アットウィキロゴ
【BGM】


『聖リゲンショーの吸血女』:1947、アメリカ

将来のバレエ学校入学を控え、全寮制の聖リゲンショー女学院に転入した14歳のクリスト・ファーリー。
彼女は不安の中で、ブロンド髪の美しい少女ポーラ・ロマンスキーと親友になり、平穏な学校生活を送り始める。
しかし、その静寂は生徒たちの相次ぐ変死によって破られた。
犠牲者たちの胸と太腿には吸血の痕跡があり、生徒たちは学校裏にあるドラキュラ屋敷になぞらえ、「ブラム・ストーカー《追血者》」の仕業だと噂し合う。

学校側が保身のために事件を隠蔽する中、探偵を気取る迷走気味の生徒ペーター・カッミングとその助手ベラ・ヘルシングは、新参者のクリストを犯人と決めつけ追い詰めていく。
孤立するクリストを救ったのはポーラであり、二人の関係はいつしか友情を超えた深い依存関係、そして愛へと変わっていった。
連続殺人により学校が混乱に陥る中、ついに学校側は「満月の夜はルームメイト同士を手錠で繋いで就寝すること」を命じる。
運命の夜、クリストとポーラは初めての接吻を交わす。

一方、クラスから疎外されていたペーターとベラは、アガサ・クリスティの小説から「犯人はクラスメイト全員である」という奇妙な真理に到達する。
一連の事件は学級新聞を盛り上げるための模倣犯と推理の上で、彼らは次なる犠牲者をメリー・クリスティと予測し、監視を続行。
まどろみの中でペーターが象の夢を見ていたその時、発光する眼光と共に犯人が姿を現した。
ベラの打撃によって正体を現したのは、瞳孔を緋色に染めたポーラであった。
ポーラは正体を現すとコウモリに姿を変えて逃走を試みるが、ペーターが提示した「下手くそな十字架の絵」に足を止められる。
クラスメイトたちは当初、ペーターらの行為をいじめだと糾弾するが、追い詰められたポーラは冷徹な本性を現し、コウモリの群れで部屋を封鎖。
「お母さんが悲しむぞ」とペーターの声には「もういねぇよバカ」と返し、「こんなことしても意味ない」との正論には「殺せば腹いせになる」と、全員の殺害を宣言する。

ポーラは自らがドラキュラの末裔であること、少女の血、特に胸の血の味に抗えない渇望を抱いていたことを涙ながらに告白する。
そこへ、騒動を知らないクリストが姿を現す。
ポーラはクリストに対し、「私は、誰よりもあなたを殺し、誰よりもその美しい血を味わいたかった」「衝動も、渇きも、すべてがあなたへ向かっていた」「でもそれでも。できなかった」と、愛と食欲の狭間で揺れた苦悩を吐露する。
「こんな私といてくれて、ありがとう」
ポーラが繰り返した言葉は、怪物としての謝罪ではなく、一人の少女としての純粋な感謝であった。

最期にポーラは、「自首して解決だと思ってるのか」「自殺こそが美学」と無神経な言動を繰り返すペーターの頬を切り裂くと、クリストを抱きしめた後、自ら持っていた十字架を喉に突き立てて自決する。
静まり返る一室で、クリストは言葉を失ったまま、息絶えていく親友を看取るのだった。
事件後、かつて恐れられたドラキュラ屋敷の前には、毎月欠かさず誰かによって花束が手向けられるようになった…。


