セランゴール海上封鎖 |
年月日:統一歴 192年 |
場所:マレー海峡・セランゴール |
結果:新ソ連の撤退 |
対峙勢力 |
新ソビエト連邦
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セランゴール 支援国
大中華
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指導者 |
ヴァルター・シャイデマン |
王昇竜 |
セランゴール危機(英語:Selangorian crisis)は
セランゴール革命政権が対外債務の支払いを停止したことを受けて新ソ連が行った海上封鎖である。この封鎖行動をマレー海峡における新ソ連の支配強化の動きと見た大中華が同じくマレー海峡に艦隊を派遣したことで両国は一触即発の状態になった。
危機は最終的に
コンゴ戦争との二正面作戦と経済的損失を厭った
新ソ連が妥協し、革命政権との妥協が成立、艦隊を退いたことで終了した。
この出来事で
大中華の東南アジアへの影響力を高めた一方で、それまでの新ソ連・大中華両国の蜜月の終わりを印象づけた。
目次
中ソの対峙
大中華と新ソ連は165年の大中華の成立から緊密な関係を保ってきた。社会民主主義を掲げる新ソ連とファシズム体制の大中華の間のイデオロギー的差異は大きなものだったが、当時国際社会で支配的だった君主制国家群に比べればお互い近づきやすく、またインド・オセアニアに勢力を広げる
OFC
との対立を考えるうえで両国の利害は一致していた。
しかしOFCの地位が弱体化するとこの関係は徐々に崩れ始める。
パキスタン戦争では両国の認識の祖語から不信感が生まれ、戦後には新ソ連がインドで
北ルークリア政府
を樹立し両国の勢力圏が接した。続く
インド戦争と
南ルークリアの共産化によって南アジアの大部分が新ソ連の勢力圏に収まると、両国関係の基礎であった対インドでの共闘という目的は完全に失われてしまった。それでも既に深化していた両国の経済関係やオセアニアのOFC勢力を考慮して両国の提携は続いたが、両国関係の冷却は避けられなかった。
そのような情勢下において、新ソ連では対外硬派に支えられた第二次シャイデマン政権が成立、中華でも独自路線を推し進める新総統王昇龍が就任し、両国の蜜月は終わりの兆しを見せていた。
セランゴール革命
180年代後半にかけてセランゴール・スルタン国は
BCO
からの莫大な投資を受けた。主な投資主体となったのは新ソ連と大中華で、マレー海峡の支配権を獲得するため両国は競うように投資を繰り返した。莫大な投資を受けたセランゴールでは錫鉱山やゴムプランテーションの開発が進展し経済成長を遂げた一方で、国家債務は増大の一途を辿った。BCOの投資利益を享受していた一部の支配階級はこの債務を被支配層への重税という形で転嫁したが、これは191年にスルタン国政府に対する
セランゴール革命を引き起こした。
国家を支配した革命政府は重税の元凶である対外債務の支払いを192年1月付で停止することを宣言した。これをマレーへの影響力確保の好機と見た新ソ連は2月9日、セランゴール革命政権に対して最後通牒を発した。回答期日を経過しても最後通牒に対する反応を得られなかった新ソ連は戦艦
ホルスト・ジンダーマンを旗艦とする封鎖艦隊を派遣した。
封鎖発動
2月19日、新ソ連政府はセランゴールに対する海上封鎖を発動した。当初の予定では17日に発動される予定だったが、事務的手続きの遅れによって2日間遅延した。新ソ連艦隊はセランゴール最大の港湾ポート・クラン沖合に展開し封鎖線を張った。封鎖の対象はセランゴールの港に入港する全船舶とされ、20日には実際にパナマ船籍の貨物船が封鎖線に接触し新ソ連艦隊によって強制退去された。
22日、新ソ連の封鎖艦隊とセランゴール海軍が衝突した(
クラン沖海戦)。この海戦は偶発的なもので、数でも質でも劣るセランゴール海軍の完全敗北に終わった。新ソ連艦隊は被害なく、一方のセランゴール海軍は旗艦の
海防戦艦セランゴールと魚雷艇(過去に新ソ連から売却された
オルパス級)3隻を喪失し全滅した。セランゴール市民の目の前で国家的象徴として扱われていたセランゴールが撃沈したことは大きな衝撃を持って受け入れられた。
