王宮の人々に安全講習を行ってからもぼくの王宮詣では続いていた。その中で変わったことがいくつかあった。人々のぼくに対する接し方だ。ほとんどの人が好意的になったのだ。衛兵や侍女の中には、この世界ではマニアックな質問を飛ばしてくる連中まで現れた。
「給湯器で出したお湯をコンロで沸かすのと、水から沸かすのとどっちがお得かな?」
はっきり言って一概には言えないような質問までしてくるような猛者も出てきたのだ。それはそれでぼくとしては仕事のやりがいが出るというものだった。だが、気にかかるのは、あの講習会以来なりを潜めた保守派の動きだった。
どうもマガンダは日和見だが神聖騎士団に肩入れしているようだ。そうなってくると、スパイが誰であるかということもちょっと気にかかる。状況だけならリナロが濃厚だが、ぼくとしては彼女がそうであるとは考えたくない。
「今日も異常なし、と・・・」
何かあったときのために王宮に行くときは別の仕事を入れない。つまり、何事もないと点検が終わると暇だった。時間は午後3時。さぼるのにはもってこいだ。
「タチバナ!がんばってるね!」
講習会以来、あまり顔を合わせなかったリナロだった。いつもと変わらない満面の笑みだ。例によって中庭でタバコを吸うぼくの横にしゃがみこんだ。
「どう?あれから異常はない?」
普段なら何気ない会話なんだろうが、スパイ疑惑があるとどれもこれも疑わしく聞こえて仕方がない。ぼくは多少間を置いて答えた。
「ああ、まったく。神聖騎士団も吹きだすガスにびびったんじゃないのかな」
半分挑発も兼ねての答えだった。だが彼女はいじわるなほほえみを浮かべるだけで、スパイ関連のことには素人のぼくにはその真意を、まったく読みとることはできない。
「それならいいけど、あんまり油断したらだめよ」
そんな反応をするリナロにぼくは誘いをかけてみることにした。というより、彼女がスパイであって欲しくないという自分の願望を確認する行為と言った方が正しいかもしれない。
「リナロ、飲みに行こう」
「いいわよ」
あっさりとぼくの誘いにのったリナロをぼくは「ミスティ」に連れていくことにした。
いつもは夕方以降にぎわう店も午後3時すぎだと客はまばらだ。交代で休日を取る自衛官くらいだった。その中で、ぼくとリナロはテーブルに座った。ハーフエルフのママ、ミスティがビールを持ってきた。
「あら、立花ちゃん。かわいいお客さんじゃない」
乾杯をすませて軽く飲んだぼくたちにママが声をかけた。
「こっちでお世話になってる人ですよ。いろんな意味でね」
ぼくの少し挑発的な言葉にリナロは顔をぴくりとさせた。思わずぼくは心の中でため息をついた。今の彼女のリアクションが見間違いであって欲しいと思ったのだ。
「あら、川村さん」
ママの声でぼくは入り口を振り返った。スーツにメガネ。明らかに浮いた格好の川村がまっしぐらにぼくとリナロの座るテーブルに歩み寄った。
「やあ、立花君。今日は早いね」
「たまには、ね・・・」
川村はママさんが持ってきたビールでぼくとリナロと乾杯した。心なしか、リナロの顔色がよくないように見える。それを見越したように川村がママさんに声をかけた。
「ママ!ちょっと奥の個室でじっくり飲ませてよ」
そう言って川村はぼくとリナロを有無を言わさず個室に案内した。この店は自衛隊の駐屯地内にある。個室も完備してある。いわゆる「VIPルーム」として。そこに入ってドアを閉めるや、川村は懐から拳銃を抜いた。
「立花君、大金星だな」
にやりと笑うと川村は抜いた拳銃をリナロに突きつけた。あまりのことに言葉が出ないぼくにかまうことなく、川村は言葉を続けた。
「君の周囲に送り込まれたスパイ。こっちでも調査したが彼女だったよ。よく見抜いたな」
いきなりの新事実の連続でぼくはちょっととまどった。川村に何か言おうとしたが、びびつぼくよりも先に銃を突きつけられたリナロが意外にも答えた。
「どうすんのよ?わたしを殺す?」
開き直ったようにも怒っているようにも見える彼女の表情をぼくは穴が開くほど見つめた。川村は拳銃の激鉄を起こした。拳銃の構造をリナロは知らないだろうが、川村の自信にあふれる表情とぼくのひきつった顔を見れば、その威力や推して知るべしだ。
