唐書巻二百二十二下
列伝第一百四十七下
南蛮下
環王 盤盤 扶南 真臘 訶陵 投和 瞻博 室利仏逝 名蔑 単単 驃 両爨蛮 南平獠 西原蛮
環王(チャンパー)、もとは林邑であり、あるいは占不労といい、または占婆という。交州の南にあたり、海行すること三千里である。地は東西は三百里と狭く、南北は千里ある。西に真臘の霧温山を隔て、南は奔浪陀州(パーンドゥランガ)にあたる。その南は大浦で、五つの銅柱があり、山形で傘のようであり、西は険峻が重なり、東は海にはて、漢の馬援が建てたものである。また西に屠夷がおり、思うに馬援が帰還したが、留って去らなかったが、わずかに十戸、隋末に増えて三百戸となり、みな馬を姓としたから、俗にその寓をもって、「馬留人」と号し、林邑と唐の南境を分けた。その地は冬温かく、霧や雨が多く、琥珀・猩猩・九官鳥を産した。二月を年始とし、稲は一年に二度収穫できた。檳榔(ビンロウ)を採って酒とし、椰子の葉を席とした。習俗は凶悍で、戦闘を果たし、麝香を身に塗り、日に塗ってはまた乾かし、拝謁は爪を合わせて屈を膝して拝した。文字があり、浮屠道(仏教)を喜び、金銀の像を鋳造し、大きさはある物は十囲にもなった。王を陽蒲逋といい、王の妻を陀陽阿熊といい、太子は阿長逋、宰相は婆漫地といった。王の居るところを占城(チャンパープラ)で、別に斉国といい、また蓬皮勢といった。王は綿布を着て、古貝を斜めに臂に絡め、金の玉飾りをまとい、髮をまげがみとし、金の花を冠に戴き冠のようにした。妻の服は朝の霞のようにすけており、古貝は裙(スカート)に短くつけ、冠をまとうことは王のようであった。王の衛兵は五千で、戦いに際しては象に乗り、藤を鎧とし、竹を弓矢とし、象千・馬四百を率いて前後に分けた。刑罰は設けず、有罪の者は象に踏み殺させた。または不労山に送り、賜死とした。
隋の仁寿年間(601-604)、将軍の劉芳を遣わしてこれを討伐したが、その王の范梵志(シャンブヴァルマン)は退却し、その地を三郡とし、守令を置いた。道は阻んで通行することができず、范梵志は遺衆を集めて、別に国邑を建てた。武徳年間(618-626)、再び使を遣わして方物を献上し、高祖は九部の楽を設けて饗宴した。貞観年間(627-649)、王の范頭黎(カンダルパダルマ)は飼象・金鎖・五色の帯・朝霞布・火珠を献上し、婆利・羅刹の二国の使者とともに来た。林邑はその言は無礼で、群臣は罪に問うことを請うたが、太宗は「昔、苻堅は晋を併合しようとして、軍衆百万を一戦にて滅ぼしてしまった。隋は高麗を奪取しようとして、毎年徴発したが、人民は怨み、そのため匹夫の手にかかって死んだ。朕はあえてみだりに出兵の議をすべきなのか?」と言い、赦して不問とした。また五色の鸚鵡・白い鸚鵡を献上したが、しばしば寒いと訴えたから、詔があって帰還させた。范頭黎が死ぬと、子の范鎮龍(プラバーサダルマ)が即位し、通天犀(水犀)・雑宝を献上した。貞観十九年(645)、摩訶慢多伽独(マハー・マントラディクルタ)は范鎮龍を弑殺し、その宗族を滅ぼした。范姓は絶えたが、国人は范頭黎の娘婿の婆羅門(バドレスヴァラヴァルマン)を立てて王とした。大臣は共にこれを廃位し、さらに范頭黎の娘を立てて王とした。諸葛地(プラカーシャダルマ)は、范頭黎の姑の子で、父は罪を得て、真臘に亡命していた。女の王では国を定めることができず、大臣はともに諸葛地を迎えて王とし、先王を妻とした。永徽年間(650-655)から天宝年間(742-756)に至るまで、およそ三回入献した。至徳年間(756-758)以後、さらに環王と号した。元和年間(806-820)初頭に朝献せず、安南都護の
張舟はその偽の驩州・愛州都統を捕らえ、斬首三万級、捕虜とした王子は五十九人、戦象・小舟・鎧を鹵獲した。
婆利(バリ)は、環王の東南にあたり、交州より大海を出て、赤土・丹丹(ジャワ)諸国を経て到る。地は大島で、馬が多く、また馬礼と号した。南北の長さは数千里ある。火珠が多く、大きいものは鶏卵のようであり、丸く白く、数尺を照らし、日中に艾(まぐさ)をひいて珠を置くと、たちまち火が出た。玳瑁・文螺を産出した。石製の坩(るつぼ)は、取り出した当初は柔らかいが、模様を刻むと固くなる。舎利鳥(オウム)がおり、人の言葉に通じる。習俗は全身が黒く、朱髮で拳のように髷にし、鷹のような爪、獣のような牙をしている。耳に穴をあけて耳飾りをしている。古貝を橫にして腰に巻いている。古貝は草の名である、その花を綴って布とし、粗いのを貝といい、細かいのを氈という。習俗は夜に市場を開き、自ら顔を覆って隠す。王の姓は刹利邪伽(シュリージャガ)、名は護路那婆(ゴロナーヴァ)といい、代々位にある。班綴糸をまとい、珠を綴って飾りとした。金の榻(いす)に座り、左右に白仏・孔雀の扇を持つ。出る時は象を駕車とし、羽蓋(車のおおいに、ひすいの羽を用いたもの)に珠を貼り付け、鐘・撃鼓・吹蠡を鳴らして音楽とした。
