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開戦関連 - (2021/08/28 (土) 17:00:46) の1つ前との変更点

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#contents ---- **アメリカへの宣戦布告を遅らせた在米日本大使館員がその後、外務省事務次官になったという話は本当でしょうか? >もし本当だとしたらひどい話だと思うのですが。。。 当時の外務省の規定による順当な昇進なので、なにがひどいかわかりません。 #right(){(5:346)} **開戦前前田利為中将はどこで何してたのでしょうか予備? 前田利為少将は、関東軍において、対ソ戦を主張する東条英機との争いに敗れ、予備役に追いやられました。 その後、太平洋戦争開始後に蘭印の軍政担当将校に就任しましたが、航空機事故でお亡くなりになっております。 #right(){(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **「ニイタカヤマ」テ何デスカ 台湾にある山。 #right(){(20:ちゃぎ)} 現「玉山」 #right(){(20:591)} **真珠湾攻撃の時、オアフ島などに上陸していたら占拠できたのでしょうか? いわゆる「ガッチリハワイ」という定型句で語られる定番妄想です。 そしてその反証もまた定番。 そもそも真珠湾攻撃は完全なヒットアンドアウェイを狙った作戦で、 上陸して占領、なんて発想は当時の軍部では誰も考えてはいませんでした。 海軍手持ちでかつ動かせる陸上戦力では、ハワイ諸島の制圧はどだい無理な話。 ハワイ群島を制圧するほどの戦力ともなると、陸軍の協力なしでは兵力すら集められないのですが 日本の陸海軍の仲の悪さはいうまでもなく、こんな投機的作戦に陸軍が付き合ってくれる可能性はゼロです。 冗談の上に冗談を積み重ね、なんかの手違いで1942年初頭に日本軍がハワイを占領したとでもしましょう。 さて、ハワイ占領軍は何を食って生きるのですか?  長大な太平洋をいきなり横切って補給線を構築するには、日本はあまりに貧しすぎる国でした。 よしんばそれをなしえたとしても、それを護衛する戦力は無く(そしてそうした発想も無く)、 数ヶ月もかからずにハワイ占領軍は亡者の群れとなることが容易に想像できます。 さらにハワイに戦力を割くことで日本の南方進出のスケジュールは大きく狂うでしょう。 フィリピン、へたをすればシンガポールの占領すら失敗に終わる可能性も出てきます。 こうなると日本は継戦体制の構築に完全に失敗することとなり、 史実より数年早く枯死するという結末を迎えることとなるでしょう。 #right(){(26:931)} **真珠湾攻撃時、合衆国がハワイに展開していた陸上兵力と航空戦力は量にしてどのくらいの戦力だったのでしょうか? (陸軍)  P-36A 39機(4PG?)  P-40B/C 67機(15/18PG)  ランドルフ砲台に36センチ砲×2  歩兵3個師団 (海軍)  F4F-3 11機(VMF-211)  F2A-3 19+?機(VMF-221)  PBY-1 24機(VP-6F/VP-10F)  海兵隊1個師団? #right(){(27:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **日米合作映画「トラ・トラ・トラ」を見ていたら、真珠湾奇襲攻撃直前に、日本政府にルーズベルトから天皇宛の親書が届けられた場面があったのですが、これは事実なのでしょうか コンナサイトガアッタ。 ナカホドニ ルーズベルトが日米開戦の直前に天皇宛親書を送ってきて、41年12月7日深夜、 駐日大使のジョセフ・グルーがようやく夜10時に受け取って、それを持って 宮中に行ってドアをドンドン叩いて起こしたのが8日に入った夜の12時半ぐらいで、 結局、真珠湾攻撃の時間が夜中の日本時間で2時ぐらいでしょうか。 ハワイ時間だと、だいたい朝7時ぐらい。 ですから結局、間に合わなかったという話があるんですけれども~ トイウハナシガカイテアルヨ! #right(){(33:ベタ藤原 ◆MNjfnp0E)} **真珠湾奇襲ってやらない方が良かったんじゃないの? 軍令部のというか、伝統の用兵プランがそれでして しかし こちらの漸減作戦のプランどおりに向うが動いてくれるとは限らない 日本が南方攻略の間に太平洋艦隊が何を起こすかわからないetc で先手を打つことになりましてあの結果になりました。 #right(){(41:242)} 結果論で行くと正しいが 当時の軍事常識から行くと間違いだね 日露の戦いも奇襲攻撃で開戦したし #right(){(41:244)} **新高山登れの秘密信号ってなんでしょうか。 「ニイタカヤマノボレ」 ハワイに向け航行中の南雲艦隊や、南方諸島に向かった 攻略部隊に、戦争(太平洋戦争)の開始を知らせる暗号。 戦争回避の場合には別の暗号で各部隊は帰還させる 予定だったらしい。 なお、新高山は台湾で一番高い山。 #right(){(51:263)} 12月2日連合艦隊から隷下部隊に発信された暗号で、 「X日(開戦日)を12月8日零時に定む」という趣旨のものです。 詳しくは阿川弘之氏の「軍艦長門の生涯」あたりをどうぞ 新高山は台湾にあった山で、日本領土では最高峰でした。 #right(){(51:264)} **真珠湾攻撃の時、南雲機動艦隊は日本からハワイまで誰にも会わなかったのですか? 会わないような航路を選んだのです。 それでも、実際に会わないですむかどうかはかなり運次第だったのだけど。 #right(){(61:150)} **日米開戦の時、駐米日本大使としては本来どうすべきだったのでしょうか? 誤解されているようですが(広まっている誤解ですが) その日、ワシントンで遅れて手渡された文書には肝心の一言 「これよりアンタの国と戦争しますよ」が抜けているので、 宣戦布告文として意味を為しません。 アメリカではそんなわけで、日本帝国議会において昭和天皇が 開戦の詔勅を述べられた時刻を持って「日本に宣戦布告された」としています。 #right(){(70:828-829)} ヨーロッパ流の国際法解釈では、 「これよりアンタの国と戦争しますよ」が抜けていても、 最後通牒=交渉決裂、ここから先は何があってもあなたの責任 をわたせば、宣戦布告として有効じゃなかったかな? #right(){(70:833)} **日本機が布哇を攻撃する前に米駆逐艦が甲標的と思われる潜水艇を撃沈していますが、これれって米側の先制攻撃と判断されないのでしょうか? 撃沈した場所が重要 公海上で、米駆逐艦が撃沈したなら問題だが 米領海の話でしょ? 正当防衛扱いだわな #right(){(70:851)} **ルーズベルトは真珠湾を攻撃されること知っていてワザと価値のない戦艦を攻撃させたの? 不意をうつ事を狙って自主的に攻撃し、成功したのですから奇襲です。 暗号が解読されていようが、黙殺されようがそんな事はなんの関係もありません。 「卑怯だったか?」という事でなら議論の余地はあるでしょうが。 #right(){(74:375)} その証拠は何1つない。 アメリカの作戦参謀ならともかく、大本営の作戦参謀の証言など無意味。 #right(){(74:378)} 真珠湾を攻撃されること知っていてワザと価値のない戦艦を攻撃させた というのは全くのウソです。それなら空母をあんな危険なところに 置くはずありませんから。 どこかを攻撃させて・・・という考えはあったでしょうが、 真珠湾を囮に使うことは絶対にありえません #right(){(74:379)} **誰が太平洋戦争を始めたの? 昭和天皇です。 #right(){(79:726)} 帝国憲法下だから法的責任はマッタク生じないけどね。 #right(){(79:728)} おいおい、帝国憲法を素直に読めばあらゆる国家行為は天皇の名と責任において 行われる だから「統帥権干犯」問題が起き、軍部の暴走を招き(Ry #right(){(79:738)} 明治憲法は天皇の不答責を定めているよ。 条文としては明憲3条の「天皇は・・・侵すべからず」と明憲55条1項の「国務各大臣は 天皇を補弼しその責に任ず」とある。 #right(){(79:739)} 55条はむしろ各大臣の権限が天皇に助言するものにとどまると 解釈されるのが戦前の常識だったが #right(){(79:740)} 前段についてはその通りですが、後段は天皇の行為の責任は国務大臣が負うというのが 一般的な解釈だと思いますが。 #right(){(79:743)} **「今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得ズト認ムルノ外ナキ旨ヲ合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ」ってどういう意味? 今後、交渉を継続しても上手くいかないだろう、ということを 認めるほか無い、ということを合衆国政府に通告することを 遺憾に思います 直訳すればこんなもん? ~ということが多くて読みにくい&間違ってたらフォローたのみま #right(){(82:956)} アメリカへの最終通告の締めくくりらしいのだけれど これが宣戦布告文かと大使館員は迷ったらしいのです。 #right(){(82:958)} アメリカよ、お前とはもう交渉しね~よ #right(){(82:956)} **真珠湾攻撃って何か新しい攻撃方法だったんですか? 空母の集中運用と言う意味では新かったです。 #right(){(88:169)} 軍港に停泊中の艦艇に対しての、航空機による奇襲攻撃は、前年11月11日、 イギリス海軍が行なったタラント奇襲攻撃が最初なのですが、空母を集中 運用しての機動部隊による攻撃といった方法では、新しかったと言えます。 ただ、空母の集中運用による攻撃自体は、その少し前から英米日で研究されて おり、その威力も有る程度は予測されていました。 しかし、デメリットとして、攻撃隊等が出撃した後、或いは自艦隊が奇襲を 受ける等などした場合、空母の防御力の貧弱さと相俟って、大打撃を被って しまう事も予測されていました。図らずも一航は真珠湾とミッドウェーで、 その両方を証明して見せた事になります #right(){(88:171)} **もし日本軍がハワイ占領したとしたら、何トンくらいの物資を補給したら維持出来るのかな? 何㌧どころの話では無いでしょう。 常時数万人の地上兵力、航空部隊、水上部隊の燃料、弾薬、部品に 加えて在住民間人の食料までも含めると月間何百万㌧は必要でしょう。 それを、日本、もしくは南方資源地帯から輸送するのですから。 #right(){(91:472)} 維持できないのは補給物資が足りないからではなく、補給線を確保することができないからです #right(){(91:473)} 人1人が1年間に消費する物資の量が、およそ1トン。 これに弾薬等を加えれば、2~3トンになると思われます。 占領軍としてあなたが想定している兵力の数を、それにかけて下さい。 あ、当時のハワイには、40万人の民間人がいて、彼らの必要とする物資も 日本から運ばなければならないことをお忘れ無く。 #right(){(91:477)} **「真珠湾攻撃で空母赤城の艦橋に上がった旗はZ旗ではなかった。」の? Z旗ではなく、正確にはDG旗と呼ばれるものです。意味合いは同じ。 #right(){(94:21)} **日本が米国から真珠湾攻撃を卑怯なだまし討ち呼ばわりされない様に、なおかつ真珠湾攻撃が奇襲の成果をあげられる様にするには >どの時点でどの様な手続きを行えば良かったのでしょうか? 真珠湾攻撃直前に宣戦布告をしたとしても 間違いなくスネークアタック呼ばわりされる。 米国の国民世論>国際常識(奇襲される方が間抜け) である以上、どうしようもない。 #right(){(95:775)} 単に「出先の外交官連中が、外交がせっぱ詰まって文字通り一触即発の時点だったにもかかわらず 役人同士の内輪の儀礼のほうを優先して益体もない送別会などを開いたりすることなく、 必要充分な連絡要員を残しておけば足りた」と思いますが。 #right(){(95:814)} **宣戦布告の文書・宣言はどうやって作るのでしょうか? >・何時までに誰が誰に対して宣戦布告文書・宣言を渡す又は通知すべきなのでしょうか? >・その宣言は日本語だけで良い?それとも日本側が英訳したのを準備して渡すべきでしょうか? 宣戦布告は陸海参謀・軍令部総長が天皇に骨子を上奏し、 首席宰相が布告を宣言、 外務省の条約局が英文・仏文・日本語で制作し、 天皇の裁可を得てこれを実行する。 #right(){(96:15)} **アメリカは日本の真珠湾攻撃を事前に察知していたのに、ドイツとの戦争口実が欲しいルーズベルト大統領が >見逃すように命じたというのは事実なんでしょうか? 元々は、トルーマンが1944年の選挙戦の時に、ルーズベルトを攻撃する為にでっち上げた物を、 ロバート・スティネットなんかが蒸し返した説です。 #right(){(98:377)}※中傷の文言を修正 ひとつ言っておくと、真珠湾攻撃の1時間前に日本軍はコタバルに上陸し、 英軍と戦闘下に入ってる。もう戦争は始まってたのよ。 ちなみに日本は英国に宣戦布告してない。んでチャーチルに嫌味言われた。 #right(){(98:399)} 日本が攻撃してくることは予想していたし、また日本が先に手を出すように仕向けたのは確かだが、 まさかあそこまで強烈な先制攻撃をされるとは予想していなかった、が大方の見解。 #right(){(105:584)} **「日本海軍はアメリカとの戦争を避けるつもりだったが、陸軍が押し切った」と聞きました。 >陸軍はどうやって海軍の決定に関与したんでしょうか? 海軍も一貫して対米非戦だったわけではない。 #right(){(98:328)} アメリカを仮想敵として、さんざん予算食ってきた海軍に、 対米戦忌避を言い出せる道理は無かった。 #right(){(98:329)} 1941年7月2日の御前会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が審議決定され、 武力南進論および北進論の路線が明確に打ち出されます。南進論について、 海軍に関しては、6/5に海軍の中堅層が中心となって作成された「現情勢下において 帝国海軍のとるべき態度」という文書が下敷きになっているものと考えられます。 その後、7/31には軍令部総長が天皇に拝謁し、石油問題の関係から、この際 打って出るほかなしとの上奏を行っています。その一方で、1940年11月には 対米英蘭戦を見越した出師準備第一着作業が始まり、41年8月にはその第二着作業 が行われ、9月には戦時編制に移行しました。 