、人であり、それらの要素を受け継いだ戦士であるのなら、結果はわからない。
 いや、猫が圧倒的に不利だった。
 所詮は、彼は人間の枠の中でもがいた人間だった。
 だが、敵は違う。
 人間を超える力を得た、最低最悪の人間だった。

「……君は僕を笑顔にできるかな?」

 闘争を求める悪鬼。
 クワガタの戦士──ン・ダグバ・ゼバ。
 その足元に、何も知らない猫はぶつかった。その瞬間、猫の顔から笑顔が消えた。
 それがじゃれあえる相手でないのは、猫の生物的直感が告げたのだ。
 猫拳の使い手──早乙女乱馬。
 ここまで接触して、初めて戦いが始まる。

「……にゃーご…………ニ゙ャ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァァッ!!!」

 喧嘩をする猫の、うなるような鳴き声が街に響く。
 ダグバさえ感知しない一瞬に、ダグバの着ていた白い服が胸元から三本の爪痕とともに裂けていた。美少年の華奢な体がその中から見えている。
 近くを女性が通ったら、騒ぎ出す声が聞えるかもしれない。ここが乱馬の通っている高校の敷地内ならば、間違いなく黄色い雄たけびが聞えたことだろう。


「へえ、意外と強いんだね」

 ダグバは、もはや服など必要のない姿に変身する。
 白い体を幾つもの金色の装飾品で飾った、偉大なるグロンギの王の姿に。
 それを見て、乱馬は飛び上がり、何歩か引いた。四つんばいのまま、その姿を警戒していた。
 全身の身の毛を上がらせて、彼はダグバの様子を伺う。

「……変身はできるかな? まあいいや」

 ダグバは乱馬を殺すために、前へと走り出した。
 今回は、火は使わない。人間は、火を使ったら、ごく簡単に燃え尽きてしまうような、あっけない存在だからだ。
 少なくとも、彼は生身。
 生身の人間にしては強いという程度。ダグバが殺したグロンギの下級戦士よりも、おそらくは強い。だが、火では死んでしまう。
 ダグバは知らないが、ラ・バルバ・デは人間の戦士──一条薫を興味対象にしていたし、グロンギでさえ認められる人間というのは確かにいた。
 乱馬のように特殊な修行を受けた人間が、グロンギの興味を引くのは必然だったかもしれない。ましてや、猫拳を使う乱馬は、人間の時よりも理性が効かず、強い。
 そいつを、あっさり火で殺してしまってはつまらないからだ。

「にゃぉっ!」

 乱馬は、助走をつけたダグバのパンチを避けるために右方に避けた。
 アスファルトの地面が、深く陥没する。その衝撃は、乱馬にも伝った。
 猫は少し震えた。
 勝てない存在を知ったのか。──この恐ろしい生物を前に、どう立ち向かうか迷った。

「乱馬さん!」

 そこに、特殊武装に身を包んだ女性が通りかかる。乱馬を追ってきた、アインハルト・ストラトスという少女である。ただし、今の姿は少女のものではなかった。
 覇王形態。
 乱馬を追うのに都合がいいゆえ、彼女は既に変身した状態だった。
 ダグバと乱馬の視線は、そちらに注がれる。
 アインハルトは、目の前で起こっている出来事がどういう状況なのかわからず、少し思考を停止してしまった。
 だが、そこから乱馬の警戒と、ダグバの殺気を感じて顔をこわばらせる。
 また、自分に関わった人が巻き込まれている。──自分を助けてくれた人が、強敵に立ち向かっている。
 無論、助けなければならない。
 乱馬さんに、絶対お礼を言うんだ。

「君も僕を笑顔にしてくれるの?」

 ダグバは問う。
 その武装した外形から、彼女が戦闘の準備を果たしていることを察したのである。
 だが、その問いにアインハルトは答えない。息を呑んだ後、乱馬に聞いた。

「……逃げてください、乱馬さん。助けてくれたお返しをします」

 息を呑んだせいか、少しテンポの悪い言い方になってしまった。
 魔力消費、大。
 ダメージ、大。
 疲労、極大。
 勝率、およそ0パーセント。
 それらのデータが、アインハルトにもはっきりとわかる。だが、死ぬのが怖いとしても、無責任な行動はしたくない。
 だが、乱馬への恩義を果たさねばならない。この「死への恐怖」が存続されるのなら、あそこで死ぬのも悪くなかったかもしれない……そんな考えも頭を過ぎる。
 少し、考えていることが矛盾している。

「二人がかりで構わないよ?」

 ダグバは自信に満ちた言葉をかける。
 先ほど、一人参加者を殺害した。その時点で、ダグバは殺傷のリズムを崩したくなかったのだ。このまま、軌道に乗って敵を殺し続けるためにも。
 ダグバの力は、プリキュア一人の命を簡単に、完全に奪った。

 ────そういえば「乱馬君」と、あのプリキュアは口にしたか。

 ダグバはそんなことを思い出す。それが、彼だったのだ。
 だが、乱馬はこの強敵が、祈里、霧彦、ヴィヴィオの三名と交戦済みであることを知らない。

「……にゃー……」

 その実、どこか乱馬はダグバの風貌から、仲間の匂いを感じていたのかもしれない。誰か親しい人──きっと祈里──と関連した悪い気配がする。
 ただ、猫である彼にはその気配が何なのか具体的にはわからなかった。
 乱馬は、悲しそうに鳴くだけだった。──怒りは無い。それは、猫としての野生の本能が流し込む恐怖の感情が、怒りを押しているからだろう。
 普段の乱馬では、まずこんなことにはならない。
 乱馬らしい「意地っ張り」精神が消えているのが、猫拳のデメリットだろうか。