その東には羅刹(リンガ)がある。婆利(バリ)と同俗である。隋の煬帝は常駿を遣わし赤土をして遂に中国と通交した。
赤土は西南で海に入り、婆羅を得た。総章二年(669)、その王の旃達鉢(チャンダーヴァ)は使者を遣わして環王の使者とともに入朝した。
環王の南に殊柰がある。交趾を海で隔てること三か月で到着する。婆羅と同俗である。貞観二年(628)、使者が方物を献上した。
貞観九年(635)、甘棠の使者が入朝した。国は海南にある。
貞観十二年(638)、僧高(サンカプラ)・武令(ブリーラム)・迦乍(カセートソンブーン)・鳩密(クメール)の四国の使者が朝貢した。僧高は水真臘の西北にあたり、環王と同俗である。その後、鳩密王の尸利鳩摩(シュリークマ)と富那王の尸利提婆跋摩(シュリーデーヴァヴァルマン)らが使を遣わして来貢した。僧高などの国は、永徽年間(650-655)の後に真臘に併合された。
盤盤(クローントーム)は、南海の曲にあり、北は環王を隔て、少海を隔てて狼牙修(ランカスカ)と接した。交州より海行すること四十日で到着する。王を楊粟翨という。その民は水に瀕して居住し、木を並べて柵とし、石を矢じりとした。王は金龍の大榻(いす)に座り、諸大人が王に謁見する時は、手を交差させて肩を抱いて跪く。その臣下を勃郎索濫といい、崑崙帝也といい、崑崙勃和といい、崑崙勃諦索甘といい、また古龍(クルン)という。古龍は、崑崙声で耳に近い。外にあっては那延(ナーヤカ)といい、中国の刺史のようなものである。仏・道士の祠があり、僧は食肉するが飲酒しない。道士を為貪といい、酒肉を飲食しない。貞観年間(627-49)、再び使を遣わして入朝してきた。
その東南に哥羅(ケダー)がある。あるいは箇羅といい、または哥羅富沙羅といった。王の姓は矢利波羅(シュリーパラ)で、名を米失鉢羅という。石を重ねて城とし、楼閣宮殿は茨で葺いた。州は二十四ある。その兵は弓矢と矛があり、孔雀の羽で纛(はた)を飾る。戦うごとに百象を一隊とし、一象に百人がつく。象の鞍は檻のようであり、四人が弓と矛を持って中に入った。租税は銀二銖を納める。糸・紵がなく、ただ古貝があるだけである。家畜は牛が多く馬が少ない。官吏でなければ髪を束ねない。おしなべて嫁を娶るとき、檳榔を納めて礼とし、多いときは二百盤にもなる。婦が結婚すれば夫の姓に従う。楽器は琵琶・
横笛・
銅鈸・鉄鼓・蠡がある。死ねば火葬し、焼け残った金・財宝を集めて海に沈めた。
東南に拘蔞蜜(マレー半島東南部)がある。海行すること一か月で到着する。南は婆利(バリ)で、十日で到着する。東は不述を隔て、行くこと五日で到着する至。西北は文単を隔て、行くこと六日で到着する。赤土・堕和羅(ドゥヴァーラヴァティーパー)と同俗である。永徽年間(650-655)、五色の鸚鵡を献上した。
扶南(ブナム)は、日南の南七千里にあり、地は狭く窪んでおり、環王と同俗で、城郭や宮室がある。王の姓は古龍(クルン)で、数階の楼閣・柵城に住み、木の葉を覆屋とした。王は出ると象に乗る。その人は身が黒く、縮れ毛をもち、裸で裸足である。習俗は盗みをしない。田は一年種えると三年収穫できる。国は剛金を産し、形は紫石英のようである。水底の石の上に生じ、人は水に潜ってこれを採取し、玉を刻むようにして刻む。雄羊の角で叩くと分裂する。人は闘鶏と闘猪を喜ぶ。金銀・真珠・香料を税とした。特牧城(タームラプラ)を治めていたが、にわかに真臘のために併合されてしまい、さらに南は那弗那城(ナラヴァナナガラ)に移った。武徳・貞観年間(618-649)、再び入朝し、また白頭人二人を献上した。
白頭は、扶南の西にあたり、人は皆素首で、皮膚のこまやかさは脂のようであった。山穴に住み、四面は高く険しく、人は到るものがいない。参半国(シーテープ)と接している。
真臘は、または吉蔑といい、もとは扶南の属国である。京師を去ること二万七百里である。東は車渠を隔て、西は驃に属し、南は海にせまり、北は道明と接し、東北は驩州にあたる。その王は刹利伊金那で、貞観年間(618-649)初頭に扶南を併合してその地にあった。戸は皆東向きで、東を上座とする。客が来ると屑檳榔・龍腦・香蛤を贈った。飲酒はしないが、それに比べると淫乱である。妻と房中で飲み、尊属は避ける。戦象五千あり、良いものは飼育して肉とする。代々参半(シーテープ)・驃(ピョー)と通好し、環王(チャンパー)・乾陀洹(ダゴン)と幾度も攻撃しあった。武徳年間(618-627)から聖暦年間(698-700)まで、およそ四度来朝した。神龍年間(705-707)以後は二つに分裂し、北は山岳が多いから陸真臘と号して半ばとした。南は海にせまり、湖沼をめぐるから、水真臘と号して半ばとした。