諸葛亮北伐
[勢力]
蜀(しょく) 魏(ぎ) 呉(ご)
[おもな登場人物]
蜀(しょく)
諸葛孔明(しょかつこうめい) 趙雲(ちょううん)
キン[革斤]詳(きんしょう) 陳式(ちんしょく)
魏(ぎ)
司馬懿(しばい) 曹休(そうきゅう)
カク昭(かくしょう) 王双(おうそう)
呉(ご)
陸遜(りくそん)
[おもな地名]
石亭(せきてい)
街亭(がいてい) 陳倉(ちんそう)
武都(ぶと) 陰平(いんぺい)
228年
諸葛孔明(しょかつこうめい)は呉の勝利の
報告を受けて再度魏への北伐を決意します。
しかし出兵を前にして訃報がもたらされます。
蜀の歴戦の勇にして最後の五虎将である
趙雲(ちょううん)が逝去します。
諸葛孔明は片腕の将軍が亡くなった事を大いに
嘆きます。
諸葛孔明は再度”出師の表”を書いて
戦いへの意気込みを述べます。
(後出師の表:存在しないとの説も有)
前回の戦いで蜀は北方の街亭(がいてい)付近を
完全に魏に奪われていました。
諸葛亮としては
前回 囮部隊として亡き趙雲が攻めた
陳倉(ちんそう)へ向かう陳倉道を
進むことを決定します。
魏にもこのことを先に予見して準備をしている
人物がいました。
第一次北伐で蜀を敗北に導いた男
司馬懿(しばい)です。
彼は事前に陳倉に突貫工事ながら強固な城を
作らせていました。(陳倉城)
また、攻城戦において守りには
弓弩が必須であるとの事からそこに弓の名手である
カク昭(かくしょう)を抜擢します。
いわば守りの達人を配置したわけです。
赴任した彼は堀を深くし、塁を高くし防備を高めます。
11月
孔明は迅速に数万の兵で陳倉城に迫り
城攻めにかかります。
陳倉城を守る兵は千人あまりしかなく、
また魏は先の呉との大敗で援軍をすぐに
出すこともままならない状況でした。
孔明はまず謀略戦に出ます。
カク昭の親友である蜀の将
キン[革斤]詳(きんしょう)
を遣わして降伏と帰順をときました。
しかし、カク昭は首を縦に振らず交渉は決裂。
諸葛亮は強硬手段をとるに至ります。
諸葛亮はこの戦いで新兵器といわれる
- はしご車の「雲梯(うんてい)」、
- 大矢倉の「井闌(いらん)」
- 破城のための「衝車(しょうしゃ)」
などを駆使して攻め立てます。
カク昭はこれらの兵器が木製であることを
みてとると、火矢や投石兵器などで応戦。
新兵器は無残にも燃えてしまいました。
蜀軍はただちにこの火に弱いという弱点を克服すべく
泥や糞尿を塗って防火対策を施した改良兵器で
攻めかかります。
しかし、20日あまりもの攻城戦にも関わらず
城は落ちませんでした。
孔明は補給の限界と敵の援軍の到来で
撤退をすることを決断します。
こうして、二度目の魏への侵攻は兵力の面では
勝る蜀がカク昭と強固な陳倉城の前に
敗れ去ることとなりました。
また魏の援軍が到着し追撃を行いますが
魏の期待の新鋭 王双(おうそう)が魏延(ぎえん)に
討ち取られるという大失態をおかし
魏は追撃を諦め撤退します。
229年春
孔明は陳式(ちんしょく)を派遣して国境の都市
武都(ぶと)と陰平(いんぺい)を奪い
部分的勝利を得ます。
しかし、
これらの地はあまり大勢に影響の無い地で
諸葛孔明率いる蜀は、結局のところ大きな
成果は得ることは出来ませんでしたが、
一矢報いたという形にはなりました。
230年
魏は度重なる蜀の諸葛孔明の遠征に対抗すべく
新たに大都督となった曹真(そうしん)の進言で
先手をとって本格的に蜀への侵攻を開始しようとします。
曹真は長安(ちょうあん)を出発し
斜谷道(やこくどう)から、
司馬懿(しばい)・張コウ儁乂は宛(えん)を
出発し子午道(しごどう)から、
ともに漢中(かんちゅう)を目指し侵攻を開始します。
(魏による第一次南伐)
両軍は漢中(かんちゅう)で合流する
予定となっていました。
これは魏が準備して攻撃に出た戦いであり
戦力は圧倒的に魏のほうが多く
蜀最大のピンチというべき事態でした。
しかし、運悪くこの時長雨が続き
降り止むことをせず、一ヶ月以上降り続きました。
