「ドイツ全般2」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

ドイツ全般2 - (2010/02/15 (月) 22:21:56) の編集履歴(バックアップ)



ホーホー卿のことを教えてくれませんか。

本名は「ウィリアム・ジョイス」1906年4月24日にニューヨークで生まれたアイルランド系。
若くして'British Fascisti Ltd'に加盟し、
その後オズワルド・モズレー卿の「英国ファシスト党」に参加。
より過激な思想を掲げてモズレーと袂を分かち、1939年8月26日にベルリンへ脱出。
ドイツの対英宣伝放送に従事。このときついたあだ名『ホーホー卿』は、彼が若いときに喧嘩で
鼻を潰しており、声が鼻にかかった気取った話し振りだったためついたもの。

終戦直前にハンブルグへ移動し、フレンスブルクの近くで逮捕される。
かれはドイツ国籍を取得していたが、イギリス旅券を保持していたため宣伝放送が
反逆であるとみなされ死刑が宣告される。
1946年1月3日にロンドンのWandsworth刑務所で死刑が執行された。
(31:名無し軍曹)

騎士十字賞の有る無しって何か意味があるんですか?

騎士十字章がどれほど価値があるかといいますと、
大戦中の全ドイツ軍人がおよそ1500万人といわれていてそのなかで
騎士十字章を授与されたのは約7500人に過ぎません。
また故・佐貫亦男先生は騎士十字章を「ドイツ人の定価札」と形容しておいででした。
泥酔して暴れても、騎士十字章を見せれば憲兵は手を出せなかったそうです。
それほど彼らは制服や勲章にこだわったようです。
(33:名無し軍曹)

第二次大戦中ドイツはリヒテンシュタインを占領したのでしょうか?

特に占領された事実はありません。

リヒテンシュタインは第一次大戦ではオーストリア・ハンガリー二重帝国の一部
とみなされたため、敗戦国となりました。
その轍を踏まないためにも20年代にスイスとの関税同盟を締結します。
いわばスイスの属国的立場になっていますので、スイスとの関係悪化を恐れた
ドイツはこの国を占領しなかったと思われます。

あ、ちなみにこの国の国歌のメロディーは"God Save The Queen"だったりします。
Hitlerは嫌がったでしょうが。
(33:眠い人 ◆ikaJHtf2)

日本と同じ資源無し国のドイツですが、二次大戦中の石油燃料の輸入先・輸入量はどんなものだったのでしょうか?

ドイツの戦前における石油の輸入先は、ソ連、ルーマニアが大多数を占めています。
大戦勃発後はルーマニアからしか輸入していません。
輸入量までの資料は残念ながら見つかりませんでしたが。
あとは、自国内で石炭を乾溜した人造石油を製作しています。
(34:眠い人 ◆ikaJHtf2)

第二次世界大戦に負けたときのドイツの国債がGDPの6倍と書いてありました。

ドイツは周辺国からの収奪や強制労働ができたのに、なんでこんなに戦費がかかったんですか?
ヒトラーが政権についてからは軍需主導による内需拡大政策により景気は著しく回復していったが
それは同時に原材料や食料品の輸入量の急増させることとなった。
しかし世界的に不況が続く中でドイツの輸出は伸び悩んでおり
ヒトラーはこれらの自給率を高めるための投資をするという形で解決しようとした。
急増する軍事費に加えて支出は膨大な額となり
シャハト経済大臣が対立して辞任したり、すでに開戦前からドイツ経済は先行きが怪しかった。

そして戦時下における占領地からの収奪もそんなに過大評価できるものではない。
確かにドイツは「占領費」名目で占領地から収奪していたが
これは最も比重の高い時期(1944年度)でも歳入全体30%もなく
反面支出はほとんどの時期で歳入の倍以上もあるという完全な赤字財政だった。

占領地から取り立てる額を増やせば
それだけ抵抗運動を自ら増やす結果に繋がるため
占領地行政上、収奪可能なギリギリのバランスは保つ必要があり
幾らでも好きなだけ奪っていけるというものではない。
(597:412)

グーデリアンの笑い話

グーデリアンはすでに部分的にほとんど独断で後退してはいたが
防御がもっと有利な地点まで、後退させてもらおうと総統に頼むため
ラステンブルクの総統本営へと飛んだ
しかし、4ヶ月前の歓迎とは異なり、目に明らかな敵意を浮かべた総統が待っていた

まず、グーデリアンは補給の不備や生活環境の劣悪さ
凍傷による死傷者が続出していること、車両や砲の損害の甚大なことを指摘し

将軍「前略、総統お願いです、後退させてください」
総統「ならん死守しろ
将軍「ではせめて防寒具の補給なりと・・・」

総統はまったく現状を理解しておらず
補給は万全だと思い込んでいる

総統「くどいな、補給は十分だろう
   物資は十分にあると補給担当の将校は口をそろえて言っている
   今いる場所に塹壕を掘り、大地のひとかけらも守り通すのだ」
将軍「ですが、我が軍は寒さで土が1m半まで凍りついていて
   どんなに鋭利な工具でも塹壕を掘ることもできないほどです」
総統「そういう場合は、榴砲弾を撃ち込んで土を吹き飛ばせばいい」

