官渡の戦い
[おもな登場人物]
曹操(ソウソウ)袁紹(エンショウ)
[おもな地形]
官渡(カント)
200年
河北を平定した名門の袁紹とエン州・豫州を基盤とし、
献帝を擁立して着々と勢力拡大を図る曹操が、
官渡において激突します。
まさに曹操が魏の基盤を作り上げた天下分け目の戦いです。
当時、袁紹の治める河北はさほど戦乱の被害も少なく、
「1州だけで人口百万、精鋭三十万」と賞されていました。
一方、曹操の治める河南は”
黄巾の乱”の中心地となり、
戦乱や飢餓で苦しむ人々が大勢いました。
こうした勢力の違いは袁紹軍十数万に対し曹操軍一万という
兵力差となって現れます。
当初、まず袁紹が軍を動かしますが、曹操が機敏な対応をし、
先制攻撃を仕掛けます。
この当たりは、日本の織田信長と今川義元の桶狭間を彷彿します。
その後、張繍が降伏すると曹操は自ら官渡に軍を進めます。
しかしその折、董承や劉備たちの曹操暗殺計画が露見します。
曹操は袁紹との対決を控えながらも自らそれに加担した劉備を
徐州で討伐します。
当然、袁紹の大軍を決戦を控えた時期で反対も多く出ましたが、
「後に天下を争うのは劉備である」とし、郭嘉の賛成もあり、
自ら劉備を討伐し関羽を捕虜とします。
一方、袁紹軍にとっては攻勢にでる絶好のチャンスと
田豊が進言しますが、袁紹の優柔不断な性格が災いして、
子供の病気を理由に兵を動かしませんでした。
そればかりか袁紹は、進言を繰り返す田豊を投獄し、同調する
沮授の軍勢も取り上げてしまいます。
ここがまさに”その時歴史が動いた”
袁紹敗北の判断ミスの時でした。
200年2月
ついに袁紹が重い腰を上げて大軍を率い曹操討伐に向かいます。
しかし、曹操側には天子がおり大義名分の立たない
戦いに突入することになります。
ぎょうを出発し許都へ向かうその距離約250km。
そのほぼ中間地点の黄河流域が主戦場です。
曹操軍は官渡を本陣とし準備万端持久戦の構えに対し、
袁紹は大軍をもって短期戦で対抗します。
緒戦、曹操軍が黄河流域の白馬を張遼と捕虜の関羽を先鋒に
荀ユウの策で奇襲をもって攻めて勝利します。
この時、捕虜の関羽が猛将顔良を討ち取ります。
この敗戦に激怒した袁紹が大軍を持って攻めにかかると
曹操はすぐに兵を官渡までさげて防戦に出ます。
ここでまたも荀ユウの策を採用した曹操は、
少数精鋭をもって文醜を討ち取ることに成功します。
演義では文醜も関羽が討ち取ったことになっています。
双璧二人を失った袁紹は兵力はありながらも動けず
緒戦から半年の月日が流れます。
200年8月、官渡で両軍は向かい合いますが
兵力差がものをいい、さすがの曹操も敗退します。
この時、曹操は兵力の3割近くを失う惨敗でした。
曹操は敗戦をみとめ許都へ戻ろうとしますが
この地に留まるように軍師荀イクが提言し曹操も
思いとどまります。
このタイミングで袁紹の軍師許ユウが
兵力を分散させて別働隊として許都をせめるように進言しますが
袁紹は取り上げず兵力に物を言わせた戦いに固執します。
しかし、時間がたつにつれ袁紹もその策を実行に移すことにします。
曹操に敗れ袁紹の元に身を寄せていた劉備が
別働隊として曹操の後方より迂回して許都へ向かいますが、
曹仁の前に敗退。劉備は早々に戦場をさってしまいます。
長引く攻城戦の中、曹操が奇襲にでて袁紹の輸送隊を襲い、
袁紹軍に大ダメージをあたえます。
その後、袁紹の軍師許ユウが袁紹を見限り投降します。
情報を得た曹操軍は烏ガンにある食料貯蔵庫を襲います。
このことを知った袁紹が最後の戦いに出ますがとき既に遅し、
淳于ケイを失い張コウ・高覧が投降、袁紹も敗走。
こうして官渡の戦いは曹操軍が勝利し、
ここに魏建国の礎を築くのでした。
最終更新:2011年01月14日 21:27