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【僕はプロデューサー気質】
「Zipper」2008年10月号の「Ozipper」というコーナーに唐沢俊一が登場している。
「オジサマたちの10代教えて!!」というコンセプトで、唐沢俊一が若き日の思い出を語っている。
唐沢について知っている人にとってはおなじみの話が大半だが、ツッコミどころがいくつかあったので書いておく。
僕には、昔『そっくりショー』っていう番組の司会をしていた芸能人の叔父がいて、
夏休みは公演を手伝っていたんで、大人の世界の仕組みがわかっていたんです。
自分が好きなことやるには、2番手が有利だって。
高校のころに「注目されていないモノを自分の力で日の当たる場所へ出す」という、
プロデューサー的な感覚が芽生えましたね。
唐沢俊一はしばしば「自分はプロデューサーに向いている。プロデュースをしたい」という意味の発言をしているが、いい機会だからはっきり書いておくと、唐沢俊一はプロデューサーには向いていない。
何故かというと、プロデューサーというのは基本的には表に出ない仕事であるにもかかわらず、唐沢は目立とうとしすぎなのである。たとえば、「七人の侍」と「東京物語」の監督の名前を知らない者はいないが、プロデューサーの名前を知る者がきわめて少ないことからもそれはわかる(ちなみに前者は本木荘二郎、後者は山本武)。
唐沢が言う「2番手が有利」というのは、おそらく作品が失敗するときに批判の矢面に立たされることがないという意味なのだろうが、その代わり作品が成功したときに賞賛を浴びることもないのだ。唐沢はいい所取りをしようとしているかのように見えて、ムシが良すぎるように思える。
それに他人とトラブルを起こしてばかりいる点もプロデューサーには向いていないように思う。目立ちたがりを改めないとプロデュースは今後もうまくいかないのではないか?と思われてならない。
【宇宙戦艦ヤマトのファンクラブ】
「Zipper」10月号の「Ozipper」というコーナーに唐沢俊一が登場している。
高校時代に叔父の仕事を手伝い「プロデューサー的な感覚」が芽生えた唐沢俊一が最初にやったのが「宇宙戦艦ヤマト」のファンクラブ結成と語っている。
高校2年のころアニメの『宇宙戦艦ヤマト』が放送されたんですが、
初期で打ち切られてしまった。だけどすごく面白かったから、
「『ヤマト』をブームにしよう!」と思ったんですよ。北海道の片隅で。
(中略)
で、最初にやったのが、仲間たちと全員で『ヤマト』のレコードを1軒の店だけで買うんです。
そうすると、全国でもその店でだけバーンと売り上げが上がる。
それとアニメの再放送の嘆願書を出したり、ラジオへのリクエストハガキも出しまくった。
その結果、『ヤマト』の関係者が「北海道で『ヤマト』を盛り上げている子たちに会いたい!」
って来てくれて。
唐沢のコメントを受けてインタビュアーは「すごい!まさにブームを作り出したと!
