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2006年12月2日 無印 フラクタル220T(ロシア視点)

最終更新:

civilization

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だれでも歓迎! 編集

2006年12月2日



初期設定

マップ:フラクタル
サイズ:標準
速度:迅速
ターンタイマー:超高速 220
参加人数:10名

技術交換なし
全滅が必要にチェック

参加国とその初期配置

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文明の夜明け

詳細は定かではないが、サルから進化した人類が、幾たびの試練を経て大陸全土に広がり、狩猟・採取の獲物を追って移動する生活から脱し、都市に定住を始めたのが紀元前4000年のころだといわれている。このとき築かれた10個の都市が現在の文明の元になった。諸説あるが紀元前4000年が歴史の前の時代、すなわち先史時代とその後の文明時代とを分けるひとつの区切りとされている。本稿もそれに倣い、紀元前4000年を人類の歴史の始まりと定義し、この大地と大洋で繰り広げられた人々の営みを記述していくことにしよう。

開拓と探検 紀元前4000年~紀元前2320年


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後に西大陸(C大陸)と呼ばれる大地の果てに、ロシアという文化を持つ人々が都市を築いたのは紀元前4000年のことであった。ロシアとはかつてこの地を支配していた蛮族が、この大陸から切り離された半島を「ルーシ」とよんでいたところからつけられたと言われる。最初の都市「モスクワ」に移住した人々は自らの都市国家をソビエトと呼んだ。彼らは四方に探索隊を派遣する。北と南、そして東は海によって行く手を阻まれた。当時ソビエトの人々は、海を渡る手段を持っておらず、水平線上に薄く浮かぶ陸影をただ眺めるしかなかった。
西に向かった探検隊は、ソビエトと同時期に都市国家を成立させるにいたった二つの文明と出会う。ローマとイギリスである。

都市の建設 紀元前2320年~紀元前1240年

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紀元前2320年、ソビエトは第二の都市「サンクトペテルブルク」を建設する。この都市は半島の付け根の北側に位置し、ローマと国境を接することになる。その後、紀元前1240年に第三の都市「ノウゴロド」が建設される。サンクトペテルブルグの真南に位置するこの都市は、半島の南側の付け根に位置し、イギリスと国境を接することになる。ここでソビエトの支配地域から外へ向かう道はすべてイギリスとローマによってふさがれ、以後ソビエト本国はこの3都市を核に運営されていくことになる。このことは科学技術の発展や軍事力の増強において非常に大きなハンディキャップとなってソビエトに襲い掛かってくる。だが、そのことがソビエトという国を思わぬ方向に導いていくことになる。

海の向こうの隣国 紀元前1240年~紀元50年

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海峡を望む高台。
ここには漁に備えて、鯨やそのほかの魚の動きを見たり、雲の流れを見るための見張り台が設けられていた。
いまは日も落ち見張り台の男たちは思い思いの時を過ごしていた。 
「おい…」
男はそういって隣の男をゆする。
「なんだよ?」
ほろ酔いでうつらうつらしていた男が応じる。
一人目の男が海峡の先にある陸地を指差し言った。
「あ、あれ…」
彼らが見たのは紛れも無い、「町の灯」だった。


紀元前1180年、海峡の対岸にアラブ都市「ダマスカス」が築かれる。先に見える陸影は離島と考えていたソビエトの指導者にとってそれは驚きのことであった。彼らは急ぎ船を造り、あたらなる隣人に使者を送る。当時ソビエトが同じ大陸にいると認識していた文明は、日本、フランス、ローマ、イギリスであった。アラブのいる島が、自分たちと同じ大陸に属する離島であるのか、それとも複数の文明がいる大陸なのかこの時点では彼らはまだ知る由も無かった。

アラブから様々な情報がもたらされた。アラブのいる島は小さな島ではなく、複数の国がいる大陸、もしくは準大陸であるということ。ソビエトのいる大陸とはどこかで繋がっているのだろうか。これだけ近い場所で出会えるならばひょっとしたら繋がっているのかもしれない。だがそのことは調べる術は無かった。

海を挟んでいるという安心感からか、両国の関係は親密であった。通常、国境を接する隣国というのは得てして緊張が高まるものであるが、両国ともに渡洋作戦能力を持たないため安心感がもてたのであろう。都市の数が少なく、さらに都市の発展が遅れていてスコアではすでに列強から大きく離されていたソビエトにとって野心の無い隣国との付き合いは心の支えとなった。

だがその平安な日々も長くは続かなかった。紀元前860年。アラブの隣国アメリカがアラブに対して宣戦を布告。アラブ領内になだれ込んだ。アメリカはアラブの東側に国境を接する国だそうである。アメリカ軍の戦力は充実しており、紀元前825年にアラブの国境都市「メディナ」を制圧。首都、メッカを目指した。アラブの戦士たちが篭るメッカの守りは堅く、アメリカ軍は転進。海峡都市ダマスカスを攻略。紀元50年。ダマスカスを制圧した。

アメリカ軍とアラブ軍が死闘を演じているそのころ、ソビエトは半島の北に浮かぶ小島に第4都市「江ノ島」を建設する。紀元前615年のことである。隣国の戦乱はソビエトの指導者たちを震え上がらせた。何時何時(いつなんとき)自国が侵略にさらされることになるかわからない。そのとき最後の抵抗をするための都市を築いておこう。こうして江ノ島が築かれた。その後もソビエトは国土を要塞とするべく様々な政策を講じていくことになる。

滅亡と動乱 紀元50年~紀元1160年

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小高い丘の上に築かれた聖地「メッカ」
開戦以来幾度と無くアメリカ軍の攻撃を跳ね返していた。
長く続く戦争でアラブ・アメリカ両国の国力は疲弊していた。
「来たか。」メッカを守る兵士がアメリカ軍の軍勢に目をやる。
彼らの目に映ったのは、アメリカ国旗を掲げ進軍する「不死隊」だった。


列挙首位のペルシャがアメリカの後ろにいることを、アラブからの情報を通じてソビエトにもたらされた。国力から考えるとアメリカとペルシャの関係は対等ではないだろう。アメリカはペルシャの属国ないしはそれに類する関係であるとソビエトの指導者は認識した。アラブはペルシャにアメリカへの支援を止めるよう申し込むが効果は無かった。

