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WW1全般 - (2009/04/23 (木) 23:35:27) の編集履歴(バックアップ)




第一次大戦時の各国の国力は?


各国の工業力(1900年イギリス=100)
  1880年 1900年 1913年 1938年
英 73.3   100.0  127.2   181
米 46.9   127.8  298.1   528
独 27.4 .   71.2  137.7   214
仏 25.1 .   36.8 .  57.3 .  74
露 24.5 .   47.5 .  76.6   152
墺 14.0 .   25.6 .  40.7    -
伊. 8.1 .   13.6 .  22.5 .  46
日. 7.6 .   13.0 .  25.1 .  88

各国の鉄鋼生産(100万トン)
  1900 1913 1920 1930 1938
英  5.0  7.7   9.2  7.4  10.5  3位→3位→2位
米 10.3 31.8 . 42.3  41.3 . 28.8  1位→1位→1位→1位→1位
独  6.3 . 17.6   7.6  11.3 . 23.2  2位→2位→3位→2位→2位
仏  1.5  4.6   2.7 . 9.4   6.1             3位
露  2.2  4.8   0.16  5.7 . 18.0                 3位
墺  1.1  2.6   -    -    -
伊  0.11 0.93  0.73  1.7 .  2.3
日  -.  0.25  0.84  2.3 .  7.0

保有軍艦数量(万トン)
  1880年 1900年 1914年
英  65.0  106.5  271.4
米  16.9  33.3   98.5
独.  8.8  28.5  130.5
仏  27.1  49.9   90.0
露  20.0  38.3   67.9
墺   6.0   8.7   37.2
伊  10.0  24.5   49.8
日   1.5 . 18.7   70.0

(第一次大戦スレ:670-680)

第一次大戦の各国の兵力は?


動員直後の兵力

同盟国
ドイツ 450万人
オーストリア=ハンガリー 335万人
ブルガリア 85万人(7万人は本国警備、残りの半分が戦闘員)
トルコ ?(平時は23,5万人)

連合国
フランス 378,1万人
ロシア 500万人(前線に従事するのは40%)
イギリス 73,35万人
イタリア 87,5万人
ルーマニア 56,4万人
セルビア 46万人
ベルギー 17,7万人(35%は要塞要員)
オーストラリア 6,5万人
ニュージーランド 8430人
(第一次大戦スレ:86)

WWⅡ発生以前もWWⅠは「第一次」と呼ばれていたのでしょうか?

欧州大戦と呼ばれていたかと思う。
(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)
「the great war」と呼ばれていました.

第一次世界大戦で、戦犯の裁判は行われなかったのでしょうか?


Versailles条約の227条に、
「同盟及聯合国ハ国際道義ニ反シ条約ノ神聖ヲ冒シタル重大ノ犯行ニ付
 前独逸皇帝「ホーヘンツォレルン」家ノ維廉二世ヲ訴追ス
 右被告審理ノ為特別裁判所ヲ設置シ被告ニ対シ弁護権ニ必要ナル保障
 ヲ与フ該裁判所ハ五名ノ裁判官ヲ以テ之ヲ構成シ亜米利加合衆国、大不
 列顛国、仏蘭西国、伊太利国及日本国各一名を裁判官ヲ任命ス
 右裁判所ハ国際間ノ約諾ニ基ク厳正ナル義務ト国際道義ヲ厳存トヲ立証
 セムカ為国際政策ノ最高動議ノ命スル所ニ従ヒ判決スヘシ其ノ至当ト認ムル
 刑罰ヲ決定スルハ該裁判所ノ義務ナリトス
 同盟及聯合国ハ審理ノ為前皇帝ノ引渡ヲ和蘭国政府ニ要求スヘシ」

としていますが、実際にはオランダが彼の身柄引き渡しを拒んだことにより、戦争責任を
問うことは出来ませんでした。
また、ワイマール政府がHindenburgを始めとして、裁判を行いましたが、結局これも有耶無耶
のうちに終わっています。
(368:479,眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第一次世界大戦の原因は,世界を動かしていた植民地帝国イギリスに対し,新しく力を持ってきたドイツが資源と植民地を求めて戦いを挑んだと思ってるんですが,他に何かあったら是非教えてください.


 第一次大戦の原因は植民地や資源や経済じゃないぞ.
 そもそもドイツは英国が中立化することを期待していたし,英国議会もドイツがベルギーの中立を侵すまでは,戦争に消極的だった.

 大戦に至る原因は大小様々にあるが,大きいのはドイツ統一後のナショナリズムがもたらした他国との不和と,当時のヨーロッパのパワーバランスそのもの.

