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2006年07月15日開始マルチ (モンゴル視点)

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2006年7月15日~16日


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マップ:パンゲア サイズ:小 迅速 ターンタイマー:超高速 参加人数:8名

参加国とその初期配置

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文明の夜明け

むかしむかしのその昔。歴史の始まるときでした。
名のない星に生まれた名のない文明が名前をもったそのとき。
ひとつの物語が始まりました。

紀元前4000年、モンゴル民族は第一の都市カラコルムに定住。この星の歴史に第一歩を記したと歴史書は伝える。ほぼ同時期に、この星の各地にいくつかの文明が成立。地質学的に誕生から46億年の月日をへて、この母なる星は文明を手にした。このことがこの星に生きる人類以外の生命体にとって望ましいことだったのか、いまだ答えは出ていない。

開拓と探検 海の向こうは? 紀元前4000年辺り~紀元前500年辺り

古文書によると、モンゴルは最初の都市を建設した後、周辺の地理を探るべく派遣したそうである。主にそれは戦士たちの役目であった。一隊は海岸沿いに南下し、もう一隊は大陸の奥地へと足を踏み入れていった。モンゴルの探検隊は大陸の中央で他の文明と初の接触を試みることになる。首都の北西にアステカ、南西にロシア、西に日本とドイツ。それぞれの文明との出会いは良好であった。しかしそれも長くは続かなかった。大陸中央の空白地を奪い合う中で徐々に各国の利害がぶつかり合ったのである。

紀元前3580年。モンゴルの北にある国。アステカでヒンズー教が設立された。続いて紀元前3460年にフランスのパリで仏教ができたそうである。そのことをモンゴルは大陸でであった他国の戦士や斥候たちから聞いた。宗教で遅れをとることは、文化的な劣勢のみならず、情報というきわめて重要なリソースを失うことにつながる。モンゴルの当面の目標はキリスト教の取得と決まった。

紀元前2380年。モンゴルは第二の都市ベジバリクを建設する。首都の南の川沿いに建設し、大陸中央への足がかりのほか、首都の南側の防壁となる。続いて紀元前1240年ベジバリクの南側の海岸線に第三の都市トゥルファンを建設した。これによりモンゴルは、南のロシアと国境を接することになる。

モンゴルにとってトゥルファンは断固として確保しなければならない土地であった。トゥルファンの近接地には馬を産出する村があり、固有ユニットが騎乗ユニットであるモンゴルにとって国防上なくてはならない土地だったのである。しかし、この都市の建設が、後に大きな災いを呼ぶことになる。

紀元前965年。第四の都市、寧夏を建設。外洋に面した都市である。通常の施設の建設後、漁船とガレー船の建造に取り掛かる。このときモンゴルの指導者にはひとつの疑問があった。それは、海の先に見える陸影の存在である。預言者によれば、この星の大地はすべてつながっているという。では、われわれの先に見える陸は何なのか?

預言者:大地はひとつだ!
長老:先に見えているのは幻じゃ。
若者:そんなことはない!ではあの陸地の影はなんなのだ?
長老:あの陸の影も大陸の一部。どこかとつながっているのじゃろう。
学者:もしそうならば、どこかの国の町の影が見えても良いのではないか?
政治家:では確かめてみよう。もしあの陸影が大陸の一部なら、まだ出会えていない国に出会えるかもしれない。

後世の歴史家はこの決断がモンゴルの将来を大きく決めた決断のひとつであると評している。

折衝・交渉・協力・疑心 紀元前500年辺り~紀元680

この時代、モンゴルの国境線は、南と西にロシア、北西にアステカと接していた。ロシアは序盤の大陸中央部争奪戦に勝利し、大陸の中央を確保していた。大陸の中央には金山があり、ロシアの栄誉をたたえているかのようであった。このときモンゴルは、ロシア・アステカをはさんで反対側にある日本とドイツに友好を持ちかける。この交渉は成功し、いくつかの技術をお互いに交換することができた。

紀元前405年、新都市オールドサライを建設。この都市もまた、海の先はるかに見える陸影をにらんでの建設である。しかし、相次ぐ都市建設でモンゴルは国庫が圧迫され始め、海の向こう側の探索は残念ながらできない状態になっていた。すでに完成している漁船は、探検ではなく貝の採取に使われ、ガレー船は造船予定のまま放置された。

このころ、わが国は国境線の70%を接する隣国ロシアに交渉を持ちかける。相互の国境の保全と技術交換。交渉は円滑にまとまり、以後両国はしばらくの間友好関係を維持することになる。 会談の後両国の大使はこう言葉を交わした。

将来、お互いの国がトップになったら、ロシアとモンゴルで決勝戦をやろう。

紀元前265年、キリスト教の開発競争に敗れる。以後、モンゴルは宗教政策とは無縁の境遇で過ごすことになる。また、このころ大陸の反対側で戦争が起きていたという。旅人の話によるとすさまじい戦争だったそうだ。

紀元170年前後、2隻のガレー船が探検隊を乗せ港を離れた。大地のなぞを解くために。

誤った推論を確かめるために、貴重な資源を費やすことに何の意味がある?
大地は一枚。島があったとしてもそれほど大きなものではないだろう。

探検隊の出発に際し、再び、政界・学会で島大陸論争が持ち上がった。だが、都市圏の広がりによって以前よりは沖合いまで見渡せるようになったモンゴルの人々にとって、遠くに見える陸影は、大陸の一部でもない、かといって発展の余地のない小島ではない。モンゴル最高意思決定議会まで持ち越されたこの論争は、一人の地質学者の演説で決着がついた。

確かめようではないか、この推論が大間違いか否か。確かめきるために動き出そうではないか。
推論し、仮説を立て、実験し、実証し、検証する。
こうやってわがモンゴルは発展してきた。モンゴルがモンゴルであり続けるためには、
確かめにいくことが必要でないのか?

