軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

戦前関連

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匿名ユーザー

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日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は他の国でもやってた事であり非難に値しないのでは?


ヴェルサイユ条約やワシントン条約,国際連盟規約の制定によって「領土保全」が定められ,それ以前のように「植民地切り取り」は事実上禁止となった.
故にWW1以降の植民地戦争は国際法上は違法となる.

イギリスやフランスが日本の植民地主義を非難するのは「道徳」的観点からおかしいというのは事実かも。

なぜ日本は南部仏印進駐を行ったのか?


 その主目的は日華事変の処理にあったが,米英に対して攻勢防御の態勢をとる狙いもあった.
 しかし,この攻勢防御の思想の底には,南部仏印は南方進出のための足場であるとの考えが潜んでいた事は否定できない.

 また,資源確保の狙いもあったという.

日本の南部仏印進駐を,なぜアメリカは重大視したのか?


 アメリカは大変な錯覚をしたのだ,と京都産業大学教授・須藤眞志は述べる.
「日本の南部佛印進駐は,大東亜共栄圏の思想に基づく東南アジア一帯を支配する第一歩であり,やがてその勢力は自国のテリトリーである,フィリピンにまで及ぶものと解釈した」のだという.

なぜ青森には2つも陸軍師団があったのですか?(戦前)

漏れの推定だけど…。

青森県は明治以前は二つの大名がいました。

弘前を中心とした津軽家と、盛岡を中心とした南部家の二つです。
その支配地は、青森の日本海側が津軽家、太平洋側が南部家になっています。
で、元々青森は中小勢力が多数居ましたが、概ね南部家の威令が及んでいました。

ところが、戦国末期、その南部家の重臣の一人であった大浦為信が反乱を起こし、
津軽地方から南部勢力を一掃します。
これに対して、南部は対抗しようとしますが、その動きを察した為信は小田原攻め
の途上にあった豊臣秀吉の陣営にいち早く参上して朱印状を貰い、支配権を確立しました。

これを南部氏は非常に恨み、江戸時代には津軽藩主の狙撃事件まで起こしています。
明治時代になっても、津軽家は勤王側に立ち、南部家は佐幕側に立ち、津軽側の勝利に終わりました。

この300年以上の反目により、旧津軽家支配地の住民と、旧南部家支配地の住民
も互いに争うようになってしまい、陸軍師団も津軽系の弘前と、南部系の青森の二つ
の師団が出来てしまったのでしょう。
(ちなみに、今でも津軽の住民と南部方面の住民は仲が良くありません)
(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)

日蘭交渉で蘭印が大部分要求を受け入れたのに蹴ったのはどうしてですか?

蘭印を占領しようと場合、かなりの抵抗が見込まれる
(蘭印政府は、かなり広範な自治権を認められていたため、独自に抗戦した可能性が高い)うえ、
油田施設が破壊されれば数年間は石油の輸入が見込めない
(おまけに間違いなく米国は石油禁輸に踏み切る)。
さらに当の日本軍内部に、日蘭戦争が、この地域に利害を持つ英米を
巻き込んだ戦争に拡大する可能性があるとかんがえていたことがあります。

オランダ本国降伏時には英仏軍が一時的に蘭印キュラソー島に一時的に上陸するなど、
蘭印の現状が変更されるような場合には、米英が保障占領する動きすらあったこと、
などなど、日本が好機に乗じてやってしまうには(当時の政府ですら)、
不利な条件が目白押しだったからです。

太平洋戦争については、日本は蒔いた種を刈り取る羽目になっただけですね。
石油禁輸はリアクションに過ぎません。
(114:36)
やはり肝心の日本側にその気がなかったのが一番大きいですかね。

日本政府は、満州事変式の軍事行動を少壮将校が行うことを恐れていさえいました
(有田外相がそう言い残している)。
とにかく日本にしてみれば、石油が手に入りさえすればよかったのですから、
冒険的な行動を行うことは可能な限り回避するのが基本方針でした。
平和的に石油を入手できるなら、その方がよかったのです。

もっとも、戦争回避の基本方針は米英側も多分同じで、チャーチルは後の回想で、
「フランスが崩壊したときに日本がシンガポール・蘭印の占領に出なかったことを
我々は不思議に思った」と語っていますね。
(114:42)
日本が蘭印交渉を蹴ったのは、要するに重要な戦略物資、特に生ゴムやボーキサイトについて
蘭印側が認めた量が、日本側の要求する量そのままではなかったことが原因です。

