海外紳士元ネタ解説2 > 10話


第10話「500 overs」の元ネタ解説翻訳(その1)

このページは常に有志の翻訳を募集中です。翻訳の修正はお気軽にどうぞ
  • 原文(英文)には手を加えないこと
  • 訳文への補足説明、誤認の指摘、修正などは注釈にて行うこと
ネタが盛りだくさんなので、ページ分割しました。(その2)もご覧ください。

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目次-1



Albert Kesselring

Albert Kesselring (30 November 1885 – 16 July 1960) was a German Luftwaffe Generalfeldmarschall during World War II.
In a military career that spanned both World Wars, Kesselring became one of Nazi Germany's most skilful commanders, being one of 27 soldiers awarded the Knight's Cross of the Iron Cross with Oak Leaves, Swords and Diamonds.
Nicknamed "Smiling Albert" by the Allies and "Uncle Albert" by his troops, he was one of the most popular generals of World War II with the rank and file.

アルベルト・ケッセルリンク
― 向かって左側の人物 ―
アルベルト・ケッセルリンク(1885年11月30日生-1960年7月16日歿)は、第二次世界大戦中のドイツ空軍元帥である。
その軍歴は第一次・第二次両世界大戦にまたがり、ケッセルリンクはナチス・ドイツの最も優秀な指揮官の一人となった。柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章した軍人27名のうちの一人でもある。
連合軍からは『微笑みのアルベルト』という仇名をつけられる一方、ドイツ軍からは『アルベルト小父さん』の仇名を頂戴したことからもわかるように、彼は第二次世界大戦中、兵士から最も親しまれた将軍の一人である。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikiprdiaです。日本語版Wikipediaの説明はこちらです。
ケッセルリンクは、イギリスの地中海における拠点・マルタ島を空爆して壊滅状態に陥れたほか、地中海の英海軍にも大きな損害を与えました。ケッセルリンクの作戦はアフリカ戦線の英軍の戦力をそぎ、ロンメルらドイツ・アフリカ軍団の進撃を助けました。アフリカからマルセイユが派遣されてきた回に、ケッセルリンクが登場するのも興味のもたれるところでしょう。)
(訳注2: )






Harold Alexander

Field Marshal Harold Rupert Leofric George Alexander, 1st Earl Alexander of Tunis (10 December 1891 – 16 June 1969) was a British military commander and field marshal of Anglo-Irish descent who served with distinction in both world wars and, afterwards, as Governor General of Canada, the 17th since Canadian Confederation.
He rose to prominence through his service in the First World War, receiving numerous honours and decorations, and continued his military career through various British campaigns across Europe and Asia.
In the Second World War, Alexander acted as a high ranking commander in North Africa and Italy.
He commanded 15th Army Group in Sicily and again in Italy before being made Supreme Allied Commander Mediterranean.
(放送終了後 だいぶ経ってから、4chanスレにポストされたversion 4 (Jan./31/2011(Mon)22:56)で、"Bernard Montgomery"に変更されました。)

ハロルド・アレクサンダー
― 向かって右側の人物 ―

イギリス陸軍元帥 ハロルド・ルーパート・レオフリック・ジョージ・アレクサンダー、初代チュニス伯アレキサンダー(1891年12月10日生-1969年6月16日歿)は、英国軍司令官である。イングランド人とアイルランド人の血を引く出自の元帥で、両世界大戦で勲功を上げたのち、(訳注:1867年の)カナダ連邦結成後の第17代・カナダ総督となった。
彼は、第一次世界大戦従軍中に傑出した功績を上げ、幾多の叙勲と勲章を受ける栄に浴した。彼の軍歴は、多くの英国軍の作戦に従事してヨーロッパからアジアにまでわたるものであった。
第二次世界大戦になると、アレクサンダーは北アフリカ戦線とイタリア戦線で高級指揮官の任に就いた。
彼はシチリアの第15軍集団を指揮し、イタリアでも再び同集団を指揮した。その後、地中海連合軍最高指揮官に任命された。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipediaです。アレクサンダーがアンツィオの戦い(英語版Wikipediaでは シングル作戦・Operation Shingleと ダイアデム作戦・Operation Diademの2項目に分割)を指揮した際、これに対するドイツ軍の指揮官はアルベルト・ケッセルリンクでした。)
(訳注2: )