二隻のガレー船はそれぞれ斥候を載せて、南と北にある陸へそれぞれ向かった。第一次探検隊が探索ユニットのみで構成されたのは、行く先で他文明に接触した場合、開拓者同伴では侵略行為と受け取られることを恐れたためである。

このとき、モンゴルの外交関係は、アステカとロシアに国境を接し、日本、ロシア、ドイツと交流をもつ。アラブ、エジプト、フランスの位置はつかめていなかった。しかし、フランスの斥候がかつて大陸に訪れ、交渉だけは可能になっていた。 今回の外洋探検でアラブかエジプトと接触できるのではないかと考えられていた。

第一次探検隊の報告は驚くべきものであった。モンゴルの沖合いに2つの島がある。大地は1つという定説が覆されたのである。すぐさま第二次探検隊の派遣が決定された。第二次探検隊は2つの島に恒久的な拠点を建設するべく、開拓者の一団も組み込まれていた。同時に地上と海上の双方から島のより詳しい情報を獲得するため第二次探検隊の帰還を待たず、第三次、第四次の探検隊が派遣された。 紀元170年、モンゴルは二つの島に都市を建設する。北の島にサマルカンド、南の島にニューサライ。新天地の開拓がついに始まったのである。

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紀元320年エジプトの吟遊詩人がモンゴルの町で詩を詠った。

エジプトの母なる土地はいまやエジプトのものにあらず
いまやエジプトの民は遠い異国の地にのがれたもう

モンゴルの指導者の目に、エジプトの姿は未来の自国の姿に映った。 モンゴルは、このときにいたっても、エジプト・フランス・アラブのおおよその位置すらつかめていなかった。ただ、ロシアとの外交を通じ、ロシアはドイツと国境を接しているらしいという情報を得たのみであった。

紀元600年前後。日本より外交使節がやってくる。わが国はこの時点で、日露両国と緩やかな軍事・技術連盟を結んでいた。仮想敵国はアステカである。日本の使者が言うには、日本・アステカ間の国境でアステカ側の圧迫が激しく、戦争で事態を打開するしかないという状況であるという。ロシアを交えて協議を行う。ロシアは他の国境線の安定が必要であるため積極的には動けない。モンゴル情報部の分析と日本からの情報を照合したところ、アステカは’遠くと結び近くを攻める”外交を展開しているようである。アステカとわが国の交流は、最初の一回を除き一切なく、顔の見えない隣国に対する不安も募っていたところでもあった。また、アステカは技術的にも進んでおり、このまま放置すれば大陸のパワーバランスに大きな影響を与える恐れがあった。日本とはいままで技術交流を行ってきた恩義がある。

モンゴル政府は開戦を決断した。 日露両政府に連絡する。「わが国は総動員令を発令。開戦準備中。」

日露蒙連合軍の主力となるのは日本軍。モンゴル軍はアステカの背後を襲う。ロシアは参戦するも、第3国の参戦阻止の外交工作を行うよう要請した。 モンゴル軍の攻撃部隊はケシク数10隊、カタパルト5隊、その他各種歩兵の混成部隊。 時に紀元680年、連合軍はアステカ国境に集結する。

戦乱と・・・ 紀元680年~紀元1070年

怖い。私の所属するモンゴル第3騎兵旅団は、今から連合国の先陣を切って国境をこえる。
怖い。
モンゴルにとって初めての対外戦争。
私も、私の部下も、私の上官も怖いのだろう。皆、黙り込んで国境の先を見つめている。
全軍の誰一人、実戦の経験ない軍隊。それが今終わろうとしている。
国境を越えた瞬間、私たちは、国防軍ではなく侵略者になる。
進撃ののろしが上がる。宣戦が布告されたのだろう。
もう、もどれない。                               騎兵隊青年将校の手記

紀元680年。モンゴルは日本・ロシアとともにアステカに宣戦布告。建国以来最初の戦争である。モンゴル指導層は、この戦争は日本・アステカ間の国境紛争が発端となったため、連合国それぞれの軍が国境に隣接する都市を確保の後、休戦するであろうと予測していた。

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戦争は思いもよらない展開となった。モンゴル軍はアステカの都市「大阪府」を大きな抵抗のないまま制圧した。アステカ軍主力は日本軍へ向かっているのだろうか?騎乗部隊を各地に派遣、アステカ軍主力の位置を探ったが発見できず。快進撃を続ける日本軍がついにアステカ首都を制圧した。いくつかの世界遺産を作成し、技術的にも進んでいた同国があっけなく蹂躙されたことは意外であった。緒戦の勝利を受け、モンゴル政府は日露両国に対して、休戦交渉に入ることを提案したが、両国からの回答は、「アステカは玉砕するらしい」との回答を受けた。 アステカ戦役終盤、モンゴル国政府の使節が、北の地に避難しているアステカ政府の要人を秘密裏に訪ねる。

信じられない光景だった。アステカの残存戦力は、最後の都市に篭城するだけでなく、
都市周辺の建物や道路を焼き払っているではないか。まるで地獄だ。
これが戦争なのか。そして、私たちは侵略者なのだ。
アステカの民は永遠にわれわれを許しはしないだろう。
私は、占領地の返還を条件に休戦したいと申し入れた。返答は、否であった。
この最北の都市で彼らは侵略者を迎え撃つ最期の戦いの準備をしていた。
攻撃軍が都市に迫る。時間切れだ。私は都市を後にした。  モンゴル外交官の手記

紀元995年。日本軍テオティワカン占領。アステカ国が滅亡する。 アステカの指導者の行方は誰も知らない。北極海峡に船で逃れ、モンゴルかエジプトにわたったとか、占領軍の兵士に殺害されたのかいわれているが、論争はいまだ決着がついていない。

戦後処理が始まる。アステカは技術先進国だったこともあり、わが国の占領地大阪府も非常にすばらしい都市であった。平和な時代であれば、工房で職人が槌とつき、市場では多くの商人が行き来したことだろう。 しかし、わが国がこの都市を確保した場合、旧アステカ領の大半を抑える日本と国境を接する可能性もある。また、占領都市をその占領者がそのまま保持した場合、ともに戦ったロシアの人々は決して快い顔をしないであろう。そしてまた、財政上の問題もある。破産するほどではないが、この都市にお金を使っては、島の開発に支障がでる。 結論は、この都市を第3者にゆだねることになった。幸い、終戦直前にエジプトより技術を求めて外交使節がモンゴルをたずねていたので、大阪府の譲渡と交渉を持ちかけてみた。交渉は円滑に進み、大阪府の譲渡について合意を得られる。同盟国にもその旨を通告し、問題はないとの回答を受けた。日本国もアステカ終焉の地テオティワカンをエジプトに譲渡。アステカ戦役はこうして終わりを告げた。

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平和、そして・・・ 紀元1070年~紀元1340年前後

アステカ戦役終結時、わがモンゴルはスコア・生産力・食料生産力ではトップを走っていた。しかしエネルギーでは5位。文化力では3位であった。決して大国といえる水準ではない。当面わが国のかかわる戦争は起こらないと予想し、二つの島の開発と、本土の整備に全力を挙げる。また、次にモンゴルの周辺で起きる戦争は、日露もしくは蒙露だろうと予測し、万一に備えることにした。 戦争が終わってまもなく、日本の外交官からロシアについて聞かれる。日本は次戦うとしたらロシアしかない、ロシア本土に馬の供給地があるだろうかとの問いに、わからないと返答。日本から見ればロシアのコサックは脅威だろう。また、ロシアにとってはコサック騎兵がそろうタイミングで開戦し、大陸の覇権を手に入れたいのだろう。ロシアを攻めたいが、先の戦役では同盟国。だが攻めなければいつか攻めれれる。日本の大使は苦悩しているように見えた。

