魏呉対戦



[勢力]
呉(ご) 魏(ぎ)

[おもな登場人物]

呉(ご)
孫権(そんけん)、孫亮(そんりょう)
諸葛恪(しょかつかく)、丁奉(ていほう)
蔡林(さいりん)、孫峻(そんしゅん)

魏(ぎ)
王昶(おうちょう)母丘倹(かきゅうけん)
胡遵(こじゅん)

[おもな地名・場所]

東関、合肥新城(がっぴしんじょう)
合肥(がっぴ)、巣湖(そうこ)


252年4月
呉の皇帝である孫権が他界します。享年71歳でした。
肺炎であったといわれています。

呉は孫亮(そんりょう)が二代皇帝になり、
諸葛瑾(諸葛亮の兄)の子
諸葛恪(しょかつかく)が後見役となります。

252年12月
250年同様、呉の国内情勢に漬け込んで魏が動きます。

魏では
王昶(おうちょう)、胡遵(こじゅん)、
母丘倹(かきゅうけん)、諸葛誕(しょかつたん)らが
呉遠征部隊を任命され兵7万をもって
呉の東興、南郡、武昌へ侵攻を始めます。

雪が振る冬の出陣でした。

呉では250年ほどの準備不足ということはなく
ただちに対応し
諸葛恪(しょかつかく)自ら4万を率いて出兵。

呉の動きは早く合肥(がっぴ)近くの巣湖(そうこ)近くで
丁奉(ていほう)らを先鋒として奇襲をしかけます。

あまりの速攻に警戒していなかった
魏はなんの準備もおこなっておらず軽装でした。

結果、数の上では勝る魏軍はなにもしないまま
胡遵、諸葛誕らはやぶれ
魏は大きな損失を出して撤退することになります。

これにより諸葛恪は大いに名を上げます。

253年5月

魏の撃退に成功した諸葛恪を将とする呉は逆襲に転じます。

20万の兵を擁して合肥新城(がっぴしんじょう)
へ攻め込みました。

内部からの反対と共に準備不足で補給面に不安を
抱えながらの出兵でした。

はじめ前年の勝利に気を良くした呉軍でしたが
合肥新城の守りは非常に堅く
初夏の戦いとあって
呉の兵は生水にあたり病人が続出します。

そんな中、諸葛恪の強硬姿勢はかわらず
呉内部に反発を招きます。

ついに将の一人
蔡林(さいりん)が魏に寝返るという事態が発生。

蔡林から呉軍の状況を伝えられた
魏は攻めに転じます。
それにより呉は惨敗。

なおも諸葛恪は撤退せず留まって戦ったため
必要以上に多数の犠牲がでました。

253年10月
この戦いでの敗北と諸葛恪の強硬姿勢は
呉内で大きな反感をかいます。

諸葛恪は宴会のさなか
皇帝孫亮の承認の元、孫峻(そんしゅん)に暗殺されます。

この魏との二つの戦いは彼にとって
まさに天国と地獄の戦いとなりました。
最終更新:2011年01月15日 11:11