水真臘は、地は八百里あり、王は婆羅提拔城(バラテーヴァ)に居した。陸真臘はまたは文単(ナコンラーチャシーマ)といい、婆鏤ともいい、地は七百里で、王号を「笡屈」といった。開元・天宝年間(713-756)、王子はその配下二十六人を率いて来朝し、果毅都尉を拝した。大暦年間(766-779)、副王の婆弥および妻が来朝し、飼象十一頭を献上した。婆弥を抜擢して試殿中監とし、名を賓漢と賜った。この時、徳宗は即位のはじめで、珍禽奇獣をすべて逃がしていたが、蛮夷の献じた飼象だけは苑中で飼った。もとより宮廷内で飼っていたのは三十二頭あったから、すべて荊山の朱陽に解き放った。元和年間(806-820)になると、水真臘はまた遣使して入貢してきた。
文単(ナコンラーチャシーマ)は西北の属国で参半(シーテープ)ともいう。武徳八年(625)使者が来朝した。
道明もまた属国で、衣服はなく、衣服を着る者を見ると笑っていた。塩鉄がなく、竹の弩で鳥獣を射て自給している。
訶陵(シャイレーンドラ)、または社婆(ジャワ)といい、闍婆といい、南海中にある。東は婆利(バリ)を隔て、西は墜婆登(中部ジャワ)、南は海にせまり、北は真臘である。木で城をつくり、大きな家であってもまた棕櫚で覆っている。象牙を牀(ねどこ)とすることは椅子のようである。玳瑁・黄白金・犀・象を産出し、国は最も富裕である。穴があると勝手に塩が湧き出る。柳花・椰子を酒とし、これを飲むとたちまち酔い、一晩目覚めない。文字があり星暦をよく知る。食べるときに匙や箸はない。毒女がおり、接するとたちまち腫物に苦しみ、毒女が死ぬと死体は腐らない。王は闍婆城(ジャワ)に居す。その祖の吉延(サンタヌ)は婆露伽斯城(ヴァーラーナシー)に東遷し、周囲の小国二十八国は臣服しないものはなかった。その官は三十二大夫あり、大坐敢兄が最高位である。山上に郎卑野州があり、王は常に登って海を望む。夏至に八尺表を立てると、柱の南に二尺四寸の影が現れる。貞観年間(627-649)、墜和羅(ドゥヴァーラヴァティーパー)・墜婆登とともにみな遣使して入貢し、太宗は璽詔をもって優答した。墜和羅は良馬を請い、帝はこれを与えた。上元年間(674-676)になると、国人は女子を推して王とした。「悉莫(ラトゥマハラニシマ)」と号し、威令は整粛で、道の落とし物は拾う者はいなかった。大食(アラブ)の君主はこれを聞いて、金一包を持っていきその町に置いたところ、行く者はたやすく避けた。三年たって太子が通過すると、足で金を踏みにじり、悉莫は怒り、まさに斬らんとしたが、群臣が固く請うたから、悉莫は「罪の根本は足にある。脚を斬れ」と言ったが、群臣はまた請うたから、指を斬って布告した。大食は聞いて恐れ、敢えて出兵しなかった。大暦中(766-779)、訶陵の使者は三度来朝した。元和八年(813)、僧祇奴(崑崙人の奴隷)を四人・五色の鸚鵡・頻伽鳥などを献上した。憲宗は内四門府左果毅に任命し、使者はその弟に譲ったから、帝はこれをよしとし、官位を合わせた。大和年間(827-835)になって再度朝貢した。咸通年間(860-874)、遣使して女楽を献上した。
墜和羅(ドゥヴァーラヴァティーパー)は、または独和羅といい、南は盤盤(クローントーム)、北は迦邏舎弗、西は海に属し、東は真臘である。広州より行くこと五か月で到着する。国には美しい犀が多く、世間は「堕和羅犀」という。属国が二あり、曇陵(タンブラリンガ)と陀洹(ダゴン)である。
曇陵(タンブラリンガ)は海中の島にある。陀洹(ダゴン)は、または耨陀洹といい、環王(チャンパー)の西南の海中にあり、墜和羅(ドゥヴァーラヴァティーパー)と接しており、交州より行くこと九十日で到着する。王の姓は察失利、名は婆那、字は婆末。蚕がなく、稲・麦・麻・豆がある。家畜は白象・牛・羊・豚がいる。習俗は楼に居することを喜び、干欄という。綿布・朝霞布で衣をつくる。親の喪には、部屋に籠って食べず、火葬が終わってから髪を切って池で水浴し、それから食べる。貞観年間(627-649)、二度遣使して再び入朝し、また婆律膏を献上した。白鸚鵡は、首に十の赤毛があり、羽も同じである。馬と銅鐘を請うたから、帝はこれを与えた。
墜婆登(中部ジャワ)は環王(チャンパー)の南にあり、行くこと二か月で到着する。東は訶陵(シャイレーンドラ)、西は迷黎車で、北は海に属する。習俗は訶陵と同じである。稲を蒔けば、ひと月で稔る。文字があり、貝多葉に写す。死者には口に金を入れ、腕輪をその体につけ、婆律膏(香木)・龍腦を加えて多く香らせ、薪を積んで焼いた。
