「WW2英連邦」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
WW2英連邦」を以下のとおり復元します。
#contents
----
**英国にとって植民地は戦争遂行上,役に立ったの?
日本にとってはかなりの予算を台湾・朝鮮・満州につぎ込み結局は費用対効果は分からずじまいだったが、
むしろ最大の植民地(+連邦)を保有していた英国にとっては、最大の利益をもたらしていたのは事実

両大戦で英国が辛くも持ちこたえられたのは、植民地があってこそ。
間違っても、レーダー・スピットファイア・・・などと言う無かれ

特にインド帝国は、第一次大戦では兵員135万人・戦費2億5千ポンド、物資8千万ポンドをつぎ込み。
第二次大戦に至っては、兵員265万人・戦費12億ポンドをインドから搾り取りとった。
#right(){(もし、第2次対戦が起こらなかったら:65)}
**英印軍の戦力ってどのくらいのものだったのでしょうか?
戦前の数値ですが、インド軍は総兵力166,600名、うち、英国人部隊は58,529名で、
英人部隊としては、4個歩兵師団と騎兵5個旅団。
インド海軍は、スループ1隻+追加2隻、測量艦1隻程度。
インド空軍は、兵力2,300名で航空機200機(うち、戦闘機7個中隊、直協飛行隊4個、爆撃飛行隊4個、輸送爆撃隊1個)
#right(){(343:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**第二次大戦前、オーストラリアには軍用機工場や戦車工場、海軍工廠(造船所)などはあったのでしょうか?
まず、軍用機についてですが、国営企業としては1936年にCommonwealthが設立され 
ています。 
これは、政府が提議した航空工業の自主独立計画に基づくもので、この会社は、 
航空審議会の技術委員会によって選定された、North American NA-16(T-6の前身) 
系のNA-33高等練習機をWirrawayとして1939年から生産を始めました。 

その生産の他、国産初等練習機Wackettを同時期に開発、太平洋戦争に突入してからは、 
Wackettのコンポーネントを用いた戦闘機Boomerangを開発しますが、本格的な軍用機、 
爆撃機のWoomeraと、戦闘機のCA-15は米国からの輸入機とその国産化(1944年から 
Mustang Mk.20/21(CA-17/18)をKnockdownまたはLicense生産したもの)の充足に依って 
中止となりました。 
また、この会社はPratt & WhitneyエンジンのLicense生産も行っています。 

民間会社としては、1927年にDe Havilland Aircraft Proprietary,Ltd.、つまり、De Havillandの 
豪州支社が設立されており、同社の各種機体を生産・豪州向け改造をしていました。 
例えば、D.H.91 Moss Minor初等練習機、D.H.82 Tiger Moss初等練習機、Mosquito爆撃機 
などです。 
このうち、Tiger Mossについては、南アフリカ、南ローデシアの訓練基地に送られています。 
また、自社製エンジンのLicense生産も行っています。 

主なところはこんなところ。 

蛇足ですが、Beaufort爆撃機は、国内の400以下の下請工場で部品を作り、これを3つの州に 
ある鉄道工場で組立て、Melbourne、Sydneyの工場で最終組立を行っており、これらは、 
Beaufort Division of the Department of Aircraft Productionが統制していました。 

戦車工場はありませんが、自動車工場としては、General Motors-Holdens Ltd.がMelbourne、 
Sydney、Brisbane、Adelaide、Perthに工場を持ち、Ford Motor Company of Australia Pty Ltd. 
は、Melbourne、Victoriaに工場を持っていました。 
他に、Chrysler Australia Ltd.がAdelaideに、International Harvester Company of Australia Pty Ltd. 
がMelbourneに工場を持っており、各種軍用車両の組立を行っています。 

これらの軍用車両の供給は主にカナダ、米国から行われており、これらの工場はその部品を組み立てる 
感じです。 

造船所もありますが海軍工廠は無かった筈。 
Cockatoo Docks & Enginieerling Co.Ltdが駆逐艦以下の艦艇を建造できる造船所だったか、と 
記憶しています。 
#right(){(210:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