ドイツ・・・仏露2つの隣国を同時に敵にしたら勝てないと思い込んだ
フランス・・ドイツより人口が少ないので単独で戦争になったら負ける
ロシア・・・ドイツ・オーストリアより工業力が劣っており単独では(ry
英国・・・・ドイツかフランスがこれ以上強大化したら本国の安全保障が脅かされる

 この構図が何十年も続いており,様々な外交が展開され,植民地より本土が大事ということで,英仏が数百年の対立に終止符を打ち,ナショナリズムが原因でドイツは英仏露を次第に敵に回し,そして最後に”運悪く”破綻した.
 ロシアはブラフのつもりで総動員を始め,それが引き金でドイツは自国を守るためフランスに先制攻撃をかけ,イギリスはベルギーを渡さないために参戦し,最初の原因だったはずのオーストリアは,何が起こってるのか分からないまま流されていく.
 ロシアは,対墺動員だけなら恐らく戦争はなかったが,それではドイツに対し無防備になる.
 ドイツはシュリーフェン・プランの都合上,ロシアが対独動員を始めたら自動的にフランスに宣戦するしかなかった.
 ニコライ2世とヴィルヘルム2世の往復電報には,戦争をする気も無いのに,互いの事情がよく分からず,戦争に向かっていく悲哀がよく表れている.

(世界史板)

第一次大戦は,列強の植民地の奪い合いで起きた抗争じゃないのですか?


 植民地を含めた勢力圏のせめぎあいが背景にあったことは確かだが,別に植民地の奪い合いを直接原因として勃発したわけじゃない.
 どの国も積極的に戦争を拡大しようとしたわけではなく――積極的に戦争を回避しようと努力した国もないが――,短期戦を想定していたのに,大戦になってしまったという意味で,「何が原因で起きたのか分からない」という評価になる.
 大戦に至った経緯が,動員合戦から始まって,戦時計画に基づいてまるで自動的に戦争に突入してしまったような感覚で,各国の当事者の思惑を超えてしまったのだから.
 直接の原因はオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたのが発端だが,オーストリア皇帝が珍しくブチギレしてドイツを道連れに宣戦布告して,意固地になって戦い続けて,そうこうするうちに「敵の敵」やら「味方の敵」やら,いろんな国がわらわらと参加してなしくずしに「世界大戦」化していったから,どうしてそうなったのか当事者にもわからないという結果に.
 最初は単なる局地戦で短期決戦で終わるつもりだったのに.

 だから,よく言われるのは,
「軍事同盟が複雑に絡み合っていて,一国が戦争を始めるとその同盟国が自動的に参戦することの連鎖反応で,ヨーロッパ全体が戦争になってしまった」
という説明.
 もともと,各国の政治家にとっては,その複雑な軍事同盟は戦争をするためというより,できるだけ戦争を回避し,もし戦争が始まったら孤立せず自国に有利に展開させるための同盟のはずだった.
 実際に条約や密約に基づいて動員令や戦争準備を始めても,開戦するかどうかは,最後までコントロール可能と考え,また戦争が始まっても都合で停戦は可能と考えていたのに,一旦はじまると各国の軍はそれぞれの仮想的の開戦準備状況に対応して相互にエスカレートしていき,政治家から見ると追い込まれるような形で開戦せざるを得なくなり,あとは収拾がつかなくなったというのが実態.

 簡単に言えば,
「敵の敵だから援軍を送ります」
「敵の敵の敵の領地がガラ空き,獲得のチャンス!」
「なにやらわからない連中が来た,攻撃」
「味方だと思っていたのに攻めてきた,全滅させたれ!」
「であの国を滅ぼした暁には分割しましょう」
「貴国は来週から敵国となります,おたっしゃで」
「反乱が起きました,革命です」
「敵の敵の敵に向かって突撃!!」

(世界史板)

第一次世界大戦が始まった当初,国民は「数週間で戦争は終わる」と思っていたそうですが,これはなぜなのでしょう?


 戦争を始める時は誰でも,自分の国にとって都合のいい筋書きを想定しているのです.
「クリスマスまでに終わる」といって始まったはずの戦争が,何年も何年もダラダラ続くなんて話はよくあることで,第一次大戦に限った話ではありません.

 第1次大戦の場合,戦争が長期化した一因に兵器の,特に野砲の性能向上があるそうです.
 そのせいで塹壕から出ないから戦争が長期化.

当時は戦争というのは相手国を滅ぼすまで戦わなかった
というのは,あながち間違いではありません.
 日露戦争,米西戦争,ボーア戦争,バルカン戦争と,第一次大戦前の欧米の戦争は,相手国を滅ぼすまで戦ったりはしませんでした.
(アジアやアフリカで植民地を建設する時は別.その場合は容赦なく在地勢力を滅ぼしましたが)

(世界史板)

第一次世界大戦においてドイツやフランスは,シュリーフェンプランやプラン17のように,かなりトンデモな戦争計画を持っていましたが,他の国はどうだったのでしょうか?


 差はあれど,第一次世界大戦に参加した国々は似たような戦争計画を持っていた.
 共通していたのは皆,総動員の計画が第一であった点.
 シュリーフェンプランやプラン17が他国と比較して特異なのは,動員後,積極的に軍を敵国に進軍させている点.
 他の国は動員後は国境線に配備させる程度だった.

