宦官

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宦官 - (2018/08/21 (火) 21:39:35) のソース

&font(#6495ED){登録日}:2010/06/08(火) 10:51:14
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&font(#ff0000){&bold(){「おめーら、それでもチ〇コ付いてんのかァ!」}}
 



**&font(b,#994c00){【&ruby(かんがん){宦官}】}

古代中国やローマなどにおける官僚。

彼らは自身の男根、つまり&font(b,#994c00){チ〇コ}を切り落とし、その代わりに後宮に入ることを許された。
金玉ごと切断されることが多い。
日本では概念そのものは中国から輸入されてもおかしくなかったが、結局家畜を含めても「去勢」という概念が受け入れられなかったことからほぼ存在しない。

昔は刑罰を受けたり他国の捕虜となってチryを切られた者が宦官となっていたが、
宦官が権力を握るようになると自ら進んでryを切る者も出てきた。

特に中国・唐代では、官僚になるには科挙に受かるか切るかしかなく、
特に科挙の倍率は司法試験もびっくりのものなので、官僚になるために自ら切っちゃった者も少なくない。
&font(#0000ff){うち3割は傷口が化膿して死んじゃったらしいけどね(´・ω・`)}
ちなみに、清代末期になると西欧から外科手術法が取り入れられて、ずいぶん安全になったとか……。

また、科挙もその倍率の関係から書物をしこたま読んで勉強するための時間とカネ、めでたく科挙に受かって官僚になった後も勉学中に築くコネが出世に必要な面があるので、
学はないけど媚びへつらいとかそういうのが得意という貧農出身者にとっては一発逆転を狙う唯一の方法という面があった。
五代十国の藩鎮国家の一つ、南漢では総人口100万の内宦官人口が&bold(){2万}もいたという。

勿論、宦官同士の足の引っ張り合いや権力争いの余波、仕える者の気まぐれで理不尽に殺されたりする事もあるし、解雇される=ほぼ野垂れ死になので官僚とはいえかなりハイリスクな役職ではある。
というか、名目上『官僚』とはいえ&bold(){その実態は限りなく[[奴隷]]そのもの}(一応、国から給料は出るし退職もあるので奴隷とは違うが)。
儒教的な教養に真っ向から反する存在でもある(後述)ため、実際の彼らの扱い・扱われ方は、そんじょそこらの社畜なんか目じゃないぐらいの悲惨さだったのだ。


宦官を登用する主な理由としては、
-後宮の女性に手を出せないので身の回りに置ける
-子孫を残せないので権力が集中しても一代限り、皇帝の座を一族に乗っ取られる心配が無い
この二点であろう。

また、後宮に勤めるということは日常的に皇帝に親しむということでもあり、
-権力を握る重臣に対抗するための、皇帝直属の戦力として行使できる
-皇太子の教育を任せられる
というメリットもまた存在する。


一方で、皇帝に権力が集中する政権では、裏で宦官が実権を握る事例が少なくなく(皇帝が暗愚であればなおのこと)、&font(b,#994c00){宦官=国を乱す悪というイメージ}がつくようになった。

もちろん、宦官といっても基本は宮廷勤めが許されるぐらいの有能な小役人であり、実際には&bold(){忠誠心に溢れ、かつ有能であった宦官はごまんといる。}

しかし、正規な手段を踏まない(官界で推薦を勝ち取ったり、科挙などの試験を通ったりはしない)ままに君主の傍に仕えることは、&font(#0000ff){正規の手段で苦労して就職した役人たち}にとっては言うまでもなく&font(b,#0000ff){不快}であり、
そもそも儒学の倫理的には&font(#ff0000){「父母から授かった身を傷つけること」は}&font(b,#ff0000){不孝}、しかも&font(#ff0000){「子孫を残し父母・祖先の孝を未来に継ぐための機関を、自ら切り捨てる」ことは}&font(b,#ff0000){非道}であった。
そのため、宦官は史官を含めた役人・大臣からは嫌悪と侮蔑、嫉妬の的であり、およそいい感情を抱かれることはまずなかったのである。