投和(ドゥヴァーラヴァティーパー)は、真臘の南にあり、広州より西南に海行すること百日にて到着する。王の姓は投和羅、名は脯邪迄遙である。官には朝請将軍・功曹・主簿・賛理・賛府、分領国事がいる。州・郡・県の三等にわかれ。州には参軍がおり、郡には金威将軍が、県には有城・有局がおり、長官は選任されると下僚は自ら選んだ。民は率楼閣に居し、壁画がある。王の宿衛は百人、朝霞を着て、耳には金鐶をつけ、金綖を頚につけ、革靴を装飾した。たびたび盜む者は死罪で、次の刑罰は耳および頬に穴をあけその髪を集める。贋金を鋳造する者は手を斬る。賦税はなく、民は地の多少の物を自ら税として納める。王は農商を自らの業とする。銀で銭をつくり、楡莢(半両銭)のようである。民は象および馬に乗り、鞍や手綱がなく、縄を頬に穴をあけて御している。親の喪には、髪を切って孝をあらわし、死体を焼いて灰を甕に納め、水に沈めた。貞観年間(627-649)、遣使して黄金の函の中に上表を入れ、宝物を献上した。
瞻博(チャンパー、バーガルプル)は、または瞻婆という。北は兢伽河(ガンジス川)を隔てる。野生の象がたくさん群れをなしている。顕慶年間(656-661)、婆岸・千支仏(カーンチープラム)・舎跋若・磨臘の四国とともにみな使者を遣わして入朝した。
千支在(カーンチープラム)は西南海中にあり、もとは南天竺の属国であった。または半支跋という。唐語の五山というようなものである。北は多摩萇を隔てている。
また哥羅舎分・修羅分・甘畢の三国があって方物を貢納した。甘畢は南海上にあり、東は環王(チャンパー)を隔てる。王名は旃陀越摩で、精兵五千がいる。哥羅舎分は、南海の南にあり、東は堕和羅(ドゥヴァーラヴァティーパー)がある。修羅分は、海北にあり、東は真臘を隔てる。その風俗の大略は互いに似たようなもので、君長がいて、柵・城郭がある。二国の精兵は二万で、甘畢はわずかに五千である。
また多摩萇があり、東は婆鳳、西は多隆、南は千支仏(カーンチープラム)、北は訶陵(シャイレーンドラ)である。地は東西がひと月の行程、南北は二十五日の行程である。その王の名は骨利である。詭むいて大卵を得たといい、これを割ってみると女子を得た。容色が美しかったから妻とした。習俗は姓がなく、婚姻は同姓の別がない。王は常に東向に座る。精兵は二万、弓・刀・甲・矛があるが、馬はない。果実は波那婆・宅護遮菴摩・柘榴がある。その国は薩盧・都訶盧・君那盧・林邑諸国を経て交州に到る。顕慶年間(656-661)に方物を貢納してきた。
室利仏逝(シュリーヴィジャヤ)は、または尸利仏誓という。軍徒弄山(コ・トララッチ)を過ぎること二千里、地は東西千里、南北は四千里で遠い。城は十四あり、国を二つに分けて統治している。西を郎婆露斯(ルンバブジャン)という。金・水銀・龍腦を産する。夏至に八尺表を立て、影は南に二尺五寸現れる。国に男子が多い。橐它がいるが、豹のような模様と犀のような角があり、乗ったり耕作したりする。名を它牛豹ともいう。また獣には野豚のようなものもいて、角が山羊のようである。名を雩といい、肉の味は美味で、食膳に用いられる。その王は「曷蜜多」と号する。咸亨年間(670-674)から開元年間(713-741)の間、しばしば使者を遣わして入朝し、上表して辺境の官吏に侵掠されたといい、詔して広州に慰撫させた。また侏儒(こびとの俳優)・僧祇(崑崙)女をそれぞれ二人、および歌舞を献上し、使に官位を与えて折衝とし、その王を左威衛大将軍とし、紫袍・金鈿帯を賜った。後に子を遣わして入献してきた。詔して曲江で宴して宰相と会し、賓義王に冊封し、右金吾衛大将軍を授け、送還した。
名蔑は、東は真陀桓(ムアン)に接し、西は但游に、南は海に属し、北は波剌である。その地はひと月で到着し、州は三十ある。十二月を年始とする。王は朝霞布・綿布を着る。賦税は二十のうち一を取るのみである。交易は皆金を用いて値を計る。その人は短小で、兄弟で共に一人の妻を娶る。婦は総髪で角をつくり、弁髪の男も少なからずいる。王は「斯多題」と号す。龍朔年間(661-663)初頭、使者が来貢した。
単単(ジャワ)は、振州の東南、多羅磨の西にあり、また州県が設置されている。木は白檀が多い。王の姓は刹利(シュリー)、名は尸陵伽(シュリンガ)、日に政務にあたった。八大臣がおり、八座と呼ばれた。王は香を身に塗り、雑宝の瓔を被り、近くは車に乗り、遠くは象に乗る。戦えば必ず蠡・撃鼓を演奏する。盗みは罪の軽重なくすべて死罪である。乾封・総章年間(666-670)に方物を献上した。
羅越(ラチャブリ)は、北は海より五千里隔たっており、西南は哥谷羅である。商人が往来して多く集まる。習俗は堕羅鉢底(ドゥヴァーラヴァティーパー)と同じである。毎年船に乗って広州にやってくる。広州は必ず朝廷に奏上する。
驃(ピョー)、古の朱波であり、自ら突羅朱と号し、闍婆国の人は徒里拙という。永昌の南二千里のところにあり、京師を去ること一万四千里になる。東は真臘と陸続きで、西は東天竺に接し、西南は堕和羅(ドゥヴァーラヴァティーパー)、南は海に属し、北に南詔がある。地は長さ三千里、広さ五千里、東北が細長く、羊苴哶城に属した。