このころ、フランスのキャラベル船がわが国領海に入る。その後、フランスの大商人がわが国を訪れ、あれやこれやと内情を探り始める。都市においていない機動戦力も発見されたため、二つの小島に主力部隊を退避させる。それと同時に旧式な装備を持つ部隊も島に移動させ、本土はなるべく同じ種類の部隊が駐留するよう心がける。 わが国は国境を持っておらず、他国の宗教を禁じてもいないため、いくつかの都市は他国に丸見えとなっている。そのため陸軍は都市にとどまらず、常に領内を移動するよう心がけることになった。 フランスから便りが届く。技術同盟を結びたいとのことだ。どうやら先ほどの偵察で、見込みありと認めてもらえたのだろうか。技術大国であるフランスにはフランスの事情があるだろうが、ここは素直に喜ぶことにした。

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紀元1250年前後になると、他の先進諸国のキャラベル船が領海に出没するようになった。南北モンゴル島の存在がついに世界の知られるところになってしまった。他国の船乗りたちも南北モンゴル島の存在が驚きであったらしい。数多くの感想が各国から寄せられた。モンゴルも2隻のキャラベル船が相次いで進水。1号船は、大陸の形の調査と、まだ出会っていない国の発見のために船出した。2号船は、隣国エジプトに友好の証として進呈することになった。エジプトは、フランスに故国を追われ、ドイツの圧迫を受けているとのことだ。さらに地理的に見れば、日本かロシアの従属国なのだろう。このときもモンゴルの指導者はエジプトの姿に明日の自国の姿を投影していたのかもしれない。

首都の港を多くの観衆に見送られ出航したキャラベル船は、サライ海峡を通過、一路大陸にそって南下する。南極湾を通過し、いよいよ南極海峡と後に命名される海域に達した。大陸の南側が船舶の航行が可能か否か、海洋立国であるモンゴルにとって非常に重要な関心時であった。この海域は、非常に狭く、各国の領海が入り乱れている。キャラベル船は領海への進入が国際慣行で許されているとはいえ、一言挨拶するのが礼儀であろう。まずロシアに海峡の航行許可を打診し、許された。先方もこのような申し出は意外であったらしく、相互通行条約と勘違いされた。船は海峡に進入、続いてドイツ領海に達した。

待つことしばし。返答を持った役人が小船でやってくる。
役人の持参した書簡には領海通過を許可すると記されていた。
ほっとした。この水路の航行は思ったより困難であった。南には氷河の壁、北には座礁の危険がある陸地。
気まぐれな風と海流。太陽は昼間でも高く上がらず、風は刺すようにつめたい。
ドイツはこの海に面した港を持っておらず、残念ながら補給をすることはできなかった。
領海を離れるとき、沿岸の監視所から信号が上がった、
「航海の安全を祈る」
極寒の海で暖かさに出会えたときであった。
船はドイツ領海を離れ、アラブ領海に入った。
わが国の使節がアラブに到着したのは有史以来初のことである。
通過許可を得た後、本船はアラブの都市、メッカを目指した。
まもなくメッカ、だが向かう先に黒煙が上がる。
戦争だった。われわれがメッカ沖に達したとき、メッカはフランスにより制圧された。
海流の流れが変わる。風が変わる。どうやらわれわれは海峡を通過したらしい。
南の海はつながっていた。地理的には航行可能だ、だが政治的にはどうだろう。
我々の旅はようやく半分が終わった。私は進路を北に向けるよう指示を出した。
                           航海日誌より

この後、キャラベル船は、パリ海を北上、京都湾、エジプトの首都を経由し、北極海峡の調査を行い、南北両海峡が通過可能なことを実証。無事帰国を果たす。

ひと時の平和を楽しむモンゴル。 しかし、戦乱の足音は、少しづつ、確実に迫ってきているのであった。

暗雲 紀元1340年前後~紀元1735年前後

モンゴルのキャラベル船が大陸探査の旅に出ていたちょうどそのころ、大陸の南西では戦争が起こっていた。紀元1265年に始まった戦乱は、講和と参戦を繰り返しながら、大陸南西に拠点を持つ国々、フランス・ロシア・ドイツ・アラブ・エジプトを巻き込み、紀元1640年のアラビア滅亡まで続いた。探検隊が目撃したメッカ陥落は紀元1535年のことである。

この戦争でフランスは、アラビア本土を新たにその国土に加え、超大国への足場を築き、ドイツは大陸の覇権争いから一歩後退した。この戦争のさなか、モンゴルは三つの外交的失策を犯す。ある日、フランスの外交官がモンゴルを訪れる。用件は、対露開戦。モンゴルにとってロシアはかつての同盟国であり、フランスは、技術面で協力関係にある同盟国である。モンゴル外務省にとってどちらの国も裏切ることのできない関係であった。モンゴル外務省は決断を下す。それはどちらも0.5裏切るという譲歩の産物であった。フランスの要求に対しては、財政難を理由に拒絶を通告するも、陸軍をロシア国境地帯に出没させ、海軍をロシア領海沖合いに展開、ロシア政府に対し、南で起きている戦争の進捗をたずねるなど、大陸南西戦争に興味を示す態度をとった。アステカ戦役以後、侵略戦争は行わないとの国是をもつモンゴルにとって、ぎりぎりの選択であった。だがこれは、仏露両国の不興を買う決断となってしまった。

二つ目の失策は、ロシアから馬の提供を求められたことに端を発する。実はロシアには馬の産地がなく、騎兵隊(コサック騎兵)の編成が行えない事態に瀕していた。モンゴル側の馬の産地であるトゥルファンはロシア国境に接しており、ロシアの要求は戦争も辞さないとのメッセージに映った。モンゴル外務省は、先ほどの大陸南西戦争のときの負い目もあり、ロシア側の要求を受け入れる。後にこのとき生産されたコサック騎兵がわが国本土を駆け巡ることになる。

三つ目の失策は日本との間に起きた。ロシアがコサック隊の編成を始めたことを察知、その馬の供給源はモンゴルであることを突き止めた日本外務省は、わが国に対し猛烈な抗議を行った。外務省はまた苦悩に直面する。このときのモンゴル外務省を統括する人物は長き平和の時代の反動からか、政界一の人格者とまで言われた人物である。いや、外務省全体がある種の潔癖症にかかっていた。キャラベル船に他国領海への立ち入りを禁じ、どうしても通過せねばならないときは、通過国の許可を求めるように訓令したのもその現れであろう。