「か、かわ、川村さん・・・・・。や、やめましょう・・・・」
どもりまくりながらようやく声を出したぼくに川村が少し視線を向けた。次の瞬間、彼の拳銃は下げられた。
「もちろん、殺すつもりはない。まあ、座りなさい」
そう言って川村はぼくとリナロをテーブルに座らせた。10畳ほどの部屋に恐ろしく張りつめた空気が立ちこめているような感じがした。リナロは敵意に満ちた目をぼくたちに向けている。そんな中、川村が口火を切った
「率直に言おう。リナロ君、こっちに寝返らないか?」
彼女にとっては意外だったのだろう。「えっ」と言う感じで川村を見た。
「どうせ散々利用して用が済んだら殺すんでしょ?」
想定の範囲内の反応を聞いて川村はタバコに火をつけながらそれに答えた。
「我々日本人がなぜ、ここまで経済成長できたのか?リナロ君、それは君の知っているとおり高度な技術力もある。それ以上に日本人はビジネスにおいては契約以上にサービスをするのだよ」
彼女にはこの川村の言葉は理解できないだろうが、ぼくにはわかった。つまり、暗に保守派以上の待遇を約束しているのだ。川村はわかってないリナロにさらに続けた。
「君が普通に王宮に勤務する侍女であるのに、なぜスパイをしているのか。病気の母親だろ?アルドラ正教会の運営する病院で治療を受けているそうだな。その医療費のためなんだろう・・・」
この言葉で初めてリナロの表情が変化した。
「なんでそんなことまで知ってるの?」
「それは秘密だね。わたしも立花君以外にいろいろと善意の情報提供者を抱えているからね」
ぼくは思わずはっとした。そう言えば、王宮の侍女の家にガスを設置したとか大川さんが言っていたが。まさかその侍女って・・・・。
「大川さんか・・・」
いつの間にか口に出していたぼくを川村は笑った。
「正解だ。大川君には単発のバイトとしてリナロ君の家の状況をいろいろと話してもらったよ。それでわたしもリナロ君がスパイだと確信するに至った。その過程の情報収集に関しては極秘だがね」
ぼくと川村のやりとりを聞いていたリナロは今までにぼくに見せたこともないような表情を浮かべていた。敵意と疑念に満ちた顔だ。やがて、意を決したようにビールをぎゅっと飲み干すと、川村に向き直った。
「で、そっちのサービスって?」
「そうだな。君のお母さんをこの駐屯地にある病院に入院させよう。お母さんは結核の初期症状だ。君も検査して予防接種をした方がいいな。」
そこまで調べがついているとは。しかし、ぼくたちはこっちに来る前に考えられる限りの予防接種は受けているからまあいいが・・・。リナロは信じられないようで鼻で笑った。
「悪魔に見込まれた死の病よ。治るはずがないわ」
「肺結核は決して不治の病じゃない。現実にぼくの国で結核で命を落とす人はここ数十年ほとんどいない。その証拠にぼくの国では70,80,90歳でも元気にあちこち歩き回るお年寄りも山ほどいるよ」
ぼくの言葉を聞いてリナロはすがるような目でぼくを見た。ようやくぼくの知っている彼女の顔になったような気がして少し安心した。
「ホント?タチバナ?お母さんは治るの?」
「君のお母さんは、微熱と咳が長い間続いているが、かっ血はしていない。まだ初期段階だ。我が国の医療ではこの段階ではほとんど助かる。ただし少し長く入院することが必要だけどな」
ぼくの代わりに川村が説明した。彼の言葉を聞いて彼女はぼくを見る。ぼくもその言葉に間違いはないと言う意味を込めて頷いた。とたんに、リナロは涙を流し始めた。
「・・・・よかった・・・。マガンダ侍従がタチバナの周囲を探って邪教徒の魔法の秘密を探らないとお母さんの診療を正教会に断らせるって脅したの・・・・。だから・・・・ごめんなさい、タチバナ・・・」
ようやく場の緊張が解けてきてほっとしたぼくはビールをあおった。と、そこで肝心な問題に気がついた。
「でも川村さん、リナロのお母さんをここの病院に入院させるのはともかく、いきなりお母さんが消えちゃあリナロが寝返ったって疑われますよ」
