スーパー・ストロング・マシン

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スーパー・ストロング・マシン - (2019/07/20 (土) 23:12:19) のソース

&font(#6495ED){登録日}:2019/07/20 Sat 22:49:57
&font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red)
&font(#6495ED){所要時間}:約 18 分で読めます

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#center(){&b(){ギギギ…ガガガ…}}



&font(l){平田淳嗣}&b(){スーパー・ストロング・マシン}は日本の元プロレスラー。
主に[[新日本プロレス]]で活躍していたが2018年6月に引退。
尚、翌2019年にDRAGON GATEで新型の&b(){ストロングマシーン・J}がロールアウトした。

旧リングネームは&b(){ストロング・マシン1号}
いっぱい居たマシン軍団のリーダーだったが、いつの間にかみんな消えていた。
“スーパー・ストロング・マシン”は、そういった意図で使い分けていたのかは不明だが単体で活動する場合の名前となっていることが多い。

しかし、本人に関係あったり、無い所でマシンのマスクは増殖していった。
自らも後に誕生した別チームで“スーパー・ラブ・マシン”や“ブラック・ストロング・マシン”と名乗ったことがある。

尚、呼称の内のマシンの部分はマシンかマシーンかで表記揺れがあるが、現在では概ね“マシン”に統一されていることもあり、本項目でも明確に伸ばしているもの以外は基本的にマシンとする。
また、&b(){魔界1号}という&font(l){中身が一緒の}そっくりさんが居た。


*【来歴】
#openclose(show=誰が平田だ){
&b(){平田淳嗣}は日本の元プロレスラー、神奈川県平塚市出身。
1956年12月20日生まれ。
本名、及び旧リングネームは平田淳二。
高校時代からプロレスラーになる夢を持ち柔道とボディビルで鍛え上げ、高校中退後は新聞販売店に住み込みで働いていた。
元々は全日本プロレスに入門していたが父親が脳梗塞で倒れた為に退団。
しかし、プロレスへの夢は断ち切り難く、店長に誘われて77年の猪木vsチャック・ウェップナー(映画『ロッキー』のモデルの人)の異種格闘技戦を見に行った帰りに買ったパンフレットで見た新日本プロレス道場に手紙を送り、翌年の入団テストに合格してプロレスラーとなった。
同期には前田明(前田日明)や、高野譲治(ジョージ高野)がおり((若手時代に飲みに行き、深夜に寮に帰った所でウ○コが我慢出来なくなり、トイレに駆け込もうとしたものの間に合わずに廊下にブットいのを落としてしまった。朝になってよりにもよって同期のジョージに踏まれ、その踏んだ○ンコをよりにもよって同期の前田が見つけた。前田はデカい足跡がジョージだと看破すると、ウン○をしたのもジョージだと問い詰めた。しかし、ジョージは否定して聞き付けてやって来た平田が告白した。後年、マシンと前田がリングで組み合った時に「ウンコたれ」と囁くと、激怒したマシンは前田をボコボコにしたという。))、二人に比べると無骨ながら器用な平田は三羽烏と称されて将来を期待されていた。
本当は、三羽烏こそが藤波や長州に続く団体を背負うスターとなる筈だったのだろうが、色々あって前田以外は大成したと言えないのが残念である。