「……覇王」

 アインハルトが前に向かって走る。
 ダグバは、乱馬から注意を完全に逸らした。凄まじい速さで駆け巡るアインハルトの方を眺めたのである。
 しかし、アインハルトの殺気を感じながらも、ダグバの行動は比較的スローモーションだった。彼は、ゆっくりとそちらを眺めるだけで、激しいアクションを一切しない。

「────断空拳!!」

 ドンッ!
 アインハルトの速度は一瞬で、ダグバとの距離を詰める。重い一撃が、ダグバのベルトのバックルに当たると、流石にダグバの体も後方に吹き飛んだ。
 いや、端から彼はその攻撃を受けてみようと思っていたのだろう。

(やっぱり、この人は、あの人の仲間……!)

 アインハルトは、ダグバが吹き飛んでいる瞬間に、最初に会ったコウモリの怪人のことを思い出した。
 あの怪物のベルトのバックル部と同様のものを、ダグバは装着していたのである。
 それにしては、日本語が上手な気がするが、所在している国そのものが違うのかもしれない。
 仲間、というよりは同属だろうか。彼ら同士が、互いを認識していたかどうかもわからない。
 しかし、アインハルトにはわかった。
 その種族が、間違いなく人間の脅威であることが──

「今度は僕の番だね」

 あっさりと、ダグバは起き上がった。
 地面にたたきつけられても、逆に地面の方に致命的なダメージを残して立ち上がる。それがダグバだった。
 一方、アインハルトは、今の一撃でも消耗するほどの体力だった。
 反撃が来ることがわかっているのに、動けそうにない。

「……ふふ」

 ダグバは、その刹那、地面を強く蹴った。
 一瞬で、ダグバの豪腕が、アインハルトに近づいてくる。
 だが、アインハルトには、その想定外の速さに回避の術がなかった。
 ただでさえ、ギリギリ避けられるかの体力だったのだ。その体力を駆使し、ダグバの拳が飛んでくる瞬間に右か左に避ける予定だったが、意外な速さを前に、飛ばなければならないタイミングを逃した。
 まずい────。

「にゃぁぁぁっ!!」

 しかし、その真横から身軽な猫がダグバへとタックルをかます。
 ダグバの体が横に吹き飛び、ダグバの拳がアインハルトの顔に衝突する前に、攻撃は中断された。
 だが、ダグバもこれまたあっさり立ち上がる。

 乱馬は、また発情期の猫のように唸った。
 この静かな街に、猫による雑音が流れる。
 乱馬の鳴き声は、アインハルトの耳も打つ。本当の猫のようだった。
 一体、今の乱馬がどういう状態なのか、アインハルトは知る由もない。

「────乱馬さん」

 すぐに、アインハルトはそんな乱馬の横に寄った。
 また乱馬に助けられてしまった。いや、もう助けられることしかできないのかもしれない。
 はっきり言って、もうアインハルトには乱馬を助けられるだけの力はない。それでも乱馬を助けようとしたのは、こうした敵と遭遇する前に孤門たちのところに戻すためだった。
 だが、結局敵と遭遇してしまったのだ。己の不幸を呪うしかない。

「やっぱり、強いのはそっちだけみたいだね」

 乱馬を見て、ダグバは言う。アインハルトの胸に、その言葉は突き刺さった。
 女である、子供である、現在疲労し切っている──そうした不利な要素があるとはいえ、こう言われることでアインハルトはコンプレックスを刺激された。
 足手まとい、という言葉が頭の中で組み立てられていく。ダグバは一言もそう言ってはいないが、まるで直接そう言われたような気分だった。

「……でも、リントにしては少し強いくらいかな」

 変身もしない相手が、ダグバを押し倒すなど、滅多なことではない。
 乱馬が、人間離れした身体能力の持ち主である証だった。
 仮に猫拳を使っていなかったとしても、押し倒すくらいはギリギリ可能だったかもしれない。

「────乱馬!」

 また、戦いの緊張感を裂く女性の声が街に響いた。高い声だったので、どうしても耳に入りやすい。
 それは、猫化した乱馬にも認識できる唯一の女性であった。
 天道あかね。
 どうやら、彼女もこの場所にたどり着いたらしい。
 そして、乱馬の様子を見て初めて、彼が猫拳を発動していることと、アインハルトの体が急に成長したこと、怪物がいることに気づいた。

「おい、ちょっと待ってくれよ姉ちゃん……はぁ……はぁ、なんでそんなに早く走れんだよ、陸上部か何かやってたのか?」

「源太さん、ホラ、見て! あいつら……」

「あっ! あいつはまさか外道衆か!? ……いや、なんかまた違うみてえだが」

 続いて現れた梅盛源太も、その異様な光景に立ち止まる。
 全身の疲労さえ忘れさせる、異形の怪物の睨み。──悪しき大気に包まれた、不気味な怪人。
 源太は、その顔を見て、眉を顰めた。
 おそらく、自分が侍として相対すべき悪なのだと、源太は知ったのだ。
 ダグバは、彼ら二人を見るのをやめ、乱馬たちに視線を戻した。