アラブが破れれば、ソビエトは超大国の属国と国境を接することになる。江ノ島のほかに遠く離れた地にシェルターを造る必要を感じたソビエト首脳部は、移民船団を結成。西大陸のはずれの地に「半島要塞」を建設する。紀元500年のことである。

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紀元680年。長らく平穏に包まれていた西大陸に戦争が勃発する。戦火の発端となったのは、日本とフランスの国境紛争であった。紀元前20年ごろ、両国は国境線沿いに「江戸」と「リヨン」を建設。以後両国の間では国境線をめぐり緊張が高まる。戦争は日本軍がフランス軍を圧倒した。紀元800年「リヨン」占領、紀元1040年には首都「パリ」を制圧した。日本軍がパリ入城を果たしたそのころ、東大陸の戦場にも変化が訪れる。
東大陸ではアメリカ・アラブ戦争が最終局面を迎えていた。ペルシャの支援を受けたアメリカ軍の攻勢を幾度に渡って跳ね返し続けていたアラブ首都「メッカ」がついに陥落する。紀元前860年に始まった戦争は、紀元1160年にようやく終わりを告げた。これによりアラブはすべての国土を失うが、陥落前に首都を脱出した一部の人々が、アラブ亡命政府を設立。以後アラブは国土を持たない民として、長きに渡る放浪の道を続けることになる。

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次なる戦火 紀元1160年~紀元1205年

メッカ陥落と同時に、ソビエトは新たなる隣国アメリカと国交を開く。同時にアラブ亡命政権を承認、これまで通りの交流を確認する。アメリカとの相互通行条約を結んだソビエト政府は、探索隊を東大陸に派遣する。旧アラブの都市、アメリカの都市を視察後、探索隊はペルシャ国境に達した。すでに西大陸にも東の大国ペルシャのうわさは広がっていた。ソビエトは西大陸の国としては最初にペルシャと国交を樹立した国家となった。

ペルシャ首都「帝都」はその名の通り大帝国の都にふさわしい都市です。
帝都に比べたら「モスクワ」なんてまるで田舎の漁村!
ここには東大陸のあらゆるものが集まってきてるんです。
お買い物にいったら持ちきれないほど買っちゃうんで困っちゃいます。
(予算のこりすくないんで。送金お願いします。あとお土産は何がいいですか?)
帝都だけではありません。帝都の周りにあるペルシャの地方都市は
それぞれ皇帝から役割を与えられているそうです。
先日視察した「第二生産都市」はすごかったですよ。
石を積み重ねて造った巨大な建造物があるんです!
なんでもこれはお墓だって話です。このお墓を造るためにたくさんの人を
集める必要があったみたいで、その結果ペルシャではあらゆる政治制度が
発明されちゃったそうですよ。すごいですね!


ペルシャ政府から領内視察の許可を得たソビエト政府は、親善使節兼偵察使節をペルシャ領内に派遣する。使節団が見たものは、圧倒的なまでのペルシャの経済力、文化力、そして軍事力であった。

そのころの世界はどのような動きをしたのだろうか。時計の針を少し戻そう。アラブ首都メッカ陥落から少したった紀元1175年。ペルシャ帝国は隣国スペインに宣戦を布告。紀元1190年に「セビリア」を破壊。紀元1205年にコルトバを制圧した。西大陸でも同年日本軍がフランス都市「オルレアン」を占領。日本軍のオルレアン占領により、フランスの敗北は決定的となった。フランス政府は日本政府に降伏。フランス残党軍は南側にある未開のジャングルに撤退し、そこに新たなる根拠地を築くことになる。


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日の昇る大国 紀元1205年~紀元1265年

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西大陸における戦乱が収束に向かい、日本が西側の大国としての地歩を固めたそのころ、東大陸の戦火は拡大の一途をたどっていた。ソビエトの国営通信社であるタス通信がアメリカ、アラブ両国から得た情報によると、スペインはアメリカと同様にペルシャと不可侵条約ないしは同盟を結んでいたこと、その同盟はペルシャによって一方的に破棄されたことが明らかになった。また、インドは東大陸において独自の地歩を築いていることもあわせて伝えられた。各地からもたらされる戦況報告は、「ペルシャ軍が優勢」と伝えられていた…


至急 発ペルシャ北部特派員 宛ペルシャ帝都総局
ペルシャ軍、スペイン軍の防衛線を突破バルセロナに迫りつつありペルシャ軍の戦意は非常に高し。


扱注意 発スペイン支局 宛ワシントン支局 検閲注意 本国へ至急転送されたし
スペイン軍は自国領内に敵をひきつけ、侵攻軍の補給線の限界点をまつ焦土戦術を採用している模様。


緊急 発ワシントン支局 宛モスクワ本局
アラブ亡命政府アルジャジーラからの情報「インド政府総動員令発令」


ペルシャ軍は圧倒的な国力を背景にスペイン軍を圧倒。紀元1250年、スペイン都市「バルセロナ」が陥落する。

「インド軍参戦」 タス通信ペルシャ特班員レポート
バルセロナを攻略したペルシャ軍は後退するスペイン軍を追撃するが、突如戦場に現れたインド軍部隊に側面を突かれる。
当時戦場は霧雨が降り、視界が悪く、さらに追撃戦であったため、ペルシャ軍の隊列が前後に長くなりすぎたことが戦いの明暗を分けた。
インド軍はペルシャ軍を分断、退却中のスペイン軍も反転攻勢に転じ、ペルシャ軍を確固撃破。
開戦以来、後退に後退を重ねてきたスペイン軍にとって初の戦術的勝利であり、
ペルシャ軍にとっては今戦争における野戦において最大の戦死者を出した戦いとなった。
ペルシャ軍は、バルセロナに一時後退、インド・スペイン連合軍も深追いはせず、
スペイン首都マドリッドに帰還した。


紀元1265年インド政府はペルシア対し宣戦布告。これにより戦火は、東大陸北部すべてに飛び火した。

落日の王国 紀元1265年~紀元1445年

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バルセロナに後退したペルシャ軍は本国からの増援を得て再び進軍を開始する。目指す先はスペイン首都マドリッド。マドリッドにはスペイン・インド連合軍が篭り、ペルシャ軍を待ち構えていた。両軍主力同士が激突し、血で血を洗う死闘が展開された。マドリッドの近くを流れる川は赤く染まったという。後にマドリッド攻防戦と呼ばれる戦いの損耗率は実に80%を超えたという。