その後、『宇宙戦艦ヤマト』は映画化もされて今も語り継がれる作品に…」と言っている。
「『ヤマト』のブームを起こした」というのは、唐沢俊一の持ちネタのひとつだが、
実はこれには重大な疑惑が持たれている。
その理由として「唐沢のファンクラブは他の『ヤマト』ファンクラブに比べて結成がだいぶ遅い」
「『ヤマト』の関係者は全国をまわっていたため、北海道に来たとしても別に特別なことではない」
ということが挙げられる(詳しくは唐沢俊一まとめwikiを参照)。
唐沢の活動は『ヤマト』のブームにそれなりに貢献したのだろうが、『ヤマト』のブームを起こした
というのは明らかにオーバーである。それに実に不思議なのだが、浪人時代にそれほど『ヤマト』に
熱中していたにも関わらず、唐沢の著書では『ヤマト』についてほとんど書かれていないのだ。
『ヤマト』からは卒業してしまったということなのか、それとも『ヤマト』に熱中していたのではなく、
活動すること自体に熱中していたということなのか。
…しかし、これはインタビュアーも唐沢のガセに加担していてよろしくないなあ。
インタビュアーから「挫折はなかったんですか?」と聞かれた唐沢は次のように答えている。
【イッセー尾形での挫折】
すごいのがありますよ(笑)。『ヤマト』の活動の後で東京の大学に通ったんですけど、
そのときにテレビで一人芝居をやるイッセー尾形を観たんですよ。それで衝撃を受けて
イッセーに長い手紙を送ったら「会いたい」と言ってくれて、仕事を手伝うようになったんです。
一時はブレイン的な位置にまでいったんですよ。
それがね、舞台の前説に出たときに、「イッセーの魅力はこういうことだ!」ってギャグを
混ぜて語ったら、客をめちゃくちゃ怒らせてしまって…それがショックで事務所を辞めたんです。
唐沢のコメントは若干事実をボカしている。
唐沢が客を怒らせたのは、ギャグを混ぜて語ったからではなく、客をバカにするような発言をしたからである(要するにブラック・ユーモアをやろうとして失敗したのだ)。そして、唐沢がイッセー尾形のスタッフを辞めたのは、客を怒らせたことにショックを受けたからではなく、イッセー尾形をはじめ他のスタッフが唐沢をフォローしてくれなかったことに唐沢が逆ギレしたためである(詳しくはまとめwiki参照)。ボカしているあたり、本当に反省しているのか?と思われても仕方ない(なお、『
裏モノ日記』(アスペクト)では、イッセー尾形のスタッフを辞めた経緯がもっと詳しく書かれている)。
しかも、同時期に海外のアニメーション研究会に入ったんですけど、そこでかなり強気な
持論の原稿を書いていたんです。結果、敵を作りすぎてそこにもいられなくなった。
それまで、誰にも叩かれたことがなかった。そういう人間は、人との絆が作れないんですよ。
結局そのふたつの自信を打ち砕かれる出来事で、心のガスが無くなって、田舎に帰ったんです。
「アニメーション研究会」というのは「
アニドウ」のことだろう。「強気な持論の原稿」というのもどんなものなのか(『ぴあ』での論争を見る限り反対者を罵倒するようなものだったと推測されるが)。しかし、「人との絆が作れないんですよ」と反省しているんだったら、もう少しトラブルを起こさないようにできないものか。
【都落ちして薬局でパソ打ち】
それから2年間。実家が薬局をやってたんで、暗い蔵みたいな部屋で薬の処方箋を
打ち込む作業をしていました。パソコンだけがある部屋で黙々と。
きつかったですよー。でも、そのままじゃいけないと、処方箋の仕事が終わったら、
そこで思いつくまま原稿を書いたんです。
このときの生活について、唐沢は『猟奇の社怪史』(ミリオン出版)で次のように書いている。
二十代後半の頃、それまでの文弱におぼれた怠惰な生活(演劇関係のプロデュースとか、
文筆の徒としての活動とか)に一時見切りをつけて、田舎に引っ込み、真面目な事務員生活を
しばらく続けたことがあった。白壁に囲まれた部屋にパソコンの端末と資料保管用のキャビネット、
それにロッカーがあるきりの寒々しい部屋で、朝八時から夕方六時までここに一人で詰め、
せっせと事務仕事をしていたのだが、このとき、どういうものか無性に肉体を鍛錬したい、
という欲望が湧いた。その部屋にダンベル、エキスパンダー、グリップなどを運び入れ、
空き時間を作ってはせっせと鍛錬にはげんでいた。食事は一日サバ缶一個(これは高タンパクで、
下手なプロテインよりずっと筋肉を作るのに効果的である、第一安い)、後はヨーグルト。
数ヶ月そういった生活を続けた結果、腹筋に段々がつき、肩が膨張してきて、といった肉体的な