外務省はまたも、0.5裏切る決断をした。日本に対しては、対ロシア禁輸を発動したと通告し、ロシアに対しては、一定期間後に輸出を停止するという決断をした。 これが後の世に長く語られることになる、モンゴル外務省の3つの失策である。

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風雲 紀元1735年前後~紀元1845年

すでに諸君も知っていることと思うが、先日フランスから鉄道の開発をもって技術協定を停止するとの通告があった。
両国の冷え切った関係を思えば当然だろう。わが国はフランスの期待にこたえなかった。
いまや日露両国との交流も近頃は絶えがちである。わが国は日本の期待にも、ロシアの期待にもこたえなかった。
隣国エジプトのみが、いまでは海外の情報を得る唯一の窓口となっている。
わが国の、いや私の外交は失敗だった。
なによりも私は、国家と国民の期待にこたえなかった。
私は退任するが、外務省に残る君たちは、この失敗を吟味し、以後の教訓にしてもらいたい。
国家に真の友人はない。他国の期待にこたえる前に、国家と国民の期待にこたえるよう考えてほしい。
私は、他国との関係のみに頭を奪われ、一番守らなければならないことを忘れていた。
                        「退任にあたって」 外務大臣の演説のメモ より

モンゴル政府は、近い将来、日本・ロシア・フランスいずれかの国がわが国に宣戦を布告してくると考えていた。そして、仮にいずれかの国が戦端を開く場合、他の一国とは同盟を結び共同作戦をとり、他の一国には背後の保障を求め、モンゴル側につかないよう要請するであろうと想定していた。 そのため政府は、列強3カ国にスパイを派遣し、生産状況、展開戦力、国内移動状況を探らせた。また、陸海軍に対しては、列強2カ国を相手に互角に戦えるだけの戦力を準備することを命じ、各都市、研究所に対しても戦争を念頭において今後の開発、生産を行うよう指示した。

君たちは国家の目であり、耳だ。卒業にあたり新入生相手に行うような訓辞をされては諸君は不愉快かもしれない。
しかし、今のわが国が、君たちに求めることは、耳と目になることなのだ。
君たちの任務には華麗なカーチェイスもなければ銃撃戦もない。
その土地の人々に同化し、そこで見たこと、聞いたことを本国に報告するという地味なものなのだ。
仮に君たちが、すばらしいインテリジェンスを入手しても、
国家からそれに報いる一枚の感謝状も、ひとつの勲章も、君たちが現役でいる限りだすことはできない。
だが忘れないでほしい。君たちの頭脳には、わがモンゴルに暮らすすべての人々の、未来がかかっているということを。
                                  出所不明

モンゴル政府から派遣されたスパイは、現地の人々に同化し列強各国の状況を探り始める。そこからもたらされた報告は、政府を激震させた。

あの時私は、ボーイフレンドと京都の港をたずねていたのです。熱い夏の日のことでした。
私のご先祖は旧アステカ領の出身で、私自身も幼いころはテノチティトランで暮らしていました。
私はテノチティトラン出身のアステカ系日本人として京都の学校に留学に来ている、ということになっていました。
ボーイフレンドは、士官学校を卒業したばかりで、京都守備の歩兵部隊に見習士官として任務についていました。
別れ際に彼は、「誰にも言ってはいけないよ」と念を押した上で、「しばらく訓練で帰れなくなる」と私に告げました。
彼はこう付け加えました。「僕は船弱いのになぁ」って。そういって港に係留されている船を見つめていました。
                             「明らかになったスパイ 工作員の告白」より

モンゴル中央情報局に日本各地に潜伏したスパイから次々と情報が入る。個々のスパイからもたらされる情報は断片的ではあるが、すべての情報は同じ内容を示していた。「日本は海洋を渡った戦争を計画している」各種情報から推測すると、日本軍はガレオン船を主軸とする大規模な輸送艦隊に歩兵師団、砲兵師団が分乗し出撃準備を整えていると分析された。彼らの目的地はどこか探るまでもなかった。モンゴル政府は直ちに、北大洋に展開する全艦隊に警戒態勢に入るよう指示した。北大洋艦隊のフリゲート艦2隻が京都湾奥深くに進入。領海線まで進出し、警戒の意思を示した。

そのころ、フランス首都パリに潜伏したスパイから、フランスも日本と同様、上陸戦を準備しているとの報告が入った。しかも、フランス海軍は他国に先駆けて駆逐艦を実用化しており、すでに3個艦隊を超える駆逐艦隊が実戦配備されているとの報告であった。

日本とフランス。列強2国が同時に、上陸作戦を企図する部隊を編成しているのは偶然だろうか。偶然なはずはない。では、両国の目的地はどこだろうか。ロシアのはずはない。日本とロシアは地続きだ。時に紀元1845年。モンゴル政府は憲法を停止し、議会を解散。国民国家体制に移行した。戦争という名の巨大な歯車が、いま、ゆっくりと動き始めた。

開戦前夜 紀元1845年~紀元1860年

モンゴル政府にとって、日仏連合艦隊の動向は最大の関心事となっていた。日仏連合艦隊はどの進路をとり、どこに揚陸するのか。政府内で真剣な議論が交わされた。議論の結果政府の想定したプランは以下のようなものであった。

モンゴル大本営(極秘)
対日仏戦争案
「想定」
両国艦隊は大洋を西進し、南北モンゴル島にはさまれた寧夏湾に侵入
寧夏、もしくはオールドサライを初期の攻撃目標にするであろう
連合軍は補給線の長さから、短期決戦を志向すると想定する 
「対応」
海軍は、フリゲート艦にて南北大洋においてピケットラインを展開、敵艦隊の動向を早期把握。
海軍主力は本土全面に展開。駆逐艦隊を主力とし本土上陸前に敵輸送船団を殲滅する。
北極湾、南極湾に偵察艦隊を配置。回廊からの奇襲を警戒する。
陸軍は、南北モンゴル島の防衛を放棄し、本土決戦に注力する。
各都市に機関銃隊、歩兵隊、砲兵隊を配備。上陸部隊を殲滅後、
通行条約を結んでいるエジプト領を通過し日本本土に侵攻する。
政府は、ロシアの参戦阻止に全力をあげる。
また、上記条件が破綻した場合、速やかに講和の道を模索する。

初めて敵という表現が使われた政府の公文書であった。すでに戦争は不回避であり、政府の関心はいつどのように始まるかのみに集中していた。このときモンゴル政府は、内燃機関をようやく実用化にまでこぎつけており、海軍艦艇の世代交代を行っているところであった。日仏の宣戦布告が先か、モンゴルの迎撃準備が整うのが先か。そしてついに、北大洋において日本海軍の艦艇から、この戦争最初の砲弾が放たれる。時に紀元1860年。