日の出とともに始まった総攻撃は、両軍一歩も引かず消耗戦の様相を見せていました。
このまま戦えばペルシャ軍もインド軍もスペイン軍もこの世から消えてしまうのではないかと錯覚するほどでした。
川は赤く染まり、大地も赤く染まりました。空気さえも返り血によって赤く染まったように感じられます。
感覚が麻痺したのでしょう。地獄のような光景を眺めながら私たちは平静でした。
戦局が動いたのは正午です。まずペルシャ軍が総攻撃をかけました。
地の利を生かしたスペイン・インド連合軍はこれを完膚なきまでに叩き潰しました。
勝敗は決したと多くの目撃者が思ったでしょう。しかし次の瞬間、
丘の向こうから接近するペルシャ軍の増援部隊が、マドリッドめがけてつき進んできました。
第一陣の突入は、増援部隊、つまり本隊から守備隊の目をそらすおとりだったようです。
数時間に渡る激戦の後、一度「勝った」と思ってしまったスペイン・インド連合軍に
もはや新手と戦う気力と戦力はありませんでした。
                       特派員の証言


ペルシャ第二陣はスペイン・インド連合軍を撃破。マドリッドに突入し、市街地を破壊しつくした。紀元1425年のことである。首都を制圧したペルシャ軍は掃討戦に入り、紀元1435年、スペイン最後の都市「トレド」を破壊。ここにスペインは滅亡した。
同盟国の滅亡により、戦争の大義名分をなくしたインド政府はペルシャと休戦交渉を開始、紀元1445年、両国の間に和平が成立した。
ペルシャ・スペイン戦争、東大陸北部戦争と呼ばれることになるこの戦争で、ペルシャは東大陸における超大国の地位を固めた。ペルシャの国力はアメリカ・インド両国の合計よりも上であり、西大陸筆頭の日本を大きく引き離していた。東西両大陸に平和が戻った。だがこの平和は次の大戦争の前の本当にささやかな休息期間でしかなかった。

急転 紀元1445年~紀元1645年

東西両大陸に平和が訪れていた。このころソ連はすでに軍事・技術力の面で他の列強諸国に大きく遅れをとっていた。ソビエト連邦による大陸の統一はすでに不可能であり、ソビエトがペルシャ・日本を押しのけ列強首位の座を射止めるのも夢物語となっていた。「大陸を分ける海峡に位置する小国」これがソビエトに対するもっとも客観的な評価であろう。このような情勢の中、ソビエト政府は、何時気まぐれな大国がソビエトの大地へ押し寄せてきても、侵略者の意思をくじくための舞台装置作りに代々勤しんでいた。江ノ島、半島要塞、そして世界各地の海に散らばる大船団。たとえすべての都市が廃墟と化し、大陸のどこにも生存の地がなくなったとしても、海の上で生き抜いてみせるという国家の意思を示していた。そして紀元1630年。ソビエト艦隊が初の世界周航を達成。ソビエトは海に生きる民であることを改めて世界に示した。
同時に世界各地に調査隊を派遣。「小国の生命線は情報である」との信念の下、情報収集に力を注いだ。

「世界の富はペルシャの「帝都」に集まるが、世界の情報は「江ノ島」に集まる。」


当時ソビエト商人たちの間で交わされたジョークである。ソビエトの人々は自らの情報収集能力に絶対の自信を持っていた。だが、歴史は彼らの思いもよらないところから突如として動き始める。

ワシントン発
アメリカ政府は世界遺産タージマハルの完成を内外に発表


誰もが気にも留めない一本のニュース。このニュースが歴史を大きく動かすきっかけになるとはこの時点では誰も気が付かなかった。
時に紀元1645年。再び歴史の神は人々の血を欲していた。

武器なき戦い 紀元1645年~紀元1710年

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ペルシャとアメリカは少なくとも当事者以外の人々から見れば強固な友好関係にあるように見えた。事実そうであった。かつてペルシャは、アメリカのアラブ遠征を強力に支援し、アメリカの勃興を演出した。またアメリカも、ペルシャがスペイン・インド連合軍と戦っているとき背中から討つようなまねはしなかった。すでにペルシャの軍事力は、二位の国と三位の国を足した数値よりも大きく、ペルシャは超大国の評価を確固たるものにしていた。次にその強大な軍隊が動くとしたら、北にあるインドを攻め滅ぼし、東大陸から反ペルシャ勢力を一掃するだろう。多くの識者はそう予想していた。

紀元1640年。ペルシャに若き皇帝が即位する。ペルシャ帝国では、即位した皇帝は「キュロス」と名乗ることが建国以来のしきたりとなっていた。新しいキュロス皇帝は、かつての先祖たちの夢、大陸統一の悲願を達成することを心に誓っていた。この過去にとらわれない若き野心家は、ペルシャの宮廷の誰もが、否、全世界の誰もが予想もしなかった方法で、自らの野望の実現に向け進み始めた。紀元1645年。彼の最初の一手が放たれる。そしてそれは全世界を震撼させた。

ペルシャ軍出師準備中の疑いあり。


ペルシャ軍の出撃準備は帝都をはじめ、ペルシャ各都市に派遣されている記者たちから情報が伝えられてきた。しかし、行き先まではわからなかった。また、そもそもこの軍団の移動が戦争を目的としているのか、それとも演習や再配置を目的としているのかさえも不明であった。ペルシャ軍の目的を最初につかみ、第一報を発したのはペルシャに派遣された記者ではなく、アメリカに派遣された記者たちであった。曰く。

ペルシャ帝国、対米宣戦布告。ペルシャ軍主力アメリカ国境を突破。


宣戦布告と同時に、声明が発せられた。それによると、「ペルシャ帝国は、強力に勃興してきたアメリカを脅威に感じる(タージマハルを造れるまでに発展したため脅威となった)。故に同盟を破棄し、アメリカを討つ」ということであった。
アメリカは陸路で国境を接するのは東のペルシャのみであり、開戦まではペルシャは同盟国であったため、国防力という面ではペルシャに対して完全に遅れをとっていた。アメリカ全土に総動員令が発令され、防衛準備を急ピッチで進め始めるが、ペルシャ軍の進行速度の前ではすべてが遅かった。