なお、よく誤解されるのだが、&font(#ff0000){&bold(){チ〇コを切っても性欲は無くならない。}}
宦官は現代でいう&font(#f09199){&bold(){おとなのおもちゃ}}を使って性欲をぶちまけてたらしい。
決して&font(#0000ff){&bold(){永続的賢者モード}}になるわけじゃないから絶対チ○コ切るなよ! お兄さんとの約束だぞ♪


また歴史の中では女王に仕える者はまとめて宦官と呼ぶ文化もあり、
実際にはチ〇コがついたままの僕も宦官と呼ばれていたケースもあるらしい。


**&font(b,#994c00){【有名な宦官】}

・&ruby(ロウアイ){嫪毐}
初っ端からなんだが、こいつは宦官ではなくニセ宦官。つまり切ってない。秦王政=後の[[始皇帝]]の母親・趙太后に仕えた。
呂不韋に&font(#ff0000){チ○コのでかさ}を見込まれて食客となり、
呂不韋の代わりに太后((呂不韋はもともと趙太后の愛人。政の父である夫が早世したことから密かに復縁し、太后の相手をしていた。この関係がバレるのはマズイと判断したことから嫪毐を雇ったという。))の性奴隷になって出世。
得意技は勃起したアレに車輪を通して回す芸。デカすぎィ!

おい、チ〇コ切れよ。

最期は太后に子を生ませてその子に秦を乗っ取らせようとして反乱を起こすが、秦王政に敗れて車裂きの刑。ヒエッ……。


・趙高
秦の始皇帝に仕えた宦官にして悪宦官の代名詞。
…といっても始皇帝の生前にはあまり悪事を働いていない。というより始皇帝は自分にも周囲にも厳しい人物であり、悪事を働く余地がなかった。
しかし始皇帝が行幸先で死亡したときに素早く策謀を巡らせ、宰相の李斯を脅して自分に都合がいい胡亥を皇帝に擁立して実権を握り、大暴れ。
正統な皇位継承者の扶蘇と、始皇帝の一番の側近だった蒙毅、その兄で最大の名将蒙恬を殺し、他にも皇族・大臣・役人に冤罪を押し付け虐殺・粛清。
さらに世界中から首都咸陽に兵士となる若者や労働者を掻き集めて食糧危機を招き、それを補うべく咸陽周辺の農民には作った穀物の自家消費を禁じ、
あげくは自分が宰相になりたいからという理由で李斯まで粛清したりとやりたい放題。

最期は胡亥を殺して子嬰を擁立しようと企み胡亥を殺すが、子嬰に先手を打たれて殺された。
ついでに言うと本当は自分が&bold(){皇帝になりたかった}が、さすがに周囲の反対が強すぎてひっこめざるを得なかったようだ。

ちなみに馬鹿の語源でもあるらしい((趙高が宮中に鹿を連れて来て馬と言い張り、鹿でしょ。と突っ込んだモノ言う官吏を処罰した指鹿為馬という史記記載の故事よりという説。なお読み方などの理由から今ではあまり支持はされていないが、一番有名な説となっている。))。


・司馬遷
「史記」を書いた、歴史学的にもえらい人。
漢の武帝に仕えたが、匈奴征伐に遠征して降伏した友人・李陵をかばい宮刑(=チ〇コを切る)に。
その流れは大体↓みたいな感じ。

司馬遷「いや李陵は頑張ったのだ。 ただ、援助が足りなかっただけだ」
↓
武帝「貴様、朕(チン)が悪いと言うのか? おい誰かこいつを切れ」
↓
司馬遷「え、何を切るんです?」
↓
武帝「首に決まっておろう!!」
↓
司馬遷「冗談じゃありません!!」
↓
武帝「金を出せば減罪してやろう」
↓
司馬遷「うちは貧乏なんです(´・ω・`)」
↓
武帝「じゃあ宮刑しかないな」

