はじめに
今回のゲームでロシアのエカテリーナにあたり、担当させてもらったものです。 こんなに盛り上がるとは思っても見なかったため、SSはありませんがご容赦ください。 すごく疲れた上に長かったので所々記憶が曖昧かもしれませんが、多少大目に見てください。
極力詳細を書くようにしているため多少文が長くなっているのであしからず。 駄文ですが、よければ読んで見てください。
データ
わが国:ロシア 指導者:エカテリーナ マップ:パンゲア サイズ:小 速度:迅速 ターンタイマー:超高速 参加人数:8名
ロシア、建国~領土の拡大(紀元前4000年~紀元前510年)
紀元前4000年、ロシアは名も知れぬ巨大大陸の南東部に首都「ラーメンランド」を作る。 ロシア帝国の始まりである。 余談だが、首都の名前は後にうどんが食べたくなったので「うどん帝国」となる。 早速あたりを探索することにする。 出あったのは北東のモンゴル、西のドイツ、北のアステカ、北西の日本。アラブは国が離れているため斥候とであっただけ。 エジプトとフランスがどこかに潜んでいるということは知っていたが、結局見つからぬままだった。 紀元前2440年、とりあえず体制を整えた後ドイツの牽制と資源と土地の確保のため、首都から南西あたりに第2都市「健康ランド」を作る。 健康には気を付けねば、という思いからつけられた名前だ。 紀元前1240年、次に健康ランドの真北、首都の北西あたりに中央への進出を見越し第3都市「ムネオハウス」を建てる。 今ではあまり話題にならないが名前のシュールさが気に入っている。 紀元前615年、アステカとモンゴルの進出を食い止めるためムネオハウスの北北東に第4都市「ぬこ」を建設。 2国の国境と接する危険地帯のため、攻撃できないような都市の名前にした。 紀元前510年、中央の空き地があと1都市分くらいになったので、滑り込むようにぬこの西北西に第4都市「尖閣諸島」を作り上げる。 日本・ドイツ・アステカと接する非常に重要な場所だけにこの名前をつけた。 以前某掲示板で見かけたときから真似してみたかったのでこの名前にした。
少々無理をしたが想像志向を持つエカテリーナならきっとなんとかしてくれるという淡い思いを込めた初期の領土拡張作戦だ。 以上4都市が後々のロシア帝国を支える重要地点となる。
外交ではドイツ・アステカはあまり良い反応が得られなかった。 この2国に挟まれたままでは危ういので技術の進んでいるアステカを危険視していたモンゴル・日本との同盟を結ぶことにする。 アステカはこの2国に任せ、自分は挟撃をさけるためアラブに呼びかけドイツを両面から牽制することにした。
余談 ・この時点でロシアは文化遺産および宗教にはまったく手を出さなかった。 初期の大幅な領土拡張を支えるための経済や軍備に集中したためだ。 ・紀元前510年、尖閣諸島の西側にエジプトのヘリオポリスができる。 突然できた都市に戸惑ったが、1都市だけなのでここはスルーすることにした。
アステカとの攻防 (紀元前500年~紀元1000年)
実は前回書き忘れていたことがあったので時は少し遡る。
1240年、実はモンゴルがロシアの国境に接する都市「トゥルファン」を建てていたのだ。 それだけでも重大な問題だが、それ以上に同じく国境付近に存在していた資源の「馬」を奪われてしまったのが非常に痛い。 この馬は数ターン後には拡張した文化圏に取り込まれ何ら問題なくロシアのものになる予定"だった"。 実はそれ以外にロシア国内に馬は存在していなかったのだ。 これはまずいと思い、至急モンゴルに国境に接した土地に都市を建てたことを理由に抗議。 馬さえ手に入ればよいが、そう上手くはいかなかった。 どうやら先方も現時点で国内に馬がなかったので、どうしても譲れなかったとのこと。 戦争も考えたが無理な領土拡張を進めていた国内の軍備は最低限必要な量程度。 ここで攻め込めばお互い消費しあい、結果的に拡張も技術遅れ最悪滅亡も考えられたため、ここは譲歩することに。 しかしあきらめたわけではない。 今は無理だが、いつか必ずやここを手に入れることを心に誓う。 例えどんな手段を使っても・・・
領土拡張が終わり、いよいよ本格的に国としての形と整えていく。 予想通り無理な拡張のため多少経済と技術が立ち遅れたが、その分非常に広大な領土を手に入れることに成功した。 元からあった想像志向に加え、カースト制を採用し都市に芸術家をおいておいたのも結構効いたのだろう。