「一貫献上!」

 シンケンゴールドへと変身した彼は、サカナマルを両手に構えながら走る。
 ダグバが何か、実害を及ぼしているのを見たわけではない。
 しかし、乱馬と、その隣の女性の怯えた表情だけはわかった。
 走りながら、彼は名乗る。

「……シンケンゴールド、梅盛源太、参る!」

 だが、その煌きは一瞬で吹き飛ばされた。
 ダグバが、裏拳でシンケンゴールドのマスクを叩いたのだ。サカナマルがダグバの体に到達する前に、あっさりとダグバはその攻撃を回避する。
 それも、相手にダメージを与える形で。

「くそぉっ……なんだよいきなり……っていうか、こいつマジで強え」

 シンケンゴールドは、サカナマルをクロスして構えながら、じりじりと乱馬たちの方へ寄った。ダグバの正面に立って、表情を見て戦いたいと思ったのだ。
 だが、そうしているうちに恐ろしくなる。
 彼の前に立った瞬間、この程度では済まなくなるような気がしたのだ。

「……おいっ、兄ちゃん、姉ちゃん、逃げろ。こいつは俺が食い止めるからな!」

 それでも、威勢だけは忘れない。
 どんな窮地に立たされたとしても、ここで逃げたり、女性を死なせてしまったりしたら、それこそ丈瑠に合わせる顔がないというもの。
 この場に、うまい具合にシンケンレッドの助けが来ないか、などと期待しながら、ダグバを見つめた。
 気づけば、自分の立ち位置は完全にダグバの真正面だった。

「……源太さん、ごめんなさい! 少しだけ時間を稼いで!」

「合点承知!」

 あかねの高らかな声を合図に、ダグバへと再び攻撃を仕掛ける。
 ダグバの両手が、サカナマルを構えながら、ダグバの体へと伸ばされる。
 しかし、そんな両手は、気づけばダグバの両手に締め付けられていた。

「乱馬、こっちよ」

 あかねは、源太に再び心の中で謝りながら乱馬を呼ぶ。
 乱馬を元の乱馬に戻さなければならない。
 猫拳がいくら敗北を知らぬ最強の拳法だとしても、殺し合いの場であんな精神状態の乱馬をほうっておくわけにはいかない。
 乱馬をなだめられるのは、あかねだけなのだ。
 あかねは、戦いが飛び火しないことを祈りながら、その場で正座した。
 乱馬は、あかねの様子を見て嬉しそうに駆け、その膝に、これまた嬉しそうに座った。

「よーし、よーし」

「っておい、何だよオイ! 何してんだ、姉ちゃん」

「うるさいわねっ!」

 あかねは、源太が言ってきたことを怒鳴ってかわす。
 事情を知らない人間には当然の反応だが、彼女だって今、遊んでいるわけではなかった。
 だいたい、仕方がない状況だからこうしているわけで、恥ずかしいから、こんなことしたくないのだ。

 シンケンゴールドが、そうしてダグバに封じられている隙に、再びアインハルトがダグバのわき腹に一撃を叩き込んだ。
 本当はバックルの部分を狙おうとしたが、正面にシンケンゴールドがいたために、それは叶わなかった。

 ダグバは、今度はアインハルトに注意を向けた。
 アインハルトは、きりっと決めた表情でにらんだつもりだったが、ダグバの目にはその恐怖の表情がはっきりと映っていた。
 だから、少し笑った。
 怖がっているのに、自ら攻撃してくるとは。
 ダグバは、シンケンゴールドの両手を離し、思わず足を引きずりながら退いていくアインハルトに、またゆっくりと近づいた。
 シンケンゴールドは、サカナマルを反射的に手放す。両手首が、かつてないほど強く痛んだのだ。
 サカナマルを握って敵を倒せるだけの力が無さそうだった。

「猫ぉーーーーっ!!」

 と、今度は乱馬の絶叫で、またしても全員の注意がそちらに注がれる。
 あかねによって、乱馬が元に戻ったのである。
 その最後の記憶は、アスティオンが顔に引っ付いた恐怖の記憶だったがゆえ、彼はそう叫んだ。
 そんな乱馬の後頭部を、あかねがポンと叩いた。……と表現すれば聞えはいいが、ぶっちゃけグーで殴っていた。

「……おい、一体どうしたんだよあかね……あいつは、」

「なんだかわからないけど、とにかく敵が出たみたいなのよ。あんたは猫拳でバカになってたわけ」

「……そんなことはどうでもいいんだよ。あいつは、霧彦とヴィヴィオが言ってたヤツじゃねえか……」

 乱馬の中で、闘志が燃えてくる。
 また、乱馬の理解を超える強敵が現れた。それも、何の脈絡もなく。
 霧彦とヴィヴィオが言っていたあの怪人の特徴と一致した、ダグバの外形。先ほどからずっとダグバを前にしていたのだが、乱馬がそれに気がついたのは今この瞬間だった。
 だが、おそらくその特徴を知らなかったとしても、乱馬はダグバを敵と認識したのではないかと思う。ダグバから放たれる殺気は、乱馬の全身に鳥肌を立たせるほどとてつもないものだったからだ。
 乱馬は、少し体をポキポキと鳴らしてから、ダグバに語りかける。