おしなべて属国は十八で迦羅婆提・摩礼烏特・迦梨迦・半地・弥臣・坤朗・偈奴・羅聿・仏代・渠論・婆梨・偈陀・多帰・摩曳で、他は即舎衛・瞻婆・闍婆である。
おしなべて鎮城は九城あり、道林王・悉利移・三陀・弥諾道立・突旻・帝偈・達梨謀・乾唐・末浦である。
おしなべて部落は二百九十八あり、有名で見るべきものは三十二で、万公・充惹・羅君潜・弥綽・道双・道甕・道勿・夜半・不悪奪・莫音・伽龍睒・阿梨吉・阿梨闍・阿梨忙・達磨・求潘・僧塔・提梨郎・望騰・担泊・禄烏・乏毛・僧迦・提追・阿末邏・逝越・騰陵・欧咩・磚羅婆提・禄羽・陋蛮・磨地勃である。
弥臣から坤朗まで、また小崑崙部があり、王名を茫悉越といい、習俗は弥臣と同じである。坤朗から禄羽まで、大崑崙王国があり、王名を思利泊婆難多珊那(シュリーヴァーヴァナンダサンナ)という。川原は弥臣よりも大きい。崑崙より小王の居するところまで、半日行くと磨地勃柵に到着し、海行すること五か月で仏代国に到着する。江があり、支流は三百六十ある。その王名を思利些弥他(スリーヴィジャヤ)という。川の名を思利毘離芮という。国土は香木が生える。北に市があり、諸国の商船が集まり、海を越えると闍婆である。十五日行くと、二つの大山を越え、一つは正迷、もう一つは射鞮で、国があり、その王の名は思利摩訶羅闍(スリーマハーラージャ)といい、習俗は仏代と同じである。多茸補邏川を経ると闍婆に到り、八日行くと婆賄伽盧(パンジャル)に到る。国土は熱く、街路に椰子・檳榔を植え、仰ぎ見ても日が見えない。王の居所は金を煉瓦とし、厨は銀瓦で覆う。香木を焚き、堂を明珠で飾る。二つの池があり、金を堤とし、舟をすべて金宝で飾った。
驃王は、姓は困沒長、名は摩羅惹(マハーラージャー)で、その宰相は摩訶思那(マハーシーナ)といった。王が出ると、輿は金縄の牀で、遠く出る時は象に乗った。後宮・役人は数百人いる。青煉瓦で円城をつくり、周囲は百六十里、門は十二門あり、四隅に浮図(仏寺)をつくり、民はみな中で居住し、鉛錫を瓦とし、荔支(レイシ)を材とした。習俗は殺人を憎む。拝礼する時は、手で臂を抱き、額を地につけ、敬礼して恭順をあらわす。天文に明るく仏法を喜ぶ。百寺あり、琉璃で煉瓦とし、金銀が入り乱れて、床は朱塗の紫の鉄で床を塗り、錦の敷物で覆い、王の居所もまた同じようである。民は七歳で祝髪して寺に留め、二十歳ほどで仏法に達しなければ、民間に復した。衣は綿布・朝霞布を用い、蚕は殺生することから敢えて衣にしない。金花冠・翠をかぶり、雑珠をからめる。王宮は金銀の二鐘があり、侵攻があれば、香を焚いてこれを打ち鳴らし、吉凶を占った。大きな白象があり、高さは百尺、訴える者は香を焚いて象の前に跪き、自ら思いの是非を述べて退いた。疫災があれば、王もまた香を焚いて象に対して跪いて自らを咎めた。手枷や足枷はなく、有罪の者は五本の竹を束ねて背中を打ち、重罪の者は五、軽罪の者は三で、殺人は死刑である。土地は宜菽・粟・稲・粱(オオアワ)・蔗(サトウキビ)を産し、大きさは脛のようである。麻・麦はない。金銀を銭とし、形は半月のようで、登伽佗と号し、または足弾陀という。膏油がなく、蝋で雑香の代わりとして焚いた。諸蛮の市と、江猪(淡水イルカ)・綿布・瑠璃・大甕を交換する。婦人は頭の頂きに高髻をつくり、銀・真珠の連珠で飾り、衣は青のスカート、薄物の着物を着る。行く時は扇を持ち、貴顕の家は傍らに五・六人が追従する。近城に砂山で不毛の地があり、地はまた波斯(ペルシア)・婆羅門(インド)と接し、西舎利城を隔てること二十日で到着する。西舎利は中天竺である。南詔は兵が強く地を接しているから、常に従って支配下にあった。
貞元年間(785-805)、王の雍羌は南詔が唐に帰順しているのを聞き、内心は帰属したいとの思いがあった。南詔王の異牟尋は楊加明を遣使し、剣南西川節度使の
韋皋に詣でて、夷中の歌曲を献上し、かつ驃国をして楽人を進らせた。ここに韋皋は「南詔奉聖楽」を作り、正律は黄鐘均(C、D、E、F♯、G、A、Bのオクターブ)を用いた。宮(C音)・徴(G音)に一度変わるのは、西南が帰順しているのを象る。角(E音)・羽(A音)で終わりに変わるのは、戎夷の心が改まったのを象っている。舞は六編成で、工は六十四人、賛引は二人、序曲は二十八畳(繰り返し)で、「南詔奉聖楽」の字を舞う。舞人は十六、羽翟を持ち、四列となる。「南」の字を舞い、「聖主無為化」と歌う。「詔」の字を舞い、「南詔朝天楽」と歌う。「奉」の字を舞い、「海宇修文化」と歌う。「聖」の字を舞い、「雨露覃無外」と歌う。「楽」の字を舞い、「闢土丁零塞」と歌う。すべて一章三畳で編成される。
舞者は初め定まると、羽を取り、
