はじめに:「持続可能性sustainabilityの学としての環境倫理学」
Callicott(1979)が定義づけた「人間以外のものに内在的価値を定位する学としての環境倫理学」の成果も継承しつつ、90年代以降の「価値を認識する主体としての人間を定位する環境プラグマティズム」の立場から環境思想の位置づけを行う。
see also 「三つの持続不可能性」
■修士論文「環境プラグマティズムの検討とその乗り越えの試み」
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■修士論文「環境プラグマティズムの検討とその乗り越えの試み」
第1章:1970年代の思想的試み
1970年代に環境思想、〈農〉の思想、東洋思想が、近代批判という側面から近接した。「危機感の共有」(岡野1990)による領域横断的な試みがなされた背景を整理する。
keyword 疎外
see also
{「緑のノスタルジア」を戒めるA.Giddens(1938- ) }
{人を過労死させかねないシステムの中で過労死しないですむ幾つかの方法}
{どうすれば生き延びられるかについての汎通的な方法は存在しない。しかし、生き延びる可能性を致命的に損なう振る舞いを列挙することはできる}
{生き延びられるものだけが生き延びる。市場が生き残る者と滅びるべき者を正しく選別するだろうというアダム・スミス(1723-1790)以来の古典学派経済学の原理}
{イノセントな告発者は存在しない}
■‘10唯研発表「環境思想における価値多元論と排他性の検討―キャリコット、ノートンを参考に」
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{「緑のノスタルジア」を戒めるA.Giddens(1938- ) }
{人を過労死させかねないシステムの中で過労死しないですむ幾つかの方法}
{どうすれば生き延びられるかについての汎通的な方法は存在しない。しかし、生き延びる可能性を致命的に損なう振る舞いを列挙することはできる}
{生き延びられるものだけが生き延びる。市場が生き残る者と滅びるべき者を正しく選別するだろうというアダム・スミス(1723-1790)以来の古典学派経済学の原理}
{イノセントな告発者は存在しない}
■‘10唯研発表「環境思想における価値多元論と排他性の検討―キャリコット、ノートンを参考に」
第2章:アメリカの環境倫理学と排他性
キャリコットらの環境倫理学へ環境プラグマティストらが行った批判は、「人間非中心主義」を墨守する彼らの排他性に対してのものであった。しかし、価値多元論を提唱する環境プラグマティストらも、排他性の問題を解消しきれず〈ゲットー化〉の危険性をはらんでいる。これを回避するために、Norton(1987)の「転成的価値」の再検討・再評価の必要性を指摘する
→ 転成可能性transformativity
→ 転成可能性transformativity
第3章:〈食べる身体〉と農業
1970年代以降、環境思想の主流において農業は、有機農法や土地の扱い方の問題圏に終始しているが、それでは耕作者以外にとって農業は関係のない問題系となってしまう。〈食べる〉ことの象徴的側面と、身体の脆弱性(エコ・フェミニズム)から、非生産者にとっての農業を位置づける。
■‘10共シス発表「環境思想史における農業の位置づけの再検討 -都市生活者の〈食べる身体〉を中心として」
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■‘10共シス発表「環境思想史における農業の位置づけの再検討 -都市生活者の〈食べる身体〉を中心として」
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- 臓器移植 {笑い、涙、性の体験などの感性的体験において情念が極まった状況においては?}
- 現代の「宗教」への関心 {必然性なく生き延びている状況と、有責性}
第4章:場所の馴染み深さと風土
ハイデッガー『存在と時間』(1927)における道具的連関は和辻哲郎『風土』(1935)に大きな影響を与えている。(宮川2008)〈馴染み深い物に囲まれた場所〉で、諸物はその微細な変化を住む者に教える(この場合、変化は季節の推移だけでなく、危機の予兆・予感も含む)。風土が成り立つための構造上の三契機、「a.生活的自然、b.共同開発・文化、c.身体的関わり」(亀山2005)について、
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- {東日本大震災の原発事故で、避難区域に留まる人々。同様の例でチェルノブイリ}
- 時間的普遍性と空間的普遍性
第5章:コミュニケーション論
……現在、研究中……
第6章:時間論
1970年代、時間論は、環境思想、〈農〉の思想、東洋思想の各側面において正面から扱われていない。「直線的時間/円環的時間」に関する議論はある、しかしそもそも時間とは何か?
最適動線、タイミングが合うことについて、「卒啄の機」(『碧巌録』)を始めとする禅の認識論を参照する。また、和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(1948)は行為論として道元の『正法眼蔵』の解釈を試みているため、これを基礎文献とする。
最適動線、タイミングが合うことについて、「卒啄の機」(『碧巌録』)を始めとする禅の認識論を参照する。また、和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(1948)は行為論として道元の『正法眼蔵』の解釈を試みているため、これを基礎文献とする。