このような苦難を味わいながらもライフワークである史記を完成させ、歴史に名を残した。
ちなみに、司馬遷が書いた史記には史書としては珍しい「金儲けがうまい人物伝」である貨殖伝が載っている。
これは貧乏故に減刑を購えなかった遷の「金さえあれば……」という無念さの表れとも云われている。

また、史記は意外と漢皇室、特に劉邦に対しての記載に遠慮がない((よく読んだら「父親の子ではなく、母親の不義の子」と読み取れる、など。))。逆に始皇帝や項羽、呂后など漢にとっての大敵・逆賊にも詳しく書いている。
この辺は漢皇室への恨みがあったともされるが、おかげで史記は&bold(){歴史書にありがちな偏向が薄く、むしろ極めて中立な史書として知られている。}


・蔡倫
後漢和帝期から安帝期にかけて宮廷に仕えた宦官。当時絹などの屑を使って不織布を作る技術があったのだが、それを応用することで
繊維くずや樹皮から実用に耐える初の紙・蔡候紙の製造技術を開発したことで有名。

この技法を洗練させ、材料も検討していくことで現在に通じる紙漉きという手法が生まれた。
紙の普及は、木簡などではなかなか出来なかったことを可能にした。
例えば、懐から取り出してその場で詩を書き留めたり、戦場では伝令を使った即興での作戦変更の伝達をより簡単にした。
三国時代の建安七子の誕生や、[[諸葛亮]]と[[司馬懿]]の縦横無尽の策の巡らせ合いを生み出したのは彼の技術あってこそ。&font(#0000ff,u){&font(#ffffff){まあ当時はまだまだ高価だったので実際には木や布が主だったようだが。また、それ以前から絹(帛書)で似たようなことはできた。}}
他にも武器製造など様々な技術開発に従事した超優秀な技術者であった。


・梁商
後漢の順帝に仕えた名宦官。順帝の即位に尽力、その後も国をよく支え続けた。
皇帝の秘書官としてはメッチャ優秀。

しかし順帝がその功を称え、&font(#ff0000){宦官に養子を許す}というとんでもない大ポカをやらかし、しかも養子に貰ってきた梁冀は悪代官という最悪の事態。
おかげで梁一族が後漢の実権を握り、権威は失墜。三国時代到来の原因を作ってしまう。
&font(#ff0000){よくやった順帝。}


・曹騰
梁商と共に順帝に仕えた名宦官。以後も影ながら後漢を支え続けた。
彼の養子の子供、つまり孫があの[[曹操]]。
&font(#ff0000){マジで順帝よくやった。}


・十常侍
後漢の霊帝に仕えた10人の宦官だが、実は十人以上いる。
民から搾取→黄巾の乱。
少帝擁立→清流派の反乱→董卓やってくる→大将軍の何進を暗殺。
など、三国時代の幕を開いたのはあるいは彼らなのかもしれない。
しかし大将軍の暗殺はさすがにやりすぎ。この機を逃さなかった袁紹のクーデターで粛清されることとなった。

なお、三国志大戦では武将として1に登場、その後3では軍師として登場した。

1では伏兵と防柵を持っているので&bold(){伏兵なのに開幕から初期位置がバレている}という意味の分からないことをやらかしている。
 

・[[黄皓]]
蜀のバカ殿さ(ry……[[劉禅]]に仕えた宦官。
三国志演義では、まさに国を滅ぼしたイエスマンな悪宦官として描かれている。
[[姜維]]を追放したり、巫女のお告げとか言って魏が攻めてるのに酒宴しまくったり。
&font(#ff0000){だいたいあってるけどね!}

