蜀侵攻戦



[勢力]
魏(ぎ) 蜀(しょく)

[おもな登場人物]

蜀(しょく)
姜維(きょうい)   劉禅(りゅうぜん)
諸葛瞻(しょかつせん)張遵(ちょうじゅん)
傅僉(ふせん)

魏(ぎ)
 トウ艾(とうがい)  鍾会(しょうかい)
 諸葛緒(しょかつしょ)

[おもな地名・場所]

 祁山(きざん)  剣閣(けんかく)
 長安(ちょうあん)漢中(かんちゅう)
 成都(せいと)  沓中(とうちゅう)
 綿竹(めんちく)

[おもな地理的位置関係]

 沓中・   ・祁山  ・長安
 陰平・       ・漢中
   剣閣・
 ・綿竹 
  • 成都

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263年8月

蜀(しょく)の軍事指導者
姜維(きょうい)の度重なる魏への北伐は
結果を出せぬまま前線の
沓中(とうちゅう)で戦い続けていました。

首都成都(せいと)では皇帝劉禅(りゅうぜん)が
宦官(かんがん)たちの言葉に惑わされ情勢判断が
出来なくなっていました。

そんな中
魏が大軍をもって蜀を攻める新たな計画を
立てます。

それは前線にいる強敵姜維を
トウ艾(とうがい)がひき付けている間に
長安(ちょうあん)・祁山(きざん)にいる
鍾会(しょうかい)・諸葛緒(しょかつしょ)が
漢中(かんちゅう)を通り
成都(せいと)を衝こうというものでした。

劉備(りゅうび)平定以来
漢中には守備に十分な数の常備軍がいました。
しかし姜維が北伐のため前線の穴埋めのために
駐屯兵を減らしていました。

そのため漢中をまもる傅僉(ふせん)が
奮戦しますが見方の裏切りなどもあり
結果的にいともたやすく抜かれてしまいます。

ですが姜維もただものではありません。
魏の動きを察知すると蜀へ守備を固めるよう
にとの知らせを送ると共に
直ちに自らも蜀への帰国するように動きます。

蜀では魏侵攻の知らせは
宦官(かんがん)たちに握りつぶされ
臣下達にぎりぎりまで知らされる事は
ありませんでした。

姜維は魏の追撃に損害をうけながらも
諸葛緒が封鎖する帰路を巧みな用兵で
切り抜けると漢中と蜀の間にある
剣閣(けんかく)に立てこもります。

ここで3ヶ月あまり鍾会の大軍の進撃を防ぎました。
これにはさすがの鍾会も諦めて撤退しようとしたほどです。

しかしその間に
トウ艾による極秘作戦が開始されます。

沓中にいたトウ艾は陰平を通り
姜維が守る剣閣を通らないで険しい山道をこえて
蜀内部へ入り込もうと考えたのです。

10月
トウ艾は蜀に察知されることなく
険しい道のりを山に道を通し谷に橋を架けて
苦労しながら蜀内部へ入ることに成功します。

突如の魏の出現に降伏するものも多数。

諸葛亮(しょかつりょう)の子の
諸葛瞻(しょかつせん)と
張飛(ちょうひ)の孫の張遵(ちょうじゅん)は
成都の手前の綿竹(めんちく)でトウ艾と対峙します。
しかしトウ艾の強さにはかなわず共に戦死。

魏の侵攻を聞いた蜀では会議を行い無血開城で
降伏することで一致。

263年11月
ついに蜀は降伏。
こうして蜀は滅亡することとなりました。

剣閣に立てこもり士気の高い姜維は寝耳に水。
降伏をきき劉禅から武装解除と投降の命令が届きます。

ようやくことの全貌を知った
姜維は降伏します。

しかしまだこれで
姜維の戦いは終わったわけでは
ありませんでした。
最終更新:2011年01月15日 11:19