概要
東京帝国大学で漱石の教え子だった加計正文が家業を継ぐ為に、大学をやめ実家の広島に帰郷し、漱石と文通を続けていたが、尊敬する漱石の声を広島でも聞きたいと思い立ち、1905年(明治38年)に現在の東京都文京区千駄木に住んでいた漱石の元を訪れ蝋管に声を吹き込んでもらった。
録音は1分30秒程度でその内容はユーモアに溢れていたと伝えられ、加計の記憶に基づく口伝によると
録音は1分30秒程度でその内容はユーモアに溢れていたと伝えられ、加計の記憶に基づく口伝によると
(1)先輩マツモト・ドウベツ(松本道別)という男が来て、・・・寄付をしてくれというから、僕が学校へ行くのは、生徒を教えに行くのではない、飯びつのホウ・・・と言ったら・・・。
(2)高等学校(一高)で教科書にコンドー(condor)という字があったから、生徒に字引になんとあるかと聞くと、「アメリカ産のハゲタカという鳥の名だというから、「姓は近藤、名は禿鷹」といったらみんな笑っていました。
(3)又、スギムラ・ヨウタロウという男が「先生十八世紀の英国の政治はどんなでしたか」ときいたから「僕は政治のことは一向知らん」といいました。・・・
(2)高等学校(一高)で教科書にコンドー(condor)という字があったから、生徒に字引になんとあるかと聞くと、「アメリカ産のハゲタカという鳥の名だというから、「姓は近藤、名は禿鷹」といったらみんな笑っていました。
(3)又、スギムラ・ヨウタロウという男が「先生十八世紀の英国の政治はどんなでしたか」ときいたから「僕は政治のことは一向知らん」といいました。・・・
というような内容だった。
しかし繰り返し何度も再生し、100年の年月を経てカビなど侵食が進み、最後に聞こえたのは1919年と伝えられている。
再生の試みとして、1985年に北海道大学の朝倉教授らがレーザー光などを用いて5年間試みたが結果はなかった。
2003年に千葉工業大学の鈴木教授らがスキャンを行ったが蝋管から漱石の録音の痕跡は確認できなかったとする。
しかし繰り返し何度も再生し、100年の年月を経てカビなど侵食が進み、最後に聞こえたのは1919年と伝えられている。
再生の試みとして、1985年に北海道大学の朝倉教授らがレーザー光などを用いて5年間試みたが結果はなかった。
2003年に千葉工業大学の鈴木教授らがスキャンを行ったが蝋管から漱石の録音の痕跡は確認できなかったとする。