街亭の戦い



[おもな登場人物]

 蜀(しょく)
  諸葛孔明(しょかつこうめい)
  劉備(りゅうび)、 劉禅(りゅうぜん):劉備の子
  張裔(ちょうえい)、蒋エン[王宛](しょうえん)
  趙雲(ちょううん)、魏延(ぎえん)
  馬良(ばりょう)、 馬謖(ばしょく)
  孟達(もうたつ)

 【五虎将軍(ごこしょうぐん)】
  関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・
  黄忠(こうちゅう)・趙雲(ちょううん)のこと

 魏(ぎ)
  司馬懿(しばい)、姜維(きょうい)
  夏侯楙(かこうぼう)、曹真(そうしん)

[おもな地名]

 夷陵(いりょう)、南方(なんぽう)
 成都(せいと)、 漢中(かんちゅう)
 子午谷(しごこく)、長安(ちょうあん)
 安定(あんてい)、安南(あんなん)
 天水(てんすい)、街亭(がいてい)

227年

蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい)は、
劉備(りゅうび)亡き後、夷陵(いりょう)の戦いで
の大敗による損失を、南方(なんぽう)の異民族平定の成功に
より国の建て直しに成功します。

これで蜀の大義名分である”漢(かん)王室復興”を実行すべく
魏(ぎ)に対して戦いを挑む準備が整いました。

諸葛孔明は自ら出兵するにあたり主君劉禅(りゅうぜん)に
対して、有名な名文”出師の表(すいしのひょう)”
を提出します。(前出師ともいわれます)

ここには孔明の劉備に対する恩義の気持ち、出兵への意気込み、
出兵して留守にする間の皇帝に対する戒めや
運用に関しての忠告が書かれていました。

孔明は成都(せいと)の守りと運営を
張裔(ちょうえい)と蒋エン[王宛](しょうえん)
に任せ成都を出発し魏との最前線である漢中(かんちゅう)
へ向かいます。

諸葛孔明はこの後、8年間もの長い間
成都に戻ることはありませんでした。

すでに五虎将軍(ごこしょうぐん)の4人は他界し、
有能な将といえるのは趙雲(ちょううん)と
魏延(ぎえん)しかいおらず、その他といえば
兄馬良(ばりょう)と共に参陣後、確実に実績を残し
頭角を現してきた諸葛亮孔明の愛弟子ともいうべき
馬謖(ばしょく)くらいでした。

227年夏

諸葛孔明はついに漢中より出陣します。

魏延は精鋭5千で最短の子午谷(しごこく)という道を
とおり、長安(ちょうあん)を最短コースで攻めることを
進言しますが受け入れられませんでした。
諸葛孔明は一か八かの道よりも遠回りながらも
確実に領土を広げながら進軍する道を選んだのです。

魏は夏侯楙(かこうぼう)が総大将として対抗しますが、
先鋒の趙雲が5人の将を討ち取るという活躍や
孔明の綿密な作戦の前に
安南(あんなん)も蜀軍が奪取します。
夏侯楙自身も蜀に捕らえられてしまいます。

魏延は不満ながらも諸葛孔明の指示に
したがい安定(あんてい)城を取り、また
天水(てんすい)を守備する若き名将 姜維(きょうい)の
キ[北異]城をとるのに一役買います。

姜維は一騎打ちをすれば趙雲を引かせるほどの
槍の名手であり、知将でもありました。
姜維の敵ながらもその高い能力に
諸葛孔明は惚れ込み、姜維を生け捕りとし
味方にすることに成功します。

後に彼は諸葛孔明の軍事的な後継者へと
なっていくこととなります。

次に魏は曹真(そうしん)を送り込みますが
趙雲・魏延の活躍もあり、
蜀に連戦連敗を喫してしまいます。

そこで最後の切り札として
魏は謹慎処分中である司馬懿(しばい)を召しだします。
孔明と馬謖は司馬懿の能力を恐れ、
戦いの直前に風評を流す策略により
彼を蟄居(謹慎処分)させる事に成功していたのでした。

その彼が出てくるとは蜀にとっては大きな
誤算だったことでしょう。
そしてこれにより戦局は一変します。

もともと蜀にいて魏に下っていた孟達(もうたつ)が
蜀の連勝に呼応して蜀に寝返りますが
任命されたばかりの司馬懿にすぐに鎮圧されてしまいます。

これを聞いた孔明は遠征中の蜀軍にとって要の地である
街亭(がいてい)の守備を固めさせます。
かならず司馬懿が攻めてくると考えたからです。

街亭を守る将として諸葛孔明は悩んだ末に
有能な後継者である馬謖を任命しました。

このことがのちに蜀にとって重大な
転換点となっていきます。

228年
諸葛孔明は馬謖に2万の兵を与え歴戦の将 王平(おうへい)を
副将につけて布陣させます。
また、そのとき孔明は馬謖に対して
”かの地は険しい山々が連なる場所であるが
山に布陣してはいけない。街道を固めよ”と指示していました。

また、東側には高翔(こうしょう)を
後方には魏延(ぎえん)をつけて布陣させます。

街亭に着いた馬謖(ばしょく)は少なからず兵法に
通じていただけに、 三方を絶壁の山であるこの場所をみて
敵が現れたと同時に山より駆け下りて戦う方法のほうが
有利であると判断しました。

これは孔明の指示とは違うということで王平が止めますが
制止を聞かず王平の5千の兵を残し、みな山上に布陣しました。

到着した魏の司馬懿はこの布陣をみるや
王平の軍を孤立させると共に
水源を断って麓を10万もの大軍で囲み兵糧攻めにでます。
そして火攻めも実行されます。

予想外の展開に馬謖は疲れきった兵をまとめ山より駆け下りて
戦う方法を夜に実行しますが伏兵にあい惨敗。
ここまで順調に進んでいた蜀軍の遠征も撤退を余儀なくされます。

今は亡き蜀の君主劉備(りゅうび)は遺言の一つに
”自信過剰にすぎるため馬謖は重要な任につけてはならない。”
と言い残していました。
劉備の心配は現実のものとなってしまいました。

漢中に戻った孔明は敗戦の責任者馬謖を軍規に照らして
非常に惜しみながらも処刑してしまいます。
有名な故事”泣いて馬謖を斬る”はこうして生まれます。

孔明も自らの官位を三階級落とすことで責任をとります。

228年、諸葛孔明率いる蜀軍の初めての魏への侵攻は
街亭での敗戦で失敗に終わりました。
最終更新:2011年01月15日 10:38