「おい、そこのバケモン。うちのヴィヴィオがずいぶん世話になったそうじゃねえか」

「やっとリントの言葉で話したね」

「チャラチャラした格好しやがって。女ばっかり相手にしてねえで、俺と一対一で勝負しようぜ」

 女性が弱いことを前提にした発言だが、女性の体にコンプレックスのある乱馬は、男性と比較したときの女性の弱さを誰よりも知っている。

「えっと、アイハルトか……?」

 アインハルトが苦しそうな表情をしつつも、頷く。

「ヴィヴィオにアインハルト……女ばっかり相手にしやがって」

 乱馬は、そう言った後に、はっと気づく。
 厭な予感がした。女性の死亡者が多数出ていたことを思い出した。なのは、フェイト、シャンプーなどの名前も知っている。
 彼が、霧彦やヴィヴィオ、アインハルトに源太などと戦っているのはわかっているが、他にも交戦している可能性はある。あくまで、乱馬は、ダグバと戦って生存した人間の情報しか持っていないのだ。
 乱馬は恐る恐る聞いてみた。
 こいつが死人を出している可能性が浮かんだのである。

「……まさか、一人も殺してねえだろうな、バケモン」

「教えてあげようか? ……そうだね、教えたら、もっと強くなってくれそうだし」

 ダグバはニヤリと笑った。
 乱馬は、厭な予感が当たってしまったことで眉を顰め、固唾を呑んだ。
 人殺し。許されてはならない大罪人である。それが、あかねや自分の前にいるのだ。

「プリキュアっていうリントを、一人殺したよ。ダークプリキュア、かな? 君のことも知ってたよ」

 乱馬は、プリキュアという言葉で思い当たる少女がいた。
 プリキュアも乱馬のことを知っているというのなら、それは、間違いない。
 山吹祈里──キュアパインだ。

「…………………あかね、下がってろ」

 殺した張本人は、笑っていた。
 あかねに近づけさせまいと、まずあかねにそう言った。
 だが、ダグバは当然遠ざかったりしない。あかねの方を遠ざけるよう、乱馬はそう呼びかけたのである。

「お前らもだ、源太、アインハルト……」

 乱馬は、ダグバを真っ直ぐ見つめたまま、わなわなと震えていた。
 怖いわけでもない。武者震いでもない。
 ただ、静かだがメラメラと燃える炎で揺れているだけだった。
 怒り。
 乱馬が、これまで感じたどんな怒りよりも強い怒りだった。なぜなら、人一人の命がそこに関わっているからだった。

「テメーは俺が絶対ブッ殺す!!!!!」

 山吹祈里。
 ダグバが殺したのはダークプリキュアではない。彼女だ。
 乱馬よりもずっと幼い少女だ。
 何らかの理由で霧彦と離れたのか、あるいは霧彦も、下手をすれば、後からそこに向かった美希やいつきや沖も……しかし、乱馬はそれについて聞きたくなかった。
 その先を聞くと、乱馬の中で死人の名前が増えてしまう気がしたのだ。

 今、乱馬がコイツに感じるべき怒りはひとつでいい。

 コイツが、祈里の命を奪ったという事実。

 それが、乱馬には許せない。──乱馬の心ひとつはちきれそうなほどに、怒りが胸から湧き上がっている。
 いや、乱馬以外の誰であっても、知り合いの死を簡単に受け入れることはできないだろう。知り合いを殺した人間を許すこともできないし、そんな相手をブチのめさずにいられるわけがない。

「ねえ、もっと僕を笑顔にしてくれるよね?」

「笑顔? ざけんじゃねえ!!! 俺はテメエがどれだけ謝っても許してやらねえし、テメエがどれだけ泣いても殴るのをやめねえ……祈里を殺したってのが、冗談だったとしても、死ぬまで絶対許さねえ!!」

 冗談ではないのはわかっていた。
 冗談を言うべき場面ではないし、ここは人の死をネタにした冗談を言っていい場所じゃない。
 乱馬は、おそらく初めて、本気で人を殺す気で拳を握っていた。

「乱馬!」

「下がってろっつってんだろ、あかね! コイツは只者じゃねえ……それはわかるだろ?」

 あかねも、ダグバの強い殺気を感じていた。
 ダグバが何の恨みも持たず、ただ純粋に殺しを楽しんでいるゆえか──何とも不安定な殺気だったが、それが全てを飲み込むに等しい殺気であるのがわかる。
 十臓を除くこれまでの死亡者──シャンプーさえも──が、全てこの一人の怪物から生み出されたとしても、あかねは疑わないだろう。
 ダークプリキュアや仮面ライダーエターナル以上なのはおそらく間違いない。

「お前が出てきて勝てる相手じゃねえ……さっさと逃げてもらわないと困んだよ!!」

「でも、乱馬……!」

 だが、あかねは、ダグバがおそらく、乱馬さえ凌駕する強さの持ち主だとにらんでいた。
 乱馬も知っているはずだ。きっと、怒りに気を取られているから、わからないのだ。

「忘れんな、あかね。俺は負けねえ。俺は格闘と名のつく物で負けたことは、無え!!  俺を信じて待ってろ。……源太とかいう寿司屋、お前があかねとアインハルト連れて、ヴィヴィオたちのところへ行け」

 源太は、その一言では乱馬の言いなりにはならなかった。

「いや、俺も戦う!!」

「ふざけんな!! 誰かが連れてかねえと、この凶暴女はまたこっちに帰ってくんだよ……!! あかねをコイツとの戦いに巻き込むことだけは、俺が許さねえ。俺は大丈夫だ」

 乱馬は、ある構えをした。
 以前、キュアパインに防がれた技。本来、封印すべき技。
 だが、その強さは、今だけは強靭だった。
 今ならば、この技を乱馬に放った張本人・良牙を超えるほどの技を撃てる。