ちなみに交渉そのものは打ち切りになりましたが、蘭印側が認めた量の輸入は行われています。
(114:55)


戦前の日本が、戦い敗れた兵士が降伏する、あるいは生還してくることについて否定的な意識を持っていたのはなぜなのでしょうか

戦陣訓が出される以前、既に日清日露のころですら、公式的には「日本兵の捕虜などいない」となっていたようですが、
逆に戦国や幕末には寝返りも降参もなんでもありです。
この間に、神道か何かの思想が建設途上の近代日本に影響を及ぼしたということなのでしょうか?

一点だけ。
日清日露のころですら、公式的には「日本兵の捕虜などいない」となっていた
というのは誤りです。

日露戦争時には、ロシア側から通知された捕虜については、日本側でも官報や新聞で一般国民に公開し、
捕虜宛の慰問品などの発送方法についての注意書きも発表しています。
実際にロシア国内の捕虜収容所で励ましの手紙や慰問品を受け取った例も確認されています。

もっとも、この当時から、捕虜の家族が村八分にされるといった現象があったのも事実です。
日清戦争頃の泉鏡花の小説にも、帰還捕虜が市民に非難される場面が出てきます。
(501:553)

戦前の日本のナチスやヒットラーへのイメージはどのようなものだったのですか?

ヒトラーが首相と大統領を兼任したときから独裁者という認識はあった。
ただ当時は独裁者=悪というイメージではない。
また、ナチスドイツへのイメージは時期によって異なる。
1930年代前半にはナチスやヒトラーへの批判記事が日本の新聞に載っている。
ベルリンオリンピックの前後から親ヒトラー的な報道が増え、
米英への反発からたが日独の軍事同盟を望む世論が沸いた。
その後、ノモンハン事件の最中に独ソ不可侵条約が結ばれたことにより
ヒトラーおよびナチスドイツへの不信感が広まった。
だが、ポーランド戦の勝利以降は、日本国内の政治家への不信感とあいまって
ヒトラーおよびナチスへ憧れともいえるイメージを持った。
(504:272)

日蘭会商を日本が蹴ったのは何故ですか?

要求量の半分以上は貰えたんだから蹴る理由が解りません。
モーラル・エンバーゴ(道義的禁輸令)の発動が39年12月、この時点で既に南方資源確保に食指を動かし始めた
その前にサウジアラビアやメキシコ、アフガンと交渉したが芳しくなかった
(唯一の成功は、エクアドルのマナビ・エメラルダス両州の鉱区を獲得した事)
日蘭交渉の前に、それら交渉失敗の背景に米国の意図を感じ取っていたから、尚更強硬に出てしまった
(477:956:シチュー砲 ◆STEW.ibjrE)

戦前の日本の植民地における軍部の役割をおおまかに教えてください。

併合された朝鮮、台湾では、陸海軍大将が総督となり、
日本本国とは独立して天皇直属の総督府を作っていた。
もっとも、実質的には内閣が行政・司法を支配していたといえる。
最初期には憲兵が警察を担当していた時期もあり、内地に比べると軍の影響は大きいが。

委任統治領だったサイパンなどでは、軍部は軍事のみを担当していた。
一般行政は拓務大臣指揮下の南洋庁が担当している。

保護国だった満州国や内蒙古では、形式的にはそれぞれの政府が自治しているが、
顧問などとして日本軍将校が相当に入っていた。同様に文官も相当数入ってるが。
満州国軍の将校には日本軍からの派遣も多く、軍事面は完全に日本軍が握っている。
公共政策でも関東軍の軍事的要請に応じたものが多い。
形式はともかく、実質においては関東軍が大きな権力を持っていたと言うあたりか。
(529:116)

戦前の日本の武器輸出の実情はどんな感じだったのでしょうか?