Bernard Law Montgomery

Field Marshal Bernard Law Montgomery, 1st Viscount Montgomery of Alamein, KG, GCB, DSO, PC (17 November 1887 – 24 March 1976), often referred to as "Monty", was a British Army officer.
He saw action in World War I, and during World War II he successfully commanded Allied forces at the Battle of El Alamein, a major turning point in the Western Desert Campaign.
He was later a prominent commander in Italy and North-West Europe, where he was in command of all Allied ground forces during Operation Overlord until after the Battle of Normandy, and was the principal commander for Operation Market Garden.
After the War he became Commander-in-Chief of the British Forces of Occupation in Germany and then Chief of the Imperial General Staff.
(version 4で差し替えられたテキスト)

バーナード・ロー・モントゴメリー
― 向かって右側の人物 ―

イギリス陸軍元帥 バーナード・ロー・モントゴメリー、初代アラメインのモントゴメリー子爵(1887年11月17日生-1976年3月24日歿)は、ガーター勲章(KG)、ナイト・グランド・クロス(GCB)、殊勲賞(DSO)の佩用者にして、英国枢密院議員(PC)であり、英国陸軍の将校であった。彼はしばしば「モンティ」と呼ばれた。
彼は第一次世界大戦に従軍し、第二次世界大戦中はエル・アラメイン会戦で連合軍を指揮して勝利に導いた。この戦いは、西部砂漠戦線の重大な転換点となった。
のちに彼は、イタリアおよび北西ヨーロッパにおいて傑出した司令官となった。同地ではノルマンディー上陸作戦が終了するまで、オーバーロード作戦に参加した連合軍の全地上部隊を指揮し、マーケット・ガーデン作戦では総司令官の任に就いた。
大戦終結後、ドイツ駐留英国陸軍総参謀長を務めた後、英国陸軍参謀総長の座に就いた。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipediaです。)





Marseille's jump


Hanna-Justina Marseille's jump from Ju-52 is perhaps a rather morbid reference to how the real Marseille died.

On 30 September 1942, Hauptmann Marseille was leading his Staffel on a Stuka escort mission, during which no contact with enemy fighters was made.
While returning to base, his new Bf 109G-2/trop's cockpit began to fill with smoke; blinded and half asphyxiated, he was guided back to German lines by his wingmen, Jost Schlang and Lt Rainer Pöttgen.
Upon reaching friendly lines, "Yellow 14" had lost power and was drifting lower and lower.
Pöttgen called out after about 10 minutes that they had reached the White Mosque of Sidi Abdel Rahman, and were thus within friendly lines.
At this point, Marseille deemed his aircraft no longer flyable and decided to bail out, his last words to his comrades being "I've got to get out now, I can't stand it any longer".

His Staffel, which had been flying a tight formation around him, peeled away to give him the necessary room to manoeuvre.
Marseille rolled his aircraft onto its back, the standard procedure for bail out, but due to the smoke and slight disorientation, he failed to notice that the aircraft had entered a steep dive (at an angle of 70-80 degrees) and was now travelling at a considerably faster speed (about 400 mph).
He worked his way out of the cockpit and into the rushing air only to be carried backwards by the slipstream, the left side of his chest striking the vertical stabiliser of his fighter, either killing him instantly or rendering him unconscious to the point that he could not deploy his parachute.
He fell almost vertically, hitting the desert floor seven km south of Sidi Abdel Rahman.