 ただし,イギリスは明確な戦争計画や動員の計画は持っていなかった.
 強いて言うならフィッシャー提督のバルト海作戦が戦争計画のひとつと言えるかも.
 個人の提案と言うか妄想に過ぎないが.トンデモ具合は前述のものを超越している.
 google検索してみれば,その詳細は分かる.

 オーストリアとか,ロシアも開戦後どうするかという計画はあったものの,基本的に「鉄道を用いた動員計画」が全てだったと言われております.
 どうやら普仏戦争で,ドイツが鉄道を利用して動員しフランスに勝ったのがよっぽど印象に強かったのか,とにかく動員さえ敵国より早く終われれば戦争に勝てると思っていた模様.
 まあ,4年間も塹壕戦,総力戦が続くとは誰も想像せず,ナポレオン時代みたいに大平原に大軍が終結して,一二回会戦をやれば勝敗がつくと思っていたので仕方ないですが.

 とりあえず一番有名(であろう)参考文献:
バーバラ・タックマン「八月の砲声」
 ヨーロッパ各国が大した見識もなしに大戦になだれ込む様子がよく分かります..

第一次世界大戦であれほど戦線が膠着したのに,なぜ双方とも講和や和平をしようと思わなかったのでしょうか?講和の機会や妥協点はなかったのでしょうか?


 妥協点は低地諸国(ベネルクス三国)の回復にあったと思われる.
 イギリスの参戦を招いたのが中立国ベルギーへの侵入だから,ここからのドイツの撤退がイギリスにとっての交渉のスタート地点.
 しかし,当時ドイツを牛耳っていた参謀本部の連中は,占領地を手放そうとしなかったから,話にならないと言う事.
 彼らは,軍事的な成功が外交的な成功に繋がると信じていた.
 つまり,彼らはこの期に及んで,パリを落とし,フランスを屈服させようと考えていた.
 いかにも軍人然とした考えだが,大きな誤り.
 戦略が外交を縛り続け,長々と戦争が続く事になった.

http://kiwi-us.com/~knp3/judge/cs.shtmlによると『第一次世界大戦に中国が参戦したのは一般常識』らしいのですが,そうなんですか?


 19世紀末から中国本土にドイツの租借地がありました.
 中国が対独国交断絶と宣戦布告となると,当然,中国国内に於けるドイツの諸権益は没収されることになります.
 1917年8月14日に中国は三国同盟の独墺に正式に宣戦布告をしています.
 その付属書で日本に対し,
「支那と独墺両国との間に締結せる一切の条約は,何種の事項に関するに論無く等しく一律に廃止し,1901年9月7日締結の条件及び其の他同類の国際協議にして支那と独墺両国との関係あるものに至りては同時に廃止し,尚支那政府はハーグ平和会議の条約及び其の他国際協約に対しては戦時文明皇后に関する一切の条款を遵守して渝ざる旨を以て生命致候」
としています.
 つまり独墺両国と中国間の条約は無効で,日本支配の山東半島利権は総て中国に帰すと言うことを言ってたり.

 ちなみにその前の2月6日の時点で,米国大使が中国に国交断絶を進言しています.
 この時点で宣戦布告をしていたら,対華二十一箇条は無かったかもしれませんが.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板)

WW1で毒ガス・戦車・飛行機が登場しましたが,これら新兵器は戦争の勝敗を左右するものだったのですか?


 いずれも当時決定打とはなっていない.

毒ガス:
 膠着する戦線を打開するために開発された.致死性の猛毒ガス(青酸ガス)は持続性を持たせられず,ホスゲン,イペリット等が多用された.死者はそれほど多くない反面,負傷者は多数(数十万人単位.ヒトラーもその一人と自称している)で,効果は絶大.反面,条約で禁止されるまで延々とお互いに使用しあう泥仕合だったので,どちらか一方の勝敗の決定打とはいえない.

戦車:
 敵塹壕を強行突破するために開発された.イギリスのマークIが元祖で,ソンム会戦で多少の戦果を挙げるも,主に信頼性にまだ難があったため,大局を変えるには至らず.
 ただ,心理的効果は大きかったらしい.
 別の流れとして,ルノー軽戦車があるが,こちらは終戦半年前位にようやく実戦投入された程度なので,こちらも大きな影響を与えてるとは思われない.

 1919年まで戦争が行われていたら,戦車はまた違った評価になったと思う.
 ドイツ軍の最後の反攻作戦が失敗した後,戦車隊を中心とした逆襲が行われている.
 また,フラーなどの手によって攻撃計画「1919計画」が企画され,上層部で承諾を得ていた.
 もし仮に反乱が起こらずに1919年までドイツががんばっていたら,戦車は戦争を終わらせた決戦兵器として名を残し,その後の戦術理論も違ったものになっていたかもしれない.

飛行機:
 最初は偵察機として運用され,その行程で敵戦線にちょっとした爆弾を落とす「嫌がらせ爆撃」が発達して爆撃機へ.
 それを撃ち落すための戦闘機が生まれ,戦闘機同士の空中戦が発生.
 が,基本的に地上軍と連携して動く戦術そのものが未発達だったので,こちらも戦局を変えるには至らず.