簫・鼓らが散序一畳を演奏する。次に第二畳を演奏し、四度演奏し、賛引は序を以て入場する。終わろうとするとき、
雷鼓を四隅で鳴らし、舞者は皆拝する。金声は鳴らして起ちあがり、羽を持って稽首し、朝覲を象る。拝跪するごとに、音頭は
鉦鼓で行う。次に拍序一畳を演奏し、舞者は左右に分かれて蹈舞し、四拍するごとに、羽を持って拱手して稽首し、拍が終わると、舞者も拝し、また一畳を演奏する。蹈舞して手を叩きながら拱手し、合せて「南」の字をつくる。字ができ、偏が終わると、舞者は北面で跪いて歌い、絲・竹の楽器で導く。歌が終わると、俯いだり伏せたりし、
鉦を鳴らし、また拱手して舞う。他の字もすべてこのようであるが、ただ「聖」の字の詞末は恭って拱手し、奉聖を明らかにする。一字ごとに、曲は三畳で、名づけて五成(五編成)という。次に一畳を急奏し、四十八人が行を分けて謙恭し、将軍・臣下が辺境を防衛するのを象る。字を舞い終わると、舞者は十六人で四列となり、また闢四門の舞を舞う。にわかに舞って一偏両畳に入れ、ある鼓吹とともに節を合わせ、進み舞うこと三度、退き舞うこと三度、三才・三統を象る。舞終わって、皆稽首して逡巡する。また一人が億万寿の舞を舞うと、「天南滇越俗四章」を歌い、歌舞は七畳六編成で終わる。七は、火の成数で、天子が南面して生成の恩のことを象る。六は、坤の数で、西南が教化に向かうことを象る。
おしなべて楽は三十、楽工は百九十六人である。四部に分けられ、一つめは亀茲部、二つめは大鼓部、三つめは胡部、四つめは軍楽部である。亀茲部は、
羯鼓・
揩鼓・
腰鼓・
鶏婁鼓・短笛・大小の
觱篥・
拍板の合計八である。長短の
簫・
横笛・
方響・
大銅鈸・
貝で、合計四である(舞者四人の誤り)。おしなべて楽工は八十八人、四列に分け、四隅に舞筵(舞台用の敷物)を敷き、
節鼓に合わせた。大鼓部は、四列となり、おおよそ二十四人で亀茲部の前にいた。胡部は、箏・大小の
箜篌・
五絃琵琶・
笙・
横笛・短笛・
拍板の合計八である。大小の
觱篥は合計四である。楽工は七十二人で四列に分け、舞ごとに筵の隅にいて、歌詠を導いた。軍楽部は、
金鐃・
金鐸で合計二である。
掆鼓・
金鉦で合計四である。
鉦鼓は金で覆いを飾り、流蘇を垂らす。楽工は十二人で、南詔の服を着て、闢四門に立って四隅に舞筵(舞台用の敷物)を敷き、節拝して合奏する。また十六人、半臂を描き、
掆鼓を持ち、四人が列をなす。舞人は南詔の衣・絳(あか)い裙襦(はだぎ)・黒い頭布・金の佉苴(革帯)・革に描かれた鞾(くつ)、襟首に首飾を着て、金宝花鬘を被り、襦(はだぎ)の上にまた描いた半袖を加えた。羽を持って翟舞(舞の一種)し、上を俯いだり下に伏せたりし、朝拝を象る。裙襦に鳥獣草木を描き、文様は八種の彩色の草花で、諸物完遂を象る。羽飾りを四面に垂らすのは、天に覆われないものがないことを象る。正方の布位(座席)は、地に載らないものはないことを象る。四列に分けるのは、四気を象る。舞は五字をなすのは、五行を象る。羽翟を捧げるのは、文徳を象る。
節鼓は、号令が遠くまで布告されるのを象る。振るのに
鐸を用いるのは、民間の詩を広く集めるの義を明らかにする。亀茲などの楽を用いるのは、遠くの夷が喜んで帰服するのを象る。
鉦鼓は古には凱旋して勝利の楽を献上する。黄鐘・君声・配運を土とするのは、土徳が常に盛んなのを明らかにする。黄鐘は「乾為天・初九」(易経。以下同じ)を得て、自らその宮とし、そこで林鐘四律は正声を以て応じて、大君は南面して天統を上に掲げるのを象り、乾の道明である。林鐘は「坤為地・初六」で、その方位は西南で、西南は化を下に至るを感じ、坤の体順である。太蔟は「乾為天・九二」を得て、これは人を統べるのをあらわし、天地は正しく三才(天地人)に通じ、そのため次に応じるのに太蔟を以てする。三才が既に通じていれば、南呂もまた羽声を以てこれに応じる。南呂は、酉で、西方の金である。羽は、北方の水である。金・水は悦んで時に応じ、西戎・北狄が喜んで帰服するのを象る。その後姑洗均の角調(G)でこれを終わらせた。姑は「故」の字に通じている。洗は「濯」の字に通じている。これは南詔が吐蕃に背いて帰化し、過ちを洗い流して日が新たになることを象る。
韋皋は五宮をそれぞれ別々に用い、独唱して音を絶やし、また五均譜に表して、金石の節奏に用いた。
一は黄鐘均の宮調の宮(C音)で、「軍士奉聖楽」を歌うのに用いた。舞人は南詔の衣を着て、翟を捧げて首を俯けて地に伏せ拝して手を打ち、「南詔奉聖楽」の五字を合わせ、歌詞を歌うこと五度、舞人は南方の朝天の服に着替え、絳(あか)色、七節の襦袖、節に青の襟先で開き、鳥翼を象る。楽は亀茲・胡部を用い、
金鉦・
掆鼓・
鐃・
貝・大鼓である。
二は太蔟均の、商調の宮(E音)で、女子が奉聖楽を歌うのを用いた。管絃を合奏する。もしくは庭下にて演奏し、そこで一人一曲を舞う。楽は亀茲を用い、鼓・笛がそれぞれ四部、胡部などとともに合奏する。琵琶・