それは不可能だとグーデリアンは言う

将軍「ですが、都市を砲撃するためのそれを指し引かないとしても
   我々が維持しようとしている40kmから60kmにも渡る前線に弾痕陣地を作るに必要な砲弾は
   我が軍の持っている榴弾砲、砲弾、爆薬
   そのすべてを合計してもとても足りません」

・・・しかし、厳しい現状を訴えられながらも、総統はまったく後退を許可せず
グーデリアンは元から絶望的と思われた自らの使命を果たせなかった
だが、彼はこのことをすでに予期していた
彼が来る前の12月6日、同じことを総司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥が頼み込んだが
それが完全に拒否され
断固として「現在の位置にとどまって戦うべし」との命令を受け取っていたことを彼は知っていた

同じように多くの指揮官たちが
「モスクワ至近の前線を維持するのは正気の沙汰でない」として
総統に同じように直訴をしていたが、片っ端から拒否された
レニングラードでもスターリングラードでも同じようにあしらわれる始末だった

面白い話だろう

これがなければ――戦略的な後退がもっと早期に行われれば・・・――もしかすると
戦略的な勝利を収めることに成功し、あそこまでの惨敗を繰り返すこともなかったかもしれない
(327:名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM)

戦後勝ち組?に帰り咲いた旧ドイツ将校・将官がいたら教えて下さい。

ロンメルの参謀将校だったシュパイデルは、戦後NATO地上軍のナンバー2まで出世したそうですが
やはりヨハネス・シュタインホフ大佐でしょうね。
剣付柏葉騎士鉄十字章受賞者で、撃墜機数178機のスーパーエース。
終戦直前の事故で瀕死の大火傷を負ったけれど、戦後の西ドイツ空軍にみごと復帰。
NATO空軍参謀長、空軍総監中将にまで上り詰めて1974年に退役。
(327:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

ドイツは敗北がほぼ決定的になった時、少しでもマシな占領統治をしてくれる可能性がある英米を受け入れる為に西部戦線はほぼ放棄し、逆に東部戦線に戦力を集中して少しでもソ連を食い止めるような戦い方をしようという案はなかったんでしょうか?

いろんな人がそれを言ってるよ。
つうか「バルジの戦い」の異名で知られるアルデンヌ攻勢の目的の一つがそれ。
西部戦線を安定させて東部に目を向けること。

ドイツ軍作戦名「ラインの守り」が示すように、バルジ作戦は
じつは英米軍を誘い込んで、ソ連軍が進出しないうちに
英米軍に占領してもらうことにあった。
(603:501,504)

対ソ電撃戦は偶然の結果なの?

ドイツが最初から意図していたものではなかった?
まず前提としてドイツは長期戦を戦えるような体制になっていなかった。

電撃戦は偶然というより、すでにポーランド戦の時点で短期決戦で終わらせることは予定されていた。
まずヒトラーはソ連との交渉によって挟撃により短期間で決着がつくという見込みで
英仏の参戦はないという賭けから戦争に踏み切ったもので
開戦後に東プロイセンの第三軍主力が単独でナレフ川をこえ、
ワルシャワ後方まで迅速に進出するという強行案が強く命じられていた。
軍の計画はソ連の侵攻が土壇場まで知らされなかったことと、
英仏の行動に即応できるよう急激に奥地に進出することを控えるべきという判断が強い。

ドイツが短期決戦しか戦えなかった軍事面での根拠だが
ラインハルト・ゲーレン回顧録によれば
ドイツが本格的な戦争を戦えるだけの準備が全くできていなかったことが指摘されている。
1940年6月の段階で重火器弾薬は事実上使い果たし、十分な弾薬があったのは軽野戦砲だけだったとのこと。
ゲーレンによれば戦争勃発当初の英仏の軍事行動次第では短期間でドイツが敗北していたという。

経済的な面では、慢性的な財政赤字だったドイツが
長期戦を担えるような経済力の裏づけをもつことは不可能で、
占領地からの収奪によって戦費を賄う計画が主張されることになるが、
戦争の長期化と総力戦化でそれも焼け石に水でしかなかった。

また独ソ戦については「2週間で大勢が決する」という判断の元に行なわれたもので
長期戦になることは最初から前提にされていない。
もともと工業力の差から開戦が1年~2年遅れればソ連との戦力差が絶望的になるという判断から
イギリスとの戦争中にも関わらずソ連侵攻が計画されたんで、短期決着が不可欠だった。

ドクトリンについてはWW1のような消耗戦を避けるため
先制奇襲によって敵が体制を整えるまでに勝負を決めるというのが骨子であって
そのための機甲戦理論で、それが長期戦を戦えないというドイツ軍需経済の脆弱さを補うための方法論。
(603:520)

ドイツは日本にソ連侵攻させ、ソ連に二正面戦線を作らせようとしたわけですが、日本の機甲部隊のヘボさをドイツは把握していたんでしょうかね?

