呉晋戦争
[勢力]
晋(しん) 呉(ご)
[おもな登場人物]
晋(しん)
司馬昭(しばしょう) 司馬炎(しばえん)
呉(ご)
孫休(そんきゅう) 孫晧(そんこう)
諸葛セイ(しょかつせい)
丁奉(ていほう)
旧 魏(ぎ)
曹奐(そうかん)
[おもな地名・場所]
建業(けんぎょう) 武昌(ぶしょう)
交趾(こうし・こうち) 永安(えいあん)
東関(とうかん) 合肥(がっぴ)
顕明宮(照明宮)
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265年8月
蜀(しょく)を滅ぼし絶頂の中にあった
司馬昭(しばしょう)が病で亡くなります。
その子司馬炎(しばえん)があとを継ぎます。
反抗する勢力はすでに司馬昭の時代にことごとく
潰されており司馬炎の代になっても司馬一族の全盛は
揺るぎませんでした。
265年12月
司馬炎は魏の皇帝曹奐(そうかん)より
皇帝の座を禅譲され
遂に新たな国家 晋(しん)が誕生します。
まさにこの時、魏が滅んだ瞬間でした。
こうして、魏呉の時代から晋呉という
2つの国の時代となったのでした。
その頃、呉では晋誕生の1年前に
皇帝孫休(そんきゅう)が亡くなり
孫晧(そんこう)が新帝になります。
ちょうど晋が成立したころ
呉では突如、理由も明確にしないまま
孫晧が建業(けんぎょう)から
武昌(ぶしょう)へ遷都を強行します。
また孫晧は数々の人材を誅殺し、また一方で
顕明宮(照明宮)という宮殿作りを行い
呉の財政を圧迫させる乱心ぶりを見せはじめます。
266年
人心はおさまらず
永安(えいあん)では反乱がおきて
大軍で建業へ侵攻してくる有り様。
諸葛誕(しょかつたん)の子
諸葛セイ(しょかつせい)の活躍で
なんとか鎮圧に成功します。
268年10月
そんな状況で呉の孫晧は
無謀ともいうべき晋への大規模な侵攻を開始します。
自らは国境の要所である東関(とうかん)から、
別ルートからは合肥(がっぴ)へ
歴戦の雄 丁奉(ていほう)が、
交趾(こうし・こうち)からもそれぞれ攻め入ります。
名将丁奉は一計を案じて
敵将石苞(せきほう)を陥れる偽書を送り
石苞を前線から離れさせることに成功します。
しかし攻め入った穀陽(こくよう)は
すでに[もぬけのから]で
得るものがありませんでした。
丁奉の計略の成功は大勢に影響せず
また当然のごとく孫晧の読みは甘く
きちんと準備をしていた晋に撃退され
早々に撤退することとなりました。
この後、頼みの老将丁奉も病で亡くなります。
こうして
呉の国力は確実に低下していきました。
最終更新:2011年01月15日 11:33