Whilst checking the body, Oberarzt Dr Bick, the regimental doctor for the 115th Panzergrenadier-Regiment, noted Marseille's wristwatch had stopped at exactly 11:42 am.
Dr. Bick had been the first to reach the crash site, having been stationed just to the rear of the forward mine defences, he had also witnessed Marseille's fatal fall.
(version2で追加されました。)

マルセイユの降下
ハンナ-ユスティナ・マルセイユがJu-52から降下したのは、おそらく、モデルとなったハンス-ヨアヒム・マルセイユが死亡した際の いささか欝な状況を下敷きにしていると思われる。

1942年9月30日、ハンス・マルセイユ大尉は彼の飛行中隊を率いて、シュトゥーカ隊護衛の任務についていた。その間、敵戦闘機との遭遇はなかった。
基地に帰投する途中、彼が乗り換えたばかりの新型Bf 109G-2/trop*1のコックピットに煙が充満し始めた。視界が失われ窒息しそうになった。彼はドイツ軍が確保する前線の内側まで戻ろうと僚機に誘導してもらっていた。このとき、僚機を務めたのがヨスト・シュランクとライナー・ペットゲン*2少尉だった。
あと少しで友軍の前線にたどりつくという段になって、マルセイユの愛機『黄色の14』*3は推力を失い、高度がどんどん落ちていった。
ペットゲンは大声で、あと10分もすればシディ・アブデル・ラーマンのホワイト・モスクにつけます、そうすれば友軍の確保してる地域ですから、と激励していた。
この時点で自分の機体はもはや飛行不能だと考えたマルセイユは、脱出する決意をした。彼の僚機に遺した最期の言葉は『もう脱出しないといけない。これ以上は耐えられない。』だった。

彼の飛行中隊は、マルセイユの周囲を固めて編隊を組んでいたが、マルセイユ機が機動できるよう間隔をとるため直ちに彼の機から離れた。
マルセイユは自機をロールさせて背面飛行に はいった。ここまでは脱出*4時の通常の手順だった。だが、煙と軽い方向感覚失調のせいで、彼は機体が(70度から80度の角度で)急降下しはじめていて、いまや相当な速度が出ている(約400 mph*5)のに気づかなかった。
彼はコックピットから脱出しようと努力し、流速の速い大気の中に飛び出したものの、自機のプロペラが作り出す空気の流れ*6に押されて体ごと後方へもっていかれた。彼の駆っていた戦闘機の垂直尾翼が 彼の左胸に激突した。そのときマルセイユは即死したか、あるいはパラシュートを開傘できないほどの人事不省に陥っていた。
彼はほぼ垂直に落下し、シディ・アブデル・ラーマンの南方7キロメートルの砂漠の大地に激突した。

第115装甲擲弾兵*7聨隊付きの聨隊軍医だった ビック軍医大尉が、マルセイユを検死したところ、マルセイユの腕時計が午前11時42分ちょうどで止まっていたのに気づいた。
ビック医師は、前面地雷原陣地のすぐ後背に配置されていた*8から、マルセイユの墜死現場に最初に到着できた人物であった。そして、ビック軍医はマルセイユが墜落死するところも目撃したのだ。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipedia・Hans-Joachim Marseille #2.5 Deathです。日本語版Wikipediaの説明はこちらです。
ロンドンの空軍博物館に保存され、唯一現存するメッサーシュミットBf109G-2/Tropの写真は、web-modelersのサイトで見られます。)
(訳注2: ユンカースJu-52は、本作品にはたびたび登場しています。第一期アニメ第六話の解説 および 第二期アニメ第一話の解説をご覧ください。また解説はありませんが、 第二期の第五話「私のロマーニャ」の最後で、新生501st JFW基地に物資を投下した機体もJu-52です。)
(訳注3: ユンカース Ju87 シュトゥーカの説明はこちら(Wikipedia(jp))から。ハンナ・U・ルーデルのモデルとなったハンス=ウルリッヒ・ルーデルの乗機としても有名です。)





MG 34

The Maschinengewehr 34, or MG 34, was a German machine gun that was first produced and accepted into service in 1934, and first issued to units in 1935.
It was an air-cooled machine gun firing the 7.92x57mm Mauser cartridge.
However, it was also designed to perform both as a light machine gun and in heavier roles, as an early example of a general purpose machine gun.
In the light-machine gun role, it was intended to be equipped with a bipod and 50-round ammunition belt contained in a drum-shaped magazine attached to the receiver.
In the heavier role, it was mounted on a larger tripod and was belt-fed.
In practice, the infantry relied mainly on belt-cartridge ammunition for the bipod version, functioning as a classic medium support infantry weapon.