コーエー三国志では何故かネコミミ帽子を被っている。

三国志大戦2でも登場。
愚かな転身と言う武力の一番高い味方を城に戻すという微妙な計略を使う。

これで生姜&footnote(特に時間経過で2段覚醒したSR版)を戻したりできる。やったね。


・高力士
武周の則天武后・唐の玄宗に仕えた宦官。
彼自身は慎み深くさらに忠義心と理知に溢れた人材であり、高句麗出身の名将高仙芝ら有能な人材を多数推挙した。
宮廷で寝起きするほどの仕事熱心通り越したワーカホリックで、
玄宗曰く「高力士がいるからこそ安心して眠れるのだ」と言わしめるほどの大量の仕事を捌いていた。
しかし、彼が推挙した節度使である楊国忠と安禄山は世界帝国・唐の終わりの引き金を引いてしまう。
彼は楊国忠と安禄山の間に立って調停に尽力したりはしていたのだが……。

最期は玄宗の死を知り、慟哭して死亡したという。


・鄭和
明の航海王子。別に王子じゃないんだけど、どっかのエンリケ航海王子にならってこう呼ばれる。
元々、元に仕えた雲南のイスラム貴族で、捕虜になりチ〇コを切られ永楽帝に仕えたという感じ。
南シナ海やインド洋を股にかけ、アフリカ大陸のモガディシュや聖地メッカ巡礼に至る大航海を敢行し、
キリンなどアフリカの文物を持ち帰り、明の勢威を各地に広めるなど活躍した。


・魏忠賢
明の天啓帝に仕えた邪悪宦官。
財を蓄え、さらに配下の都合の悪いことも賄賂を貰って握りつぶすなど万暦帝が浪費出兵アンドニートで殺した明に死体蹴りを敢行した人間の屑。
その人間の屑っぷりは党争を利してライバルも恩人も出世の邪魔になるならば容赦なく葬り、絶対的な権勢を得ると、
自身を尭天舜徳至聖至神と称し、聖人であると言わせ、九千歳((万歳は皇帝専用の為、流石に使えなかった。なお末期には九千九百歳まで増やしたという。))と唱和し讃えさせた。
彼と彼を止められない天啓帝の悪政の中、民の怨嗟は危険水域に高まり、
ヌルハチにより建国された満州女真族国家後金の勢威はもはや明にも手を付けられないレベルになった。
だってヌルハチに負けても賄賂で勝った体に出来ちゃうんですもの、まじめに戦うはずがないわな。

最期は天啓帝の後に即位した崇禎帝により、逮捕される前に自殺した。
明特有の代替わり時の佞臣粛清システムはここでも機能はしたのである。

崇禎帝は必死に明を支えようとしたが、既に満身創痍の明は立て直しが利かず、
崇禎帝も洪武帝並に猜疑心が強く後金の攻撃を防いでいた袁崇煥を殺してしまうなどミスも多く、最後の皇帝となってしまった…
しかし…。


・王承恩
そして明最後の皇帝であった崇禎帝に仕えた宦官。
既に李自成の反乱軍が北京に迫り、多くの宦官が寝返りと逃亡している中、ただ一人最後まで皇帝の側で仕えた。
皇帝の王子・王女の逃亡先を全て仕切り、皇帝と心中した。

朝鮮半島や海を越えた江戸幕府にもこの話は伝わっていたようであり、明最後の忠臣としてその生き様を現代まで評価されている。
ぶっちゃけ、世間一般的に考えられる宦官の悪評とは完全に無縁な忠臣である。
いつまでも皇帝に仕えられるようにと、墓もすぐ側に作られたとか。


・李蓮英
清朝の高級宦官で、中華帝国最後の宦官と呼ばれている。
子どもの頃から52年間清朝に仕え、清朝の事実上の支配者だった[[西太后]]の下で宦官のトップにまで上り詰める。
清王朝が滅び中華民国が建国されると、民衆から搾り取って貯めた金で広大な土地を手に入れて豪邸を建て、もう無用だとばかりに自らの官職を銀1万両で売り飛ばした。
彼の所有する財産は、各種の動産まで含めると諸王に匹敵するほどの巨万の富であったという。


