badferd

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β版29年度より参戦。55年度より睦月賞の運営をしています。ここでは呟き欄では言えない裏話でも書いてみたりみなかったり?
とりあえず引退した選手は一通り書いた。


制作選手

第1世代 丸善泰也(リリーフ投手 変化AP 左投左打 29年度-43年度 H-F-S 晩成(22歳スタート) )

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名前の由来は独特なCMソングでお馴染み?カーポートマルゼンのCMソングより。 何かそれっぽい名前にしようと思ったらアイデアが出てきたためこの名前になった。

元々脳内では技巧派のリリーフにして余裕があったらスタミナを上げ、先発転向も考慮に入れる予定だった。しかし思った以上に初期能力がノーコンかつHシュート1球種だったため中後のような荒れ球左腕にする事を決意。
ストレスや疲労が時間経過で減る事を知らずゴルフをしながら読書をしたり、何だかんだカーブ・ツーシームと2球種新たに覚えたり、1年目のオフトレードの話が来ていたので興味本位で押したら日本の南から北に飛ばされたり紆余曲折を経てスワローズに。
手さぐりの1代目だったがBBLS制覇にタイトル獲得と思い出深い野球人生を送り引退。
名前やアイコンのインパクトからか選手ドラフトにて20位指名を受けるなど自分の代表選手だと思われている…と思う。


第2世代 フィルクラ院典明(先発投手 スタミナAP 右投右打 44年度-57年度 C-H 早熟 )

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名前の由来は横浜に所属していたフィル・クライン投手と「ジョジョの奇妙な冒険」の花京院典明より。
第2世代は我が世の春を謳歌していたスワローズから当時下位に低迷していたカープへ移りプレー。
1年目、先発不足により学徒出陣すると初登板は前世の古巣スワローズ。案の定ボコボコに打たれるとその後も連戦連敗で終わってみたら21登板1勝14敗 防御率10.38ととんでもない成績に。ちなみにこの1年の目標は「プロ初勝利」「防御率1台」だった。前者は無事達成できたが後者は無残な成績となってしまった。チームも100敗と苦難の滑り出しだったもののチームはそこから這い上がり年々順位を上げて行った。
チームが順位を上げる一方クラ院は2,3年目は登板無し、4年目もリリーフで2登板だったが5年目以降ローテに定着。ローテの下位でこっそり白星を積み重ね最多勝に2回輝いた。最多勝はそれなりに整った能力で序列の低い先発が有利だと思った。
カープで優勝の美酒を味わった後晩年はホークスへ。BBLS制覇にごっつあんゴールを決めた。

  • 彼の育成に関して
このクラ院は早熟型だったが成長期のマイナスで結構経験値を持っていかれるので例え初手で成長期でも慎重鍛錬はつけるべきと強く感じた。
全盛期の能力はECECCCとテンプレ先発の育成途上といった印象を受ける能力。重い球は持ってない模様。そしてやけに精神が高いのは最後の方の通常やら停滞やらでメンタリスト+護摩業を連打したため。後々思えばここでもうひと踏ん張りしてたらもう少し能力上がったかな~って。

第3世代 アッテンボロー(外野手 走力AP 右投左打 58年度-75年度 M-Bs-L 鍋底 )

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3世代目にして初の野手。モデルは「銀河英雄伝説」の「ダスティ・アッテンボロー」。
鍋底特有の序盤の成長の速さを活かし若い内から出場機会を積む。8年目にして初のFA権取得や2000本安打は序盤に出番を積んだおかげと言えるだろう。(ちなみに18試合出場のシーズンがあった。あと2試合出場していれば7年、ストレートでFAを取得できていた。)
続いてFAで言うなら自分の所属球団より順位の高い所には行かない縛りを設けていた。(なおFAは移籍1回、残留2回だった模様。)
最終的に盗塁王を獲得したものの一瞬最優秀守備の外野部門を狙おうと画策していた時期があった。
(ファイターズの赤間選手が衰え、他の目ぼしい外野手は皆守備力は自分と同じD45以下であったため走力より守備力を上げようと思っていたがそのオフの間にセから空条承太郎選手(後の沙条愛歌外野手、当時の守備はC)がトレードで移籍、好守備を誇った冬野選手が外野手転向という事態になりこの計画は一瞬のうちにご破算となった。)


第4世代 勝田塁(内野手 守備AP 右投右打 78年度-96年度 東京エンペラーズ(G) 普通 )