MG 34
マシーネンゲヴェーア*934、またはMG34。
空冷式であり、7.92x57mmモーゼル弾を使用するドイツの機関銃。
1934年に正式採用され、1935年から量産が開始された。
軽機関銃重機関銃双方の用途に使用できる、汎用機関銃の初期の代表格である。
軽機関銃としては、二脚と、一連五十発の給弾ベルトを内蔵するドラムマガジンを装着し、
重機関銃としては、大きな三脚に取り付けて、給弾ベルトを用いるものとされていた。
実際の歩兵部隊では、主に給弾ベルトと二脚を使用し、古典的な中型の歩兵支援火器として機能していた。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipediaです。日本語版Wikipediaの説明はこちらです。)
(訳注2: ちなみにエーリカが使用しているのは、グロスフスMG42機関銃です。MG42はMG34を改良し、1942年に採用・供給が開始されました。)





Winning the Race and Drinking Milk

Marseille always strove to improve his abilities.
He worked to strengthen his legs and abdominal muscles, to help him tolerate the extreme g forces of air combat.
Marseille also drank an abnormal amount of milk and shunned sunglasses, to improve his eyesight.
(version2で追加されました。)

勝負には勝つ!・牛乳はゴクゴク!
元の人=ハンス・マルセイユはいつも自分の力を高めようと競争しながら鍛錬を重ねていた。
彼は脚と腹筋を鍛え続け、空中戦でかかる重いGに耐えられるようにしていた。
マルセイユはまた異常に大量の牛乳を飲み、サングラスをかけることも避けていた。視力を上げるためだったという。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipedia・Hans-Joachim Marseille #2.3 North Africaです。日本語版Wikipediaの説明はこちらです。)
(訳注2: 軍規違反などの素行不良が目立ち昇進が遅れたり、よく言えば個性的な性格、見方によってはとてもクセの強い人物で、かならずしも「人格者」というわけではなかったようです。モデルのハンス・マルセイユ大尉に詳しい視聴者にとっては、ハンナの言動に「さもありなん」という描写が多くて楽しめたようですが、視聴者によっては疑問符のつけられるキャラクターとして映ったかも知れません。)
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野上武志
マルセイユ不人気のあれは見てますが、そもそもマルセイユキャラ付けフミカネ鈴木といった主要スタッフがしっかりと作り上げてますしね。
そして高村監督動かし方かっこいい!!
しかし、ヒロインとしてネガティブでも話題になるってのがすごいですよ。
(2010/09/11 19:00)
link
フミカネ先生・鈴木氏のキャラ付けも、元ネタと比較しながら楽しんでください。





HMS King Gerorge V

The second HMS King George V (pennant number 41) was the lead ship of the five British King George V-class battleships of the Royal Navy (RN).
Laid down in 1937 and commissioned in 1940, King George V operated during World War II as part of the British Home Fleet and the British Pacific Fleet, along with transporting Winston Churchill to the Tehran Conference.
Following the end of the war, King George V spent three years as flagship of the British Home Fleet, before she was placed into reserve in 1949.
The battleship was scrapped in Dalmuir 8 years later.
Following the tradition of naming the first battleship constructed in the reign of a new monarch after the current monarch, she was planned to be named King George VI (after George VI).
However the King instructed the Admiralty to name the ship in honour of his father, George V.
King George V was built by Vickers-Armstrong at Walker's Naval Yard, Newcastle upon Tyne and laid down on 1 January 1937, launched on 21 February 1939, and commissioned on 11 December 1940.