しばらくして日本からの打診が。アステカを攻めないかとのこと。 しかしここで同調し戦争で国内を疲弊させるのはよろしくない。 また、アステカの同盟国であるドイツも危険だ。 日本・モンゴルはアステカのみを狙えばいいがロシアはアステカとドイツに挟まれている。 もし2国から挟撃されたら非常に危険である。 今は内政を優先し、後々攻めることで合意する。 このあたりからドイツ封じのための根回しを始める。
紀元500年、待望のピラミッドが完成。社会制度を代議制に変更し、より一層国内の整備に力を入れる。 紀元620年、「ムネオハウス」で道教が創始される。 自分ならまず信仰しない。
そして紀元680年、モンゴル・日本と共にアステカに宣戦布告。 アステカ攻めの主力は日本。 モンゴルも多数の兵力を派遣していたので、ロシアは僅かな兵力のみを送り込むのみに留める。 問題のドイツだが、根回しが成功しドイツがロシアに宣戦布告した場合アラブはドイツの背後をつくことを確約。 これによりもしドイツが攻めてきても逆に反撃しうるレベルの状態を保つことができた。
戦争は連合軍が圧倒的であった。 アステカは技術こそ進んではいたが、どうやら軍備は疎かになっていたようだ。 助けを求めようにもドイツは動かない。いや、動けないが正確かもしれない。 日本とモンゴルは早々に国境付近の都市を平定、紀元920年には日本がアステカの首都「テノチティトラン」を陥落させる。 ここでアステカの持つ技術を得るため、講和を持ちかける。 しかし返事はNO。どうやら玉砕を決めているらしい。 紀元995年、日本が最後の都市「テオティワカン」を陥落させる。 ここに長く続いたアステカ文明は終わりを告げる。 また、多くの領土を得たわが国を含む連合国はスコア上位を争う三大国家となる。
ドイツ戦役(紀元1000年~紀元1400年)
先の戦争は連合軍の完全勝利という結果に終わった。 結果から言うと、日本はアステカの都市を3つ占領。 モンゴルは都市を1つ占領する。 わが国は特に何もしていないので何も手に入らなかった。残念。 しばらくしてモンゴルが占領した都市をエジプトへと移譲する。 どうやら都市が増えすぎて維持ができなくなったようだ。 この時点ではまだ知る由もなかったが、モンゴルは島を発見しており、世界一多くの領土を持っていた。 それに続き日本もテオティワカンをエジプトへ移譲。 これにより小国であったエジプトは急激に勢力を拡大する。 また、日本とモンゴルは占領地を通して接していたが、間にエジプトの飛び地が入る形になる。
これによりアステカという驚異は消え去り、背後を突かれる心配がなくなった。 つまり、ドイツを狙うことが可能になったのである。 まず先の戦争で協力してくれたアラブに連絡を入れる。 すると向こうもドイツ攻めは可能との返事が。 これを期に軍拡を開始する。
紀元1010年、「健康ランド」においてイスラム教が創始される。 我ながらとんでもない聖地をもってしまったイスラム教に同情を禁じえない。
紀元1250年前後、アラブが宣戦布告の時期を打診してきた。 この時点でドイツの兵力はロシアのそれを上回り、国境付近の都市を見る限り陥落させるにはかなりの兵力を必要とした。 下手をすると反撃すらされかねないので、ここはアラブを利用することを思いつく。 そして取り決めた内容は数ターン後「アラブから先に」宣戦布告することであった。 何故宣戦布告の時期をずらしたかというと、それは兵力を移動させるため。 アラブとドイツの兵力は同程度のものだったのである程度の苦戦を強いられると思い、おそらく戦争になったら後方の「ロシアの国境付近の都市」から兵力を増やすしかない。 こちらは宣戦布告する意図を隠すため国境付近の兵力を少なくしドイツの兵力が移動するのを待つ。 予想通りドイツ兵が移動したら、あとはおわかりだろう。
また、この策を成功させるためにはアラブへ兵力を集中させることが必要になる。 万が一アラブの後方に位置する技術先進国・フランスが蜂起したら非常にまずい。 こちらが攻める前にアラブがフランスに攻められたらドイツは後方の都市の兵力まで割く必要性が薄れる。 例えそれを期に反撃のためドイツ後方の兵力を移動させたとしても、アラブの都市を手に入れれば後々の驚異となる可能性は非常に高い。 これを防ぐため、以前から多少の交流があったフランスにアラブ攻めを事前に止めるよう要請。 これに対しフランスはアラブを攻めないことを確約。 後方の憂いも取れたため、あとはドイツ攻めを待つだけとなった。
