いろは
『言語学大辞典術語』
日本語で,対立的に使用されるすべての仮名を重複することなく網羅した文字列の一つ.「以呂波」「伊路波」「色葉」などの文字をあてる.
いろはにほへと 色は匂へど
ちりぬるを 散りぬるを
わかよたれそ 我が世誰ぞ
つねならむ 常ならむ
うゐのおくやま 有為の奥山
けふこえて 今日越えて
あさきゆめみし 浅き夢みし
ゑひもせす 酔ひもせす
日本語で,対立的に使用されるすべての仮名を重複することなく網羅した文字列の一つ.「以呂波」「伊路波」「色葉」などの文字をあてる.
いろはにほへと 色は匂へど
ちりぬるを 散りぬるを
わかよたれそ 我が世誰ぞ
つねならむ 常ならむ
うゐのおくやま 有為の奥山
けふこえて 今日越えて
あさきゆめみし 浅き夢みし
ゑひもせす 酔ひもせす
全体に脈絡をもたせ,(7+5)×4の今様調に配列されている.弘法大師空海の作で,『(大般)涅槃経』の「諸行無常,是生減法,生滅々已,寂滅為楽」という偈の意味をとったものと俗間に信じられてきた.たとえば,「我が世誰ぞ」は,「この世にたれか」とでもある方が自然であるし,「夢見みし」か「夢見じ」か,という議論もあるが,厳しい制約のもとに一貫した意味をもたせるために無理をしているから,文法的破格とか多義性などを問題にしても意味がない.ただし,空海作という伝承は,この文字列が真言宗と深い関わりをもってきたことを象徴的に示唆している.
先行する文字列の「あめつち」よりも「え」が一つ少なく,仮名は47個である.「あめつち」の2つの「え」は,[e]と[je]に対応していたが,「いろは」は,[e](以下[衣])が[je](以下[江])に合流して以後の状態を反映しているとしたら,成立時期の上限が限定される.しかし,「いろは」にも最初の段階では[衣]に相当する仮名が含まれており,音韻変化が生じたあとに,それが削除された可能性も想定される.本来,「わかよたれそ」は{7}の句であり,原形が「わかよたれそ(え)/つねならむ」であったとすれば,今様として韻律が整っており,意味もとおるからである.
現存最古の「いろは」は,承暦3年(1079)抄本『金光明最勝王経音義』の凡例に,「先可知所付借字(まづ,付くる所の借字を知るべし)」としてあげられているものである.なお,そのあとに,「次可知濁音借字」として,濁音の4行が示されている(〈図〉).これを片仮名に置き換えると,次にようになる.
イロハニホヘト/チリヌルヲワカ
ヨタレソツネナ/ラムウヰノオク
ヤマケフコエテ/アサキユメミシ
ヱヒモセス
イロハニホヘト/チリヌルヲワカ
ヨタレソツネナ/ラムウヰノオク
ヤマケフコエテ/アサキユメミシ
ヱヒモセス
各行が7字ずつに区切られ,末行は5字である.ほとんどが大字と小字との組み合わせであり,各字に声点が加えられているが,「於(オ)」には小字がなく,声点も加えられていない.「於」「遠(ヲ)」は,当初,それぞれ,[o][wo]に対応していたが,[o]が[wo]に合流したことによって,どちらも[wo]に対応するようになったために,この「いろは」では,「遠」が主で「於」が従として位置づけていることが知られる..以上を要約するなら,「いろは」は48字として作られたが,[衣]が[江]に合流したために,[衣]に対応する仮名が削除された.しかし,[o]が[wo]に合流した時期には,「を」と「お」とが別々の仮名として使い分けられるようになっており,「お」の仮名は温存されて,仮名の種類が47字に確定した.
どの文献でも,助詞は「を」と書かれ,「思ふ」は「おもふ」と書かれていて,例外はきわめて少ない.頻用される語は音韻変化に順応していない.この事実は,仮名の綴りが固定する傾向にあったことを物語っている.「いろは」も,単純な表音文字の表ではなく,書記(writing)を基礎にしている.
「所付借字」とあるように,承暦本『金光明最勝王経音義』の「いろは」は,この音義の音注や和訓注に使用する「借字」の一覧表であるから,その目的に適合するように変形されており,したがって,文献資料としては最古であっても,これが,そのまま,その原初的な形であるとは見なしにくい.
この「いろは」では,各文字に声点が加えられている.文字の左下は平声点(低),左上は上声点(高)である.平声点を○,上声点を●で表わすと,大字の声点は次のように配列されている.
○○●○○●○ ○○○●●●●
●●○●○●● ○○○●●○○
●○○●○●● ●●○○●○●
○○●●●
○○●○○●○ ○○○●●●●
●●○●○●● ○○○●●○○
●○○●○●● ●●○○●○●
○○●●●
7字ずつに区切ったのは,それによって「色は匂へど~」という文脈を捨象し,上のように,意味をともなわないメロディーを新たにつけるためである.無秩序なメロディーのようにみえるが,○が23個,●が24個で,事実上,半々であり,しかも,剰余として末行を除けば同数の21個ずつになるから,明らかに意図的である.したがって,この「いろは」は,本文の音注や和訓に使用する借字を示すと同時に,全体に節をつけて詠唱するために使用されていたと認められる.これ以後,「いろは」は,真言宗に伝承され,さまざまなメロディーが付けられるようになるが,高低の配合の原理は一貫している.
この「いろは」のあとに,濁音の借字が「五音」の体系に従って示されていることは,「いろは」と「五音」とが一体として機能していることを証しているが,この結びつけは,和音で経典を読舗するための訓練ないし練習のための工夫であって,「いろは」を作成した目的が「五音」の機能を補うためであったことを直ちに意味するものではない.
「いろは」は,すでに行なわれていた文字列の組み替えであると推定される.具体的な過程は不明であるが,内容からみて,僧侶の手になると推定される.真言宗系では,経典の読誦や声明の練習のために,一定の抑揚をつけて使用されたが,『色葉字類抄』(12世紀末成立)以降は,仮名の規範的な文字列として字書の配列基準とされている.また,行阿の『仮名文字遣』(1363以後成立)以降の,『定家仮名遣』や,契沖の『和字正濫抄』(1695刊)以降の,いわゆる歴史的仮名遣は,いずれも,「いろは」四十七字の規範的な書き分けであった.さらに,教育の面では,「読み書き算盤」の基本とされて明治期に至っている.
[参考文献] 小松英雄(1979) ,『いろはうた』(中央公論社)