初期設定
【マップ】パンゲア
【サイズ】標準、海面低
【 速度 】迅速
【勝利条件】全て
【タイマー】超高速200
【オプション】全滅、技術交換なし
建国
BC4000年、当時フランク族とよばれた小部族が現在のパリの地に定住。フランスの建国である。
建国当時の風景
後世の歴史家はほぼ同時期に(今は無きものも含め)9つの文明が成立したことを自らの著書に記している。
初期立地
開拓と外交(BC4000年~BC300年)
建国と同時にフランク族は周囲の地理を調べるため若者達を派遣。ほどなく彼らはパリ北部にてジャングルに阻まれ、海岸沿いに東進を開始。しかし、相当な地域を探索するも言葉を解する他の文明に遭遇することは無く、ひたすらに野獣と戦闘に明け暮れるばかりであった。
その頃、フランク族は、風の噂に、ローマが周囲に広大な大地を有していること、インカが既に他の文明に包囲されていることを知る。その後直にフランク族はパリ北部にてローマと接触。これを皮切りにインド、ペルシャ、インカと次々に交渉を持つこととなった。その頃には東部の探索も終了し、東部及び南部に他の有力な文明が存在しないことが発見された。
東を目指して数ヶ月、遂に我々は海に辿り着いた。その時の興奮は今でも昨日のことの様に思い出せる。 この果てしの無い平原に、我々以外の居住者はいない。この大地は、我々に約束された土地なのだ。
周辺の地理を知ったフランク族長老はパリ南西の地に新たな都市を築くことを決定、BC2320年オルレアンを建設。この都市の建設により、フランク族はその東部に広大な未開拓地を保有することに成功した。
また、フランク族はオルレアン建設以前に、遠方の文明が仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教を創始したことを商人から知る。オルレアン建設に際し、未だ他の文明の位置を知らなかったフランク族は西方に分遣隊を派遣、ほどなくしてインド、ペルシャ、モンゴルの位置を確認した。彼らの報告によるとインドとペルシャ、モンゴルは互いに国境を接し、微妙な緊張状態にあるとのことであった。また、最新鋭のチャリオット隊はジャングルを突破し大陸北東部を踏破、ローマがフランク族以上の土地を有している事を報告してきた。
この報告を受けた本国では長老達が、遠交近攻を主張する親ペルシャ派、強力なローマ軍と共同し西方に歩みを進めようという親ローマ派、東方開拓を優先せよという親インド派、の3派に別れ激論を繰り広げた。その会議の中で親インド派の長老が述べた、 「我々には広大な土地が残っており、インドと領土を巡り争う必要が無い。しかし、距離があるとはいえ、ローマのプラエトリアンは十分に脅威である」
という持論が受け入れられ、インドに対し外交使節を送ることとなった。彼らはインドの王に面会しローマの危険性を主張、その同意を得ることが出来た。しかし、それと同時にインドの王はパリ西部にボンベイを建設する旨を通告した。この件に関して族長は近隣国との友好を優先、インドに対し反対しないことを伝え、外交団はインドを離れた。
ボンベイ建設にやや遅れ、BC1600年フランク族はパリ南東にリヨンを建設。これにより現代フランスを担う3都市が完成したことになる。リヨンの建設を最後に部族は一時拡張を停止、財政の健全化と軍事力の向上、技術開発を狙うことにした。
この頃のフランスから見た世界情勢
フランス:東部に未開拓地を保有、技術は中位くらいか。
インド:近隣の友好国にして仏教創始国。北にペルシャ、西にモンゴルで開拓の余地はないっぽい。潜在的な敵国。
ローマ:フランスより広い土地を国境で専有。現在の仮想敵かつ最終的なライバルと推測。技術的にも先行。儒教国家。
モンゴル:インドの西側の国。ピラミッド持ち。
ペルシャ:インドの北、ローマの西。たぶん大陸の中央部。現時点で交渉がほとんどないのが不安だが、地理的には脅威を共有できそう。
インカ:ケチュア発見するも本国はどこなのかわからず。かなり狭いらしい。
中国:接触は無いが早々にユダヤに創始。
スペイン・アステカ:全くの未知。
王国の成立と西方の動乱(BC300年~AD1265年)
BC300年、フランク族のうち、有力な一派が国王を名乗り、君主制に移行することを決定、現代まで連綿と続くフランス王国はこれを以てその成立となる。王は同時に奴隷制を採用、鉄の入手を目的とした都市、ランスをパリ東部沿岸に設立。現在ではその鉄鉱脈を活かし工業都市として有名なランスである。また、資料は失われてしまったが、フランスが寛大なローマ執政官より、中間のジャングル地帯の優先使用権が与えられたのもこの時期である。
