KV-1

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&font(#6495ED){登録日}:2019/07/03(日) 13:00:00
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KV-1(ロシア語: КВ-1、カーヴェー・アヂーン)は、1939年にソ連軍にて開発された重戦車である。

*◇開発経緯
第一次世界大戦が終結し、世界に束の間の平和が訪れた戦間期の1920年代。
戦後の厭戦機運や戦時中に膨らみ過ぎた軍備の正常化、世界恐慌などから世界の軍隊は軍縮傾向にあったが、同時に同大戦で出現した戦車という新兵器の有効な活用法が模作されていた。
そんな中、イギリスで多砲塔戦車という[[新たなジャンル>英国面]]の戦車が考案された。&font(l){やっぱりこいつらの仕業。}
結局この戦車は世界恐慌等を理由にイギリスではボツになったが、この案に大きな関心を示したのがソ連である。
社会主義故に世界恐慌の影響をそれほど受けなかったソ連は、イギリスに多砲塔戦車のインディペンデントを売るように頼んだが拒否されてしまう。それでも諦めきれなかったソ連はドイツから技師を招いて多砲塔戦車のT-35を実戦に投入する量産兵器として完成させた。
ところがこの多砲塔戦車、デカい、重い、トロい、装甲薄い、自慢の火力も活かせない、しょっちゅう故障する…といった問題点しか見当たらない明らかな欠陥兵器であった。詳細が気になる人はググってくれ。
それでも懲りなかったソ連は、1939年にT-35の後継としてSMK重戦車、T-100重戦車を試作するが、これが多砲塔戦車の熱が冷めきっていたヨシフおじさんの不満を買ってしまう。
そこで開発陣は、SMK重戦車の胴体を縮めて単一砲塔にした試作車輛を開発した。
この車輛は最高指導者・スターリンの古くからの盟友であり支持者でもあった当時の赤軍の最高幹部、クリメント・ヴォロシーロフにちなんでKVと名付けられる。
要はゴマスリ…というかというと微妙なところ。
前述したSMKも暗殺されたソ連の幹部でセルゲイ・キーロフ((余談だがキーロフの死がかの有名な大粛清の引き金になる))のイニシャルにちなむので、「共産党幹部のイニシャルを取る」流れを汲んでいる。
またクリメントはヨシフおじさんから冬戦争の進捗の悪さで不興を買い、正式採用直後の40年の3月に左遷させられている。
この辺についてヨシフおじさんに「冬戦争の苦戦の原因はお前の指揮のせいだ」と罵倒され、「お前が優秀な将校粛清したからこうなってんだ」と罵倒を返したというなんとも恐れ知らずな逸話があり、この後もクリメントはヨシフおじさんに直言、しかも罵倒して粛清されなかった稀有な人物である。&font(l){スターリンの図星だろうか。}
もっとついでにいうとクリメントはKV-1の設計者の義理の父親でもあったりする。
KVはSMKとT-100と共にちょうど勃発した冬戦争に投入され、その実用性を発揮。SMKとT-100が重量過多で味方の足を引っ張ったため、1939年12月にKVの正式採用が決定した。

*◇車体構造
この戦車の特筆すべき点は、第二次大戦初期の戦車としては異様に分厚い装甲である。
砲塔は全周75ミリ、車体は前面、側面、後面75ミリ、上面30~40ミリと、重戦車の名に恥じない重装甲である。
増加装甲を加えると前面は100ミリに達し、時代的には過剰な厚さだった。

