中世史の網野善彦は従来の農本主義を前提とした日本史家が見落としてきた「遊行する存在」に着目し、中世、近世の日本社会には、土地に縛られた生産者だけでなく、移動することによって社会的に活動している人々がいたことを明らかにした。網野の仕事を契機にして、中世近世の日本は、これまでの歴史家が記述してきたような、閉塞的で繋縛的な社会構造だったのではなく、けっこう自由でフレキシブルなシステムだったという考え方がさかんになってきた。その到達点が江戸時代再評価、『パックス・トクガワーナ説』だといえる。
また、「単一の日本文化」という発想が、近代ナショナリズムが創出した虚構であり、それ自体多様な民衆文化・地域文化の抑圧をふくんでいることも指摘している。亀山は『現代日本の「宗教」を問い直す』で網野の見解をふまえながら、「天皇教」の国家宗教としての温存・強化・受容の思想的背景としてこれを指摘している。
稲作文化のみを日本文化の伝統(ましてその本質)であるとはとてもいえない。また、農耕儀礼としても天皇儀礼は民衆世界の多様な農耕儀礼にくらべて一面的であるだけでなく、それが高座(たかくら)神事とセットであるようにあくまで支配者の儀礼でしかない。
「天皇儀礼も伝統文化として重要だというなら、伝統芸能と同様に文化保護のカテゴリーで扱えばよいことで,それは象徴天皇制の道徳的文化的理由や、まして国家宗教化の理由にはならない」という亀山の主張は、農本主義と関連させてその位置づけを探る必要がある。
※ なぜなら、『風土』の和辻哲郎も、戦後、国体擁護論を展開するからである。
※ なぜなら、『風土』の和辻哲郎も、戦後、国体擁護論を展開するからである。