「そ こは考えてある。この数週間、リナロ君の家の周りを監視させてもらった。確かにマガンダの間者だろうな。様子を見に来ているが、これがきっちり4日おきな んだ。つまり、そのサイクルでお母さんを一時帰宅させて正教会の病院に行ってもらえば全然問題ない。ちなみに、教会の治療ってのも神に祈る。それだけ だ。」
リナロの話によると、アルドラ王国の医療は医療とは言えないお粗末なレベルのようだ。病院では普段は食えないいいものを食う。神に祈る。それくらいだそうだ。これじゃあ治る病気も治らない。治らなければ「神のご意志」で終わってしまう。
「で、カワムラ。わたしに何をしろと?」
少し落ち着いたリナロが川村に尋ねた。メガネの公務員は少し考えて答えた。後で聞いたところ、川村は国家公務員一種試験合格。つまりキャリアだそうだ。道理で、言うことがインテリ臭くて気障なわけだ。
「基 本的な行動は今まで通りでいい。ただし、侍従にはちょっと嘘をついてもらおう。ガス設備、君たちの言うところの「青い火の魔法」については、先日の講習会 の事以上はわからない。暴走させるには恐ろしく長い呪文を唱えないといけない、ってあたりの話をちょっとずつ言えばいいだろう。話を引き延ばし引き延ば し、結局のところ全部大嘘ってことだな。で、わたしには侍従とアストラーダに関するあらゆる情報を教えて欲しい。言動、勢力、噂話、なんでもいい。いよい よ自分の身が危なくなったらここに来ればいい。」
川村の言葉にリナロは黙って頷いた。結果的に彼女はマガンダのスパイだったが、望んでのことではなかった。ちょっとショックだったがこうしてぼくたちの味方になってくれたことは本当にうれしかった。だが、まだわからないこともある。
「でも、川村さん。あなたはいったい何の目的でこんなことをしてんですか?」
彼にとっては愚問かもしれないが、ぼくにとっては大いなる疑問だった。川村は残ったビールを飲み干すと席を立った。
「国家公務員は日本の国益のために働いて給料をもらうんだ。それ以上でもそれ以下でもない。ま、いずれわかるさ。じゃあ、リナロ君。お母さんの入院は明日にでも可能だから・・・。」
それだけ言うと川村は「VIPルーム」から出ていった。
リナロを送る帰りの車中。ぼくたちは静かだった。あまりにドラマチックな展開にまだお互い実感がわかないでいたのかもしれない。
「ちょっと止めよう」
そう言ってぼくはいつか彼女と来た丘に車を止めた。もはや常習になってしまった缶ビールを彼女に渡してぼくもそれを開けた。一息ついてぼくはリナロに言葉をかけた。
「ま、結果オーライでいいんじゃないの?」
「え?」
ぼくの言葉にリナロが驚いたような声をあげた。ぼくはそれにかまわずに運転席で缶ビールをあおった。日本じゃ絶対できない行為だが、ここではそんなこと関係ない。
「リナロがマガンダのスパイだったのはショックだけど。事情が事情だからしょうがないよ。でも、これで
お母さんも助かるし、君もぼくたちの敵じゃなくなった。それでいいんじゃないの」
ぼくにはこの王国の政争も日本の戦略もわからない。だが、せっかく出会って仲良くなった人と敵味方に別れてしまうことが回避できたことが素直にうれしかった。こんなわけのわからない世界にやってきて脳天気かもしれないが、わかんないものはしょうがない。
「そうね。わたしもしたくもないスパイから解放されてよかったわ。だってあなたたちって保守派が言いふらしてるような恐ろしい人たちじゃないもんね」
保守派はぼくたち日本人を、悪魔と契約した暗黒魔法で王をたぶらかし、神聖なアルドラ正教を冒涜して国を乗っ取ろうとする不逞の輩というらしい。まあ、よくもここまで悪意に満ちた妄想ができるものだと感心したくなる。
「まあ、いいさ。これからもよろしくな」
そう言ってぼくが差し出した右手をリナロが不思議そうに見ている。
「なに?手なんか出して」
厳しいつっこみに思わずぼくはたじろいで、握手の意味を説明した。ようやく理解できたリナロがくすくすと笑って右手を出した。