監督はファルケン・ボーグ、原作はブラム・ストーン、脚本はベロ・グロシ、企画はトム・クローズ&ブラッド・ピンコ、プロデューサーはロン・チィエニー、撮影はオメガ・マン、美術はキャッスル・ヴァニア、照明はドクター・カリガリ、編集はトッド・B・ラウニング、特技監督はキシダ・モリ、プロデューサー補はキューケツキ・スグ・シヌ、音楽はバーナード・ハーマン、音楽プロデューサーはセラス・ヴィクトリア。
出演はエルザ・ランチェスター、アリシア・カローネ、テレサ・バンディア、ジョアンナ・ゲイジ、シャルロッテ・マンサー、ジェフリナ・ダマー、リカルダ・ラミレス、ボニータ・パーカー、クレア・バロウ、ウィニフレッド・バルジャー、ジョアン・デリンジャー、サマンサ・ジアンカーナ、ケリー・マシーナ、アイリス・ウォーノス、デニース・レイダー、ヘレナ・ホームズ、ジェーン・アールレイ、エリカ・ハリス、ディラナ・クレボルド、ベルナデット・マドフ、フランチェスカ・ルーカスら。



ブラム・ストーンによる『ヴァンパイア・ラヴァーズ』を実写化した、ハマー・フィルム・プロダクションの同性愛主軸映画。
一般には1970年公開の同名作が広く知られているが、本作はそれに先駆けて製作された、いわば原点的存在にあたる。
監督は『飛んででろでろ』『ユウヤミ特攻隊』など、怪奇映画の巨匠ファルケン・ボーグ。
脚本はこれが唯一作のベロ・グロシ。
ポーラをエルザ・ランチェスター、クリストをアリシア・カローネ、ペーターをテレサ・バンディア、ベラをジョアンナ・ゲイジ、リーリアをシャルロッテ・マンサー、アルロッテをリカルダ・ラミレス、ファンボをクレア・バロウ、また端役として当時は無名だったブリジット・バルドーがホルヘスを演じている。
なお、ポーラ役は当初、監督の娘が演じる予定だったという。
しかし「死ぬ役は嫌だ」という、思春期特有としか言いようのない理由であっさり降板。
その代役として抜擢されたのが、監督が偶然立ち寄ったハンバーガー店で働いていたエルザ・ランチェスターだった。
彼女が気の毒でならない。

多くの観客や評論が本作品を絶賛し、高く評価していることは知っている。
あのマリオ・ハーヴェは本作を見て映画を志し、結果として数多くの映画作家に影響を与えた、いわばゴシック・ホラーの原典的存在であることも、十分理解しているつもりだ。
だが、私はどうしても、この映画を好きになれない。
別に、私がひねくれ者だからだとか、現代の感覚で見れば古臭くて退屈だからだとか、そういう話ではない。
当時の同時代作品と比較しても、出来が明らかに見劣りする、というだけの話である。
というか当時のアメリカ国民って、よくこんな映画を興行収入1位にまでできたよな。
戦後のアメリカはよほど娯楽に乏しい国だったんだろうなあ。

まず一番の問題点として、冗長が多すぎることだ。
ペーターとベラはいわゆるコメディリリーフで、そもそも「この手の作品にそんな役必要なのか?」という疑問が湧くが、コイツらの出番があまりにも多すぎるんだよね。
なんだよ。総登場時間50分って。上映時間の半分以上じゃねえか。
確かに、小津安二郎やクエンティン・タランティーノのように、無駄話の積み重ねで映画を成立させる作家は存在する。
しかし、それは会話そのものが作品の呼吸やリズムとして機能しているからであって、本作のそれとはまるで事情が違う。
こいつらの場合、単に邪魔なだけだ。
「目玉焼きにはソース・ソイ!」「普通だね。私はみりんかけるよ」など、しょうもない会話で尺を稼ぐなんてアホかと。
比較的まともなベラはともかく、ペーターに至っては軽薄で不快な発言ばかりするのだからどうしようもない。
無駄な会話で観客を不愉快にさせるってどういう意図なんだよ。