WW1のときフランスに二等駆逐艦を新造設(計は流用)して売った。
両大戦間には中国やタイに2千トン級以下の二線級艦艇をいくらか新造して売った。

タイには小さいやつだが潜水艦も売った。

信じられないかもしれないが、三八式歩兵銃は第一次世界大戦で
武器が不足したロシアが大量に輸入している。フィンランドも購入したはず。
(353:550-556)
そして革命がおきて代金が回収できなかった・・というのは本当?
本当に回収できなかったんですよ。
第一次大戦の際に、陸軍はロシアに小銃97万丁・小銃弾2億8,000万発・火砲823門などを供給しました。
また、海軍でも野砲や砲弾、またロシア海軍の要請に基づいて日露戦争の戦利艦である
宗谷・相模・丹後の3隻を修理費を含めて1,550万円で売却しています。

ところがロシア革命により、ロシアにより武器購入のために発行された大蔵省公債2億2,000万円や
短期軍事公債3億784万円はすべて回収が出来なくなってしまいました。
ちなみにこの額は第一次大戦時の総海軍予算と商船の武装費とほぼ同額だったそうです。
(353:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

1930年代、ヨーロッパから日本まで、航路、海路、陸路(シベリア鉄道?) ではどれ位かかっていたのでしょうか??

最速記録的なものではなく、兵隊や外交官や民間人が普通に移動してという仮定でお願いします。
空路の場合は、例えばニッポン号だと、1939年10月12日午前7時38分にローマのリットリオ飛行場を発って、
ロードス島、バスラ、カラチ、カルカッタ、バンコク、台北を経由して、10月20日午後1時50分に日本の羽田飛行場
に帰還しています。

海路の場合は、イタリアのナポリから発った伏見丸の場合だと、1940年5月31日に同地を発って、7月7日午前8時に
神戸港に入港しています。
平均的には、神戸~ナポリの間は32~38日、ナポリ~ロンドンは8~11日、マルセイユ~ロンドンだと6~9日を要し
ました。
アントワープやハンブルクへも延航する場合もありましたが、この航路は旅客を原則として乗せていません。
地中海航路ではなく、世界一周航路の場合は、更に時間が掛かった為、余り用いられていません。

陸路の場合は約2週間前後で東京からモスクワへ赴くことが出来ます。
(564:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

2・26事件ですが、優しく事件の詳細を教えてください!!

26日午前5時過ぎ、岡田啓介首相官邸襲撃(岡田は私設秘書と間違えられ一命が救われる)、
斉藤実内大臣私邸(射殺)、渡辺錠太郎教育総監私邸(射殺)、高橋是清大蔵大臣私邸(射殺)、
鈴木貫太郎侍従長官邸(重傷)、後藤文夫内相官邸(不在)、牧野伸顕元内大臣別荘(脱出)。
殺害された重臣や警官、9人。クーデターに動員された兵1400名という前代未聞の大規模なクーデター。

磯部浅一(元陸軍一等主計)、村中孝次(元陸軍歩兵大尉)、香田清貞(歩兵第一旅団副官)
たち川島義之陸相の官邸包囲、面会強要。
香田「決起趣意書」を読み上げ、さらに「陸軍大臣要望事項」を手渡す。

青年将校たち(皇道派)は自分達の決起を天皇が承認してくれるものと信じており、
自分たちのことを「尊王義軍」と称していた。

8時半頃、青年将校たちが最も信頼し首相にしたいと考えていた真崎甚三郎大将が陸相官邸に来る。
9時30分。川島陸相、天皇に拝謁。青年将校たちの行動を説明。決起趣意書を読み上げる。
天皇は、不快感をあらわにし「陸軍大臣はそういうことまでいわなくてもよい。
それより反乱軍を速やかに鎮圧する方法を講じることが先決要件ではないか」と申し渡した。
10時。真崎、伏見官軍令部総長邸訪問。伏見宮宮中へ。天皇に会い真崎の言葉を自分の言葉として上申。
これに対し、天皇は川島にいったと同じ内容をより厳しく繰り返した。
午後1時過ぎ。山下奉文少将「陸軍大臣告示」(直前に宮中で行われた非公式の軍事参議官
会議で策定)を持って陸相官邸の青年将校のところに来る。

青年将校たちは、この「告示」で自分たちの行動が認められたと考えた。
しかし、「告示」は実は軍首脳部たちの偽装工作だった。

翌27日。天皇が「鎮圧」と命じても事態ははかばかしく動かなかったので、側近たちに怒りを
剥き出しにして叱り、ついに「朕自ら近衛師団を率い、鎮定に当たらん」とまでいいはじめる。

