新上菱光

新上菱光(にいがみひしみつ)〈1918年4月ー1993年1月〉は日本の商工官僚、政治家。
商工大臣経済財政・産業競争力大臣を歴任。戦後における革新官僚の1人であり、華の43年組を代表する人物の1人である。

来歴

親族

父の新吉は、戦前にあっては運輸省の幹部であり、戦時中の企画院で全国鉄道網管理法立法の中心人物となった。戦後、野にあっては弁護士として数年間活動するが、共和党から政界に進出し鉄道族議員として運輸政務次官を務めた。母方の親戚に、言論人として「中華思想の帝国覇権主義への攻撃」という論題を発表して、戦時日本における対中強硬派の中心的な論陣を張った新聞記者であり、戦後にあっては自由主義を批判したことでGHQから抹殺されたと噂される前田良寛がいる。

前半生

幼くして、父の熱心な愛国的教育を受け、一高帝大という王道の出世ルートに歩みを進める。野球に熱中したため、一浪して帝大に進学。帝大法学部では、流行だったドイツ法に関心を持ったが、講座が人気だったためあきらめざるを得ず、法制史を専攻する。法制史講座の恩師となる熊野真正は、陸軍軍法学校校長などを勤めたことで戦犯指名を受けて獄中死した。熊野の末弟である熊野庄吉(九州商工局長を経て大臣官房長を歴任)は、官僚時代に上司となる。現役時代に高等文官試験行政科を受験したが不合格となり、家から追い出される形となった。官僚の世界をあきらめていたところで、熊野教授の好意によって、陸軍軍法学校助教授として任官することとなる。軍法学校で、直属の上司であった前沢公(軍法学校主任教官/陸軍大佐)は、父の一高の同期であって、陸大出身の超絶エリートであった。特に、軍紀が歩くと呼ばれるほどの傑物だったが、上司としては礼節を重んじる好人物であった。最終的に2年間勤務したが、3度目の挑戦で高文行政科に合格したため官僚の道に歩みを進めることになる。前沢は合格の報告をした際には南方への異動が決まっており、これが二人の最後の別れになった。

商工省入省

父が熱心に勧めたため、商工省へ入省を希望。この期において入省した商工省のメンバーは、「華の43年組」と称されており、戦後における日本の財界や官界をリードする人材となる。初期配属では、鉄鋼局総務課主任。配属後1ヶ月もしないで、鉱山採掘量調査のために中国に渡る。しかし当時の中国は、日中戦争が泥沼化していた時期であり、訪問中の鉱山事務所の付近に落下傘兵が来襲することもあった。また、調査期間中には、陸軍の裏外交組織でもあった上海特務機関歯黒政宗(機関長/陸軍少将)から依頼されて、上海銀行頭取選任会議の議事録を強奪したこともあった。半年以上に及ぶ調査機関を経て、海路で帰国の途につく。この時乗船していた航路便は、乗船の翌週に中国軍からの攻撃にあって轟沈する。1944年3月に帰国を果たすと、鉄鋼局輸出入課長補佐として、日中間の鉄鋼貿易に関する政策を担当。1945年には、八幡地区現地事務所調査部長に転身、現地で8月15日の終戦を迎えることとなる。

戦後期

終戦の翌月、終戦連絡会議の「1945年8月答申」に基づいた各省組織改革によって大規模な人事異動が行われる。そのため1945年9月には、九州商工局総務部次長に移動した。このときの九州商工局長が熊野庄吉である。翌年4月には総務部長、1949年4月からは博多港貿易事務所長を歴任。1950年には本省に戻って鉄鋼局金属課長、鉱山課長を歴任。1955年10月には、大臣官房秘書課長に就任。この時には、華の43年組と呼ばれる入省同期によって、大臣官房の要職が占められた。

高級官僚時代

1957年6月、共和党の若手である清水直行から直接の指名を受けて商工大臣秘書官に着任。1959年7月からは、太田信之内閣官房長官の下、内閣官房秘書官(商工省)。1963年7月に本省へ復帰、大臣官房政府委員政策調整室長を経て、大臣官房政府委員業務室長(院内配置)。1965年10月には、商工省から外部出向扱いとなる形で衆議院調査局商工委員部長。1967年4月、商工省に復帰して鉄鋼局政策統括参事官、翌年4月には鉄鋼局長に就任する。この時、鉄鋼局長の下で№2を務める政策統括参事官には、一高・帝大の後輩で九州商工局長を務めていた福田真一を中央に呼び戻して就かせた。1973年ごろ、入省同期の福岡一(地方創生総合戦略調査会議連会長)の仲介で、太田誠(保守党都支部長)と懇談。このころから政治に関する興味がなかったわけではなかった。1974年4月、鉄鋼局長の職を辞して内閣官房政策統計局長(初代)に就任。1975年3月限りで商工省を退官する。