一応、スリラー映画(といっても犯人はバレバレだが)のため、随所にミスリードが仕掛けられている。
例えばクリストが鏡に自答して「私は多重人格なの?」と犯人語り手説を匂わせたり、「悪い奴らは大体トモダチ」ならぬ「出て来る奴らは大体アヤシゲ」とばかりに、登場する連中はことごとく胡散臭く見えるよう演出されている。
中でも、とりわけ怪しさムンムンなのは担任教師のアルロッテだ。
彼女が登場するとBGMは露骨に不穏になり、ドアに挟んだ黒板消しが先生の頭に落ちるという単なるイタズラのシーンを、まるでホラーのように見せてくる。
さらに意味もなく、暗い部屋で高笑いするアルロッテのカットインが何度も挿入される念の入れようである。
そんなオーメンの乳母ばりのアルロッテ先生は、後半以降、まるで監督が変わったかのように存在感をなくす。
そもそも言ってしまえばコイツは事件とは何ら無関係なのだ。
すごいよね。この露骨な尺稼ぎ。

私はこの映画を内藤瑛亮監督の「ミスミソウ」の原典と捉えている。
その意味合いは単純で、警察が不自然なほど介入しないという点だ。
一応「理事長が脱税発覚を恐れているから」というめちゃくちゃな説明はされているが、そんなので納得できるはずないでしょ。
「責任を負いたくなかった」なんて着地点は二重の意味で最低だ。

完全ネタバレだが、犯人はポーラだ。
終盤、ポーラがコウモリに変わり、虐殺を示唆する場面では、音声が途切れてG線上のアリアが流れる。
緊迫した場面で場違いなBGMが流れる手法はエヴァンゲリオンでも模倣されたけど、本作の場合、そんな洒落た意図があったわけではない。
単に編集上のトラブルで音声が消え、慌てて手近なクラシック音楽を差し込んだだけらしい。
急造のクズ判断が、結果として妙な高貴さを醸し出してしまうのだから、なんとも皮肉な話である。

で、ポーラが涙ながらに全てを告白し、自らの両手をペーターに差し出すんだけど、そのときの返しが「死ななきゃ意味ないよ」。
だからこのクソ女にスポット浴びせ続ける意味はなんなんだよ。
ポーラは優しいから頬に傷つけるだけという「吉原炎上」めいた温い制裁で終わらせたけど、普通は殺されても文句は言えないんだぞ。
で、そのクソ女の泣き声をヴァイオリンの甲高い音で表現するセンスはなんなんだ。
もはや「聖リゲンショーのキチガイ女」に改題したほうがいいくらいじゃねえか。
最後まで全く成長せず、そのくせ無駄なエナジーを発揮するのだからもうアホかと。
ちなみに原作者、この映画を見て「原作を全く理解していない」と激怒し、裁判まで起こしたらしい。
その義憤自体はもっともだと思うが、訴えの具体的内容が「ペーターたちの会話をカットしすぎている」だってさ。
こいつも相当イカれていたようだ。

なお、作中の学校の至るところには、カリガリ博士やノスフェラトゥといった古典映画のポスターがベタベタと貼られている。
監督の弁によれば、これらは「スポンサー」だそうだ。
無断でポスターを使用した挙げ句、金まで取ろうとする発想は、原作者に負けず劣らずのクズっぷりだな。
(ちなみにポスター、どれもこれもボロボロである)

さて、ここまで散々文句を言ってきたが、ポーラ役のエルザ・ランチェスターの演技は抜群に素晴らしい。
眼力ひとつで観る者を震え上がらせる一方、普段は快活で無邪気な少女を自然に演じ分けている。
青春映画としての儚さ、クリストに向けられた抑えきれない感情を全身で表現しており、その二面性は、同時代の女優の中でも群を抜いていたと言っていい。
また、脚本も構成もポンコツのアンコが詰まったあっぱらぱーであるが、演出面はかなり秀でていた。
腐りきった土壌からでも、可憐な花が咲いてしまうことはある、という実例のような作品であるのだ。
まあエルザもトッド・B・ラウニングもこの映画を最後にパっとしなくなったから、腐ったんだけどね。


(観賞日:2019年2月31日)





最終更新:2026年01月12日 04:34