青年将校たちは、決起部隊の討伐があるという噂を知るが、御聖断を待っていた。
28日午前5時8分。ついに「奉勅命令」が下達された。
反乱軍は原隊に返れという命令である。現状のままでは逆賊になるという命令である。
しかし、命令は直接届いていなかった。
命令から18時間後「反乱軍」は命令に背いたとして討伐命令が下された。

戒厳司令部、攻撃開始を29日午前9時と決定。

29日。討伐軍行動。飛行機ビラ撒き。「下士官兵に次ぐ」ラジオ放送。
決起部隊原隊に帰る。

7月5日。青年将校たち17名死刑、5名無期禁錮、6名禁錮15年の判決。
北一輝、西田悦(みつぎ)も教唆、煽動での罪で死刑。

ちなみに、柳家小さんだったかがその決起軍にいて、後前線に回されまくったそうだ。
(22:眠い人 ◆ikaJHtf2)

何で二・二六事件の時に朝日新聞本社が襲撃されたの?

報道機関を抑えるのが、クーデーターの基本だから。
(339:86)
それは分かりますが、新聞なんて発行するのにそれなりに時間がかかりますよね
ラジオ局もおさえよう、みたいな計画はなかったの?
2.26事件の時は、埼玉にあったNHKの送信所も占拠されています。
敗戦時のどさくさでも、同じように狙われています。
最後が、1945年8月末だったか9月だったと思いますが、このとき、どんな時でも電波を絶やしたことのなかった
NHKの送信所からの送信が停止してしまっています。
(339:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

なんで2.26事件発生当初は、反乱軍が戒厳部隊として扱われたり一部、国の理解があるように見られたんですか?

明らかにクーデター軍でしょ。
いわゆる皇道派が反乱軍に対して終始同情的な立場を取り続けたから。
反乱軍は皇道派の総帥格である真崎甚三郎大将を首班とする暫定内閣の樹立を望み、
本庄繁侍従武官長も昭和天皇に対してそれをかなり強く働きかけている。

もし天皇が突っ張り通さなかったら…。
(339:)

ワシントン会議やロンドン会議の折に日本が唱えた「対英米7割論」の根拠を教えてください。

また、この「7割」というのはあくまでも交渉用(妥協するときの為に多めに見積もっている)で、実際には6割で問題なかったのでしょうか。
ランチェスターの法則が元だったと思う。

  • 戦力は兵力の2乗に比例する
  • 攻める側は3倍の兵力が必要

6割だと戦力比が1:0.36だから戦力差が3倍近くになるからマズイかもしれない。
7割だと1:0.49だから大丈夫って感じで。


戦力自乗則というのがあって、戦力は兵力の自乗で利いてくるとされてます。
兵力対米7割だと、戦力比は49:100≒1:2で、米軍は大西洋にも兵力を貼り付けないといけないから、
何とか対抗できるけれど、6割だと36:100で1:3よりややマシ程度になってしまい、
とてもではないが対抗できない、というのが論拠。
(337:170,171)

2.26事件当時、反乱軍の勝利条件はなんだったのでしょうか?

天皇に賊軍認定されないためにはやはり重臣殺害は回避するべきだったのでしょうか?
少なくとも実際にクーデターを起こした青年将校達は
国家戦略の大転換を要求していたので基本的に成功する見通しはない。
逆に成功したとする前提で原因を考えていくならそれこそ
昭和天皇が心を打たれて大権発動&乱用するしかないという
当時の日本の政治事情では著しく無理のある状況を仮定しなくてはならない。
上の方でこっそり目論まれてたと思われる利権の再配分という目的なら
そこそこの流れがあれば後は運と実力次第でどうにかなったかもしれないし
史実では実際に事件直後は軍上層部はいい感じに動揺はしていたが
天皇激怒が伝わってから後はクーデター全否定モードになったのでそこまでだった。
(582:896)

戦前・戦中の日本にも「軍事オタク」って存在したのでしょうか?