政界進出

退官からしばらくして、自由党選対副委員長の福岡一から次期参院選の東京選挙区出馬要請を受けることになる。出馬を受諾後、太田誠都連会長と深見清三党首と懇談を行い、正式に次期参院選東京選挙区自由党公認立候補予定者となる。1978年6月の第11回参議院通常選挙で、東京選挙区全体6位(自由党内4位)で当選を果たす。良識の府とされる参議院では、立法よりの監視に重点が置かれ議員の性質もまた衆議院とは異なるものであった。当選後は、党内の役職を長く務めるのが参議院議員の慣例であったが、元高級官僚という毛並みの良さから、当選1回目にして片山愛康のもとで商工政務次官商工副大臣(政務)に就任することになる。自由党として初めての政権獲得であったために、閣僚候補の人材がいなく党内の元官僚を中心に組閣された。閣内に入ってからは、官僚時代に推し進めてきた鉄鋼産業の組織整理や支援金の見直しを徹底的に推し進めた消極的産業支援を打ち出した。

浅上内閣

浅上内閣では商工大臣として初入閣。この内閣では、浅上浩二首相(製造局出身)、福田真一官房長官(通商局出身)、福岡一・自治大臣(軽工業局出身)、森田康特命担当大臣(公安)(特許法局出身)、簗田新涼特命担当大臣(電気通信)(国際貿易局出身)、佐藤憲特命担当大臣(大気海洋汚染対策・環境保全)(電気開発局出身)ら、自身も含めて7名の商工省出身者が入閣。大臣として、内需拡大路線からの大胆なシフトチェンジで国際貿易路線に移行。未熟な分野だった対外的な貿易政策を特別に担当するための特命担当大臣職新設を強く進言し、大臣として後に入閣することとなる。1987年5月には、党幹部会において内原幸徳(党政審会長)を新党首に擁立。内原内閣で念願であった経済財政・産業競争力担当大臣として入閣する。内原内閣では、通期で入閣することとなり、日本における対外経済政策の最高責任者として務めることとなった。続く瀬川記之の擁立にも携わったが、瀬川内閣が1年と持たずに内閣支持率の低迷で参院選の大敗を受けて辞職すると反主流派となったために要職から離される。

政界引退と晩年

1990年10月、戸波青地参院会長代理に参議院議員辞職に関する申し入れ書を提出。自身の年齢を理由とするものであった。同時期、党選対本部長を兼ねていた島津弘道内閣官房事務副長官は、近日中に内閣改造を行うための参院の入閣者リストに記名があるとして議員辞職を一時保留にすることを通告した。1991年1月、週刊朝日文芸にて「東京連合事務局が個人からの不正献金を受け取っていたとする記事」が発表されることになった。これに際して、都連顧問として都連幹部会に列席し誰かが責任を背負うべきであるとした発言をした。自身が責任を背負うつもりであったが、横英雄連合会長が自ら議員辞職を表明(91年8月衆院選で返り咲き当選)。1991年8月、衆院選の裏で秘かに参議院議員を辞職。自由党を離党するに至った。後に、戦中から付き合いのあった矢吹永訣福岡日興産業会長の誘いを受けて「福岡県の未来を考える社会人会議」理事長に就任することになった。1993年1月に没する。

選挙歴

当落 選挙 開票日 年齢 選挙区 政党 定数 順位
第11回参議院通常選挙 1978年6月11日 60 東京選挙区 自由党 10 6/21
第13回参議院通常選挙 1984年6月10日 66 東京選挙区 自由党 10 4/19
第15回参議院通常選挙 1990年6月10日 72 東京選挙区 自由党 10 3/24

党内の役職歴

自由党

鉄鋼金属業界団体政務調査会長(1980年5月ー1991年8月)
地方租税調査会長(1989年10月ー1990年8月)
国民健康保険推進特別委員会委員長代行(1989年8月ー1991年8月)

年史

最終更新:2025年02月16日 00:07