紀元1645年。ペルシャ軍「フィラデルフィア」に突入。市街地を破壊する。紀元1650年、インドが参戦するが、ペルシャ軍の総戦力を警戒したインド軍は博打には出れず、北方国境でにらみ合いを展開せざるを得なかった。このためペルシャ南方軍は後顧の憂いなく進軍。紀元1655年には「ボストン」を手中に収めた。

ワシントン発 緊急電
ホワイトハウス陥落


紀元1670年。ワシントン支局から全世界に短い一文が発せられた。近代的なペルシャ軍の前に長弓兵などを主力とするアメリカ軍は各地で敗退。ついに首都も陥落する。命からがら西大陸への脱出に成功した人々は「アメリカはもう終わりだ。」と口々につぶやいた。ソビエト政府にもアメリカの使節が訪れ、援軍を求められたが、ソビエト陸軍はアメリカ軍に負けず劣らずの旧式軍で役に立つとは思えなかった。しかしながら、このままペルシャ帝国を放置しておくことはできず、ソビエト外交部は日本、ローマ、イギリスへ接触を試みる。紀元1700年、メディナ陥落。1705年にはニューヨークもペルシャ帝国の軍門に下った。

西大陸の国々にとってペルシャ帝国は潜在的な脅威であったが、アメリカがペルシャ帝国の版図に飲まれれば、返す刀でインドも討たれ、東大陸はひとつの帝国の元に統一されるであろう。そうなればペルシャの脅威は潜在的なものではなく、現実のものとして西大陸にも降りかかってくる。その危機感が西側の国々を動かした。アメリカからの援軍要請に答え、日本、ローマ軍を主力とする連合軍が結成される。また兵員・物資の輸送を円滑に行うため、同盟国内で国境を完全に開放し、海上輸送の手間を極力省くため、二つの大陸がもっとも接近している場所、「モスクワ海峡」から東大陸に渡ることが決定された。
日本、ローマ両国で総動員令が発令され、編成の完了した部隊から続々と進発していった。またイギリスでは義勇軍の募集が行われた。イギリス義勇軍は正規軍と同様の赤服が支給され、編成が完了した部隊から順次モスクワ海峡へむけ進発していった。

しかし、ここで重大な問題が発生する。西大陸と東大陸は当然のことながら海によって隔てられている。だが、日本軍もローマ軍も、大軍を一度に輸送できるだけの海軍を保有してはいなかった。ソビエトを除く西大陸の国々は、渡洋作戦を想定した海軍を持っておらず、僅か数隻のガレオン船を保有するだけであった。両国に対し、ソビエト政府は、輸送力の提供を申し出る。

発 ソビエト海軍司令部・ソビエト商船局
宛 船長各位
現任務を放棄し直ちにソビエト海峡に集結せよ。


各国の軍隊が一路、モスクワ海峡を目指している中、ソビエト各港から伝令船が命令文を携え出航していった。すでにペルシャ軍はアメリカ臨時政府の首都がおかれているメッカをめざし進撃を開始しており、輸送の遅れが取り返しのつかない事態を招くことを誰もが懸念していた。
命令を受け、ソビエト艦隊が海峡に到着する。ペルシャ海軍の奇襲を警戒し、キャラベル船がペルシャ領海内に入り警戒を行い、フリゲート艦が海峡の南北の出入り口を固める。ソビエト政府は表向きはこの戦争には中立を維持しており、ペルシャの各都市にはソビエトの使節が退去勧告を受けることなく図太く駐留していた。紀元1710年。西大陸連合軍は順次海峡を渡り、かつてアラブとアメリカが激戦を繰り広げた難攻不落の都市。「メッカ」に集結した。

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(海峡に展開する輸送船団:主にイギリス軍とアメリカ軍に指揮権を委ねる予定の日本軍、ローマ軍の輸送を担当)
(ちなみに世界地図の右上のほうにある島にも殖民船団を送り出してしまったりしています)

ドーナッツ回廊攻防戦 紀元1710年~紀元1780年


大陸統一を目指し進軍するペルシャ帝国軍を迎え撃つべく、日本・ローマ・アメリカ連合軍と西大陸各地からあつまった義勇軍がメッカに集結した。アメリカ政府は後方の都市「ダマスカス」に臨時政府を構えたが、国防総省の臨時オフィスはメッカに設置された。アメリカはこの地より決して後ろに引かないとの意思を内外に示した。しかし、避難民に対して「逃げるな」ともいえるはずもなく、アメリカ政府は西大陸にあるソビエト都市「ノウゴロド」の行政権を租借。西大陸に拠点を確保した。

紀元1735年。ペルシャ軍、ドーナッツ回廊へ進軍する。

メッカの丘。望遠鏡をのぞく男の姿がある。
コーンパイプを銜えサングラスを掛けたその男は、
旧アラブ領に展開するアメリカ軍の最高司令官、かつての新領土総督であった。
本国が占領され、本土の防衛部隊が消滅した今となっては
彼が残存するアメリカ軍の最高責任者であった。
「なめられたものだな」自嘲気味にその男はつぶやいた。
開戦以来、アメリカ軍は敗退に敗退を重ね、本国を失い、ついにメッカにまで侵攻を許した。
そのことを男は頭に思い浮かべ、「まぁ。なめられるのも仕方が無いな…」とつぶやいた。
彼の副官が男の名を呼びながら走ってくるのが見える。
「いよいよだな」彼の心は昂っていた。「私は必ず、アメリカの地へ戻ってくる。」