平田は長州二世と呼ばれて数年に渡り前座で活躍、82年11月に海外修行に出発して先ずはメキシコで活躍。
カネックのタイトルに挑戦したり、ドス・カラスとタッグを組む機会も得ている。
翌83年からはカナダのスチュ・ハート((90年代WWF(WWE)の大エースであるブレット・ハートの父ちゃん。ハート一族の主宰するスタンピード・レスリングはかなりの実力派の集うリングとして語られている。))のスタンピード・レスリングに参戦してインディアンギミックの“サニー・トゥ・リバー”を名乗ってベビーフェースとして活躍した。
この時期に&font(l){『アメトーーク』なんかでもネタにされている}ザ・コブラとなったジョージ高野から英連邦ミッドヘビー級王座を奪取している。
スタンピード・レスリングでは新日本プロレスと提携していた関係から、新日本プロレスにも来日していた実力派と試合したり、若き日のブレット・ハートや、その義兄弟のデイビーボーイ・スミス、そのパートナーとして知られるダイナマイト・キッドといった日本でも知られるトップスターとタッグを組んでいる。
ミネアポリスにてマサ斎藤と長州と接触した時には日本で維新軍((当時、長州が藤波への所謂「噛ませ犬」発言の後にマサ達と結成していた反体制派チーム。))入りとの噂もあったが実現していない。

84年に入ると、先輩のキラー・カーンからフリッツ・フォン・エリックの主宰するWCCWへの参戦を打診されていたが坂口征二からの要請を受けて立ち消えとなり、平田は日本に帰国することになった。

尚、当初は当時の人気キャラクターを元にしたマスクマンとして[[キン肉マン>キン肉マン/キン肉スグル]]に変身する予定があり、本人も嫌がり、悩みながらも周囲のアドバイスもあって受け入れた…矢先に、何やかやがあって断念されている。

もし実現していたとしても、マシンの様なプロレス史に残るマスクマンにはなれなかっただろう。
}

1984年8月、将軍KYワカマツ率いる“マシン軍団”のリーダーとして、いきなり[[アントニオ猪木]]とのシングルマッチでデビュー。
尚、初披露の際には普通の目出し帽を被っており、更にマシンらしいゴツいボディを演出したかったのか、何故だか&b(){アメフトのアーマー}を着込んだ上から白いTシャツを着用していた。

下半身は普通の黒のショートタイツで[[アンバランス感>KBTIT]]が半端なかったが、装備通りのアメフトキャラだったのか、猛烈なショルダータックルで若手を吹っ飛ばして猪木に対戦アピールした。


尚、人間ではなく&b(){&ruby(マシン){機械}}である。&font(l){[[ダダッダー♪>グレートマジンガー(アニメ)]]}
当時、記者がインタビューしようとした所、&b(){機械音が聞こえた}とスポーツ新聞に載っている。
「ギギギ…ガガガ…」
この関係から、当時、実況を務めていた古舘伊知郎はKYワカマツを指して“[[悪の正太郎くん>鉄人28号]]”や“[[地獄のお茶の水博士>鉄腕アトム]]”という、歴史に残る名キャッチコピーを残している。

猪木戦ではセコンドとして、同一のマスクとコスチュームの2号が付き、以降の展開の中で軍団にまで拡大した。
初登場時は単に“ストロング・マシン”と呼ばれていたが、2号とタッグを組んだので1号が付き、以降も3号、4号と増えていった。
また、ナンバーがつかない特別なタイプも登場した。

1号は同じマスクとコスチュームながら、それぞれに性能の違うチームを率いて大暴れ。
1号の持ち味はゴツい身体から繰り出されるラリアットとタメの利いたスープレックスだった。

特に、変形のハーフハッチ・スープレックスと説明される必殺の&b(){魔神風車固め}は、30年以上に渡って説得力を維持した代表的な必殺技である。

マシン軍団は1号と2号の抜群のコンビネーションを誇るタッグチームから始まり、翌年から3号と4号が加わっていった。
尚、3号は84年11月の試合で乱入という形で登場しているが、この時には定着しなかった。
&font(l){そして、後の3号とは体格が違った。}

年が明けると3号と4号が正式に加入。
当初は別のカラーリングだったが、後に全員が同じ黒のカラーリングで統一され、コスチュームが同じ事を活かして、タッチを介さずとも自在に入れ替わるトリックプレイを駆使して正規軍を翻弄した。
古舘伊知郎はマシン軍団の増殖による撹乱を指して“地獄増殖軍団”と表している。