 なお,その後,破竹の侵攻速度を持った陸空共同のドイツ電撃作戦や,一式陸攻でPOWを葬ったマレー海戦までは,まだ飛行機は軽く見られていた.
 あの強大な戦艦が,ぶんぶん飛び回る飛行機「ごとき」に沈められるというのは,当時としては凄い衝撃だった.

 まあ戦車にしろ戦闘機にしろ,それまでに使った事がない代物なので,どう使えば効率がいいか,どの程度使うとどの程度で故障が出て,どの程度お手入れに手間がかかるか等等,全く未知数だったのです.
 要するに,機械はできたけど運用ノウハウがゼロで,これから実地で学習しなきゃならない状態だったのです.

第一次世界大戦の時に流行したスペイン風邪は,大戦にどれくらい影響を与えたのでしょうか?


 大流行で,ただでさえ公衆衛生のよくない前線で猛威を振るったと伝えられている.
http://ww1.m78.com/honbun/kaiser%20battle.html
を参照.

 両軍ともインフルエンザによる被害は甚大で,戦闘単位として不適切なまで兵員が減少した部隊が続出した.
 ドイツは予定していた攻勢の延期を考えるくらいだった.
 戦争の遂行に悪影響があると恐れたのか,各国とも被害の情況を隠し,アメリカ以外に正確な被害の記録は残っていない.
 全世界で2000万~6000万人が死亡.
 大戦による栄養状態の悪化が,流行に拍車を掛けた公算が高く,この事が大戦末期に両陣営で蔓延した厭戦気分に影響した可能性は高い.

オスマン帝国はなぜ同盟国側に参戦したの?

汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するため、同様にスラブ主義と対抗していたドイツと友好関係にあったから。

もしロシア革命がなかったら,ロシア軍はドイツを破ることができただろうか?


 その可能性は非常に高かったようである.
 以下引用.

 戦争がロシア帝国を崩壊に導いたが,これは軍が敗北したからではなく,銃後が崩壊したからだった.
 1917年の革命に先立つロシア軍の戦いぶりは,西側同盟諸国に引けをとらなかった.
 たとえロシア軍が概してドイツ軍より劣勢に立っていたとしても,フランス軍やイギリス軍にも同じことが当て嵌まった.
 さらに,1916年のロシアの経済的・軍事的業績にも目を見張るものがあった.46
 ブルシーロフ※はオーストリアとドイツの軍を敗走させたが,それは1918年以前の協商国側の攻撃では最大の戦果だった.
 さらに,オスマン軍に対してロシア軍は,イギリス軍よりも遥かに善戦した.
 イギリス軍が1915年にゲリポル半島とメソポタミアで敗北したのとは対照的に,ロシア軍はオスマン軍に連戦連勝を収め,ロシア革命が発生した時点で,アナトリアに深く侵攻してもいた.

 1917年に革命が勃発したのは,一つには銃後での戦時経済の苦境のためであったが,それ以上に,殆どのロシア人エリートや都市部の大衆の間で,帝政への信頼が完全に破綻したからに他ならない.

 皮肉なことに,1917年2月時点のロシアには,戦争で勝利を収めるあらゆる可能性があった.
 1916年にイギリスの軍事的な潜在能力がようやく日の目を見たことで,ドイツへの圧力は圧倒的になっていた.
 さらに,敗戦の可能性に絶望したドイツは無制限潜水艦戦に突入し,その結果,間もなくアメリカの介入も招いた.
 これにより,協商国側の最終的な勝利はほぼ確実になったのである.
「勝利を手に掴みながら,その国(ロシア)は地に倒れた」47
とのチャーチルのコメントは正しかった.

 はたして帝政が,第1次大戦後に避けられそうになかった政治的危機を切り抜けられたかどうか,また戦後に体制が崩壊した場合,ロシアの政治がどのような形態をとったかを評価するのは難しい.
 同様に,ロシアが戦勝国として参加したであろう,第1次大戦後の国際体制の特質や長期安定についても評価は難しい.
 しかし,聡明で保守的な閣僚達が常に予言していたように,君主制の正統性,軍や警察の抑圧的な力がなかったら,ロシアの社会と経済のエリートは革命的社会主義の猛攻撃に耐えられなかっただろう.
 既に述べたように,もしこのようなプロセスが1914年以前の平時に起きていたら,ドイツ軍を先頭にヨーロッパの一致した軍事介入が続いていた公算が大きかった.
 金融的にも地政学的にも列強諸国がロシアに有していた権益は極めて大きかったため,ロシアがヨーロッパの資本主義およびバランス・オブ・パワーから脱退し,債務の支払いを拒み,おまけに自国を国際的な革命の基地とすることは許せなかっただろう.
 さらに,ロシアのエリートも戦争で弱体化していなかったため,社会主義の革命政権が国内外の反革命に直面したまま,長期に渡って権力を掌握できた可能性も殆どなかった.
〔訳注〕
 ※ ブルシーロフ=1853-1926.ロシア軍人.第一次大戦で南西戦線軍司令官を務め,オーストリア軍を破った.二月革命後は臨時政府から軍最高司令官に抜擢された.