こうしてフランスが徐々に発展を遂げる中、AD55年、大陸西方において古代最大の事件が起こる。インカ戦役である。
事の起こりは、文化的に優位であり、国境を圧迫していたペルシャに対し、インカが突発的に侵攻を開始したことであった。(なお、ペルシャの同盟国スペインがこの事でインカに宣戦したとフランス政府が知ったのは近年である)
スペインとの交流が無いフランス政府の調査班は、この戦争はペルシャ不利であると判断した。それを受け閣議ではペルシャに対し若干の軍事的援助を行い戦争を長期化させる方針を決定、直ちにフランス軍より徴募されたカタパルト2大隊を軍監と共に派遣、戦争の推移を見守ることにした。
軍監の報告書 各国からの義勇軍により、ペルセポリス駐屯の部隊は日増しに膨れ上がり、遂にはインカを国内から放逐しそうな勢いである。 また我々はペルシャ領内にてスペインと接近、彼らがインカに侵攻しているとの情報を得た。 近いうちに、この戦いは、ペルシャの勝利で終わるであろう。 私は、フランス政府は、その後世界がどう動くのかに十分注意すべきであると提言する。
大陸西部で激闘が繰り広げられている中、AD380年にフランスは世界に先駆けて哲学を研究、道教がオルレアンで創始される。今からは信じがたいが、国民がこの新たな宗教に熱狂し、国教として信仰されるようになるのはまだ先の話である。
ここに余は臣民の求めに応じ仏教を撤廃、道教を新たな国教に定めるものとする。 これはかつて国教であった仏教を否定するものではなく、仏教徒は以前よりの権限を有し、ゆめゆめ迫害の無きよう臣民に命ずる。 ~オルレアン公会議にて、当時の国王の発言~AD770年
AD590年、ペルシャ軍は遂にインカの首都、クスコを占領し、インカ戦役における勝利を決定付けた。インカ戦役の終結に伴い、大陸には久々の平和が訪れる…と人々は期待していた。
が。その願いは、未だインカ戦役が終わらぬAD710年、アステカのモンゴル侵攻により脆くも破られる事となる。
この戦争は壮絶なものであった。AD830年、アステカ軍カラコルム占領。それを受け、アステカの早期勝利を危惧したと思われるスペインがAD995年アステカに侵入。AD1040年、トラテロルコを破壊する。これに対しアステカはベシバリクを破壊することで応戦。モンゴルもまた、奇襲によりテノチティトランの破壊に成功する。これらはAD1055年、1085年のことであった。こうした激しい抵抗も及ばず、戦況はアステカ優位のまま推移し、AD1115年再びモンゴル軍別働隊がテオティワカンを占領するも既に時は遅く、AD1145年トゥルファンをアステカ軍が破壊し、組織的戦闘はここに終結した。最終的な終戦はアステカが失地テオティワカンを回復した1265年であった。
一方、当時の大陸東部では既にローマがフランスに対し軍事的優位にあり、更なる差の拡大を恐れたフランス政府はモンゴル政府の密使に対し遠すぎることを理由に派兵を拒否、西部への不介入の姿勢を鮮明にした。なお、フランスがアステカと遭遇したのは戦争開始直前のことであった。
このように西方では戦火が止まない中、AD965年にトゥール、1205年にマルセイユを建設し、フランスの開拓は終了する。また、それに先んじてローマが仏羅中間地帯にアレティウムを建設。この都市が後々にフランスを苦しめることとなる。
今日、フランスが北方に進出しなかったことを失策だったと非難する方は多い。 が、しかし、当時の情勢を鑑みるとやむを得ない決断であったと私は思う。 当時フランスはインドとローマの脅威を共有することで友好を保っていた。 その状況下で北方に進出し、インドとローマの接点を奪えば、彼らの接近を促す結果となる恐れは十分にあったのではないか。 史書~正史ではないフランス史~より
この頃のフランスから見た世界情勢
フランス:スコアでインド、ローマに次ぐ3位。やや技術先行。
ローマ:世界最大の面積と軍事力を持つ覇権国。スコア1位キープ。
インド:面積は狭いが技術的にはフランスと同じくらい。仏教キリストイスラム創始。遺産多し。スコア2位をフランスと争う。
スペイン:大陸西北部の強国。接触ないので動向が読めない。
ペルシャ:インカを吸収し大国に。大陸中央部を占める。
アステカ:戦争の爪跡が濃い。復活に時間がかかりそう。
中国:たぶんアステカの向こう側。未だ発見できず。