「じゃ、これからもよろしく」
夕暮れの丘に停車した軽トラックの中でぼくとリナロは改めて友情を結ぶ握手を交わした。
「給湯器で出したお湯をコンロで沸かすのと、水から沸かすのとどっちがお得かな?」
はっきり言って一概には言えないような質問までしてくるような猛者も出てきたのだ。それはそれでぼくとしては仕事のやりがいが出るというものだった。だが、気にかかるのは、あの講習会以来なりを潜めた保守派の動きだった。
どうもマガンダは日和見だが神聖騎士団に肩入れしているようだ。そうなってくると、スパイが誰であるかということもちょっと気にかかる。状況だけならリナロが濃厚だが、ぼくとしては彼女がそうであるとは考えたくない。
「今日も異常なし、と・・・」
何かあったときのために王宮に行くときは別の仕事を入れない。つまり、何事もないと点検が終わると暇だった。時間は午後3時。さぼるのにはもってこいだ。
「タチバナ!がんばってるね!」
講習会以来、あまり顔を合わせなかったリナロだった。いつもと変わらない満面の笑みだ。例によって中庭でタバコを吸うぼくの横にしゃがみこんだ。
「どう?あれから異常はない?」
普段なら何気ない会話なんだろうが、スパイ疑惑があるとどれもこれも疑わしく聞こえて仕方がない。ぼくは多少間を置いて答えた。
「ああ、まったく。神聖騎士団も吹きだすガスにびびったんじゃないのかな」
半分挑発も兼ねての答えだった。だが彼女はいじわるなほほえみを浮かべるだけで、スパイ関連のことには素人のぼくにはその真意を、まったく読みとることはできない。
「それならいいけど、あんまり油断したらだめよ」
そんな反応をするリナロにぼくは誘いをかけてみることにした。というより、彼女がスパイであって欲しくないという自分の願望を確認する行為と言った方が正しいかもしれない。
「リナロ、飲みに行こう」
「いいわよ」
あっさりとぼくの誘いにのったリナロをぼくは「ミスティ」に連れていくことにした。
いつもは夕方以降にぎわう店も午後3時すぎだと客はまばらだ。交代で休日を取る自衛官くらいだった。その中で、ぼくとリナロはテーブルに座った。ハーフエルフのママ、ミスティがビールを持ってきた。
「あら、立花ちゃん。かわいいお客さんじゃない」
乾杯をすませて軽く飲んだぼくたちにママが声をかけた。
「こっちでお世話になってる人ですよ。いろんな意味でね」
ぼくの少し挑発的な言葉にリナロは顔をぴくりとさせた。思わずぼくは心の中でため息をついた。今の彼女のリアクションが見間違いであって欲しいと思ったのだ。
「あら、川村さん」
ママの声でぼくは入り口を振り返った。スーツにメガネ。明らかに浮いた格好の川村がまっしぐらにぼくとリナロの座るテーブルに歩み寄った。
「やあ、立花君。今日は早いね」
「たまには、ね・・・」
川村はママさんが持ってきたビールでぼくとリナロと乾杯した。心なしか、リナロの顔色がよくないように見える。それを見越したように川村がママさんに声をかけた。
「ママ!ちょっと奥の個室でじっくり飲ませてよ」
そう言って川村はぼくとリナロを有無を言わさず個室に案内した。この店は自衛隊の駐屯地内にある。個室も完備してある。いわゆる「VIPルーム」として。そこに入ってドアを閉めるや、川村は懐から拳銃を抜いた。
「立花君、大金星だな」
にやりと笑うと川村は抜いた拳銃をリナロに突きつけた。あまりのことに言葉が出ないぼくにかまうことなく、川村は言葉を続けた。
「君の周囲に送り込まれたスパイ。こっちでも調査したが彼女だったよ。よく見抜いたな」
いきなりの新事実の連続でぼくはちょっととまどった。川村に何か言おうとしたが、びびつぼくよりも先に銃を突きつけられたリナロが意外にも答えた。
「どうすんのよ?わたしを殺す?」
開き直ったようにも怒っているようにも見える彼女の表情をぼくは穴が開くほど見つめた。川村は拳銃の激鉄を起こした。拳銃の構造をリナロは知らないだろうが、川村の自信にあふれる表情とぼくのひきつった顔を見れば、その威力や推して知るべしだ。