〔原注〕
 46 例えばファーガソンは,「ロシアが生産性を増加させた点から見れば……ロシアの戦時経済は最も成功を収めた」と述べている.Ferguson, Pity of War, ch.9, p.263.
 47 W.S.Churchill, The World Crisis, 1911-1918, Four Square Books, London, 1964, p.776.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.148-149

第一次世界大戦では毒ガスも戦車も飛行機も決定打となっていないそうですが,それなら何が決め手となって勝敗が決まったのでしょうか?


 武器弾薬の製造能力,人員の動員数,それらを動かすインフラ,資本力と言った総合的な国力,その全てが世界最強であったアメリカが参戦したから連合国側が勝利しました.
 厳密には無制限潜水艦作戦に怒ったアメリカが参戦した際に,
「アメリカが本格的に参戦したら絶対負ける
 →なら今の内に勝負を決めないとマズイ」
と言った感じで,焦ったドイツが攻勢を仕掛けて失敗してしまったのが,決定的な敗因となっています.
 この敗北で,攻勢前はほぼ互角だった兵力差が一気に逆転してしまった為,銃後の反乱を含めて一気に前線が瓦解していしまいました.
 第一次世界大戦において,極一部の例外を除いけば攻勢を仕掛けた側が負けると言う構図が展開されていますので,その不文律を犯さざるを得ない状況に追い込まれた時点で,ドイツの敗北は決定付けられていました.

(ue◆WomMV0C2P in 軍事板)

アメリカは国際連盟提唱しといて,上院の反対で参加しませんでしたが,この出来事の原因は授業では「伝統的相互不干渉」とだけ教えられました.他にも原因はあるんですか?


 国民レベルで存在する大戦への幻滅を,
 一部の孤立主義者が政治的に争点化した.(伝統的相互不干渉≒孤立主義)
 さらに共和党が,それを20年の大統領選に向けて,民主党政権批判として国政レベルで動員した,ということじゃないのかな?
(ここで悪役は上院外交委員長ヘンリー・カボット・ロッジ.)

 アメリカが国際連盟に不参加だったのは,南北アメリカの問題に域外国家の口出しを許すことになることをいやがったためでしょう.汎アメリカ主義です.
 アメリカは実は,好き勝手に介入して自国の利益を優先させていました.
 この現実に,理想主義が破れたのです.

 汎ヨーロッパ主義を唱えたクーデンホーフも,連盟に対しては懐疑をもっており,域外の大国,日本やアメリカが欧州に介入してくるとして批判的でした.
 汎ヨーロッパ主義というのはヨーロッパ・ナショナリズムです.これもまた孤立主義といえる.

 日本が国際連盟に参加したのはたぶん失敗でしょう.
 現実に理想がやぶれて脱退することになったわけですが.最初から参加しなかったほうがよかったと思われます.
 脱退したのは,大アジア主義的主張が強くなったからですが,これは東洋モンロー主義ともいわれていました.孤立主義ですね.

(世界史板)

〔パリ講和会議で〕日本は「人種平等案」を提出したが,それを力ずくで潰したのがアメリカ,イギリスだったと、小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.211-212にありますが事実ですか?


 人種平等決議を平和条約に盛り込むことを拒否した張本人はオーストラリアです.
 それは国防上の見地に基づくものでした.

 オーストラレーシア人の立場は〔殆ど外的脅威のないカナダとは〕異なっていた.
 地域の果てで孤立した,比較的小規模の白人社会だったため,イギリスがヨーロッパの列強諸国,そしてとりわけ日本から防衛してくれることを望んでいた.
オーストラレーシアの繁栄は程度の差はあれ,白人以外の先住民から収奪し,アジアからの労働者の移住を厳しく排除することに依拠していたため,世界で唯一の有色人種の列強国である日本の興隆を恐れるのももっともだった.
 オーストラリアはベルサイユ条約策定のパリ講和会議で,日本が呼びかけた人種平等決議を平和条約に盛り込むことを拒否した張本人であった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.223

第1次大戦後,ドイツが天文学的賠償金を支払う事となったのですが,実際の支払いはどのような形で行われていたのでしょうか?


 最初の頃は現物支払いです.特に鉱工業製品による支払いが行われており,有名なところでは,フランスによるデュッセルドルフ,フランクフルト地区の保障占領とか,ライン川西岸地区,ザール地方の国際連盟による3地域分割で,最長15年に及ぶ占領と,炭田の所有権,採掘権のフランスへの譲渡が行われています.
 このほか,現物支払いでは,1,600t以上の商船,漁船の1/4,家畜,石炭,ベンゾール,機関車,鉄道車輌,機械,海底電線などがあります.

 現物支払い分以外は,2,690億金マルク,これは42ヶ年の年賦で国家財政より支出します.
 但し,ドーズ賠償協定の締結後は,米国からドルの借款を受け,それを短期資金市場で運用し,租税収入と共に年賦を整え,返済していました.