第一次世界大戦 紀元1860年~紀元1920年

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「敵艦隊出航!」
マストの見張り員の声が響く。
「総員戦闘配置! 信号旗掲揚、『敵出航』」
直ちに命令が発せられる。軍楽隊のドラムの音が海に響き、乗組員たちが部署に走る。
モンゴル海軍フリゲート艦「馬頭琴」は京都湾奥深くに進入、日本艦隊の監視任務についていた。
馬頭琴のマストに掲げられた信号は、水平線ぎりぎりの位置に遊弋する信号中継船によってモンゴル海軍司令部に伝えられることになっている。
中継艦のマストに、信号を了解したことを示す回答旗が揚がった瞬間。マストの見張り員が叫んだ。
「敵駆逐艦発砲!砲撃、きます!」

 同じ時刻、モンゴルの首都カラコルムで日仏両大使が宣戦布告状をモンゴル政府に手渡した。開戦と同時に日仏艦隊は両国沿岸を偵察していたモンゴルフリゲート艦を撃破。外洋に進出した。両国の駆逐艦隊の火力の前に、南北大洋艦隊は敗北。モンゴル海軍は開戦と同時に、大洋における制海権を喪失した。

 日仏艦隊が大洋を西進していたころ、本土の各港では駆逐艦隊の編成が急ピッチで進められていた。だが、敵艦隊の到着前に、2カ国の艦隊をしのぐ数をそろえることはもはや不可能であり、編成の完了した艦隊から、順次出撃させざるをえない状況になっていた。

戦力の逐次投入。生産力の劣るわが国がもっともやってはならない戦い方ではある。
だが、今のわが海軍にとってそれ以外に取れる方策があるだろうか。
すこしでも敵艦隊を妨害し、時間を稼ぎ、その間に戦力の充実と講和の糸口をつかむしかない。
困難ではあるが、モンゴルの生存の道はそれしかない。我々は、祖国を守る盾なのだ。
                              ある駆逐艦隊司令官の訓示

開戦を受け、政府は国境を接するエジプトとロシアに使節を派遣する。エジプトは、かつてフランスに故国を追われた経緯もあり、中立を保つであろうとの印象を使節団は受けた。モンゴル政府は内燃機関の提供と引き換えに、エジプトからの資金援助の約束を取り付ける。 次にロシアにむかった交渉団は厳しい現実に直面する。ロシア政府はモンゴル政府に対し、「日仏側につき参戦する予定であるが、1都市の割譲を条件に中立を維持する」と通告した。日仏連合とロシアの関係はどのような形なのかわからないが、渡洋攻撃を日仏両国が仕掛ける以上、ロシアに対しても何らかの協定なり、密約なりが交わされていると考えるのが普通であろう。モンゴル政府はロシアの中立・友好化を断念。交渉の打ち切りを指示する。 1895年、沿岸防衛の艦隊を撃破しフランス軍が南モンゴル島に上陸、同島の地方政府所在地であるニューサライを占領する。また、1900年には、日本軍が北モンゴル島に上陸。タブリーズを制圧する。同年、ロシア政府がモンゴル政府に対して宣戦を布告。コサック騎兵師団が国境を越え、モンゴル本土になだれ込んだ。

日仏両国に加え、ロシアが参戦したことで、戦争の敗北はもはや避けられない状況となっていた。モンゴル政府は、陸海軍の主力が健在なうちに講和交渉を行い、戦争を終結させる決断を下した。講和。客観的に見れば降伏ということになるであろう。だが、このまま手をこまねいていれば、アステカやアラブのように滅亡させられるか、エジプトのように流浪の境遇に実を落とすか、それともドイツのように大国の盾と成り下がるかのいずれかである。主導権を保持したまま降伏することができれば、モンゴルにとってそれは敗北ではなく勝利であろう。講和交渉開始のきっかけはすぐに訪れた。

陸路侵攻したロシア軍は、都市にこもる機関銃隊や歩兵隊を攻略するだけの戦力はないようで、本土の戦いは決戦らしい決戦もなく、膠着の色合いを深めていた。そのころ、北モンゴル島沖合いに進出した、モンゴル駆逐艦隊が日本海軍の輸送船団を捕捉。ガレオン船を含む敵艦隊の撃破に成功する。近海の制海権を一時的に確保することができたことを受け、モンゴル政府は交渉開始を決断する。

1910年、モンゴル政府は日仏露連合国および、中立国である独埃両国に休戦交渉の開始と、条件降伏の受け入れの準備があることを通告した。モンゴルの提示した条件は、

1.モンゴル政府は首都を除くモンゴル本土の4都市を連合国に割譲する
2.日仏軍は占領地をモンゴル政府に変換する
3.条件1および2により、モンゴル政府は実質的に大陸から退去、島国となる

というものであった。交戦国3国に対して、4都市の提供を申し出たのは、無論交戦国間の亀裂の発生を狙ってのものである。また、交渉を個別ではなく、交戦国ではない独・埃両国も内容を把握することのできる国際社会の場で交渉を行ったことは抜け駆けの防止等、戦後の国際関係を年頭においた、列強間のパワーバランスをめぐる駆け引きの誘発を意図したものである。国際社会の場で条件降伏を宣言したことで、連合国も交渉に応じざるを得なかったのだろう。日本、ロシアそしてフランス政府から交渉に入るとの回答を得る。

まず、わが国と連合国の間で降伏条件の確認を行った後、連合国間での交渉が始まった。割譲4都市の内、3都市の帰属はすんなりときまったが、予測通り、残り1都市をめぐり交渉が紛糾する。世界遺産ベルサイユ宮殿で行われた会議の場で、ロシア代表が都市の破壊を提案する。すかさずわが国の代表が反論する。「わが国は無条件降伏したのではない。あくまでも条件降伏である。降伏条件は都市の割譲であり破壊ではない。」 フランス代表が反論する。「割譲された都市をどうしようが我々の勝手である。」 モンゴル代表が反論する。「割譲した後で、(当事国間で戦争でもして)破壊なりなんなり自由にするが良かろう。わが国の降伏条件はあくまで割譲である。」 議場が緊迫する中、会議場の外でもロビー工作が展開された。モンゴルのロビイストが破壊の対象となっている都市、「ベジパリク」の内容を各国交渉団にアピール。その間、モンゴル陸軍の歩兵20個師団、砲兵10個師団をロシア国境に展開、海軍も集結を完了、日仏艦隊をいつでも攻撃できる位置に移動した。 次なる手をモンゴル代表が打とうとしたそのとき、会議場の片隅から声が上がった。「ではわが国が引き受けましょう」 議場にいることすら、おそらくすべての国の代表団が忘れていたであろう。モンゴル代表があっけにとられているなか、4都市目の帰属はエジプトに決定した。