キング・ジョージ5世
英軍艦艇(HMS)キング・ジョージ5世(艦艇番号41)は、同名の艦としては第2代目で、英国王立海軍(RN)のキング・ジョージ5世級戦艦の一番艦である。
1937年起工、1940年に就役。キング・ジョージ5世は、第二次世界大戦に英本国艦隊および英国太平洋艦隊の一角を占めた。そのほかにも、テヘラン会談ウィンストン・チャーチルを運んだこともある。
終戦から3年間、キング・ジョージ5世は英本国艦隊の旗艦であった。そののち、本艦は1949年に退役した。
この戦艦がDalmuirでスクラップ処分されたのは、その8年後である*10
新王が即位してから最初に建艦された戦艦に、王の名をつける慣習にならって、本艦も(ジョージ6世王*11の名を頂いて)キング・ジョージ6世と命名されるはずであった。
しかし、ときの王(訳注:ジョージ6世)は先王ジョージ5世に敬意を払い、英海軍本部に父の王名であるキング・ジョージ5世と命名するよう指示した。
戦艦キング・ジョージ5世はヴィッカース・アームストロング社によりニューカッスル・アポン・タインのウォーカーズ海軍工廠で建艦された。起工は1937年1月1日、進水は1939年2月21日、就役は1940年12月11日。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipediaです。日本語版Wikipediaの説明はこちらです。
キング・ジョージ5世級戦艦については、英語版Wikipedia・KGV、日本語版Wikipedia・キング・ジョージ5世級戦艦も。
初代HMS King George Vは、超弩級・初代キング・ジョージ級戦艦のネームシップ。初代KGV級は1911年に就役を開始し、第一次大戦を戦い、1924年頃にほぼ退役した。)
(訳注2: 本艦の外見上の特徴は、一番砲塔が4連装で背負い式の2番砲塔が2連装になっている点です。このような砲塔の配置はきわめて珍しいものです。当初は4連装砲塔3基(前甲板2・後甲板1)とする予定でしたが、防御装甲を厚く強化するため2番砲塔を2連装にあらためて軽量化し、その分の重量を装甲にまわしました。条約締結を見越した設計があだとなるなど、本級にまつわるたくさんのネタは、Wikipediaなどでチェックしてみてください。)





HMS Repulse

+ version1の画像
HMS Repulse was a Renown-class battlecruiser, the second to last battlecruiser built by John Brown and Company, Clydebank, Scotland, for the Royal Navy.
She was originally intended to be a unit of the Revenge class battleships, but was ordered to a modified design.
She was launched in 1916, too late to take part in the Battle of Jutland, but also too early to incorporate the lessons of that battle.
Still in time to take part in the First World War, in September 1916 she joined the Grand Fleet as flagship of the 1st Battlecruiser Squadron.
(version2でカットされました。)