回廊を妨害を受けることなく通過したペルシャ軍は、メッカ前面に到達した。

西日を浴びたメッカの建築物が金色に染まる。「きれいね…。」思わず口に出た。
それほどまでにメッカの歴史的建造物は神々しいまでに輝いて見えた。
大陸統一のために国力のすべてを戦いに注ぎ込んだペルシャ帝国において
女性士官はそれほど珍しいものではなかった。
歴史的建造物に興味を持った彼女が建築学の道に入り、その過程でペルシャ軍工兵隊に徴兵された。
彼女自身の望んだことではなかったが、皇帝の意思に反するものが帝国で生きていけるわけもなく、
命じられるままに従軍せざるを得なかった。
彼女の属する部隊の任務は、城壁や防備を無力化策や進軍路を確保するための架橋など多岐にわたった。
アメリカ領侵攻作戦が発動されてから常に先鋒の部隊に同行し、数々の功績を立てていた。
「できることなら、あの建物を壊したくない…。」
彼女の目の先には、メッカ各所に林立するモスクはかつてアラブがこの地に首都をおいていたころから残る
メッカの象徴ともいえる建物群があった。「え?」モスクの尖塔を見つめる彼女の視線がとまる。
「さっきまで、アレは…。なかったはず。」
先刻までメッカの各所には、都市を死守せんと待ち構えるアメリカの国旗・軍旗が林立していた。
いま、彼女の目線の先に、別の旗が翻っている。その数はどんどん増えていった。
メッカは、西日を背にペルシャ軍に対峙する。
白地に赤色の丸。
太陽をかたどったといわれる旗が、太陽を背にしたメッカの守護神のように翻った。
メッカから大地を揺るがすほどの鬨の声が上がる。


「全軍、突撃。」男の手が振り下ろされる。ほら貝の重低音が響く。
メッカの城門が開かれ、アメリカ軍、日本軍、西大陸義勇軍の猛者たちが飛び出す。
当初ペルシャ軍は、アメリカ軍の主力はすでに壊滅しており、
メッカに篭城するアメリカ軍と包囲戦になるであろうと想定していた。
そのため、野戦に対する備えを軽視していたことは否めない。
戦闘準備を知らせるドラムが響く。
突撃ラッパの音が重なる。
西の国よりきたサムライたちがペルシャ軍陣地へ切り込む。


紀元1735年。日本政府はペルシャ帝国に対して宣戦を布告。メッカにおいてペルシャ軍を撃破。
1760年にはローマも参戦。連合軍はドーナッツ回廊を突破、メディナへ迫った。


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補足説明
上地図の中で滲んで読むことが困難な記述があります。
右上の紫の文字「1750年前後インド軍南下」
右下のオレンジの文字「1735年-1780年ドーナッツ回廊攻防戦」


日本軍を主力とする連合国軍は、四散したペルシャ軍を掃討しながらメディナへ迫った。メッカに引き続きメディナにおいて、攻守を入れ替え、攻防戦が展開された。メディナ攻防戦では本国から増援を得たペルシャ軍が優位に展開。攻め手を欠いた連合国軍は、メッカへの後退を余儀なくされる。

メッカ・メディナ間で両軍がにらみ合っているころ、ペルシャ北側国境で新たな動きがあった。開戦以来にらみ合いを続けていた北部戦線であるが、南方戦線の流動化によって、インド軍に動くチャンスが生じた。インド軍は数こそ日本・ローマ軍に劣るが、第一線部隊に配備された装備はペルシャ軍とほぼ同等のものであった。このときペルシャ軍の主力は南方戦線において連合国軍と対峙しており、北部戦線は一部の守備隊を残すのみであった。

「歴史に「もしも」は禁物であることは承知しているが、ここではあえてそれを考えたい。
もしも、このとき南北の連携が取れていたら大陸の歴史はどのように変わったのだろうか。」


後世において、「連合軍のなぞの沈黙」に対し、多くの架空戦記作家がさまざまな
オリジナリティーあふれる物語を描き、多くの歴史学者がその歴史の裏にある真実を
現在も探し続けている。
この件に関し、唯一つ、多くの人々の一致する見解は、
「運命の女神はただ待つものに対しては決して微笑まない。」
という歴然たる教訓を後世に残したということであろう。


インド軍の南下を受けたペルシャ軍は、メディナにて連合国軍と対峙していた主力部隊を急遽北へ転進させる。当時、ペルシャ帝国の保有するほぼすべての機動部隊が対インド戦に動員された。南部戦線の要衝メディナも機関銃で武装したわずかな部隊が駐留するだけであった。ひとたび連合国軍が攻勢に転じ、メディナを突破すればどうなるか。このときペルシャ本国の各都市にはわずかな憲兵隊が駐留するのみであった。

ペルシャ帝国はもはや腐った建物だ。ドアを蹴飛ばせばすべてが崩壊する。


そういって攻勢を主張するものも連合国にはいたが、結果として連合国軍は、ドアを蹴飛ばすどころかノックすらせずに戦況を傍観し続けた。

ペルシャ帝国の軍事力が南北に分断されていることを前提に南下を行ったインド軍であったが、ペルシャ軍が全軍を北部戦線に投入したために、劣勢に追い込まれていった。ペルシャ軍の物量を前にインド軍は壊滅。その戦力の大半を喪失した。この戦いによって北部戦線の帰趨は決した。インド軍と連合国軍はペルシャ挟撃の機会を永遠に失ったのである。

急転 紀元1780年

紀元1780年。ペルシャ帝国は北部戦線でインド軍を撃破していたそのころ、南部戦線でも新たな動きが生じていた。

南部戦線の主軸を形成する日本とローマ。連合国に参加する両国にとってペルシャ帝国は大きな脅威であったが、仮に連合国軍がペルシャ帝国を滅ぼした場合、日本にとってはローマが、ローマにとっては日本が新たな敵国として立ちはだかってくるのは目に見えていた。また、ペルシャ帝国亡き後の東大陸において、インド・アメリカ両国が新たな帝国と台頭してきたのでは、新たな帝国の誕生に力を貸してしまうだけで両国の国益になんら寄与するところが無いのは誰が見ても明らかであった。かといって日本・ローマ両国がペルシャ旧領土を併合したとしても、遠すぎる海外領土は自国の国力を殺ぐだけで大きなメリットは望めない。戦後の世界情勢を憂慮するあまり、連合国は動けなかった。

遠い異国の戦場で膠着する戦線。目に見えた戦果が上がらず、ただただ人名と金銭が浪費されていく現状をよしとするものはそう多くない。

「日本の若者の血を異国の大地で異国のために流しても良いのか」
「我々の敵はペルシャなのか?」
「今回の戦争で儲けているのはどこだ?海上交易路を独占するソビエトではないか?」
「我々が戦うべき相手は誰なのだ?」