「獅子咆哮弾!!」

 黒炎が龍のように、ダグバの体へと放たれた。
 アインハルトとシンケンゴールドは絶句する。人間の手から放たれた、不思議な炎に目をぱちくりさせる。
 それは、祈里を失った怒り、そして乱馬自身もこれから人の道を踏外さなければならないという悲しみ──そうした不幸に塗られた、悲しい獅子の咆哮だった。

「……見ろよ、これでも俺が心配か?」

 ダグバも少し驚いたようだが、獅子咆哮弾に呑まれながら笑っていた。
 リントの限界を超えたリントの姿に、初めて出会ったのだ。
 リントの姿のまま、こんなことをやってのける相手は乱馬が初めてだった。
 しかし、ダメージそのものは弱い。

「……さっさと行きやがれ。ほうっておいたら、あのバケモンは誰にも容赦しねえだろ。あかねとアインハルトをよろしく頼む」

「……おい、俺はもう御免だぜ。あの十臓って客みたいに、俺たちのために誰かが死ぬなんて」

「そいつが誰だか知らねえが、安心しろよ。俺は死なねえ」

 乱馬の手のひらから血が滴っていた。
 どれだけ強く拳を握っているのだろうか。爪が立てられているから、手のひらが血を流しているのである。

「……信じるぜ、兄ちゃん。だから、裏切るなよ」

 シンケンゴールドが、そう言ってアインハルトの手を握り走り出す。
 アインハルトは浮かない表情だった。だが、恐怖から解放されたような安堵感を感じている。
 それで、アインハルトはまたはっとした。
 乱馬が身代わりにこの男と戦っていることで、自分が傷つかない──それで安心している自分に気がついたのだ。

「乱馬さん」

 シンケンゴールドが、あかねを連れる過程で乱馬に近づいたとき、アインハルトは乱馬の耳元で一言名前を呼んだ。

「ベルトのバックルを狙ってください」

 乱馬はダグバの腹のベルトに目をやる。バックルは、奇抜な形をしていた。
 普段なら厭でも目立つが、ダグバの体はさまざまな装飾で飾られていたので、そんなところには目が行きにくい。

「あれを狙えば、変身ができなくなる……かもしれません」

 ゴオマの時を思い出す。
 あの時も、バックルを殴った結果、ゴオマは変身できなくなった。

「ありがとよ。……そうだ。ヴィヴィオには、祈里が死んだことを絶対に言わないでくれよ……まあ、放送で知っちまうかもしれないけど、それでもそんな事は知らなくて、いい」

「…………わかりました」

「にゃー!」

「それから、その猫こっちに向けんな」

 乱馬は、アスティオンを前にしても、今は動揺しなかった。
 怒りが、感覚を麻痺させている証だ。
 猫を前にしたのに、感覚的には、「少し苦手」というだけ。あの猫拳の修行のトラウマさえ、乱馬の脳裏には浮かばなかった。
 それだけ、ダグバに対する怒りは強かった。
 そんな中でも、乱馬はあかねを巻き込みたくない気持ちを最優先した。
 乱馬という男が、あかねという女との出会いの中で変わった証だった。

「……乱馬」

「あかね、さっさと逃げろ。俺は一秒でも早くアイツをブン殴りたくてウズウズしてるんだ。お前らが逃げれば、俺は何も気にせずアイツをブチのめせる。だから、さっさと行け」

「……乱馬。絶対、戻ってきてよね」

「あたりめえだろ。俺がいなかったら、誰がお前のクソマズい飯を食ってやるんだ。豚だって喰わねえぞ、あんな飯」

 乱馬の頭が、あかねのグーで軽く殴られた。あまり痛くなかった。きっと、痛みを感じないよう優しくしてくれたのだろう。
 あかねは、これだけのことを言われても、イラッとはこなかった。
 ただ、これが乱馬に触れられる最後のチャンスであるような、そんな悪い予感がしたから、少し不器用なスキンシップのつもりだった。

「早く行けよ。何回言わせんだ!」

「そうだ、行くぜ、二人とも!」

 シンケンゴールドが、二人の少女の手を引いて去っていく。
 その姿を、乱馬は見ようとしなかった。
 今から、この世に一人のつもりで、戦うのだ。
 自分が死んでも、この世に何も影響がないように……。
 それでも、あかねともう一度会いたい気持ちは振り払えない。頭の片隅に、戦い以外の存在がいた。
 負けるつもりは、もちろんない。
 けれど、死ぬかもしれない。
 もし、乱馬は勝ったとしても────天道あかねにはもう会えない。
 ここで、人を殺すのだから。
 好きな人を、人殺しの許婚になんてさせられるわけがないのだ。

「おい、テメーも邪魔者が消えたみたいな顔して、随分嬉しそうじゃねえか」

「そうだね」

「じゃあ教えてやる。この地上で一番邪魔なのは、────テメーなんだよ!!!!」

 乱馬は、駆け出した。
 拳を、すばやくダグバの体へと向けて突き出す。
 百本近い腕が数秒に繰り出された。
 注意しておくが、乱馬の腕はたった二本しかない。その二つの腕が、その数秒に五十回突き出されただけである。

「────!」

 あいも変わらず、この怪物は笑っている。
 殴られる事さえも、ゲームの楽しみだったのだ。
 人間の筋肉構造とは思えないほど、活発に活動する乱馬の腕に驚きながらも、彼なら可能かもしれないとダグバは思った。