レパルス
英国艦レパルスは、レナウン級巡洋戦艦である(訳注:レナウン級の2番艦で 同型艦は計2隻)。巡洋戦艦として最後から2番目の艦型であった*12ジョン・ブラウン・アンド・カンパニーが スコットランドのクライドバンクで建艦し、英国王立海軍に納入した。
本艦はもともと、リヴェンジ級戦艦の同型艦となる予定だった。しかし、命令によって設計が変更された*13
レパルスは1916年に進水した*14が、ユトランド沖海戦*15に参戦するには時すでに遅きに失し、しかれどもその戦訓を生かして建艦するには早きに失した。
それでも第一次世界大戦に参加するにはなんとか間に合って、1916年9月、レパルスは第1巡洋戦艦戦隊の旗艦として、英国グランド・フリートに加わった。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipediaです。日本語版Wikipediaの説明はこちらです。)
(訳注2: 第二次世界大戦勃発後、極東に配備されていたレパルスは、戦艦プリンス・オブ・ウェールズなどの艦艇とともに日本軍の船団攻撃に向かい、1941年12月10日、マレー沖海戦で沈没した。同海戦ではKGV級のプリンス・オブ・ウェールズも沈没し、これらが航空機の攻撃のみで撃沈されたことで、各国の海軍はそれまでの大艦巨砲主義から航空機部隊(空母機動部隊)の重視に転換した。
今回の第十話で登場したKGV級がプリンス・オブ・ウェールズで、このレパルスとともに艦隊を組んでいたとすれば、その付近の上空を扶桑のストライカー・ユニットが飛行するというのも、なにか因縁めいてはいないでしょうか。
なお、レナウン級の次級・アドミラル級巡洋戦艦は、戦艦ビスマルクの項で触れられた"HMSフッド"のみが建造され、姉妹艦の建造は中止された。)
(訳注3: HMS KGVのすぐ後ろに続く艦(戦艦ビスマルク)をHMSレパルスと誤認したようです。レパルスの特徴の一つとして、艦体中部の左右両舷にボート甲板とデリックの装備があります。SW公式サイトの(放送とは)別ver予告では画面サイズが小さくピクセル数も少ないため、ビスマルクの水上機回収用のデリック・クレーンとレパルスのボート甲板・デリックが誤認されてHMSレパルスだと思われたようです。
そしてversion1ではリットリオ(第二話・解説 リットリオ)の前を行くザラ級重巡洋艦(第二話・解説 ザラ級)らしき艦が、レパルスとされていました。アニメ2期第六話でザラ級重巡のザラとポーラ(第六話・解説 ポーラ)は航行不能になっていましたから、修復した艦か あるいは同型艦のフィウメもしくはゴリツィアかも知れません。)





Akizuki class destroyer

The Akizuki class destroyers (秋月型駆逐艦, Akizuki-gata kuchikukan) was one of the primary classes of new destroyers of the Imperial Japanese Navy (IJN) after 1942.
The IJN called them Destroyer Type-B (乙型駆逐艦, Otsu-gata Kuchikukan) from their plan name.
They were designed to fight larger ships, aircraft and submarines.
This is considered to have been the most useful class of destroyers Japan fielded during the war and was well regarded in the IJN.
They mounted a superb 3.9" (100mm) dual-purpose gun in four twin mounts.
They also were among the first Japanese vessels equipped with radar.
The ships were lighter in their torpedo armament, compared to contemporary destroyers (a single mount of four tubes, plus reloads), but the ships compensated with stronger anti-aircraft armament.

秋月型駆逐艦
秋月型駆逐艦とは、大日本帝國海軍(IJN)が1942年以降に竣工させた一級駆逐艦の一艦型である。
大日本帝國海軍は秋月型を、その計画名から乙型駆逐艦(英語圏ではType-B)と呼んでいた。
秋月型駆逐艦は、自艦よりも大型の対艦艇戦、対航空機戦、対潜水艦戦用として設計された。
日本が戦時中に用いた駆逐艦の中でも、本艦型が最も実用的だったと考えられているし、大日本帝國海軍でもその優秀さを認めていた。
秋月型は優れた3.9インチ(100mm)2連装・両用砲*16を4基、装備していた。
この秋月型は、日本の艦艇で初めてレーダーを装備した艦であった。
従来型の駆逐艦とくらべると秋月型の駆逐艦は、魚雷兵装がやや控えめとなっていた(次発装填装置付きの4連装発射管1基)が、その代わりに強力な対空兵装で兵力を補っていた。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipediaです。日本語版Wikipediaの説明はこちらです。)
(訳注2: なお甲型駆逐艦として書類上分類されるのは、陽炎型駆逐艦(Wikipedia(jp))夕雲型駆逐艦(Wikipedia(jp))です。)