また、時間が前後しますが、8月16日の陸海軍局部長会議において、海軍側は、対米交渉が 10月中旬までに妥結しない場合には、対米戦を開始するという骨子の「帝国国策遂行方針」を提出します。 この時期までには、海軍は完全に対米戦を決意していたと考えてもよいでしょう。 それのほぼ一年前には、陸軍との合同作戦研究において、海軍は対米戦争の回避を 主張しているわけですが、特に蘭印との交渉の失敗、米国の対日石油禁輸措置など の外因や、部内の対米積極論者などの影響を受けて、対米戦に積極的になっていくわけです。 このあたりの海軍の動きについては、中公新書の「日本海軍の終戦工作」(纐纈厚)など 読むとよいと思います。入手しやすいですから。 #right(){(98:334)} **日米戦争は、ソ連人民内務委員会(NKVD)の工作員やCIAの前進である戦略情報局(OSS)が巧妙な手口で日米戦争を誘導した? OSSが出来たのは真珠湾攻撃より後だよ。 #right(){(99:264)} **真珠湾作戦の航空攻撃が始まるのに先立って、甲標的が真珠湾入り口で米駆逐艦に発見され砲撃まで受けたと言う話を聞いて驚きました。 >それについて検索すると、当然駆逐艦は太平洋艦隊司令部に打電して警報を出した。 >この時点で航空攻撃開始まで充分時間があった。 >しかし司令部員の誤解と形式主義によりその電報は司令部の机の上で無駄に止まってしまい、 >艦隊司令官の下に届いたのは日本航空隊が攻撃を開始する直前で、警報は役に立たなかった。とのことでした。 >この米軍側の不手際、誤解と形式主義とは何だったのでしょうか? 米国は日本軍がフィリピン侵攻作戦を取るとの考えから、 これに対抗する作戦として西太平洋での対日決戦を想定した「レインボー計画」を 採択していました。 これによれば、日米開戦と同時に太平洋艦隊は真珠湾を出撃しマーシャル諸島へ 侵攻する手はずになっていました。 ここからが形式主義と呼ばれた部分なのですが、太平洋艦隊司令部では真珠湾への奇襲の可能性は 低いと考えており、キンメル太平洋艦隊長官はマーシャル諸島侵攻作戦のための 準備と訓練のほうが重要と考えて、索敵のための哨戒を軽視していたようです。 さらに、陸上の防衛はショート陸軍大将・湾内の防衛はブロック海軍少将の担当となっており責任の所在が分かれたことや、 1940年以降に太平洋艦隊がワシントンから対日戦の危機情報を4回も受け取っており、 いわゆる「狼少年」と同じ状態になって警報を信用しなくなった事などがあったと言われています。 特に4回目の警報はハル・ノートを日本に提示した11月26日に出されており、 十日以上経って危機感が緩んでいたと考えた方がいいようです。 #right(){(99:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **ルーズベルトは真珠湾攻撃を事前に知っていた、ただ日本と戦争する口実が欲しかったから放置したって本当の話ですか? 2重に違う まずその説は終戦直後から、1946年ごろの米雑誌に既に掲載されておるし 「最近の研究」ではルーズベルトら米政府首脳は日本がまずフィリピンを 攻撃するものと踏んで警戒していたことがますます明確になってきている ちなみに90年ごろのロシアでは「真珠湾攻撃を企画し日本海軍に吹き込んだのは 旧ソ連軍参謀本部である」という説が爆発的に広まっておった #right(){(99:530)} 何スレか前にも同様の質問がありました。 そこから解説すると、そもそもはルーズベルトの四選を阻むために対立候補が流そうとしたデマが 独り立ちしたものといわれています。 これを数年前にロバート・スティネットなる人物が米海軍の新たな公開文書から 新証拠を発見したとして「真珠湾の真実」と言う本にまとめたため、 改めて日本で話題になったものです。 しかしその内容は秦郁彦氏編著の「検証・真珠湾の謎と真実」であっさりと論破されています。 ルーズベルトは自叙伝を残す間もなく急死し、彼が何を知っていたかは完全に謎です。 真珠湾に攻撃がある可能性を示唆されていたことはありえますが、開戦の糸口にするため あえて放置したとの考えはその被害の大きさからして考えにくいと言うのが 常識的な回答だと思います。 #right(){(99:531)} **開戦時のワシントンの日本大使館への電報ってアメリカの電報会社から紙で配達されるのですか。 >それとも直接無電ですか。 商用電報です。ルートは外務省電信室→東京中央電報局 →電文の95%は米本土へ無電(この段階で米海軍が傍受)→RCA電信会社経由でワシントンへ →大使館ポストへ配達です。 残り5%は海底ケーブル経由ですが、こちらは電信会社から横流ししてもらいました。 ちなみ開戦前夜では大使館職員が暗号電報を目にする前に、米国側が先に解読・翻訳を済ましてました。 >あと暗号の解読を手で行ったらしいですけどパープルってそんな暗号なんですか。 九七式欧文印字機の解読作業はまず紙と鉛筆で攻略し、 暗号化プロセスが判明すると彼らは模造機を製作しました。 #right(){(100:797)} **真珠湾攻撃の「ニイタカヤマノボレ」に対し、成功した場合は「トラトラトラ」というのは有名ですが >失敗した場合や、他の場合はどんなパターンがあったのでしょうか? 真珠湾攻撃におけるパターンは調べても判りませんでしたが、 当時のモールス連送については以下が参考になるのでは? http://www.warbirds.jp/ansq/11/A2001662.html #right(){(101:545)} **駆逐艦ウオードが甲標的を撃沈した場所は公海なんでしょうか? アメリカの領海内です。 ついでに言えば、国際法上、潜水艦は潜航した時点で敵対行為を取っていると 見なされるので、ウォードの行為は合法です。 #right(){(102:202)} そもそも当時、領海の幅を世界的に統一する国際法はなかった。 19世紀までは慣習法で3海里となっていたが、20世紀に入ると国際法学者の提唱する説と それぞれの国内法での規定があるだけになった。 #right(){(102:205)} 当時の潜水艦は性能上、通常航行では浮上しているのが普通で、 潜水するのは戦闘時のみでした。 ウォードの報告によれば、「警告に従わなかった為、撃沈」ということになってます。 ちなみにこの時点で米軍は大西洋でドイツ軍のUボートとも交戦しておりますので、 ウォードの行為には特に問題はなかったかと。 #right(){(102:224)} **オレンジ計画には軍事計画だけで、経済による攻撃は盛り込まれていなかったの? 軍事計画だけです。 石油の禁輸や日米通商航海条約の破棄といった経済的な対日政策は、 米国が日本の政策を慎重に見つつ、段階を踏みながら取っていったものです。 基本的に米国の姿勢は、ヨーロッパに努力を傾注するために、日本との直接の 戦争はなるべく避けつつ、日本がワシントン体制に復帰することを促す、という ものでした。 このあたり、非常に細かい部分まで解説しないといけない部分があるので、 詳細に話をするとここでの回答の範囲を超えてしまいます。ですので、 入江昭の「太平洋戦争の起源」あたりをとりあえずお勧めしておきます。 #right(){(103:334)} **「ガッチリハワイ」のメリットとデメリットを教えて下さい あくまでも、簡単にですが。 メリット:Hawaiiから太平洋岸まで、めぼしい米軍の補給基地が無く、奪回ルートを設定するのが困難。 デメリット:日本からHawaiiまで、めぼしい日本軍の補給基地が無く、現地部隊への補給が困難。 #right(){(105:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本海軍航空隊は真珠湾攻撃に備えて、地形が良く似ているとされる鹿児島湾で訓練を行ったそうですが、 >そもそも鹿児島湾と真珠湾の地形が良く似ているという事に何時頃、誰が気付いたのでしょうか? >(鹿児島湾で訓練しようと誰が言い出したのか?) 雑談程度ですまそ。 鹿児島って対米移民を多く出してるから、おそらくバレバレだったでしょう。 真珠湾の地図が公表されていたかどうかは知りませんが、 50万分の1航空地図くらいはいくらでも手に入ったと思います。 #right(){(110:9)} **日本が同盟国であるドイツに対米開戦を決定したことを通知したのはいつなのでしょうか? >ひょっとしてドイツはパールハーバー奇襲まで知らなかったのでしょうか? 真珠湾まで知りませんでした。逆にドイツも対ソ戦の開始を日本に教えてませんでした。 #right{(502:68)} >追加の質問ですがイギリスがドイツに宣戦する前はあらかじめアメリカに通知していたのでしょうか? 別に同盟を結んでるわけじゃないアメリカに通報する義務はないし現に通報してない。 #right{(502:73)} 日本は昭和16年11月5日の御前会議で、日米交渉の決裂が避けられない情勢になった場合、 速やかにドイツに対して対米参戦の要請を行なうことが決定されている。 そしてその要請に対し、12月3日にリッペントロップから大島大使に対して 「日本が開戦すればドイツもただちに戦争状態に入る」 という返答が行なわれ、それに基いて対米英単独不講和についての交渉も 行なったと御前会議で報告されている。 http://www.jacar.go.jp/nichibei/ このことから、ドイツが事前に日本の対米開戦を諒解していなかったとは考え難いこと。 また、ドイツの対米宣戦布告は12月11日だが、ドイツは8日の段階で 既に米輸送船に対する攻撃命令を出している。 >「直ちに戦争状態に入る」や、「戦争協力は及ぶ限りを行なう」とまで約束したというのは大島大使のスタンドプレーだったって説もある >そもそも三国同盟には軍事協約がなかったんだから、軍事行動について何か話し合われたはずがない。 いや、御前会議で報告されていることなんだよ。 対米交渉決裂するとドイツに対米開戦の意志を伝え、 参戦を要請する交渉を行なうことも11月5日の御前会議で決定されていたわけだし、 スタンドプレーと判断するような根拠は無い。 もちろん三国同盟には軍事協約がなく、日本は独ソ戦に参戦しなかったのだから ドイツも対米参戦する義務はなかった。嫌々対米戦を行なう必要はそもそもないわけで。 以下御前会議の報告引用 十一月五日 御前会議決定「帝国国策遂行要領」ニ関連スル対外措置 一、対独伊 日米交渉決裂シ戦争不可避ト認メラレタル際(大体十一月二十五日以後ト 想定ス)ニハ遅滞ナク独(伊)ニ対シ帝国ハ近ク準備成リ次第英米ニ対シ 開戦スルノ意向ナル旨ヲ通報シ右準備ノ一部ナリシトテ左記事項ニ付必要 ナル交渉ヲ行フモノトス  一、独(伊)ノ対米戦争参加  二、単独不講和   備考 独逸側ヨリ対「ソ」参戦ノ要求アリタル場合ニハ差当リ参戦セサル 旨ヲ以テ応酬ス但シ之カ為独逸ノ対米参戦ノ時期カ遅ルルカ如キ事態生ス ルモ止ムヲ得ス #right(){(615:261-273)} >関連質問だけど、ドイツは日本と交渉の際に対ソ戦参戦を求めなかったの? >独ソ戦開戦直後よりドイツ側からは参戦要請があったと聞くけど、 >日本側は拒否、っていうか様子見だったんだよね=「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」 >対米宣戦してやる代わりに日本はソ連に宣戦しろとか、駆け引きなかったのかな? ドイツ側も無理な要求だと諦めているんだと思われるが、 対米戦についての話し合いの中では、対ソ参戦までは要求されていない模様。 その代わり、 アメリカの軍需物資がウラジオストクを経由してソ連に渡るのは困るから、 日本の立場は了解するも、それだけは阻止することを 文書で約束してほしいと申し入れられている。 それに対し日本側では、どう返答すべきか御前会議で討議され、 阻止作戦のリスクに関する色々な意見がでたあと、 以下のように返答することに決まった。 「米国より『ウラヂオ』へ軍需品の輸送阻止の件は日本に於て承認す。 但し日本の作戦の見地上『ソ』との戦争に入ることを絶対に 避けなければならぬ時期の間は十分に之を実行できぬことを諒承せられ度」 (弟75回連絡会議) #right(){(615:392)} 東條内閣が12月8日の開戦を決定したのが12月1日の御前会議においてなので、通知していなかった 可能性がある。 ただし日本が対米開戦した際は、ドイツも対米攻撃すること、さらに米国との単独不講和の言質を得ていたよう。 以下の眠い人のブログにその辺の交渉の経緯が詳述されている。 http://nemuihito.at.webry.info/201009/article_24.html リンク先を要約すると、 1941年4月、ヒトラーは訪独した松岡洋右に対し、日米戦争勃発の際は直ちにドイツは対米攻撃を行うと言明していた。 その後、紆余曲折があったものの11月に入ると東京からドイツに対し、ドイツは日本が対米開戦をした場合、 日本を支持するかと言う正式の照会があり、また日本政府は、米国との単独不講和の日独伊条約を開戦前に締結したいと申し出る。 リッベントロップは総統に日本からの提案を報告し、その際、日本の対ソ戦を開始がない事は明らかであるが、 対英米攻撃は、米英の注意を欧州から逸らせるばかりでなく、米ソ間の太平洋航路に打撃を与え、 東部戦線に於けるドイツ軍の士気を鼓舞しうると説明。 12月4日にヒトラーは日本の提案に承認を与え、リッベントロップは直ちにヒトラーの回答を、ローマと駐独日本大使に伝えた。 **第二次世界大戦で日本軍は目的がないまま計画無しに戦争を始めたと友だちに聞いたんですか、本当ですか? 未来の自国をどういった形にするか、という「国家戦略」が無いまま戦争を始めたことは事実です。 年表にすると 1931年   満州事変 1932年   満州国建国・国際連盟脱退 1937年~ 日中戦争(敵:中国) 1941年   仏印進駐         太平洋戦争(敵:米英蘭中豪ほか) と、手を伸ばしやすいところに手を伸ばし、いたずらに敵を増やしていることがわかります。 #right(){(7:255)} 満州事変~建国は陸軍の一部が結託し起こした事態であり、日中戦争もやはり陸軍の暴走によって引きおこされたものです。 しかし、この戦争を統制せず、「国民政府を相手にせず」と中国に傀儡政権を打ち立て、戦争を泥沼化したのは政府の責任です。 その後、ドイツによってフランス本国が占領されたため、尻馬にのって日本は仏印(フランス領インドシナ)の資源を確保しようと進駐し、 これが東南アジアに植民地を持つ欧米列強に「日本の南進」の脅威を与え、結果として太平洋戦争につながりました。 陸海軍の戦略ですが、日露戦争後の1908年に決定した「帝国国防方針」で、陸軍はロシアを仮想敵国、 海軍はアメリカを仮想敵国とするとされ、この方針は太平洋戦争まで基本的に変わっていません。 両軍がお互いあさっての方向を向いていたのも敗戦の原因です。 #right(){(7:258-259)} **真珠湾攻撃のとき、もし、備蓄タンクを爆撃したら燃料不足で太平洋戦争は結果が変わったのでしょうか 結論から言えばほとんど変わらなかったと思います。 さる本によれば、当時の真珠湾の石油備蓄タンクの備蓄量は450万バレルだそうです。 すごい数字と思うでしょうが、キロリットルに換算すると71.5万kl。 これは当時の日本の石油備蓄量約800万KL(約600日分)の8.9%に過ぎません。 (ちなみに当時の日本の年間消費量は年間約500万KLだそうな。) しかも当時真珠湾の石油タンクは実は空だった(地上にあるのは偽装タンクで地下のタンクに備蓄していた) ので爆撃してもまったく意味が無かったという話もあります。 すべての燃料を使い物にするなんてできない相談でしょうね。 #right(){(48:563)} あ、それはむしろ日本側が言ってる話。 (この頃、日本はタンクの地下化を急速に進めていた) アメリカはなぜ日本が燃料タンク攻撃しなかったのか不思議で仕方なかったらしい。 でも真珠湾を出撃拠点にできない状況が当分続けば、アメリカの反攻は相応に遅れたでしょうね。 ただし遅れるだけ。本土で量産されている空母や戦艦の数が減るわけじゃなし。 #right(){(48:ゆうか ◆9a1boPv5wk)} **ハルゼーは、宣戦布告前に旅順を奇襲した卑怯者と思っているってホント? ハルゼーは"kill the Jap,kill the Jap,kill the more Jap!"などとのたまうほどの 日本人嫌いだったので、奇襲云々は口実ではないかと思います。 余談ですが、ハルゼーは東郷憎しのあまり戦艦三笠のZ旗をソ連に渡そうとしたらしく、 東郷を尊敬していたニミッツ提督が慌てて阻止したとか。 #right(){(50:578)} **さる書籍で、日本側は「真珠湾の浅瀬で使用可能な航空魚雷」と「戦艦の砲弾を利用した、戦艦の上甲板が破壊可能な航空爆弾」を >完成させていたのに、アメリカはそれを知らず、湾内の戦艦が攻撃を受けても大した損害は出ないと考えていた。 >と書いてありましたが、この話の信憑性はいかがでしょう? そう言う見方をしていた人が多数派だった事は確かです。 通常なら、軍艦の周りに展開しておく筈の防魚雷網も、対潜水艦用に湾の 入り口に設けていただけでしたし(ちなみに、真珠湾攻撃本番時に甲標的が これに引っかかっている)。 ただ、爆弾に関しては、ドイツ空軍は対艦攻撃用に1t爆弾を使用していますし、 浅瀬で使用可能な航空魚雷も、真珠湾で攻撃をする場合は必須となる訳で、 それを開発して来る事は十分予想は出来ますし、(事実、ミッチャーなどは そう主張していた)早い話、米軍は慢心していた、と言ったところでしょうか。 #right(){(54:75)} **日本の軍部はアメリカに勝利する見通しはあったの? 自力で勝利とか講和できるとは考えてなかった。 対米奇襲攻撃に成功して、なおかつドイツがイギリスを破ればアメリカの世論が揺いで講和の可能性が生まれるという、 いわばドイツ頼みの戦争だった。 しかし当のドイツは対ソ戦で既に劣勢に立っており、日本軍部の情報収集力の欠如が対米開戦決定に繋がったといえる。 >大使館経由で建艦情報は結構正確に得ていたそうですが、それならば >『季刊正規空母・月間軽空母・週間護衛空母・日刊輸送船』などという国に対して勝てるわけねぇ、と思わなかったのでしょうか?  ヤンキーのあの凶悪な軍備拡張計画が成就した暁には、どうあがこうが日本に 勝ち目がねーってことは、まあ、それなりの頭のある連中にゃわかってたっぽい。 が、そこで「あんなバケモン相手にゃ勝ち目ねーよ、やめとこーぜ」とはならず、 「やるなら今しかねえ。今なら、短期決戦でいきゃあ何とかなる(かも)!」なんて 調子いいことを考えちまったのが終わりの始まり、ってことらしい。  まあ、海軍も官僚組織だし、さんざか国費を蕩尽して戦艦やら空母やらを揃えた挙句に 「だめっす、勝ち目ないっす」とは言えんかった、という事情もあるみたいだがね。 そもそもの海戦タイミングが、日米間の艦船保有比率が一番ちじまった時に開戦したわけで、 当の日本海軍も、ワシントン条約終了後のアメリカ海軍大拡張は承知の上。1944年には何もしなくても 対米比率3割以下という事は承知してましたとさ。 #right{(358:319,320)} **開戦時,海軍は開戦派,戦争回避派のどちらが主流だったのか?  「この時点(昭和16年頃)ではむしろ開戦派が主流だった」という.  以下引用.  海軍は開戦を決意してから準備するのでは間に合わないとして,40年8月から対米戦の準備を本格的に始めた.  その準備が翌41年4月に完了したので, 「時間が経てば,日米海軍の戦力差は飛躍的に増大する.日米戦うとすれば昭和16年をおいて他になし」 というのが彼らの考えだった.  開戦派の中核は,海軍省と軍令部の事務推進機関として作られた「第1委員会」のメンバー,石川信吾・海軍省軍務2課長や富岡定敏・軍令部作戦課長らだ.  第1委員会は41年6月,政府や陸軍を「戦争決意の方向に誘導」すべきだとする文書を作成している.  永野修身(おさみ)軍令部総長らが 「石油がなければ座して死を待つことになる」 という「ジリ貧」論から対米開戦を主張したのも,第1委員会の意見が色濃く反映している. (土門周平談 from 読売新聞 2005/12/22) **なぜ日本はあんな無茶な戦争をしたの?せざるを得なかったの? 付表:破滅へのカウント・ダウン  ●日露戦争時,イギリス・アメリカから「ロシアから満州の機会平等を守る」という約束で500万ポンドづつ(当時の国家予算の8年分)借りていたのにもかかわらず,満州の利権を独占。 ・日本破滅レベル■■  ●1924年アメリカが移民法(排日移民法)を制定。日本のナショナリズムを強く刺激した。  当時の世論、特に新聞社は「国辱」と強く反応し、キャンペーンが繰り広げられる一方、日米開戦説が叫ばれた。 ・日本破滅レベル■■■■  ●1929年浜口内閣は対外的には協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、中国に対してもその主権を尊重し、内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護をはかった。  陸軍を主体とする軍部は、これを軟弱外交として非難し、これに強く反対した。 ・日本破滅レベル■  ●1931年9月18日に満州事変をおこす。  軍は根拠も無いまま漠然と「満州は日本の経済的生命線」と思い込んでいた。  食糧の供給先としても、資源の供給先としても、自国製品の市場としても,満州の存在ははっきりいって小さい上,中国では日貨排斥が激化し、対中輸出が3分の1にまで激減してしまった。  そして中国軍の実力を極端に軽視し、日本軍を過大評価するようになり,出先の部隊が軍中央部の命令に従わず独断専行しても、結果さえ良ければ褒章を受けることはあっても処罰されることはない、という風潮が広まる。 ・日本破滅レベル■■■■■  ●満蒙権益をめぐる日中間の紛争やロンドン海軍軍縮問題をきっかけとなり五・一五事件おきる。  これは8年間続いてきた「話を聞こう」の政党政治の時代から「問答無用」の軍部暴走の時代へと移行する大きなターニングポイントであった。 ・日本破滅レベル■■■■■■■  ●1932年満州国が建国。  リットン調査団報告書は,関東軍の行動を自衛のための行動とは認めず,満州国も満州住民による自発的なものとは認めなかった。  日本に妥協的な内容の,1933年2月国際連盟の日本軍の満鉄付属地内への撤兵などを求める勧告案が,臨時総会で42:1(反対1は日本)で可決されると,日本は3月国際連盟から脱退した。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■  ●日本は世界に先がけて恐慌からの脱出し日本は低賃金で生産した製品を,為替操作で円安にして,失業率20%の米英とその植民地に輸出しまくった。  その結果ソーシャル・ダンピングと叩かれ、輸出制限されたため,排日行動を続ける蒋介石の影響力から「華北」を切り離して親日政権を作り、そこを新しく、外貨獲得のための日本製品の輸出先にしようとした。  日本の武力によって蒋介石の影響力が弱まったため、「華北(平津地区)」では共産主義者の勢力が逆に強まった。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■  ●1936年 二・二六事件の鎮圧後,岡田内閣が総辞職し広田弘毅内閣が成立した。  陸軍は、事件の威圧効果を利用して発言力を強め、陸海軍の同意がなければ内閣が成立・維持できない状況になる。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■  ●1937年7月7日盧溝橋事件がおきる。  11日には現地で停戦協定が成立したが,同じ日に第1次近衛内閣は華北への派兵を決定し北支事変と称した。  これを機会に中国に一撃を加えておけば抗日運動をおさえこむことができるだろうと,安易に判断する強硬派の意見が通ったのだ。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  ●短期決戦の思惑が外れた近衛内閣は対中政策を転換し,11月日本の戦争目的は日満支(中)3国提携により東アジアに新秩序を建設することだと声明し(東亜新秩序声明=第2次近衛声明),国民政府との和平交渉の可能性を示唆した。  しかし同調者は少なく,戦争を終結させることはできない上に,日本が東亜新秩序建設を声明した際に東アジアからの欧米勢力の駆逐を掲げた。  石油・鉄などの軍需物資の大半をアメリカに頼る日本にとって致命的な打撃となることは確実なのに,1939年日本が抗日運動の拠点とみなして天津の英仏共同管理の租界を封鎖してしまった。  当然アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告した。  共産勢力より日本の方がが脅威となったのだ。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  ●さらに「アメリカ相手では2年も持たない」という意見があるのにもかかわらず。 「ABCD包囲網により石油の輸入が不可能となった。「このままでは立ち行かなくなるので戦争してでも南方を奪ってしまえ」 という意見が、「ABCD陣営と妥協して平和裡に石油を輸入できるようにしよう」という意見を駆逐してしまう ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ (ニュース極東板) **日英同盟が続いてればアメリカと戦争せずにすんだという意見があるけど、なぜ日英同盟は解消されたの? 1921年のワシントン会議において調印された「四カ国条約」によって日本・イギリス・アメリカ・フランスは太平洋における各国領土の権益を保障した。 それに伴い日英同盟「不必要」ということで破棄。 そもそも日英同盟はロシアを共通の脅威と想定していたものだったからアメリカと戦争寸前状態になればイギリス側から破棄するだろう。 **三国同盟条約では日本開戦時のドイツとイタリアとハンガリーには参戦義務はあったんですか?なかったんですか? 条約条文の法理上の解釈では、「日本国、ドイツ国およびイタリー国間三国条約」の第三条には、  「日本国、独逸国及伊太利国は前記の方針に基く努力に付相互に協力すべきことを約す。   更に三締約国中何れかの一国が現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国に   依て攻撃せられたるときは三国は有らゆる政治的、経済的及軍事的方法に依り相互に   援助すべきことを約す。」 とありますから、別に参戦義務は無かった訳です。 ちなみに、これとは別に秘密往復書簡三通があり(これはHitlerが関知していないものでしたが)、 その一通には、「締約国が条約第三条の意義に於て攻撃せられたりや否やは三締約国の協議」 によって決定されるとして、自動参戦を抑止することが盛り込まれています。 #right(){(129:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本が米国に布告したのを見て、他の国が日本に宣戦布告ということってあったのでしょうか?  あった.  対日宣戦布告の流れ 1941年 アメリカ,イギリス,オーストラリア,ニュージーランド,カナダ,南ア連邦,コロンビア,エルサルバドル,コスタリカ,ドミニカ,ニカラグア,ハイチ,グァテマラ,ホンジュラス,パナマ,オランダ,キューバ,ベルギー 1942年 メキシコ 1943年 イラク,ノルウェー,ボリビア 1944年 リベリア,フィンランド,ルーマニア,ブルガリア 1945年 エクアドル,ペルー,パラグアイ,ベネズエラ,ウルグアイ,トルコ,エジプト,シリア,レバノン,イラン,サウジアラビア,アルゼンチン,スペイン,チリ,デンマーク,ブラジル,ギリシャ,ソビエト連邦,モンゴル **太平洋戦争直前、日米交渉が成立すれば南雲機動艦隊は何もせず戻ってくる事になっていますが、その場合、フィリピン、英マレー半島、蘭インドネシアに対する攻撃も停止する事になっていたのでしょうか? たてまえではそうなっていた。 しかし実際には成立した場合にどうするかの詳細な行動指針は何も与えられていなかったことが、当時の輸送船の船長の手記などに見られる。 だから万一交渉が成立した場合でも武力衝突が一部に発生しただろうことは想像に難くない。 というかもう成立はないだろうというあきらめムードが一般的だったし。 #right(){(初心者スレ484:795)} **日本軍の真珠湾奇襲時、ハワイの沿岸砲はどんくらいあったんでしょうか >奇襲前のお話でもご存知でしたらお願いします 1941年時点で配備されていたと思われるのは、以下の通り。 ほぼ戦史叢書の数字と同じですが、若干のずれ。また記載の無い機動火砲もあり。 オアフ島ホノルル地区 ・14インチ砲:2 ・12インチ臼砲:12 ・8インチ砲:2 ・6インチ砲:2 ・5インチ以下:2 オアフ島パールハーバー地区 ・16インチ砲:4 ・12インチ砲:4 ・12インチ臼砲:8 ・8インチ砲:4 ・6インチ砲:5 ・5インチ以下:7 オアフ島カネオヘビーチ及び北岸 ・8インチ砲:8 機動沿岸砲 ・240mm榴弾砲:12?―既設の砲台に展開して沿岸砲として使用。 ・155mm榴弾砲:不明―既設の砲台に展開して沿岸砲として使用。 参考http://www.cdsg.org/hawaii.htmほか #right(){(初心者スレ545:◆yoOjLET6cE)} **日本は真珠湾では、一切民間人を攻撃しなかった? 真珠湾攻撃の際には48人の民間人が殺されている。 