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名前の由来は「かったるい」 それ故眠そうな外見をしている。守備を軸に意外性のある打撃もあるって感じの選手を作ろうとした。リアルの野球選手だと元横浜の進藤達哉選手みたいな感じ… のはずだったが精神が強かったのか打率3割を2度記録、4度のベストナイン獲得で生涯獲得タイトル数は9つとなり一族最多(当時の)に。東京一筋21年の現役生活をまっとうした。
野手の精神は強いと思った。


+Bikipedia ※長いです
勝田 塁(かつた るい、58年9月3日 -)は、神奈川県横須賀市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。現役時代は東京エンペラーズに在籍していた。

経歴
  • プロ入り前
小学校2年生のときに野球を始める[1]と中学時代は三浦シニアで神奈川県ベスト8に進出[1]した。
高校は港洋学院横須賀に進学。1年生よりベンチ入りを果たし3年夏には甲子園に出場。3本塁打を放ちチームはベスト16に進出した。同年9月にはカナダで開催されたU18野球ワールドカップ日本代表に選出される。
75年度ドラフト会議にてジャイアンツから3巡目指名を受けて入団。背番号は「61」となった。

  • プロ入り後
76-77年は一軍登録される事はなく二軍で実戦経験を積んだ。
78年、負傷した智ノリの代役として初出場を果たすと12試合に出場し初安打、初打点を記録した。
79年は智ノリや額賀凛らの移籍に伴い開幕一軍となり、開幕スタメンに入ったものの打撃で課題を見せ、71試合の出場で打率は.200だった。
80年は、初本塁打を打つなど成長は見せたが53試合の出場で打率.186、2本塁打14打点と前年に引き続き打撃で課題を見せた。
81年には、打撃不振で一時二軍降格もあったが自己最多の133試合に出場し初の規定打席にも到達。シーズン終了後には、自身初のタイトルであるゴールデングラブ賞を二塁手部門で受賞した。
82年は開幕戦で4番に座ったが、成績が振るわずシーズン中盤以降は4番を外れた。しかしチーム最多の12本塁打を放ち2年連続で二塁手部門のゴールデングラブ賞を受賞した。
83年は3年連続で二塁手部門のゴールデングラブ賞を受賞したものの、打撃面では物足りない成績に終わった。
84年は開幕一軍こそ逃したものの、4年連続て二塁手部門のゴールデングラブ賞を受賞。打率、打点で自己最高の成績を残し打撃面でもジャイアンツのBBLS制覇に貢献した。
85年には打率で自己最高の.286を記録し、5年連続のゴールデングラブ賞と初のベストナインも獲得した。同年オフにFA権を行使し、2年3億8000万円の契約でジャイアンツに残留した。なおこの年から背番号が7に変更された。
86年は負傷もあり107試合の出場に止まり、GG賞は5年連続で止まってしまった。
87年は自己最多の14本塁打を打ち、本塁打と打点がチーム内トップだったがジャイアンツは最下位に沈んだ。
88年には2年連続、自己5度目の全試合出場をしたがこの年もジャイアンツは最下位に沈んだ。
89年は引退した五十嵐に代わり遊撃手となった。背番号を3に変更して臨んだこのシーズンは本塁打が自己最多タイ、他2部門でキャリアハイとなったがチームは4年連続の最下位と低迷した。
90年は打撃3部門でキャリアハイを更新し5年ぶりのベストナインに輝き、チームの5年ぶりとなる最下位脱出に貢献した。
91年は2年連続の3割こそ逃したものの、2年連続で遊撃手部門のベストナインに選出された。
92年、東京文京にチーム名が変更された1年はシーズン終盤打撃不振に陥ったが3年連続で遊撃手部門のベストナインに選出された。
93年は本塁打が4本に止まり二桁本塁打は6年連続で途切れたものの自身2度目の打率3割を記録した。
94年は負傷で6試合に欠場し、全試合出場は7年連続で途切れた。
95年は打率やOPSといった諸成績は低下を見せたものの打点では自己最多の98打点を記録した。
96年は打撃不振に陥り序盤から打率は2割を行ったり来たりという結果に甘んじる。シーズン途中に現役引退を表明し21年間のプロ生活にピリオドを打った。

  • 選手としての特徴
ツボにはまった時の長打力と強肩を活かした守備を評価されている大型内野手[2][3]。
高校通算36本塁打と長打力はある一方、打撃の確実性には課題を残す[3]。