少なくとも陸軍にはドイツ信者がいっぱいいた。
ちなみにイタリア信者(戦術論など)は各国にかなりいたと思われる。

昔の古本から当時の軍オタが書いたと思われる、航空機のスケッチとかいろいろ描いてあるのが見つかったことがあるらしい。
あと海軍は軍縮条約期では世界で3番目の規模を誇っていたから、
ほかに自慢できることの少ない日本ではそこらへんで好きになる人もいる。
(333:43,46)
戦前には「航空朝日」とか「空」という今の航空ファンのような航空機雑誌があって、
それを愛読している航空機マニアは結構いました。
自動車ジャーナリストの小林彰太郎氏は大戦当時当時成蹊学園に通う中学生でしたが、
同級生の義弟の福生の陸軍技術審査部の技術将校から陸軍の機体に関する情報を得て
それを元にわいわい仲間内で討論していたとか。
休日には成増の飛行場の二式単戦「鍾馗」(飛行47戦隊?)を自転車で二時間かけて見に行ったり、
厚木の海軍航空隊の基地に4発の大型機が並んでいると聞いて見に行けばそれは
「深山」だったり…。

あと、昔戦中に艦船マニアだった人が「世界の艦船」でそのころの思い出を連載していたような。
(333:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

第二次世界大戦前、沖縄の基地はどれぐらい存在していたか?

昭和16年12月8日現在における南西諸島所在の陸軍部隊

【沖縄本島】
中城湾要塞
 中城湾要塞司令部
 中城湾要塞重砲兵聯隊
 第61要塞歩兵隊
 中城湾陸軍病院

【西表島】
船浮要塞
 船浮要塞司令部
 船浮要塞重砲兵聯隊
 第65要塞歩兵隊
 船浮陸軍病院
(590:301)

中城湾要塞
1 経緯
(1)中城湾の要塞建設は大正十一年度に、狩俣(宮古島)、船浮(西表島)と共に計画にのぼっていたが、ワシントン条約の影響で延期。
(2)昭和16年7月28日…中城湾、舟浮湾に臨時要塞建設命令が発せられる(8月着工10月工事完了。
与那原の部隊兵舎は翌年完成)。要塞は要塞司令部、要塞重砲兵連隊、軍病院などの編成。」
船浮臨時要塞(ふなうきりんじようさい)は、沖縄県西表島船浮方面に設置された大日本帝国陸軍の臨時要塞。
1940年(昭和15年)10月に要塞着工。西部軍戦闘序列に組入れられた。

下記、中城湾要塞を参照ください。
ttp://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/nakagusukuwanyousai.htm
(590:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)

対日石油輸出禁止前にターチン油田を発見していたら、やはり相当違った歴史になってますよね?

大慶油田の原油は重油質気味で硫黄分が多く質が悪い。
ただでさえ採掘、製油技術の低い日本が採算ベースに持っていけるかは疑問。
現代でも火力発電用が関の山だし。
対米戦のみを考えれば海底直行航路になりかねない蘭印の油田よりかは安全面でマシだが。
(332:105)

IHIエアロスペース社は戦前、中に当時の中島飛行機が行っていたロケットの研究にその端を発するそうですが、当時中島飛行機はどんな研究を行っていたんですか?

中島というとジェットの橘花を開発したが、エンジンのネ-12は空技廠の開発だったはず、秋水は三菱だし。
確かに会社としては、IHIエアロスペース-日産自動車-プリンス自動車-富士精密工業-中島飛行機 という流れに有るが、
富士精密工業は糸川の呼びかけで、ほぼ一からロケット開発を始めた。
むしろ固体燃料を開発した日本油脂の方が、戦中からの固体燃料ロケット製造の流れを引き継いでるんじゃないかな。
(593:255)

ロシア革命にかこつけて、日本はシベリア出兵を行いましたが、目標を定めてロシアに赴いたのでしょうか?

なんだかずるずるとイルクーツク辺りまで行った様ですが……当時から陸軍は暴走し始めていた?
元々、第一次大戦時点では、第三次日露協商を締結して日ロは同盟関係にありました。
当時、日本は武器の供与や接収軍艦の返還などを行い、間接的にロシア政府を支援しています。
また、貿易面でもロシアは欧州側航路が殆ど使えない為、アジア側の貿易航路を使わないと駄目で、
しかも、内陸輸送費をさっ引くと、輸送距離が一番近い工業国は日本ですので、日本との貿易額が
急増していました。