笙・
箜篌が、すべて八である。大小の
觱篥・箏・絃・
五絃琵琶・長笛・短笛・
方響がそれぞれ四である。亀茲部の前にいた。次に
貝が一人、大鼓が左右に十二分し、他はすべて座奏する。
三は姑洗均の角調の宮(G音)で、古律の林鐘に応じて徴宮とし、女子が奉聖楽を歌うのを用いる。舞者は六十四人で、羅綵の襦袖で飾り、その間は八彩で、曳雲の花履、首を双鳳・八卦・綵雲・花鬘で飾り、羽を持って拝み手を打つの節とする。林鐘は地の綱紀で、歳功の備・万物の成を象る。双鳳は、律呂の和を明らかにする。八卦は、還相用いるためであることを明らかにする。綵雲は気を象る。花鬘は冠を象る。「奉聖楽」の三字を合わせて、歌詞を歌うこと三度、天下懐聖を表す。小女子が字を舞うとき、碧色の襦袖で、角音主木を象る。首に巽卦を飾り、姑洗の気に応じる。六人で略後するのは、六合一心を象る。楽は亀茲部・胡部を用い、
鉦・
掆・
鐃・
鐸、すべて綵蓋を覆って台座を飾り、上は錦綺を並べ、流蘇を垂らす。瑞図を按ずるに「王者に道あり、則ち儀鳳に鼓あり」とあった。そのため羽葆(鳥の羽飾り)鼓に鳳凰がすまい、
鉦には孔雀が住み、
鐃・
鐸には翔鷺が集まり、
鉦・
掆の頭と足にもまた南方の鳥獣が飾られ、沢に飛走し翔伏するのを明らかにする。
鉦・
掆・
鐃・
鐸には、すべて二人が持って演奏する。
貝および大鼓の工伎の数は、「軍士奉聖楽」と同じだが、鼓・笛四部を加える。
四は林鐘均の徴調の宮(G音)で、拍を抑えた単声で、奉聖楽を奏で、男性が一人で独舞し、楽は亀茲部を用い、鼓・笛は色ごとに四人である。
方響は二で、亀茲部の前に置く。二隅に
金鉦があり、中に
金鐸二を・
貝二・
鈴鈸二・大鼓を置き、左右に十二分した。
五は南呂均の羽調の宮(G♯音)で、古律の黄鐘の君の宮にあたる。楽は古黄鐘の
方響一、大琵琶・
五絃琵琶・
大箜篌を二、黄鐘の
觱篥・小
觱篥・
竽・
笙・
壎・
箎・搊箏・軋箏・黄鐘の
簫・笛二を用いる。笛・
節鼓・
拍板等の楽工はすべて一人で、座奏する。絲竹が緩やか演奏するのにあわせて、一人が独唱し、歌工もまた通して「軍士奉聖楽」の歌詞を歌う。
雍羌はまた弟の悉利移(シリー)城王の舒難陀(シュエナンドー)を遣わしてその国の音楽を献上してきて、成都に至った、
韋皋はまたその声調を譜に記録し、またその舞容・楽器が普通ではないから、そこで絵を描いて献上した。工器は二十二あり、その音は八で、金・貝・絲・竹・匏・革・牙・角である。金は二・貝は一・絲は七・竹は二・匏は二・革は二・牙は一・角は二である。
鈴鈸は四で、制度は亀茲部のようであり、一周は円形で三寸、革が貫通しており、撃ち付けて調子を合わせる。鉄板は二で、長さは三寸五分、広さは二寸五分で、面は平らで、背に柄があり、革をかけ、
鈴鈸とともにすべて内紐を交えて飾り、花氈の飾りを蘂(しべ)とする。螺貝は四で、大きいものは一升を受けられるかのようであり、内紐を交えて飾る。
鳳首箜篌は二あり、その一つは長さ二尺、胴部の広さは七寸、鳳首および頭の長さは二尺五寸、表を蛇皮で飾り、絃は十四本あり、頭に軫(転手)があり、鳳首は外向きである。その一つは頭に溝があり、軫(転手)は鼉首にある。箏は二で、その一つの形は鰐のようで、長さ四尺で、四つ足があり、腹には何もなく、鰐皮を背に飾り、表および肩は琴のようで、広さは七寸、胴径は八寸、尾の長さは一尺あまり、巻き上げて空中にし、関を設けてそこに九絃を張り、左右に十八柱ある。その一面に彩花を飾り、広げるのに蛇皮を用いたのを別とする。龍首琵琶が一あり、亀茲でつくったかのようであり、頭の長さが二尺六寸あまり、胴の広さは六寸、二龍が互いに向き合って首となっている。軫(転手)・柱がそれぞ三で、絃はその数によって、二軫が頭にあり、一つは頚部に、その覆の形は獅子のようである。雲頭琵琶が一あり、形は前述の通りで、表は蛇皮で飾り、四面に牙釘があり、雲を首とし、軫の上に花象品字があり、三絃で、覆手はすべて蛇皮で飾り、捍撥を刻んで舞崑崙の状として彩色して飾る。
大匏琴が二あり、半匏で覆い、すべて彩色して描き、上は銅甌のようである。竹で琴をつくり、蛇文をつくってその上を横ぎり、長さ三尺あまり、頭は曲がること拱手のようで、長さ二寸、形をもって胴を繋ぎ、甌および匏の本体を削る。中は二升が入るほとの大きさである。大絃は太蔟均(G#)に応じ、次絃は姑洗均(A#)に応じる。
独絃匏琴があり、班竹でできており、飾りは加えず、木を刻んで虺首とする。絃を張るが軫(転手)はなく、絃を頭に繋ぎ、四柱があって亀茲の琵琶のようである。絃は太蔟均(G#)に応じている。
小匏琴が二あり、形は
大匏琴のようであり、長さ二尺である。大絃は南呂均(D#)に応じており、次絃は応鐘均(F)に応じる。