  • 人物
枕に対するこだわりが強く、遠征やキャンプの時もマイ枕を持参する[1]。これさえあればどこでも寝られるとは本人の弁[1][4]。
好物は甘い物で、特に和菓子に目がない。

  • 詳細情報
(中略)
表彰
  • ゴールデングラブ賞:5回(二塁手部門:81-85年)
  • ベストナイン:4回(二塁手部門:85年)(遊撃手部門:90-92年)
背番号
61 (76年-84年)
7 (85年-88年)
3 (89年-96年)
登場曲
「Welcome to the Jungle」Guns N' Roses(76年-79年)
「RACE INTO THE LIGHT」IMPELLITTERI(80年-83年)
「Halloween」IMPELLITTERI(84年-96年)


第5世代 ヤン・ウェンリー(先発投手 スタミナAP 右投右打 97年度-116年度 OB-HC 凹凸 )

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3代ぶりの投手。モデルは「銀河英雄伝説」の「ヤン・ウェンリー」。
今世の目標はエース級の先発を作ることだった。
上手いこと初手で停滞を引くと凹凸型と判明。ルーキーイヤーから一軍で先発起用されると7年のストレートでFA権取得。
権利獲得の翌年オフに兵庫へ移籍。決め手は才木浩人・伊吹翼と同年齢の両選手が先発でいたから。
大阪にいた106年度に最高勝率を獲得すると兵庫移籍後本格化。109-110年に2年連続MVP獲得など同い年の才木投手と共に兵庫の黄金期を牽引した。111年度より先1に就任しエースの立場を手に入れた。
衰え前で175勝と200勝は濃厚と見られたものの3年連続大きな衰えという屑運を発揮してしまい自分の中では達成が大いに危ぶまれた。
115年度終了時であと11勝というところだったが116年度に12勝し無事達成を見届けると引退を決意した。
タイトルを多数獲得、200勝達成と現時点では一族の代表選手。


第6世代 二階堂盛義(捕手 守備AP 右投右打 117年度-138年度 AD-HW 普通 )

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モデルは同名の戦国武将。信長の野望・蒼天録や太閤立志伝5での珍妙な顔グラで有名()

今世の目標は
  • 一族初のAステ作る
  • ピンク嫁確保
  • 小アピ使ってみたい
辺りです

走力OBを発見したので小AP+積極でパワー捨ての捕手で行こうと思います。←行きました。

上記の目標は達成したもののADの強い時期とかぶり捕手のレギュラーを取れず長期間2軍暮らしに甘んじた。この時にはピンク嫁確保に危機感を感じた。
どうしようもないので30歳で内野にコンバート。
一族初のノンタイトル選手かと思われたが水成功+FAのコンボで134年、HWにてショートのGG賞を獲得し連続タイトルは守られた。ひょえー!


第7世代 カツヨリ(内野手 パワーAP 右投右打 139年度-157年度 HR-HC-OB-TS 普通 )

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モデルは戦国武将の武田勝頼。この名前だとカツノリ選手を連想する人もいるかもしれない。
高パワー高精神の選手を目指しました。
概ね.250 25本の選手でしたがTSに移籍してから打撃覚醒で本塁打王を1回獲得。
本塁打を量産するにはミートも大事だと思いました。


第8世代 寒間鈴(リリーフ投手 変化AP 右投右打 158年度-173年度 MC-TS 普通早 )

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魔球パームを操るサブマリナー

オリジナル選手。名前の由来は「サブマリン」。名前の通りアンダースロー(サブマリン投法)です。一族初の女子選手。
技巧派リリーフ投手にしようって事以外特に何も考えてなかった2年目に変化小APを取得したので変化球投手にしようと決めた。
普通早の早い成長を活かし4年目に1軍昇格をするとジャスト30イニングを投げシーズン終了。30イニングを投げたので新人王はなくなったかと思いきや翌年見事獲得。30回「まで」セーフなんですね。
その後も順調に活躍していたが重い球を取得した166年に成績が一気に悪化し??となった(今までの成績が上振れだとして成績悪化自体は予想していたが0.76→4.01はさすがにビビる)。
その後FAで当時下位に低迷していたスカイクロウズへ移籍。スカイクロウズ3年目の170年度には見事優勝となった。皆さんありがとうございます。
その後も嶋清一,外山恒一ら個性豊かな投手陣の元活躍していたが衰え初年度の173年に引退を決めた。

初の女子選手、それもオリジナル選手で色々と印象的な世代でした。
それと通算で防御率1点台など(まだ変化強化のアプデは大分先だったが)変化球自体は強いと感じさせる世代でもありました。