**WW1やWW2の時、オーストラリアや南アフリカはイギリスに対して参戦義務を持っていたのでしょうか。
>それとも自発的に参戦したのでしょうか。
あくまでも自治領としての扱いです。
なので、参戦義務があります。
#right(){(339:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**英国の海軍力はPacific theatreよりもEuropean theatreの方が比重が多いですよね?
英国の主な戦域の想定は、本国周辺(対ドイツ・フランス)>地中海(対イタリア・フランス)>>(越えられない壁)>>>支那艦隊(対日本)です。 

例えば、第二次大戦勃発時、戦艦の隻数で言えば、本国艦隊が7隻(+巡洋戦艦2隻)、地中海艦隊が3隻に対し、支那艦隊は無し。 
空母の隻数は、本国艦隊4隻に対し、地中海艦隊1隻、支那艦隊1隻です。 
支那艦隊は、空母1隻の他、重巡3隻と軽巡1隻、駆逐艦15隻、潜水艦15隻しかありません。 
これに、豪州海軍の重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦5隻、ニュージーランド海軍の軽巡2隻、東インド艦隊の軽巡3隻を加えても、日本の戦力に全然 
対抗できない訳で。 
#right(){(320:眠い人@風邪っぴき ◆gQikaJHtf2)}

**イギリスは貴族の人が率先して最前線に出たというのは本当ですか?
ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の責務) 

イギリスはすごいよ。 
WW2では、貴族士官の死傷率は平民士官の二倍以上だったとか。 

なんでかってーと、貴族は軍司令部に政治力をつかって圧力をかけるんだよ。 
「オレの部隊をもっと激戦地に送ってくれ!」 
って。 
戦後、ろくに戦わなかった部隊にいたなんてことがバレると 
一族の恥になるし、逆に戦争でどれだけの戦死者を出したか、 
が一族の自慢になるんですよ。 

貴族というものが「戦争で死ぬため」に平時は高い地位にいるということを 
連中はよく判ってるです。 
#right(){(~~フォークランド紛争:215,244)}

**イギリスがワシントン海軍軍縮条約明け直後に急いで戦艦の起工をしたのはなぜ?
日米と異なりイギリスにとっては 
ロンドン条約の戦艦建造制限(ワシントン条約を5年延長)を受けなかった仏・伊と 
ドイッチュラント級に続いて再軍備宣言によりシャルンホルスト級の建造をスタートした独の三国間で 
すでに建艦競争が勃発していたため、一刻も早くこれら新戦艦に互する艦を必要としていたがためです。 

軍拡競争を心配とか言うレベルの話ではなく、イギリスの目の前ですでに建艦競争はどんどんエスカレートしていたのです。 
そんな中、イギリスは1937年まで指をくわえて傍観せざるを得ない立場にいたわけで、その危機感たるや日米の比ではありません。 
#right(){(632:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)}
1929年 ドイッチュラント(独)起工
1931年 A・シェーア(独)起工
1932年 ダンケルク(仏)、A・G・シュペー(独)起工
1933年 ドイッチュラント(独)就役
1934年 A・シェーア(独)就役
      ストラスブール(仏)、ヴィットリオ・ヴェネト(伊)、リットリオ(伊)、シャルンホルスト(独)、グナイゼナウ(独)起工
1935年 リシュリュー(仏)起工
1936年 ビスマルク(独)、ティルピッツ(独)起工
      A・G・シュペー(独)就役
1937年 KGⅤ(英)、PoW(英)起工
      ダンケルク(仏)就役
      コンテ・ディ・カブール(伊)、ジュリオ・チェザーレ(伊)再就役
1938年 ストラスブール(仏)、グナイゼナウ(独)就役
1939年 ジャンバール(仏)起工
      シャルンホルスト(独)就役
1940年 KGⅤ(英)、リシュリュー(仏)、ヴィットリオ・ヴェネト(伊)、リットリオ(伊)、ビスマルク(独)就役
     カイオ・ドゥイリオ(伊)、アンドレア・ドリア(伊)再就役