「うらっ!」

 乱馬は打撃をやめ、長い足を利用してダグバの股を狙ったキックを放つ。
 いわゆる金的だが、ダグバはそれを物ともせずに、パンチの嵐を止めた乱馬の顔面に一撃、叩き込む。
 乱馬のこれまでの常識を超えた一撃だった。

「……ぐぁっ!!!」

 鼻でも折れたか。
 これまでの修行では珍しいことではない。今や、アスファルトに叩きつけられたとしても折れないような強靭な骨が、こんなにもあっさりと折られるのはまた意外だったが……。

「チッ。顔を殴るんじゃねえ!! 色男が台無しになるだろーがっ!!」

「ふふ……」

「……チッ」

 冗談を言ったのは、乱馬のやせ我慢だ。
 こうしていないと、相手に屈してしまう。それくらいの威圧感だったから、こうして気分を高揚させて恐怖の感覚を麻痺させようとしていた。
 こんな冗談めいた言葉を言う唇が、いつになく震えていた。

(……猛虎高飛車は使えそうにねえ)

 強気でなければ放てない技は、この状況下使えそうにない。
 乱馬がいかに無神経で、常に自信過剰な性格であっても、ダグバはそれを押し潰すほどの強靭な存在だった。

(そのうえ、これだけ強いくせに闘気も不安定で、飛竜昇天破も使えねえ)

 また、相手の闘気を利用した技も使えない。
 ダグバは、攻撃を待って突っ立っているようなものだ。
 殺気は強い。だが、それはまた奇妙な殺気で、怒りやら悲しみやらを力に変えるそぶりが無い。最初から渦を巻いたような、不気味な闘気だった。うかつに障るべきでない部分だ。
 それに、むしろ今は乱馬が言い知れぬ怒りに任せて戦っている。
 ダグバがあの技を使えるかはわからないが、何にせよ警戒すべきだろう。

 では、他にどんな技があるのか──乱馬は考える。
 猛虎落地勢、魔犬慟哭破、敵前大逆走。乱馬の頭を過ぎるのは、そんなスチャラカな奥義ばかりだった。
 無差別格闘早乙女流のあまりの使いようの無さを、乱馬は呪った。


(やっぱりあれが一番か)

 何度でも使うしかない。
 あの呪われた技、獅子咆哮弾を。
 この技だけは、今の乱馬をどこまでも強くする。
 乱馬は、ある程度の距離を置いてから叫んだ。

「獅子咆哮弾!」

 この時、乱馬が考えたのは、シャンプーのことだった。
 彼女はおそらく、もういないだろう。
 中国にいた時、彼女は何度も女乱馬の命を狙ってきた。これまでに何度か、「いなくなれ」と思ったこともある。
 だが、────彼女は、ある日から男乱馬を愛するようになり、やがて女乱馬さえも愛するようになった。
 あかねの命を狙っているが、いつの間にか彼女は喧騒ばかりを残して、命の取り合いなど忘れさせた。

 もう、いない。

 仮に乱馬が天道道場に帰ったとしても、それを壊しに来るチャイナ娘はいないし、ラーメン屋の妖怪ババアや近眼男がシャンプーを探すのを、後ろめたい気持ちで見つめる毎日が待つだけだ。

「────あはは」

 ダグバは、この一撃に呑まれても笑っている。

「獅子咆哮弾!!」

 この時、乱馬が考えたのは、パンスト太郎のことだった。
 彼が一人の少女の死に関わっている──それを知った乱馬は、パンスト太郎への見方を変えた。
 たとえ、何度乱馬たちを襲っても、あんな少女の命を奪うことなんて、絶対にないと思っていたのに。
 もう、パンスト太郎のことをライバルとして見られない。友人とも、見られない……。
 このゲームが無ければ、もっとマシな関係のままでいられたのではないだろうか。

「────ははははは」

「獅子、咆哮弾!!!」

 乱馬は、良牙のことを考えた。
 この先、もし乱馬が死んだら、彼は悲しむだろうか。────逆に、良牙が死んだら、乱馬だって、きっと悲しいと思うだろう。
 あるいは、もし乱馬が──たとえ相手がこんな怪物であっても──人を殺したら、彼は乱馬をどう思うだろうか。あの目で、軽蔑するんじゃないか。
 それは厭だ。なんだかんだで男子校時代からの友人だったのだから。
 あの男子校にいた時のパン屋でのいさかいから、三日も待ったのに果たされなかった決闘、それから、何度ぶつかることになったか数え切れない。
 だが、それが日常だった。
 普通の人が見れば、一見、物騒に見えるかもしれないが、楽しい日常……。

「────あっははははははは」

「獅、子、咆哮弾!!!」

 ヴィヴィオとアインハルトのことを考えた。
 大切な人が死ぬって、どれだけ悲しいことだろう。
 クソ親父がいつどこでくたばったって、何も思わないんじゃないかって、思ってた。
 母親がいるって知って、親の温かみを知った。
 母親にその姿を見せてやりたくて、乱馬は何度も悩んだ。
 高町なのは、フェイト・テスタロッサ。
 だから、大事な母親を同時に二人も失ったヴィヴィオを見た時、乱馬は……。

