農本主義の議論の特徴は、産業としての農業を越えた「農」という表現を用い、そこに農耕民族としての伝統的生活体系や文化価値観念の意を含ませることにより、ある種の暖昧さを創出し、そこにあらゆる矛盾を解消させてゆこうとする点にある様に思える。それは同時に、曖昧性を挺子に、ロゴス的なものをパトス的なものへと変換していく機能を果たす。そのひとつの表れとして、本来、農業を擁護する議論であるにもかかわらず、農業の衰退が激烈を極めれば極めるほど、農本主義は現実世界での農業政策的意味を喪失し、農の価値を一つの幻想の世界に直結させるようになる。さらに、厄介なことに、そこでは、近年の「農業見直し論」にあるような原始礼賛や自然への回帰が強く希求され、表出される。
「「農業見直し論」の可能性一農本主義の理解を手懸りに-」穴見慎一より部分抜粋
尾関周二編『環境思想・教育研究』第2号, 環境思想・教育研究会, 2008より
尾関周二編『環境思想・教育研究』第2号, 環境思想・教育研究会, 2008より
☆課題.1
綱澤満昭『農の思想と日本近代』をもとに日本の農本主義の歴史をまとめること。
そのなかで宮澤賢治を位置づけることも可能であるし、農業政策とも重ねられるはずである。
いずれにせよ、亀山研は(というか農工大における思想系全般は)傍から見れば「農本主義系」だろうし、そういう見立てを否定するにせよ、受け入れるにせよ、手玉にとるにせよ、その“ラベル”の構造を知っておくことは有益であるように思える。
綱澤満昭『農の思想と日本近代』をもとに日本の農本主義の歴史をまとめること。
そのなかで宮澤賢治を位置づけることも可能であるし、農業政策とも重ねられるはずである。
いずれにせよ、亀山研は(というか農工大における思想系全般は)傍から見れば「農本主義系」だろうし、そういう見立てを否定するにせよ、受け入れるにせよ、手玉にとるにせよ、その“ラベル”の構造を知っておくことは有益であるように思える。
☆課題.2
梅棹忠夫『文明の生態史観』から、川勝平太『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』を経由した、江戸プッシュのムーブメントは、農本主義と関わりが深い。江戸プッシュとはどういうことか(ちなみにこれは太田の造語)。江戸時代の徳川幕府の統治システムが『前近代的遺制』ではなく、効率的で、超近代的な可能性を含んだものであった、というような歴史評価の逆転。もっといえば、「徳川時代の統治システムこそ、21世紀のグローバル・スタンダードになるかもしれない」という視点のこと。エコロジーとからめて、亀山『環境倫理と風土』でもその可能性が論じられている。
どういうことか?
日本史研究は一貫して『農本主義的』な発想に立っており、「すべての歴史的変化は農業生産の現場から始まる」という暗黙の前提がある(実証的な歴史研究は荘園制度や小作制度など農業生産様式とそれにかかわる法制の研究に集中している)。しかし、日本には農業生産者だけしかいなかったわけではない(網野史観がもたらすまで、この視点は自明ではなかった)。」それをふまえて、「パックス・トクガワーナ説」は展開されている。
梅棹忠夫『文明の生態史観』から、川勝平太『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』を経由した、江戸プッシュのムーブメントは、農本主義と関わりが深い。江戸プッシュとはどういうことか(ちなみにこれは太田の造語)。江戸時代の徳川幕府の統治システムが『前近代的遺制』ではなく、効率的で、超近代的な可能性を含んだものであった、というような歴史評価の逆転。もっといえば、「徳川時代の統治システムこそ、21世紀のグローバル・スタンダードになるかもしれない」という視点のこと。エコロジーとからめて、亀山『環境倫理と風土』でもその可能性が論じられている。
どういうことか?
日本史研究は一貫して『農本主義的』な発想に立っており、「すべての歴史的変化は農業生産の現場から始まる」という暗黙の前提がある(実証的な歴史研究は荘園制度や小作制度など農業生産様式とそれにかかわる法制の研究に集中している)。しかし、日本には農業生産者だけしかいなかったわけではない(網野史観がもたらすまで、この視点は自明ではなかった)。」それをふまえて、「パックス・トクガワーナ説」は展開されている。