こりゃイギリスが焦るわけだ・・・
#right(){(632:277)}

**WWⅡ時にチャーチル首相が着用していた軍服の階級や位置付けを教えてください。
チャーチルはイギリス陸軍名誉大佐(騎兵科)です。
この階級は終身なので陸軍大佐の軍服を着用しています、納得していただけましたか?
#right(){(299:10)}
**なんでイギリス軍はスピットファイアの艦上型だけではなくF6Fも多用したんでしょうか? 
フルマーやシーグラディエーターやシーハリケーンは性能不足、シーファイアは着艦事故多発。 
最初から艦上機として作られたアメリカ製戦闘機であるF4F、F4U、F6Fの方が実用的だった。 
あと戦争に間に合った英海軍艦上戦闘機に、ズバぬけて高速な機体はない。 
#right(){(652:462)}
**チャーチルは日本の参戦を防ぐためにどうしたか?
説明。 
「戦時下のチャーチル 
1939年9月のヒットラーのポーランド侵攻とともに、チャーチルはチェンバレン内閣の海軍大臣として復帰し、 
1940年5月にドイツ軍がオランダ・ベルギー侵攻を開始した時に首相に就任する。 
マジノ線が陥落してフランス軍が崩壊直前となったので、 
チャーチルはフランスに急遽飛んでフランス首脳と会談しているが、 
帰国した当日に予定通り日本大使館での重光葵大使主催の午餐会に夫妻で出席している。 
このことでもわかる通り、チャーチルの最大関心事の一つは日本の参戦を防ぐことだった。 
重光はチャーチルの行動に感激し、翌1941年前半にかけて日英関係の改善のための努力を尽くした。 
チャーチルが首相に就任したての英国の対日政策は、中国への援助物資輸送用のビルマルート閉鎖に応じたり、 
日本への船舶建造発注案を検討したりと、かなり柔軟なものだった。 
しかし1940年7月の第2次近衛内閣で松岡洋右外相によって日独提携が進められ、 
9月に日独伊三国同盟が結ばれてからは平和への機会が失われてしまったと関さんは指摘する。 

1941年になってもチャーチルは日本を参戦から思いとどまらせるために、 
重光と頻繁に会い、ドイツ・ソ連を訪問した松岡宛にレターを書いたり、レターを松岡が握りつぶさないようにコピーを近衛に届けたりした。 
ところが松岡はドイツ・ソ連出張後、極端なドイツびいきとなり、帰国後の天皇への報告会では、 
天皇にドイツに買収されたのではないかと思われたくらいで、チャーチルのレターにまともに対応する気はなかった。 
そのレターは事前に米国国務省と内容をすりあわせたもので、次のような呼びかけとなっている。 
☆ドイツが本当に英国侵攻が可能なのか見極めるのが日本の国益にかなうのではないか? 
☆米英連合軍はヨーロッパでドイツと戦い、日本にも立ち向かうのが可能ではないか? 
☆イタリアはドイツにとって負担ではないのか? 
☆米英の鉄鋼生産量は合計9,000万トン、これに対して日本は700万トンで単独では戦うのは不十分ではないのか? 
今から思えば、チャーチルの呼びかけは当然の内容であり、誰もが米英相手の戦争など無謀の極だと思うだろう。 
日本の近衛内閣は無責任で、結局内閣を投げ出し東条英機内閣への道を開いた。近衛の責任は極めて重いと関さんは指摘する。 
重光は結局1941年6月に離任し、その直後の7月には日本軍が仏印進駐で米英諸国との対立が決定的となった。 

チャーチルが愛した日本 (PHP新書 513)を参照ください。 
http://atamanisutto.livedoor.biz/archives/51019923.html 
#right(){(664:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)}
**大戦中のイギリスでは道路標識を外したというのは本当ですか?
イギリス全土で、危機がすぐそこに迫っているという意識が高まっていた。 
海岸の守りに有刺鉄線が張られ、トーチカが置かれた。 
侵入者を惑わすために、国中で道路標識が撤去された。 

参考図書。 
エニグマ・コードを解読せよ [単行本] 
マイケル パターソン (著), 
137ページ。第3章 1940年 運命の年 
#right(){(669:霞ケ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)}