あれは想定外でした

モンゴル代表は後にこう述懐したという。

1918年、正式に休戦が成立。19年から20年にかけて都市の引渡しと占領地の返還、講和条約の締結が行われた。この条約を、会議の行われた宮殿の名を取り、ヴェルサイユ講和条約と呼ばれることになる。1920年。モンゴル首都沖合いに浮かぶ駆逐艦隊の旗艦において、条約の調印式が行われた。日本国旗、ロシア国旗、フランス国旗が高く掲げられる中、半旗に掲げられたモンゴル国旗は、モンゴルが列強の首位から滑り落ちたことを象徴していた。

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平和・安息のとき 紀元1920年~紀元2000年

いまから振り返れば、人類にとってあの時代ほど幸福だった時代はないのではないでしょうか
こんなことを言っても仕方のないことかもしれませんが、次ぎに生まれるのでしたら
あの時代に生まれたいと言うかもしれません         2080年のとある人の言葉

 1920年、連合国艦隊総旗艦「ジャンヌダルク」艦上にて降伏文章の署名を行ったとき、古いモンゴルの歴史が終わり、新しいモンゴルの歴史が始まった。大陸からの退去を条件に、独立を保つことのできたモンゴルは、疲弊した国土の再建に国力のすべてを傾ける。

わが国の降伏は、確かにあの状況では致し方ないのかもしれない。
どの列強の属国になるわけでもなく、完全な独立国として、地位を保てたのは
外交上の勝利であるかもしれない。だが、そのために犠牲にしたものはあまりにも大きい
連合国に割譲された都市に住む、我々の同胞がどのような扱いを受けるか、
そのことを考えると、外交の勝利という言葉を、私は素直に受け入れることができない。
砲火を交える戦争は終わったかもしれないが、外交という名の戦いはまだ終わってはいない。
そしていつの日にか、再びモンゴルが繁栄して、降伏文章などに署名をした私の名を、
外交の英雄としてではなく、裏切り者としてさげすむ人が多くなることを私は願う。
                          モンゴル降伏使節全権代表

モンゴルの復興は、さまざまな人のさまざまな思いを乗せスタートした。大陸側の都市の港からは難民船・移民船が南北モンゴル島を目指した。 1926年、モンゴル政府は総動員を解除、国民国家体制から、再び表現の自由のある民主国家に移行する。兵士たちの多くは家に帰ったが、かつての故郷が連合国に割譲されたため、帰国のかなわないものたちも数多くいた。彼らの一部は、南北モンゴル島に移住したが、その多くは、エジプト政府のモンゴル外人部隊編成の呼びかけに応じ、国を後にした。エジプトに渡った彼らの多くは、一種の世襲的武力集団を形成し、彼らの子孫がエジプトの故国奪還の戦いに参加することになるが、それはまた別の物語である。

1928年、ロシア・日本で日露中立条約、ロシア・エジプト間で露埃相互防衛条約が締結される。共通の敵であったモンゴルが力を失ったことで、緊張の高まらざるを得ない日露国境の安定化を意図した条約なのだろう。戦後の国際関係は、微妙なパワーバランスを保ちつつ、意外と長く存続することになる。

このころ、モンゴル政府は、戦後の復興の具体的内容を、列強の1ランクしたのテクノロジーレベルを確保し、南北モンゴル島を他国の古くからある都市と比べても遜色のない経済力・生産力を保持した島にすることを目標に国内改革に全力を傾けた。そして、調査の結果、南北モンゴル島には、アルミ・鉄・ウラン・石油という、今後の発展に必要不可欠な資源のほとんどが存在していることが明らかになった。このことは、多くの人々を勇気付けた。 外交面でもモンゴルは再び他国への挑戦を開始する。しかしながら、列強への接近は、モンゴルの独立を脅かす恐れがあるので、国際関係がある程度固まるまでは積極的に行わず、かねてから友好的関係にあったエジプトにエジプト・モンゴル・ドイツの小国同盟を持ちかける。エジプト政府から前向きな回答を得たモンゴルは、次にドイツに働きかける。しかし、ドイツからは良い返事をもらえることはなかった。ドイツは、ロシア・フランスという両列強国の間に位置し、このときはすでにロシアの影響下にあるという。技術についても、ロシアの対フランス政策の一環で、ロシアの開発した技術の供与を受け、技術レベル的には列強の軍隊と同等であり、モンゴル・エジプトと組むメリットはまったくないとの回答であった。これにより、小国同盟構想はあっけなく破綻。以後しばらくの間、モンゴルはエジプト以外の国とは国交を持たない状態が続くことになる。 1940年、かつての軍事大国フランスに変質の兆しが現れる。軍事国家から、技術・文化・芸術国家への変化。このときフランスに完成したブロードウェイは、世界中の人々の憧れだった。

1968年、日本がマンハッタン計画を完成。北極海峡の氷河地帯に設けられた核実験場で、人類初の原子爆弾が炸裂する。原子爆弾の火球を、神の火と呼ぶか悪魔の火と呼ぶかはその立場により異なるものの、ついに人類は破滅への切符を手にしたのである。 この後、核爆弾は大陸間弾道ミサイルへと進歩を遂げ、各国は核兵器開発競争に突き進み始める。次の戦争は、勝者も敗者もない戦争になる。多くの人々がそう感じていた。

1974年、ロシアにてビートルズが結成される。彼らの演奏は世界中の若者を魅了し、彼らの演奏は、同年、建設された電波塔、エッフェル塔を利用し、世界各国へ配信された。人々は、次の戦争への漠然とした不安を抱えつつも、今を必死に、そして幸福に暮らしていた。1988年にはドイツが民主化し、ハリウッドが完成。1992年には国際連合が設立された。国際協調下での連合設立であった幸運から、国連決議第743号「奴隷解放に関する決議」が総会を通過、国連設立の成果を示す。しかし、それ以外の議案、「核拡散防止条約」「統一通貨導入案」「市場開放宣言」「普通選挙実施条約」「表現の自由に関する協定」「信教の自由に関する協定」「地球環境保全に関する議定書」はいずれも賛成票が有効投票数に達せず、否決された。こうして、20世紀の月日は過ぎていった。 そして、紀元2000年。第一次世界大戦以後、人類は戦争を経験することなく、20世紀最期の年を迎えた。だが、20世紀の平和は21世紀の平和を保障するものではないということは誰の目にも明らかであった。平和の時代はこうして過ぎ去り、再び動乱の時代が訪れようとしていた。

