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ノモンハン事件 - (2019/01/21 (月) 18:11:21) のソース

#CONTENTS
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**ノモンハンで捕虜になった陸軍の士官は捕虜交換で帰ってきた後、自決を強要されたというのは本当ですか?
たぶん原田少佐と大徳中尉の事ですな。ちなみにこの二人の最後については 
「おたがい向き合って同時に拳銃を発射して死んだ」 
「毒薬をあおって死んだ」 
「自決に同意せず謀殺された」 
など諸説あってはっきりしません。 

ノモンハン戦で捕虜になった士官たちへ 
の過酷な処分の背景には第1次上海事変(1932年)で捕虜となりのちに自決 
を強要された空閑(くが)少佐事件における国民の反応が大きいと思われます。 
空閑少佐の自決のニュースを肯定的に受けとめる国民が大勢を占めた事から 
第1次世界大戦時までの「捕虜となった将兵は予備役編入」という不文律をより 
厳しいものにしたものと思われます 
#right(){(捕虜第一号:28)}
**日本軍はノモンハンでT-26やBT-5、7といったソ連戦車を捕獲できたのでしょうか?
1台、2台くらいの鹵獲ならあったかもしれませんが、M3軽戦車のように
小隊やら中隊を構成できるくらいの戦力には成ってなかったと思います。

鹵獲しても輸送する手段はなかったでしょうし、精々、戦力分析用と言うのが関の山だと思います。
あるいは現地部隊がそのまま員数外の兵器として使用して撤退時に破壊するのがオチでしょうか。
#right(){(32:眠い人 ◆ikaJHtf2)}
**ノモンハン事件のとき、日本軍は火炎瓶でソ連の戦車を撃退したという記事を読んだことがありますが、信じられません。本当なんでしょうか?
本当です。運良くエンジンルームに命中させる事が出来たばあい、吸気口から
火炎を吸い込み、ガソリンエンジン車は最悪爆発を起す事が有ります。

爆発しなくとも、エンジンの部品の中で熱に弱いところ(エアフィルターとか
ホースとか)をダメにして動けなくする、燃料漏れさせて引火させる、などの効果が期待できます。
#right(){(42:914,916)}

**ノモンハン事件の日本軍の戦死者、実態を教えてください。
ノモンハン事件での
日本軍総兵力:約75000・戦死行方不明:約8600・負傷者約17700
よって戦死約11パーセント、死傷者だと約35パーセント。

ソ連・モンゴル軍は総兵力約75000・戦死約8200・負傷約16600
死亡率約11パーセント、死傷率33パーセント。
ソース=NHK出版『ノモンハン 隠された戦争』

数字を見ても分かるとおり、一見互角の勝負に見える。
それでも日本は何一つ得るものなく退却、負けたわけだが、
その要因は一言で言って関東軍の上層部の無能にある。
辻参謀あたりがDQNの代表。
ゲームなどの世界では同数の兵力で同数の損害の場合、
引き分けとなるが、現実の戦争ではそうはならないという良い事例だろう。
#right(){(44:245)}

**ノモンハン事件実は日本の引き分け以上説のソースを探しています。誰か教えて下さい。
戦死者はソ連の方が多かった。
日本は肉弾特攻だったが。
秦郁彦とか中村あきらとかがことによれば日本の勝ちだったと言ってる。
戦略がどうかは聞いてない。
#right(){(57:444)}
ノモンハン事件

戦死者
日本約16000人、ソ連約22000人。


『ノモンハンの夏』より。
#right(){(57:447)}
ノモンハン事件(ハルハ河紛争)

ソ連側の人的損害

    損害の状態       将校  下士官  兵     全体  
戦場死及び後送段階の死  1063   1313  4455    6831

  戦争・軍事行動及び軍事紛争におけるソ連軍の損害・統計調査

     監修  ゲー・エフ・クリヴーシェヴァ 軍事学修士・陸軍大将

          モスクワ・軍事出版社  1993年より
#right(){(57:450)}
450の数値は本物だよ、ただモンゴル軍が入ってない。
戦死6831人、行方不明1143人、戦傷15251人、
戦病701人、モンゴル軍の死傷者を加えると24492人
これは最近の秘密指定解除によって公表された数値。
戦死者と死傷者は違う、という点も忘れずに。
#right(){(57:453)}
好意的に見ても引き分け。客観的に見れば日本の負けなのだが→ノモンハン事件

日本が負けの判定理由
①日本側から停戦の申し出がなされている。
②損耗率は日本の方が著しく高い。
 (第23師団だけを見ると、76%と言うトンデモナイ数字) 
#right(){(57:454)}

**ノモンハンに関する既述については「ノモンハン会」の書いたもの「だけ」が真実に近いという話を聞いたのですが、本当でしょうか。
ノモンハン戦の「真実」については、未だによく判らないと言うべきでしょう。
ソ連・モンゴル側の損害については、ソ連の崩壊により、今までの公式発表より
大きな数字が出てくるようになりましたが、これについても実数にほど遠いとの
説、これが正確な数字とする説があり、結論は出ていません。
「ノモンハン会」の主張についても、当事者だけが知ることのできる「真実」も
多いでしょうが、当事者故の「主観」が入っていることは否めません。
人間誰しも自分のやったことは大きく見せ、失態は隠したい物ですから。

損耗率については、計算の違いによって数字が異なってくるので、何ともいえま
せん。ただ、30%とは当初からの生き残り+補充と定員の差から割り出した数字
でしょうから、こちらの方が非現実的だと思います。
#right(){(90:79)}