The Bismarck

The German battleship Bismarck was one of the most famous warships of the Second World War.
The lead ship of her class, named after the 19th century German Chancellor Otto von Bismarck, Bismarck displaced more than 50,000 tonnes fully loaded and was the largest warship then commissioned.
Bismarck took part in only one operation during her brief career.
She and the heavy cruiser Prinz Eugen left Gotenhafen (Gdynia) on the morning of 19 May 1941 for Operation Rheinübung, during which she was to have attempted to intercept and destroy convoys in transit between North America and Great Britain.
When Bismarck and Prinz Eugen attempted to break out into the Atlantic, the two ships were discovered by the Royal Navy and brought to battle in the Denmark Strait.
During the short engagement, the British battlecruiser HMS Hood, flagship of the Home Fleet and pride of the Royal Navy, was sunk after several minutes of firing.
In response, British Prime Minister Winston Churchill issued the order to "Sink the Bismarck," spurring a relentless pursuit by the Royal Navy.
Two days later, with Bismarck almost in reach of safer waters, Fleet Air Arm Swordfish biplanes launched from the carrier HMS Ark Royal torpedoed the ship and jammed her rudder, allowing heavy British units to catch up with her.
In the ensuing battle on the morning of 27 May 1941, Bismarck was heavily attacked for almost two hours before sinking.

戦艦ビスマルク
ドイツ戦艦・ビスマルクは、第二次世界大戦の軍用艦艇でも最も有名な艦の一つである。
ビスマルク級の一番艦は、19世紀のドイツ宰相 オットー・フォン・ビスマルク*17にちなんで命名された。戦艦ビスマルクの満載排水量は50,000トンを超え、その当時就役していた軍艦としては最大であった*18
ビスマルクが その短い艦歴において参加した作戦は、たった一つだけだった。
本艦は重巡洋艦プリンツ・オイゲン*19とともに、1941年5月19日*20払暁、ライン演習作戦のためゴーテンハーフェン(現在はグディニャ*21と呼ばれている)を出港した。ライン演習作戦でのビスマルクは、北米と英本国間で輸送任務中の敵通商船隊を迎撃し これを撃滅せんと企図していた。
ビスマルクとプリンツ・オイゲンが大西洋を渡洋せんと臨んだとき、これら両艦は英国王立海軍の発見するところとなった。ここにデンマーク海峡海戦の幕が開かれた。
交戦は短時間で決着をみた。数分間、砲火を交えたのち、英 本国艦隊旗艦・巡洋戦艦フッドは英国王立海軍の誇りとともに海底に没した。
その報復として、英国首相ウィンストン・チャーチルは『ビスマルクを沈めろ』との命令を発し、英国王立海軍の執拗な追跡に拍車をかけた。
2日後、ビスマルクは安全海域にほとんど手が届くところまできたとき、英空母アークロイヤルを発艦した 英国・艦隊航空隊所属の複葉機ソードフィッシュ*22の雷撃を受け、被雷して舵が効かなくなった。そのためビスマルクは重武装の英国部隊に追いつかれてしまった。
さらに続いて1941年5月27日の朝の戦闘で、ビスマルクはほぼ2時間にも及ぶ猛攻を受けて沈没した。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipediaです。日本語版Wikipediaの説明はこちらです。
あわせてビスマルク級戦艦も参照してください。)
(訳注2: 本文中に出てくる巡洋戦艦については、日本語版Wikipediaでご確認ください。また、英国海軍艦艇には艦名のまえに"HMS"を冠します。その意味は「国王陛下の船(His Majesty's Ship)」もしくは「女王陛下の船(Her Majesty's Ship)」の略です。)





I-400 class submarine

The Sen Toku I-400-class (伊四〇〇型潜水艦) Imperial Japanese Navy submarines were the largest submarines of World War II and remained the largest ever built until the construction of nuclear ballistic missile submarines in the 1960s.
They were designed to surface, launch the planes then dive again quickly before they were discovered.
They also carried torpedoes for close-range combat.
The I-400-class was designed with the range to travel anywhere in the world and return.
A fleet of 18 boats was planned in 1942, and work started on the first in January 1943 at the Kure, Hiroshima arsenal.
Within a year the plan was scaled back to five, of which only three (I-400 at Kure, and I-401 and I-402 at Sasebo) were completed.