ttp://www.nps.gov/archive/usar/phcas.html これには走行中に銃撃を受けた乗用車1台・救急車1台の乗員を含む。 故意か誤射かは別として「一切攻撃はしていません」と威張れるものではない。 #right(){(もう少し特攻隊が頑張っていたら:231)} **開戦前、三国同盟派と反三国同盟派があったかと思いますが、実際日本が枢軸国側から英米側に軸足を移すことは外交上可能だったのでしょうか? 満州事変を鎮圧すればあるいは、と言う状況でしょうか。 それ以降では、陸海軍部の鼻息が荒すぎてどうしようもありません。 天皇が反対して、近衛兵を率いても、下手すれば、首をすげ替えられて終わりです。 面白い読み物ですが、黒野耐氏が、『「たら」「れば」で読み直す日本近代史』(講談社)と 言う本を書いています。 薄っぺらい本ですのでご一読なされてはいかがでしょうか。 #right(){(343:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ルーズベルトが天皇に親電出して和平探っていたというのは史実? >瀬島龍三らが天皇への通達遅らせたので有名とか ルーズベルトの親書は「日米外交関係雑纂 第18巻」をみるよし。 瀬島のは防衛省防衛研究所に保管されてる「防諜に関する回想聴取録」 にある。 #right(){(569:766)} **アメリカは日本がどうしても宣戦布告してこない場合、アメリカの砲艦が日本に撃沈された事にして対日宣戦する予定だったと聞いた事があるのですが、 >真偽のほどはさておいてその砲艦の名前をお教え願えますでせうか? 第一次大戦時に個人所有のヨットを改造したイザベラ号です。 排水量は900t程度、最高速力は名目上25kts/hでしたが、15kts/hが精々で、 魚雷発射管2門と3インチ砲を装備して、一応、アジア艦隊に属していました。 其の手の船は、もう2隻用意されていて、50t程度の3本マストの帆船で機関銃 1梃装備のラニカイ号、更にその半分ほどの帆船、モーリー・ムーア号があり ましたが、何れも実際には使用されていません。 #right(){(574:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **アジア解放のための戦争だったという説があるけど本当なの? 大東亜政略指導大綱  (1943.5.31.御前会議決定) タイ:相互協力強化・マレー国境地帯の割譲(戦争協力の代償) 仏印:現状維持・強化 ビルマ:独立 フィリピン:独立 マレー半島:日本領に編入 スマトラ島:日本領に編入 ジャワ島:日本領に編入 ボルネオ島:日本領に編入 セレベス島:日本領に編入 ニューギニア島:日本領に編入の方向で調整 日本,全然植民地解放する気ねえええぇぇぇぇ #right(){(579:252)} **チャイナロビーが太平洋戦争を強力に推進したのと、当時ホワイトハウスには共産主義者が蔓延っていたというのは本当ですか? 対日戦争にあまり乗り気でなかった米国でその様に活動した記録は残っています 英国でも同様に活動したとも言われており、外交交渉のみの日本は不利であったと言われています。 また共産主義者が多数居たかどうかは寡聞にして存じません、が戦後のレッドパージの苛烈さを考慮すると 総統多数が居たものと思われます、当時も多数の華僑が米国内に居ましたしね。 #right(){(337:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)} **独ソ戦が始まったとき日本はなぜ対ソ開戦しなかったの? ドイツ独力ではモスクワ攻略は困難というのが当時の日本軍の判断 独ソ開戦のために極東ソ連軍の兵力がヨーロッパ正面に送られて半減すれば日本が対ソ開戦しても勝てるという見積もりだったのだが、 実際は極東ソ連軍の兵力がそこまで減らなかったので諦めた 当時の日本外交は様々な集団が好き勝手やってたから、 統一がとれてなくて、細かいことを言い始めるとキリがないんだけど、 ひじょうにざっくりと言うと、そもそもドイツとの同盟は アメリカに圧力をかけようとして松岡外相が強引に進めたもんで、 軍事的に共同歩調をとることまでは考えられてなかった のちに陸軍ではドイツの快進撃を見て、あわよくばとソ連を挟み撃ちにする機会をうかがってたんだけど 極東ソ連軍のうち対独戦に転送される兵力が 日本陸軍の予想より下回ってて 「ムリ!」ってことになった あと欧州各国の日本大使館の駐在武官はドイツびいきがおおくて、ドイツはまもなく勝利する!みたいな情勢判断ばかり 日本本国に送ってよこした #right(){(592:358,361)} 当時の日独の交渉は以下の眠い人のブログに詳しい。 http://nemuihito.at.webry.info/201009/article_24.html リンク先を要約すると、 1941年初期の段階ではドイツはしきりに日本に対し、ソ連の背後を突く様に依頼していた。 しかし日本は、攻撃を夏に開始したとしても1941年中にシベリア経由の通路は開けないと予想。 11月には大島大使がドイツ政府に対し、ソ連攻撃を急がず、南方への進出を準備していると伝えている。 **日米開戦のときに東条首相以下政府首脳は、真珠湾攻撃が宣戦布告ギリギリのタイミングで行われることを知ってたのですか? 最初は、政府首脳は奇襲攻撃後に宣戦布告すればいいと思ってた。 それを山本56が「そりゃマズイだろ」って攻撃開始前に手交するように要請したのです。 実際は攻撃後に宣戦布告て事になっちゃったけどね そんなことだから、政府や外務省は宣戦布告の遅れをたいしたことのないミスだと思ってた #right(){(331:732)} **日米が開戦した時に、アメリカを内部から混乱させる為に、インディアンや日系人に武装蜂起を促すような作戦は立てられなかったんでしょうか? 黒人扇動についての本『日本から救世主が来た』の紹介 ほぼ日刊イトイ新聞 -担当編集者は知っている。 http://www.1101.com/editor/2001-07-13.html #right(){(325:803)} **日本はハルノートは一切関係なくアメリカと戦争をするのを決めていた、というのが有力だそうですが、 >そうではないとすると、日本は何時アメリカと戦争をすると決めたのでしょうか? 昭和16年11月5日の「帝国国策遂行要領」には 「5.対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す」 とあります。 昭和16年9月6日の「帝国国策遂行要領」には 「3.外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意」 とあります。 これのどちらかではないでしょうか。 #right(){(619:441)} 11月5日の御前会議で12月までに日米交渉に進展がなければ開戦に踏み切ると決定され、 それに基き12月1日の御前会議によって対米開戦が決定されている。 真珠湾攻撃部隊は出撃中に開戦決定の通知がなければ、 作戦を中止して引き上げる計画になっていたが、 11月27日のハルノートによって日本の交渉は破綻し、開戦が避けられなくなった。 #right(){(619:455)} **真珠湾攻撃は想定されておらず、空母が居なかったのはたまたまなの? 11月24日にホワイトハウスで大統領と軍首脳による会議が行なわれているが その内容は、スターク作戦部長が太平洋艦隊司令部に送った手紙によると 「時局の重大さから日本がいつ奇襲にでても驚くには当たらず、 様々な角度から検討して比島に対する攻撃が最も脅威である。 その可能性は指摘されているが、私としては蘭印、ビルマルートへの攻撃を想定している」 というもの。 また11月28日に米太平洋艦隊司令部では、 航空部隊の配置についての協議がなされているが、 その際にオアフ島に日本軍の攻撃がありえるかというキンメル長官の質問に対し、 マリックモリス作戦参謀は「その可能性は皆無です」と断言している。 従ってアメリカとしてはどこかに日本軍の奇襲があったにせよ、 真珠湾は安全だと判断していたのは疑いの余地がない。 #right(){(619:596)} **真珠湾攻撃に間に合わず問題になったコーデル・ハル国務長官に渡した「対米覚書」は、そもそも宣戦布告ですらなかった…というのは本当ですか? >Wikipedia「太平洋戦争」より >この覚書には戦争をうかがわせる記述が無く、宣戦布告無しのだまし討ちであるとアメリカ大統領が議会で発言している。 >だとしたら日本が正式にアメリカに宣戦布告したのはいつですか? 本当……というか、「宣戦布告」として認められる内容を満たしてなかった。 乱暴に言うと 「もうあなた達の国とは交渉はしません。もし戦争になっても仕方が無いと思って下さい。  仮にこの瞬間に両国が戦争状態に突入しても仕方が無いと考えてます」 ということが書いてあるだけなので、「宣戦布告」としては認められないものだった。 「最後通告」ではあったけど、「最後通告=宣戦布告」ではないので。 国際法上は宣戦布告していないことになる #right(){(658:888-889)} **ハルノートが出される前に、アメリカとまとまりかけた協定案を蒋介石とチャーチル反対して潰したという話を詳しく http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/seiji/nichibei_kousyou/daitoua10-1.htm 日米が暫定協定締結しようとしたことを知った蒋介石はなりふり構わぬ抗議を行ったのである。 (中略) さらにハルのもとへ蒋介石の工作によって動かされた英首相チャーチルから大統領宛の電報が届き、 これは暫定協定案は支那を不利に追い込むと批判する文書であった。蒋介石は米国の支援なくしては 抗日戦はとても完遂できないと実感していた為、このような行動に出たと言える。 かかる反対によりハルは暫定案の提示を取りやめ、モーゲンソー案にあった一般協定と、 オーラル・ステートメントが11/26日に野村・来栖両大使に渡されたのである。 #right(){(664:487)} **アメリカが対日経済制裁案を発動した際、ルーズベルト政権内部には「これは戦争を誘発する」という危惧の声はなかったのですか? 基本的には、上院に於ける合同決議案第123号、同143号が可決されているので、これに反対する声は小さいものです。 但し、日米通商航海条約の破棄については、元々、1911年の条約を破棄すると言う提案を行った上院のヴァンデンバーグ議員は、 古い条文を見直して、時代に合うようにこの条約を再締結すると言う意図の下で、決議案を提出し、可決したのですが、実際には、 国務省サイドはそれを破棄するだけで、新規に条約を締結する所まで行ってません。 ちなみに、この時期の新聞論調はパネー号誤爆事件もあって、今の日本の北朝鮮に対するような感じで、反日一色だったりする ので、その意見に反する立場を取ることは、議員達にとっては死活問題だったりします。 #right(){(291:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **天皇が真珠湾攻撃決定を知ったのはいつなのか? 11月5日の御前会議を終えてから、 永野海軍軍令部総長と杉山陸軍参謀総長から天皇陛下に陸海両軍の作戦内容を奏上し、御裁可を受けています。 この奏上には >開戦劈頭退菲島及馬来ニ対スル先制空襲ト成ルベク時ヲ同ジク致シマシテ >第一航空艦隊司令長官ノ率ヰル航空母艦六隻ヲ基幹トスル機動部隊ヲ以チマシテ >布哇在泊中ノ敵主力艦隊ヲ空襲致シマス >右機動部隊ハ千島ニテ補給ノ上開戦十数日前内地ヲ進発致シマシテ布哇北方ヨリ近接シ >日出一、二時間前「オアフ」島ノ北方約二〇〇浬附近ニテ >全搭載機約四〇〇機ヲ発進セシメ碇泊中ノ航空母艦、戦艦竝ニ所在航空機ヲ目標トシテ >奇襲攻撃ヲ加フル計画デ御座イマス >本奇襲作戦ハ桶狭間ノ戦ニモ比スベキ極メテ大胆ナル作戦デ御座イマスガ >奇襲当日敵艦隊ガ在泊シテ居リマス限リ戦艦及航空母艦各二、三隻ヲ撃沈致シマスコトハ可能ト存ジマス >尚敵艦隊ノ動静ニ関スル情報入手ノ方法ニ付テハ凡有ユル方法ヲ講ジテ居リマス と、開戦日の設定以外(11月5日の時点で決定されているはずもありませんね)は のちの真珠湾攻撃そのものと言って良いほど詳細に陛下に奏上されています。 この場には杉山陸軍参謀総長が同席していますから、 少なくともこの時点で陸軍にも確実に真珠湾奇襲の計画は伝わりました。 #right(){(682:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)} 大海指1号 ttp://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/daikaisi.htm #right(){(682:354)} **太平洋戦争直前にルーズベルト大統領が海軍に、小船に星条旗を掲げてカムラン湾の日本艦隊を偵察させろと命じたそうですが、 >あわよくば日本艦隊に撃沈させてそれを開戦理由に…というつもりだったのでしょうか? 海軍作戦部はこんな命令を独自に出す予定はないと海軍調査委員会で、明言していますし、 大統領命令が無ければ、スタークも命令を出さないと述べています。 また、ルーズベルトは、「被害が少なく日本に一発撃たせる方法はないか」と述べていますから、 その可能性が大いに有ったと言えるでしょう。 海軍調査委員会では、大統領の陰謀とは結論づけていませんが、今や死人に口なしですし。 但し、実際に小さな船を攻撃するという、実効性に関しては、非常に小さかった訳で。 ともかくも実証出来ない以上、可能性があるとしか言えないでしょうね。 #right(){(177:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **真珠湾奇襲の評価 >日本だと戦争の常識を覆す大作戦、名作戦とされてるけど海外の評価も同様なのでしょうか 宣戦布告が間に合ってさえいれば世紀の名作戦と言われただろうと言われてる。 それから、日本でもそんな誉めっぱなしというわけでもない #right(){(俺初質スレ434:21)} 元々あれは宣戦布告の要件を満たしていないし、宣戦布告をすること自体が 国際法上の開戦要件でもないので間に合おうが間に合わまいが、どうでもいい話。 間に合っていても米側はどのみち卑怯なだまし討ちと喧伝して米国民を煽ったろうし、 また国家間の戦争で綺麗とか汚いとかいうのはさして意味のない主観的、道義的評価に 過ぎない。 真珠湾作戦は、空母の集中使用ということがエポックメーキングとして評価される点で あるけれど、当時の米側は欧州優先で、もともと太平洋方面は持久方針だったから、 米側の戦争指導に与えた影響はさして大きくはないな。 #right(){(俺初質スレ434:22)} ----