最終戦争への序曲 紀元2000年~紀元2017年

人類史上最大の戦争の引き金となったのは、フランスで推進されていた「ケンタウルス座アルファ恒星系移民計画」であった。ケンタウルス座アルファ星は、太陽系から4.4光年と、もっとも近い位置にある恒星系である。星系は、3つの恒星からなる3重連星で、近年まで安定的な惑星系の存在は絶望視されていた。しかし、観測技術の向上により、この星系に複数の安定した軌道をもつ惑星が複数確認された。人々の期待は高まった。アポロ計画等の宇宙開発は、1950年代より活発に行われてきたが、それはあくまで、この星の衛星軌道上や太陽系内の惑星や衛星に限定されたものであり、他の太陽系への殖民など、ゆめのまたゆめと考えられてきただけに、移民計画は世界中の人々に衝撃を与えた。しかしながら、問題点も多々あった。もっとも近いとはいえ、4.4光年の彼方の星へ行き着くためには、第三宇宙速度で巡航した場合、77200年ほどかかる計算となってしまう。この当時、人類の持っている最も速い宇宙船をもってしても、数百年から数千年かかるであろうといわれていた。移動中の大半を冷凍睡眠で過ごし、仮に目的地に到達したとしても、そこに生存に適した環境があるとも限らず、また帰還も不可能な片道切符である。フランス政府のこの計画に、真っ先に人権団体が噛み付いた。次に宗教団体、続いて多くの学者たちが計画に反対を唱え始めた。太陽系内すら満足に開拓していない現状で、数千年の時間を必要とする殖民計画を実施する必要があるのだろうか。 人々の希望と懸念を内包しながら、計画はまもなく最終段階を迎えつつあった。

2010年、春。モンゴル政府は、フランスの宇宙開発の妨害を行うことを閣議決定した。宇宙開発自体は人類の発展に寄与するもので、なんら意義を唱える必要がないものであるが、仮に人類初の恒星間宇宙船をフランスが打ち上げるとなれば、今後進められる宇宙開発にフランスの主導権を認めることになりかねない。太陽系内の開発や衛星軌道上の権益を特定の国にゆだねる危険性を認識していた政府は、日露2大国に対して工作を開始する。100年前の戦争によって国土と軍事力の大半を喪失したモンゴルにとって、とりうるべき手段は外交工作しかなかった。日本もロシアも、活発な宇宙開発を行うフランスを警戒し、さまざまな手段でフランス国内の開発状況を精査しているはずである。彼らも動くタイミングを狙っている。その背中を少し押してあげればよい。効果はすぐに現れた。ロシアの外交官がモンゴルを訪れ、対フランス戦への参戦と後背の保障を求めてきた。モンゴル政府は、ロシアの軍事技術の供与を条件にこれを承諾。戦争準備に着手する。その後、日本からも参戦要請が届きそれを応諾。モンゴル陸軍は、南北モンゴル島の守備隊を除き、大陸本土に移動。海軍はフランス艦隊を警戒し寧夏湾に集結、空軍爆撃機隊は南モンゴル島に展開し、ティフリス海峡を渡って、100年前に割譲させられた都市、寧夏を作戦圏内においた。連合国にとって、後は開戦の口実をつくるのみであった。そして2017年。フランス宇宙開発機構の冷凍睡眠実験において、被験者500名の蘇生失敗という痛ましい事故が起きた。連合国はこれを口実に開戦する。誰が見ても言いがかり以外の何者でもないが、連合国首脳にとって口実はなんでも良かった。

人権と人間の尊厳を口実に開戦する?茶番ですね。
                        モンゴル空軍士官

2017年に日本、ロシア、エジプトが対仏宣戦布告。フランス領になだれ込んだ。翌年の2018年、モンゴルが参戦。寧夏奪還作戦が開始される。先の大戦から100年。再び大地が赤く染まった。

第二次世界大戦 紀元2017年~紀元2022年

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ロシア・エジプト連合軍は破竹の快進撃を続ける。軍事大国から技術国家に変貌したフランスは、各都市守備隊のほかには若干の機甲師団を保持するのみであった。1カ国相手ならば十分に互角以上の戦いができただろうが、列強首位のロシアと、ランク外ながらモンゴル、エジプト両国の直接攻撃にさらされてはフランス各都市陥落も時間の問題であった。

この町は、100年前。私のおじいさんとおじいさんのお父さんが住んでいた町です。
小さいころよく教えられました。古い地図を見せられて、「お前の家はここだぞ」ってよく言われました。
上空から眺める寧夏の町は、町並みは変わっても、地形はそのままでした。
「家が残っているとしてら、このへんだろうな」と、対空砲火の中おかしなことを考えたりもしました。
仮に残っていたとしても今日の爆撃で灰に帰すでしょう。このことを祖父が知ったらどう思うでしょうか
100年前の侵略者を恨むでしょうか。今この瞬間に爆弾を落とす、新しい侵略者を恨むでしょうか。
寧夏の町は、100年前は同胞であったモンゴル系フランス人も多数住んでいます。
彼らは彼らの頭上を飛ぶ私たちをどんな目で見ているのでしょうか。
少なくとも私たちの国の新聞に書かれているような、解放軍としては見ていないでしょう。
神様どうかお許しください。
            第189戦略爆撃師団に所属するパイロット(後の出撃で寧夏上空で対空砲火に被弾、行方不明)

フランス本土への進行は、ロシア・エジプトに委ね、モンゴル軍はフランスの海外領土、寧夏奪還を戦争の主目的においた。寧夏には、守備隊としてかなりのフランス部隊が駐留するほか、沖合いには戦艦数隻を含む大規模な海上部隊が展開していた。そのため、モンゴル軍は南モンゴル島から航空部隊を進発。寧夏および、周辺の海上部隊に猛爆撃を加える。モンゴル海軍が艦隊決戦で制海権を掌握すべく出撃する寸前。フランスから無条件降伏の知らせが入った。

フランスは、首都を除く各都市に無防備宣言を出すことを認め、連合国側に降伏した。都市の行政権は、その都市にもっとも迫っていた国の軍隊に委ねられることとなった。その結果、モンゴルは寧夏を再びその版図に加え、エジプトはかつての首都を取り戻した。占領軍はすぐさま研究施設に赴き、宇宙開発関連の資料を押収しようとしたが、すでに資料は処分された後であった。フランス軍は武装解除されることとなったが、その大半が武装解除を潔しとせず、海軍艦艇に移譲。大洋上にあるプラットホームに逃げ込んだ。その総戦力はモンゴル海軍のほぼ全軍に匹敵し、地上部隊の質も侮れないものであった。フランスは降伏したとしても、再び国際社会の舞台に復帰してくる。モンゴル首脳はそう直感し、影のフランス軍の存在を特A級の秘密事項に指定した。