伊号第四〇〇型潜水艦
潜特型伊號第四百型潜水艦
大日本帝國海軍・潜特*23イ400型(伊四〇〇型潜水艦)は 第二次世界大戦の潜水艦で、世界最大であった。それどころか 1960年代に入って弾道核ミサイル搭載潜水艦が建造されるまで、世界最大の潜水艦であった。
伊四〇〇型潜水艦は 浮上して飛行機を射出したのち、発見される前に急速潜航するように設計されていた。
近接戦闘用に魚雷も搭載していた。
伊四〇〇型は世界中のどこへでも出撃して帰還できる航続距離をもつよう設計された。
18隻を建造して一個艦隊を構成する計画が1942年に策定され*24、実際の建造は1943年1月に広島県・呉の海軍工廠で最初の一隻*25が起工されたところから始まった。
1年も経たずに計画は5隻に縮小され、そのうち3隻(伊号第400潜水艦は呉海軍工廠、伊401伊402佐世保海軍工廠)しか完成しなかった。
(翻訳を修正してくれる有志求む)


(訳注1: 元になっている文章は英語版Wikipediaです。日本語版Wikipediaの説明はこちらです。
伊400 および 潜水艦から航空機が発進しておこなう空襲などについては、Lookout air raidsアメリカ本土空襲Attacks on North America during World War II晴嵐を参照してください。)
(訳注2: 改マル5計画については、こちら(Wikipedia(jp))から。イ400型がようやく完成にこぎつけた頃は、すでに本土周辺の航空優勢(制空権)も海上優勢(制海権)も失っており、もはやイ400型を活用する余地は残されていませんでした。)





最終更新:2011年02月01日 18:54
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ヘルプ / FAQ もご覧ください。

*1 メッサーシュミットの熱帯地仕様。ロンドンの空軍博物館に唯一の現存機体が展示されている。

*2 ライーサ・ペットゲンとして、ウィッチになっています。

*3 "Gelbe 14" ゲルベ・フィアツェーン:パーソナルマークとして、黒いアウトラインのある黄色の数字で14 [vierzehn]を歴代の機体に描いていた。

*4 ベイルアウト

*5 時速400マイルは、およそ時速640km

*6 プロペラ後流

*7 いわゆる機械化歩兵[自動車化歩兵]のこと。

*8 自軍の後方にいたのではなく、ドイツ軍の前線に非常に近いところにいた。

*9 ドイツ語でそのものずばり「機関銃」。

*10 1957年除籍

*11 現女王エリザベス2世の父。

*12 巡洋戦艦は、レナウン級の次級・アドミラル級巡洋戦艦が最後となった。

*13 リヴェンジ級戦艦の設計を変更して、レナウン型が生まれた。レナウン級の資材も、建造予定だったリヴェンジ級戦艦のために用意されたものが流用された。

*14 1月8日。就役は同1916年8月18日。

*15 第一次世界大戦の1916年5月31日-6月1日。

*16 対艦/対空の両用。砲身寿命が短いため、自艦で予備砲身に砲身交換を行うことができた。

*17 鉄血宰相として知られる。

*18 戦艦大和は1941年12月16日就役、満載排水量72,809トンで戦艦として史上最大

*19 アドミラル・ヒッパー級重巡の3番艦。アニメ第2期第八話の海外紳士元ネタ解説を参照してください。

*20 日本語版Wikipediaでは18日。

*21 ポーランドの港湾都市。

*22 アニメ1期第十一話にシャーリーの愛機として登場した複葉雷撃機。1期第十一話の海外紳士元ネタ解説も参照してください。

*23 正確には「潜特型 せんとっけい」という。

*24 昭和17年の改マル5計画

*25 伊四〇〇型潜水艦の一番艦・イ400の起工は、1943年1月18日。