**大戦中の英軍には、カチューシャやネーベルベルファー、カリオペのような対地ロケット発射兵器はなかったんですか?
化学戦部で開発された射程3,600mの5inロケットが開発されましたが、化学戦用の
弾頭なので、使用する訳にいかず、通常弾頭(焼夷剤、榴弾)を改めて開発し、これ
を6連装ロケット発射機から発射する形を取っています。
これを上陸用舟艇に載っけて、上陸支援用に使用していましたが、陸上用には改めて、
射程を伸ばした型が開発され、Land Mattressとして30連装発射機が2輪の台車に乗せ
られて用いられました。
この改良型は後に東南アジア戦線でも用いられ、16連装発射機が開発されました。
また、60ポンドの半徹甲弾で、対空用3インチロケット弾のモーターを用いた単発で一人
で持ち運びの出来る簡便なものが開発されています。
#right(){(283:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}


**大戦時の英海軍の編制について
>世界中に配備された艦隊の中で『フリート』と呼ばれたのは本国艦隊と地中海艦隊のみで、 
>それ以外の東洋艦隊などは『ステーション』と呼ばれたと言うのは本当でしょうか? 
本国艦隊と地中海艦隊は、伝統的な英仏対立などの過程で形成されたもので、 
本国と地中海ならそれなりに連絡が取れ、本国海軍幕僚本部との統制下にあり 
ました。 

ステーションは英国の海上貿易の保護、権益防衛、奴隷貿易取締、測量・海図作成、 
砲艦外交と言った目的に対応するため、軍艦を派遣して駐屯し、石炭を補給する拠点 
として設置されたものです。 

インド、中国方面のそれは、特に植民地防備のために形成されたもので、19世紀でも 
半ばまでは本国からの戦力は派遣されていないか、されても非常に少ないものでした。 
これは、喜望峰周りだと、本国とインドとの間の連絡に2年かかることに起因します。 
このため、インド経営については、インド総督府と外務省(後に植民地省)に権限が 
委ねられ、海軍幕僚本部は殆ど前面に出ていません。 

基地についても、出来る限り本国に頼らず自活すべしと言うのが大前提で、しかも、 
海軍は前面に出ず、東インド会社がこれを設置します。 
しかし、それなりに利益を出さないと設置しても意味が無く、ペナンではステーション 
経営に失敗してこれを放棄し、また、セイロンのトリンコマリーについても、初期の 
経営に失敗して、小規模の工廠一つに縮小しています。 
ペナンの代わりに設置したのが、シンガポールで、これは経営が成功し、以後、香港と 
インドを結ぶ交通の要衝になっていきます。
#right(){(143:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**インド帝国軍は植民地軍ではないでしょうか。 
>植民地軍は本国軍と別個の指揮系統を有していたと聞いています。 
英国軍の場合、正規軍は、英国本国軍、インド帝国軍、ビルマ軍から構成されています。 
つまり、正規軍を構成する軍の一つと言えるでしょうね。 
但し、インド帝国軍、ビルマ軍の将校は、国王任命の将校と副王任命将校の二つに分けられ、 
前者は、正規軍の正規の教育を受けた将校、後者は下士官から叩き上げた将校で、少し性格 
が違うので注意する必要があります。 
#right(){(234:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**英軍のインド人将校が、白人の部下を配下に置くことはあったんですか? 
インド人の将校には二種類ありました。 

一つは、インド帝国皇帝(つまり、英国国王)から任命された将校と、もう一つはイン 
ド副王から任命された、副王任命将校で、これはジェムダル→スブダル→スブダ 
ル・メイジャーと階級が上がります。 

前者は、正規の教育を経た英国の将校という位置づけなので、インド人将校が英国人 
兵士を指揮することは十分可能です。 

後者は、どちらかというと叩き上げのインド人下士官兵から選抜されたもので、スブダル・ 
メイジャーになると、インド人下士官兵に関するあらゆる問題について、英国人連隊長に 
助言を行うのが役目で、英国人兵士に対する権限はありませんでしたが、下士官から 
選抜される将校だけに、経験が豊富なため、インド人、英国人双方から尊敬されていま 
した。 
なお、ビルマ軍の場合は、これが総督任命将校と言う名称になっています。
#right(){(200:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
----

復元してよろしいですか?

記事メニュー
目安箱バナー