来歴
生い立ち
政界へ
大学卒業後、ゼミの先輩である
氏郷横道(
保守党・
衆議院議員)の国会事務所に入る。
私設秘書として選挙区回りや団体交渉を担当した。27歳の時に、氏郷の娘と結婚した。1972年12月、
神戸市市議会議員選挙へ
保守党公認候補として立候補。初当選を果たす。当選後、「神戸市議会」に所属する
保守党会派議員の18名とともに、
保守党兵庫県支部「こうべ市議団」を結成して政調会長に就任。1975年、
共和党と
保守党が合併して誕生した
自由党へ参加。
党南日本連合会「こうべ市議団」政調副会長に就任。1976年12月、神戸市議選で2選目を果たす。
国政進出へ
1978年6月に
衆議院が解散。義父である
氏郷横道から、
神戸1区の3年目の公認候補者として出馬するように要請を受け、神戸市議会議員を辞職する。
第24回衆議院総選挙で、8人中6位という次点で落選。選挙浪人を味わうことになる。自由党南日本連合会「衆議院神戸1区支部第3支部長」に就任する。市議時代の同僚とともに辻立ちから選挙を始める。
1980年5月、「反社会党ブーム」の流れを受けて、
第25回衆議院総選挙で3位で初当選を飾る。当選後、義父の所属する
八政会に参加。派閥の論理で
副幹事長に就任する。
初入閣
党首選出馬の意向
2000年8月、
室堂卓二の任期満了に伴う
党首公選では、自派閥の
八政会と
雄伯会の推薦を受けて出馬の意向を固める。しかし、前回の党首選で足並みをそろえていた他派閥が、
船中勉(元首相)の後見を持つ
華政クラブの後押しを受けた
山口厚の推薦に回る。最終的に、雄伯会が内部分裂したため組織支援を受けれず、予備選で5名中4位に沈んだ。党首選後、派閥結束力の再構築を図るために派内で最も政治的経験と集票力を持つ生田自身が
八政会会長に就任。
第1次山口内閣・
第2次山口内閣で、
農林大臣として入閣。
下野・派閥解消
2003年8月の
党首公選、2006年11月の
党首公選では、派閥的支援を一切行わないことを決定。2008年1月に最高顧問の地位にあって派閥の精神的主柱だった
福岡一を失った。2009年5月の
第35回衆議院総選挙で、
自由党は下野。自身はかろうじて小選挙区で当選したものの、派閥幹部を含めて党幹部までもが小選挙区落選や落選という結果を受け入れることになる。この現状を憂う中、
自由党党内反省会で、「派閥解消による組織一新を求められるべき」と主張。自派閥である
八政会は、9月に解散して
保守党から続く長い歴史に幕を下ろした。無派閥に転じてからも党の長老として発言力が残り、数回行われた反省会では、党名変更や組織再編などの改新案を熱烈に主張。このような中、2011年に「70歳以上の公認候補者に関して、都道府県連単位で精査すること」という文書を党本部が全国に通達。明らかな生田への挑発行為だったが、自身も退任することを良しとして、2012年11月の
衆議院解散に伴って政界引退。
選挙歴
最終更新:2025年07月27日 01:41