**ノモンハン事件は何で「事件]なんていう軽い呼び方なんでしょうか?
ノモンハンに限らず局地的な紛争は結構あって「戦争」っていうと国内外的に
マズいので「事件」ないし「事変」って逝って誤魔化した。
#right(){(96:159)}
モンゴル・ロシアでは「ハルハ河戦争」っていうぞ。>>ノモンハン事件
#right(){(96:160)}


**ノモンハン事件で日本軍はぼろ負けだったって習ったんですけど、ソ連軍のほうが損害ずっと多いんですよね? 
>日本軍のほうが勝ったんじゃないの? 
勝敗はキルレシオでなく戦略目標の達成如何で決まる。 
ソ連の戦略目標はポーランド侵攻に先駆けて今後日本がちょっかい出さないようにすること。 
そしてそれは達成されている。 
日本の戦略目標は日本側の主張する国境線に確定することだが、 
ごく一部を除いて達成できなかった。 

個別の戦闘を見ても、日本の戦車はまったくソ連戦車に歯が立たなかった。 
日本戦車の損害が少ないのは、総数が少ないのと、修理した数を差し引いてるから。 
日本戦車の砲弾は、弾丸が割れたり、避弾径始に滑らされたりして、 
カタログどおりの効果が無かった。

ノモンハン事件での,日ソ両国の戦略目標は
大日本帝国:満蒙国境線をハルハ川とし,満州領内に侵攻せる蒙古軍及びソ連軍を撃退すること. 
ソヴィエト連邦:満蒙国境線をノモンハンとし,蒙古領内に侵攻せる日本軍を撃退すること. 

指揮官のその後を見れば分かる通り、小松崎師団長は詰め腹を切らされてるが、ジューコフは出世してる。 
#right{(491:848-858)}
**ノモンハン事件で、どっちが土地の勘定では得をしたのでしょうか?
>ノモンハン近くの国境線は日本側に不利になったけど、宮崎連隊が活躍したおかげで別の地域では日本側に有利になったと聞いたのですが、 
秦郁彦は、ノモンハン付近でモンゴルが得た領土と、 
モンゴル側が失ったとする領土「500平方キロ」を比べて、「差し引きすれば大差ない」とします。 
(秦「昭和史の謎を追う」) 
ただ、この本に載ってる地図を見た限り、日本側が占領した面積が500平方キロもあるようには見えず、 
ノモンハン付近で失った部分のほうがずっと大きく見えるような。 
日本側が得たのは、下の地図の右のほうで国境が川に接するあたりと、地図の表示範囲外の右下のあたりいくらか。 
ざっと探したところでは、ネットではいい地図が見つかりませんでした。 
http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/File-nomunkhan1.jpg 
#right{(531:950:◆yoOjLET6cE)}
**ノモンハン事件でのソ連機械化部隊は壊滅的被害だったの?
ノモンハンのソ連機械化旅団は度々壊滅状態に陥って 
その度に補給を待って投入ということを繰り返したため 
当初の配備戦車が総とっかえさせられるほどの被害になった。 

日本側の損傷車両は半数が1週間以内に修理されて部隊に復帰してるが。 
撤退したのは貴重な戦車戦力を消耗させたくないという判断があってのこと。
#right(){(608:775)}
**ノモンハンの敗戦の責任を取らされて司令官とか部隊指揮官がことごとく予備役や自殺を強要されているのに、辻ーんがその後復活できたのは何で?
辻ーんも責任をしっかり取らされていますよ。予備役とまでいかないけど左遷されてます。
ただ、彼は陸大出でしかも将来、参謀本部の主要ポスト確実の恩賜の軍刀組でした。
陸大閥は当時、大きな力を持っていたので、その辺の絡みからそれらの人々と比較したら彼の処罰は激甘でしょうね。
その辺はクーデター騒ぎすら不問にする身内に甘い陸軍の腐敗体質と言うか日本人の性質と言うか。

辻の凋落と復活の経緯を書くと、
彼はノモンハン事件の責を問われ1939年9月に第11軍司令部付を経て 、支那派遣軍司令部付に飛ばされています。 
司令部付というのは正式な参謀と異なり、特定の業務を持たない閑職、ぶっちゃけ窓際族です。
ここで東亜連盟運動を推進して一騒動を起こします。
更に1940年8月に中佐に昇進し、「台湾軍研究部員」に転出します。
当時の主戦場が大陸奥地に移りつつある事をみれば暇な所です。
まぁ、大陸に置いておくと何するか分からんから、また飛ばされたのでしょう。
戦争が大好きな辻はそこで、半年間にわたって南方作戦の研究・立案に熱中するのですが、 
今まで対ソ作戦を主眼としてきた日本陸軍は、南方作戦については白紙同然の状況でした。
そのような背景もあって、辻は一躍南方通の評価を得ます。 

ところが天が辻の活躍を欲したのか、仏印進駐などで日米関係が急速に悪化。南方作戦が現実味を帯びてくると
一中佐ながら辻の書き上げた作戦計画書が、ほとんどそのまま採用される事になります。 
そして太平洋戦争が始まると、中央に戻っていた辻はマレー攻略を担当した山下奉文率いる第25軍の作戦主任参謀に抜擢されます。 
そこで辻は69日間でシンガポール要塞までを攻略する神速ぶりを発揮し、参本作戦班長に転任します。
その後の活躍ぶりは周知の事実と言う事で(w
#right(){(300:ue ◆WomMV0C2P.)}

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