鍾会・姜維クーデター



[勢力]
魏(ぎ) 蜀(しょく)

[おもな登場人物]

旧蜀(しょく)
 姜維(きょうい)   劉禅(りゅうぜん)
 張翼(ちょうよく)  劉セン(りゅうせん)

魏(ぎ)
 トウ艾(とうがい)  鍾会(しょうかい)
 司馬昭(しばしょう) 胡烈(これつ)
 衛カン(えいかん)

[おもな地名・場所]

 長安(ちょうあん)洛陽(らくよう)
 成都(せいと) 

[おもな地理的位置関係]

   ・長安  ・洛陽

  • 成都

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263年11月

劉備(りゅうび)の興した蜀(しょく)は
魏(ぎ)の侵攻により降伏。
ついに建国約50年で滅亡することとなりました。

蜀の軍事的指導者
姜維(きょうい)も奮戦しますが
君主劉禅(りゅうぜん)の勧めもあり降伏します。

降伏後の姜維は
蜀攻略のNO.2の鍾会(しょうかい)と接触します。

鍾会は以前より独立心や野心がつよく
それを姜維は知っていたのかもしれません。
鍾会は姜維を右腕になる人物として厚遇し
姜維もあえてそれにこたえました。

蜀攻略の功績の第一人者である
トウ艾(とうがい)は
戦後の処理で蜀の将兵に寛大な処置を行います。

また
劉禅親子や帰順者に温情を与えて蜀の国力を回復してから
呉へ攻略すべきである旨を本国に上奏したり
少し過ぎたる行為がみられるものの
名将ぶりを発揮します。

しかし、このことが
蜀を基盤に魏を攻め天下を狙いたい
鍾会にとって目の上のたんこぶの存在である
トウ艾を追いやる絶好の口実となりました。
(トウ艾の上奏文は鍾会が偽装したともいわれます。)

鍾会はトウ艾が
「実は反逆を計画しておりそのため蜀の内政を整えている」
と本国の司馬昭に進言したのです。

その進言でトウ艾は理由を知らされぬまま
逮捕されて洛陽へ送還されます。

邪魔者がいなくなった鍾会は成都にいて
落ち着いて兵を整えてから反逆を実行するつもりでした。

しかし、司馬昭(しばしょう)がトウ艾を召還するために
10万の兵を率いて長安へ移動すると言う知らせが入ります。

264年1月15日

司馬昭が自分の計画を知り動いたのではないかと考えた
鍾会は直ちに反乱の決行を決断します。

姜維は鍾会の反乱を利用して
鍾会が魏を倒した後、彼を殺して蜀の再興を狙っていました。
そのため鍾会の行動に同調し、旧蜀軍を率いて別働隊として
出撃することとなっていました。

鍾会は得意の偽書の作成の技を使い偽勅を作り
司馬昭討伐を宣言し、魏の幹部を皆幽閉します。

捕らえられた中のひとり胡烈(これつ)が機転を利かせて
密かに外部と連絡をとり
「鍾会は兵士を穴埋めにして殺すつもりである」と
風潮して回らせました。
その話しはすぐに伝わり鍾会に従わないものが続出。

出陣前の鍾会と姜維は襲われ共に殺害されます。
鍾会40歳、姜維63歳でした。

その際、蜀の老将張翼(ちょうよく)や
皇太子劉セン(りゅうせん)なども共に殺されました。

その後、トウ艾の配下が護送される途中のトウ艾を救出します。

安堵したのも束の間、
鍾会の指示でトウ艾を捕らえてしまった衛カン(えいかん)が
もし、トウ艾が戻ってきたらどんな目に遭わされるか
わからないとおびえ、刺客を送り込みます。

そうとは知らないトウ艾一行は
蜀へ帰還する途中、刺客により殺害されてしまったのです。

こうして蜀を滅ぼした名将トウ艾と鍾会、
そして蜀の最後の名将姜維ともに亡くなるという
前代未聞の収束をみたのでした。
最終更新:2011年01月15日 11:30