また、司令塔のワカマツによる粉攻撃(目潰し)のタイミングも絶妙で、幾つもの勝利をマシン軍団にもたらした。

このままマシン軍団が新日本プロレスを席巻するかと思われたが、4月に1号が銀のマスクを被って臨んだ[[藤波辰爾]]との対戦で、ワカマツの粉攻撃の誤爆からドラゴンスープレックスで敗北させられたことに怒った1号が反逆。

リーダーながらマシン軍団から追放され、新たに“スーパー・ストロング・マシン”を名乗り、当初は正規軍入りかと思われたが単体で活動することになった。 
5月にはワカマツに襲われる藤波を救出。
当の藤波から&b(){「お前、平田だろ!?」}と、&font(l){プロレス史に残る名(迷)言}訳のわからないことを言われたが、根も葉もない指摘である。(すっとぼけ)
この時には、更に自らマスクを行動に出るも[[ウォーズマン]]的な感じになるからかタオルで頭部は覆っていた状態だったので中身までは解らなかったし想像も出来なかった。(すっとぼけ)

翌86年になると、カナダで修行を積んだヒロ斎藤、高野俊二と共に、マシンもカナダ製だったのか“カルガリー・ハリケーンズ”を名乗って、先んじでジャパンプロレスを率いる[[長州力]]が暴れまわっていた[[全日本プロレス]]に襲来。
長州とは対立し、阿修羅・原とのコンビでアジアタッグ選手権も獲得する等の活躍を見せる。
また、この時期に[[天龍源一郎]]の保持するUNヘビー級王座に挑戦する等、その性能を見込まれていたことが解る。

同じ外敵組とはいえ長州とは抗争に入り、周囲も巻き込んで激しく争うが決着は付かなかった。
戦いの後で長州の挑発に乗って再びマスクを脱ぎ、TV中継にも乗るが次の日には元に戻っていた。

1987年にはマシン含め、全日に行っていた面子が出戻る。
新日では同じくUWFからの出戻り組とかち合い、当初は抗争になるかと思われたが、長州の呼び掛けによる&b(){俺達の時代}によるNEWリーダー軍が結成されて猪木や坂口、マサ斎藤といったベテラン勢との抗争が開始される。
尚、NEWリーダー軍の結成に伴い、UWF勢のリーダーである[[前田日明]]と久々に共闘。
……なんか、昔ロールアウトした時期とデビューが一緒の頃らしいっすよ。(すっとぼけ)

……しかし、前田とは握手を拒否されたという些細なことから遺恨試合にまで発展している。
それから前田が追い出されたり色々あってこの抗争は有耶無耶の内に終了。
1989年には、同じく新日に来た時期が一緒らしい(すっとぼけ)&font(l){元コブラこと}ジョージ高野と、ジョージ命名の&font(l){組んでる方としてもどうかと思った}烈風隊を組んでIWGPタッグを獲得までするも、陥落後にジョージがSWSに引き抜かれてコンビ消滅。

その後は、近しい関係のヒロ、後藤達俊、保永昇男の結成したブロンド・アウトローズに加わり活動。
勢いのあるヒールユニットで、92年にレイジング・スタッフに改名した当初は自然消滅していたマシン軍団の再来とばかりに他のメンバーもマスクを被る等していたものの長くは続かなかった。

翌93年秋頃に後藤とマシンの対立が引き金となってチームは崩壊。
後藤は[[越中詩郎]]をリーダーとする[[平成維新軍]]に加わり、マシンは当時抗争していたWARに乗り込み、かつてのパートナー阿修羅・原と共闘した。

そして、それから約一年後の94年10月がマシン最大の転機となった。
当時の新日本プロレスでは、若手のエース格の[[闘魂三銃士]]の一人にして、選手会長まで務めていた[[蝶野正洋]]が夏のG1グランプリ制覇後にヒール転向して暴れていたのだが、蝶野が本当に一匹狼で活動していた所に、SGタッグリーグを前に、マシンが声をかけて急造ユニットが誕生したのである。