紀元2022年、第二次世界大戦はこうして終結した。僅か5年の戦争で3大国のひとつが没落、国際社会の力関係が大きく変動し始めた。

地殻変動 紀元2022年~紀元2030年

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研究員:三大国のひとつ、フランスの没落により大陸南西部に大規模な地殻変動が起きる可能性があります。
首相:地殻変動?
研究員:つまり、ドイツの動きです。ドイツは先の戦争でお分かりのとおり、
    ロシア軍の領内通過を認めました。アラブ滅亡後、一貫してロシア勢力下にあります。
陸軍大臣:軍事技術的にも、ドイツ軍の装備にはロシアの影響が色濃く認められます。
研究員:ロシアにとって見れば、ドイツは対フランスへの盾の役割をしていました。
    高度な技術を一貫して提供しているのも、フランス軍に対するためでしょう。
外務次官:たしかに、過去わが国が同盟を持ちかけた際、
     技術については列強と同程度もっているとの回答を得ていたな・・・。
財務長官:しかし、ロシアにとって国防の要となる軍事技術を潤沢に提供して不安ではなかったのだろうか?
駐仏副大使:それだけフランスとの直接対決を恐れたのではないでしょうか。
南モンゴル庁長官:それに、技術を惜しげなく与えていれば、最後まで忠実な同盟国、
         正確に言うと属国でいてくれると考えたのでしょう。その点は対エジプト外交と同じですな。
研究員:本論に戻りますと、その前提条件であるフランスが消えました。
    つまり、ドイツにとって西側の脅威が消えたわけです。
    また、ロシアにとってはドイツへ援助する理由がなくなりました。
    各国の国力を比較しますと、フランスに変わり三大国の1つにドイツが入りました。
    しかもドイツの軍事力はロシア仕込で日本の国力に匹敵します。
外務大臣:ふむ。ドイツと日本のどちらかが動き、
     大陸の新たな勢力の境界線を作ると、君は言いたいのだね。
研究員:そうです。日独同盟による対露戦。
    おそらく次の戦争はこのような構図になるでしょう。
    わが国にも、日本かドイツのどちらかから接触があると思います。
首相:おそらく。いや、これは予感だが。
   その戦争は、人類がいままで体験したことのないほど悲惨な戦争になるだろうな・・・。
官房長官、例の計画はどうか?
官房長官:順調です。後はタイミングだけです。
首相:そうか。
                         「Z計画」日時不明の会議議事録一部

久しく国交のなかったドイツから全権委任状を携えた外交団が到着するのはその日の夜のことであった。

ドイツ代表団は、ドイツの対露宣戦布告の情報とともにモンゴルの対露戦参戦を要請した。モンゴル政府は要請を受け入れる。平和とは次の戦争の準備期間でしかなかった。 紀元2030年。モンゴル・ドイツ・日本が対露宣戦布告。僅か8年間の平和であった。

第三次世界大戦(前編)紀元2030年~紀元2044年

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空から、海から、そして陸から。2030年モンゴル三軍は先の大戦で定められた軍事境界線を突破。かつての国境の街トゥルファンを目指した。砲兵を随伴せず、空海軍の支援を受けながら前進するモンゴル機甲師団の動きは早く、翌年の2031年、コプタ部隊(旧称トゥルファン)を奪還する。すぐさま航空隊が同都市に進出。周辺の制空権を掌握した。 そのころロシア北側国境では、日本軍が一斉に南下を開始、2033年に尖閣諸島を日本軍が制圧した。またドイツ軍も西部国境地帯を突破、ロシア領内になだれ込んだ。他国と技術交流の少なかったモンゴルは、テクノロジーにおいて列強と1ランクから2ランクに近い遅れが生じていた。海軍を除けば、ほとんどの舞台が一世代前の装備であった。それでもなお、列強首位のロシア軍と互角に打ち合えたのは、ロシア軍の主力が技術先進国である日本・ドイツ両軍の迎撃に当てられ、モンゴル陸軍と対峙したのは二線級の部隊であったという幸運が挙げられる。だが、二線級とはいえ大陸最強と詠われたロシア軍である。モンゴル陸軍は苦戦、南ロシア国境において一進一退の戦いを演じていた。 そんな中、2033年、南ロシア戦線の帰趨を決する決戦が行われた。海岸沿いに南下を目指す陸軍を支援するため、モンゴル連合艦隊主力部隊は南極湾を南下、南極湾に面するロシアの主要都市、「うどん帝国」の周辺海域で、ロシア海軍の主力部隊と遭遇する。ロシアにとって、外洋に面する港湾はすでに「うどん帝国」のみであり、そこに集結している艦艇がロシア海軍の全軍であった。

「艦影を確認。戦艦他、護衛艦多数。」

うどん帝国攻略部隊を支援するべく、同都市前面に向かうモンゴル艦隊の前にロシア海軍の主力部隊が立ちふさがる。

島国であるわが国にとって、海軍こそ国防の要であり、国家の誇りである。
眼前に控えた戦いにおいて諸君の双肩にかかっているものを今一度思い浮かべてほしい。
我々が敗れれば、陸軍は大陸で孤立し、南北モンゴル島は無防備も同然になる。
脳裏に浮かべてほしい。諸君らが守りたいと思う人々、一人一人の姿を。
諸君、我々は、負けることは許されない。諸君らの健闘に期待する。
「全艦、砲雷撃戦用意、最大戦速。」

南極湾で行われた、大戦唯一にして、最大規模の艦隊決戦は、モンゴル海軍の勝利に終わる。南極湾の制海権を掌握したモンゴル軍は、「うどん帝国」に海陸からの攻撃を実施、2034年に制圧する。モンゴルが、対外戦争によって都市を奪取したのは実にアステカとの戦い以来のことであった。

2035年、制海権を完全に掌握したモンゴル海軍は、潜水艦隊を南極海峡に派遣、ロシアに残された唯一の海底油田を破壊する。石油供給ルートを完全に遮断されたことで大陸の軍事的バランスは一挙に傾いた。2037年、「魔城ガッデム」を日本軍が占領。メッカをドイツ軍が占領する。翌年の2038年「健康ランド」をドイツが占領。2043年に「ムネオハウス」をドイツ軍が制圧。 そして、2044年。国土の大半を失ったロシア政府はついに抗戦を断念。連合国に降伏する。日本・ドイツ・ロシアが大陸の中央部で激突したことにより、大陸中央部はほぼ廃墟と化していた。

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第三次世界大戦(後編)~砲声、いまだやまず~ 紀元2045年~紀元2050年

「え?なんだって?よく聞こえない!!!」
前線からの通信は激しい砲撃の音にかき消される。
聞こえないことを半ば承知の上なのだろうか。
前線の通信兵は叫ぶ。
「攻撃を受けている!攻撃だ。わが軍は目下交戦中。」
かろうじて聞き取れたこの言葉に、ロシア軍かと司令部は問う。
「ロシアには兵隊な

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