■ 赤坂憲雄の「東北学」は、昭和初期の、柳田民俗学の批判的受容から始まる(『山の精神史――柳田国男の発生』小学館 一九九一年他)。『異人論序説』では「ほかいびと・まれびと・やまびと」の章が、食や異人歓待の象徴的な力に、集団の秩序を維持する効果を認める柳田民俗学を継いでいる。
しかし、赤坂の研究は、柳田が対象としていた〈常民=瑞穂の国を支える稲作民〉から、常民とは言えない、沢内マタギ、木地屋、鉱山で働く者、サケを追う川の民、箕つくりなどがむしろ東北地方の大部分であったことの証明へと続いていく(『東北学/忘れられた東北』作品社一九九六年、講談社学術文庫二〇〇九年)。また、七、八世紀にヤマト朝廷から排斥された東北の歴史的背景を、〈まつろわぬ民〉として着目するのも特徴。これも「一つの国家」観に対する反発といえる。戦争と復興を通じた政治主導の国民の物語、とは別の歴史を模索した、山本七平、網野善彦の系譜に赤坂もまた属しているといえる。
そんな赤坂が、東日本大震災復興構想会議の委員に任命されたことは、“戦後とは異なる復興”が目指されているようで、面白い。
しかし、赤坂の研究は、柳田が対象としていた〈常民=瑞穂の国を支える稲作民〉から、常民とは言えない、沢内マタギ、木地屋、鉱山で働く者、サケを追う川の民、箕つくりなどがむしろ東北地方の大部分であったことの証明へと続いていく(『東北学/忘れられた東北』作品社一九九六年、講談社学術文庫二〇〇九年)。また、七、八世紀にヤマト朝廷から排斥された東北の歴史的背景を、〈まつろわぬ民〉として着目するのも特徴。これも「一つの国家」観に対する反発といえる。戦争と復興を通じた政治主導の国民の物語、とは別の歴史を模索した、山本七平、網野善彦の系譜に赤坂もまた属しているといえる。
そんな赤坂が、東日本大震災復興構想会議の委員に任命されたことは、“戦後とは異なる復興”が目指されているようで、面白い。
アジールはいうまでもなく、「公」的に認められた避難所である。アジールという名称は、不可侵を意味するギリシア語 asulon からきている。古くは、主として殺人者が神聖不可侵の場所にのがれて復讐を避ける場合に、この語はもちいられた。[…]アジールは、本来、法=国家や領主権力に保証されることでアジールたりえたのではなく、民衆の〈聖〉なる空間への畏怖にささえられてアジールたりえた。(38頁)
〈無主・無縁〉の原理は、非歴史的に偏在するとかんがえられる。それは、民衆のうちにひそむユートピア願望にねざしている。“俗権力も介入できず、諸役は免許、自由な通行が保証され、私的隷属や貸借関係から自由、世俗の争い、戦争に関わりなく平和で、相互に平等な場、あるいは集団”、いわばこれは、理念化されたイデオロギー的な〈無縁〉の世界である。(53頁)