……尤もこれは、団体のトップに立つ選手の一人でありながらSGタッグ出場への意欲を示さないことから、会社の命令でマシンがパートナーに使命されたのからの動きであった。
こうして、リーグ戦に臨んだマシンだったがリング外の不満をぶつける様な蝶野はタッグを成立せることを拒否してマシンはぞんざいな扱いを受ける。
&font(l){先輩の意地のある}マシンとしても一筋縄ではいかず意地を見せる凸凹コンビは、互いに誤爆による一触即発を繰り返しながらも、逆に好き勝手にやった暴れっぷりにより、何と名コンビと名高い[[武藤敬司]]&[[馳浩]]の待つ決勝まで進出してしまうのだった。

#openclose(show=だから誰が平田だ){
リーグ戦終盤には「マシン“さん”」のコメントも出ていた蝶野だったが、決勝でも大暴れ。
マシンも、絆をアピールしたかのようなSTFを馳に極める等したものの、それを&b(){蝶野にカットされる}始末。
結局、睨み合った末に蝶野にラリアットを見舞い自らマスクを脱ぎ捨てると、&font(l){今更ながら}マシンは、自分が平田であったことを公にしたのだった。
そこから、やってられないとばかりにリングを後にしていた蝶野の援護もなく、武藤と馳のコンビネーションを受けた平田は轟沈。
&font(l){武藤がマイクアピールを薦めたこともあり}マイクを取った平田は、プロレス人生最大の名言&b(){「こんなしょっぱい試合ですみません!」}を残すのだった。

……因みに、平田の言葉とは裏腹にこの決勝戦は&b(){ガチで面白い}。
ハチャメチャな展開で上記の様なアクシデントもあるが、普通に見応えのある名勝負である。
尚、このしょっぱい試合とは元は相撲から来た業界の隠語であったが、これ以降は一般層にも広まりつまらない試合や揶揄したい試合を指す言葉になった。&font(l){IWGP王座まで獲らせたのにファンの支持を受けられなかった新日時代の[[佐々木健介]]が佐々木塩介と呼ばれたりと直ぐに応用が出来る程の浸透ぶりだった。}

こうして、素顔になった平田は&b(){第二のブレイ}とも呼べる程の活躍を見せる。
日本に限れば素顔では初であった。
先ず、因縁の蝶野との三連戦ではチョーク気味のSTFで落とされるという失態を見せるものの、かつて&b(){一番最初に正体をバラした藤波の応援もあり}ベテランらしい老獪さで一矢酬いる。

本隊に復帰すると95年からは本隊のリーダーとなっていた[[橋本真也]]とタッグを結成。
[[天山広吉]]とヒロと狼群団を結成し、遂に手勢を手に入れてIWGPタッグにも就いていた因縁の蝶野&天山の“蝶天タッグ”を破り、タッグ王座を本隊に取り戻す活躍を見せた。
他にも、シングル、タッグの両方で団体トップクラスの選手からピンを奪う暴れっぷりを見せており、最初は訝しんでいた橋本も最高のパートナーと呼んで信頼を寄せるようになった。
この時期に、当時のIWGPタッグ王座の最多防衛回数を記録。(6回で現時点では歴代3位。)

その後は本隊の重鎮として落ち着いたポジションに下がっていたが、99年の猪木の逆クーデター以来の新日が揺らいでいた時期に、安田忠夫親衛隊として、星野勘太郎に率いられる魔界倶楽部の1号としてマスクマンに復帰を果たした。
}

SGタッグリーグ決勝に何事かがあって姿を消していたが、蝶野が指揮していたT2000時代にかつてのマシンを彷彿とさせるT2000マシンが出現するとマシンも復活して抗争。
&font(l){正体は因縁ある後藤だったが、後に小原道由が扮する2号や正体不明の外国人も加わり混乱を呼んだ。}