大陸の発展と戦火の足音(AD1265年~AD1650年)
この時代は大陸が久々の平和を謳歌し、急速に発展を遂げた時期でもあった。
現在でもこの時代を人類史上最高の栄華とする意見も多い。
インカ戦役から続く戦争にほぼ終止符が打たれた直後の1295年、フランスでは各国に先駆け自由主義という概念が考案される。またそれと同時に活版印刷術も開発された。当時まだアルファベットも文学も持たぬ粗野な民であったフランス人が活版印刷の技術を何に使ったのかは未だに中近世フランス史最大の謎とされている。時を置かずしてパリにて大技術者シナンも生まれたこの年はフランスの発展に大きな影響を与えた1年であった。余談ではあるが、当時大預言者の誕生を心待ちにしていたフランス国王は彼の誕生に激怒し、以後釈放されタージマハルの建設に多大な貢献をするAD1640年まで、345年もの間彼を幽閉した、というのは事実である。
AD1425年、未だ散発的に戦闘が続き、公式には戦闘状態にあったスペインとアステカが正式に和平条約を結び、世界から戦争というものが消え去った。当時の知識人は日記にこう書き残している。
王国暦1725年4月18日 今日という日は人類が戦争などという愚かな行為に別れを告げた日として永遠に記録されるであろう。 私は人類史上最も尊い出来事に立ち会うことができた事を感謝したい。
しかし、彼の願いも虚しく、この後世界は軍拡の道を歩むことになる。
かつてより軍事大国であったローマが更なる拡張を開始、フランス国軍の2倍近い軍事力を保有するにいたって、インド政府と協議の上フランス政府は国防上の観点から軍事拡張を開始、彼我の軍事力差を解消するため、近衛兵である銃士隊・擲弾兵の育成、カノン砲の開発、職業軍人制の導入などを実行、その政策は次第に軍国主義の色を強めていくのであった。また、インドも同様に軍事拡張を推進、国境では緊張の度合いが増していった。
この頃のフランスから見た世界情勢
フランス:技術でやや先行、インドとスコアで抜きつ抜かれつ。
ローマ:じわじわとスコアで他国を引き離しつつあり。軍事力はフランスを圧倒。
インド:軍事力・技術はフランスと同程度、世界遺産を多数保持。フランスよりややスコアが高いことが多い。
スペイン:大陸西北部の強国。一番遠いので利害関係は相変わらず薄い。接触も同様。
ペルシャ:ローマと国境を接するもう1つの国。盛んにフランス国内でヒンズー教を布教している。
中国:じわじわと軍事力が伸びてきている。大陸の反対側でローマの同盟国?フランス沿岸部を調査していた。技術的にも先行集団な要注意国。
アステカ:スペイン・中国・インド・ペルシャに囲まれつつ復興中。
列強のアステカ分割と世界大戦(AD1650年~AD1800年)
未だ各国の重要問題となっている大量のアステカ難民を生み出したアステカ分割はわずか45年の間に行われた。AD1650年にかつての戦争国スペインがアステカ領に再び進撃を開始、僅か5年でカリストゥラウアカを破壊すると、その直後にはペルシャが電撃侵攻、
旧モンゴル領カラコルムを占拠する。また、それに先立ってスペインはテオティワカンを占領、中国も参戦するに至ってこの戦争は列強によるアステカ分割の様相を呈し、そのままトラスカラを中国に、テスココをスペインに奪われ歴史の流れに飲み込まれていった。
一方、フランス政府は西方の動乱を横目に、重大な決断をする。外相レベルによるインドとの密談の結果、拡大を続けるローマ軍の脅威を取り除くべしとの意見で一致。また国民、内相、国防相もローマの脅威を認め、AD1725年、フランスは遂に6000年弱の不戦主義を放棄しローマ領内に侵攻、協議の結果第一目標となったアレティウムを目指し進撃を開始した。
国防総省戦闘計画の要旨 騎兵大隊にて強行偵察の後、擲弾兵大隊・カノン砲兵部隊を主力とする第1軍~第3軍はアレティウム南部にて友軍と合流、 インドと共同し同都市を攻略、以降我が軍はクーマイ占領を目指すものとする。 想定される作戦期間は3週間、期間中カタパルト大隊及び近衛銃士隊は首都で治安維持に当たり、不測の事態に備えること。 また中国艦隊の強襲揚陸に備え沿岸警備隊を新設する。各国駐在武官は特に中国の動向を注視せよ。
最新鋭の擲弾兵部隊・カノン砲兵隊を主力とし、40部隊を上回るフランス軍はさしたる抵抗もないままアレティウム郊外に到達、インド軍との合流に成功する。が、しかし、彼らがそこで見たものはアレティウムから溢れ出しかねないほどのローマ軍の姿であった。