「獅、子、咆、哮弾!!!!!」

 祈里のことを思い出す。
 祈里は死んでしまった。乱馬よりずっと幼く、しかし乱馬を慕った良き仲間。
 霧彦のピンチに駆け出して、散々乱馬に心配をかけて、戻ってきて、あまりにも素直に謝った……どこまでも純粋な少女。
 彼女も、もういない。
 それが悲しくてムカつく。
 短い付き合いだったが、乱馬はあのひと時が楽しかったのだ。

「獅、子、咆、哮、ダァァァァン!!!!!!!!!!」

 あかね……。
 この勝負が終わったら、俺はもう……。

「あははははははははは」

 煙の中で、笑い声は止まらない。
 だが、その笑みの裏に、僅かでも、きっと────確かな怒りが見えてきた。
 ダグバは、少なからず闘気を放っている。
 それが、この獅子咆哮弾の乱れ打ちの中で、見えてきた一つの希望だった。

「────僕の番だね」

 ダグバは、乱馬のいた場所に向けて手を翳した。
 発火のポーズである。生身であるにも関わらずしばらく楽しめそうな相手──乱馬。彼に対して、発火を行って勝負を強制終了するというのは、彼らしからぬ怒りの現われだった。
 獅子咆哮弾による煙が晴れたら、この右手が火を放つ。

「……どこ向いてんだ? タコスケ」

 はっと、ダグバが煙の中のどこからかその声を聞いた。
 しかし、煙が運んだ声は、上空に向かって流れてしまうため、どこから聞えるのかはわからない……気配も無い。
 ダグバは反射的に背後を向いた。相手の不意を突くならば、背後に回るだろうと考えたのだ。
 最もベタなやり方だった。だから、ダグバはそのベタなやり方である可能性が最も高いと思って、後ろを向いた。

 そこには誰もいない……。

 ────いや、

「俺はここだ!」

 獅子咆哮弾を放った後、乱馬はダグバの後ろについた。おそるべき速さと、巧妙な存在感のコントロールだった。
 しかし、ダグバが振り向いたところで視界には入らない。
 乱馬は、低い位置にしゃがみこんでいたのだ。ダグバの腰に、ようやく頭がある。
 かがむようにして敵が振り返るのを待った彼。
 その目的は簡単だった。

 アインハルトに言われたとおりの弱点を潰すためだ。

「おらぁっ!!」


 乱馬は、ダグバの所持品であり、──一人の命を奪い、血で汚れたがゆえに使い物にはならないため──その辺りに放棄されていた、クモジャキーの剣でダグバのベルトのバックルを突いた。
 どうして、乱馬がこれを持っているのか、そして、どうしてこんな場所にいるのか、ダグバは疑問だったらしい。

 海千拳。

 それが、乱馬の使った技だった。
 気配を消して、金目の物を盗んでいく『コソ泥』の拳。
 今回盗んだのは、あまりにも堂々とその辺の道路に置かれていたダグバの所持品だった。
 不幸なのは、乱馬が手に取った時点で、その剣はあまりにも汚れすぎていたことだろうか。
 ダグバのベルトを砕くには、あまりに錆びに汚れすぎた。

「─────」

 ダグバは、正真正銘何も言わなかった。笑ってさえ、いなかった。
 だが、大事なベルトの装飾品を狙われたことで、反射的にその手を乱馬の方に翳した。
 乱馬は、しゃがんだ状態から後方に飛んで避けたつもりだったが、乱馬の体よりも一歩遅れた「おさげ髪」に火が燃え移り、靡いた髪が今度はチャイナ服に燃え移った。
 一瞬で、乱馬の体を火が包んだ。

「熱っ!!」

 乱馬は燃え立ての瞬間こそ、そんな情けない声をあげたが、すぐにやせ我慢を始める。

「……………………ま、ちょっとは熱いけど、こんなもん……大したことはねえよな」

 それは、ダグバに向けられた言葉ではなく、自分の意地に向けて、必死に語らう乱馬自身の乱馬自身への言葉だった。
 負けそうな自分。
 負けたくない自分。
 母親の一件の時に、切腹が怖くて逃げ回ったような、弱い1/2の乱馬が、もう1/2の乱馬に支えられて、泣き言を忘れる。

「火中天津甘栗拳の修行に比べれば、熱くも何ともねえってんだよ!!」

 乱馬の、燃えていく服の中から、切れ端と一緒に幾つかの『盗品』が零れていく。
 リンクルン、ヒートメモリ、ナスカメモリ。
 盗ったとき、はっとした。やはり見覚えがあったのだ。
 リンクルン……これは、間違いなく祈里のものだし、ナスカメモリは霧彦のものだった。
 祈里だけじゃなかった。
 霧彦も、もういない……その証だった。

「もう一発だ、獅子咆哮弾!!!!!!!!!!」

 その気圧が、乱馬の体の炎までも吹き飛ばした。
 今回は、ダグバに向けられたものではない。良牙がかつて使おうとした、気柱を放つ「完全型」の獅子咆哮弾である。
 乱馬が使うのは初めてだった。

 ダグバも、体の軸をゆがめる。
 初めて、その両手を顔の前で組んで、これから来る技への警戒を見せていた。

「────消えやがれ!!!!」

 大量の気が、地面に向けて降ってくる。
 本来、獅子咆哮弾を使うとき、使用者は「気」を抜かなければならないのだが……

 ────乱馬にはできなかった。

 悲しみや不幸だけでなく、怒りにまでも呑まれた乱馬の心は、簡単に気を抜いたりできる状況ではなかったのだ。気のコントロールは出来ない。
 しかし、あまりに重過ぎる気は、ダグバにも確かにダメージを与えていた。
 周囲の建物までも、次々に潰れていく。それだけの威力だった。
 人の形をした、あまりに脆すぎる存在には、この理不尽な重荷に、どれだけ抵抗することが可能なのだろう。