・清の下級宦官
ぶっちゃけ何をしたわけでもないが世界史の教科書、資料集に引っ張りだこ。
一般に宦官のイメージと言えばこの人。



・ナルセス
東ローマ帝国のユスティニアヌス1世に仕えた宦官。本職は官僚だが軍隊も指揮する。
宦官なら独立して自分の王国建てたりしないだろうと、イタリア遠征軍を率いて出陣、
イタリアを領有する東ゴート王国軍を粉砕した後、返す刀で火事場泥棒狙いのフランク王国軍を撃退。
20年近くかかったイタリア戦争を勝利で終わらせた名将。ちなみにイタリア征服時御年75歳。

そもそもユスティニアヌスがベリサリウスを猜疑心から何回も解任したり呼び戻したりしなけりゃご老体のナルセスを起用せずにすんだのは内緒だ。


・カストラート
欧州においてボーイソプラノを保つため、男性ホルモン抑制を目的としてタマを切った歌手。
ルネサンス期より一般化したらしい。
成人男性の胸郭の広さと強靭な肺活量を持ったまま、ボーイソプラノやアルト声を出せるため、女性が声を出せない事になっていた教会の聖歌隊で重宝された。
ナポレオンが禁止令を出しても後を絶たなかったが、1878年に時の教皇による禁止令が出てようやく沙汰止みとなった。
最期のカストラートは1922年まで生存していたらしい。声を録音した音源も残っているが、全盛期過ぎだとか。

現在、カストラート前提で作られた楽曲はソプラノ歌手やボーイソプラノ、あるいはソプラニスタやカウンターテナー(米良美一さんのパート)で代用されている。
一応今でもカストラートに準じた存在はちょくちょく出るが、切ったわけではなくホルモン分泌異常でカストラート状態になっただけである。
 



