荊州争奪戦
219年
217年に緒戦に敗れたものの何とか踏ん張って漢中(かんちゅう)
の喉元である陽平関(ようへいかん)をとった劉備(りゅうび)軍
は、219年再び漢中に向けて侵攻を開始します。
劉備は法正(ほうせい)を軍師に漢水の上流を渡って移動し、定
軍山(ていぐんざん)の麓に陣を敷きます。漢中を守るのは張コウ
[合β](ちょうこう)と夏侯淵(かこうえん)です。
高地に陣取った老将黄中(こうちゅう)を出撃させ黄中の武力
と法正の策略をもって魏の大将夏侯淵(かこうえん)を誘き寄せて
討ち取ります。そしてその勢いのまま漢中の本拠地南鄭(なんてい)
を占領してしまいます。
曹操(そうそう)は漢中奪還のため自ら兵を率いて長安(ちょう
あん)を出発し、山脈を横断する難所をとおり漢中を見下ろせる盆
地に陣を敷きます。
劉備軍は劉備・張飛(ちょうひ)・趙雲(ちょううん)・黄忠、
参謀の諸葛亮(しょかつりょう)・法正といった主力がいましたが
あえて持久戦を選びました。
両軍の対峙は半年以上に及び難所を通ってきた曹操軍は補給に
苦 しみました。
進退窮まった曹操は“鶏肋[ケイロク](とりがらの意味)“とい
い、それを聞いた書記官の楊修(ようしゅう)は“とりがらを食べ
ようとしても肉はなく捨てるには惜しいが結局は捨てるもの”、
つまり“撤退”であると謎解きします。
その言葉のとおり、最終的に曹操は漢中奪還をあきらめ帰還します。
こうして漢中を征した劉備は二年前に“魏王”になった曹操に対
抗して”漢中王”の位についたのです。221年4月のことでした。
劉備はこの時、最大の領土を所有しついに天下三分のひとつの位
置を完全に占めるに至ります。蜀(劉備軍)にとってこの時、一番
充実した人材と国力であったといえるでしょう。
最終更新:2011年01月15日 10:10