魏対呉蜀連合戦



[勢力]
魏(ぎ) 呉(ご) 蜀(しょく)

[おもな登場人物]
魏(ぎ)
曹叡(そうえい) 曹芳(そうほう)
司馬懿(しばい)
呉(ご)
孫権(そんけん) 全[王宗](ぜんそう)
諸葛瑾(しょかつきん)孫登(そんとう)
諸葛恪(しょかつかく)
朱然(しゅぜん)
蜀(しょく)
蒋[王宛](しょうえん)
諸葛孔明(しょかつこうめい)

[おもな地名・場所]
合肥(がっぴ) 淮南(わいなん)
柤中(そちゅう) 六安(りくあん)
樊(はん)

[位置関係地図[簡易]]
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    <魏>

─────┌──×─────
     │
 <蜀> │ <呉>
     │

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239年1月

魏(ぎ)の第二代皇帝曹叡(そうえい)
(曹操(そうそう)の孫)が
36歳という若さでこの世を去ります。
幼少の曹芳(そうほう)が第三代皇帝となります。

ここに来て魏の皇帝が亡くなったことで
魏呉蜀(ぎごしょく)三国の間にまたも
紛争の火が起こります。

最初に動いたのは呉でした。
呉は234年237年と曹叡の統治時代に魏へ攻め込みましたが
いずれも失敗。

曹叡が無くなり皇帝は幼く政権が不安定になったところを
一気に叩くと言うのがその目論見でした。

241年4月

孫権(そんけん)は全[王宗](ぜんそう)を派遣して
合肥(がっぴ)の北方の淮南(わいなん)を攻めます。
諸葛瑾(しょかつきん)は柤中(そちゅう)へ。
諸葛恪(しょかつかく)は六安(りくあん)へ
朱然(しゅぜん)は樊(はん)へ侵攻。

全[王宗]は魏の食料庫を焼き払い
諸葛瑾は、柤中を占領します。

魏は淮南の全[王宗]軍にたいして
王リョウ(おうりょう)を派遣
両軍は芍陂(しゃくひ)で会戦、ここで
呉は十余人の将が戦死、大敗北を喫します。

司馬懿は樊へ出征しそこで朱然軍と戦いそれを撃破します。

また、諸葛瑾と呉の皇太子孫登(そんとう)
(孫権の子供)が病で亡くなり、呉は大きな戦果もないまま
撤退します。
孫登は33歳という若さでした。
彼は大器といわれ未来を嘱望されていた人物でした。

蜀はというと
呉の攻撃に応じて攻め込むため諸葛亮亡き後を託された
蒋[王宛](しょうえん)はかなり前から水軍を持って水路で
魏へ攻め込むという奇策を準備していました。

これは諸葛亮を持ってしても
山越えの魏への侵攻は難しいということから
考え出された作戦といわれています。

しかし、いざ出陣というときに蒋[王宛]が病気になり
戦さどころではなくなります。
また領内での攻撃に対する反対論も起こり始め
結局攻め込むことはありませんでした。

蒋[王宛]としては諸葛亮の後継者として名を残すことが
できたかもしれない戦いへ赴くことも出来ぬまま。
4年後に亡くなります。

またしても呉が敗れたことで
魏の優位が続く状況が今後も続いていく事となりました。
最終更新:2011年01月15日 11:01