そのため魏軍は進退ままならない状態がつづき
漢中に集合することができず、孤立状態となります。
この頃、蜀軍はというと
第一次北伐より諸葛孔明と魏延(ぎえん)が
長安への進軍ルートでの意見の相違から
二人の間には徐々に溝ができており
魏延は別働隊として独自の作戦行動を望んでいました。
そしてちょうどこの時、諸葛亮は魏延に望みどおりに
別働隊として西方の涼州(りょうしゅう)方面の
羌中(きょうちゅう)への侵攻をまかせていた所
だったのです。
(蜀による第三次北伐)
魏延はわずかな期間で羌中をみごとに奪い、凱旋の途中に
魏の侵攻部隊と遭遇します。
諸葛亮は援軍を率いて駆けつけ挟撃をし
費瑤(ひよう)と郭淮(かくわい)を破ります。
こうして孤立した各部隊を
蜀軍が各個撃破する作戦をとったことで、
浮き足立った魏軍は各地で敗戦を重ねる事となります。
それを聞いた魏の明帝(曹叡(そうえい))は
作戦中止命令をだします。
これにより、天候を味方につけた蜀の勝利となりました。
魏の南伐は失敗、蜀の北伐はある程度は成功。
しかし、魏延の素晴しい活躍はあったものの
第二次北伐時の武都・陰平攻略と同様に
戦略的にあまり重要でない涼州を奪ったところで
魏と蜀の戦力バランスはあまり変わることは
ありませんでした。
[勢力]
蜀(しょく) 魏(ぎ) 呉(ご) 鮮卑(せんぴ)
[おもな登場人物]
蜀(しょく)
諸葛孔明(しょかつこうめい)
魏延(ぎえん) 高翔(こうしょう)、
呉班(ごはん) 劉備(りゅうび)
魏(ぎ)
司馬懿(しばい) 郭淮(かくわい)
賈ク(かく) 魏平(ぎへい)
郭淮(かくわい)
張コウ儁乂(ちょうこうしゅんがい)
[おもな地名・場所]
長安(ちょうあん) キ山(きざん)
下弁(かべん) 漢中(かんちゅう)
天水(てんすい)
[位置関係地図]
│ ・天水 ・長安
│・キ山
・下弁└───────┐
<蜀> ・漢中 │
231年2月
諸葛亮は4度目の魏への戦いに挑むこととなります。
彼は過去三度の反省からかの有名な秘密兵器を生み出します。
「木牛(もくぎゅう)」「流馬(りゅうば)」と呼ばれる
輸送用の四輪車と一輪車です。
彼は兵糧補給の弱点を克服すべくこれらを開発しました。
(なお、諸葛亮はこのように戦略戦術だけでなく
防具・武具にいたるまで研究していたといわれています。
実際晋代における鎧は孔明の開発したものが
あまり進化せず使われていたといわれています。)
蜀の漢中(かんちゅう)から魏の長安(ちょうあん)へ
向かうコースは5つ。その中で諸葛亮は
今回の侵攻のコースを第一次北伐と同じ
関山道をとおる一番遠いルートを選択します。
下弁(かべん)からキ山(きざん)攻略を
目指します。<位置関係地図参照>
キ山では賈ク(かく)と魏平(ぎへい)が守る城を
包囲します。
また西方の異民族 鮮卑(せんぴ)からも援軍を
取り付けて、長安の北方よりかく乱のための攻撃を
させることに成功します。
魏の司令官は曹真(そうしん)亡き後
司馬懿(しばい)がついていました。
長安から司馬懿は準備を整えて出撃します。
諸葛亮は隊を城の包囲軍と司馬懿迎撃軍の2つにわけます。
魏の先遣部隊の郭淮(かくわい)をなんなく撃破。
その勢いのまま司馬懿の主力と当ろうとした矢先
司馬懿は軍を天水(てんすい)の城に立てこもり
持久戦にでました。
これにより兵糧・兵力共にある魏は蜀の攻勢を
押しとどめることに成功します。
また、鮮卑による蜀への援護攻撃は大きな成果を得るには
至りませんでした。
打って出てこない魏に対し遠征軍の蜀は兵糧のこともあり
一部撤退を余儀なくされます。
蜀の撤退に対し、魏では司馬懿の消極姿勢に不満が起こり
司馬懿の思惑とは別に追撃をせざる得なくなります。
231年春
ついに防衛一方の魏の主力が追撃に動き出します。
しかし、蜀の諸葛亮はそれを予期していたのか
冷静に動き、魏延(ぎえん)、高翔(こうしょう)、
呉班(ごはん)の精鋭部隊を当らせて
魏軍を完膚無きまでに打ち破ります。
この敗戦により司馬懿率いる魏軍は
完全な防御を固め持久戦を決め込むことしました。