 雨や嵐、と言うにはあまりにも大雑把な、その落下物を浴びながら、乱馬の意識が途切れそうになった。

(あ、…………)

 気づけば、乱馬の前に冷たい壁があった。
 ダグバの前にも、壁があった。
 地獄の門ではない。
 地面だった。
 しかしまた、少しずつ意識が朦朧としてきた。
 乱馬の視界は真っ白になった。


★ ★ ★ ★ ★


「あれは……!!」

 その気柱に、あかねたちが、気づかないはずがない。
 あまりに巨大な気柱が、轟音を上げていたのだ。この近辺のエリアの人間ならば気づくだろう。
 それが乱馬の放った獅子咆哮弾によるものだというのは、誰に説明されなくとも、あかねにはわかった。良牙か乱馬しかいないのだが、おそらく今戦っている乱馬だろう。位置もその辺りなので、よくわかった。

「……乱馬!」

 乱馬が死ぬかもしれない。そんな気持ちに流されてそちらに向かおうとしたあかねの手首を、シンケンゴールドの手が掴む。
 シンケンゴールドは、何も言わずに首を振った。
 その横でアスティオンが、悲しそうに鳴く。
 だが、アスティオンの猫のような鳴き声は、乱馬を彷彿とさせて、あかねには逆効果だった。乱馬は猫が大の苦手だった。

「離して! あれはきっと乱馬の技よ! 獅子咆哮弾の完成型……でも」

 乱馬はその技を使ったことがない。
 あの技を使ったのは、良牙である。
 それに、あの技を使えば不幸に自分を落としていくだけだというのに、乱馬は使おうとしている。ただ、敵に勝つためだけに。

「だからって、なぁ姉ちゃん。あの兄ちゃんのことも信じてやろうぜ。俺たちはできる限り遠くに逃げるしかねえ……!」

「……源太さん。ここまで来れば、もうあの怪人は追ってこないと思います」

 アインハルトが、いつになく凛々しくそう口にした。
 彼女は、きっと、このまま背を向けられなかったのだろう。
 だから、せめて、こうして少し離れた場所で、乱馬が命をかけ、激しく戦っているということだけ胸に焼き付けておきたかったのだ。
 せめて、見届けようとアインハルトはここで立ち止まったのだ。
 そして、ひとつ気になったことがあったので、あかねに少し質問をする。

「あかねさん。乱馬さんには、おそらくあの怪人にも弱点がある……ということを教えました」

「弱点!?」

「ベルトのバックルです。ここに来たとき、あの怪人と同種と思われる──コウモリの怪人と交戦しました。その際に腹部と背中を同時に攻撃したところ、怪人は変身が解除され、変身能力を失いました」

 ズ・ゴオマ・グとの交戦を思い出すと、やはりあの攻撃がゴオマの変身能力を奪ったのではないかと推測できる。
 あの時は、ほんの偶然──ただ最も目に入った箇所を殴っただけだったが、今になって思えば、あれが彼の弱点だったのではないだろうか。
 そう、仮面ライダー1号こと本郷猛も、ベルトで変身していたではないか。

「あかねさん。あの技は、そうした特定の……ごく小さな的を攻撃できるような技なんでしょうか?」

「違う……あれは、もっと大雑把な攻撃よ」

「じゃあ、何か策があってあんな技を放っているんでしょうか?」

「……きっと、それも違うわ」

 あかねは少し悲しげに言った。

「あいつ、ホンッッッッットに人の話を聞かないのよ。いっつも、大事な事を忘れてたり、大事な事を聞いてなかったり……いい加減な性格! 私たちとの約束だって、本当に聞いてたか…………本当に帰ってきてくれるか……………」

 あかねは、怒りながら泣き出してしまった。
 残る二人には、かける言葉もない。
 乱馬がどうして、バックルを狙わないのかはわからない。
 ただ、この戦いにおいては、乱馬には持久戦が不利であることと、既に二人の間では持久戦が始まってしまっていること……それだけがわかった。
 あかねは、乱馬が約束を果たしてくれそうにない────そう思ったのだ。

 アインハルトにも、そんな予感が少しあった。
 乱馬は『魔力』のようなものをひたすら消費していくだけで、このままダグバのバックルを破壊できないのではないか。
 このままでは乱馬は犬死してしまう。
 乱馬はアインハルトに何をしてくれた? アインハルトの友達であるヴィヴィオの支えになってくれて、アインハルトの命を救ってくれた。
 そんな乱馬を見殺しにしていいのか?
 アインハルトは、決心を固めた。

「……乱馬さんは、そういう人だったんですか」

「そうよ。私たちの言う事なんか、絶対聞いてくれないのよ!」

「……わかりました。なら、私も乱馬さんの話は聞かなかったことにします」

「え?」

「逃げろなんて言葉、もう忘れることにします。……私もう、逃げません」

 アインハルトは、シンケンゴールドが止めるよりも先に、あまりにも素早く走り出した。
 魔力消費、大。
 ダメージ、大。
 疲労、極大。
 勝率、およそ0パーセント。
 しかし、乱馬を助けたい気持ち、ダグバを許せない気持ち、共に極大。


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最終更新:2014年03月17日 14:23