そして1265年、アラブがドイツに宣戦布告。 しばらくして予想通り国境付近の兵力の大部分が移動を開始する。 1295年にわが国はドイツに宣戦布告。後方都市に対し奇襲をかける。 策は大成功、1325年に「ケルン」を占領。 更に同年、エジプトがドイツ侵攻を開始。3対1の状況となる。 ケルン占領後、ケルンの南に侵攻開始。 首都ベルリンは西にあったがアラブの兵力が多く、陥落は時間の問題と思われた。 1365年、ついにアラブがドイツの首都「ベルリン」を落とす。 その後ドイツ指導者はリタイアする。確かにこれはきついかもしれない。 一時的にドイツはAIの管理下となるが、しばらくして新しく参加者が入る。 1385年、ドイツと和平を結ぶ。これにより南下を中止する。 同年アラブもドイツと和平を結ぶ。 そして1395年、ドイツとエジプトは和平を結ぶ。 結果、わが国とアラブはそれぞれ1都市を獲得。 ドイツは兵力の大半と主要都市を奪われ弱体化。 見事勝利を収めた。
また、この時期あたりからフランスが頭角を現し始める。 1385年、最初に自由主義を獲得し、技術先進国であることを再認識させられた。 古代ではエジプトを攻めて東へおいやり、ある程度の領土も持つ。 わが国と直接的な接点は持たないが、注意が必要な存在であることは間違いない。
更に同時期、モンゴルが急激にスコアをあげ続ける。 今までは広大な土地と引き換えに財政難や技術の後れをとっていたが、国内も安定し技術もフランスに提供されているようだ。
ドイツとの戦争は終わったが、またしても大陸に緊張が走る。
フランスの驚異(紀元1400年~紀元1700年)
ドイツとの戦争を終え、わずかに平和な時代が訪れた。 手に入れた都市・ケルンは新しい文化を受け入れたようなので、わが国らしい名前に変更した。 その名も「魔城ガッデム」。知る人ぞ知る、といったところか。
フランス・モンゴルは依然として成長を続ける。 できれば今のうちに叩いておきたいが、日本の動向も気になる。 何より先の大戦で疲弊した国力の回復が最優先課題である。 しばらく内政中心にすることに。
1455年、疲弊したところを狙ったのであろう、フランスがアラブに戦線布告する。 1465年、あっという間にフランスがアラブの首都・メッカを落とす。 正直フランスは驚異であったが、国境は接していなかったしある程度交流はあった。 しかしアラブは同盟国。このまま見捨てるわけにはいかない。 ここはしばらく機をうかがうことに。 とりあえずフランスへの経路を確保する。 ドイツとはあまり交流がなかったので、替わりにアラブに接しているエジプトと相互通行条約を結ぶ。 次にアラブとも相互通行条約を結び、フランス本土への道はできた。 あとは他がどう動くか、だった。
1515年、ドイツがフランスに戦線布告。 これは好機!と思い、そのまま勢いにまかせフランスを攻撃することを決定。 同年、わが国はフランスに宣戦布告。 今思えばこれは大きな失敗だった。
1535年、ドイツが防備の薄かったメッカを急襲し占領する アラブも怒涛のフランス軍の進撃を防ぎつづけた。 ところがわが国はというと僅かな兵を最前線に送っていただけである。 何故大軍を進撃させなかったかというとモンゴル・日本の存在があったからだ。 勢いで始めた戦争なので、他国への根回しをしていなかったのだ。 今後考えうる最悪のシナリオは、日本・モンゴルが同盟を結びわが国に侵攻することである。 そのため大きな行動も起こせず、兵力の大半を都市の防備に回すことになる。 戦況も芳しくない。フランス軍は次々と押し寄せる。こちらは後手後手に回るばかりだ。 当然僅かな兵ではどうすることもできない。今回の戦争は深く後悔した。 1630年、フランスに停戦を要請。フランスと停戦する。 1640年、必死の防戦虚しくアラブの最後の都市、メディナがフランスに占領される。 こうしてアラビア文明は滅亡する。助けれなくてごめんね(´・ω・`) アラビアの滅亡を受け、これ以上の戦争は無意味と見たのだろうか。 1650年、ドイツとフランスが停戦する。 これにより戦争は終結する。
今回の大戦は多くの失態をおかしてしまった。 フランスを覇権を狙える大国へと成長させ、更に敵にまで回してしまった。 これからの先行きが不安である。
つづく