当然将兵からも不満はおきませんでした。
持久戦が続き、遂に蜀の兵糧はそこをつき
木牛の効果もあまりでないまま補給が続かず
あえなく諸葛孔明は全軍撤退を決定します。
これをみた司馬懿はこれこそ追撃のチャンスと
歴戦の名将張コウ儁乂(ちょうこうしゅんがい)
に追撃命令をだします。
張コウは異論を唱えますが容れられずに
追撃を開始します。
(三国志演義では張コウ自らの意思で追撃します。)
当然これも諸葛亮の計算の内にあり
伏兵を用意していました。
張コウは伏兵の矢にあたり戦死します。
この時、張コウ50歳でした。
名将の死に魏軍は追撃をあきらめ
蜀軍は無事帰途につきます。
この撤退により4度目の北伐も過去同様に
蜀軍は優位に戦い進めながらも
あと一歩ならず悲願を達成できませんでした。
[勢力]
蜀(しょく) 魏(ぎ) 呉(ご)
[おもな登場人物]
蜀(しょく)
諸葛孔明(しょかつこうめい)
魏(ぎ)
曹叡(そうえい)
司馬懿(しばい)
呉(ご)
孫権(そんけん)
[おもな地名・場所]
泰嶺(しんれい)山脈
五丈原(ごじょうげん)
合肥新城(ごうひしんじょう)
[位置関係地図[簡易]]
<魏>
泰嶺山脈
────────┐
・漢中 │
<蜀> ├───────
│ <呉>
234年2月
総勢10万、蜀の諸葛亮は五度目の北伐を決行すること
なります。
ルートは真中から魏の領土へ向かうルートである斜谷道。
険しい泰嶺(しんれい)山脈を越えるルートでもある
この道を順調に進み無事通り抜けます。
そして平地である五丈原(ごじょうげん)に布陣しました。
当然補給の面でこの泰嶺山脈を超えて物資を送り続ける事は
困難であることは諸葛亮も計算していました。
まず、第四次北伐の時に使った木牛に加え
新兵器 流馬(りゅうば)を使い輸送手段を確保すると
共に、五丈原において農作を行いその場での
食料調達の準備も行いました。
これは長期戦に備えての事でした。
魏も30万の軍を用意して
司馬懿を司令官として送り込みます。
司馬懿は長安と五丈原の間に布陣し、砦を築きました。
魏もまた長期戦を考えていました。
司馬懿には皇帝曹叡(そうえい)からも
”堅く守るのみで攻めてはいけない”との命令が
でていました。
過去4度の蜀に対する敗退で
魏は完全に守りに徹する策を選んだのでした。
両軍はにらみあったまま
ほとんど動かず小競り合いがおきる程度。
諸葛亮も魏の出撃を誘い出すさまざまな
行動に出ますが魏は応じずません。
相手の動きに対して虚を突く軍事行動を起こすことが
得意な諸葛孔明としては
危険をおかして敵軍に対して突撃することは
出来ませんでした。
この戦いでの敗退は軍事力の小さい蜀にとって
即、蜀の滅亡に繋がりかねないのです。
234年5月
そんなおり、前回のお話である
呉(ご)と魏の戦い[合肥新城での戦い]がおきます。
蜀と同盟関係にある三国の一つ
孫権(そんけん)率いる呉が魏へ攻め込みます。
しかし呉は惨敗し撤退。合肥新城での戦いは
魏と蜀の戦いにたいした変化をもたらすことなく
幕を閉じます。
234年9月
蜀と魏が睨み合う事100日以上
秋の風が吹き冬の足音が聞こえようかとする時期。
変化は突然訪れます。
激務がたたった諸葛亮は突然倒れてしまいます。
234年10月
諸葛亮は床に伏したまま
帰らぬ人となってしまいました。
ただ、諸葛亮の死の際には
今後の軍事行動や方針、後継者など遺言されており、
蜀は整然と撤退を始めます。
諸葛亮の死を知った司馬懿も追撃を行いますが
突然の蜀の反転・反撃具合に
まだ諸葛孔明は死んでいないのではと考え
追撃を中止し撤退しました。
これが後に
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という
名言となって残りました。
時に、孔明54歳。
遂に劉備以来の蜀の悲願である魏の討伐は
諸葛孔明の死を持って一時終わりを迎えました。
三国志の時代も新たな世代へと
物語はうつっていきます
最終更新:2011年01月15日 10:57