そして、99年頃に創始者でありながら新日本にクーデターを指揮した猪木の子飼いとして送り込まれた格闘技系の選手の補助として2002年頃に魔界倶楽部が結成されてマシンにそっくりな魔界1号がまとめ役となった。
魔界軍団は猪木の刺客と共に新日本プロレスを席巻したが、その後で何やかんやあって正常化した新日から魔界倶楽部は消えてマシンが帰って来た。
魔界1号はスーパー・ストロング・魔神というリスペクト溢れる名前を名乗ったこともあるので、それに応えたのかもしれない。(すっとぼけ)
尚、魔界軍団では[[4号>柴田勝頼]]のような意外なメンバーや、意外すぎるゲストが名を連ねている。

その後は、04年に武藤が社長になっていた全日本プロレスにリストラに抵抗するメンバーにより結成したされたラブマシンズにリーダーとして迎え入れられて“スーパー・ラブ・マシン”を一時期名乗った後で新日本に戻り、蝶野の配下となって“ブラック・ストロング・マシン”を名乗って活動した。
&font(l){05年にはブラック言いつつ後藤と共に現場責任者となっていたが戻ってきた長州に解任されている。}

06年には普段の興行とはスタイルの違う『WRESTLE LAND』興行の責任者にベテランの平田淳嗣さんが就任して出場するマシンの言葉を広報してくださる。

07年には和解した蝶野や長州と共にレジェンド軍が結成されてマシンも参加。
09年には[[永田裕志]]が結成した青義軍のご意見番に就任するが、この頃から露出が減る。

2013年3月の旗揚げ記念日に暫くぶりに参戦。 
14年4月には青義軍の井上亘の引退試合にて暫くぶりに登場。

その後も選手登録されていながら出場のない状態が続いていたが2018年1月に契約の完了と共に6月での引退が発表される。
既にボディはボロボロ、機械も錆び付いているということで引退試合は行われなかったが、当日に行われた田口隆祐により&font(l){超近場から}召集された新生マシン軍団([[SSマシン・ドン>中西学]]、[[SSマシン・ジャスティス>永田裕志]]、[[SSマシン・バッファロー>天山広吉]]、[[SSマシン・エース>棚橋弘至]]、[[SSマシン・No.69>田口隆祐]])とロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンとの10人タッグマッチでは、元祖マシン軍団を率いたKYワカマツと共にセコンドに付き、空気を読まない発言を&font(l){アングルで}繰り返していた[[内藤哲也]]にラリアットを見舞って勝利に貢献した。

#openclose(show=俺が平田だ){
試合後の引退セレモニーでは魔界倶楽部や新日本プロレスで苦楽を共にしてきた面々も集った。
魔界倶楽部は故星野総裁の遺影を胸にビッシビシを捧げ、&font(l){試合を終えたばかりの}永田と来場した井上の青義軍も敬礼を決めた。
平田は、マシンのままで挨拶を行い、10カウントゴングの後に、更に長年の負傷により受け身も取れない程に身体を傷めていたことと、最愛の妻を病気で失ったこともあり、心機一転して第二の人生を送る決断をしたことを告白。
妻への感謝の言葉を捧げる偉大なるマスクマンを新日本本隊のメンバーも取り囲み別れを惜しんだ。

そして、2019年3月に息子が&b(){ストロング・マシーン・J}を名乗ってDRAGON GATEでデビューすることが決定し、デビュー会見に出席。
ドラゲーでは早速マシン軍団が増資し、マネージャーとして参戦した将軍KYワカマツも嬉しさを隠さず「令和はマシンの時代が来る」と太鼓判を押した。
新人ながら脇を囲むのがドン・フジイとGammaという、ドラゲーでも大ベテランの実力者の為か無配記録を重ねた。
}