#contents ---- **アメリカへの宣戦布告を遅らせた在米日本大使館員がその後、外務省事務次官になったという話は本当でしょうか? >もし本当だとしたらひどい話だと思うのですが。。。 当時の外務省の規定による順当な昇進なので、なにがひどいかわかりません。 #right(){(5:346)} **開戦前前田利為中将はどこで何してたのでしょうか予備? 前田利為少将は、関東軍において、対ソ戦を主張する東条英機との争いに敗れ、予備役に追いやられました。 その後、太平洋戦争開始後に蘭印の軍政担当将校に就任しましたが、航空機事故でお亡くなりになっております。 #right(){(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **「ニイタカヤマ」テ何デスカ 台湾にある山。 #right(){(20:ちゃぎ)} 現「玉山」 #right(){(20:591)} **真珠湾攻撃の時、オアフ島などに上陸していたら占拠できたのでしょうか? いわゆる「ガッチリハワイ」という定型句で語られる定番妄想です。 そしてその反証もまた定番。 そもそも真珠湾攻撃は完全なヒットアンドアウェイを狙った作戦で、 上陸して占領、なんて発想は当時の軍部では誰も考えてはいませんでした。 海軍手持ちでかつ動かせる陸上戦力では、ハワイ諸島の制圧はどだい無理な話。 ハワイ群島を制圧するほどの戦力ともなると、陸軍の協力なしでは兵力すら集められないのですが 日本の陸海軍の仲の悪さはいうまでもなく、こんな投機的作戦に陸軍が付き合ってくれる可能性はゼロです。 冗談の上に冗談を積み重ね、なんかの手違いで1942年初頭に日本軍がハワイを占領したとでもしましょう。 さて、ハワイ占領軍は何を食って生きるのですか?  長大な太平洋をいきなり横切って補給線を構築するには、日本はあまりに貧しすぎる国でした。 よしんばそれをなしえたとしても、それを護衛する戦力は無く(そしてそうした発想も無く)、 数ヶ月もかからずにハワイ占領軍は亡者の群れとなることが容易に想像できます。 さらにハワイに戦力を割くことで日本の南方進出のスケジュールは大きく狂うでしょう。 フィリピン、へたをすればシンガポールの占領すら失敗に終わる可能性も出てきます。 こうなると日本は継戦体制の構築に完全に失敗することとなり、 史実より数年早く枯死するという結末を迎えることとなるでしょう。 #right(){(26:931)} **真珠湾攻撃時、合衆国がハワイに展開していた陸上兵力と航空戦力は量にしてどのくらいの戦力だったのでしょうか? (陸軍)  P-36A 39機(4PG?)  P-40B/C 67機(15/18PG)  ランドルフ砲台に36センチ砲×2  歩兵3個師団 (海軍)  F4F-3 11機(VMF-211)  F2A-3 19+?機(VMF-221)  PBY-1 24機(VP-6F/VP-10F)  海兵隊1個師団? #right(){(27:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **日米合作映画「トラ・トラ・トラ」を見ていたら、真珠湾奇襲攻撃直前に、日本政府にルーズベルトから天皇宛の親書が届けられた場面があったのですが、これは事実なのでしょうか コンナサイトガアッタ。 ナカホドニ ルーズベルトが日米開戦の直前に天皇宛親書を送ってきて、41年12月7日深夜、 駐日大使のジョセフ・グルーがようやく夜10時に受け取って、それを持って 宮中に行ってドアをドンドン叩いて起こしたのが8日に入った夜の12時半ぐらいで、 結局、真珠湾攻撃の時間が夜中の日本時間で2時ぐらいでしょうか。 ハワイ時間だと、だいたい朝7時ぐらい。 ですから結局、間に合わなかったという話があるんですけれども~ トイウハナシガカイテアルヨ! #right(){(33:ベタ藤原 ◆MNjfnp0E)} **真珠湾奇襲ってやらない方が良かったんじゃないの? 軍令部のというか、伝統の用兵プランがそれでして しかし こちらの漸減作戦のプランどおりに向うが動いてくれるとは限らない 日本が南方攻略の間に太平洋艦隊が何を起こすかわからないetc で先手を打つことになりましてあの結果になりました。 #right(){(41:242)} 結果論で行くと正しいが 当時の軍事常識から行くと間違いだね 日露の戦いも奇襲攻撃で開戦したし #right(){(41:244)} **新高山登れの秘密信号ってなんでしょうか。 「ニイタカヤマノボレ」 ハワイに向け航行中の南雲艦隊や、南方諸島に向かった 攻略部隊に、戦争(太平洋戦争)の開始を知らせる暗号。 戦争回避の場合には別の暗号で各部隊は帰還させる 予定だったらしい。 なお、新高山は台湾で一番高い山。 #right(){(51:263)} 12月2日連合艦隊から隷下部隊に発信された暗号で、 「X日(開戦日)を12月8日零時に定む」という趣旨のものです。 詳しくは阿川弘之氏の「軍艦長門の生涯」あたりをどうぞ 新高山は台湾にあった山で、日本領土では最高峰でした。 #right(){(51:264)} **真珠湾攻撃の時、南雲機動艦隊は日本からハワイまで誰にも会わなかったのですか? 会わないような航路を選んだのです。 それでも、実際に会わないですむかどうかはかなり運次第だったのだけど。 #right(){(61:150)} **日米開戦の時、駐米日本大使としては本来どうすべきだったのでしょうか? 誤解されているようですが(広まっている誤解ですが) その日、ワシントンで遅れて手渡された文書には肝心の一言 「これよりアンタの国と戦争しますよ」が抜けているので、 宣戦布告文として意味を為しません。 アメリカではそんなわけで、日本帝国議会において昭和天皇が 開戦の詔勅を述べられた時刻を持って「日本に宣戦布告された」としています。 #right(){(70:828-829)} ヨーロッパ流の国際法解釈では、 「これよりアンタの国と戦争しますよ」が抜けていても、 最後通牒=交渉決裂、ここから先は何があってもあなたの責任 をわたせば、宣戦布告として有効じゃなかったかな? #right(){(70:833)} **日本機が布哇を攻撃する前に米駆逐艦が甲標的と思われる潜水艇を撃沈していますが、これれって米側の先制攻撃と判断されないのでしょうか? 撃沈した場所が重要 公海上で、米駆逐艦が撃沈したなら問題だが 米領海の話でしょ? 正当防衛扱いだわな #right(){(70:851)} **ルーズベルトは真珠湾を攻撃されること知っていてワザと価値のない戦艦を攻撃させたの? 不意をうつ事を狙って自主的に攻撃し、成功したのですから奇襲です。 暗号が解読されていようが、黙殺されようがそんな事はなんの関係もありません。 「卑怯だったか?」という事でなら議論の余地はあるでしょうが。 #right(){(74:375)} その証拠は何1つない。 アメリカの作戦参謀ならともかく、大本営の作戦参謀の証言など無意味。 #right(){(74:378)} 真珠湾を攻撃されること知っていてワザと価値のない戦艦を攻撃させた というのは全くのウソです。それなら空母をあんな危険なところに 置くはずありませんから。 どこかを攻撃させて・・・という考えはあったでしょうが、 真珠湾を囮に使うことは絶対にありえません #right(){(74:379)} **誰が太平洋戦争を始めたの? 昭和天皇です。 #right(){(79:726)} 帝国憲法下だから法的責任はマッタク生じないけどね。 #right(){(79:728)} おいおい、帝国憲法を素直に読めばあらゆる国家行為は天皇の名と責任において 行われる だから「統帥権干犯」問題が起き、軍部の暴走を招き(Ry #right(){(79:738)} 明治憲法は天皇の不答責を定めているよ。 条文としては明憲3条の「天皇は・・・侵すべからず」と明憲55条1項の「国務各大臣は 天皇を補弼しその責に任ず」とある。 #right(){(79:739)} 55条はむしろ各大臣の権限が天皇に助言するものにとどまると 解釈されるのが戦前の常識だったが #right(){(79:740)} 前段についてはその通りですが、後段は天皇の行為の責任は国務大臣が負うというのが 一般的な解釈だと思いますが。 #right(){(79:743)} **「今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得ズト認ムルノ外ナキ旨ヲ合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ」ってどういう意味? 今後、交渉を継続しても上手くいかないだろう、ということを 認めるほか無い、ということを合衆国政府に通告することを 遺憾に思います 直訳すればこんなもん? ~ということが多くて読みにくい&間違ってたらフォローたのみま #right(){(82:956)} アメリカへの最終通告の締めくくりらしいのだけれど これが宣戦布告文かと大使館員は迷ったらしいのです。 #right(){(82:958)} アメリカよ、お前とはもう交渉しね~よ #right(){(82:956)} **真珠湾攻撃って何か新しい攻撃方法だったんですか? 空母の集中運用と言う意味では新かったです。 #right(){(88:169)} 軍港に停泊中の艦艇に対しての、航空機による奇襲攻撃は、前年11月11日、 イギリス海軍が行なったタラント奇襲攻撃が最初なのですが、空母を集中 運用しての機動部隊による攻撃といった方法では、新しかったと言えます。 ただ、空母の集中運用による攻撃自体は、その少し前から英米日で研究されて おり、その威力も有る程度は予測されていました。 しかし、デメリットとして、攻撃隊等が出撃した後、或いは自艦隊が奇襲を 受ける等などした場合、空母の防御力の貧弱さと相俟って、大打撃を被って しまう事も予測されていました。図らずも一航は真珠湾とミッドウェーで、 その両方を証明して見せた事になります #right(){(88:171)} **もし日本軍がハワイ占領したとしたら、何トンくらいの物資を補給したら維持出来るのかな? 何㌧どころの話では無いでしょう。 常時数万人の地上兵力、航空部隊、水上部隊の燃料、弾薬、部品に 加えて在住民間人の食料までも含めると月間何百万㌧は必要でしょう。 それを、日本、もしくは南方資源地帯から輸送するのですから。 #right(){(91:472)} 維持できないのは補給物資が足りないからではなく、補給線を確保することができないからです #right(){(91:473)} 人1人が1年間に消費する物資の量が、およそ1トン。 これに弾薬等を加えれば、2~3トンになると思われます。 占領軍としてあなたが想定している兵力の数を、それにかけて下さい。 あ、当時のハワイには、40万人の民間人がいて、彼らの必要とする物資も 日本から運ばなければならないことをお忘れ無く。 #right(){(91:477)} **「真珠湾攻撃で空母赤城の艦橋に上がった旗はZ旗ではなかった。」の? Z旗ではなく、正確にはDG旗と呼ばれるものです。意味合いは同じ。 #right(){(94:21)} **日本が米国から真珠湾攻撃を卑怯なだまし討ち呼ばわりされない様に、なおかつ真珠湾攻撃が奇襲の成果をあげられる様にするには >どの時点でどの様な手続きを行えば良かったのでしょうか? 真珠湾攻撃直前に宣戦布告をしたとしても 間違いなくスネークアタック呼ばわりされる。 米国の国民世論>国際常識(奇襲される方が間抜け) である以上、どうしようもない。 #right(){(95:775)} 単に「出先の外交官連中が、外交がせっぱ詰まって文字通り一触即発の時点だったにもかかわらず 役人同士の内輪の儀礼のほうを優先して益体もない送別会などを開いたりすることなく、 必要充分な連絡要員を残しておけば足りた」と思いますが。 #right(){(95:814)} **宣戦布告の文書・宣言はどうやって作るのでしょうか? >・何時までに誰が誰に対して宣戦布告文書・宣言を渡す又は通知すべきなのでしょうか? >・その宣言は日本語だけで良い?それとも日本側が英訳したのを準備して渡すべきでしょうか? 宣戦布告は陸海参謀・軍令部総長が天皇に骨子を上奏し、 首席宰相が布告を宣言、 外務省の条約局が英文・仏文・日本語で制作し、 天皇の裁可を得てこれを実行する。 #right(){(96:15)} **アメリカは日本の真珠湾攻撃を事前に察知していたのに、ドイツとの戦争口実が欲しいルーズベルト大統領が >見逃すように命じたというのは事実なんでしょうか? 元々は、トルーマンが1944年の選挙戦の時に、ルーズベルトを攻撃する為にでっち上げた物を、 ロバート・スティネットなんかが蒸し返した説です。 #right(){(98:377)}※中傷の文言を修正 ひとつ言っておくと、真珠湾攻撃の1時間前に日本軍はコタバルに上陸し、 英軍と戦闘下に入ってる。もう戦争は始まってたのよ。 ちなみに日本は英国に宣戦布告してない。んでチャーチルに嫌味言われた。 #right(){(98:399)} 日本が攻撃してくることは予想していたし、また日本が先に手を出すように仕向けたのは確かだが、 まさかあそこまで強烈な先制攻撃をされるとは予想していなかった、が大方の見解。 #right(){(105:584)} **「日本海軍はアメリカとの戦争を避けるつもりだったが、陸軍が押し切った」と聞きました。 >陸軍はどうやって海軍の決定に関与したんでしょうか? 海軍も一貫して対米非戦だったわけではない。 #right(){(98:328)} アメリカを仮想敵として、さんざん予算食ってきた海軍に、 対米戦忌避を言い出せる道理は無かった。 #right(){(98:329)} 1941年7月2日の御前会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が審議決定され、 武力南進論および北進論の路線が明確に打ち出されます。南進論について、 海軍に関しては、6/5に海軍の中堅層が中心となって作成された「現情勢下において 帝国海軍のとるべき態度」という文書が下敷きになっているものと考えられます。 その後、7/31には軍令部総長が天皇に拝謁し、石油問題の関係から、この際 打って出るほかなしとの上奏を行っています。その一方で、1940年11月には 対米英蘭戦を見越した出師準備第一着作業が始まり、41年8月にはその第二着作業 が行われ、9月には戦時編制に移行しました。 また、時間が前後しますが、8月16日の陸海軍局部長会議において、海軍側は、対米交渉が 10月中旬までに妥結しない場合には、対米戦を開始するという骨子の「帝国国策遂行方針」を提出します。 この時期までには、海軍は完全に対米戦を決意していたと考えてもよいでしょう。 