武装は30.5口径76.2mmL-11で、当時の戦車砲としては必要十分な威力を備えていた。
え?T-34も同じ砲積んでたって?
確かに重戦車の主砲としては物足りない感は否めないが、同世代の各国戦車と比べるとイギリスのマチルダ2の積む2ポンド砲は口径40mm、アメリカのM2中戦車は37mm砲、ドイツのⅢ号戦車も37mm砲だった時代である。
どうにか追いつけそうなⅣ号戦車の75mm砲も24口径と短く、これでもオーバースペック気味な砲だったのだ。後にこれがKV-1を苦しめる要因になるわけだが…詳しくは後述。
機動力に関しては550馬力のエンジンで整地上の最高速度35キロを発揮する。
性能面だけ見るとかなりの高スペックな戦車なのだが、この戦車には大きな欠点があった。機動性の大幅な欠如である。
多砲塔戦車の経験を注ぎ込んで作ったとはいえ、この戦車はいわば&b(){「技術的な裏付けがないまま重くなった戦車」}である。
全周75ミリというガチタンに仕上げた結果、KV-1の重量は45トンにも達した。にもかかわらず、何のパワーアシスト機能が装備されておらず、搭乗員は腕力だけでブレーキや変速機を操作しなければならなかった。ダンプカーにパワーステアリングが無いようなモノだろうか。
そのため、補助操縦手(兼整備士)が乗り込んでいた。こいつの役割は読んで字の如く、メインの操縦手が疲れ切ったら操縦を手伝うこと。おまけにミッションがむっちゃくちゃ硬かったからハンマー使ったとか…乗員泣かせというソ連戦車の伝統は既に始まっていたのだ。
車長が装填手を兼ねていたため、指揮に隙が生じて敵の前で無防備な姿をさらすこともあった。
問題はそれだけではなかった。全体的に車体の作りが粗く、それはクラッチやトランスミッションというある程度精密さが要求される部品にまで及んでいた。
その出来の良くない足回りと45トンの車重ということもあって故障を乱発したという。
実際、後にKV-1を鹵獲したドイツ軍が検分すると、放棄された大部分の車両でクラッチの故障が見られたとか。
防御力と引き換えにもたらされた足周りの弱さで行動不能になる車両が相次いだ。

*◇運用
そんなKV-1だが、時代はまだ大口径の戦車砲が存在しなかった頃。KV-1と遭遇した敵はその異様な不死身ぶりを容赦なく味わうことになった。
当時の将校の記録によると、至近距離から40発もの砲撃を受けるが貫通無し、反撃して敵戦車8両撃破したり、別のKVー1は敵の砲兵陣地に直接乗り込んで200発もの火砲を受けながらも敵陣を破壊することに成功している。
続く1941年の独ソ戦でもその重装甲を遺憾無く発揮し、III号戦車やIV号戦車の砲撃を尽く跳ね返してドイツ軍を苦しめた。
当時のドイツ軍がこの戦車を正面から仕留めるにはアハトアハトこと8.8cm高射砲を引っ張ってくるくらいしかなく、彼らに&font(red){「怪物」}と言わしめたことからどれほどこの戦車に苦労させられたかが伺い知れる。
まさに無双…なんてうまくはいかず、大粛清の影響でまともな戦車兵が激減していたことで性能では勝っていても練度と連携でカバーしたドイツ戦車に撃破されたり、やはりその重量のおかげで戦闘より故障による損失の方が多く、行軍時には橋をぶっ壊したり地面を耕して友軍車両の通行を阻害したりと、ソ連軍も扱いの難しさに頭を抱えていたが…ここでソ連軍に革命が起こった。

傑作戦車の[[T-34>T-34(戦車)]]の登場である。
詳細は項目に譲るが、一言で説明するならば&b(){攻撃力と防御力はKVー1と同等レベルでありながら機動力は快速戦車レベル}という夢のような戦車が出来上がったのだ。
当初は不良品が多かったり砲弾が行き渡ってない有様だったが、1942年に入り工場等の設備が整うと猛烈な量産を開始してソ連軍は一転して攻勢に出ることになる。

これに困ったのがKVー1である。橋を壊したり道を荒らして味方の行軍を妨げる上にしょっちゅう故障するこの戦車が攻勢に出たソ連軍の足を引っ張り始めるのにあまり時間はかからなかった。
そして何より重戦車なのに攻撃力が中戦車のTー34と同じという事実が重戦車としての立場に疑問符を付けさせることになった。
ソ連軍もこれはいかんと装甲を削り軽量化を測ったKVー1Sを投入する。おかげで路上速度は40.2kmまで向上したが、やっぱり武装はTー34と変わらない上に唯一と言っていい取り柄であった装甲まで削ったことでますます重戦車として存在意義を問われることになった。
しかもこの時期のドイツ軍は48口径75mm砲を装備したIV号戦車H型やティーガーを前線に投入しており、KVシリーズで太刀打ちすることは難しくなっており、ティーガーに対抗可能なISー1の開発が開始された。ドイツ軍に「怪物」と恐れられた戦車はたちまちソ連軍の「お荷物」に転落してしまったのだ。
KVに代わる戦車を工場が混乱するからとなかなか開発しようとしない戦車工業人民委員部を激おこプンプン丸のヨシフおじさんが恫喝したりしたのはまた別の話。
その肝心のISー1の開発が難航したため、KVー1Sの車体にISー1の砲塔を乗っけたりとその場しのぎに使われているうちにISー1の火力強化型のISー2が制式採用され、量産が進むにつれてISー2にその座を譲っていった。
対日参戦時には極東方面に配備されていたKVー1が実戦に投入されており、これがKVー1の最後の戦いとなった。
とまあ、重戦車特有の欠点を数多く孕んでいながら戦争初期のソ連を支えた戦車なのだが、独ソ戦始まってすぐに現れたTー34があまりにも優秀すぎたためかどうにも影が薄い。
しかし、その防御力でフィンランド軍とドイツ軍を大いに苦戦させた事、この戦車で得た重戦車運用に関するノウハウや重装甲、高火力かつ自軍に追従できる機動力を持った完成度の高い戦車のISシリーズ開発の礎を作った事も事実であり、ソ連戦車開発史の中でも重要な一機であることは間違いないだろう。