「アレティウム一番乗りを果たした者は2階級特進とする」 最新鋭の兵器を持ち、常勝を確信した多くのフランス兵が名誉のため、地位のためアレティウムに殺到する。 が、しかし、彼らがそこで見たものは、あり得ないほどのローマ軍であり、地獄であり、 ―――その目に最後に映った物は空が暗くなるほどの石つぶてであった。
あれほどの精強を誇った我が軍も今や無傷のものは1人もおらず、而して敵は健在である。 既に損耗率は70%を超えた。ここで撤退したとて、誰が我らを臆病者と罵るであろう。 しかし、今引けば、パリが戦火に焼かれ、人々が傷付けられるのは必定。 ここで我々が戦わずして、どうやって彼らを食い止めるというのだ。 故に、我らに撤退は無く。 祖国のため、愛する人々のために戦い続けることを誓った。 …突撃ラッパが鳴った。もはや我らに援護はない。これが最後の出撃になるだろう。 願わくば、我が祖国に栄光のあらん事を。 ある騎兵の日記
短くも激しい戦闘の結果、フランス・インド両軍はほぼ壊滅、双方とも自国から予備役、急遽訓練された新兵を投入するも各個撃破され、世界には両国の悲鳴がこだますることになる。
そして、そのままローマ軍が両国を蹂躙するかと思われた1750年、ペルシャ・スペイン連合がローマ西部より侵攻を開始、翌1955年中国も参戦、ここに来て戦争はローマ対世界となる。この一報を聞いたフランス軍司令官は退却を決定、生き残ったフランス軍はパリを目指して撤退、なんとか追撃を受けることなく帰還することに成功した。パリに辿り着いた時、軍団はわずか騎兵部隊1大隊・擲弾兵部隊2大隊・カノン砲兵隊3大隊の6大隊であった。
さしものローマ軍も新たに参戦した3カ国を止める力はなく、AD1760年ペルシャがアンティウムを占領し覇権国争いから一歩後退、代わりにインドがトップの座に躍り出る。各国がこれを黙認するはずも無く、AD1770年中国がインド領カラチを破壊、かくして我らがフランスに覇権国の座が譲り渡される。国内で再編中だったフランス軍はインド国境にペルシャ軍を発見、侵入を許すもオルレアン手前にて撃破に成功、翌1780年にはスペインが手薄になったペルシャ後方都市を奪取。ここにフランス政府は覇権確立の為最終作戦を発動する。
軍事演習の名の下パリを離れた俺達は、そこで初めてこの「演習」の全容を知った。 目標は、ボンベイ。 それを聞いた時、驚かない奴はいなかった。 遥か昔、まだ文字も火薬も知らない頃からの友人インド、現在苦境にあるインドを攻撃し、その都市を奪うというのだ。 これは紛れもない裏切りだ。ローマに先制攻撃をかけた時はまだローマ軍の脅威という大義名分を唱えることが出来た。だが今回はどうだ。 ローマ戦線では軍靴を並べ、様々な資源を交易し、長年苦楽を共にしてきたインドを攻めるというのだ。 それが許されるというのであろうか。 インドの市民は裏切りを罵り、俺達に怒りを向けるだろう。当然だ。裏切りなど本来あり得ない相手が攻めてくるのだから。 だが、俺達はここまで来てしまった。今さら引き返すことは出来ない。 ……俺達は軍人だ。軍人は、命令に従うことが仕事なんだ。 1800年、公聴会にて、その時の様子を語る脱走兵(旧近衛銃士隊所属)
AD1785年にはフランスは古代よりの盟友、インドを裏切り、1795年にボンベイ、カルカッタを占領、ボンベイにて芸術家に大作を製作させ地盤固めに成功する。同年にはスペインが中国に、中国がペルシャに、それぞれ宣戦する混沌の中、世界は1800年の夜明けを迎えた―――
スクリーンショット集
1805年の世界の様子
各国国力の推移
各国軍事力の推移
おまけ
中国の揚陸を警戒して急遽製造された装甲艦艦隊
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堪りませんハァハァ --
-すげぇ 続編がんばってください --
-大変結構!歴史欲をそそられるぜ!ハァハァ --
-すげえ・・・最高だ。続き期待してます --
-更新乙です、やばい俺まだAD1000にもいってない、急いで続き書きます -- ローマ
-シナンは死なん --
-粗野な民に活版印刷、シナン幽閉 激ワロタww --
-活版印刷は絵に使われたのではないですかね。それはさておき、お疲れ様でした。極上の歴史絵巻を堪能させていただきました。 --
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