それのほぼ一年前には、陸軍との合同作戦研究において、海軍は対米戦争の回避を 主張しているわけですが、特に蘭印との交渉の失敗、米国の対日石油禁輸措置など の外因や、部内の対米積極論者などの影響を受けて、対米戦に積極的になっていくわけです。 このあたりの海軍の動きについては、中公新書の「日本海軍の終戦工作」(纐纈厚)など 読むとよいと思います。入手しやすいですから。 #right(){(98:334)} **日米戦争は、ソ連人民内務委員会(NKVD)の工作員やCIAの前進である戦略情報局(OSS)が巧妙な手口で日米戦争を誘導した? OSSが出来たのは真珠湾攻撃より後だよ。 #right(){(99:264)} **真珠湾作戦の航空攻撃が始まるのに先立って、甲標的が真珠湾入り口で米駆逐艦に発見され砲撃まで受けたと言う話を聞いて驚きました。 >それについて検索すると、当然駆逐艦は太平洋艦隊司令部に打電して警報を出した。 >この時点で航空攻撃開始まで充分時間があった。 >しかし司令部員の誤解と形式主義によりその電報は司令部の机の上で無駄に止まってしまい、 >艦隊司令官の下に届いたのは日本航空隊が攻撃を開始する直前で、警報は役に立たなかった。とのことでした。 >この米軍側の不手際、誤解と形式主義とは何だったのでしょうか? 米国は日本軍がフィリピン侵攻作戦を取るとの考えから、 これに対抗する作戦として西太平洋での対日決戦を想定した「レインボー計画」を 採択していました。 これによれば、日米開戦と同時に太平洋艦隊は真珠湾を出撃しマーシャル諸島へ 侵攻する手はずになっていました。 ここからが形式主義と呼ばれた部分なのですが、太平洋艦隊司令部では真珠湾への奇襲の可能性は 低いと考えており、キンメル太平洋艦隊長官はマーシャル諸島侵攻作戦のための 準備と訓練のほうが重要と考えて、索敵のための哨戒を軽視していたようです。 さらに、陸上の防衛はショート陸軍大将・湾内の防衛はブロック海軍少将の担当となっており責任の所在が分かれたことや、 1940年以降に太平洋艦隊がワシントンから対日戦の危機情報を4回も受け取っており、 いわゆる「狼少年」と同じ状態になって警報を信用しなくなった事などがあったと言われています。 特に4回目の警報はハル・ノートを日本に提示した11月26日に出されており、 十日以上経って危機感が緩んでいたと考えた方がいいようです。 #right(){(99:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **ルーズベルトは真珠湾攻撃を事前に知っていた、ただ日本と戦争する口実が欲しかったから放置したって本当の話ですか? 2重に違う まずその説は終戦直後から、1946年ごろの米雑誌に既に掲載されておるし 「最近の研究」ではルーズベルトら米政府首脳は日本がまずフィリピンを 攻撃するものと踏んで警戒していたことがますます明確になってきている ちなみに90年ごろのロシアでは「真珠湾攻撃を企画し日本海軍に吹き込んだのは 旧ソ連軍参謀本部である」という説が爆発的に広まっておった #right(){(99:530)} 何スレか前にも同様の質問がありました。 そこから解説すると、そもそもはルーズベルトの四選を阻むために対立候補が流そうとしたデマが 独り立ちしたものといわれています。 これを数年前にロバート・スティネットなる人物が米海軍の新たな公開文書から 新証拠を発見したとして「真珠湾の真実」と言う本にまとめたため、 改めて日本で話題になったものです。 しかしその内容は秦郁彦氏編著の「検証・真珠湾の謎と真実」であっさりと論破されています。 ルーズベルトは自叙伝を残す間もなく急死し、彼が何を知っていたかは完全に謎です。 真珠湾に攻撃がある可能性を示唆されていたことはありえますが、開戦の糸口にするため あえて放置したとの考えはその被害の大きさからして考えにくいと言うのが 常識的な回答だと思います。 #right(){(99:531)} **開戦時のワシントンの日本大使館への電報ってアメリカの電報会社から紙で配達されるのですか。 >それとも直接無電ですか。 商用電報です。ルートは外務省電信室→東京中央電報局 →電文の95%は米本土へ無電(この段階で米海軍が傍受)→RCA電信会社経由でワシントンへ →大使館ポストへ配達です。 残り5%は海底ケーブル経由ですが、こちらは電信会社から横流ししてもらいました。 ちなみ開戦前夜では大使館職員が暗号電報を目にする前に、米国側が先に解読・翻訳を済ましてました。 >あと暗号の解読を手で行ったらしいですけどパープルってそんな暗号なんですか。 九七式欧文印字機の解読作業はまず紙と鉛筆で攻略し、 暗号化プロセスが判明すると彼らは模造機を製作しました。 #right(){(100:797)} **真珠湾攻撃の「ニイタカヤマノボレ」に対し、成功した場合は「トラトラトラ」というのは有名ですが >失敗した場合や、他の場合はどんなパターンがあったのでしょうか? 真珠湾攻撃におけるパターンは調べても判りませんでしたが、 当時のモールス連送については以下が参考になるのでは? http://www.warbirds.jp/ansq/11/A2001662.html #right(){(101:545)} **駆逐艦ウオードが甲標的を撃沈した場所は公海なんでしょうか? アメリカの領海内です。 ついでに言えば、国際法上、潜水艦は潜航した時点で敵対行為を取っていると 見なされるので、ウォードの行為は合法です。 #right(){(102:202)} そもそも当時、領海の幅を世界的に統一する国際法はなかった。 19世紀までは慣習法で3海里となっていたが、20世紀に入ると国際法学者の提唱する説と それぞれの国内法での規定があるだけになった。 #right(){(102:205)} 当時の潜水艦は性能上、通常航行では浮上しているのが普通で、 潜水するのは戦闘時のみでした。 ウォードの報告によれば、「警告に従わなかった為、撃沈」ということになってます。 ちなみにこの時点で米軍は大西洋でドイツ軍のUボートとも交戦しておりますので、 ウォードの行為には特に問題はなかったかと。 #right(){(102:224)} **オレンジ計画には軍事計画だけで、経済による攻撃は盛り込まれていなかったの? 軍事計画だけです。 石油の禁輸や日米通商航海条約の破棄といった経済的な対日政策は、 米国が日本の政策を慎重に見つつ、段階を踏みながら取っていったものです。 基本的に米国の姿勢は、ヨーロッパに努力を傾注するために、日本との直接の 戦争はなるべく避けつつ、日本がワシントン体制に復帰することを促す、という ものでした。 このあたり、非常に細かい部分まで解説しないといけない部分があるので、 詳細に話をするとここでの回答の範囲を超えてしまいます。ですので、 入江昭の「太平洋戦争の起源」あたりをとりあえずお勧めしておきます。 #right(){(103:334)} **「ガッチリハワイ」のメリットとデメリットを教えて下さい あくまでも、簡単にですが。 メリット:Hawaiiから太平洋岸まで、めぼしい米軍の補給基地が無く、奪回ルートを設定するのが困難。 デメリット:日本からHawaiiまで、めぼしい日本軍の補給基地が無く、現地部隊への補給が困難。 #right(){(105:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本海軍航空隊は真珠湾攻撃に備えて、地形が良く似ているとされる鹿児島湾で訓練を行ったそうですが、 >そもそも鹿児島湾と真珠湾の地形が良く似ているという事に何時頃、誰が気付いたのでしょうか? >(鹿児島湾で訓練しようと誰が言い出したのか?) 雑談程度ですまそ。 鹿児島って対米移民を多く出してるから、おそらくバレバレだったでしょう。 真珠湾の地図が公表されていたかどうかは知りませんが、 50万分の1航空地図くらいはいくらでも手に入ったと思います。 #right(){(110:9)} **真珠湾攻撃の際のト音信号というのはどういう信号だったんでしょうか? トン・ツーの組み合わせで、「タチツテト」の「ト」を連打。 (どういうトン・ツーの組み合わせで「ト」になるかは知りません。) だったような。 #right(){(110:文民)} **日本が同盟国であるドイツに対米開戦を決定したことを通知したのはいつなのでしょうか? >ひょっとしてドイツはパールハーバー奇襲まで知らなかったのでしょうか? 真珠湾まで知りませんでした。逆にドイツも対ソ戦の開始を日本に教えてませんでした。 #right{(502:68)} >追加の質問ですがイギリスがドイツに宣戦する前はあらかじめアメリカに通知していたのでしょうか? 別に同盟を結んでるわけじゃないアメリカに通報する義務はないし現に通報してない。 #right{(502:73)} 日本は昭和16年11月5日の御前会議で、日米交渉の決裂が避けられない情勢になった場合、 速やかにドイツに対して対米参戦の要請を行なうことが決定されている。 そしてその要請に対し、12月3日にリッペントロップから大島大使に対して 「日本が開戦すればドイツもただちに戦争状態に入る」 という返答が行なわれ、それに基いて対米英単独不講和についての交渉も 行なったと御前会議で報告されている。 http://www.jacar.go.jp/nichibei/ このことから、ドイツが事前に日本の対米開戦を諒解していなかったとは考え難いこと。 また、ドイツの対米宣戦布告は12月11日だが、ドイツは8日の段階で 既に米輸送船に対する攻撃命令を出している。 >「直ちに戦争状態に入る」や、「戦争協力は及ぶ限りを行なう」とまで約束したというのは大島大使のスタンドプレーだったって説もある >そもそも三国同盟には軍事協約がなかったんだから、軍事行動について何か話し合われたはずがない。 いや、御前会議で報告されていることなんだよ。 対米交渉決裂するとドイツに対米開戦の意志を伝え、 参戦を要請する交渉を行なうことも11月5日の御前会議で決定されていたわけだし、 スタンドプレーと判断するような根拠は無い。 もちろん三国同盟には軍事協約がなく、日本は独ソ戦に参戦しなかったのだから ドイツも対米参戦する義務はなかった。嫌々対米戦を行なう必要はそもそもないわけで。 以下御前会議の報告引用 十一月五日 御前会議決定「帝国国策遂行要領」ニ関連スル対外措置 一、対独伊 日米交渉決裂シ戦争不可避ト認メラレタル際(大体十一月二十五日以後ト 想定ス)ニハ遅滞ナク独(伊)ニ対シ帝国ハ近ク準備成リ次第英米ニ対シ 開戦スルノ意向ナル旨ヲ通報シ右準備ノ一部ナリシトテ左記事項ニ付必要 ナル交渉ヲ行フモノトス  一、独(伊)ノ対米戦争参加  二、単独不講和   備考 独逸側ヨリ対「ソ」参戦ノ要求アリタル場合ニハ差当リ参戦セサル 旨ヲ以テ応酬ス但シ之カ為独逸ノ対米参戦ノ時期カ遅ルルカ如キ事態生ス ルモ止ムヲ得ス #right(){(615:261-273)} >関連質問だけど、ドイツは日本と交渉の際に対ソ戦参戦を求めなかったの? >独ソ戦開戦直後よりドイツ側からは参戦要請があったと聞くけど、 >日本側は拒否、っていうか様子見だったんだよね=「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」 >対米宣戦してやる代わりに日本はソ連に宣戦しろとか、駆け引きなかったのかな? ドイツ側も無理な要求だと諦めているんだと思われるが、 対米戦についての話し合いの中では、対ソ参戦までは要求されていない模様。 その代わり、 アメリカの軍需物資がウラジオストクを経由してソ連に渡るのは困るから、 日本の立場は了解するも、それだけは阻止することを 文書で約束してほしいと申し入れられている。 それに対し日本側では、どう返答すべきか御前会議で討議され、 阻止作戦のリスクに関する色々な意見がでたあと、 以下のように返答することに決まった。 「米国より『ウラヂオ』へ軍需品の輸送阻止の件は日本に於て承認す。 但し日本の作戦の見地上『ソ』との戦争に入ることを絶対に 避けなければならぬ時期の間は十分に之を実行できぬことを諒承せられ度」 (弟75回連絡会議) #right(){(615:392)} 東條内閣が12月8日の開戦を決定したのが12月1日の御前会議においてなので、通知していなかった 可能性がある。 ただし日本が対米開戦した際は、ドイツも対米攻撃すること、さらに米国との単独不講和の言質を得ていたよう。 以下の眠い人のブログにその辺の交渉の経緯が詳述されている。 http://nemuihito.at.webry.info/201009/article_24.html リンク先を要約すると、 1941年4月、ヒトラーは訪独した松岡洋右に対し、日米戦争勃発の際は直ちにドイツは対米攻撃を行うと言明していた。 その後、紆余曲折があったものの11月に入ると東京からドイツに対し、ドイツは日本が対米開戦をした場合、 日本を支持するかと言う正式の照会があり、また日本政府は、米国との単独不講和の日独伊条約を開戦前に締結したいと申し出る。 リッベントロップは総統に日本からの提案を報告し、その際、日本の対ソ戦を開始がない事は明らかであるが、 対英米攻撃は、米英の注意を欧州から逸らせるばかりでなく、米ソ間の太平洋航路に打撃を与え、 東部戦線に於けるドイツ軍の士気を鼓舞しうると説明。 12月4日にヒトラーは日本の提案に承認を与え、リッベントロップは直ちにヒトラーの回答を、ローマと駐独日本大使に伝えた。 **第二次世界大戦で日本軍は目的がないまま計画無しに戦争を始めたと友だちに聞いたんですか、本当ですか? 未来の自国をどういった形にするか、という「国家戦略」が無いまま戦争を始めたことは事実です。 年表にすると 1931年   満州事変 1932年   満州国建国・国際連盟脱退 1937年~ 日中戦争(敵:中国) 1941年   仏印進駐         太平洋戦争(敵:米英蘭中豪ほか) と、手を伸ばしやすいところに手を伸ばし、いたずらに敵を増やしていることがわかります。 #right(){(7:255)} 満州事変~建国は陸軍の一部が結託し起こした事態であり、日中戦争もやはり陸軍の暴走によって引きおこされたものです。 しかし、この戦争を統制せず、「国民政府を相手にせず」と中国に傀儡政権を打ち立て、戦争を泥沼化したのは政府の責任です。 その後、ドイツによってフランス本国が占領されたため、尻馬にのって日本は仏印(フランス領インドシナ)の資源を確保しようと進駐し、 これが東南アジアに植民地を持つ欧米列強に「日本の南進」の脅威を与え、結果として太平洋戦争につながりました。 陸海軍の戦略ですが、日露戦争後の1908年に決定した「帝国国防方針」で、陸軍はロシアを仮想敵国、 海軍はアメリカを仮想敵国とするとされ、この方針は太平洋戦争まで基本的に変わっていません。 両軍がお互いあさっての方向を向いていたのも敗戦の原因です。 #right(){(7:258-259)} **真珠湾攻撃のとき、もし、備蓄タンクを爆撃したら燃料不足で太平洋戦争は結果が変わったのでしょうか 結論から言えばほとんど変わらなかったと思います。 