*◇バリエーション
KVー1 (1939年型)
1939年に量産された30.5口径76.2mm砲のLー11を装備した初期型。第二次世界大戦すぐに始まったフィンランド侵攻「冬戦争」に参加してフィンランド軍を苦しめた。当初は車体前面の機銃はなく、ピストルポートがあるだけだったが、L-11装備の末期の生産車は小防盾付きの車体機銃架が付けられた。

KVー1(1940年型)
7.62mmの前方機銃と主砲同軸機銃を装備し、主砲を31.5口径76.2mmのFー32に換装したタイプ。装甲は初期75mmだが、後期90mmに増厚。初期生産型はほぼ1939年型のままで主砲が異なるのみだったが、後に、砲塔前側面、車体側面に増加装甲をボルト止めした仕様のものが生産された。

KV-1E
上記の1940年型のうち、35mmの装甲をボルト止めで追加したもの。第二次大戦開戦前、他国の強力な対戦車砲登場の報に惑わされた砲兵局のグレゴリー・クリーク元帥により提言されていたものが、1941年の独ソ戦開戦に伴い、ドイツ軍の8.8cm高射砲による対戦車射撃によって現実化したため、急遽、応急の装甲強化措置として実行されたもの。車体前面が110mm、側面は75〜110mm、そして砲塔側面も110mmとティーガーもびっくりの装甲と化したが、約束通り重量増加で最高速度が28キロに低下してしまった。しかも肝心の防御力が重量増加に見合うほど向上しなかったというオマケ付き。あまり成功ではなかったようでその後基本装甲そのものを増した型が作られることになる。

KV-1 (1942年型)
全体に装甲を強化した型で、主砲は41.5口径76mm戦車砲ZIS-5のままだが、装甲は車体側面で90mm、最大で105mmあるいは120mmまで増厚され(砲塔部)、重量は47tに増加した。これに伴い、車体後部オーバーハング部の形状が角形に改められた。砲塔は従来よりさらに装甲が強化された、溶接型、鋳造型の2種が使われた。資料によっては、車体の新旧にかかわらず、装甲強化型鋳造砲塔搭載型のみを1942年型とする場合もある。

KV-1S
軽量化と駆動系の改良。砲塔はT-34 1943年型のものに似た新型になった。装甲を82mmにまで薄くした事に加え、車体後部の傾斜をきつくして低め、履帯や転輪も軽量型が使われるなど、わずかずつでも重量を減らす努力が各部に払われ、重量は42tに抑えられた。しかし、武装は従来型と変わらず、しかも装甲が薄くなったことで、ますます重戦車としての価値が疑われることになったのは上記の通り。1942年8月から1943年4月にかけて1370両が生産された。

KV-85
KVの後継車両としてIS系列が開発されたが、前線からは一日も早く強力な重戦車の配備が要求されていたものの、ISの開発が難航したため、KV-1Sの車体にIS-1の砲塔を搭載した戦車。角張った車体に滑らかな砲塔という人によっては違和感を覚えるフォルムが特徴。85mm砲はそこそこ強力だったが、KV-1Sの車体とIS-1の砲塔は組み合わせが悪く、防御力のバランスに欠けたその場しのぎの戦車となってしまった。

[[KV-2]]
陣地攻撃用に、砲塔に152mm砲を搭載した型。おそらくKV-1の派生型では最も有名な車両だろう。詳しくは項目で。


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