新ソ連の封鎖行動はクラン沖海戦で頂点に達した。拿捕の懸念から各国はセランゴールへの入港を取りやめ、国家経済を輸出入に頼っていたセランゴール経済はたちまち大混乱に陥った。革命政権は事態の収束に失敗し、国内では企業の倒産や闇取引、国外脱出が相次いだ。モノカルチャー経済化していたセランゴールの農業はゴム生産に特化していたため農作物輸入の途絶によって飢餓も発生した。
大中華の介入
セランゴール革命の後、大中華でも事態に対する対応の協議が始まっていた。革命政権が履行を停止した対外債務の38%は大中華のものであった。債務自体は大中華の経済規模からすれば取るに足らない金額だったが、国家威信として対応しなければならなかった。しかし大中華はこの時点では直接的な軍事行動は検討していなかった。
しかし新ソ連が艦隊を派遣すると、大中華は対応を迫られた。新ソ連の行動は明らかに要衝マレー海峡の直接支配を企図したもので直ちに対処しなければならなかった。大中華はまず両国に仲介を申し出たが、新ソ連は独自の解決を図ったためこの申し出を拒否した。
仲介の拒否を受け、大中華は新ソ連の行動を支援するという名目で戦艦
普陀を旗艦とする艦隊を派遣した。戦争は望んでいなかった大中華は新ソ連をいたずらに刺激しないため艦隊規模を新ソ連艦隊と同程度に抑えたが、旧式観が多数を占める新ソ連艦隊に対して大中華艦隊は新鋭艦を多数含んでいた。大中華艦隊は3月23日に海域に到達すると新ソ連艦隊と対峙し、両艦隊はにらみ合いに発展した。
交渉の開始と危機の収束
大中華の艦隊派遣は新ソ連に驚きをもって迎えられた。この時点でシャイデマンを始めとする新ソ連の指導部の多くは大中華の介入に対し何ら策を持っていなかった。FSAを始めとする政権内の急進派は武力衝突を起こしてでもこちらの意志を貫徹すべきと主張したが、シャイデマンは受け入れなかった。この危機によって新ソ連内の中華関連企業の株が軒並み暴落し市場を動揺させていたこと、進行中の
コンゴ戦争との二正面を嫌ったのがその理由とされている。
新ソ連は26日に中華に対して非公式に仲介の受け入れを申し出た。
交渉中の4月9日、新ソ連のセランゴール大使館が暴徒に襲撃された。新ソ連の武官2人が負傷、暴徒12人が死亡した。事件の報復に新ソ連艦隊はクラン市街地に対し艦砲射撃を実施した。砲撃は新ソ連政府の正式な命令を受けて行われたものではなく、僅か12発の発砲にとどまったが、人口密集地への砲撃ということもあり130人以上の死者を出した。この事件は偶発的なものではあったものの、クアラルンプールに本拠を置く革命政府の要人を恐怖させセランゴール側の態度を軟化させた。
17日、三国は基本的な条件に同意し、
海南議定書が結ばれた。セランゴールの負債は国家収入に対して非常に大きく、元金1億1800万セランゴール・リンギット、利息6700万セランゴール・リンギットの負債を背負っていたが、収入は僅か3000万セランゴール・リンギットに満たなかった。海南議定書ではこの負債の7割にあたる1億3000万セランゴール・リンギットが削減され、新たな返済計画が作成された。この担保としてセランゴールの8つのスズ鉱床の収入の50%が提供されることが約束された。海南議定書ではセランゴールに対する請求を裁定する三国委員会が設置され、非中ソ系国家の債務についても処理を行った。
海南議定書の発効に合わせて新ソ連艦隊は封鎖の終了を宣言した。新ソ連艦隊は18日に撤退し、中華艦隊も翌19日にマレー海峡を脱した。
中ソ対立の加速
この危機において対峙することになった中ソ両国だが、この対決が直ちに両国関係を破壊したわけではなかった。危機において両国は平和的な解決を探り、実際に一発の発砲もなしに事態を解決した。危機の後も両国は直ちに敵対行動に出ることはなかった。
しかしこの事件は対外的・対内的に両国の蜜月の終了を印象づけた。危機の最中において両国の対外硬派は武力行使を訴え、お互いに相手の化けの皮が剥がれたと主張した。この見解は両国の世論で広く受容され、それまで指導部内での動きに過ぎなかった中ソ対立は国民的な動きとなった。結果、事件以降の中ソ関係の冷却化は止められないものになっていった。
最終更新:2025年06月17日 23:54