さる本によれば、当時の真珠湾の石油備蓄タンクの備蓄量は450万バレルだそうです。 すごい数字と思うでしょうが、キロリットルに換算すると71.5万kl。 これは当時の日本の石油備蓄量約800万KL(約600日分)の8.9%に過ぎません。 (ちなみに当時の日本の年間消費量は年間約500万KLだそうな。) しかも当時真珠湾の石油タンクは実は空だった(地上にあるのは偽装タンクで地下のタンクに備蓄していた) ので爆撃してもまったく意味が無かったという話もあります。 すべての燃料を使い物にするなんてできない相談でしょうね。 #right(){(48:563)} あ、それはむしろ日本側が言ってる話。 (この頃、日本はタンクの地下化を急速に進めていた) アメリカはなぜ日本が燃料タンク攻撃しなかったのか不思議で仕方なかったらしい。 でも真珠湾を出撃拠点にできない状況が当分続けば、アメリカの反攻は相応に遅れたでしょうね。 ただし遅れるだけ。本土で量産されている空母や戦艦の数が減るわけじゃなし。 #right(){(48:ゆうか ◆9a1boPv5wk)} **ハルゼーは、宣戦布告前に旅順を奇襲した卑怯者と思っているってホント? ハルゼーは"kill the Jap,kill the Jap,kill the more Jap!"などとのたまうほどの 日本人嫌いだったので、奇襲云々は口実ではないかと思います。 余談ですが、ハルゼーは東郷憎しのあまり戦艦三笠のZ旗をソ連に渡そうとしたらしく、 東郷を尊敬していたニミッツ提督が慌てて阻止したとか。 #right(){(50:578)} **さる書籍で、日本側は「真珠湾の浅瀬で使用可能な航空魚雷」と「戦艦の砲弾を利用した、戦艦の上甲板が破壊可能な航空爆弾」を >完成させていたのに、アメリカはそれを知らず、湾内の戦艦が攻撃を受けても大した損害は出ないと考えていた。 >と書いてありましたが、この話の信憑性はいかがでしょう? そう言う見方をしていた人が多数派だった事は確かです。 通常なら、軍艦の周りに展開しておく筈の防魚雷網も、対潜水艦用に湾の 入り口に設けていただけでしたし(ちなみに、真珠湾攻撃本番時に甲標的が これに引っかかっている)。 ただ、爆弾に関しては、ドイツ空軍は対艦攻撃用に1t爆弾を使用していますし、 浅瀬で使用可能な航空魚雷も、真珠湾で攻撃をする場合は必須となる訳で、 それを開発して来る事は十分予想は出来ますし、(事実、ミッチャーなどは そう主張していた)早い話、米軍は慢心していた、と言ったところでしょうか。 #right(){(54:75)} **日本の軍部はアメリカに勝利する見通しはあったの? 自力で勝利とか講和できるとは考えてなかった。 対米奇襲攻撃に成功して、なおかつドイツがイギリスを破ればアメリカの世論が揺いで講和の可能性が生まれるという、 いわばドイツ頼みの戦争だった。 しかし当のドイツは対ソ戦で既に劣勢に立っており、日本軍部の情報収集力の欠如が対米開戦決定に繋がったといえる。 >大使館経由で建艦情報は結構正確に得ていたそうですが、それならば >『季刊正規空母・月間軽空母・週間護衛空母・日刊輸送船』などという国に対して勝てるわけねぇ、と思わなかったのでしょうか?  ヤンキーのあの凶悪な軍備拡張計画が成就した暁には、どうあがこうが日本に 勝ち目がねーってことは、まあ、それなりの頭のある連中にゃわかってたっぽい。 が、そこで「あんなバケモン相手にゃ勝ち目ねーよ、やめとこーぜ」とはならず、 「やるなら今しかねえ。今なら、短期決戦でいきゃあ何とかなる(かも)!」なんて 調子いいことを考えちまったのが終わりの始まり、ってことらしい。  まあ、海軍も官僚組織だし、さんざか国費を蕩尽して戦艦やら空母やらを揃えた挙句に 「だめっす、勝ち目ないっす」とは言えんかった、という事情もあるみたいだがね。 そもそもの海戦タイミングが、日米間の艦船保有比率が一番ちじまった時に開戦したわけで、 当の日本海軍も、ワシントン条約終了後のアメリカ海軍大拡張は承知の上。1944年には何もしなくても 対米比率3割以下という事は承知してましたとさ。 #right{(358:319,320)} **開戦時,海軍は開戦派,戦争回避派のどちらが主流だったのか?  「この時点(昭和16年頃)ではむしろ開戦派が主流だった」という.  以下引用.  海軍は開戦を決意してから準備するのでは間に合わないとして,40年8月から対米戦の準備を本格的に始めた.  その準備が翌41年4月に完了したので, 「時間が経てば,日米海軍の戦力差は飛躍的に増大する.日米戦うとすれば昭和16年をおいて他になし」 というのが彼らの考えだった.  開戦派の中核は,海軍省と軍令部の事務推進機関として作られた「第1委員会」のメンバー,石川信吾・海軍省軍務2課長や富岡定敏・軍令部作戦課長らだ.  第1委員会は41年6月,政府や陸軍を「戦争決意の方向に誘導」すべきだとする文書を作成している.  永野修身(おさみ)軍令部総長らが 「石油がなければ座して死を待つことになる」 という「ジリ貧」論から対米開戦を主張したのも,第1委員会の意見が色濃く反映している. (土門周平談 from 読売新聞 2005/12/22) **なぜ日本はあんな無茶な戦争をしたの?せざるを得なかったの? 付表:破滅へのカウント・ダウン  ●日露戦争時,イギリス・アメリカから「ロシアから満州の機会平等を守る」という約束で500万ポンドづつ(当時の国家予算の8年分)借りていたのにもかかわらず,満州の利権を独占。 ・日本破滅レベル■■  ●1924年アメリカが移民法(排日移民法)を制定。日本のナショナリズムを強く刺激した。  当時の世論、特に新聞社は「国辱」と強く反応し、キャンペーンが繰り広げられる一方、日米開戦説が叫ばれた。 ・日本破滅レベル■■■■  ●1929年浜口内閣は対外的には協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、中国に対してもその主権を尊重し、内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護をはかった。  陸軍を主体とする軍部は、これを軟弱外交として非難し、これに強く反対した。 ・日本破滅レベル■  ●1931年9月18日に満州事変をおこす。  軍は根拠も無いまま漠然と「満州は日本の経済的生命線」と思い込んでいた。  食糧の供給先としても、資源の供給先としても、自国製品の市場としても,満州の存在ははっきりいって小さい上,中国では日貨排斥が激化し、対中輸出が3分の1にまで激減してしまった。  そして中国軍の実力を極端に軽視し、日本軍を過大評価するようになり,出先の部隊が軍中央部の命令に従わず独断専行しても、結果さえ良ければ褒章を受けることはあっても処罰されることはない、という風潮が広まる。 ・日本破滅レベル■■■■■  ●満蒙権益をめぐる日中間の紛争やロンドン海軍軍縮問題をきっかけとなり五・一五事件おきる。  これは8年間続いてきた「話を聞こう」の政党政治の時代から「問答無用」の軍部暴走の時代へと移行する大きなターニングポイントであった。 ・日本破滅レベル■■■■■■■  ●1932年満州国が建国。  リットン調査団報告書は,関東軍の行動を自衛のための行動とは認めず,満州国も満州住民による自発的なものとは認めなかった。  日本に妥協的な内容の,1933年2月国際連盟の日本軍の満鉄付属地内への撤兵などを求める勧告案が,臨時総会で42:1(反対1は日本)で可決されると,日本は3月国際連盟から脱退した。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■  ●日本は世界に先がけて恐慌からの脱出し日本は低賃金で生産した製品を,為替操作で円安にして,失業率20%の米英とその植民地に輸出しまくった。  その結果ソーシャル・ダンピングと叩かれ、輸出制限されたため,排日行動を続ける蒋介石の影響力から「華北」を切り離して親日政権を作り、そこを新しく、外貨獲得のための日本製品の輸出先にしようとした。  日本の武力によって蒋介石の影響力が弱まったため、「華北(平津地区)」では共産主義者の勢力が逆に強まった。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■  ●1936年 二・二六事件の鎮圧後,岡田内閣が総辞職し広田弘毅内閣が成立した。  陸軍は、事件の威圧効果を利用して発言力を強め、陸海軍の同意がなければ内閣が成立・維持できない状況になる。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■  ●1937年7月7日盧溝橋事件がおきる。  11日には現地で停戦協定が成立したが,同じ日に第1次近衛内閣は華北への派兵を決定し北支事変と称した。  これを機会に中国に一撃を加えておけば抗日運動をおさえこむことができるだろうと,安易に判断する強硬派の意見が通ったのだ。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  ●短期決戦の思惑が外れた近衛内閣は対中政策を転換し,11月日本の戦争目的は日満支(中)3国提携により東アジアに新秩序を建設することだと声明し(東亜新秩序声明=第2次近衛声明),国民政府との和平交渉の可能性を示唆した。  しかし同調者は少なく,戦争を終結させることはできない上に,日本が東亜新秩序建設を声明した際に東アジアからの欧米勢力の駆逐を掲げた。  石油・鉄などの軍需物資の大半をアメリカに頼る日本にとって致命的な打撃となることは確実なのに,1939年日本が抗日運動の拠点とみなして天津の英仏共同管理の租界を封鎖してしまった。  当然アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告した。  共産勢力より日本の方がが脅威となったのだ。 ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  ●さらに「アメリカ相手では2年も持たない」という意見があるのにもかかわらず。 「ABCD包囲網により石油の輸入が不可能となった。「このままでは立ち行かなくなるので戦争してでも南方を奪ってしまえ」 という意見が、「ABCD陣営と妥協して平和裡に石油を輸入できるようにしよう」という意見を駆逐してしまう ・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ (ニュース極東板) **日英同盟が続いてればアメリカと戦争せずにすんだという意見があるけど、なぜ日英同盟は解消されたの? 1921年のワシントン会議において調印された「四カ国条約」によって日本・イギリス・アメリカ・フランスは太平洋における各国領土の権益を保障した。 それに伴い日英同盟「不必要」ということで破棄。 そもそも日英同盟はロシアを共通の脅威と想定していたものだったからアメリカと戦争寸前状態になればイギリス側から破棄するだろう。 **三国同盟条約では日本開戦時のドイツとイタリアとハンガリーには参戦義務はあったんですか?なかったんですか? 条約条文の法理上の解釈では、「日本国、ドイツ国およびイタリー国間三国条約」の第三条には、  「日本国、独逸国及伊太利国は前記の方針に基く努力に付相互に協力すべきことを約す。   更に三締約国中何れかの一国が現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国に   依て攻撃せられたるときは三国は有らゆる政治的、経済的及軍事的方法に依り相互に   援助すべきことを約す。」 とありますから、別に参戦義務は無かった訳です。 ちなみに、これとは別に秘密往復書簡三通があり(これはHitlerが関知していないものでしたが)、 その一通には、「締約国が条約第三条の意義に於て攻撃せられたりや否やは三締約国の協議」 によって決定されるとして、自動参戦を抑止することが盛り込まれています。 #right(){(129:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本が米国に布告したのを見て、他の国が日本に宣戦布告ということってあったのでしょうか?  あった.  対日宣戦布告の流れ 1941年 アメリカ,イギリス,オーストラリア,ニュージーランド,カナダ,南ア連邦,コロンビア,エルサルバドル,コスタリカ,ドミニカ,ニカラグア,ハイチ,グァテマラ,ホンジュラス,パナマ,オランダ,キューバ,ベルギー 1942年 メキシコ 1943年 イラク,ノルウェー,ボリビア 1944年 リベリア,フィンランド,ルーマニア,ブルガリア 1945年 エクアドル,ペルー,パラグアイ,ベネズエラ,ウルグアイ,トルコ,エジプト,シリア,レバノン,イラン,サウジアラビア,アルゼンチン,スペイン,チリ,デンマーク,ブラジル,ギリシャ,ソビエト連邦,モンゴル **太平洋戦争直前、日米交渉が成立すれば南雲機動艦隊は何もせず戻ってくる事になっていますが、その場合、フィリピン、英マレー半島、蘭インドネシアに対する攻撃も停止する事になっていたのでしょうか? たてまえではそうなっていた。 しかし実際には成立した場合にどうするかの詳細な行動指針は何も与えられていなかったことが、当時の輸送船の船長の手記などに見られる。 だから万一交渉が成立した場合でも武力衝突が一部に発生しただろうことは想像に難くない。 というかもう成立はないだろうというあきらめムードが一般的だったし。 #right(){(初心者スレ484:795)} **日本軍の真珠湾奇襲時、ハワイの沿岸砲はどんくらいあったんでしょうか >奇襲前のお話でもご存知でしたらお願いします 1941年時点で配備されていたと思われるのは、以下の通り。 ほぼ戦史叢書の数字と同じですが、若干のずれ。また記載の無い機動火砲もあり。 オアフ島ホノルル地区 ・14インチ砲:2 ・12インチ臼砲:12 ・8インチ砲:2 ・6インチ砲:2 ・5インチ以下:2 オアフ島パールハーバー地区 ・16インチ砲:4 ・12インチ砲:4 ・12インチ臼砲:8 ・8インチ砲:4 ・6インチ砲:5 ・5インチ以下:7 オアフ島カネオヘビーチ及び北岸 ・8インチ砲:8 機動沿岸砲 ・240mm榴弾砲:12?―既設の砲台に展開して沿岸砲として使用。 ・155mm榴弾砲:不明―既設の砲台に展開して沿岸砲として使用。 参考http://www.cdsg.org/hawaii.htmほか #right(){(初心者スレ545:◆yoOjLET6cE)} **日本は真珠湾では、一切民間人を攻撃しなかった? 真珠湾攻撃の際には48人の民間人が殺されている。 ttp://www.nps.gov/archive/usar/phcas.html これには走行中に銃撃を受けた乗用車1台・救急車1台の乗員を含む。 