「か、かわ、川村さん・・・・・。や、やめましょう・・・・」
どもりまくりながらようやく声を出したぼくに川村が少し視線を向けた。次の瞬間、彼の拳銃は下げられた。
「もちろん、殺すつもりはない。まあ、座りなさい」
そう言って川村はぼくとリナロをテーブルに座らせた。10畳ほどの部屋に恐ろしく張りつめた空気が立ちこめているような感じがした。リナロは敵意に満ちた目をぼくたちに向けている。そんな中、川村が口火を切った
「率直に言おう。リナロ君、こっちに寝返らないか?」
彼女にとっては意外だったのだろう。「えっ」と言う感じで川村を見た。
「どうせ散々利用して用が済んだら殺すんでしょ?」
想定の範囲内の反応を聞いて川村はタバコに火をつけながらそれに答えた。
「我々日本人がなぜ、ここまで経済成長できたのか?リナロ君、それは君の知っているとおり高度な技術力もある。それ以上に日本人はビジネスにおいては契約以上にサービスをするのだよ」
彼女にはこの川村の言葉は理解できないだろうが、ぼくにはわかった。つまり、暗に保守派以上の待遇を約束しているのだ。川村はわかってないリナロにさらに続けた。
「君が普通に王宮に勤務する侍女であるのに、なぜスパイをしているのか。病気の母親だろ?アルドラ正教会の運営する病院で治療を受けているそうだな。その医療費のためなんだろう・・・」
この言葉で初めてリナロの表情が変化した。
「なんでそんなことまで知ってるの?」
「それは秘密だね。わたしも立花君以外にいろいろと善意の情報提供者を抱えているからね」
ぼくは思わずはっとした。そう言えば、王宮の侍女の家にガスを設置したとか大川さんが言っていたが。まさかその侍女って・・・・。
「大川さんか・・・」
いつの間にか口に出していたぼくを川村は笑った。
「正解だ。大川君には単発のバイトとしてリナロ君の家の状況をいろいろと話してもらったよ。それでわたしもリナロ君がスパイだと確信するに至った。その過程の情報収集に関しては極秘だがね」
ぼくと川村のやりとりを聞いていたリナロは今までにぼくに見せたこともないような表情を浮かべていた。敵意と疑念に満ちた顔だ。やがて、意を決したようにビールをぎゅっと飲み干すと、川村に向き直った。
「で、そっちのサービスって?」
「そうだな。君のお母さんをこの駐屯地にある病院に入院させよう。お母さんは結核の初期症状だ。君も検査して予防接種をした方がいいな。」
そこまで調べがついているとは。しかし、ぼくたちはこっちに来る前に考えられる限りの予防接種は受けているからまあいいが・・・。リナロは信じられないようで鼻で笑った。
「悪魔に見込まれた死の病よ。治るはずがないわ」
「肺結核は決して不治の病じゃない。現実にぼくの国で結核で命を落とす人はここ数十年ほとんどいない。その証拠にぼくの国では70,80,90歳でも元気にあちこち歩き回るお年寄りも山ほどいるよ」
ぼくの言葉を聞いてリナロはすがるような目でぼくを見た。ようやくぼくの知っている彼女の顔になったような気がして少し安心した。
「ホント?タチバナ?お母さんは治るの?」
「君のお母さんは、微熱と咳が長い間続いているが、かっ血はしていない。まだ初期段階だ。我が国の医療ではこの段階ではほとんど助かる。ただし少し長く入院することが必要だけどな」
ぼくの代わりに川村が説明した。彼の言葉を聞いて彼女はぼくを見る。ぼくもその言葉に間違いはないと言う意味を込めて頷いた。とたんに、リナロは涙を流し始めた。
「・・・・よかった・・・。マガンダ侍従がタチバナの周囲を探って邪教徒の魔法の秘密を探らないとお母さんの診療を正教会に断らせるって脅したの・・・・。だから・・・・ごめんなさい、タチバナ・・・」
ようやく場の緊張が解けてきてほっとしたぼくはビールをあおった。と、そこで肝心な問題に気がついた。
「でも川村さん、リナロのお母さんをここの病院に入院させるのはともかく、いきなりお母さんが消えちゃあリナロが寝返ったって疑われますよ」