追記・修正はチ〇コを切ってからお願いします。

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- ちなみにヨーロッパのはカストラートといいます。かのベートーベンも危うく去勢されてカストラートになる所だったとか。  -- 名無しさん  (2013-08-31 17:10:35)
- 曹操の爺さん めっちゃ評価されてるな  -- 松永さん  (2013-09-14 01:31:31)
- 因みにブツの切り方は、1.まず縄で根元を縛ります 2.血が止まり、神経が死に、痛みが少なくなります 3.体を固定し、石斧(石剣)で勢いよく切り落とす。 という方法が一般的らしい。  -- 名無しさん  (2014-01-30 17:42:20)
- やめてくれ。聞くだけで痛い。  -- 名無しさん  (2014-01-30 18:37:54)
- ↑2 マイボールがキュッてなった  -- 名無しさん  (2014-01-30 20:12:25)
- ちなみに傷口には消毒と止血の為に石灰なんかをまぶしたらしい。聞くと痛いけど切り方とかが確立するまでは半分も生き残れなかったからね…  -- 名無しさん  (2014-01-31 10:49:05)
- 張承業という人も唐朝に忠節を尽くした名宦官だったとインターネットで見たけど、忠誠心のある宦官よりもろくでもない宦官のほうが目立つせいで宦官全体のイメージが悪すぎる。  -- 名無しさん  (2014-01-31 13:23:40)
- ↑唐朝といえば玄宗皇帝に仕えた高力士も有名だな。力士自身は優秀な人物だったけどその後に彼の権力基盤を継いだ宦官がそろいもそろってろくでなしだったので結局国が腐っちまった。  -- 名無しさん  (2014-03-22 18:24:42)
- 蒼穹の昴という本で虚勢について詳しく書かれてたな…  -- 名無しさん  (2014-03-22 18:56:17)
- 刃物で切るのではなくワイヤーや糸をきつく巻きつけて壊死させて落とすと聞いたことがある。  -- 名無しさん  (2014-03-22 19:06:58)
- 1.チンコだけ 2.キンタマのみ 3.チンコとキンタマ両方  -- 名無しさん  (2014-03-22 20:44:58)
- ↑確か3を↑×2の方法で去勢すると書いてあったような。  -- 名無しさん  (2014-03-22 22:14:46)
- 権力握ったのはごくごく一部だったから歴史に名を残しているのであって99%は奴僕として一生を送った。  -- 名無しさん  (2014-03-23 23:44:05)
- ヒストリエにも去勢された奴隷が出てきてたな。エウメネスも危なかった  -- 名無しさん  (2014-05-12 05:13:49)
- 宦官は去勢で尿道が短くなったせいで失禁しやすくなって常に悪臭を放ってたとか  -- 名無しさん  (2014-11-23 12:23:18)
- もうそんな時代じゃないがやっぱり日本に生まれてよかったよ俺ぁ…  -- 名無しさん  (2014-11-23 12:49:22)
- でも、成功率7割って結構当時のタマとりは結構成功率高いんだな。もっと死亡率高いと思ってたが。  -- 名無しさん  (2016-08-02 08:56:36)
- ↑2 科挙の合格率の低さは教育制度がなってないのに高い知性を求めるっていうかなりの無茶ぶりも原因だからな、なんだかんだ言って日本の教育には感謝よ  -- 名無しさん  (2016-10-04 15:03:10)
- 確か、チンコ切った後で、入口が癒着して塞がらないように尿道にコヨリ入れるんだっけ?  -- 名無しさん  (2017-05-21 14:42:50)
- 横山光輝「史記」の「司馬遷」の章でも宮刑のやり方が描かれていたな。でも流石に「手荒な手術だったが、死んだ者はほとんどいなかったという。」は嘘だな?  -- 名無しさん  (2017-06-07 07:41:07)
- 割とタマ壊死させるだけのも多い  -- 名無しさん  (2017-06-14 02:55:19)
- ↑↑(術後のケアが行き届いていたから刑としてちゃんとやれば)手荒な手術だったが死んだ者は殆どいないのであって、科挙にも受からないような貧乏人がセルフでちんこ切ったところで術後のケアが行き届くはずがないということで、この記事にあるように3割は化膿で死んだということだと思ったんだが  -- 名無しさん  (2017-06-14 04:16:44)
- 去勢したので女中に手は出さなかったけど、国政に手を出しましたとさ  -- 名無しさん  (2017-11-24 14:52:03)
- 宦官は独占欲とか金銭欲が強くなる方向性があるから  -- 名無しさん  (2017-11-24 15:43:57)
- 設定のみだけど、ジンライガーでチンコナッシという名前の宦官がいるし  -- 名無しさん  (2018-07-04 11:22:11)
- 三国志疎いから教えてほしいんだけど、なんで順帝よくやったって言われてるの?  -- 名無しさん  (2018-07-04 14:16:25)
- 現在の中国の官僚制度とかはどうなってるのかな?w 実は高級官僚のほとんどが玉無しだったら笑えるが。  -- 名無しさん  (2018-07-04 14:30:13)
- ↑2 順帝が宦官の養子取りを容認する→大宦官の曹騰が曹嵩を養子に取る→曹嵩が曹操を産む→曹操という三国志の英雄が誕生。  この流れだと、「曹操」と「三国志」を生み出したのは、ある意味で順帝だ(順帝が宦官養子取りを許可しなければ歴史に曹操は生まれず、三国志もつまらなくなる)、という意味。たぶん。  -- 名無しさん  (2018-07-04 14:39:48)
- キラーコンドームは男性を無差別に宦官に変える恐怖のクリーチャー  -- 名無しさん  (2018-07-07 13:46:10)
- 当たり前だけど、男性ホルモンのほぼ全てが男のアレに集中しているため、去勢するとその男の人は髭は生えなくなり、声は高くなる  -- 名無しさん  (2018-08-21 21:39:35)
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