第9世代 阿井愛沙(リリーフ投手 球速AP 右投右打 174年度-193年度 HC-HW-SL-HW-SL 鍋底 )

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酷使無双

名前の由来は「アイアイサー」。その名の通り先発リリーフどんなところでも投げる投手を目指そうとし、いい成長型を引けたならスタミナを上げ先発転向という計画も頭にあったが初手成長だったのでご破算となりリリーフ一筋にすることにした。(2軍では先発やることもあったけど)
兵庫-北海道と経て5年目に埼玉に移籍。その後中々結果を残せない期間が続いたものの183年度に中4ながら27登板 防御率1.53の成績を残し頭角を示した先にあったのは……

トレード情報 龍之介選手HW→SLと阿井愛沙選手SL→HWのトレードが成立しました。 → 2軍落ち

1軍定着している時にむやみやたらとトレードをするのはやめましょう(戒め)
怪我人の穴埋めで僅か4登板に終わった1年を終えた後に待ち受けていたのは……

トレード情報 阿井愛沙選手HW→SLと運河梨直選手SL→HWのトレードが成立しました。

1年で元いた埼玉への復帰。両軍のフロントはなぜ私を介して2選手のトレードをしたのか。私を介さずに直接やりとりをすればいいじゃあないかと頭の中に?と笑いを浮かべつつ埼玉に復帰。
その後は世代交代真っ最中の投手陣において中1にて酷使無双。中継ぎながら3回の規定到達など酷使されまくった。

上記のトレードや取る予定はなかったのに何かあったからという理由で変化小APを取るなどプレイングではガバガバだったものの私のガバを大いに跳ね返す大活躍を見せてくれた。


第10世代 門部蘭(外野手 精神AP 左投右打 194年度-207年度 TE 早熟 )

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名前の由来は「モンブラン」美味しいよね。
彼女自体は「外野なら守備をそこそこ上げればGG賞乱獲できるのでは?」という邪な目的から生み出された選手である。
あくまでそこそこ程度(大体C)までしか上げる予定がなかったため守備APではもったいなさそうと思い精神APに。初期値が高いらしいという噂と精神を上げていればそこそこの打撃能力でも打線の中で一定の貢献ができるだろうとの判断から。
同期に精神APの野手が3人もいたことにはびっくりである。(他の年はどのくらい精神APがいるのか知らんけど)
5年目、1軍に入ると概ね.260-.270前後を打てていたためこのまま規定打席に到達できれば新人王も狙えるのでは……?と思っていた中外野の1枠を他選手と争う事になったので計画を変更し慌てて守備練習にシフトするなど急なチャート変更も実施した。結果的には新人王ゲット。やったぜ。
その後守備小APも引けたので最終的に守備はBまで伸ばした。
当時Eリーグには守備B以上の外野が複数人いた事や早熟だったため実働期間が短かった事からGG賞自体は4回の受賞となったがやりたい事ができたので満足であった。早熟だったけどまぁ来世以降にいいのを引ければ~って事で。
それとなんやかんや解散に定評のあるエンペラーズ在籍していたがなぜかここでは生え抜いている。(この蘭と勝田塁の2人が生え抜き。2人とも守備と精神に定評がある。)

なんやかんや育成面ではやりたい事ができたので満足はしている一方、キャラクターとしてはまったく掘り下げができなかったことが心残り。



第11世代 神凪怜(外野手 パワーAP 右投右打 208年度-226年度 AD-MC 持続普通 )

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モデルは「グリモア」の「神凪怜」。多村って誰だよ()
元は4強型を引けたらトリプルスリー狙いに、それ以外なら王道スラッガー狙いにしようと思っていた。持続3兄弟な事が分かったので後者のプランを採用。元々多村を選んだのもキャリアハイで14盗塁を記録するなどパワーとスピードを兼ね備えた選手だったからである。
とにかく王道スラッガー狙いの育成を開始。1回ギエるなどハプニングもあったが首尾よくミート小APを獲得するなど概ね順調に進んでいた。
色々な意味で転機があったのは220年。この年は開幕から不調で「今年は乱数がアカン年だな」と思ったので休養設定に変更。それでキッチリ?負傷し勤続疲労は消えたものの最後まで調子は上がらず95試合出場で .233 15本 39打点 と低調な結果に終わった。
で、色々な理由があったのでなんやかんやで省きますがなんやかんやで翌年からグリモアの神凪怜に唐突なキャラチェン。チームの4番打者が多村から美少女にいきなり変わってコンドルスの皆はさぞ驚いたことだろう()
キャラチェン初年度にいきなり自身初の3割30本100打点を達成した事にいい気になって期間限定にしようと思っていた神凪怜で最後まで通す事に決めた。グッバイ多村。
衰え前年となる224年には.336 55本 124打点でチームメイトの西園ホノカ選手(現じーな選手)と本塁打王を分け合う活躍を見せた。
また、当時のバイソンズにはグリモアキャラの投手が多く在籍しており彼女たちとの対決でも盛り上がった。


