赤壁の戦い
この戦いは映画(レッドクリフ)にもなった有名な戦いです。
[おもな登場人物]
曹操(そうそう)
孫権(そんけん) 周瑜(しゅうゆ) 魯粛(ろしゅく)
劉備(りゅうび) 張飛(ちょうひ) 趙雲(ちょううん) 諸葛亮(しょかつりょう)
[おもな地名]
赤壁(せきへき) 長坂(ちょうはん) 夏口(かこう) 呉(ご) 荊州(けいしゅう) 烏林(うりん)
[位置関係]
・宛
・新野
・樊城
・襄陽
・長坂 ・夏口
・江陵
・烏林 ・×赤壁(蒲圻) [戦争前の勢力関係]
曹操
劉備
劉表(劉ソウ) 孫権
[勢力]
劉備・孫権連合 VS 曹操
208年1月
袁紹(えんしょう)を倒し中原(ちゅうげん:中国の中心地域をさす)を制した曹操(そうそう)は、
南下し荊州(けいしゅう)攻略を実行にうつします。
流浪の将 劉備(りゅうび)は曹操に攻められて
圧倒的兵力差により逃げるのが精一杯。
長坂(ちょうはん)での張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)の
活躍により命からがら夏口(かこう)へと逃げ延びました。
荊州を難なく攻略した曹操はその勢いのまま
ついに孫権(そんけん)のいる呉(ご)へ攻め入ろうとします。
劉備の軍師 諸葛孔明(しょかつこうめい)は自身の提唱する
天下三分の計(てんかさんぶんのけい:弱小の劉備が国の3分の1をとる作戦)を
成功させるべく、また劉備軍の生き残りをかけて
このとき曹操との戦いに弱腰であった孫権軍を説得するために呉に向かうことになります。
諸葛孔明は孫権配下の魯粛(ろしゅく)・周瑜(しゅうゆ)などの抗戦派の援護もあり
孫権の説得に成功し、連合軍を組んで曹操に立ち向かうことが決まります。
兵力は曹操軍20万に対し劉備・孫権連合軍は5万といわれています。
(80万対3万との説もあります。)
呉の指揮官は周瑜(しゅうゆ)と程普(ていふ)。
ちなみに、周瑜は文武両道に通じており、また顔立ちもよく「美周郎(びじゅうろう)」と呼ばれ
絶世の美女姉妹といわれる二喬姉妹のひとり小喬(しょうきょう)を妻に持ちます。
曹操はその美女小喬についても狙っていたといわれています。
劉備軍と劉キ軍2万(荊州劉表の息子で親劉備派)は、陸路を進撃、
周瑜・程普(ていふ)の軍は水陸両方から進撃します。
孫権は後方の柴桑(さいそう)を本陣として待機しました。
両軍が向かい合ったのは長江(ちょうこう)中流の「赤壁(せきへき)」と言う場所です。
長江は川幅は大変広く、まさに水軍戦での勝負が勝敗を分けるという場所。
中国北方を領土とする曹操にとっては水軍戦は得意ではありません。
しかし、 荊州計略に向かう前に訓練を十分に行っていました。
しかし、練習と実践では勝手が違います。
その点、周瑜 率いる呉軍は水軍戦に慣れています。
緒戦の戦いで案の定、曹操の指揮する水軍は連合軍の前にあっさりと敗れてしまいます。
兵力を立て直した曹操軍は長江の北岸の烏林(うりん)にうつり連合軍とやはり
河を挟んで対峙します。
劉備軍は周瑜軍より後方に陣をとり、両軍の出方をみる算段でした。
曹操軍は長江の高い波による船酔いに対処するため(疫病が流行ったとの話もあります)、
船どうしをつなぎあわせて、水上の城塞を作り上げます。
呉軍は、兵力差があり強固に守りを固めた相手にまともに戦っては勝機がなく
また短期決戦が勝機を握ると考えていました。
このとき呉の武将黄蓋(こうがい)が周瑜に 「火攻めの計」を進言し、周瑜もこれを採用します。
黄蓋が考えた策とは、
”黄蓋自らが寝返る振りをして敵の舟に火を放つ”というものでした。
ここで成功するためには黄蓋の降伏が成功する事と、火の勢いを広げる必要がありました。
まず、寝返りの理由を信用させるために黄蓋は自身が孫権軍を恨んでいるという口実を作るために
細工し、わざと罰棒(棒叩きの計)を受けて背中に負傷をおうという
" 苦肉の策(くにくのさく)"をおこないます。
こうして曹操に信用されて偽の降伏は問題なくすすみます。
当然、兵法の達人である曹操も”火攻め”を警戒していたでしょうが、「東南からの風」が吹かなければ問題はないと思っていたことでしょう。
しかし、めったに吹かない「東南の風」が吹き事態は一変します。
(この場所はたまに北西の風が近くの山にあたり「東南の風」に変化することがあったようです。)
風が吹いた事ですかさず準備されていた黄蓋の作戦は実行に移されます。
黄蓋が連れだった船には枯れ草などをつみ油をかけられていました。
曹操軍近くまで来た黄蓋は一斉に自らの連れてきた船に火を放ちます。
それらが曹操軍の船団(つなぎ合わされてすぐには身動きの取れない)に突撃します。
船をつなげている曹操軍は身動きがとれず火はすぐに燃え広がりました。
その火は勢いを増し陸上の陣営にまで延焼します。
その隙を逃さず周瑜の精鋭部隊が上陸し、曹操の本陣は総くずれとなり曹操は大敗を喫します。
曹操は江陵までなんとか脱出し、荊州を捨てて許都へ撤退します。
こうして赤壁の戦いは劉備・孫権連合の大勝利となりました。
最終更新:2011年01月14日 16:46