その政体が引っ繰り返って、新たに出来たのは、「人民が主体となる」政体の所謂「過激派」が
中心の政権でした。
その思想は、皇帝を中心とする権力の否定であり、天皇を中心とする国家運営を行っている日本
にとっても、脅威となる政体で、それがドイツと単独講和したことで、「ドイツの傀儡である」と規定
しました。

そのため、日本としては、こうした過激な政権を膺懲し、加えて、元々併合した朝鮮と、進出しつつ
あった中国東北部の安全確保の為の緩衝地帯設定ならびに空白化した資源地域を確保すべく、
進出したのがシベリア出兵です。
但し、バイカル以東を領土にすべきという主張は、マスゴミを含め一部の過激派だけで、政府としては
米国含めた連合国との共同歩調を取ると言う姿勢に終始しています。
(自由出兵の余地は残してありますが)

英仏伊が日本に要求した条件としては、ロシアの領土主権は認め、ロシア内政に干渉しない、ドイツ軍
と会戦のため、出来るだけ西に進軍すると言うものだったりします。
つまり、この案を日米が受け入れれば、日本はドン河まで進軍できる訳。
対して米国は、7000名の兵力に限り、チェコ軍の救援に限定すること、と保留を付けてきます。

すったもんだの挙げ句、日米英の合意で、兵力をシベリアに派遣することになりましたが、既にチェコ軍は
崩壊したため、大義名分は無くなってしまいました。
ここで、日本は方針を転換し、ロシア白軍(ウラル・コサック軍と特にコルチャック軍)を支援し、彼らを日本の
影響下に置いて、ソ連との緩衝国家とし、沿海州に自国の拠点を設ける、出来れば、沿海州を日本の勢力範囲
と規定したいと考えた。
なので、当初方針では、ウラル方面でチェコ軍と合流する為にイルクーツクくんだりまで行った訳で。
(319:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

2・26事件で狙われた要人は政治家だけなのは何故?

過去の右翼のテロとかを見る限り財閥関係者とかも狙われてもおかしくない気がするのですが。
皇道派青年将校の黒幕とされている北一輝は三井財閥から多額(年2万円)の援助を受けていました。
戦前の国家社会主義者は実は財閥とベッタリだったりするケースが多かったりします。
私有財産は否定しているくせに。
こんな状況で財界関係者が狙われると言う事は無いでしょう。
まぁ、彼ら的には既に軍門に降っていると思っていたのかもしれませんが。
(299:ue ◆WomMV0C2P.)

日本もニューディール政策のような、国内で大きな需要を生み出す事業は出来なかったのでしょうか?

世界恐慌が発生してアメリカが超不景気になったため、日本の絹や綿花が売れず、
各国がブロック経済を始めて日本の輸出貿易に打撃を与え、
日本も独自のブロックを持とうと満州などに進出し、最後は太平洋戦争が発生したと聞きましたが
高橋財政でググれ。
戦前の(シナ事変前の)日本経済は絶好調だったぞ?
当時十年で英国を、十五年以内には独ソを抜いて
世界第二位の経済大国になることが予想されていた。
実際は戦災で二十年遅れる事になったが。
(298:516)

関東軍特別大演習の件ですが、極東から対独戦に参戦したソ連軍がいなくなってもても、なお在極東のソ連軍は日本軍を上回っていて進攻どころでないぐらい戦力差があるんですか?

極東軍管区だけで、関特大演習でかき集めて動員した兵力の倍以上いました。

オムスク以東で37個師団、さらに極東に30個師団が配備されてたそうだよ。
(657:370-380)

2.26事件の時、昭和天皇がブチ切れて

「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け!」とまで仰られたそうですが、
この時実際に動かせたであろう近衛師団の編成ってどうなっていたんでしょうか?
基本的に普通の師団と変りません。
近衛歩兵連隊が4個、近衛砲兵連隊があって、鹵簿の護衛に、近衛騎兵聯隊があるくらいです。
(290:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

昭和11年当時はまだ三単位制師団への移行が始まっておらず、したがって
近衛師団も歩兵二個旅団・四個連隊編制です。

主な編制は以下のとおり。(特記しないものは編制地は東京)

近衛歩兵第一旅団┬近衛歩兵第一連隊
..           └近衛歩兵第二連隊
近衛歩兵第二旅団┬近衛歩兵第三連隊
..           └近衛歩兵第四連隊
騎兵第一旅団┬近衛騎兵連隊
...        ├騎兵第十三連隊(習志野)
...        └騎兵第十四連隊(習志野)
野戦重砲兵第四旅団┬近衛野砲兵連隊
             ├野戦重砲兵第四連隊(千葉県下志津)
             └野戦重砲兵第八連隊

この他に近衛工兵・近衛輜重兵・高射砲第二・気球・鉄道第一・鉄道第二各連隊が付属。
注)騎兵第一旅団主力は当時満州派遣中。
(290:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

石川茂兵衛は一体なんの事業で失敗したのでしょうか?