1.ノモンハン当時のソ連は赤軍大粛清の後で練度が低下しており、BTシリーズの乗員も砲を巧く操作できないなど
  問題があり、強力な砲を装備しているのに、なかなか命中しない。と言う状況でした。
2.ドイツから見れば、ソ連の極東配備戦力が余剰分としてドイツにぶつけられるのが問題なのであって、極東で戦闘
  さえ始めてもらえば、日本が勝つかどうかは関係ありません。
  ソ連がウクライナを無くして北満を手にしようが、それは知ったことでは無いでしょう。
3.昭和20年になってソ連が侵攻を開始した際、やはり北満や朝鮮半島では、M4A2やT34ですら運用に苦労したようで、
  結局、BT系以外は道路事情の悪さに泣かされて遅滞気味でした。
4.ドイツはスパイ情報やソ連武官の態度(4号戦車の工場を見学させたら、もっと強力な戦車を開発していないはずは
  なく、隠していると疑ったそう)等から、ソ連が強力な戦車を開発中、もしくは配備中と知っていたのだが、完全に
  軽視していた。
  当時、(特にガソリン車は)航空爆撃に弱く、また重火砲の水平射撃などでも対処出来たので、戦車の性能差だけで
  機甲戦の勝敗は決まらないと言う意識があった。

ソ連について、航空攻撃も直撃以外はへっちゃら、重火砲の無い地域に突然現れるような機動性を持つような戦車を集団
運用する国とは見てないんですね。
(608:819)

大戦末期のパリ解放なんですが、どうしてドイツ軍はヒトラーの命令通りに徹底的な市街戦を行わずに、連合国軍に降伏したんでしょうか?

ドイツの将軍が不服従したからです。

「パリを破壊しろというアドルフ・ヒトラーの命令が下ったが、最終的にコルティッツ将軍は命令に従わずに連合国に無条件降伏し、
パリを破壊から守った。」

「スターリングラードのようになれば」フランスはドイツに対して、長く恨みを持ち、戦後の友好関係は築けなかったでしょう。
ポーランドのワルシャワは、ドイツ軍により徹底的に破壊れました。

下記、ウィキペディアのパリは燃えているかの概要 を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E3%81%AF%E7%87%83%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%8B

1944年夏。
警察隊長はゲシュタボ1200名を引きつれパリを脱出。ただでさえ手薄な兵力は一層貧弱に成った。
このときの自分のことしか考えない隊長の姿にヒットラーを重ね、コルティツはパリ爆破の命令無視の決意を固めたと言われる。
http://www.madamepeko.com/liberation.html
(610:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.*加筆)

ヒトラーは「日本の攻撃がなくてもアメリカとの開戦は時間の問題だった」と語ったというのは本当?

ヒトラーの発言のソースはマルティン・ボルマンがヒトラーの発言を
口述筆記した記録にある。

「日本の参戦は、ルーズヴェルトのために絶好の口実を与え、アメリカ軍を
我々に対して動員するきっかけを作ったとは言え、我々にとっては何らの不
利な結果も伴わなかった。しかしルーズヴェルトは、ユダヤ人にはっぱをか
けられて、日本の参戦がなくても、国家社会主義を殲滅するための戦争を決
意していた。」
http://www.harashobo.co.jp/new/shinkan.cgi?mode=1&isbn=02246-9

同書の中で最終的にアメリカの参戦は避ける方法はなかったことと
日本の参戦はドイツにとって幸運だったことも述べられている。
(615:261)
ヒトラーは米国の参戦が避けられないと判断してたわけね?
しかし対米宣戦すれば100%敗北って火を見るより明らかだと思うんだけど、
開戦前から、アメリカからイギリスへの輸送船団の護衛をアメリカが、イギリスの領海ギリギリまで
行うようになり、ドイツに対して見つけ次第沈めると警告してた。
ドイツ側としては、WW1のこともあり、誤認での攻撃を避けるために攻撃禁止命令が出てたのだが、
そのせいで、撃沈の戦果が上がらず、海軍側から、ヒットラーに対して、撃沈許可の要請がひっきりなしに
上がってた状況なので、ドイツ側の忍耐も限界近かったという状況。
ヒットラーとしてもイギリスへの物資の搬入阻止がイギリスに勝つ条件なので、回避という選択肢はなかった。

ドイツ陸軍アメリカ駐在武官のベティカー中将が
アメリカの戦力・戦争遂行能力について
極めて過小評価した報告書をあげていて
ヒトラーはその報告書に非常に感心をもっていたといわれている。

100%敗北というのは、ようするに後知恵だな。
(615:324-329)

記事メニュー
目安箱バナー