第12世代 風槍ミナ(内野手 走力AP 右投右打 227年度-246年度 AD-TE 鍋底 )

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モデルは「グリモア」の「風槍ミナ」。同時期にyura氏が育成していた大投手、「南条恋」選手とは原作だと幼馴染で親友である。だからミナにしたんだけどね。
走力APだがパワー捨てのいわゆるAGA型にはしない方針に。ここだけの話サイクルヒット達成を狙ってこのような能力にした。結論から言うとできなかったけど()

ミートパワーがCで精神Eとそこまで打ちまくれるような能力には思えなかったのだが打率3割を3回記録。走力が打率にもたらす影響は小さくないと思った。
他にも241年には実装されて間もない混合戦MVPを獲得。朝起きて覗いてみたら通知が来ていて驚いたよ。

ミナや恋の他にも「小鳥遊自由」選手や「瑠璃川春乃」選手と前の時代のバイソンズのように当時のエンペラーズにもグリモア選手が集ったことも印象的。


第13世代 加集夏(内野手 ミートAP 右投左打 247年度-265年度 OB 普通早 )

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名前の由来は「カシューナッツ」。
ミートAPは13世代目にして初。
目標能力はミート・守備をBにするなどオールラウンダーと言うか名脇役的ポジションを目指し育成。

若手時代にトレードのオファーが飛んで来たもののチーム事情的に一軍は近いだろうと判断し拒否。その後首尾よく4年目に一軍に上がると8年目、25歳となるシーズンに.336の高打率を記録し初タイトルとなるサードのGG賞を受賞。
年俸が1億を超えたのに2回もトレードを打診されるなど謎の現象に逢う事もあったがバイソンズでプレーし続けた。

最終的には通算2000安打100HR100盗塁200FPとオールラウンドに活躍。キャリアハイで26盗塁と思った以上に盗塁をしていた。
バイソンズ一筋19年。自身3回目の生え抜き選手だった。


第14世代 王泰山(外野手 パワーAP 左投左打 266年度-284年度 HR 持続持続 )

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名前の由来は「太田胃酸」。ありがとういい薬です。
成長型は持続持続。
小技依存の特能が追加されたので打撃・守備の両職人を獲得しました。
この選手が完走すると家系選手でチームが組めるのだ。
元々ミート小APを狙っていたもののミート以前に小APそのものが一向に来なかったこともあり精神小APに乗り換えたり、詳細は下に書いたのですがうっかりやらかしなど人に相談しながらも行き当たりばったりだったがまぁ、いいや!
なんやかんやで2世代連続で生え抜き選手となりました。

+うっかりやらかしの話
当初の計画ではまず特能を300点取り、打撃職人だけとって残った150点はレギュラー定着後の球界情勢を考慮しながら決めるつもりでした。候補は「守備職人」「変化○」「対左+引きずり」の3つでした。
なけなしの300点を握りしめ特殊能力取得に走る王泰山。スマホをタップし打撃職人ゲット!と思いきや画面に映されたのは

「守備職人」を取得しました

badferd、ここで痛恨のタップミス。やらかした瞬間は少しばかり血の気が引いた。まぁやってしまったものはしょうがないので残った150点で打撃職人を「ちゃんと」取得。ミスった先が取得候補の1つだった守備職人だったのが不幸中の幸い。

……ただその「間違えて」覚えた守備職人のおかげで複数回GG賞を受賞となりました。人間何が幸いするか分からないものですね()
でもタップミスには気をつけましょう。マジで。


第15世代 立華卯衣(投手 変化AP 右投右打 285年度-?年度 OB 鍋底 )

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モデルは「グリモア」の「立華卯衣」。愛沙以来6代ぶりの投手育成である。
なお初手成長期。精密+ギプスで変化をガンガン上げリリーフとしてやっていく予定。

続きは後で。