中島飛行機製作所が資金を頼りにしていた石川茂兵衛が事業で失敗して
そのかわりに日本毛織の社長、川西清兵衛が資金を肩代わりしたと書いてあったのですが
当時、石川茂兵衛は、神戸の肥料問屋だった石川茂兵衛商店を切り盛りしていました。
この商店は江戸時代より続いていた老舗でした。
で、彼は第一次大戦中に米穀で一山当てて、神戸の米穀肥料市場理事長になります。
更に、彼は会員組織の大豆肥料市場を組織しますが、1927年と時代は大恐慌に向かって
進んでいっており、これに失敗して、財産を手放した訳で。
(275:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍が中国大陸に兵を常駐させるようになったのはいつからなの?

中国大陸なら、1897年に杭州と蘇州に日本は租借地を清から獲得しています。
(実際は租界設置権限があったものの利用困難で機能しなかったみたいですが)
その租界警備の為に、軍隊は派遣されています。

更に遡れば、公使館警備の為の兵としては、1874年には北京に派遣されているはずです。

1900年の北清事変には既に兵士が駐留していました。
租界というのは、中国の領土であり、その主権下にありますが、実際の行政、即ち、警察、
衛生、道路、建築、課税は日本側によって行なわれました。
廈門、杭州、蘇州、沙市、福州、重慶には権利があったものの日本は設置しないか極めて
小規模で、本格的な租界と言えるのは、上海の共同租界、天津、漢口の日本租界ですね。

関東州は租借地で、領土に準じる統治権を一定期間の下有しています。

満鉄の付属地に関しては、行政権が日本にあり、そのうち、軍事、外交、裁判、警察以外の
部分は満鉄が実施するようにしています。
但し、日本人以外の民事刑事裁判権は中国側が持っています。
(116:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

アメリカの対日石油禁輸はドラム缶詰は例外とする抜け穴があったという事についてですが、

この状態でアメリカから日本はどれ位の石油が輸入できたんでしょうか?
アメリカは1939年7月26日に日米通商条約破棄を通告、翌年8月1日にオクタン価87以上の揮発油およびオクタン価を高める
4エチル鉛の対日輸出を制限する決定を下しています。これ以後いわゆる太平洋戦争終結までこの事実上の禁輸措置は
続きました。が、オクタン価の低い揮発油や原油・重油の輸出は制限付きながらまだ許可されていたため日本は相当量を
輸入しています。1940年8月10日~1941年7月26日までの間日本が輸入した石油類は、原油1091万6491バレル、
重油582万4279バレル、オクタン価87以下のガソリン498万4198バレルです。なお1941年7月25日(日本時間26日)アメリカは
日本資産を凍結し、続く8月1日に対日石油禁輸措置強化策を発表しました。この結果、アメリカは決済にアメリカ
および南アフリカに日本が保有するドルを要求し、日本側が求める極東に保有しているドルおよび金による決済を拒否したため
事実上日米貿易は完全停止しています。
(170:743)

戦前の日本にはオレンジプランのような対米戦争計画は存在したのでしょうか。

存在するとしたら陸海軍で協力して対米戦争計画について話し合ったことはあるのでしょうか。
一応、帝国国防方針・国防所用兵力・用兵綱領として、1907年に初度決定、
1919年に第一次改訂、1922年に第二次、1936年に第三次改訂が行われた計画があります。

初度決定時は、仮想敵国をロシア、米国、ドイツ、フランスの順とし、兵備の基準は
ロシア、アメリカに対し、アジアで攻勢を掛けることとしています。
このうち、海軍は機先を制して敵の海上勢力を殲滅することを目的に、陸軍は敵に
先んじて兵力を一地方に集合し、先制の利を占めることを目的としています。

