門の歴史と噂
トーチ・ポートと門
東町にはもともと東門しか無かった。戦争時には国境川に橋は架かっておらず、首都から通じる街道の終点が東門だったためである。
しかし長きにわたる戦の後、街道整備と延長を命じられたヘルマン=コンラート伯が今の位置に橋を築き、防衛を名目として西門と跳ね橋を設け、トーチ・ポート内に街道を通した。これは伯爵が通行税という大きな収入を見込んで画策したもので、このおかげでトーチ・ポートは周辺でも有数の裕福な都市となった。
一方戦前は木製の柵しかなく、町としての機能もごくわずか(当時は現在の「歓楽街」あたりまでしか柵が作られていなかった)なものにすぎなかった西町は、15年前の領主交代に伴い現在の形にまで大幅に拡張された。このとき、解体された砦の壁の石材を用いて作られたのが『平和橋』である。
戦で最大の功績を挙げたヴォルフガング=ゴードン男爵に恩賞として与えられた西町だったが、下賜後10年ほどの間はこの造営に使った借財を返納することも難しいような寂れた町であった。これといった特産物もなく、西には荒れ地と山々が連なるばかりの西町には収入源がほとんど無かったためである。この状態はヴォルフガングが引退し、息子のゴルゲリオスに家督を譲る日まで続いた。
しかし長きにわたる戦の後、街道整備と延長を命じられたヘルマン=コンラート伯が今の位置に橋を築き、防衛を名目として西門と跳ね橋を設け、トーチ・ポート内に街道を通した。これは伯爵が通行税という大きな収入を見込んで画策したもので、このおかげでトーチ・ポートは周辺でも有数の裕福な都市となった。
一方戦前は木製の柵しかなく、町としての機能もごくわずか(当時は現在の「歓楽街」あたりまでしか柵が作られていなかった)なものにすぎなかった西町は、15年前の領主交代に伴い現在の形にまで大幅に拡張された。このとき、解体された砦の壁の石材を用いて作られたのが『平和橋』である。
戦で最大の功績を挙げたヴォルフガング=ゴードン男爵に恩賞として与えられた西町だったが、下賜後10年ほどの間はこの造営に使った借財を返納することも難しいような寂れた町であった。これといった特産物もなく、西には荒れ地と山々が連なるばかりの西町には収入源がほとんど無かったためである。この状態はヴォルフガングが引退し、息子のゴルゲリオスに家督を譲る日まで続いた。
<ヴォルフガング男爵と町に関する風説>
本来恩賞であるはずの西町が男爵の「足かせ」と言われるまでになってしまったのは、武辺者で不正を嫌う男爵を煙たがった伯爵の側近たちによる策略であると噂されている。
たとえば西町正門の立地が悪く人通りが少ない(=通行税が見込めない)こと、街道の通行税が入らないような位置に建てられていること、町の経済規模に見合わぬ広い町壁によって費用がかさみ、借財の返却に追われるようになったこと、また正門前がスラムと化していることなどは、男爵が政治に疎いことを見越した彼らの謀略によるものであるという。
ヴォルフガング男爵がこの事実に気づいているか否かは定かではないが、それでも彼は封土を受けてから引退するまでの間、一度も不平や不満を漏らしたことはないという。そして彼の息子はこのことに憤っており、報復の機会を窺っているとも言われている。
本来恩賞であるはずの西町が男爵の「足かせ」と言われるまでになってしまったのは、武辺者で不正を嫌う男爵を煙たがった伯爵の側近たちによる策略であると噂されている。
たとえば西町正門の立地が悪く人通りが少ない(=通行税が見込めない)こと、街道の通行税が入らないような位置に建てられていること、町の経済規模に見合わぬ広い町壁によって費用がかさみ、借財の返却に追われるようになったこと、また正門前がスラムと化していることなどは、男爵が政治に疎いことを見越した彼らの謀略によるものであるという。
ヴォルフガング男爵がこの事実に気づいているか否かは定かではないが、それでも彼は封土を受けてから引退するまでの間、一度も不平や不満を漏らしたことはないという。そして彼の息子はこのことに憤っており、報復の機会を窺っているとも言われている。