横笛が二あり、一つは長さ一尺あまり、その合律をとって、節を去って爪がなく、蝋を首に充当させ、上には獅子頭を加え、牙でつくられる。穴は六で黄鐘均の商調(D)にあたり、五音七声を備える。またもう一つは、管はただ象首を加えるだけで、律度は荀勗の「笛譜」と同じであり、また清商部の鐘声と合致する。両頭笛が二あり、長さは二尺八寸、中に一節を隔て、左右を節とし気穴を突き開け、両端はみな洞体を分け笛量とする。左端は太蔟均(G#)に応じ、管末に三穴あり、一は姑洗均(A#)、二は蕤賓、三は夷則である。右端は林鐘均に応じ、管末に三穴あり、一は南呂均(D#)、二は応鐘均(F)、三は大呂である。下の台に指の一穴があり、清太蔟に応じる。両洞体は七穴で、ともに黄鐘・林鐘の両均を備える。大匏笙が二あり、すべて十六管で、左右にそれぞれ八あり、形は鳳翼に似て、大は管の長さ四尺八寸五分で、他は管の高低は次第に小さくなり、つくりは笙管のようで、形はまた鳳翼の類であり、竹を簧とし、匏を削って本体をつくる。上古の八音は、皆木漆でこれの代用としており、金を用いて簧とし、匏音はなく、ただ驃国が古製を得るだけである。また小匏笙が二あり、つくりは大笙のようで、律は林鐘均の商調(A)にあたる。三面鼓が二あり、形は酒甕のようで、高さ二尺、首は広く下は鋭く、上は広さ七寸、底は広さ四寸、胴の広さは首よりも大きくはない。蛇皮を被せ、三を束ねて一とし、青紐で結んでいる。下は地に当たって被せず、四面に驃国の工伎が笙鼓を持っている姿を描いて飾りとする。小鼓が四あり、つくりは
腰鼓のようであり、長さ五寸、首の広さは三寸五分、蛇皮を被せ、牙の釘で彩色し飾とし、柄はなく、揺らして拍子をとり、引賛者は皆これを持つ。牙笙があり、匏を削って本体とし、漆を塗り、上は二つの象牙を立てて管の代わりとし、双簧はすべて姑洗均(A#)に応じている。三角笙があり、また匏を削って本体とし、漆を塗り、上に三つ牛の角を立て、一簧は姑洗均(A#)に応じており、他は南呂均(D#)に応じ、角は鋭く下にあり、匏を削って本体とし、端に図柄がありすべてまっすぐである。両角笙があり、またまた匏を削って本体とし、上に二つの牛の角を立て、簧は姑洗均(A#)に応じ、匏に彩色して飾りとする。
おおむね曲名は十二あり、一を「仏印」といい、驃では「没馱弥」といい、国人と天竺歌は王に仕えている。二を「讃娑羅花」といい、驃では「嚨莽第」といい、国人は花を衣服とし、よくその身を浄めている。三を「白鴿」といい、驃では「答都」といい、その飛んだり止まっているのを美しいとして、ついにそれの思いを曲とした。四を「白鶴游」といい、驃では「蘇謾底哩」といい、翔んでは空に届き、行ってはゆっくり歩くことをいう。五を「闘羊勝」といい、驃では「来乃」という。昔、人が二匹の羊が海岸で闘っているのを見て、強いものは残り、弱いものは山に入っていったから、時の人はこれを「来乃」といった。「来乃」は勝勢である。六を「龍首独琴」といい、驃では「弥思弥」といい、これは一絃で五音を備え、王が一徳で万邦を養うのを象っている。七を「禅定」といい、驃では「掣覧詩」といい、俗世を離れて静寂であることをいう。七曲は歌舞で、すべて律は黄鐘均の商調(D)にあたる。八を「甘蔗王」といい、驃では「遏思略」といい、仏教が民には蔗(サトウキビ)の甘さのようであり、みなその味を喜ぶからいう。九は「孔雀王」といい、驃では「桃台」といい、毛の彩色が光の花のようであるからいう。十は「野鵞」といい、飛んだり止まっても必ず二羽でいて、ともがらが尽く集まっても会うのをいう。十一を「宴楽」といい、驃では「籠聡網摩」といい、世の中が安んじて宴会して嘉ぶをいう。十二を「滌煩」といい、または「笙舞」といい、驃では「扈那」という。世の中の煩わしい事を洗い流すことにつとめ、心にかなうことをいう。五曲の律は黄鐘の両均に応じ、一は黄鐘均の商調の伊越調(D)で、一は林鐘均の商調の小食調(A)である。楽工はすべて崑崙人で、絳氈(赤い毛織物)を着て、朝霞で膝を覆い、これを裓満という。両肩に朝霞、絡腋(胸を左肩から斜めに覆う幅広の布)を加えた。足・肘に金宝の鐶釧(腕輪・足輪)をつける。金の冠を被り、左右に珥璫(耳飾り)をつけ、組紐で花鬘を貫き、珥に双簪をつけ、毛羽が散らされる。初め楽を演奏するとき、賛者一人がいて楽意を先導し、その舞容は曲にしたがった。用人のあるいは二・あるいは六・あるいは四・あるいは八で、十に至り、珠を被せ、拝首稽首して節を終わる。その楽は五たび訳してようやく理解でき、徳宗は舒難陀に太僕卿を授け、送還した。開州刺史の
唐次は驃国の「献楽頌」を述べて献上した。大和六年(832)、南詔はその民三千を掠奪し、柘東に強制移住させた。
最終更新:2022年12月18日 22:38