(世界史板)

第1次大戦に至るまで,なぜドイツはもっとましな戦略をとれなかったのか?


 ドイツの政体上,対外政策を調整する権限は国王またはその代理人だけにあったが,ウィルヘルム2世やその臣下には誰もそのそんな能力がなかったためだという.

以下引用.

 戦争に先立つ20年間のドイツ政治は,こうした欠点〔政策を調整したり,目的と手段の調和を図ったり,相対立する政治的・軍事的・外交的な優先順位と圧力のバランスをとったりする個人や機関の欠如〕を数多く抱えていた.
 イギリスとロシアを同時にドイツから遠ざける政策は,ドイツの安全保障・利益・国際的影響力にとって危険であった.
 ヨーロッパを支配するための動きにおいても,それは全くの愚行でしかなかった.

 優先順位を決定し,目標を決め,政策を調整することができなかったのは,ドイツという国家を運営した個人の誤りのせいであったが,ドイツの政体にも根ざしていた.
 プロイセン=ドイツのエリートは民主主義を軽蔑し,自分達の利益とは両立しないと概ね誤った見方をしていたため,人民主権の原則を受け入れようとはしなかった.
 唯一,〔政治〕正統性があったのは,歴史的に続いてきた君主制の原則であった.今やドイツ皇帝であるプロイセン国王には絶大な権限があった.最終的には国王だけ,あるいは国王が確固たる支持を与えている代理人だけが,ドイツの対外,国内,軍事政策の調和と一貫性を保証できたが,ウィルヘルム2世の下では誰一人,ビスマルクのようには,これを行えなかった.38

 とはいえ,ドイツがわがままで自滅的な対外政策を行った理由は,それだけではない.
 下からの急進的な圧力がビスマルク時代よりも強まったため,合理的な対外政策が難しくなったのである.
 しかし,政治システムの頂点に位置する個人や制度上の弱さも重要だった.
(Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.143)

何故,日本帝国は第一次大戦で,欧州に大兵力を派遣しなかったのでしょうか?


 まず,ドイツと日本との関係.日独関係はその当時もかなり友好的な関係にありました.このため,出来る限りドイツと事を構えたくないと言う考えが働いています.

 また,欧州に兵力を送るとなると非常に費用がかかること,食体系が欧州のそれとはまるで違うので,その補給が問題となること,それに日本としては,欧州列強のいない間に中国大陸に出て,米国の利益とぶつからないように,揚子江に至る華北の諸権益を確保しようとしていたので,欧州に兵力を回す余裕が無かったこと.

 ロシアとの間で1916年に日露秘密条約を締結し,中国防衛に関して日本とロシアは共同で防衛の義務を負ったこと.

 また,幼児期とはいえ産業界でも,欧州の戦争で活況を呈していましたので,欧州に向けるような兵力調達状況(産業界でも労働力を必要とする)に無かったこともあります.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

 詳しくは,
「第一次世界大戦と日本海軍 外交と軍事との連接」
平間洋一 慶應義塾大学出版会
をおすすめします.タイトルには「海軍」とありますが,政府首脳や陸軍の動きにも触れているし.

日本が第1次大戦のロシア軍に武器を輸出していたのは本当ですか?


 日露戦争後から二月革命まで,日本とロシアは満州利権を北満,南満と住み分け,英米の満州進出に対抗する為,1907年の日露秘密協定を結び,仲良くパイを分け合うほどの仲です.
 この協定は数々の追加事項を増やし,1916年までに4回,結ばれています.

 梅本弘著「雪中の奇跡」(大日本絵画)の中で,フィンランドで売られている三八式歩兵銃が紹介されていますが,それも対露輸出の名残です.
 そういえば,三八式歩兵銃用の銃弾を使用するフェデロフ自動小銃なんてのもありましたね.

シベリア出兵は日本にとって失敗に終わりましたが,このシベリア出兵の日本側勝利条件といいますか,日本側が目標としていた戦の終わり方とはどのようなものだったのでしょうか?


 まずは,白衛軍の勝利です.
 次いで,白衛軍の残党が打ち立てた,極東共和国と沿海州共和国の独立維持と,駐兵権,各種利権の維持(一種の満州化).
 それが叶わなくなると,ポーツマス条約のソ連の承認による,日本側勢力圏の認定と,北部サハリン油田からの石油安定供給になっていきます.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本統治下の南洋群島について,統治内容等を知りたいのですが,ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ください.


 南洋群島は,Versailles条約で日本の国際連盟C式委任統治区域となりました.
 これは,土着人民の利益の為に一定の保証を与えることが要件となりますが,受任国領土の構成部分として,その国法の下に施政を行なうものです.
 但し,地域の詳細情報,施政諸般の措置は国際連盟理事会に報告する義務があります(これは,日本の連盟脱退後も継続されています.)