連合国内部に小さな亀裂が生じた。その小さな亀裂は、堤防に開いた穴のごとく広がり、ついに決壊する。

日本東大陸派遣軍司令部。ここにある地下会議室で最後の打ち合わせが行われていた。
「君たちは本当に戦端を開くと言うのか?それが何を意味するかわかっているのかね?」
司令官だろう。一座の中で最も階級の高い将校が確認するように言う。
「ええ」若い将校が答える。
「わが国の若者の血を遠い異国で流すことに、
しかもわが国とは別の国の利益のために流すことに不満の無いものはおりません」
その若い将校に発言権を委ねているのか、他の列席者は無言である。彼は続ける。
「この戦争は結局のところ、アメリカとソビエトを利するだけのこと。わが国が得るものは何もありません
仮に、戦に勝ったとしても、それは西大陸にインドとアメリカという二つの強国の誕生に力を貸すだけです」
「それはそうかもしれない。しかし、それは政府の考えること。我々軍人は政府の命に服すだけ。それが軍人の本分ではないかね?
それに、ペルシャ帝国をいま押さえておかなければ、アメリカを飲み込み、海を渡りソビエト、ローマを討ち
いずれ日本本土まで来ることは目に見えているのではないかな?」
司令官の男はそういって若い将校を見据えた。若い将校がそれに答える。
「政府の令に服することが国益に反するならば、我々軍部はそれを正すべき立場にあります
それにペルシャ帝国がいくら強大であろうとも、すぐにわが国まで迫っては来ないでしょう
我々は彼らが来る前に、彼ら以上の力を手に入れておけばよいのです」
司令官は彼の言葉を聞いてため息をつき、肩を落とした。
「衛兵。この男を逮捕しろ。抗命罪および国家反逆罪の容疑だ」
司令官の言葉に動くものは誰もいなかった。
「残念です。閣下。あなたを拘束させていただきます。ただいまより東大陸派遣軍の指揮権は私がいただきます」
若い将校は司令官にそう告げた。その手には拳銃が握られていた。



「全軍、戦闘準備」


西大陸、日本・ローマの国境地帯を移動する日本軍東大陸派遣軍に戦闘命令が下令された。兵士たちは戦場ははるか海の先と考えていたため下された命令に動揺が走る。命令が事実なら、彼らは昨日の戦友に対してこれから銃をむけることになるのだ。中級指揮官の中には、本当に正しい命令か上級司令部に確認に走るものもあった。当時、ローマ本国には治安維持を目的とした僅かな部隊が駐留するのみで、ほぼ全軍が東大陸に展開していた。いま日本軍が雪崩を打って攻め込めばどちらが勝つか、勝敗は明らかであった。同盟国の裏切り、中立国の軍事介入はないという前提にローマ軍は全軍を東大陸に派遣していた。西の脅威に対するため東側諸国の一致団結を想定していたローマの戦略は、この瞬間、幻想となって消えた。

「全軍、前へ!」


日本軍の砲火がローマ国境へ向けられる。
実戦部隊の行動を追認するように日本政府はローマ政府に対して戦線を布告。1780年。ここに連合国軍は空中分裂した。

西大陸の戦火 紀元1780年~紀元1820年


「何かがおかしい。」
国境を守備する兵士の一人がつぶやく。
通常であれば、いつもどおりの日常。当直開始から終了まで、何事もなくすごすはずであった。
今日が昨日の延長であり、明日が今日の延長である限りにおいては・・・。
今日彼の担当するゲートを通過するのは遥か遠くの異国の地で戦う日本軍に
補給物資を届ける部隊のはずであった。
だが、彼の持つ双眼鏡に写るそれは、完全武装の戦闘部隊であった。
通常の移動であれば、砲身にはカバーがかけられているはず。だが目の前に展開する部隊はカバーがはずされ、
通常の移動隊形ではなく、明らかな戦闘態勢をとりつつあった。
「訓練なのか?彼らは味方ではないのか?」
一瞬の躊躇の後、彼は信号弾に手を伸ばした。
その信号の意味するものは、「敵襲」。
だが、彼が信号弾を打ち上げるよりも早く、日本軍の砲弾が彼の体を貫いた。


日本軍は各地でローマ国境を突破。不意を付かれたローマ軍は壊滅的な打撃を受ける。ただでさえ、主力は遠い異国の地にあるローマ軍に有効な阻止行動が取れるはずもなく、紀元1790年にはネアポリス陥落。紀元1810年、クーマイ陥落。そして、1815年にはローマが陥落する。ローマ政府は日本軍の侵攻により東大陸の戦線維持は不可能と判断。ペルシャ政府と講和する。日本軍はペルシャとの講和を拒否。日本・ローマ両軍は東大陸から次々と引き上げていった。かくして戦場は2つに分かれる。東大陸のペルシャ対アメリカ。そして西大陸のローマ対日本。

日本軍の聯合離脱はソビエトに非常に大きな脅威と混乱を与えることになった。東西両陣営の間にたち、海を越える手段や情報を双方に供給することで生き残りを賭けているソビエトにとって、東西の2大国を事実上の敵に回してしまうことはなんとしても避けなければならなかった。当時ソビエト本国には守備隊らしき守備隊も存在せず、日本がローマを通過し、海峡の制海権を抑えるべくソビエト本国に侵攻してきたらソビエトはなすすべもなく蹂躙されるだけであろう。
政府は今後の対策を協議すべく議会を召集したが議場に参集したのは1/3以下と散々足るものであった。危機的状況を察知した多くの議員が中立国へ退避していた。国内にとどまった議員も保身のために出席を見合わせるか、中立国や日本、ペルシャとのパイプ探しに右往左往していた。

「大統領、このままでは定足数に達しません・・・。」
秘書官の申し訳なさそうに報告する。
「かまわん。大統領非常大権を使い議会を召集する。それよりもこなかった連中をリストアップしておけ。」
野党はもとより、否、野党陣営の出席率は比較的よかった。
それよりも、議会の2/3を占める与党議員の大半がことごとくどこかに消えうせてしまっていた。
「みていろよ、もし、戦後があれば、この裏切り者どもを議会から追い出して、今度こそ議会を正常化してみせる。」
自慢の髭をいじりながら、ソビエト連邦大統領ヨシフ・スターリンはつぶやいた。