変化の他に、精神的な変化がぐんと出てきたことに自分でも驚いた。
まず、下着を付けなくなる。自分の肉体の線を、なるべく露出したくなるのである。
医療事務の会社だったので事務用白衣が支給されていたが、裸の上にそれをはおるのである。
白衣には長袖と半袖があったが、冬場でも半袖を着るようになる。二の腕を剥き出しにしたい
のである。さすがにブリーフはつけるが、それも出来るだけ小さく局部を覆い隠すだけの
ようなものを選ぶようになる。弟がこれを見て、キモチ悪いので頼むから普通のパンツを
履いてくれ、と言った。
要するにかなり危ない精神状態にあったわけだ。しかし、逆に『猟奇の社怪史』の方で「文弱におぼれた怠惰な生活に一時見切りをつけて」と事実をボカして書いていたことが分かってしまったな。
【20代後半でライターデビュー】
そして書きためた原稿を持って、2年ぶりに東京へ行って出版社に持ち込んでみた。
今でも忘れないのが、2年前に他人を傷つけるようなことしか言わなかった僕が、
緊張で出版社の門をくぐれないんですよ。最後は、缶ビール買って公衆トイレで一気して、
勢いつけていきましたね(笑)
このくだりで、唐沢は自分の小心さについて告白している(「他人を傷つけるようなことしか言わなかった」からこそ肝心な時に小心になってしまうのだと思うが)。しかし、その小心さを嘲笑うべきではない。自分も小心な人間なので、そのときの唐沢はつらかっただろうと思わず同情してしまった(甘いかな?)。問題なのは小心であることではなく、唐沢が自分の小心さを忘れていることである。小心さを忘れて虚勢を張ってしまった人間がのっぴきならないところまで追い詰められているにも関わらず、小心さのせいで素直になることもできないでいるというのが唐沢の現状だ。自分が小心な人間であることを唐沢は思い出すべきだろう。
今の若い子って、自信があるものって外に出すと壊れるかもしれないから、
大事に自分の中で守っているでしょ?
大丈夫、若いうちは傷付いて挫折したって、修復はいくらでも出来るから。
「自分の才能は自分を食べさせていけるものなのか?自分を満足させてくれるか?」
っていうテストは、若いうちに試しておいたほうがいいの。
「DAICON7」で藤岡真さんから逃げて、その後も理由になってない言い訳ばかりして、挫折することをメチャクチャ怖がっている唐沢に「挫折しても大丈夫」って言われてもまるで説得力がない。こちらの方こそ、唐沢にもっとちゃんとした対応をとるよう願いたいのだが。それこそ「修復はいくらでも出来るから」と言いたい。まあ、『
血で描く』を出したのも「自分の才能は自分を食べさせていけるものなのか?自分を満足させてくれるか?」っていうテストの一環なんだろうね。
というわけで、やっぱりヘンなインタビューであった。「裏モノ日記」を読む限り、唐沢俊一自身はすごく満足しているみたいなんだけど。
祥伝社『zipper』インタビュー。編集のMさん(女性)、ライターのSさん、それにカメラマンさん。
例の、オノがひっくり返って笑っていたコーナー名の“ozipper”インタビューである。
Mさんが前から私のファンで、このコーナーに是非出ていただきたいと思っていたそうで、
Sさんは以前から『週刊プレイボーイ』などで私に何回か電話インタビューしたことがあるそうで、
やはり話をじっくり聞いてみたいと思った、という人なので、力の入ったインタビューになった。
親父たちの10代、20代の思い出ばなしを語るという企画。
まあ、かなり暗中模索な時代の話なのでトリトメはないがライターとしての再デビュー以降の
20代最後の数年に関しては「濃いですねえ」と二人とも驚いてくれ、そこで自分が得た、
この業界で生き延びていくためのマニュアル(文サバ塾で語ったこと)についてはSさん、
「刺さる、刺さるなあ」と胸を押さえる。
よきライターになるには、みたいな精神訓は誰もがいうが、食っていけるライターになるには、
という話は(それがシビアすぎる故に)何故かみな、多くを語ろうとしない。
20代後半にライターとして再デビュー? それ以前は親のすねかじり学生でライター仕事なんて記録されていないんだけど、まさか雑誌「ぴあ」の投稿欄で暴れていたのがライター仕事だったのか?
しかし「この業界で生き延びていくためのマニュアル」「食っていけるライターになるには」ってのが、この2008年以降どんどんダメになっていくのを知っていると、なんともはや。
検証blog
最終更新:2017年05月25日 22:59