 1922年の勅令第107号南洋庁官制により,パラオ諸島コロール島に南洋庁を設置,南洋庁長官は,一般行政は拓務大臣の指揮監督を受け,他に一部の行政に関しては逓信,大蔵,商工の各大臣の監督を受けます.
 1942年,拓務省廃止の後は,大東亜省所管となります.

 南洋庁の組織としては,最初は課制でしたが,後に内務部,経済部,交通部,そして各島に支庁を設置,大きな島には法院を置いています.
 支庁は警察を兼ね,法院の無い島であれば,民事裁判を行うほか,軽微な刑事事件も即決裁判を開催します.
 法院は1922年の勅令第133号南洋群島裁判令によって設置され,高等法院,地方法院の二審制となっています.

 教育は内地人については,内地と同様とし,島民に対しては,初等教育機関として本科三年,補習科二年の公学校を設置します.
 授業の半分は日本語の習得に充てられましたが,五年でも平仮名が書ける程度でした.

 自治体は1931年に,南洋庁令第七号南洋群島部落規定により,部落と言う自治体が置かれ,総代を長官が任命し,総代の諮問機関として,協議会を置きます.
 協議会員は,独立の生計を営む25歳以上の男子からの完全普通公選制です(但し,選挙民は内地人のみ).
 島民に対しては,1922年の南洋庁令第三四号南洋群島島民村吏規程により,島民を村吏に任命,カナカ族は総村長,村長,チャロモ族は区長,助役を設置しています.

 1938年には勅令第224号南洋群島地方費令が公布,南洋群島は一つの自治体となりますが,諮問機関,議決権は設けられていません.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

なぜ第1次大戦が,日本において理研を創設する契機となったのか?


 日本の産業構造が脆弱であることを思い知らされ,また第1次大戦が科学戦となった結果,日本でも科学力の増進が意識されたため.

 以下引用.

この大戦勃発こそが,高峰,桜井らの宿願を果たす決め手となるのだから,世の中は分からない.

 生活,産業の必需品である医薬品や工業原料のヨーロッパからの輸入が,極めてシビアに制限されてしまったのである.
 とくに,当時世界最強の工業国だったドイツからは全く途絶した.
 この衝撃は大きく,今となって日本の産業構造がいかに脆弱であるかを思い知らされたのだ.

 それに大戦は,毒ガスや潜水艦,航空機などの新種兵器を続々と出現させ,今後の戦争が軍事力のみならず,産業,経済,技術を一丸とした総力戦であることも知らしめたのである.

 この年10月,この状況を憂えた高松豊吉を会長とする工業化学会は,政府に「化学工業の発達奨励に関する意見書」を提出し,農商務省もこれに応えて,高松,桜井〔錠二〕,池田〔菊苗〕らをメンバーに含めた「化学工業調査会」を設置した.
 その第1回の会合で早くも,従前の高峰譲吉案とは別個に「化学研究所」の設立案が持ち上がり,直ちに農商務大臣に建議したのである.
 こえて4年3月,第2会の調査会会合では,「化学研究所」だけではカテゴリーが小さ過ぎるから,物理も加えて「理化学研究所」とすべきだという意見が,調査会委員の中から出てきた.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.43-44

 ところが大戦が終わってみたら,日本の脆弱な産業界でもそこから一儲けできた国内外の新規急造マーケットは,たちまち巻き返してきた欧米からの優秀な製品によって駆逐され,裏返しの不景気が襲ってきた.
 寄付金はつきあい程度に終わって,寄付申し込みをしながら未払いの者も残したまま,財界の財布は堅く閉じられた.
 一方で,インフレの昂進もある.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.51

 その後,なんとか理研は発足するが,「理研ビタミン」発売によって一財産をこしらえるまでは,予算に苦しむこととなったという.

 ひるがえって第2次大戦後の文部省予算の推移は,……見なかったことにしよう.

第一次大戦の時もいわゆる大本営発表と言うのはあったのでしょうか?

比喩表現としての大本営発表か?だとしたらあったと言わざるを得ない。
戦時下の報道なんてのは自由主義、報道の自由が許された社会においても正確、公正である保証は無い。
特に酷かったのがソンム戦におけるイギリスの報道。
50万人以上の損害を出して、僅か10kmそこら前進しただけの戦いで「情況は有利に進んでいる」ってのはどうかしてる。
流石に戦後に政府は謝ったがな。
他にも末期に流行したスペイン風邪の被害状況は、アメリカ以外ほぼ隠蔽されていて正確な被害状況が分かってない。
(497:343)

第一次大戦で使用された砲弾の数は第二次の時より多かったそうですが、本当なのでしょうか?