第一次改訂では、仮想敵国が、ソ連、米国、中国の順となり、独仏は除かれ、中国が
入りました。
用兵については、対ソ作戦として、極東ソ連軍の撃滅とバイカル湖以東の占領、対米
作戦として、陸海軍協同でのフィリピンの米海軍根拠地の覆滅、対中国作戦では、
在中国の日本権益確保と在留邦人保護出兵が主です。

第二次改訂では、仮想敵国は、米国、ソ連、中国の順番となり、用兵については、対一国
の戦争とは前提せず、対米作戦としてフィリピンとグァム島を占領すること、対ソ作戦で、
ウラジオストックの占領など、対中国作戦では各地の占領が設定されました。
ちなみに、仮想敵国の順番は、海軍の主張で入れ換えられています。

第三次改訂では、将来の戦争は長期戦となることを予想し、仮想敵国に、米国、ソ連を同格
とし、中国、英国にも備えることとしました。
この辺、陸軍があくまでもソ連一国を主張しましたが、海軍が米国を強く主張して玉虫色の
表現となりました。
用兵では対ソ作戦として、ウスリー方面の撃破、ウラジオストックの攻略、樺太、カムチャツカ
半島、樺太対岸占領を目指し、対米作戦では、東洋の艦隊を撃破した上、ルソン島、グァム島
の占領と目指していました。
対中国作戦では、京津地区、青島、上海占領の上、揚子江制圧を定めました。
対英作戦では、在東洋英軍の撃破を目的としています。

で、後段の回答。

上記の計画を立案するに当たり、明治の初度決定時は、陸軍が海軍側に働きかけたもの
の受け容れられず、当時枢密院議長だった、山県有朋に説得を求めて失敗、其処で、山県
有朋は私案として明治天皇に上奏、それを2ヶ月後、明治天皇は、元帥府に諮詢し、山県有
朋「元帥」主導で、陸海協同で国防方針を立てるように復奏し、天皇が山県案を参謀総長、
海軍軍令部長に示したので、天皇の命令とあらば逆らえず、両統帥部は陸海軍大臣にも協
議し、国防方針他を、天皇陛下に提出します。

これにより、天皇陛下は、内閣総理大臣に国防方針の審議を命じ、所要兵力の審議を命じ、
一応審議の態を取った上で、国防方針が天皇陛下により裁可されています。

以後、発議は陸軍か海軍かはその改訂時期毎に変わりますが、概ね、統帥部間で協議し、
陸軍省、海軍省、その他関係機関によって調整が行われ、陸海軍両総長が上奏、天皇が
元帥府に諮詢し、首相に下問して裁可すると言う流れになっています。

従って、その計画立案には陸海軍が協力して(実際上は兎も角)、行われています。
(229:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

大戦前の日本国債の金利の推移を教えて下さい。

1899年6月発行の日本政府の第一回四分利付英貨公債1000万ポンド。
これは、1953年償還、クーポンは年4%、発行価格は額面100ポンドで90ポンド。
当時の標準指標である英国国債との金利差は約1.7%。

1904年4月に日露戦争が始まると、この国債の市場金利は6.38%に上昇し、標準
指標との金利差は3.58%に拡大したが、日本海海戦に勝利した1905年6月にリス
クプレミアム1.8%、講和後の1905年11月に1.6%になる。
更に戦後の財政再建で、1910年にやっと金利差が1.2%に落ち着いた。

しかし、時代は下って満州事変で日本の孤立化が始まると、1899年発行日本国債
の金利は1931年12月に8.25%、資本逃避防止法が成立した1932年7月に9.26%に達し、
1937年8月の日中戦争開始時に10%を突破、1939年9月の第二次大戦勃発時に20%
を超え、1940年9月の日独伊三国同盟締結時に21%となり、額面の25%に落ち込む
ジャンクボンドと化し、1941年12月には利払いが停止された。
国際金融市場では、既に開戦の時点で日本は敗北していたり。

ちなみに、この1899年発行の国債は利払い停止時期を加算して満期は1963年6月に
延期され、その満期と同時にポンド建て国債に借り換えられ、1988年6月に漸く満期と
なったりする。
(しょうもない知識を披露するスレ11:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

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