ソビエト議会は、日本軍の侵攻に対して、本国失陥を念頭に入れた対策を立案した。一つが「半島要塞」のアラブ割譲。そこにソビエト守備隊を駐留させた。同様に、ペルシャ、日本、イギリス、フランス、ローマ、アメリカの主要都市すべてに友好親善使節を派遣。情報の収集を強化し、ソビエトを滅ぼそうとすれば、すべての国に宣戦布告しなければならないように体制を整えた。陸軍の主力は江ノ島、メガネ島に移し、開拓者を乗せた艦隊も外洋に退避させた。

その上でソビエト政府は各国に外交攻勢を開始。まずは、西大陸において日本・ローマに対抗しうる軍事力を持つ国、イギリスを動かすこと。それが第一の至上命題となった。だが、ソビエトが動くまでもなく、状況が激動する。
ローマ陥落により危機感を募らせたイギリスがソビエトに対し後背の安全保障を求めてきた。ソビエト政府は申し入れを承諾する。紀元1815年。イギリス軍参戦。紀元1820年、ローマを奪還する。

大洋を越えて 紀元1820年~紀元1875年


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西大陸の中央部では、日本軍、ローマ・イギリス連合軍による一進一退の泥沼の戦闘が繰り広げられていた。村々は焼かれ、田畑は軍靴によって踏み潰された。
紀元1830年、ローマ軍の反抗作戦により「アレティウム」を奪還。戦線を北に押し戻したのもつかの間、紀元1845年に行われた日本軍の反撃により、「ローマ」陥落。1850年に「アレティウム」を奪還される。

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西大陸の戦況が泥沼化しているそのころ、異国からの使者がソビエトを訪ねた。

船を貸してほしい。


そう切り出したのはフランスから派遣された使節であった。
過去の戦争で国土の大半を日本に制圧されたフランスは、ペルシアと組むことで、宿敵日本に対して一矢報いたいと考えているようであった。
ソビエト政府は要請を受け入れ、輸送船団をフランスへ回航する。
フランスに続いてペルシャからも同様の申し入れがあったのはそのすぐ後のことである。

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ペルシャからの申し入れにソビエト政府は躊躇した。ソビエト政府としてはペルシャがこれ以上強大になっては困る。だからこそ西大陸連合軍の輸送を手伝ったのだ。だがすでにインドは戦争の遂行が不可能なほど消耗し、アメリカもまたメッカの城壁を盾に、東大陸の南端に僅かな領土を保持するのみ。西大陸では日本、ローマ、イギリスが泥沼の戦いを繰り広げていた。連合国が瓦解した今、ペルシャ帝国を妨げるものはもはや地上には存在しなかった。東西両大陸の大国同士をぶつけ消耗させ、両国の中間でバランサーとして立ち回ることで生き残りを図るというソビエトの戦略は失敗に終わった。ペルシャの要請を拒否することはもはやできない。ソビエト政府は輸送船の供与を決断する。

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ソビエトより回航された輸送船は、ペルシャ有数の港町「第一経済都市予定地」にあるドックで近代化改修を施された。同都市に駐在する部隊からの報告によると、ペルシャ海軍は駆逐艦の実用化に成功。各艦隊に順次配備されているとのことであった。帆船の時代は終わりを告げたのである。それはつまり、ソビエト海軍の制海権喪失を意味していた。

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事実上、海の覇権をペルシャに奪われたソビエト海軍は、万一に備えペルシャ艦隊の主力部隊の監視を開始した。いつなんとき、ペルシャの無敵艦隊がソビエト本国やメガネ島へむかうかもしれない。
艦隊出撃の知らせを受けたとき、ソビエト政府の緊張は頂点に達した。史上最大の遠征部隊の向かう先。それは、ペルシャ皇帝の言のとおり日本へ向かうのかそれとも他国へ向かうのか。それを知る者は地上でただ一人、ペルシャ帝国の皇帝のみであった。

東京炎上 終わらぬ戦火 紀元1875年~紀元1900年


ペルシャ艦隊出港の報をソビエトは他国に伝えなかった。ここにきてペルシャを刺激することはソビエトの存続に重大な影響を与えかねない。現在、ソビエト政府が最も警戒していることは、ペルシャ・日本・ローマ・イギリスの列強各国が国際社会での影響力を増すために、ソビエトやフランス・アラブ・アメリカなどの中小国を併合する戦略をとられることである。頂上同士の全面戦争よりも効率的に国際社会での影響力を増すことの出来るこの戦略は、小国にとって悪夢であった。列強各国は列強同士で争ってほしい。それがソビエトの本音であった。

恐れられるほど強くなってはいけない。それは侵略の口実となる。侮られるほど弱くなってもいけない。それも侵略の口実となる。


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洋上 ソビエト海軍の偵察艦
「ペルシャ艦隊の針路に変更なし。針路は真西のまま変わらず。」
マストの上から見張り員の声が上がる。
「やはり西・・・か。」
艦長がつぶやく。
「いきなり中枢に殴り込みをかけるか。」
そう言って海図に目を落とす。海図にはペルシャ海軍の針路が書き記されていた。
艦隊の位置を示す駒の西側には日本の都市を示すマークが記されていた。


TOKYO -JAPAN


水平線にあった黒いしみがどんどん大きくなり、やがて海を埋めた。
紀元1875年。ペルシャ艦隊が東京沿岸に到着。圧倒的な海上戦力によって近海の制海権を掌握後、最新鋭の装備で身を固めた遠征軍が上陸する。
前線から離れた都市である「東京」には一定規模の守備隊しか駐留しておらず、ペルシャ軍の圧倒的な火力の前に東京守備隊は壊滅した。
東京攻防戦は戦闘としては小規模であった。しかし、東京攻防戦が後の歴史に長く名を残したのは、戦闘の後に行われたペルシャ軍による徹底的な破壊であった。
世に言う「東京の惨劇」によって建造物はすべて瓦礫と化し、そこに住む人々の多くは殺され、生き延びた幸運な人々も家と財産を失った。

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ペルシャ軍にとっては遠い異国の都市を占領するよりも、破壊してしまったほうが効率的であった。占領したら守らなければならないし、奪還されれば再び相手側の拠点として利用されてしまう。余分な占領地など不要なのだ。それゆえに遠征軍に出された指令は苛烈であった。彼らの通った後には瓦礫と死体しか残らなかった。