故意か誤射かは別として「一切攻撃はしていません」と威張れるものではない。 #right(){(もう少し特攻隊が頑張っていたら:231)} **開戦前、三国同盟派と反三国同盟派があったかと思いますが、実際日本が枢軸国側から英米側に軸足を移すことは外交上可能だったのでしょうか? 満州事変を鎮圧すればあるいは、と言う状況でしょうか。 それ以降では、陸海軍部の鼻息が荒すぎてどうしようもありません。 天皇が反対して、近衛兵を率いても、下手すれば、首をすげ替えられて終わりです。 面白い読み物ですが、黒野耐氏が、『「たら」「れば」で読み直す日本近代史』(講談社)と 言う本を書いています。 薄っぺらい本ですのでご一読なされてはいかがでしょうか。 #right(){(343:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ルーズベルトが天皇に親電出して和平探っていたというのは史実? >瀬島龍三らが天皇への通達遅らせたので有名とか ルーズベルトの親書は「日米外交関係雑纂 第18巻」をみるよし。 瀬島のは防衛省防衛研究所に保管されてる「防諜に関する回想聴取録」 にある。 #right(){(569:766)} **アメリカは日本がどうしても宣戦布告してこない場合、アメリカの砲艦が日本に撃沈された事にして対日宣戦する予定だったと聞いた事があるのですが、 >真偽のほどはさておいてその砲艦の名前をお教え願えますでせうか? 第一次大戦時に個人所有のヨットを改造したイザベラ号です。 排水量は900t程度、最高速力は名目上25kts/hでしたが、15kts/hが精々で、 魚雷発射管2門と3インチ砲を装備して、一応、アジア艦隊に属していました。 其の手の船は、もう2隻用意されていて、50t程度の3本マストの帆船で機関銃 1梃装備のラニカイ号、更にその半分ほどの帆船、モーリー・ムーア号があり ましたが、何れも実際には使用されていません。 #right(){(574:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **アジア解放のための戦争だったという説があるけど本当なの? 大東亜政略指導大綱  (1943.5.31.御前会議決定) タイ:相互協力強化・マレー国境地帯の割譲(戦争協力の代償) 仏印:現状維持・強化 ビルマ:独立 フィリピン:独立 マレー半島:日本領に編入 スマトラ島:日本領に編入 ジャワ島:日本領に編入 ボルネオ島:日本領に編入 セレベス島:日本領に編入 ニューギニア島:日本領に編入の方向で調整 日本,全然植民地解放する気ねえええぇぇぇぇ #right(){(579:252)} **チャイナロビーが太平洋戦争を強力に推進したのと、当時ホワイトハウスには共産主義者が蔓延っていたというのは本当ですか? 対日戦争にあまり乗り気でなかった米国でその様に活動した記録は残っています 英国でも同様に活動したとも言われており、外交交渉のみの日本は不利であったと言われています。 また共産主義者が多数居たかどうかは寡聞にして存じません、が戦後のレッドパージの苛烈さを考慮すると 総統多数が居たものと思われます、当時も多数の華僑が米国内に居ましたしね。 #right(){(337:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)} **独ソ戦が始まったとき日本はなぜ対ソ開戦しなかったの? ドイツ独力ではモスクワ攻略は困難というのが当時の日本軍の判断 独ソ開戦のために極東ソ連軍の兵力がヨーロッパ正面に送られて半減すれば日本が対ソ開戦しても勝てるという見積もりだったのだが、 実際は極東ソ連軍の兵力がそこまで減らなかったので諦めた 当時の日本外交は様々な集団が好き勝手やってたから、 統一がとれてなくて、細かいことを言い始めるとキリがないんだけど、 ひじょうにざっくりと言うと、そもそもドイツとの同盟は アメリカに圧力をかけようとして松岡外相が強引に進めたもんで、 軍事的に共同歩調をとることまでは考えられてなかった のちに陸軍ではドイツの快進撃を見て、あわよくばとソ連を挟み撃ちにする機会をうかがってたんだけど 極東ソ連軍のうち対独戦に転送される兵力が 日本陸軍の予想より下回ってて 「ムリ!」ってことになった あと欧州各国の日本大使館の駐在武官はドイツびいきがおおくて、ドイツはまもなく勝利する!みたいな情勢判断ばかり 日本本国に送ってよこした #right(){(592:358,361)} 当時の日独の交渉は以下の眠い人のブログに詳しい。 http://nemuihito.at.webry.info/201009/article_24.html リンク先を要約すると、 1941年初期の段階ではドイツはしきりに日本に対し、ソ連の背後を突く様に依頼していた。 しかし日本は、攻撃を夏に開始したとしても1941年中にシベリア経由の通路は開けないと予想。 11月には大島大使がドイツ政府に対し、ソ連攻撃を急がず、南方への進出を準備していると伝えている。 **日米開戦のときに東条首相以下政府首脳は、真珠湾攻撃が宣戦布告ギリギリのタイミングで行われることを知ってたのですか? 最初は、政府首脳は奇襲攻撃後に宣戦布告すればいいと思ってた。 それを山本56が「そりゃマズイだろ」って攻撃開始前に手交するように要請したのです。 実際は攻撃後に宣戦布告て事になっちゃったけどね そんなことだから、政府や外務省は宣戦布告の遅れをたいしたことのないミスだと思ってた #right(){(331:732)} **日米が開戦した時に、アメリカを内部から混乱させる為に、インディアンや日系人に武装蜂起を促すような作戦は立てられなかったんでしょうか? 黒人扇動についての本『日本から救世主が来た』の紹介 ほぼ日刊イトイ新聞 -担当編集者は知っている。 http://www.1101.com/editor/2001-07-13.html #right(){(325:803)} **日本はハルノートは一切関係なくアメリカと戦争をするのを決めていた、というのが有力だそうですが、 >そうではないとすると、日本は何時アメリカと戦争をすると決めたのでしょうか? 昭和16年11月5日の「帝国国策遂行要領」には 「5.対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す」 とあります。 昭和16年9月6日の「帝国国策遂行要領」には 「3.外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意」 とあります。 これのどちらかではないでしょうか。 #right(){(619:441)} 11月5日の御前会議で12月までに日米交渉に進展がなければ開戦に踏み切ると決定され、 それに基き12月1日の御前会議によって対米開戦が決定されている。 真珠湾攻撃部隊は出撃中に開戦決定の通知がなければ、 作戦を中止して引き上げる計画になっていたが、 11月27日のハルノートによって日本の交渉は破綻し、開戦が避けられなくなった。 #right(){(619:455)} **真珠湾攻撃は想定されておらず、空母が居なかったのはたまたまなの? 11月24日にホワイトハウスで大統領と軍首脳による会議が行なわれているが その内容は、スターク作戦部長が太平洋艦隊司令部に送った手紙によると 「時局の重大さから日本がいつ奇襲にでても驚くには当たらず、 様々な角度から検討して比島に対する攻撃が最も脅威である。 その可能性は指摘されているが、私としては蘭印、ビルマルートへの攻撃を想定している」 というもの。 また11月28日に米太平洋艦隊司令部では、 航空部隊の配置についての協議がなされているが、 その際にオアフ島に日本軍の攻撃がありえるかというキンメル長官の質問に対し、 マリックモリス作戦参謀は「その可能性は皆無です」と断言している。 従ってアメリカとしてはどこかに日本軍の奇襲があったにせよ、 真珠湾は安全だと判断していたのは疑いの余地がない。 #right(){(619:596)} **真珠湾攻撃に間に合わず問題になったコーデル・ハル国務長官に渡した「対米覚書」は、そもそも宣戦布告ですらなかった…というのは本当ですか? >Wikipedia「太平洋戦争」より >この覚書には戦争をうかがわせる記述が無く、宣戦布告無しのだまし討ちであるとアメリカ大統領が議会で発言している。 >だとしたら日本が正式にアメリカに宣戦布告したのはいつですか? 本当……というか、「宣戦布告」として認められる内容を満たしてなかった。 乱暴に言うと 「もうあなた達の国とは交渉はしません。もし戦争になっても仕方が無いと思って下さい。  仮にこの瞬間に両国が戦争状態に突入しても仕方が無いと考えてます」 ということが書いてあるだけなので、「宣戦布告」としては認められないものだった。 「最後通告」ではあったけど、「最後通告=宣戦布告」ではないので。 国際法上は宣戦布告していないことになる #right(){(658:888-889)} **ハルノートが出される前に、アメリカとまとまりかけた協定案を蒋介石とチャーチル反対して潰したという話を詳しく http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/seiji/nichibei_kousyou/daitoua10-1.htm 日米が暫定協定締結しようとしたことを知った蒋介石はなりふり構わぬ抗議を行ったのである。 (中略) さらにハルのもとへ蒋介石の工作によって動かされた英首相チャーチルから大統領宛の電報が届き、 これは暫定協定案は支那を不利に追い込むと批判する文書であった。蒋介石は米国の支援なくしては 抗日戦はとても完遂できないと実感していた為、このような行動に出たと言える。 かかる反対によりハルは暫定案の提示を取りやめ、モーゲンソー案にあった一般協定と、 オーラル・ステートメントが11/26日に野村・来栖両大使に渡されたのである。 #right(){(664:487)} **アメリカが対日経済制裁案を発動した際、ルーズベルト政権内部には「これは戦争を誘発する」という危惧の声はなかったのですか? 基本的には、上院に於ける合同決議案第123号、同143号が可決されているので、これに反対する声は小さいものです。 但し、日米通商航海条約の破棄については、元々、1911年の条約を破棄すると言う提案を行った上院のヴァンデンバーグ議員は、 古い条文を見直して、時代に合うようにこの条約を再締結すると言う意図の下で、決議案を提出し、可決したのですが、実際には、 国務省サイドはそれを破棄するだけで、新規に条約を締結する所まで行ってません。 ちなみに、この時期の新聞論調はパネー号誤爆事件もあって、今の日本の北朝鮮に対するような感じで、反日一色だったりする ので、その意見に反する立場を取ることは、議員達にとっては死活問題だったりします。 #right(){(291:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **天皇が真珠湾攻撃決定を知ったのはいつなのか? 11月5日の御前会議を終えてから、 永野海軍軍令部総長と杉山陸軍参謀総長から天皇陛下に陸海両軍の作戦内容を奏上し、御裁可を受けています。 この奏上には >開戦劈頭退菲島及馬来ニ対スル先制空襲ト成ルベク時ヲ同ジク致シマシテ >第一航空艦隊司令長官ノ率ヰル航空母艦六隻ヲ基幹トスル機動部隊ヲ以チマシテ >布哇在泊中ノ敵主力艦隊ヲ空襲致シマス >右機動部隊ハ千島ニテ補給ノ上開戦十数日前内地ヲ進発致シマシテ布哇北方ヨリ近接シ >日出一、二時間前「オアフ」島ノ北方約二〇〇浬附近ニテ >全搭載機約四〇〇機ヲ発進セシメ碇泊中ノ航空母艦、戦艦竝ニ所在航空機ヲ目標トシテ >奇襲攻撃ヲ加フル計画デ御座イマス >本奇襲作戦ハ桶狭間ノ戦ニモ比スベキ極メテ大胆ナル作戦デ御座イマスガ >奇襲当日敵艦隊ガ在泊シテ居リマス限リ戦艦及航空母艦各二、三隻ヲ撃沈致シマスコトハ可能ト存ジマス >尚敵艦隊ノ動静ニ関スル情報入手ノ方法ニ付テハ凡有ユル方法ヲ講ジテ居リマス と、開戦日の設定以外(11月5日の時点で決定されているはずもありませんね)は のちの真珠湾攻撃そのものと言って良いほど詳細に陛下に奏上されています。 この場には杉山陸軍参謀総長が同席していますから、 少なくともこの時点で陸軍にも確実に真珠湾奇襲の計画は伝わりました。 #right(){(682:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)} 大海指1号 ttp://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/daikaisi.htm #right(){(682:354)} **太平洋戦争直前にルーズベルト大統領が海軍に、小船に星条旗を掲げてカムラン湾の日本艦隊を偵察させろと命じたそうですが、 >あわよくば日本艦隊に撃沈させてそれを開戦理由に…というつもりだったのでしょうか? 海軍作戦部はこんな命令を独自に出す予定はないと海軍調査委員会で、明言していますし、 大統領命令が無ければ、スタークも命令を出さないと述べています。 また、ルーズベルトは、「被害が少なく日本に一発撃たせる方法はないか」と述べていますから、 その可能性が大いに有ったと言えるでしょう。 海軍調査委員会では、大統領の陰謀とは結論づけていませんが、今や死人に口なしですし。 但し、実際に小さな船を攻撃するという、実効性に関しては、非常に小さかった訳で。 ともかくも実証出来ない以上、可能性があるとしか言えないでしょうね。 #right(){(177:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **真珠湾奇襲の評価 >日本だと戦争の常識を覆す大作戦、名作戦とされてるけど海外の評価も同様なのでしょうか 宣戦布告が間に合ってさえいれば世紀の名作戦と言われただろうと言われてる。 それから、日本でもそんな誉めっぱなしというわけでもない #right(){(俺初質スレ434:21)} 元々あれは宣戦布告の要件を満たしていないし、宣戦布告をすること自体が 国際法上の開戦要件でもないので間に合おうが間に合わまいが、どうでもいい話。 間に合っていても米側はどのみち卑怯なだまし討ちと喧伝して米国民を煽ったろうし、 また国家間の戦争で綺麗とか汚いとかいうのはさして意味のない主観的、道義的評価に 過ぎない。 真珠湾作戦は、空母の集中使用ということがエポックメーキングとして評価される点で あるけれど、当時の米側は欧州優先で、もともと太平洋方面は持久方針だったから、 米側の戦争指導に与えた影響はさして大きくはないな。 #right(){(俺初質スレ434:22)} ----

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