「どこでもドア」は『秘封霖倶楽部』のエピソードの一つ。2014年03月10日公開。
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あらすじ
主人公の森近霖之助はスマホで2chまとめブログ(*1)を読んでいると『ドラえもん』に登場する秘密道具「どこでもドア」が実際に開発されつつあることを知る。しかし後日、その発明者は死亡したと大手ニュースサイトで報じられる。
その後のある日、霖之助はコンビニで買い物(*2)をしてからの帰途、皮膚の腐った妖怪らしきものを目撃するが、それには大して目もくれず、その向こうにある見慣れない小屋に興味を抱いて近付き、誤って中に入ってしまう。そして彼は小屋に閉じ込められてしまうが、気付くと自分の家の前に戻ってきており、小屋の外に放り投げたはずの購入品も手元に戻っている。
しかし、それから霖之助の身体には徐々に異変が起こり、身体を擦ると鈍痛が生じたり、妙な疲れを覚えたりするようになり、体育の時間には気付くと頭から顔が血にまみれていた。霖之助は自分の身体に細工が施されたと考えるが、苦痛は徐々に強まっていき、皮膚は爛れて血色を失いつつある。そして重い体を引きずって病院へと向かうが、不良の集団にボコボコにされてしまい、人気のない場所に留まったまま行動不能に陥る。やがて自分の身体に盗聴器が埋め込まれていることに気付いた霖之助は、自分が「どこでもドア」開発の実験台として利用されていたことを知り、どこでもドアが実用化されれば人類すべてが自分と同じ状態に陥ることに気付く。
気付くと、霖之助は見知らぬ場所でメリーや複数人とともに寝かされており、最後の記憶はコンビニの帰りに見知らぬ小屋に閉じ込められたきりで、その場所の素性も分からぬまま自力で学校へ戻る。そして、蓮子や大学の友人たちに再会すると彼女たちはそれぞれに感極まり、霖之助とメリーは、自分たちが3,4日間行方不明であった後、身体の大部分が溶けた遺体として発見されたことを知らされる。自宅の前に残されたその遺体を見に行くと、それは完全な液体と化しており、この事件はすべてが闇に葬り去られる。
元ネタ
作者のND曰く、『ドラえもん』に登場する「ひみつ道具」の一つである「どこでもドア」の「哲学的世界」を扱ったエピソード。具体的には、『
哲学的な何か、あと科学とか
』というサイトの「
思考実験
」の項目と内容がそっくりなので、これが元ネタのようだ。
元ネタの記事の内容を要約すると、「入口のドアに入ったものを出口のドアで複製し、入口に入ったものは消去する」という形でどこでもドアの理論を説明してから、「ドアに入った人間とドアから出た人間が本当に同一であるかどうか」という部分を哲学的問題にしている。しかし、NDは肝心の「哲学的」部分となる後者を作中であまり具体的に取り上げていない。ドアに入ったほうの人間が消去される過程をやたらグロテスクに描くこと自体には拘っているものの、そもそも元ネタの瞬間移動の理論自体の説明が見当たらない。
また、この元ネタの思考実験は「もしどこでもドアが実用化されるとしたらこういう理論になってしまう」という意味合いで一部のドラえもんファンの間で流布されており、この『秘封霖倶楽部』もその一端を担っているが、そういう趣旨ではない。「とある人間その意識までそっくり同じように複製しても、それは本当に『自分自身』になるのか」という思考実験をするために、あくまでも例えとして「どこでもドア」にこのような理論を仮定しているに過ぎない。つまり、本来は『ドラえもん』や「どこでもドア」と全く関係のない話である。
果たして作者が「哲学的世界」を理解しているかどうかも怪しい内容だが、にもかかわらず、主人公の森近霖之助は哲学書を愛読する読書家という設定。しかも、冒頭では現代の小説を「文字で遊んでいるようにしか見えない」とこき下ろす一方で、漫画をベタ褒めし、麻耶とともに『ドラえもん』を読み耽っている。現代の小説が「文字で遊んでいるようにしか見えない」理由として、あまりにも極端な例だが、作中では何らかの作品から「同じ言葉が見開きの頁全てに埋まっている」場面が挙げられている。このような表現は西尾維新のライトノベルである『〈物語〉シリーズ』で見られ、出版当時はネット上でも話題になっていた。