丁度、速射砲が野戦で使用されたのが第一次大戦だったから。
有名どころでフランスの75mm。
これで時間単位の投射量が7~8倍になった上に、網の目のような鉄道網による潤沢な補給により、
文字通り砲弾の雨が戦場に降り注ぐ事になった。
しかし、これが原因で塹壕戦に移行した為に効果が落ちてしまった。

それと、塹壕に攻勢を掛ける前に大量に砲弾をぶっ放すんだけど、大抵は失敗する。
すると、責任者は口を揃えて「砲弾と攻撃精神の不足」をその原因としたがる。
効果の薄い砲撃をしまくるから、砲弾が不足する。
それを補充せざるを得ないと言う悪循環が大量の砲弾製造へと繋がっていった。
(501:289)

第一次大戦で日本陸軍がたまげたのは弾薬を使用量である。
消費される弾薬は日本の国力では到底賄えないものであり、日本の一カ月の弾薬生産量分が、西方戦線では一日で消費された。
また、次々と生み出される新兵器についても苦悩した。
やはり日本の国力では十分には充足できず、ハード面ではなく主にソフト面を改良して対応することとなる。
(第一次大戦スレ:8)

WW1って民間人を巻き込んだ大戦争でしたが、偶発的なことを除いて、民間人を殺して生産力を下げる目的の攻撃なんてありましたっけ?

後方に対して生産力を下げさせるほどの攻撃を行う能力はありませんでした。
そうではなく、安全と思っていた自国の中心に対して被害を受けることで戦意を喪失する、
民意が離れる効果を狙っての戦略爆撃です。
とはいえ、戦争が戦線に留まらなくなった、もはや銃後はない、という認識は衝撃的であり、
参戦国の多さと併せて「世界大戦」の名が産まれました。一部では「最後の戦争」とすら
言われていたのですが、すぐに「その1」に格下げされてしまったわけで。
(360:758)
そのほかの回答に付け加えるなら、ロイヤルネイビーによる海上封鎖。
これは、ドイツの銃後の経済…ひいては戦争経済に大打撃を与えた。
さらに、戦争末期にはドイツ国内は栄養失調に倒れる国民も出てきたし、乳幼児死亡率も極めて高いレベルになった。
しかも、停戦してからも、この海上封鎖はしばらく続き、国民生活を相当に悲惨なレベルに押し下げている。
(360:762)
ついでにいうと、WWIがそれまでの戦争とちがう総力戦と呼ばれるのは、
民間人の死亡というよりは「生産・補給し続けなければ戦争ができなくなった」という点が大きい。
それまでの戦争って原則的には戦争前の備蓄+現地調達でなんとかなってたんだけど、
兵力の膨大化・弾薬の消費量の劇的な増加・長期戦化で、後方でも全力で兵器・物資を生産し続けて、
前線に送る輸送網を整えないととてもじゃないがやってられなくなってしまった。
(360:771)

ガリポリ上陸作戦が上手くいかなかった何で?

半病人のトルコごときに戦艦まで持ち込んだイギリスが負けるってのが信じられないんですが。
事前に上陸が察知されていた。
ゆえに、防御態勢が十分に構築されていた。
上陸機材が不十分で、効率的な上陸が出来なかった。
ゆえに、戦術レベルでも奇襲効果がなかった。
機材不足で十分な重火器・輸送手段が揚陸できない。
本格的な要塞に、あの当時の軍艦では勝てない。
ゆえに、火力支援が不十分。
地形的に内陸との高低差があり、防御に有利。
トルコ側にケマルという有能な指揮官がいたこともあり、失敗に終わった。


まず、上陸地点の秘匿が全然なされていなかったこと。
編成された軍団名が「コンスタンチノープル遠征軍」と称されていた事からそれが窺える。
その為、トルコ軍の堅固な陣地に真正面からぶつかる羽目になった。
上陸予定地点のガリポリ半島の兵用地誌も、トルコ軍の情報も殆ど調べていなかった。
そんな感じで全くの準備不足だった。

次に頼みの綱の戦艦は機雷を恐れて緒戦を除いてあまり有効に働けなかった。
旧式とは言え触雷で沈没1、損傷3の被害を受けた。

また、当時は大発等の上陸用舟艇はまだ存在せず、重装備の揚陸が出来なかった。
前述の堅陣と併せて突破不可能な膠着した陣地戦と言う第一次大戦のお決まりパターンに陥ってしまった。

後、トルコ自身も連合軍の倍以上の損害を受けており、勝ったと言い切るには少々語弊がある。
敵の戦略目標を阻害したという点では間違いなく勝利だが。
(547:641,642)

第1次世界大戦ごろのドイツは軍部の力が強く、第2次世界大戦ごろの日本と同じだったというのは事実ですか?

軍部の力が強かったら、皇帝の趣味で大艦隊が建造されないと思うが。
最終権限は皇帝が握っていたし。
でもシュリーフェンプランの暴走は皇帝の制御を超えてしまっている。ヴィッキーも
無理矢理にでも止めろよと思うけど。あと、戦争後期はヒンデンブルグ&ルーデンドルフが
独裁体制に近い権力を得ていた、とは教科書的には言える。かといってそのコンビが
皇帝をガン無視していたわけではない。実際の細かい政治メカニズムの解明は難しいと思う。
ドイツではないけど、プロイセンは軍隊を持った国家ではない、国家を持った軍隊だ、とは
俗によく言われる。
だらだら結論の無い文章ですまね。けど確かなのは、WWII日本とはだいぶ異なると思うよ。
(558:90,95)

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