*【マスク】
プロレス史上に残るマシンのマスクは本人の発注で、楳図かずお作の『笑い仮面』の不気味さからアイディアを得たものだという。

このマスクが単に有名なのは、&b(){被った人間が非常に多い}ということであり、本人も知らない所でマシン軍団が増えていった。

マシン軍団がどんどん増えるというアイディアから、&b(){誰が見ても正体バレバレ}の[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]までもが扮したのは未だに語り種になっている。((当時のアンドレは気難しく、怒られるかな?と思っていたらマスクを見た途端に喜び、その場で付けてみた程だったという。))

この他、有名な所では総合格闘技でも活躍した[[桜庭和志]]が入場時に着用していたことも次代を越えた知名度を高めており、最も普及したプロレスマスクと言えるかもしれない。

マシンのマスクが優れているのは、カラーリングやマークを越えても見事にハマってしまう完成されたデザインと機能性の高さも忘れる訳にはいかないだろう。

また、近年では存在そのものがパロディであるスーパー・ササダンゴ・マシン(マッスル坂井)がバラエティーでも活躍しており、

マシンのマスクは尚も増殖し続けている。


*【主な得意技】

-魔神風車固め
別名をマシン・スープレックスともいい、[[マシンと魔神をかけた>マジンガーZ(機体)]]命名のオリジナルホールド。
相手の頭を正面から左脇に抱え込み、右腕で相手の左腕を相手の背中でハンマーロックに固めた状態で真後ろに投げ、そのままブリッジで投げ固める。

-ジャンピング・パワーボム((ライガーボムと表記されている場合もあるが、落とす際に足を相手の腕に引っ掛けない点で区別出来る。ゲームでは明確に区別されている。))
95年に&font(l){マスクを脱いだ頃から}使用する様になった技で、ゴツい身体で決めるので説得力も充分で多くの試合でフィニッシュとなった。

-ラリアット
マシン&font(l){平田}・ラリアットととも。
全身をぶつける様に打ち込んでいく。

-ダイビング・ヘッドバット
実は名手の一人である。


*【余談】

-マシン軍団の正体は公式には明かされていないが、1号(平田)、2号(力抜山=韓国人レスラーの梁承揮)、3号(最初はダニー・クロファット、後でベテランのヤス・フジイ)、4号(最初は小錦の実兄アノアロ・アティサノエ、その後は複数の人間が入れ替わっているとされる)というところまでが明らかにされたり予測されている。&br()また、日本で増殖マシン軍団として前述の様にアンドレとマスクド・スーパースターがマシンに変身しているが、このアングルは新日と提携を解消した後のWWF(WWE)にも取り入れられ、[[ハルク・ホーガン]]や[[ロディ・パイパー]]、ブラックジャック・マリガンといった当時のトップ選手や、単発ではクラッシャー・リソワスキーの様なレジェンド級のベテランもマスクを被った。

-ザ・コブラのマスクを脱いだジョージ高野(正体は明かしていない)との試合を組まれ、試合前に「俺はね、あんな中途半端にマスクを脱ぐような奴とは違うんだよ、あんな腰抜けに俺が負けるわけねえんだよ!」と息巻いたものの、直後にアナウンサーに「それは高野選手がマスクマンだったということですか?」と、突っ込まれて「そうだよ。悪いかい?」と&b(){やっちまった……}感を出して答えた。&br()『アメトーーク』で紹介され、数十年越しに新たな話題を呼んだ。
 
-「しょっぱい試合ですみません!」と「お前平田だろ!」はプロレス史に残る名(迷)言としてネタにされ続けている。&br()2009年にNOAHの杉浦貴に弄られた時には冷静に「誰が平田だ」と返し、反対に名古屋のみなさん。杉浦君がしょっぱい試合をしてすいませんでした」と切り返して爆笑を誘った。





しょっぱい追記修正ですいません!

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