「そ こは考えてある。この数週間、リナロ君の家の周りを監視させてもらった。確かにマガンダの間者だろうな。様子を見に来ているが、これがきっちり4日おきな んだ。つまり、そのサイクルでお母さんを一時帰宅させて正教会の病院に行ってもらえば全然問題ない。ちなみに、教会の治療ってのも神に祈る。それだけ だ。」
リナロの話によると、アルドラ王国の医療は医療とは言えないお粗末なレベルのようだ。病院では普段は食えないいいものを食う。神に祈る。それくらいだそうだ。これじゃあ治る病気も治らない。治らなければ「神のご意志」で終わってしまう。
「で、カワムラ。わたしに何をしろと?」
少し落ち着いたリナロが川村に尋ねた。メガネの公務員は少し考えて答えた。後で聞いたところ、川村は国家公務員一種試験合格。つまりキャリアだそうだ。道理で、言うことがインテリ臭くて気障なわけだ。
「基 本的な行動は今まで通りでいい。ただし、侍従にはちょっと嘘をついてもらおう。ガス設備、君たちの言うところの「青い火の魔法」については、先日の講習会 の事以上はわからない。暴走させるには恐ろしく長い呪文を唱えないといけない、ってあたりの話をちょっとずつ言えばいいだろう。話を引き延ばし引き延ば し、結局のところ全部大嘘ってことだな。で、わたしには侍従とアストラーダに関するあらゆる情報を教えて欲しい。言動、勢力、噂話、なんでもいい。いよい よ自分の身が危なくなったらここに来ればいい。」
川村の言葉にリナロは黙って頷いた。結果的に彼女はマガンダのスパイだったが、望んでのことではなかった。ちょっとショックだったがこうしてぼくたちの味方になってくれたことは本当にうれしかった。だが、まだわからないこともある。
「でも、川村さん。あなたはいったい何の目的でこんなことをしてんですか?」
彼にとっては愚問かもしれないが、ぼくにとっては大いなる疑問だった。川村は残ったビールを飲み干すと席を立った。
「国家公務員は日本の国益のために働いて給料をもらうんだ。それ以上でもそれ以下でもない。ま、いずれわかるさ。じゃあ、リナロ君。お母さんの入院は明日にでも可能だから・・・。」
それだけ言うと川村は「VIPルーム」から出ていった。
リナロを送る帰りの車中。ぼくたちは静かだった。あまりにドラマチックな展開にまだお互い実感がわかないでいたのかもしれない。
「ちょっと止めよう」
そう言ってぼくはいつか彼女と来た丘に車を止めた。もはや常習になってしまった缶ビールを彼女に渡してぼくもそれを開けた。一息ついてぼくはリナロに言葉をかけた。
「ま、結果オーライでいいんじゃないの?」
「え?」
ぼくの言葉にリナロが驚いたような声をあげた。ぼくはそれにかまわずに運転席で缶ビールをあおった。日本じゃ絶対できない行為だが、ここではそんなこと関係ない。
「リナロがマガンダのスパイだったのはショックだけど。事情が事情だからしょうがないよ。でも、これで
お母さんも助かるし、君もぼくたちの敵じゃなくなった。それでいいんじゃないの」
ぼくにはこの王国の政争も日本の戦略もわからない。だが、せっかく出会って仲良くなった人と敵味方に別れてしまうことが回避できたことが素直にうれしかった。こんなわけのわからない世界にやってきて脳天気かもしれないが、わかんないものはしょうがない。
「そうね。わたしもしたくもないスパイから解放されてよかったわ。だってあなたたちって保守派が言いふらしてるような恐ろしい人たちじゃないもんね」
保守派はぼくたち日本人を、悪魔と契約した暗黒魔法で王をたぶらかし、神聖なアルドラ正教を冒涜して国を乗っ取ろうとする不逞の輩というらしい。まあ、よくもここまで悪意に満ちた妄想ができるものだと感心したくなる。
「まあ、いいさ。これからもよろしくな」
そう言ってぼくが差し出した右手をリナロが不思議そうに見ている。
「なに?手なんか出して」
厳しいつっこみに思わずぼくはたじろいで、握手の意味を説明した。ようやく理解できたリナロがくすくすと笑って右手を出した。
「じゃ、これからもよろしく」
夕暮れの丘に停車した軽トラックの中でぼくとリナロは改めて友情を結ぶ握手を交わした。