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東京を完全に破壊したペルシャ遠征艦隊は、地上部隊を収容し一路北上を始めた。目的地は「京都」。対する日本軍もペルシャ軍に対抗するべく首都に防衛戦力を結集する。首都の防衛体制をみたペルシャ軍は、急遽反転、一路南下を始めた。海上戦力を持たない日本軍は、ペルシャ軍の動きに対応することができず、首都防衛隊は遊兵と化した。
紀元1885年、ペルシャ軍は「竹島」を制圧。その後「鹿児島」を破壊した。

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紀元1885年、フランスが日本に宣戦布告。東回りで上陸したペルシャ遠征軍別働隊と呼応し、日本の側面をつくことに成功した。また、ペルシャ遠征軍別働隊のうち、アメリカ攻略部隊も目的地メッカに到達。守備隊と激戦を繰り広げていた。しかし、メッカに篭るアメリカ軍・義勇軍の守りは堅く、メッカ攻略部隊は壊滅する。

世界に広がる戦火は衰えを見せず。幾多の軍隊が行き来する平原は荒野と化した。

時に紀元1900年。世界はいまだ乱世の中にあった。

その後の世界 紀元1900年~


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(ここからはフィクションです)
この後世界はどのように動くのであろうか。
東西両大陸の主要部は戦乱によって徹底的に破壊された。特に西大陸中央部はローマ軍、日本軍、イギリス軍、フランス軍、そしてペルシャ遠征軍の泥沼の戦場となり徹底的に破壊された。ローマはすでに国家としての形態を維持することが不可能なまでに追い込まれ、日本もまた東京を始め主要都市を破壊されてしまった今大幅な国力の低下に見舞われていた。それでもなお日本軍は相当な地上戦力を保持しており、ペルシャ軍、イギリス軍と激戦を各地で繰り広げていた。
東大陸においてはペルシャ帝国が圧倒的な地位を確立したものの、長引く戦争と西大陸の遠征により国内の治安・経済は危機的状況までに追い込まれていった。ペルシャと国境を接するインドでも、ペルシャとの戦争によって国軍の大半を喪失。アメリカもまたメッカの城壁を堅守してはいるが、西大陸諸国の支援を得ることができなくなっている今日、戦列の崩壊は時間の問題かと思われた。

紀元190X年。ペルシャ遠征軍のうちメッカ攻略に当たった部隊の壊滅の知らせがペルシャにもたらされる。この情報は報道管制が敷かれたが、人の口をとめることはできず、このニュースは国民に知れ渡る。アメリカとの長きにわたる戦争は国民の不満を爆発させるに十分であった。各地で頻発する暴動は、憲兵隊や守備隊によって押さえつけてはいたが、紀元190X年、帝都において行われたデモに対して憲兵隊が発砲。大規模な暴動に発展した。暴動は各地に伝播。事態を重く見た政府は遠征軍を帰国させる決定を下す。

ペルシャにおいて発生した暴動はやがて革命となり近隣諸国にも伝播した。折りしもこの年は太陽黒点の活動が活発で、夏でも気温が上がらず、冬の寒さは一段と増していた。これにより農作物の不作を招き、北極、南極にちかいインド、イギリスに対して大きな打撃を与えた。戦争の直接的なダメージは軽微であった両国も食糧不足にはなんら有効な回避手立てを打つことができなかった。大陸中央部の穀倉地帯は戦災によって失われており、世界的な食糧不足に襲われた。

ペルシャで、日本で、イギリスで、「パンをよこせ」と民衆が立ち上がった。どの国においても中央政府の統制が不可能な状態に陥り、国家は都市を基準とした小規模な政体に分離していった。

ソビエトも例外ではなかった。紀元190X年、メガネ島が連邦の離脱を宣言。ソビエト連邦は解体した。

戦乱によって多くの命が失われ、その後の革命によってさらに多くの命が失われた。そして、その後は残された食料をめぐって命が失われた。
その後人類社会が再び安定を取り戻すのは300年の月日がたった後のことである。

                                    ~終~

ちなみにこれが江ノ島です

半島要塞と並んでソビエトを代表する観光地江ノ島

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竹島です

日本領竹島
日本の人も離島開発を行っていました。

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メガネ島です

ちょうどアメリカとペルシャが戦争を始めたころ、植民に成功しました。
三つある都市はすべてソビエト領です。

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メッカ周辺

メッカ、メディナ間にあるドーナッツ回廊は戦略上の要地として古くから数々の激戦が繰り広げられた古戦場である。

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あとがき


三作目ですが、なんとか終わることができました。最後までお付き合いいただきありがとうございました。ちなみにロシアことソビエトは一度も他国と戦火を交えることなく平和に過ごすことができました。
技術交換がなしになって以降、技術の取捨選択が重要になっているらしく、海軍関連の技術は後回しにされる傾向があり、他のゲームでも江ノ島や半島要塞のような地形の場所に都市をつくって攻め込んできた相手を驚かせたりしているきょうこのごろであります。(といってもここ数ヶ月まったくマルチには参加していませんが・・・)

それではまた別の歴史でお目にかかりましょう。

コメント欄

  • 実に面白い。今後に期待です --
    -江ノ島とか半島要塞とか作るセンスが好きです --
    -半島要塞とか維持費が怖くて自分には作れません>< -- afo
    -後で聞いた話ですが、フランスの人は半島要塞の向こう側に陸地があると勘違いしたそうです。 --
    -そりゃ、あんなところに都市が建設されたら、普通は「その向こうは陸地」と思うわなw --
    -wwwその後日談wwww面白過ぎwwwww --
    -水道橋が良いなぁ。うまいことハマってるw --
    -これがペルシアの蛮行によって破壊される島かwww --
    -おお、更新だ --
    -いいよいいよー。ここからどう絡んでいくのか楽しみにしてます --
    -シーパワーのソビエトとかソビエトじゃないwwwwww --
    -おもしろいなー。こういう楽しみ方もできるからマルチって楽しいよね。小国でも歴史に大きく絡む、みたいな --
    -ペルシアのレポと重ねてみるとより面白いなww --
    -実に読ませる -- @
    -レポがあがると更新されてるかとおもってしまうな --
    -おみごとです --

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